座間コミニティー

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◆どうか、私の主を求め、

2014年10月10日 16時02分08秒 | 聖書

主に信頼してやまないように。あなた自身を主にゆだね、喜び望むことはできなくても、忍耐深くより頼め。

わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。(エレミヤ一五・二一)
この約束をされた輝かしい人格に注目せよ。「わたしは……救い出し……助け出す」とある。主ご自身がその民を救い、助け出される。ご自身が、親しく彼らを救われることを誓約しておられる。ご自分の腕でそれをなされるのであり、栄誉を受けられるのである。
ここには、主を助けるために私たちの努力が必要だとは、一言も言われていない。「わたし」のみが、大空の太陽のように十全の輝きを放っている。では、なぜ私たちは自分の力を計算し、血肉に相談をして、自分自身を傷つけているのだろうか。主は私たちの細腕を借りなくても、十分な力をもっておられる。不信仰な思いよ。静まって主が統べ治められることを知れ。
またここには、第二次的な手段や原困については少しもほのめかされていない。主は友人や助け手については、いささかも語っておられない。主は単身で事に当たられ、人の助けの必要をお感じにならない。私たちが周囲の友や親戚をあてにすることは、すべて空しい。彼らは、私たちを助けることができるのに、助けようとしないことがしばしばあり、また助けようとしてもその力がない。
約束は神からのみ来る。だから神を待ち望むことはよい。そのようにする時、私たちの期待は決して裏切られることがない。私たちが恐れる悪人たちはだれなのか。彼らは主によって根絶される。彼らは、むしろあわれむべき者たちである。彼らはより頼むべき神をもたない人にとってのみ、恐ろしい者である。主が味方である時、私たちはだれを恐れよう。私たちが邪悪な者を喜ばせるために罪に陥るならば、驚きあわてることもあろう。しかし、節操を堅く守っているならば、横暴な者たちの怒りも私たちの善によって圧倒されるであろう。大魚がヨナをのんだ時、大魚はヨナを消化することができないことを知った。世が教会をのみこむ時も、世は教会を吐き出すことを喜ぶのである。どれほど火のような試練の中にあっても、私たちは常に忍耐し、自分のたましいを失わないようにしよう。

 


「すべてのことが私には許されたことです。

2014年10月10日 16時01分09秒 | 聖書

しかし、すべてが 益になるわけではありません。
私にはすべてのことが 許されています。
しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」(Ⅰコリント6:12)

ストレートな罪はよくわかるので問題ないが、一見罪ではない、むしろ良いものが要注意だ。
よく気をつけなければ、その良いものによって神との間が隔てられてしまう。
食物は私達に益を与え、体を健康に保ってくれるが、食べ過ぎると害になる。
それに支配されてしまうと損なわれてしまう。
他のものも同様だ。
仕事、趣味、音楽、スポーツ、娯楽、愛する人、出世、結婚…それらは決して罪でない。
むしろ良いものだ。
ただ、それが過ぎると、それに支配されてしまうと、神からそれて偶像になってしまう。
その時罪となる。
それをしている時のあなたの心で試せる。
それをする事は、神との関係を更に近づけるか、それとも、遠ざけるかだ。
神よりそちらに重きが移って行くようであれば、立ち止まるべきだ。
今、あなたの心の中心は何だろう?
主イエス・キリストか、それとも他のものだろうか。
今、あなたにサタンの誘惑が来ているなら、気づけるように。
仕事にのめり込んで、神を離れた人々は少なくない。
仕事に支配を許してしまった結果だ。
サタンは狡猾だ。良いもので誘惑する。
今、あなたの心は何に支配されているだろう。
「どんなことにも支配されません」に立とう。
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みこころにしっかり立っているつもりでも、気付くと自分の判断や肉の満足のために動き回っている。
どんな事にも支配されないために、一瞬、一瞬主を仰ぎ、主に信頼して歩もう。


◆忠 実 な 使 者

2014年10月10日 07時45分05秒 | 聖書

忠実な使者はこれを遣わす者にとって、
夏の暑い日の冷たい雪のようだ。
彼は主人の心を生き返らせる。   (箴言二五13)

今は、どこの家でも電気冷蔵庫があって、自家製の氷を楽しむことができます。しかし徳川時代には、将軍に献上するために半年もの間、地下深い氷室に蓄えておいた氷や雪を、はるばる担いで江戸まで持ってきたのです。その一かたまりの雪や氷が、どれくらい将軍の心を慰めたか、いいえ、生き返らせたかは、想像に余りあります。忠実に神の使命を果たす人は、この夏の雪の一かたまりのように、神の心を慰め、喜ばせ、生き返らせるというのです。
私にとって神は、十六歳の時まで無関係の方でした。私のことなど一向に構ってくれず、高い所で腕組みして、そっぽを向いている方だったのです。しかし、イエス・キリストとその十字架の愛を心に受け入れた時から、私にとって、神がどういうお方かが分かってきました。
第一に、私がまだ罪にまみれており、その罪にまみれていることさえ分からないで神につばきしていた時から、私を愛し、私に目を留め、私を選んでくださったのです(ヨハネ一五16参照)。「私たちが神を愛したのではなく、神がまず私たちを愛してくださったのです」(Ⅰヨハネ四10参照)と、ヨハネは語りました。
第二に、私たちの罪をゆるし、永遠のいのちを与えられた神は、私たちがその救いを受け入れるやいなや、一人一人を神の愛の使者として任命し、遣わしてくださることが、だんだんに分かってきました。私には、神から任された仕事がある。神は、この置かれた場所に私を遣わし、神に代わって、祈り仕え愛させてくださると分かってきた時、私の人生が変わってきたのです。それぞれの持ち場立場でできるかぎり忠実に、遣わされた使命に生きようとする時、神は、想像できないほどに喜んでくださるのではないでしょうか。

 


◆傷のない者として……。

2014年10月10日 07時44分07秒 | 聖書

(ユダ二四節)

この「傷のない者」という驚くべきことばを深く考えよ。今私たちは、この標準にははるかに及ばない。しかし主の愛の働きは完成まで決してやむことがないから、いつか私たちもそれに達するであろう。民を最後まで守ってくださる救い主は、ついには彼らを「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」として、ご自身に迎えてくださる。救い主の王冠にあるすべての宝石は最上の質のもので、わずかの傷もない。小羊の花嫁に仕える者たちは、すべて汚れない清純なおとめである。
しかしイエスは、どのようにして私たちを完全無欠な者とされるのか。主はご自身の血潮によって私たちの罪を洗いきよめ、きよい天使のように純白なものとされる。また私たちは主の義の衣を着せられる。その義は、それをまとう聖徒たちを全く欠点のない、神の目から見て完全なものとする。私たちは神の目から見てさえ、非の打ち所のない者とされるのである。主の律法は、私たちを責めないだけでなく、私たちの中で高められる。さらに、私たちのうちの聖霊の働きは、完全なわざをする。聖霊は私たちを完全に聖いものとし、私たちのうちの罪を犯そうとする傾向をも皆無にされる。判断力、記憶、意志、すべての力、感情が悪の支配から解放される。私たちは神が聖であるように聖なる者とされ、永遠に神の御前に安住する。聖徒たちは、天国においても均整を保つ。彼らの美しさは、そのために準備された場所にふさわしいであろう。
ああ、永遠のとびらが開かれ、財産を継ぐのにふさわしくされた私たちが、聖徒たちと共に光の中に住む時の喜びはどれほどすばらしいものだろう。罪はなくなり、サタンは閉め出され、誘惑は永久に去り、私たちは神の前に「傷のない者」となる。これこそ真の天国である。私たちは、やがて血で洗われた群れからわき上がる永遠の賛美の歌を、喜び躍りつつ練習しようではないか。そしてダビデの契約の箱の前における歓喜をまねて、御座の前における私たちの喜びの序曲としようではないか。

 


第2サムエル記20章16-26節

2014年10月10日 07時42分23秒 | 聖書

20:19 「私は、イスラエルのうちで平和な、忠実な者のひとりです。あなたは、イスラエルの母である町を滅ぼそうとしておられます。あなたはなぜ、主のゆずりの地を、のみ尽くそうとされるのですか。」



 シェバは、ペリジ人も従えて、マアカの町に入り込んでいました。

そこで彼を追ってきたヨアブは、この町の城壁を破壊して、町を滅ぼそうとしていました。

 ところが、その時に一人の婦人が、ヨアブの所に来て申し出をしました。

彼女は、あなた方はなぜ神様が与えてくださった町を滅ぼそうとするのか、と問うたのです。

そこで彼は、もしシェバを引き渡すならば、町を滅ぼすようなことはしないと告げました。

自分たちにとっては、ただシェバだけが、その目的であるからだと告げたのです。

 その結果、彼女は町の指導者達を説得してシェバを捕らえ、彼を殺害してその首を城壁から投げ出させたのです。

こうして、彼女は自分の町を救ったのでした。

彼女は、ただ自分の町を守りたいという思いを持っていたのみでした。

しかし、その心が、ダビデの求めたことを実現させたのです。

不思議なことです。


ヘブル人への手紙4章11節 (イザヤ54章)

2014年10月10日 07時40分09秒 | 聖書

★ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

■O:今日のコラム
私達が良いものを手に入れる為には、この世の基準においては、「もっと自分の力で努力しなければならない。」と言う考えが働きます。 しかし、神の国の基準においてはちがいます。最上の主の恵みを受ける為には、あらゆる力を尽くして「安息に入る事」が必要となります。

ヨハネは福音書15:2で主イエスは「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」と言われています。

私は先日この箇所を読んだ時、聖霊様の働きの中で深い悔い改めへと導かれました。

私達は実の多さによって全てを判断します。たとえば、「これだけの成果を得ているのだから。これだけの働きをしているのだから。」と言う感じにです。

しかし、主イエスはこの箇所で「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き」と言われている事を覚えましょう。自分の肉の力や頑張りにより、主に繋がる事以外の方法で繁栄しようする事は、主を喜ばせるものではありません。

主は私達を主イエスと繋がり、臨在の中で安息する事へと導いて下さっています。安息は最強の武器です。私達が安息する時、主が私達の為に戦ってくださいます。

今日、主の安息の中に祈りと礼拝を通して入りましょう。その時、豊かな実を結びます。


■A:考えてみよう
あえて時間を作り、聖霊様を歓迎して臨在の中で安息する時を持ちましょう。


■P:祈り
主よ私はあなたにある安息を求めます。


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月9日(木)のつぶやき

2014年10月10日 01時35分25秒 | キリスト教