お陰様で22章まで書けた。原資料の身障園生M氏の手記によれば、小野雪子のモデルは、M氏が恋文を渡した後、「島田から去った」としか書かれていなかった。でも、当然、ものすごい葛藤がその女性にはあったはずであり、当時の「恋愛=結婚」という社会通念も当てはめつつ、女性心理を徹底的に推察し、書き上げたわけだ。また、島田離職には当たり障りのない理由を述べたに違いないと見て、「母親の病気」にした。以後、小野雪子は登場しないが、モデル女性はその後はどのような人生を歩んだのか、推察も僕にはできないわけである。
林田博士にも注目してほしい。小野雪子の事も間接的におかしくなった事を知るのみである。開園当初は文字通り、職員と苦楽を共にしていた。でも、70年代になると、雲の上の人にだんだんなった。皆に無意識的に祭り上げられ、浮いた状態になり、職員や園児・園生の情報が入らなくなった。都合の良い情報しか送らない職員もかなり出たと思う。終戦までの昭和天皇みたいな立場に次第になっていった。石油危機の経済混乱前からおかしくなっていったわけである。22章は1972年暮れで終わったが、73年秋以降の石油危機にはまだ間があるから、次はこの事を書きたい。
「頭痛」は本当に今の医学では判らない点が多い。秦野幸雄は頭痛持ちと診断された事が、やがて影響してくる。今は詳しく書かない事にする。
お金中心で、生活目標も「うまいものを食べて、贅沢して、楽しく」という資本主義・旧ソ連体制、もっと大きく見て、現代文明のしわ寄せの現れの場の一つが僕が見た島田療育園だったと今は思う。話によく聞く山谷はもっとひどいわけだが。また、当時の人々の恋愛観念「恋愛=結婚=マイホーム作り」という短絡的な発想も悲劇の要因。その発想の枠の中に小野雪子や秦野幸雄もいたし、在宅身障者たちもそうだったわけである。
今は結婚制度は崩れ、恋愛=結婚などと考えない人たちが増えつつあるし、もっと大きく資本主義や現代文明の崩壊期、歴史的転換期に差し掛かっているから、島田や悲恋の事も僕は客観的にみられる。小説に書けているわけである。でも、少し前まではそれらも客観的に見れなかった。そのような時は島田に行った人たちも状況が判らず、かわいそうとしか思えず、絶叫文を書くのみだった。80年代、身障ミニコミ誌に毎回数万字に渡る絶叫文を書き、読者には気持ちも伝わらず、体も壊して若くして他界された身障運動家もいた。その人の魂に祈るし、僕も資本主義や結婚制度の崩壊期まで長生きできて良かったとも思う。今後はお金中心の社会は消えて、命や心を大切にした地球社会になって欲しいものである。
林田博士にも注目してほしい。小野雪子の事も間接的におかしくなった事を知るのみである。開園当初は文字通り、職員と苦楽を共にしていた。でも、70年代になると、雲の上の人にだんだんなった。皆に無意識的に祭り上げられ、浮いた状態になり、職員や園児・園生の情報が入らなくなった。都合の良い情報しか送らない職員もかなり出たと思う。終戦までの昭和天皇みたいな立場に次第になっていった。石油危機の経済混乱前からおかしくなっていったわけである。22章は1972年暮れで終わったが、73年秋以降の石油危機にはまだ間があるから、次はこの事を書きたい。
「頭痛」は本当に今の医学では判らない点が多い。秦野幸雄は頭痛持ちと診断された事が、やがて影響してくる。今は詳しく書かない事にする。
お金中心で、生活目標も「うまいものを食べて、贅沢して、楽しく」という資本主義・旧ソ連体制、もっと大きく見て、現代文明のしわ寄せの現れの場の一つが僕が見た島田療育園だったと今は思う。話によく聞く山谷はもっとひどいわけだが。また、当時の人々の恋愛観念「恋愛=結婚=マイホーム作り」という短絡的な発想も悲劇の要因。その発想の枠の中に小野雪子や秦野幸雄もいたし、在宅身障者たちもそうだったわけである。
今は結婚制度は崩れ、恋愛=結婚などと考えない人たちが増えつつあるし、もっと大きく資本主義や現代文明の崩壊期、歴史的転換期に差し掛かっているから、島田や悲恋の事も僕は客観的にみられる。小説に書けているわけである。でも、少し前まではそれらも客観的に見れなかった。そのような時は島田に行った人たちも状況が判らず、かわいそうとしか思えず、絶叫文を書くのみだった。80年代、身障ミニコミ誌に毎回数万字に渡る絶叫文を書き、読者には気持ちも伝わらず、体も壊して若くして他界された身障運動家もいた。その人の魂に祈るし、僕も資本主義や結婚制度の崩壊期まで長生きできて良かったとも思う。今後はお金中心の社会は消えて、命や心を大切にした地球社会になって欲しいものである。
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