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文化が再生した未来日本社会を想像すれば

2017-02-16 11:38:15 | 日記
  確かに日本でも1980年代のバブル経済の頃から地方でもそれまであった文化の絆が崩れたらしく、全国的に犯罪や精神病・情緒障碍の患者も増えている。それゆえもあろうが、その後の竹下首相が「ふるさと創生」という政策をされたが、それについて「予算のばらまきだ」という声も多かった。確かに、当時の竹下さんの気持ちは判るが、予算を与えただけでは文化再生にはならない。その努力も空しく、その後も地方文化の崩壊などは続いている。明るい面としては、知的障碍者の作業所の作品が芸術品として世間に認められつつある点です。それに僕は文化再生の期待を込めているわけです。


  では、文化が再生し、人々がつながった社会はどんなものだろうか。今の時点でそのようなものがなくても、人間は色々な状態を想定する事ができる。想像はただでできるし、例えそれが当たらなくても考える訓練にもなるから、書いていきたい。

  人々が色々な文化でつながり、評価し合う社会になれば、ごく自然に人と人が関わり合えるようになり、人格も認め合い、簡単に友人にもなれるのではないか。助け合いも自然に行なわれるし、悩みも自然に話せる。話してもバカにしなくなる。ストレスも簡単に発散できるようになる。酒に頼らなくてもよくなるから、アルコール依存症も減る。肝臓病も減るわけである。また、何かの障碍を持つ人も。特に、知的障碍を持ち、素晴らしい工芸作品を作っている人たちは非常に尊敬されて、認められる。それまで芸術に関心のなかった身障者のかなりも絵の描ける人は絵、文学作品が好きな人は詩や小説(童話も含みます)などをどんどん書き、やはり、世間的に認められる。上べだけの付き合いではないから、障碍を持つ人たちが子供扱いされる事もない。又、ふれあいが緊密ならば、恋愛や結婚も増えるし、心のふれあいで結婚するわけだから、夫婦になった後も人格を認め合い、離婚も少ない。勿論、財産を巡る兄弟争いもない...。少し考えただけでもこんな風になるのかもしれない。ボランティア団体も、身障団体も、親睦団体も必要なくなるわけだ

  そう言えば、僕は昔は色々な身障会、ボランティア会、親睦会に入ってきたが、何故か、入る会はことごとく潰れている。「僕の入る会は潰れるというジンクスがある」などと冗談も言ったりした。でも、よく考えれば、文化基盤のない社会はつながりを欠くから、それでいきなりボランティアだ、身障運動だ、教育だ、友情や恋愛だと言ったところで、しょせんはムリなのだ。若い時の僕もそうだったが、身障者たちも「何かを作る」という発想が出てこない。これでは世間に人間として認められるはずもないし、「認められる」という発想も身障者も、誰も持たないわけである。よくは判らないが、その状態からお金主義も出てきて、元々は禁欲が目的の資本主義がグローバル化とも絡み、歪んで行き、『資本論」の状態になり、更には、金権政治にもなっていったのかもしれない。

  現実に返って、確かに今の日本でも文化基盤が崩れている。又、北朝鮮が今みたいになった理由もそのような事があるのかもしれない。長年の日本統治と朝鮮戦争で、朝鮮北部の文化が徹底的に破壊され、恐怖政治に頼るしか人々はなくなったとも考えられる。現実はともかく、でも、僕はこれから以上の想像も取り入れて童話や随筆を書きたいし、(大人向けの)小説も書けるようになるのかもしれない。文化に問題意識を持つのならば、自分がまず文化創造をしていく。当たり前の事ですね。

  

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