トシコロのありのままの暮らし


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印象的な事の多くは死が絡んでいるかもしれない

2020-03-07 15:27:22 | 日記
  1974年の光明養護学校卒業後、同級生で何故か二人の事が気になり、内、一人とは気持ちもあったので、文通もした人もいた。二人共、進行性筋ジストロフィーという難病で、当時は20代で他界する事が医学的に証明されていたから、僕も彼らには死を思わざるを得なかった。印象に残ったわけである。


  島田療育園で付き合った3人の身障園生。一人は「人体実験手術」、他にも「職員の虐待」、寝たきりの身体。それらは別々の問題にしろ、「死を連想」は共通していた。これも印象深かったわけだ。

  多磨全生園。伊藤まつさんだけ印象的だった理由の一つも。体が極めて弱く、風邪だけでも重病みたいになる。いつ死んでもおかしくない状態。これも「死を連想」。でも、目にした他の元患者たちはそのような事はなかった。医者でもないし、僕はハンセン氏病自体は思わず、直接死を思ったわけである。

   でも、施設・在宅の別なく、死の連想がなかった身障者や知的障碍者たちには、どうしても印象が薄く、忘れがちである。キャンプで行った群馬県の某身障施設も、そのキャンプに参加希望した例のX君だけが印象的である。失礼な事だが、どうしても精神障碍は「精神が死に近い」という感覚がある上、これも発作の時に死人のようになる重度テンカン発作も持っているわけだし。

   ただし、以上の人達は非常に魅力的でもあった。これも大事な点だろう。死は我々にとっての恐怖であると共に、人生の区切り・けじめである。それを以上の人達は自覚していた。X君も。その場合、自分のやりたい事やできる事に集中して、思い切りやるわけである。まさに「ハンパがない」。自動的に魅力も出るのではないか。

   また、それゆえに、以上の人達に悲しみとも、憐憫とも言える独特の感情を持った。それを昔の僕は同情だと思うようになり、同情は否定的な考え方なので、行きたくなくなった・会いたくなくなったこともある。同情との違いについては、非常に難しい事なので、今回は述べない。

   やや違う事だが、「死は楽しさ・快楽の根の一つ」という説が古くからある。日本でも、評論家の亀井勝一郎氏が述べている。他にも聞いた覚えもある。また、仏教の中の修行にも、死を連想させるものがあるし、キリスト教も、イエスの死で成り立っている。「楽しさ」については、ジェットコースターは典型例だし、野球も死や殺という言葉がよく使われる。相撲にも「死に体」など、多い。それも不思議である。今はコロナ・ウィルスで世界の人々が非常に身近に死を思っている。スポーツ観戦にも死の感覚はあると思うが、それよりもはるかに強い死の感覚。今回の世界の人達の経験はウィルス撲滅後も永久に残り、語り継がれるはずである。無責任な事は言えないが、今回の件でスポーツ観戦は余り面白く感じなくなる人たちも世界的に増えるのではないかとさえ思う。

  とにかく、死については深く考えさせられるものが多い。