トシコロのありのままの暮らし


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日本における障碍者、高齢者、外国人などへの子供扱いの問題

2016-05-20 11:18:03 | 日記



  今回の文は主に事実列挙である。古い話から書こう。

  「折れたクレヨン(花田春兆著・ぶどう社)」に書かれてあったこと。著者は1925年生まれの、生まれつき歩行不可能な脳性まひを持つ人だが、大体、1950年ごろの東京の経験として、以下の事を述べている。

  「教会の美術鑑賞会に日曜の午後によく行った。そこには、若い人たちもたくさん来ていた。特に、女性が多かった。私と大して変わらない年代の人たちだったが、特に女性たちから『万年坊や』というあだ名を付けられるなど、子供扱いされた。悔しかったが、どうする事もできなかった」と述べている。子供扱いの原因については、著者は何も語っていない。事実を淡々と語っているに過ぎない。

  1977年。世田谷の身障会で、ボランティアと身障者の大規模なキャンプが行なわれた。ボランティアの人たちが身障者一人一人に専属的な介護者として付いたが、ボランティア➡身障者の接し方は子供扱いか、病人扱いばかりだった。僕は病人扱いされた。確かに、身障者も、病人も体が弱いから、そのような扱いをされるのならば、読者の皆様も判るだろう。でも、僕が見た範囲では、圧倒的に身障者は介護者に子供扱いされていた。まるで幼児に語り掛けるように「おしっこ、ないの?」とか。介護者同士もおかしさを指摘し合っていたが、指摘した人もそのように扱う始末。訳が判らなかった。反省会でも話し合われたが、中身のある対策は出せなかった。

  同じころの別の福祉会。僕の他、耳の聞えない男の大学生がいた。大柄な体である。その人を同年齢の一人の女子学生が、彼のいない所で「あの子」と呼ぶことを僕も数回聞いた。口にした後、彼女は「今、何故、私はそう言ったのだろう。彼は立派な大人なのに。おかしいわ」と反省していた為、僕も批判はしなかったが、世田谷の身障キャンプの事と重ね合わせて見て、そこからその耳の聞えない人と、学生たちのやり取りに関心を持っていった。確かに、露骨には言わないまでも、何か、その人を子供扱いしている感じが何となくして、気になり続けた。その耳の聞えない人は、福祉会の目的に合わなかったらしく、その後は退会している。

  その福祉会。当時の日本では、小学から中学までの障碍を持つ子たちの学校の所属が、公立学校か、養護学校か、もめていた。それ自体は大きな問題だったが、僕に対してその問題を熱く語り掛け、「君も当事者だ。一緒に文部省の差別と闘おう」とか言ってきた同世代の学生が何人も出た。当時の僕は訳が判らず、結局、1979年にはその福祉会を退会するまでに至った。今思うと、その福祉会の人たちも僕を子供扱いしていたと。振り分けの問題になっていたのは本当に、小学から中学までの障碍を持つ子である。中学を卒業した障碍を持つ人たちは「当事者」ではないのに。いくら当時の文部省の説明が悪くても、そのくらいは判るのに。以上の事を語りかけられた時の気持ちを述べると、訳は判らなかったものの、非常に不快だった。だから、退会したわけである。

  90年代半ば以降。高齢者の様子がテレビに映るようになった。それは良いが、ただし、ケア・ホームみたいな所で、高齢者たちが、幼稚園児のようにお遊戯をさせられている場面が多かった。僕は変に感じたし、当時は70代だった父もそれを見て呆れていた。何分、高齢者たちに対しても子供扱いとか、幼児に語り掛ける言葉が多くなるとか。

  更には、外国人とか、外国系の日本国籍を持つ人たちに対しても子供扱いが多いと、テレビ放送でよく聞くし、実際にそのような人の声を聞いた事もある。更に、複雑怪奇である。

  子供扱いの理由として、「車いすに座る人は子供と同じくらいの視線だから」という説を聞いた事がある。うなずける反面、耳の聞えない人に対する同様な接し方については説明が付かない。世田谷の福祉キャンプでも、歩ける軽度の身障者に対しても子供扱いが同様に目だったし。

  昔の僕はその理由をさんざん考えてきたが、今の僕はそれを考える事を止めたと。理由が判らないままに、僕への子供扱いを否定する事を訴えたり、僕自身も耳の聞えない人みたいな方に対しては子供扱いしないように気を付ければ良いと。昔の人は雨が降るメカニズムは知らなかったが、「傘を差す」という対策はできたように、理由が判らなくても対策は十分立てられるから。

  もう一つ述べると、例のS園での園生への子供扱い。S園特有の現象ではなかったと思う。日本の世間にあるそのような意識が濃縮されて現れていただけで。S園ばかりを叩く気も、僕には昔も、今もないわけである。

日本における障碍者、高齢者、外国人などへの子供扱いの問題

2016-05-20 11:18:03 | 日記



  今回の文は主に事実列挙である。古い話から書こう。

  「折れたクレヨン(花田春兆著・ぶどう社)」に書かれてあったこと。著者は1925年生まれの、生まれつき歩行不可能な脳性まひを持つ人だが、大体、1950年ごろの東京の経験として、以下の事を述べている。

  「教会の美術鑑賞会に日曜の午後によく行った。そこには、若い人たちもたくさん来ていた。特に、女性が多かった。私と大して変わらない年代の人たちだったが、特に女性たちから『万年坊や』というあだ名を付けられるなど、子供扱いされた。悔しかったが、どうする事もできなかった」と述べている。子供扱いの原因については、著者は何も語っていない。事実を淡々と語っているに過ぎない。

  1977年。世田谷の身障会で、ボランティアと身障者の大規模なキャンプが行なわれた。ボランティアの人たちが身障者一人一人に専属的な介護者として付いたが、ボランティア➡身障者の接し方は子供扱いか、病人扱いばかりだった。僕は病人扱いされた。確かに、身障者も、病人も体が弱いから、そのような扱いをされるのならば、読者の皆様も判るだろう。でも、僕が見た範囲では、圧倒的に身障者は介護者に子供扱いされていた。まるで幼児に語り掛けるように「おしっこ、ないの?」とか。介護者同士もおかしさを指摘し合っていたが、指摘した人もそのように扱う始末。訳が判らなかった。反省会でも話し合われたが、中身のある対策は出せなかった。

  同じころの別の福祉会。僕の他、耳の聞えない男の大学生がいた。大柄な体である。その人を同年齢の一人の女子学生が、彼のいない所で「あの子」と呼ぶことを僕も数回聞いた。口にした後、彼女は「今、何故、私はそう言ったのだろう。彼は立派な大人なのに。おかしいわ」と反省していた為、僕も批判はしなかったが、世田谷の身障キャンプの事と重ね合わせて見て、そこからその耳の聞えない人と、学生たちのやり取りに関心を持っていった。確かに、露骨には言わないまでも、何か、その人を子供扱いしている感じが何となくして、気になり続けた。その耳の聞えない人は、福祉会の目的に合わなかったらしく、その後は退会している。

  その福祉会。当時の日本では、小学から中学までの障碍を持つ子たちの学校の所属が、公立学校か、養護学校か、もめていた。それ自体は大きな問題だったが、僕に対してその問題を熱く語り掛け、「君も当事者だ。一緒に文部省の差別と闘おう」とか言ってきた同世代の学生が何人も出た。当時の僕は訳が判らず、結局、1979年にはその福祉会を退会するまでに至った。今思うと、その福祉会の人たちも僕を子供扱いしていたと。振り分けの問題になっていたのは本当に、小学から中学までの障碍を持つ子である。中学を卒業した障碍を持つ人たちは「当事者」ではないのに。いくら当時の文部省の説明が悪くても、そのくらいは判るのに。以上の事を語りかけられた時の気持ちを述べると、訳は判らなかったものの、非常に不快だった。だから、退会したわけである。

  90年代半ば以降。高齢者の様子がテレビに映るようになった。それは良いが、ただし、ケア・ホームみたいな所で、高齢者たちが、幼稚園児のようにお遊戯をさせられている場面が多かった。僕は変に感じたし、当時は70代だった父もそれを見て呆れていた。何分、高齢者たちに対しても子供扱いとか、幼児に語り掛ける言葉が多くなるとか。

  更には、外国人とか、外国系の日本国籍を持つ人たちに対しても子供扱いが多いと、テレビ放送でよく聞くし、実際にそのような人の声を聞いた事もある。更に、複雑怪奇である。

  子供扱いの理由として、「車いすに座る人は子供と同じくらいの視線だから」という説を聞いた事がある。うなずける反面、耳の聞えない人に対する同様な接し方については説明が付かない。世田谷の福祉キャンプでも、歩ける軽度の身障者に対しても子供扱いが同様に目だったし。

  昔の僕はその理由をさんざん考えてきたが、今の僕はそれを考える事を止めたと。理由が判らないままに、僕への子供扱いを否定する事を訴えたり、僕自身も耳の聞えない人みたいな方に対しては子供扱いしないように気を付ければ良いと。昔の人は雨が降るメカニズムは知らなかったが、「傘を差す」という対策はできたように、理由が判らなくても対策は十分立てられるから。

  もう一つ述べると、例のS園での園生への子供扱い。S園特有の現象ではなかったと思う。日本の世間にあるそのような意識が濃縮されて現れていただけで。S園ばかりを叩く気も、僕には昔も、今もないわけである。