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実録小説・シマハタの光と陰・第25章・パレスチナからの嵐

2022-04-25 10:27:14 | 日記
  1973年10月6日夕方、シマハタの身障室のテレビは子供向け番組を付けていたが、ニュース速報が入り、エジプト軍とシリアやヨルダン軍がイスラエルを奇襲攻撃して、戦争状態に入ったと告げた。それを見た職員たちや秦野、高田、野口は驚いた。

  「ベトナムはもうじき平和になりそうだというのに、今度は中東。爆撃もどちらも激しいから、そこに住んでいる人は大変ね。日本は平和だし、離れているから巻き込まれることもないわね。近くでなくて良かったわ」という会話が身障室や職員室で飛び交った。たしかに、中東は嵐である。だが、遠く離れているし、同情はしても、ほとんどの日本人は他人事と思い、シマハタの人たちもそうであった。

  

  戦闘は早く終えたが、「サウジアラビアなど、アラブの産油国が石油を武器として使うことを決め、日本も親イスラエルとみなされ、石油輸入は大きく減らされる事になりました」。そのニュースを聞き、林田博士は顔面蒼白になり、

「大変な事になる。日本も経済が崩れ、シマハタにも重大な影響が及ぶ。打つ手はないかもしれない」と職員たちの前で叫んだ。

 11月になり、物価は上がり始めた。砂糖、パン、野菜、肉、魚。なぜか、トイレットペーパーは主婦たちが大量に買い占めた。シマハタも食事係りでは、経費節減のため、お菓子と果物を減らし、野菜や肉、魚も安いものに切り替えたが、赤字になった。

 12月になり、新聞の見出しに「狂乱物価」という言葉も出るようになり、各世帯の家計も支出が大幅に増え、収入は変わらない。もともと収入の少ないシマハタの職員たちは赤字家計になる例も次々と出た。田中角栄首相は「総需要抑制」を指示し、物価の安定に努めたが、年が明けても上がり続けた。

 

 3月。次年度の職員の給料を巡り、1%アップに留めようとする林田博士以下の経営陣と、労組もこれから結成する職員たちは物価上昇に見合う10%を主張。

「シマハタの今の総収入から言って、1%アップでも能力を超えた、非常な努力です」

「われわれ職員も必要なお金をいただいて、食べたり、電気代などを払わなければ、生きていけないの。生きなければ、園児たちのお世話はできないの。芸能人みたいにぜいたくな暮らしは求めていないわ。憲法にも書かれている『最低限度の生活』、それをしなければ生きていけないと言っているだけよ。われわれが死んでもいいの。園児たちのお世話をする人がいなくなってもいいの?」

 会談は平行線のまま、ひと月過ぎた。労組の結成も兼ねた、日曜午後の会合。ストライキについて、激論が交わされた。

 「今のままの賃金ならば、生活はできない。ストしか手はない」

 「そうしたら、園児たちはどうなるの? 水さえ飲めないのよ...」

 「父母たちも怒る。われわれは工場の労働者とは違うんだよ」

 「とは言え、われわれが倒れたら、だれも園児たちの世話はできないんだよ。その辺のことを判ってくれたら、園長も必要な賃金を出すはずなのに出さない。出すまでストするしかない」



  意見は割れたが、最後は多数決でスト決行になった。パレスチナからの嵐がシマハタも襲っているわけである...。

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