トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

同情と仲良くの類似性

2022-05-15 16:43:45 | 日記
 1977年。僕も所属していた一福祉会の会員の多くは、元患者と仲良くなるために多磨全生園に行った。そうしたら、たまたま来ていた無教会伝道師の伊藤節男氏から、「その会の人たちは同情で来ている」と指摘され、僕もいろいろとお説教を聞かされた。でも、その会の人たちも「同情は差別的でおかしい。障害を持つ人たちとも仲良くすべきだ」という見方で当時の僕も賛同していたため、僕は伊藤氏は誤解していると思った。その後、どういうわけか、その会の仲良し路線は挫折。健全者同士でさえ仲良くできず、離れる例が多かったし、対異性は仲良し関係からは恋愛に発展せず、寂しい想いを皆した。他の会は酒飲んでの仲良し関係から大ゲンカになる例もあるなど、もっとひどい例もあった。また、何故か、僕は仲良し関係には同情される時と同じ嫌悪感を持つようにもなった。
 今の脳科学に照らすと、同情と仲良くは非常に近いものかもしれない。どちらも大脳前頭葉は使わず、フィーリングや欲望をつかさどる脳の古い皮質の働きだから。欲望のまま動くと思考や判断力、愛が低下して人生破滅や犯罪にもなるが、同じことが同情や仲良し関係浸りにも言える。また、大脳前頭葉を使わないのならば、どちらも相手理解は中途半端。誤解されたまま付き合わされる。確かに、僕が仲良し関係が嫌いになって当然だし、話を戻せば、伊藤節男氏がその会の人たちは同情でやっていると思ったのも当然だろう。今は判るし、確かに、その会の人たちは目的書からして理性に欠けていた。「情性で動く」と内部批判も元々あったそうだ。福祉にしろ、何にしろ、どうせなら理性的にやらなければ。「情に竿させば流される」。

介護報告書と個性

2022-05-09 10:23:34 | 日記
  年度末の2月に障碍者支援法や介護保険に基づき、各介護会社から区や市町村の福祉課に一人一人の介護報告書が送られるが、起床・洗面・着替え・食事など、個人の介護状況を非常に細かく記載している。まさに個人情報。例えば、同じ障碍名の脳性まひの人たちにしても、介護の方法は一人一人違うわけである。さらには、食べ物の好き嫌いも。僕は要介護身障者だが、僕の介護方法は他の身障者には当てはまらないし、他の身障者の介護方法は僕には当てはまらない。今の介護は昔に比べてよくできていると思う。また、在宅の訪問介護はもちろん、今は施設も個室が完備しているから、介護士たちも要介護者に対して、一人一人に違った対応ができるが、昔の施設みたいに介護士が同時に何人もの要介護者に対応したら、非常に大変だと察せられる。人間ができる事ではないだろう。

  他の身障者の要領で介護されたら不便だし、自分の人格が無視されたような気がして、不快になる。怒る要介護者も多い。介護に限らず、他の身障者と同じに扱われて、僕もかなり昔に嫌な気持ちになったことがある。特に、「身障者A氏は絵を描いているから、あなたも描きなさい」みたいに、行動まで同じにみる発言には非常に怒りを感じた。同様に言われた身障の人も多い。何分、健全者から見て、身障者は顔まで同じに見えるから、つい言ってしまうと聞いたことがある。ちょうど、我々日本人がアメリカ人やロシア人、アイヌなどを一からげに見てしまうように。これは差別というものの一種である。(今回は述べる事ではないが、身障者もグループを組むと「我々は絵を描くから、お前も描け」みたいなことを言い合い、狂う傾向がある。身障者自身も自らを同一視。何だろうと。訳がわからない...)

  とにかく、個性は大事です。

現代日本の聴障者たち

2022-05-06 13:13:13 | 日記
     1977年。国学院の学生たちとも僕は交流。その一人に聴覚障害を持つK君がいた。彼はその学生を集めては手話会をやりながら、日本における聴障者の非常に悲惨な状況を話していたという。残念ながら、彼のその講演会には行くチャンスはなかったが、当時はテレビも字幕スーパーはなかったし、公共機関も聴障者たちへの配慮がなかった。会社に就職しても周囲の無理解で続かない例がほとんど。低賃金でも。当然、生活破綻にもなる。酒依存症とか。その話は察しがつくが、手話会に来た学生の多くは、遊び感覚で手話をするため、それをK君は許せず、ケンカになったと聞いたことがある。「言葉」の関係から思い出してみたが、恐らく学生の多くもいつも独り言的な話ばかりして、真の言葉は小学時代から発していなかっただろう。そのような人が手話に出会っても、コメディのジェスチャーみたいに遊びにしか見えないのではないか。ましてや、聴障者の悲惨で孤独な現実などは判らないに違ない。

  それから35年経て、2010年代。ミクシーのニュースに「北海道で、聴障を持つ男が会社の同僚を殺した」と。鮮烈にその記事は覚えている。ショック感じた。殺人は悪いが、そうなった理由は必ずあるから。大体、意思疎通が極めて悪いと殺人にも至るわけである。昔とは違い、聴障者にも障害基礎年金が下り、テレビも不完全ながらも、字幕スーパーがある時代に。昔とは別の意味で悲しいし、その後もミクシーやフェイスブック関係で「聴障者たちは世間の理解が得られず、孤立する例が多い」とよく聞く。殺人はその最たる例だし。アフガニスタン含め、中東のテレビ番組には必ず字幕スーパーと手話が同時につけられるなど、聴障者たちも世間から当たり前のように理解されているのに。日本は果たしてアフガニスタンやウクライナに援助できるような国だろうかとも思いたくなる。

  聴障学校とか、大人の聴障団体は手話と文を通して、真の言葉のやり取りしているわけである。公立学校では会話が希薄になって久しい。大人も独り言の羅列が多い。77年のKも健聴者の人たちに「皆の話は理屈が多くてわからない」と言っていた。抽象的な独り言を指していたわけである。発した本人も判らないような言葉ばかり。それで恋愛もできなかった人たちも多くいるわけだし、むしろ、健聴者の方が言語難をきたしていると言えよう。

  最後に、日本発のSNSのLINE。パソコンだけでは登録できない。携帯電話番号も必要。例えば、僕は言語障碍のため、携帯電話はなく、登録できない。同様の聴障者や言語障碍者も。言語と聴覚の障害を持つ人たちが使えない仕組みは差別に当たる。法律にも違反しているわけである。聴障福祉が極めて遅れている日本をそのまま表しているようである。世界に広まった時にトラブルになるかもしれない。

小学生向け随筆

2022-05-04 09:41:59 | 日記
 佐久のみなさんへ.            🍃
                 2022年4月25日書

 この手紙がつくころは5月。木や草のみどりがきれいな季節ですね。「夏も近付く八十八夜。あれに見えるは茶つみじゃないか」という歌がある通り、静岡県や埼玉県などでは、茶の新しい葉をつんで、われわれがいつも飲んでいるお茶にするわけです。そのようすはテレビで放送されていますから、みなさんもよく知っていることでしょう。
 ほうじ茶、緑茶、玄米茶と香りが良くていいですね。紅茶やウーロン茶もいい。紅茶は日本にはイギリスから渡りましたが、元々は南中国で作られました。お茶の葉を暑い時に放っておいたら、発酵して赤くなったので、好奇心のある人がお茶にして飲んだら、おいしかったから、紅茶も作るようになり、それがイギリスに渡り、イギリス人たちの好みに合い、広まったわけです。そのほか、南中国、ベトナム、台湾、シンガポール、沖縄県では、熱帯地方の花のジャスミンを入れるジャスミン茶もありますね。沖縄では、さんぴん茶と言われていますが、同じものです。ジャスミン茶は僕も好きです。
 お茶は元々は薬でした。ビタミンCが豊富にあるから、飲むとウィルスへの抵抗力も付き、カゼやインフルエンザにもかかりにくくなります。さらには、ウィルスを弱める物も入っていることも今の科学で分かってきたから、なおさらすぐれた飲み物です。さらには、お茶を飲むと気持ちも落ち着きますね。コロナのウィルスも弱める働きがあるとテレビで伝えていましたが、その後はどうなったのでしょうか。
 お茶は一人で飲んでも、みなで飲んでも楽しいわけです。今、西の方で戦争が起きていますが、一緒にお茶を飲めるまでになってほしいです。戦争の事は学校で先生が教えてくれていると思いますから、ぼくは話しませんが。
 また書きます。

スキンシップと愛語

2022-05-02 13:26:27 | 日記
  先日、NHK番組で、スキンシップが(愛や幸福ホルモンとも言われる)オキシトシン分泌を促すことがわかってきたので、学校や保育関係では子供たちに対して盛んにスキンシップするようになったが、「今はコロナ対策のため、できず、困っている」と聞いた。

  まず、以上に対して、何かの皮膚病でそれをしてやれない子も少数いるはず。その対策はされているのだろうか。

  何かの理由で出来なくても、代替策は必ずあるものだし、以上も現にある。正直な気持ちを持ち、愛の言葉を語り掛ければ、脳と遺伝子が活性化して、むしろ、スキンシップ以上のオキシトシン分泌になるわけである。オキシトシン発見以前から、愛の言葉が脳を活性化させることはアメリカでは研究され、常識化さえされている。何も子供に限らず、全世代がそう。死にそうな人に愛する人が声を掛け、元気になった話は昔から多いではないか。

  従って、「君も大切な子だよ」とか「みんな愛しているよ」と言語、文字、手話、点字で語れば良い。英語、韓国語、中国語も時には使って。まさに、仏教で説かれている愛語。

  逆に言うと、言葉を掛けず、いきなりスキンシップしても効果はあるのかと思いたくなる。例え子供に対しても、対異性でいきなりスキンシップしたら、アメリカではセクハラになり、大変な事になるとよく聞きますね。確かに、日本では、恋人や夫婦さえも愛の言葉を率直に言う習慣はないですね。その他の場はもっとそうです。それでは不明瞭だし、第一、本当に愛なのかも判らないわけです。

  万葉集には、極めて多くの率直な愛の言葉が多い。恋愛や夫婦愛はもちろん、親子や兄弟姉妹、友愛でさえも。日本は元々は愛の言葉の国でした。ところがいつの間にか、愛を語らず、暗黙の内に愛がある約束事みたいになっていった。目上のだれかが仲の良い男女を引き合わせて縁を作るお見合いみたいな事も行なわれた。二人はカップルになっても、無言で手をつなぎ、スキンシップ。でも、互いの愛の気持ちはこれでは伝わらないし、実際はもろい関係ですね。社会や生活が複雑化した今は、これでは男女に限らず、いかなる関係もできないでしょう。また、言葉が脆弱ならば、その代わりにお金で人を結ぼうとする。田中角栄以来の金権政治の根の一つかもしれない。日本で言葉が脆弱化した歴史的経緯は判りませんが、政治問題も出てきそうな根の深い問題だと思われます。外国の映画やドラマを見ると、アメリカ、フランス、中国、韓国、ロシアとどの国も特に男女は愛を言葉にします。「アメリカでは、愛を言葉化する」と聞きますが、何もアメリカだけではないのです。