トシコロのありのままの暮らし


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愛以前のこと

2018-05-11 14:18:18 | 日記
  哲学系のTV番組を見ていたら、哲学においては愛は三種類あるという。イエス・キリストが説いたアガペーと、ソクラテスが説いたフィリアと、プラトンが説いたエロスだと言われている。確かに、西洋哲学ではそうだが、他にも仏教で説かれている慈悲や、儒教で説かれている仁もあるし、僕は知らないが、イスラムにもそれ特有の愛に相当する観念があると推察している。でも、この文では、それらを詳しく述べるのが目的ではないから、関心のある人は各自調べたり、勉強して下さい。


  僕が思ったのは、それらの愛以前の事です。特定の人物を個人として、人格を認識しなければ、いかなる愛も成立しないのではないかと。根本的人格とか、哲学の言葉では「実存」と呼ばれているものです。でも、その認識は意外と難しいかもしれません。度々述べている元S園園生の野口栄一君を例に上げて、少し考えたいと思います。

  彼の体は寝たきりでした。又、詩や随筆をよく書いていた。それらの事は僕もかなり述べていますね。でも、それらはほんのさわりであり、人格に入る為の説明の入口にしか過ぎません。何故なら、寝たきりの人は世界にはいくらでもいるし、文を書く人も同様。寝たきりで、文を書く人もいくらでもいます。僕もかなり知っています。でも、僕にとっては、野口栄一は野口栄一。他の寝たきりで、文を書く人とは根本的に違うわけです。

  そして、僕の気持ちはその「人格」としか述べようのないものに向けられていたし、彼は今は天国にいますが、今も僕の気持ちは同じです。だから、生きている時と同じように述べられるわけです。

  野口君も時と共に変化しました。当然、幼い時は詩などは書けなかったでしょう。その時の彼を思っても、同じ野口君です。それなら、彼の本質は文でもない事になる。又、今は魂だけの身になり、自由に宇宙を飛び回っている。それでも、野口君は野口君。同様に、寝たきり体が彼の本質でもないわけです。人格=魂と置き換えて見る事もできるかもしれませんね。それは不変でしょう。摩訶不思議にさえなってきます。どんな種類の愛にしろ、その前提には人格を見出す事があると言わざるを得ません。人間関係の基礎でもありましょう。

   世界的に離婚が増えています。本人たちの問題にしろ、「相手が優しくしてくれるから好きになった」と言い合い、結婚し、少しして余り優しくしてくれなくなったからと怒り、離婚する例も多いとよく聞きます。でも、「優しさ」も相手の人格を知る入口の一つであるようです。本当の愛は、人格=魂の結合ですね。それが判らなければ、相手の変化に戸惑い、離婚にもなりますよ。

   因みに、僕の従兄弟で思想家の川本兼氏は、以上の「実存」の大切さを述べ、マルクス思想にはそれが欠落していたと指摘しています。確かにそうだと思うし、マルクス関係と対立していた近代経済学にも、欠けていたように思われます。ナチスに代表される諸々の右翼思想はもっと欠落していました。ユダヤ人の一人一人の人格を見ないで、一からげに見た点はそうですね。又、一昔前に見られた、障碍者をコロニーに一からげに入れる政策とかも。あってはならない事です。アリとは違い、人間には個性や人格があるわけですし。それはともかく、近代から現代は時間に追われる生活で慌ただしいから、思想家や経済学者含む、多くの人たちが「実存・人格・魂」を忘れていたのかもしれませんが、これからは一人一人の人格を大切にしないといけないわけだし、真の福祉もできないわけです。(人格認め合い。思い出すと、野口栄一君と僕は自然な感じで向き合っていったから、心も開き合い、そのように両方ができたように思えます。僕もよく判りませんが、それがその方法かもしれない。ならば、S園の経験は尊かったわけですね)