トシコロのありのままの暮らし


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国家による戦死の美化

2021-07-17 13:33:29 | 日記
  いつからだろうか、そのような事が行われ、第二次世界大戦時にピークに各国共になった。その後も、例えば、1981年のフォークランド戦争の時のイギリス軍戦死者をサッチャー首相が「名誉の戦死」と言うなど、残り続けた。でも、戦争のひどさは誰もが知りつくしており、それも人々が死からを背ける要因になったと思われる。

  戦死を美化や名誉にして、死を政治的に利用し、戦争を肯定したわけである。今でもそうだろうが。

  でも、死の問題から目を背けても戦争の事は考えられないわけである。全ての人々は死ぬ運命だが、何故、戦争や殺人は悪いのか。ヒットラーみたいな奴に「誰も死ぬなら、戦争も悪くないじゃないか」と言われた時、どのように反論するのか。

  死は老衰死や病死みたいな自然死と、戦争や殺人みたいな人為的な死に大別できると思う。前者は自然の摂理がもたらす死。神とも言い換えられるものである。これに対し、後者は人間が自然や神になるような傲慢さがあるため、絶対にしてはいけないものである。人が他人の命を操作できるだろうか。同様に、妊娠中絶もいけないわけだが。近年は遺伝子検査で特に筋ジストロフィーを持つ胎児がそうされているが、あってはならないものである。人為的な死はする側も、される側も不幸である。戦争の時、敵味方は心が通じない。味方同士も気持ちは敵殲滅に向けられており、これも心通じない。戦争では、本当は何も心通じないわけである。「敵への憎しみを通した連帯」という声も聞くが、それは連帯でも何でもない。上べだけのものである。何より、敵の人たちを認めないのは多様性にも欠ける。それは対筋ジストロフィー胎児中絶にも言える。どんな民族や文化の人たちでも、また、どんなに重い障碍を持つ人たちでも共に生きられる社会でないといけないわけだが。とに角、戦争と福祉のことは結び付くわけである。

 (僕も便宜上「重い障碍」という言葉を使っている。でも、重いとか軽いとは何だろうか。重いのは、それだけ死が近いという事になるのかね。身障同士、ハンセン氏病元患者同士がより障害が重い人たちに対して「あいつよりはマシだ」という差別もあるわけだし。今の障害年金や介護制度では、障碍の重さの区別も必要には違いないから、やむを得ないとは思うが。難しいところだと)。