それは資本主義である。「死」の定義にもよるが、人は何らかの収入によって生きているので、解雇され、賃金収入を絶たれた労働者は社会的な死を意味するわけである。19世紀ヨーロッパはその問題が深刻だったため、マルクスは気にして、「資本論」の中に何度も書いた。当時の資本家=社長、会長に当たる人たちが生き長らえる不公平も。
ところが、特に第二次大戦以降はその企業も組織化が進み、定年の時は退職金が支払われる事になったが、もし、使い切れば、終わりだから、それも「社会的な死」には違いない。更には、社長や会長もクビになる事も戦後はかなりあるから、19世紀とは違い、資本家も死にさらされている。また、障碍者やハンセン氏病患者は元々働けない例が多いから、最初から社会的な死が言い渡されているに等しいかもしれない。資本主義の穴を埋めるべく、高齢者や障碍者への福祉年金制度も作られてはいるが、資本主義中心の中には入れない構造には変わりがない。さらに、いくら働いている人たちでも、いつかは高齢になり、体も弱り、働けなくなるから、まさに「致死率100%」である。それが日本とヨーロッパでは、ここ10年近く、0金利やマイナス金利になり、資本主義の力も衰えているから、その「致死性」が目立ち、失業者も増えている。そこにコロナで、今年はもっと増えたわけである。
コロナの致死性は5%に過ぎない。単純比較はできないにしろ、人々は資本主義の方を注目し、批判もし、適度に恐れるべきである。コロナはその20分の1で良い。
思えば、世界の社会構造は多様で人々が自由に選べるようにしなけれは真の民主主義とは言えないが、多くの国々では資本主義しか選択肢がない。または、昔あったソ連みたいな官僚主義の国家やファシズムとか。その2つはろくなものではなく、潰れた。そして、好まざるに、資本主義の鋳型の中に人々は無理矢理はめて生きてきたようである。それもかなり破綻しているわけである。その資本主義の根は、キリスト教崩壊過程から生まれた個人主義らしい。そのヒントがM・ウェーバー著の「プロティスタンティズムと資本主義」という分析著に書かれている。更に言うと、その根は「個人主義・利己心だけの心」ではないか。プロテスタントに関係がないはずの社会の日本や中国にまで今は広まっているわけである。
新しい価値観による共生社会出現を切に望む。
ところが、特に第二次大戦以降はその企業も組織化が進み、定年の時は退職金が支払われる事になったが、もし、使い切れば、終わりだから、それも「社会的な死」には違いない。更には、社長や会長もクビになる事も戦後はかなりあるから、19世紀とは違い、資本家も死にさらされている。また、障碍者やハンセン氏病患者は元々働けない例が多いから、最初から社会的な死が言い渡されているに等しいかもしれない。資本主義の穴を埋めるべく、高齢者や障碍者への福祉年金制度も作られてはいるが、資本主義中心の中には入れない構造には変わりがない。さらに、いくら働いている人たちでも、いつかは高齢になり、体も弱り、働けなくなるから、まさに「致死率100%」である。それが日本とヨーロッパでは、ここ10年近く、0金利やマイナス金利になり、資本主義の力も衰えているから、その「致死性」が目立ち、失業者も増えている。そこにコロナで、今年はもっと増えたわけである。
コロナの致死性は5%に過ぎない。単純比較はできないにしろ、人々は資本主義の方を注目し、批判もし、適度に恐れるべきである。コロナはその20分の1で良い。
思えば、世界の社会構造は多様で人々が自由に選べるようにしなけれは真の民主主義とは言えないが、多くの国々では資本主義しか選択肢がない。または、昔あったソ連みたいな官僚主義の国家やファシズムとか。その2つはろくなものではなく、潰れた。そして、好まざるに、資本主義の鋳型の中に人々は無理矢理はめて生きてきたようである。それもかなり破綻しているわけである。その資本主義の根は、キリスト教崩壊過程から生まれた個人主義らしい。そのヒントがM・ウェーバー著の「プロティスタンティズムと資本主義」という分析著に書かれている。更に言うと、その根は「個人主義・利己心だけの心」ではないか。プロテスタントに関係がないはずの社会の日本や中国にまで今は広まっているわけである。
新しい価値観による共生社会出現を切に望む。
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