まず、1977、8年。島田療育園の、クリスチャンの身障園生のM氏。クリスチャンとして「愛」を説きながら、一方では「私は人と仲よくする事が苦手だ」と言う。最初は僕は気に留めなかったが、次第に矛盾ではないか?と思うようになった。当時の僕はまだ愛と仲良くの違いを知らなかったから。でも、おかしさに気が付いた時は、別の園生と園とのケンカに巻き込まれていて、それどころではなくなり、聞く機会も逸した。当時の僕が入っていた福祉団体にはカトリックも、ルター派の信徒たちもかなりいたが、みんな「愛=仲良く」だと思っていた。それ故に、尚更、M氏の事がおかしく見えた。
それから7年くらいした、関西や名古屋の人たちが多いキリスト教関係の集い。そこで以上の答えを幸運にも聞く事ができた。その役員格の人が、戦前の教育勅語の問題から切り出し、愛と仲良くの違いを「仲良くはメンバーの各人が自分の主張や意見を抑えつつ、協調し合い、ニコニコする事。特に、(戦前の)軍隊内では必要とされた観念。それに対し、自分を大切にしつつ、主張や意見も述べ、その上で相手の気持ちを受け止め、共に生きる事。両者は違う。仲良くからは、諸々の差別問題は解決しない。それゆえ、それは私は否定している。実際、諸々の被差別者が仲良し関係を周囲の人たちに強いられ、差別問題を述べる機会さえ逸している。又は、述べる気力も奪われている。それから、この教派は、愛と仲良くの区別が付かない信徒が多い。これも困った事だ」と説明してくれました。それで僕もようやく判り、M氏はおかしくなかった事も知ったわけです。
また、自己主張を抑え合うコミニティの場合、他人は各自の個性も認識できないわけだから、相互理解も不可能になり、その結果、友情も、恋愛も生まれなくなる面もあるわけです。軍隊内では、個性が禁止されていましたね。恐ろしい所だったわけです。
でも、上べだけ見て、「仲よく」は良い事だと思うような人も日本には多いわけです。
話を戻し、僕の付き合った3人の身障園生は話もかみ合わないなど、仲が悪かったです。当然だと振り返り、思います。3人の出身地はそれぞれ違ったし、している事も違った。仲良くする必要もなかったわけです。ハンセン氏病の多摩全生園でも、元患者たち間はそうでした。全生園の場合は個室や夫婦部屋が完備されていましたが、島田療育園の場合は個室がなかった。当時の身障園生の不満点の一つもそこでした。
そのM氏は「都立の多摩更生園だけは行きたくない。そこは園生間の仲良し関係を強制されるから」。今のそこも違っているようですが、当時はそのような施設もかなりあったわけです。個室はなくても、園生間がバラバラな状態を島田療育園は許していた。それは今の僕は評価しています。
最後に、僕が一時いた身障団体。「誰とでも仲良くなろう」と「自己主張しよう」の2つの理念を掲げていました。早く潰れましたが、それも当然だったと気が付いています。その2つは両立しないから。役員含め、全ての会員は「仲よく」の意味を知らなかったわけですね。仕方なかったと思います。但し、その会で僕は自己主張を知り、取り入れた。その一つが、当時の別の会で行なっていた高島平子供会への参加でした。その延長の子供向け文にもつながっているし、その身障会に入って僕は良かったと思います。
追加的に書くと、僕がいた教会関係の牧師のレイプ事件は許されませんが、それを隠ぺいした牧師会。84年に「仲よく」を述べた方は、「仲良くにこだわると、仲間の誰かの悪事まで隠すようになる」とも述べていた。その通りの事が行われたわけです。隠ぺい。どんな気持ちで牧師たちはしたのでしょうか。愛なんかではないですね。愛のない最晩年は猛烈に寂しい。隠ぺいした牧師たちには、「猛烈な寂しさ」という神の裁きが待っているようです。我々も気を付けないといけません。
それから7年くらいした、関西や名古屋の人たちが多いキリスト教関係の集い。そこで以上の答えを幸運にも聞く事ができた。その役員格の人が、戦前の教育勅語の問題から切り出し、愛と仲良くの違いを「仲良くはメンバーの各人が自分の主張や意見を抑えつつ、協調し合い、ニコニコする事。特に、(戦前の)軍隊内では必要とされた観念。それに対し、自分を大切にしつつ、主張や意見も述べ、その上で相手の気持ちを受け止め、共に生きる事。両者は違う。仲良くからは、諸々の差別問題は解決しない。それゆえ、それは私は否定している。実際、諸々の被差別者が仲良し関係を周囲の人たちに強いられ、差別問題を述べる機会さえ逸している。又は、述べる気力も奪われている。それから、この教派は、愛と仲良くの区別が付かない信徒が多い。これも困った事だ」と説明してくれました。それで僕もようやく判り、M氏はおかしくなかった事も知ったわけです。
また、自己主張を抑え合うコミニティの場合、他人は各自の個性も認識できないわけだから、相互理解も不可能になり、その結果、友情も、恋愛も生まれなくなる面もあるわけです。軍隊内では、個性が禁止されていましたね。恐ろしい所だったわけです。
でも、上べだけ見て、「仲よく」は良い事だと思うような人も日本には多いわけです。
話を戻し、僕の付き合った3人の身障園生は話もかみ合わないなど、仲が悪かったです。当然だと振り返り、思います。3人の出身地はそれぞれ違ったし、している事も違った。仲良くする必要もなかったわけです。ハンセン氏病の多摩全生園でも、元患者たち間はそうでした。全生園の場合は個室や夫婦部屋が完備されていましたが、島田療育園の場合は個室がなかった。当時の身障園生の不満点の一つもそこでした。
そのM氏は「都立の多摩更生園だけは行きたくない。そこは園生間の仲良し関係を強制されるから」。今のそこも違っているようですが、当時はそのような施設もかなりあったわけです。個室はなくても、園生間がバラバラな状態を島田療育園は許していた。それは今の僕は評価しています。
最後に、僕が一時いた身障団体。「誰とでも仲良くなろう」と「自己主張しよう」の2つの理念を掲げていました。早く潰れましたが、それも当然だったと気が付いています。その2つは両立しないから。役員含め、全ての会員は「仲よく」の意味を知らなかったわけですね。仕方なかったと思います。但し、その会で僕は自己主張を知り、取り入れた。その一つが、当時の別の会で行なっていた高島平子供会への参加でした。その延長の子供向け文にもつながっているし、その身障会に入って僕は良かったと思います。
追加的に書くと、僕がいた教会関係の牧師のレイプ事件は許されませんが、それを隠ぺいした牧師会。84年に「仲よく」を述べた方は、「仲良くにこだわると、仲間の誰かの悪事まで隠すようになる」とも述べていた。その通りの事が行われたわけです。隠ぺい。どんな気持ちで牧師たちはしたのでしょうか。愛なんかではないですね。愛のない最晩年は猛烈に寂しい。隠ぺいした牧師たちには、「猛烈な寂しさ」という神の裁きが待っているようです。我々も気を付けないといけません。
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