座間コミニティー

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◆主は……

2014年10月17日 17時17分11秒 | 聖書

御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き……。(イザヤ四〇・一一)

私たちの良い羊飼いは、その群れを養うために種々の経験をさせる。ある者は主にあって強く、ある者の信仰は弱い。しかし彼は、そのすべての羊を等しく顧み、最も弱い子羊をも、最も強い羊と同様に愛される。子羊はともすれば落伍し、さまよい、疲れやすいが、羊飼いは、この弱さからくるあらゆる危険から、御腕をもって守られる。主は、滅びの淵に臨んでいる幼い子羊のような、生まれたばかりのたましいを見いだされる。そして彼らのうちにいのちが力強く満ちるまで養われる。また、気絶して死にそうな弱い心を見いだされる。そしてこれを慰め、その力を新たにされる。一人でも滅びることは父のみこころではないからだ。
彼らのすべてを見渡すために、なんとすばやい目を主はもっておられることか。すべての者を顧みるために、なんと優しい心をもっておられることか。すべての者を集めるために、なんと遠くまで及ぶ力強い御腕をもたれることか。この地上におられた時、主は弱い人々を集められた。今天におられるが、その愛の心はこの地上の、柔和な悔いた者、臆病な弱い者、恐れて絶え入るばかりの者たちを慕い求めておられる。
主はいかに優しく私をご自身に、その真理に、御血に、その愛に、その教会に抱いてくださったことか。なんという効果ある恵みをもって、私がみもとに行くようにしむけられたことか。回心以来、幾たび主は迷い出た私を引き戻して、再び永遠のふところに抱かれたことか。何よりもよいことは、それを主ご自身が親しくなされることである。愛の仕事を他の者に任せることなく、自らへりくだって最も無価値なしもべを救い出し、かつ守られることである。
私はどうすれば主を十分に愛し、十分にお仕えすることができるだろう。私は主の御名を地の果てにまで大いなるものとしたい。しかし私の弱さをもって主のために何をすることができよう。大いなる牧者よ。あなたのあわれみをさらに加えて、私が当然なすべき程度にまで、なお真実に愛する心を与えてください。

 


「みな互いに謙遜を身に着けなさい。

2014年10月17日 17時16分29秒 | 聖書

神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」(Ⅰペテロ5:5)

何か物事がぎくしゃくする時、平安が無い時、イライラして、心が荒れている時、それは神の力強い御手の下から出て、自分の力と自分の思いで歩んでいる。
高慢になってしまっている。自分の思い通りに進もうとし、そうならないので、あちこちにぶつかる。
気づかされて神の御前にへりくだる時、心に平安が戻る。
日常生活でよく経験することだろう。
水が低い方、低い方へ流れるように、神の恵みはへりくだる人に溢れるばかりに流れて行く。
高ぶった途端に恵みがストップする。
決して水は高い方へは流れない。
高ぶりに気づく度に、悔い改めへりくだる事だ。
山歩きに原則がある。
それは山で道に迷ったなら、迷った地点にまで引き返す事だ。
なかなかそれが出来ない。
何とかなると思い、又、引き返すのは面倒と、進んで行き遭難し、死に至ってしまう。
霊的生活も同じだ。そのまま行かないで必ずひき返して、へりくだる事だ。
へりくだりは、肉が一番嫌う事、したく無い事だ。
それは又、神と人への謝罪であり、「ごめんなさい」だ。
プライドはその一点だけは何としても避けたい。
それが免除されるならどんな事でもする。
しかし、神が求められるのがその一点だ。
今、へりくだる事を示されているだろうか。
神と人の前にへりくだろう。
溢れる恵みがあなたをおおう。
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恵みを妨げるものが高慢なら恵みへの唯一の道が謙遜だ。
自分の思いで歩む時、すぐに自分を誇りたい。
気付いた時は素直に悔い改め、はじめの思いに返ろう。


◆憎い隣人をどうするか

2014年10月17日 07時12分05秒 | 聖書

もしあなたを憎む者が飢えているなら、
パンを食べさせ、
渇いているなら、水を飲ませよ。
あなたはこうして彼の頭に
燃える炭火を積むことになり、
主があなたに報いてくださる。(箴言二五21―22)

イエス・キリストはすばらしい、聖書はすばらしい、「なんじの敵を愛せよ」と教えていると、簡単に予期してはなりません。この高い倫理に、足をつけなければならないとお考えになりませんか。パウロは、こう語りました。「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ一二20―21)。また出エジプト記二三章五節には、このようなおきてが記されています。「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」
この二か所を参照してみると、二つのことを教えられます。憎しみの気持ちは、なかなか自分でどうにもできません。ところが、神はこう言われます。
第一に、神が命令されたとおりに、感情に押し流されずに感情に反しても、善を行えというのです。悪に負けてはいけません。人の問題ではなく、今や、あなた自身の魂の問題なのです。やりたくなくてもやりなさい。あいさつしない人にあいさつしなさい。分け与えない人に分け与えなさいというのです。その時、神は力をかしてくださるでしょう。
第二に、自分の力で報いや解決をつかもうとしたり、自分の目の前でそれらを見ようとするな。完全に神にゆだねよ。神が報いてくださるというのです。これもまた、現実的な指針ではないでしょうか。
自分の気持ちを自分でどうにかするのではなく、神のご命令に従うことにこそ、真実の解決があります。

 


◆ダビデは心の中で言った。

2014年10月17日 07時11分16秒 | 聖書

「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう……。」(Ⅰサムエル二七・一)

ダビデがこのように考えたのは、全くむだな心配だった。なぜなら、神がサムエルによってダビデに油を注がせられたのが無意味であると考える根拠は、何もなかったからである。主がそのしもべを見殺しになさったことは一度もなかった。ダビデは幾たびとなく危険にさらされた。しかし、神が干渉されて救い出されなかったことは一度もなかった。彼の直面した試練は種々であった。それは一つの形をとってではなく、多くの形をとっていた。しかしそれぞれの場合において、試練を送られた神は、恵みによって逃れるべき道をも備えられた。ダビデはその半生の記録をたどって、「ここに主が私を捨てられた証拠がある」と言うことのできる事実を一つも見いださなかった。なぜなら彼の過去は、正反対のことを証明しているからである。彼は過去の神のお取り扱いを考え、今後も依然として神はお守りくださると結論を下すべきであった。
しかし、私たちもダビデ同様に神の助けを疑ってはいないだろうか。それは全く理由のない疑いではないだろうか。父なる神の善意を疑うわずかの理由でもあるだろうか。神のいつくしみは驚くべきものではなかったか。神は一度でも私たちの信頼を裏切られたか。否、私たちの神は、どんな時にも私たちを離れることはなかった。
私たちには暗い夜がある。しかし愛の星は暗路を照らす。私たちは激しい戦いを経験した。しかし神は私たちの頭上に高く保護の盾をかざされる。また私たちは多くの試練を経験する。しかしそれらは決して害を与えず、常に益をもたらす。それで、私たちの過去の経験から引き出される結論はこうである。六度の私たちの苦難に共にいてくださった神は、七度日の苦難の時にも決して私たちを捨てられない。真実な神に対する知識は、神が私たちを終わりまでお守りになることを証明する。したがって、事実に反する結論を下さないようにしようではないか。どうして私たちの神を疑うことができようか。

 


今日の聖人の記念日

2014年10月17日 07時09分56秒 | キリスト教

聖イグナチオ(アンチオケ)司教殉教者

35年ごろ-110年

 イグナチオは、シリアのアンチオケに生まれた。司教となったが、ローマ皇帝トラヤヌス帝のキリスト教迫害時代に死刑の宣告を受け、シリアからローマに護送された。その間に、7つの書簡を残した。5つは、途中寄港した町の信徒たちに、6番目は聖ポリカルポに、7番目はローマ教会にあてて書いたものである。その手紙から、彼が厚い信仰をもち、殉教によってキリストと一致することが最高の望みであったということなどが示されている。

 その手紙で、町の教会は司教を中心としたものであり、ローマ教会は他の教会よりも特別な「教会の頭」としての役割をもっているなど、キリスト教会の組織やキリスト者の生活について、述べられている。

「あなたたちの体を神の神殿として保ちなさい。一致を愛し、分裂を避けなさい。
イエス・キリストが御父に従われたように、イエス・キリストに従いなさい。」
                     聖イグナチオ(アンチオケ)


第2サムエル記22章1-4節

2014年10月17日 07時07分51秒 | 聖書

22:2 彼はこう歌った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、
22:3 わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。」



 ダビデには、いろいろな敵がいました。

ダビデ自身が、その敵となった人々に逆らったために、彼らが敵になったわけではありません。

彼は真実を尽くしたのですが、ねたみを受けて命を狙われたのです。

また、相手の人の欲望の餌食となって、命を危険にさらされたのです。

そうした時、彼自身は苦しみと悲しみと恐れに満ちていましたが、神様が彼を助け導き、また守ってくださいました。

その守りは、彼の祈りに答えてくださったことに寄りましたり、また一方的な主からの支えによって、敵の手から逃れることが出来たことにありました。

彼はこのような主の導きと守りを覚える時に、この主こそ「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわ
が岩なる神。」と、叫ばざるを得ませんでした。

これが彼の実感であったのです。

私たちにとっても同じです。

主こそ私たちの巌であり、砦なのです。


ヘブル人への手紙10章36節(イザヤ書60章)

2014年10月17日 07時04分53秒 | 聖書

★ あなたがたが神のみこころを行って、 約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

■O:今日のコラム

今日のみことばは、忍耐について書かれています。忍耐を好きな人はそんなにいないと思いますが、聖書において忍耐はとても重要なことばのうちの一つです。イエス様ご自身は、忍耐について次のように言っておられます。
「あなたがたは、 忍耐によって、 自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:19)
忍耐によって、自分の命を勝ち取ることが出来る。そんな忍耐なら喜んでしたいと思いませんか?では、忍耐とは何でしょうか。ローマ人への手紙5:3,4には、次のように書かれています。
「そればかりではなく、 患難さえも喜んでいます。 それは、 患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、 練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」
忍耐は患難から生み出されると書かれています。私たちはよく「主よ、今日一日何もなく平和に過ごせますように」と祈ったりするかもしれません。それはそれで必要で素晴らしい祈りです。しかし、もう一歩、主の愛の深みへと漕ぎだすなら「主よ、私をあなたの御手の中で砕いて下さい」という祈りに変えられていくでしょう。そうした時、主の御手の中でやってくるのが患難です。
患難の中では、自分の過去の経験や知識は全く役に立たないでしょう。私たちは患難の中でギブアップするしかないのです。そして、「頼るべきものは主しかない!」という思いにさせられます。その時に必要なのが「信仰」です。ヤコブの手紙1:3,4には次のように書かれています。
「信仰がためされると忍耐が生じるということを、 あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。 そうすれば、 あなたがたは、 何一つ欠けたところのない、 成長を遂げた、 完全な者となります。」
患難の中でこそ、本当に神様を信頼しているかという信仰が問われます。自分の力でもがき苦しむことをやめ、神に全き信頼を置く時に必要なのが忍耐です。その忍耐を完全に働かせると、何一つかけたところのない、成長を遂げた、完全な者となることができるのです。これがすなわち練られた品性です。そして、その品性は希望を生み出します。この希望とは何でしょうか。それは、主イエスが再び戻ってこられるという希望です。パウロも、今日のみことばの箇所の直後でこのように語っています。
「もうしばらくすれば、 来るべき方が来られる。 おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、 恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。 」(ヘブル10:37, 38)
つまり、患難は再臨への希望を生み出すのです。今日の聖書の箇所で言っている「約束のもの」とは、この再臨の希望ではないでしょうか。イエス様も十字架の上で苦しまれた時、その目はこの地に再び戻ってくるという再臨を見つめられていたのではないかと思います。だからこそ、あの十字架の苦しみを耐えることが出来たのではないでしょうか。
もしかしたらあなたは今、苦難の中にあるかもしれません。しかし、ヨナが魚の腹の中でそうしたように、苦難の中で信仰を持って主を呼び求めるなら、主はその祈りに必ず答えてくださいます。それこそが、神のみこころを行なうということではないでしょうか。
苦難は怖くありません。苦難から逃げ続けることのほうがよっぽど恐ろしいことです。なぜそのようなことが言えるのでしょうか。それは次のみことばからです。
「私ヨハネは、 あなたがたの兄弟であり、 あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、 神のことばとイエスのあかしとのゆえに、 パトモスという島にいた。」(黙示録1:9)
イエス様と共に歩むなら、苦難と忍耐の間には「御国」があるのです。主がおられなかったら、苦難は苦難のままで終わってしまうでしょう。しかし、主のお名前はインマヌエルです。それはともにいるという意味です。神のみこころを行って、 約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。主が再び来られるまで、希望に満ちて喜んで忍耐することが出来るよう、みなさんを励まします。


■A:考えてみよう

あなたは患難から逃げていませんか?主のみこころは患難から逃げることではなく、主と共に患難に真正面から向かって行くことです。もし私たちが主のみこころのまま、忍耐をしつづけるなら、たとえ大患難の時代がやってきても、そのなかで安息することができます。
「あなたが、 わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、 わたしも、 地上に住む者たちを試みるために、 全世界に来ようとしている試練の時には、 あなたを守ろう。」(黙示録3:10)
忍耐を持って、信仰を働かせ、主の約束をつかみとりましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月16日(木)のつぶやき

2014年10月17日 01時34分57秒 | キリスト教