座間コミニティー

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◆南に向かって

2014年10月20日 16時32分33秒 | 聖書

「引き止めるな。」と言う。(イザヤ四三・六)

このことばは南に向けられ、イスラエルの子孫に対して語られたものだが、私たち自身への呼びかけと解することは有益である。私たちは生来、すべての良いことにちゅうちょする傾向をもつ。それゆえ、神の道を前進することを学ぶのは、恵みによる教訓である。
友よ。あなたはまだ回心していないが、イエスに信頼することを願うのか。では、とどまっていてはならない。愛があなたを招き、約束があなたの成功を保証し、尊い血があなたの道を備えている。罪にも恐れにもあなたを妨げさせず、そのままでイエスに来れ。主の御前に心を注ぎ出したいか。それなら、とどまっていてはならない。恵みの御座は、そのようなあわれみを必要とする者のために備えられている。罪人の叫びは神の御心を動かす。あなたは招かれている。否、祈ることを命じられている。大胆に恵みの御座に来れ。
愛する友よ。あなたはすでに救われているか。では、主の民と結合されることを拒んではならない。洗礼と聖餐の礼典をないがしろにしてはならない。あなたは内気な性質であるかもしれない。しかし、不従順に陥らないために、内気な性質を克服しなければならない。キリストを告白する者にはすばらしい約束が与えられている。決してそれを逃してはならない。もし才能をもっているならば、それを用いることを控えてはならない。あなたの富を死蔵せず、時を空費してはいけない。あなたの能力をさびつかせたり、あなたの感化力をもち腐れにしてはならない。イエスは出し惜しみをされることはなかった。主にならい、自己否定、自己犠牲において他に先んじるようにせよ。神との親しい交わりをやめてはならない。大胆に契約の祝福をわがものとし、神のいのちにあって前進し、キリストの愛の尊い奥義を祈り求めることをやめてはならない。
愛する友よ。また、自分の冷決、苛酷、疑いによって、他の人の前進を妨げる罪を犯すな。イエスのために自ら前進し、他の人をもそのように励ませ。地獄と迷信と不信仰が前進してくる。おお、十字架の兵士たちよ。とどまるな。

 


「彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。

2014年10月20日 16時31分50秒 | 聖書

だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのか。』と言えようか」(Ⅱサムエル16:10)

シムイという男が、ダビデに石を投げ、ダビデを呪い、罵倒した。
「血まみれの男、よこしまな者」と。余りの侮辱に、部下が、「首をはねさせて下さい」と進み出たが、ダビデは、主が命じられたのだから、放っておけと、報復を許さなかった。

主によるものだと、信仰によって受け止めた。
ウリヤを殺害したダビデだったが、無駄な血を流したくない。
これは、神からのものであり、訓練だと、甘んじて受け入れた。
「私の身から出た私の子さえ、私の命を狙っている」シムイどころか、実子アブシャロムすら自分に歯向かっている。
そのためシムイの呪いも、神から出たものと受け取った。

状況でなく、神を仰ぎ見る、何とへりくだった心と態度であったろう。
主は「今日の呪いに代えて、幸せを報いて下さる」、どのような悲惨な状況の中でも、状況を変えようとあらがうのでなく、神の前に正しい心でいるなら、それをも主が良い事のために計って下さる。
ヨセフの「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らい」とされた通りだ。

相手の悪意でさえも、あなたのために益とし祝福と変えて下さる。
そうであれば、恐いものはない。あなたの目の前のその事態を「神がされた」「神から出ている」と受け取る時、誰もあなたを損なう者はない。
誰もあなたを害する事は出来ない。あなたをキリストのかたちへと変え、成長させて行くばかりだ。
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主は、ののしられても、ののしり返さず、正しくさばかれる方にお任せになった。
正しくさばかれる方がおられる。その方にゆだねて生きることができる。
主の視点で、御言葉によって判断し、立てるよう祈ろう。
祈りなくしてできない。主が助けて下さる。


今日の聖人の記念日

2014年10月20日 06時24分50秒 | キリスト教

聖ヨハネ(カンチオ)

1390年-1473年

 ヨハネは、ポーランド、クラクフ市の名門の家に生まれ、幼いときから信仰深い両親のもとで育った。クラクフ大学で哲学、神学を学び、司祭に叙階されると、母校の教授となった。彼は、信仰に裏づけられた深い学識をもち、司祭生活の模範を与えようと努める熱心な教育者であり、学生たちに多大な影響を与えた。また、クラクフの街の貧しい人びとのことを常に心にかけ、彼らの友として行った奇跡や施しについては、様々な話が伝えられている。

 ポーランドの保護の聖人として親しまれ、尊敬されている。


◆自分自身のコントロール

2014年10月20日 06時23分12秒 | 聖書

自分の心を制することができない人は、
城壁のない、打ちこわされた町のようだ。(箴言二五28)

さてあなたは、自分の心をコントロールできますか。意志の力が強く、自分で自分がうまくコントロールできているように見える人もいます。しかしたいていの場合、より強い欲望が、他の欲望を抑えているにすぎません。
なぜ盗まないか。なぜ暴力をふるわないか。なぜ下品なことば遣いをしないか。なぜ乱暴しないか。――その理由は、人に分かったり、見られたりしたら、恥ずかしいということです。メンツがつぶれて、笑われ、侮辱され、仲間はずれにされることを恐れるからです。人は恥を知る動物として、このみえを張ったりメンツを立てようとする欲望が、他のもっと程度の低い動物的即物的欲望を抑えているのです。しかし、これは結局、みにくいエゴの奴隷的圧制です。そこには、自由も平安も喜びもないでしょう。
しかし聖書は、「神を恐れる」ことを教えます。自分の全体を生かしコントロールしている神を、神として心から尊敬し恐れかしこむ、つまり、神のコントロールの中に身をゆだねる時、清らかな新しい意味の自己コントロールができるでしょう。
さらに聖書は、心の王座に神を迎えるという方面から、このことを教えます。キリストが心の王座に座り、自我が喜んで服従する時、キリストの愛が私の愛となり、キリストの力が私の力になるのです。パウロは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ二20)、「私の中に住みたもうキリスト、これこそ栄光の望みです」(コロサイ一27参照)と言いました。

 


◆あらゆる点において成長し、

2014年10月20日 06時22分22秒 | 聖書

かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ四・一五)

多くのクリスチャンは霊的成長をせず、何年も同じ状態にとどまっている。進歩の見込みもなく、改善の様子もない。彼らは存在はしているが「あらゆる点において成長し」ようとはしない。しかし、私たちは「初めに苗」が出たのみで満足し、「次に穂」、「次に穂の中に実」を生じないでおられるだろうか。キリストを信じて満足し、「私は安らかです」と言うだけで、自分の中にある満たしをさらに深く経験せずにおられるだろうか。それはあってはならないことである。
私たちはまた、天国の市場の良い商人として、イエスの知識に富むことを切望しないでおられるだろうか。他人のぶどう畑の面倒を見るのも結構であるが、私たち自身の霊的成長と成熟をないがしろにしてはならない。どうして私の心がいつも冬の状態でいられよう。私たちには種蒔きの時が必要である。しかし、春が来て夏が訪れて、収穫の望みがもてるようでなければならない。
もし私たちが恵みの中で成熟することを願うならば、イエスに近く、主の臨在のうちに生き、主のほほえみの日光によって成熟しなければならない。私たちは、主とのすばらしい霊の交わりに入らなければならない。イエスの御顔を遠くから眺めるのではなく、ヨハネのようにイエスに近づいて、自分の頭を主の御胸にもたせかけなければならない。そうすれば、聖潔において、愛において、信仰において、希望において、しかり、すべての尊い賜物において進歩するであろう。
ちょうど太陽がまず山頂に現れ、その光で山頂を輝かせて旅人の目に最も美しい光景を現すように、ある卓越した聖徒たちの上に聖霊の光の輝きを見るのは喜ばしいことである。彼らは霊性において、サウロのようにひときわ高くそびえ、ついに雪をいただくアルプスのようになる。そして、選ばれた者たちの間にあって、彼らはまず義の太陽の光を反射し、主の輝きをすべての人が仰ぎ見るようにさせる。人はこれを見た時に、天におられる父なる神をあがめるのである。

 


第2サムエル記22章11-20節

2014年10月20日 06時20分45秒 | 聖書

22:17 「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。
22:18 主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私よ
り強かったから。」



 苦しみにあう時、感じるのは自分の弱さです。

無知と無力感と失望です。

自分ではどうすることも出来ないいらだちです。

従って、そのような時、その人の内には力など起こり得ようはずもありません。

 ところが、何も力もなく、また知恵もない者達を、神様は救ってくださるというのです。

その助けと救いの根拠は、人のうちにあるわけではありません。

人に知恵があったり、また力や知識があるからではありません。

神様の方から一方的に憐れんでくださって助けを与え、救ってくださるのです。

大水からすくい上げてくださるのです。

何という恵みでしょうか。

 私たちは苦しみに遭う時、失望以外に何もないと思い、逃れの道がないと諦めてしまいます。

しかし、ダビデはそうではないというのです。

神様こそが、私たちの救い主、助け主であられると言っているのです。


ヘブル人への手紙13章17,18節(イザヤ書63章)

2014年10月20日 06時18分23秒 | 聖書

★あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。

■O:今日のコラム
生まれてから死ぬまであらゆるときに指導者とかかわりながら私たちは生きていきます。父、兄、先生、先輩、上司、牧師、大きくは自治体や国の政府、そして神様。指導者との関わりなくしては、私という個人は生きていくことはできません。これまで出会ってきた中で良いリーダーもいれば、そうでないリーダーもいたでしょう。その良くないほうの経験が強いと、後々のリーダーにそのイメージを投影してしまうことがあるので癒しが必要ですね。私自身、私が何か悪いことや粗相をしたりするといつもきつく兄に怒られた幼少の経験を通して、「リーダーは恐ろしい、従わなければ怒られる、黙ってなければいけない」などという意識が気づかないところで働いていたこと を気づかされました。主がその傷をいやしてくださり喜びをもって仕え従うものへと作り変えてくださっていることを感謝します!
健全な上下関係を築いていくことは本当に大切であることを覚えます。「わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである(箴言1:33)」からです。


■A:考えてみよう
指導者、権威ある方に対しての、過去に作ってしまった間違ったイメージや傷はないだろうか聖霊様に聞きましょう。

両親、夫、会社の上司、学校の先生…、指導的な立場にある方々を覚えて感謝し祝福しましょう。彼らの仕事、責任、判断がひとつひとつ主の助けと知恵を得てなされますように。主をおそれ、主の目にかなうことを行うことができますように。その人たちの言うことを聞き、喜んで従うことを決心しましょう。
また、とくに牧師先生のために祈りをもって支えていきたいと願います。牧師は門であるイエス・キリストから私たち羊を入らせ、私たちのたましいを安全な境界線の囲いの中で守ることができます。さまざまな指導的立場が ありますが、神様に弁明できるのはある意味で牧師だけでしょう。
そして私たちは奉仕のために整えられ、キリストの満ち満ちたからだができていきます。私たちが目指すべきところは主のみたけに見合うように成人となり完全なものとなることです。成長するときには痛みを伴います。ですから、牧師や霊的な父親が私たちを育てるとき、やりたくないと思うようなことをチャレンジされることもあります。それこそが、私たちが愛されている証拠なのです。諸教会の牧師先生を覚えて愛し支えていきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月19日(日)のつぶやき

2014年10月20日 01時34分28秒 | キリスト教