トシコロのありのままの暮らし


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本当の恋愛や文学なども死が根にある

2020-03-17 10:39:02 | 日記
まず、自分の「死」を冷厳に見つめて、死の前にはどうにもならない自分の極めて弱い姿を知れば、自分の心も敏感に知ることができ、その延長で他人を深く思いやることもできるようになるからだ。多くの面で違う異性に対しては特にそうなる。それが真の恋愛の正体である。


  また、以上ならば、心も非常に知り、ものすごい文学も生まれてくる訳である。

  医療、暖房、栄養状態と未発達だった日本の江戸時代以前で、たびたび「駆け落ち」も出るなど、物凄い恋愛が出たり、万葉集などの文学が輩出した背景も以上ではないかと思うわけである。

  「死」が特に忘れられた戦後日本。死に代わって、魅力とかフィーリングが恋愛の核になったようだが、魅力求めからは恋愛本来の「死の前にはどうにもならない自分と恋人」への切ない想いは出てくるだろうか。確かに、そのように歌った歌謡曲は少ない気もします。魅力やフィーリングを追及したり、甘え合うような事は恋愛でも、何でもないようである。(「異性の魅力は実際は肉体・セックス」と陰で言っている人たちもたくさんいる。僕も昔からたくさん聞いていた。そうかもしれないし、また、精神的な魅力ならば、それこそ互いに聖人君子みたいな生き方をしなければならないから、疲れるわけでもある。後者ならば、誰でもムリだと思う)。

  「恋愛は死が根」だと僕は高校時代に万葉集などから気が付いた気もするが、その後は忘れ果てた。恋愛自体が訳が判らなく思った時もあった。でも、コロナ関係から悟りつつある。恋愛だけでなく、友人関係や師弟関係、仲間関係も同じだと。コロナを恐れる一ヘルパーさんと、互いに細かく心通じ合うようになったのも、その延長から恋愛の件も連想したし。羽仁進は「友情ほど、あてにならないものはない」と述べているが、死を絡めなければ、友情も、恋愛も、仲間関係も、宗教関係もあてにならないわけである。

  これからは真の恋愛も世界で復活し、幸せになる人たちも増えるようになれば良いと思う。

  (ヒットラーとか、障碍者を多く殺した植松被告も、一つには「死を知らない時代」が原因していると思う。死と向き合う時代ならば、そのような人たちは生れないわけである。「命の尊さ」も死を下敷きにしないと出てこない。生即死、死即生である)

死のない教会

2020-03-16 10:27:22 | 日記
まず、僕の行った教会関係がそうだった。本当のキリスト教は、各人の死とイエスの十字架上の死を自然に結び付けて、深いつながりを持ち、更にそれを共通項に信徒たちも結びつくものになっているそうだが、また、それらに「神の恩寵・魂の永遠」も確認するものである。それで心も一致し、話も噛み合うと言おうか。聖餐式はその確認行動だと聞いている。でも、建て前はその通りでも、僕の行った教会は違った。イエス十字架の意味を誰も言わない、判らないわけである。教会に行っていた時の僕含めて。それゆえ、神や人とのつなぎを求めて、牧師たち含め、皆悩んでいた。ほとんどの者は教会で独り言ばかり言い、交友はできない状態。誰も教会でも友人は作れない。ボランティアなどの社会活動に神やつなぎを求める者もいたし、「共感こそ、神に通じる」と言っていた者、「セックスしか結ぶものはない」と言う者も出る始末。「『労働が人を結ぶ』というマルクスの説は正しい」と述べる者さえいた。


  成程と、コロナ・ウィルスの流行る今は思う。僕含め、また、牧師含め、「死」を知らないから、自分の死の事が判らず、従って、イエス十字架と自分もつながらず、十字架を受け止められないわけである。共感とか労働は死とは大きく違うから、実際はキリスト教から遠ざかり、レイプ牧師も複数輩出するに至ったわけである。レイプ牧師、隠ぺいした多くの牧師たちも、イエス十字架を受け止めているとは思えないわけだし。もっとも、戦後日本では、ほとんどは病院で死に、死を知らないで育つから、何も僕の行った教会だけでもないだろう。更には、仏教関係も同じである。仏教も核心部分は「死」だからである。例えば、親鸞上人も若い時から「自分の死」を見つめ、その中から阿弥陀仏の救いを見出した。親でもない、「自分の死」である。それが判らないで、歎異抄を読んでも、誤解するだけなのだ。

  また、アイルランドやカナダの神父の性事件多発を見ると、世界的な現象だろう。世界的に人々は「死」が判らないわけだ。

  西洋に目を向けると、近代以降、以上の現象が起きたのかもしれない。但し、「科学と経済が発達すれば、死から逃れられる」という発想が次第に出てきた。そのような発想も、人を十字架から遠ざける。M・ウェーバーの述べた通り、神の恩寵とされるものは、資本家層から「利潤」などの経済的なものに変わっていき、資本主義が成長して、今の社会に至ったのではないだろうか。つまり、「神の死」ではなく、「死の死」という現象である。でも、それも幻想に過ぎない事が今回のコロナで明らかになった。

  そういえば、僕の行った教会では、死の話は誰もしなかった。それ自体、おかしかったわけである。それ以前に僕が入っていた福祉会、身障会などでも。人は必ず死ぬし、交通事故や食中毒で常に死ぬ可能性はあるのに。おかしかったし、死の事を誰も思わないから、心もバラバラになり、会も早く潰れた面はあるだろう。

  これからは以上の事もなくなるだろうし、死の前には宗教の違いもないわけだから、宗教対立も消えてくるのかもしれません。







愛や人間関係の基盤は、死への想いではないのか

2020-03-14 11:03:12 | 日記
日本の有名な女優の小倉優子さんが離婚。元夫は「顔も見たくない」という。プライベートな事は書けないが、非常に魅力的な人たちに違いない二人が。魅力でかつては近付き合い、結婚に至ったのに。かねてからの僕の「魅力は人を結ぶのか。結ぶものは何か」という問題にも通じる訳である。


  以上のような結婚、離婚例は巷にもあふれている。僕の縁者にもたくさんいる。又は、男女双方が魅力を感じ合いながら、恋愛関係だけに終わったり、恋愛にもならなかったり。僕も過去にはそのような経験も多かった。更には、男同士、女同士の交友も同じで、友人にもなれない例も多い。身障者と健全者との関係とか。ハンセン氏病元患者と、その他の人達との付き合いにも目立つ。何かの魅力では、人は愛も、友情もできないわけである。

  最近、コロナ問題でかなりの人たちが神経質になっている。コロナ・ウィルスに侵され、肺炎になるとそのまま死ぬ例が多いわけだから、恐い。そのような話を僕にしてくる人たちも多いが、それは「死」を意識しているからだ。だから、話も真剣である。僕も真剣に返答。詳しくは書かないが、それで意志疎通が極めて良好になった例も多い。かつてなく、良好。相手は僕の状況も超親友のように理解もしてくれている。有難いとも思う。死を下敷きとした関係。今の僕の全縁者と、コロナと言おうか、それ以上に「死」を強烈に見つめ合い、実感する関係ができたら、僕の人生も急速に改善する。男同士ならば、相性に関係なく、かなりの親友になれるし、異性の中からは本当に結婚相手も出て、急速に結婚生活にも移行可能にもなると。ならば、僕や、かなりの旧友たちの長い独身生活も、死の見つめ合い・実感し合いの欠如になってくる。「死」を通さないと、本当に友情、恋愛、結婚、介護のやり取りも出てこないわけである。

  昔、一牧師が「死を意識しないと、信仰も、人生や愛も生まれない」と言っていたのを覚えているが、その通りだと。大体、全ての宗教は「死」が根にあるから。キリスト教の場合は、それがイエスの十字架上の死に集約されている点が特色だが。歎異抄もたくさん死の事が書かれてあるし。でも、キリスト教の場合、イエスは2000年前の人だから、実感が今では乏しく、教派の別なく、「魅力」に神を見出そうとする例が多い。因みに、「個人魅力」も実際は死を下敷きにしないと出てこないものだろう。

  コロナ・ウィルスは恐ろしく、退散を願うばかりだが、現代では忘れていた事を色々気が付かせてくれているわけである。


浮世絵について・子供向け文

2020-03-12 11:26:58 | 日記
 浮世絵について.

 3月。今年は暖かい冬だったとは言え、まださむい時期ですね。
 4枚の写真を同封(どうふう)しました。浮世絵(うきよえ)ですね。ぼくも小学5年か6年の時、学校の美術の時間でおしえられました。江戸時代にさかんに作られ、特に葛飾北斎(かつしか・ほくさい)が東海道五十三次というシリーズを作ったことなどをぼくも知ったわけです。江戸時代は多くの人たちが浮世絵を作りました。ここにある左に女の人がいて、右上に月がある、海や船の絵は江戸時代に作られたものらしいです。何となく良いと思ったので、印刷して、送る事にしました。
 
浮世絵はやがてヨーロッパやアメリカに送られ、それを見た多くの人たちが気に入りました。フランスにゴッホという有名な画家がいますが、大変好きになり、浮世絵をそのまま絵にして描いたわけです。「タンギーじいさん」という絵がありますが、その人の後ろにはこのとおり、何枚もの浮世絵がありますね。ゴッホは日本が大好きで、行ってみたかったそうです。でも、昔は飛行機はなく、日本に来られなかったわけです。
 
浮世絵は、西洋の絵とかたを並べられるだけの素晴らしい絵ですね。今も作られています。ここには、ぼくや日向先生が小さい時に大好きだった鉄腕アトムと、みなさんの大好きなドラエモンの浮世絵を印刷しました。ドラエモンの方ですが、「東海道五十三次」の一つにこのような風けいの絵がありますから、そこにドラエモンたちを当てはめたわけですね。やがては、外国や宇宙の風けいの浮世絵もできると思います。パリやロンドン、月世界や火星の風けいも浮世絵に似合うはずです。
 
インターネットでは、たくさんの浮世絵も出ています。もちろん、ヨーロッパやアメリカ、中国、韓国の絵も。とくに、今は学校はコロナウィルスの関係で長い休みなので、みなさんもパソコンやスマートフォンでけんさくして、見て下さい。どの絵も美しく、いいですね。
  (以下、ゴッホ作・タンギーじいさん)

印象的な事の多くは死が絡んでいるかもしれない

2020-03-07 15:27:22 | 日記
  1974年の光明養護学校卒業後、同級生で何故か二人の事が気になり、内、一人とは気持ちもあったので、文通もした人もいた。二人共、進行性筋ジストロフィーという難病で、当時は20代で他界する事が医学的に証明されていたから、僕も彼らには死を思わざるを得なかった。印象に残ったわけである。


  島田療育園で付き合った3人の身障園生。一人は「人体実験手術」、他にも「職員の虐待」、寝たきりの身体。それらは別々の問題にしろ、「死を連想」は共通していた。これも印象深かったわけだ。

  多磨全生園。伊藤まつさんだけ印象的だった理由の一つも。体が極めて弱く、風邪だけでも重病みたいになる。いつ死んでもおかしくない状態。これも「死を連想」。でも、目にした他の元患者たちはそのような事はなかった。医者でもないし、僕はハンセン氏病自体は思わず、直接死を思ったわけである。

   でも、施設・在宅の別なく、死の連想がなかった身障者や知的障碍者たちには、どうしても印象が薄く、忘れがちである。キャンプで行った群馬県の某身障施設も、そのキャンプに参加希望した例のX君だけが印象的である。失礼な事だが、どうしても精神障碍は「精神が死に近い」という感覚がある上、これも発作の時に死人のようになる重度テンカン発作も持っているわけだし。

   ただし、以上の人達は非常に魅力的でもあった。これも大事な点だろう。死は我々にとっての恐怖であると共に、人生の区切り・けじめである。それを以上の人達は自覚していた。X君も。その場合、自分のやりたい事やできる事に集中して、思い切りやるわけである。まさに「ハンパがない」。自動的に魅力も出るのではないか。

   また、それゆえに、以上の人達に悲しみとも、憐憫とも言える独特の感情を持った。それを昔の僕は同情だと思うようになり、同情は否定的な考え方なので、行きたくなくなった・会いたくなくなったこともある。同情との違いについては、非常に難しい事なので、今回は述べない。

   やや違う事だが、「死は楽しさ・快楽の根の一つ」という説が古くからある。日本でも、評論家の亀井勝一郎氏が述べている。他にも聞いた覚えもある。また、仏教の中の修行にも、死を連想させるものがあるし、キリスト教も、イエスの死で成り立っている。「楽しさ」については、ジェットコースターは典型例だし、野球も死や殺という言葉がよく使われる。相撲にも「死に体」など、多い。それも不思議である。今はコロナ・ウィルスで世界の人々が非常に身近に死を思っている。スポーツ観戦にも死の感覚はあると思うが、それよりもはるかに強い死の感覚。今回の世界の人達の経験はウィルス撲滅後も永久に残り、語り継がれるはずである。無責任な事は言えないが、今回の件でスポーツ観戦は余り面白く感じなくなる人たちも世界的に増えるのではないかとさえ思う。

  とにかく、死については深く考えさせられるものが多い。