1945年から90年までのアメリカ・ヨーロッパ・日本の事である。事故などでの障碍は別にして、それまでは多くの障碍は遺伝と世間では思われ、しかも、「祖先の悪業や原罪の報い」という迷信も絡み、差別はひどかった。その事は多くの福祉の古典的な本に書かれている。中年以上の人たちは本で読んだ事もあるだろう。僕も何度も目にした。
ただし、それは本当に迷信に過ぎなかった。何故なら、科学的な物証はないから。いくら経験的に論じても、「物証」がなければ、科学的に認められない訳である。日本では、早稲田大の大槻物理学名誉教授がテレビでいつも話しているから、よく知っている人も多いだろう。考えてみれば、ナチスの遺伝子議論も当時としては科学的な根拠がなかった。科学を装っていたが、実際はドイツに古くからある迷信を利用したに過ぎない。落ち着いて科学的に考える人が多ければ、政権奪取前にナチスを潰す事も可能だったと思う。
また、戦後は例えば、ポリオはそのウィルス関係の後遺症、脳性まひは出産ミスか、直後の高熱の脳損傷。知的障碍のかなりも同様だと、次第に障碍の原因が科学的に解明されていった。筋ジストロフィーや筋無力症も、未知のウィルスか最近だと医者は考えていた。僕が中学時代の1969年、父が週刊誌を持ってきて「筋ジストロフィーの原因の菌が見つかったらしい。菌の写真もこの通りある。これで治療法も見つかって、N君やS君も助かるだろう。良かった」と言っていた。誤報だったらしく、その後はこのニュースは立ち消えになったが、とにかく、そのような時代だった。当時の医学書には、筋ジストロフィーや筋無力症は「原因不明」とだけ書いてある。本人や家族も原因は判らなかったわけである。
それゆえ、障碍者関係も遺伝性差別と戦う事はしなくて良かったから、最初は年金などの経済ケア、後に介護関係に集中できた。例の小林博士も、障碍者関係の根本は介護だと考えていたようで「島田療育園に入った障碍児の兄弟姉妹の結婚例が増えた。それで家族の介護負担がなくなったからです。良かったと思います」と発言した。「障碍者の結婚問題は無視された」とそれを聞いて怒った身障運動家たちもいたが、博士の発言を掘り起こすと、本当に介護関係だけを考え、遺伝差別は考えていなかった事も判る。当時の状況が反映されているし、本当に小林博士も介護の事に集中していた事がわかる。小説にも盛り込みたい。もし、遺伝子差別にも取り組んでいたら、違う経過になったはずだ。両方の事を考えて、島田療育園なるものの構想もできなかったに違いない。人間は1度に2つの事はできない。物事は何でも集中力で行なわれるから。何もできなかっただろう。それは諸々の身障運動にも言えると思う。今のヘルパーさんが多い社会の源の一つも、かつての身障者たちの介護運動のおかげだから。旅行や遊びにも身障者は介護者が欠かせない。僕も学生ボランティアに頼んで、北海道旅行した事がある。知床などの様子を今でも明確に覚えているし、その人と絆も生まれ、今も常にフェイスブックで僕の文を読んで下さっている。ありがたいと思っている。ただし、介護に集中できる環境がなければ、旅行どころか、多くの福祉会にも行く事が難しかったと。身障者団体も介護の必要がない、軽度者に限られていたかもしれない。彼らだけで、遺伝性の啓蒙運動を繰り広げていたかもしれないと思うのだ。(その他、40年前は特に「障碍者差別の根=介護が面倒くさいから嫌われる」という見方が東京などでは流行った。「だから、公立学校では先生がそうして障碍児を追い出すし、結婚相手にはされない。それ故に、私は障碍を持つ金井康二君の公立校入学運動を支援したの」と既婚の身障運動家女性から聞いた事がある。貴重な証言だったと。島田療育園に抗議した身障者たちも同じ認識。大きく見れば、島田側も、抗議者も共通の認識は持っていた。その他、多くのクリスチャンの人達からも障碍者関係については同様の見方を聞いている)
遺伝性差別の事は忘れ去られたらしく、ナチスの障碍者虐殺を単に「経済的理由」と述べる人が増えていった。僕も何度も耳にしている。でも、それは戦後の経済中心の視点。実際は以上だった。
ところが、1990年から遺伝子科学が発達し、身体・知的と遺伝子に由来する事が今度は科学的に明らかになった。とは言え、その治療法どころか、安定した体調を保つ医学もないというより、切り捨てられたままなのだ。漢方薬医学の研究をしていた父は、その状況を激怒し、「いくら重い障碍を持つ人でも、合う漢方薬を飲ませれば、それなりに病気もなく、健康で楽しく暮らせる。今のアメリカや日本の医学はダメだ」と言い、漢方薬の本を作ろうとしたわけである。そのお陰で、季節に合う、僕に合う漢方薬を飲み、風邪や夏バテにもならず、こうしていつまでも元気でいられている。大感謝!
ならば、戦前あった遺伝差別も世間では復活しているのかもしれない。知的障碍者が多く殺された山百合事件。犯人はナチスの訳の判らない理屈をこねていたが、別に精神障碍のせいではなく、遺伝性差別感情が根にあるという見方もできる。また、山百合学園自体も、殺された人たちの名前を伏せるなど、奇異に思った。問題はあったにしろ、島田療育園では園生の名前もマスコミ取材の時は必ず述べていた。開放的だった。山百合学園は社会に働きかけているのだろうか。僕は島田には見られない暗さをTV越しに見た。島田とは区別して見ているわけである。
とにかく、1970年ごろをこれから書く僕の島田療育園の小説に、戦前や今の遺伝性差別を盛り込む事は許されない。またやがては、書く人体実験や子宮切除発言もナチス的な発想は盛り込めない。上べは同じでも、内容は根本的に違うからである。島田療育園は最初の方は光の面が強かった。書いた通りである。それが次第に狂い、園生M氏の僕への「広めてくれ」の懇願にもなった。何が狂わせたのか。冷静に書いていけば、答えは出てくるだろう。その必要もあり、戦後から90年までを見ているわけである。それは僕が生まれ育った時代でもあった。島田療育園の問題は僕個人の問題とも深くつながっているはずだから、こだわっているわけである。書き進めれば、僕の今後の生き方の改善策も出てくるに違いない。(かなり後になるが、身障園生の結婚希望の事もぜひ書きたい。一番聞いた事だから。でも、近くは知的障碍関係を書く予定。80年代、その施設を見学したから、それも参考に書くわけである。そこにも行って、良かった)
ただし、それは本当に迷信に過ぎなかった。何故なら、科学的な物証はないから。いくら経験的に論じても、「物証」がなければ、科学的に認められない訳である。日本では、早稲田大の大槻物理学名誉教授がテレビでいつも話しているから、よく知っている人も多いだろう。考えてみれば、ナチスの遺伝子議論も当時としては科学的な根拠がなかった。科学を装っていたが、実際はドイツに古くからある迷信を利用したに過ぎない。落ち着いて科学的に考える人が多ければ、政権奪取前にナチスを潰す事も可能だったと思う。
また、戦後は例えば、ポリオはそのウィルス関係の後遺症、脳性まひは出産ミスか、直後の高熱の脳損傷。知的障碍のかなりも同様だと、次第に障碍の原因が科学的に解明されていった。筋ジストロフィーや筋無力症も、未知のウィルスか最近だと医者は考えていた。僕が中学時代の1969年、父が週刊誌を持ってきて「筋ジストロフィーの原因の菌が見つかったらしい。菌の写真もこの通りある。これで治療法も見つかって、N君やS君も助かるだろう。良かった」と言っていた。誤報だったらしく、その後はこのニュースは立ち消えになったが、とにかく、そのような時代だった。当時の医学書には、筋ジストロフィーや筋無力症は「原因不明」とだけ書いてある。本人や家族も原因は判らなかったわけである。
それゆえ、障碍者関係も遺伝性差別と戦う事はしなくて良かったから、最初は年金などの経済ケア、後に介護関係に集中できた。例の小林博士も、障碍者関係の根本は介護だと考えていたようで「島田療育園に入った障碍児の兄弟姉妹の結婚例が増えた。それで家族の介護負担がなくなったからです。良かったと思います」と発言した。「障碍者の結婚問題は無視された」とそれを聞いて怒った身障運動家たちもいたが、博士の発言を掘り起こすと、本当に介護関係だけを考え、遺伝差別は考えていなかった事も判る。当時の状況が反映されているし、本当に小林博士も介護の事に集中していた事がわかる。小説にも盛り込みたい。もし、遺伝子差別にも取り組んでいたら、違う経過になったはずだ。両方の事を考えて、島田療育園なるものの構想もできなかったに違いない。人間は1度に2つの事はできない。物事は何でも集中力で行なわれるから。何もできなかっただろう。それは諸々の身障運動にも言えると思う。今のヘルパーさんが多い社会の源の一つも、かつての身障者たちの介護運動のおかげだから。旅行や遊びにも身障者は介護者が欠かせない。僕も学生ボランティアに頼んで、北海道旅行した事がある。知床などの様子を今でも明確に覚えているし、その人と絆も生まれ、今も常にフェイスブックで僕の文を読んで下さっている。ありがたいと思っている。ただし、介護に集中できる環境がなければ、旅行どころか、多くの福祉会にも行く事が難しかったと。身障者団体も介護の必要がない、軽度者に限られていたかもしれない。彼らだけで、遺伝性の啓蒙運動を繰り広げていたかもしれないと思うのだ。(その他、40年前は特に「障碍者差別の根=介護が面倒くさいから嫌われる」という見方が東京などでは流行った。「だから、公立学校では先生がそうして障碍児を追い出すし、結婚相手にはされない。それ故に、私は障碍を持つ金井康二君の公立校入学運動を支援したの」と既婚の身障運動家女性から聞いた事がある。貴重な証言だったと。島田療育園に抗議した身障者たちも同じ認識。大きく見れば、島田側も、抗議者も共通の認識は持っていた。その他、多くのクリスチャンの人達からも障碍者関係については同様の見方を聞いている)
遺伝性差別の事は忘れ去られたらしく、ナチスの障碍者虐殺を単に「経済的理由」と述べる人が増えていった。僕も何度も耳にしている。でも、それは戦後の経済中心の視点。実際は以上だった。
ところが、1990年から遺伝子科学が発達し、身体・知的と遺伝子に由来する事が今度は科学的に明らかになった。とは言え、その治療法どころか、安定した体調を保つ医学もないというより、切り捨てられたままなのだ。漢方薬医学の研究をしていた父は、その状況を激怒し、「いくら重い障碍を持つ人でも、合う漢方薬を飲ませれば、それなりに病気もなく、健康で楽しく暮らせる。今のアメリカや日本の医学はダメだ」と言い、漢方薬の本を作ろうとしたわけである。そのお陰で、季節に合う、僕に合う漢方薬を飲み、風邪や夏バテにもならず、こうしていつまでも元気でいられている。大感謝!
ならば、戦前あった遺伝差別も世間では復活しているのかもしれない。知的障碍者が多く殺された山百合事件。犯人はナチスの訳の判らない理屈をこねていたが、別に精神障碍のせいではなく、遺伝性差別感情が根にあるという見方もできる。また、山百合学園自体も、殺された人たちの名前を伏せるなど、奇異に思った。問題はあったにしろ、島田療育園では園生の名前もマスコミ取材の時は必ず述べていた。開放的だった。山百合学園は社会に働きかけているのだろうか。僕は島田には見られない暗さをTV越しに見た。島田とは区別して見ているわけである。
とにかく、1970年ごろをこれから書く僕の島田療育園の小説に、戦前や今の遺伝性差別を盛り込む事は許されない。またやがては、書く人体実験や子宮切除発言もナチス的な発想は盛り込めない。上べは同じでも、内容は根本的に違うからである。島田療育園は最初の方は光の面が強かった。書いた通りである。それが次第に狂い、園生M氏の僕への「広めてくれ」の懇願にもなった。何が狂わせたのか。冷静に書いていけば、答えは出てくるだろう。その必要もあり、戦後から90年までを見ているわけである。それは僕が生まれ育った時代でもあった。島田療育園の問題は僕個人の問題とも深くつながっているはずだから、こだわっているわけである。書き進めれば、僕の今後の生き方の改善策も出てくるに違いない。(かなり後になるが、身障園生の結婚希望の事もぜひ書きたい。一番聞いた事だから。でも、近くは知的障碍関係を書く予定。80年代、その施設を見学したから、それも参考に書くわけである。そこにも行って、良かった)