「○」と「×」とだけ記された、はがきのことを作家の向田邦子さんが書いていた。戦争中に小学1年の妹さんが家族から離れ、ひとり、学童疎開することになったそうだ▼妹さんはまだ字が書けない。そこで、ご両親が宛名を書いたはがきを大量に持たせた。「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい」。最初ははみだすほど大きかったマルは次第に小さくなり、やがてバツに変わった。どんなに寂しかったことか▼家族や友人との連絡に郵便が大きな役割を果たした時代はずいぶん遠くにいってしまったのだろう。総務省が郵便料金の値上げを審議会に諮問した。封書は110円、はがきは85円。消費税増税時を除けば封書の値上げは約30年ぶりという▼いうまでもなく、郵便物の取り扱いは減少の一途で、昨年度は2001年度からほぼ半減した。人件費や燃料費の高騰も加わり、日本郵便の郵便事業は採算が悪化している▼ものの値が上がると聞けば、腹を立てるのが常ながら、今年、書いた手紙やはがきの少なさを思えば、値上げせざるを得ない郵便事業に同情したくなるところもあるか。来年秋に値上げしたとて、またすぐに赤字になるという試算も出ている▼向田さんの妹さんからはついにはバツのはがきも来なくなった。途絶えた便りの心細さ。郵便事業の「元気なマル」を守る秘策はないものか。
宮城県知事を1993年から3期務めた浅野史郎氏は改革派知事と呼ばれた▼県職員の交際費の詳細や、予算削減を検討中の事業一覧を最終方針決定前に公表するなど情報公開を徹底した。契機は1期目に、架空支出計上による県庁の裏金づくりの慣行がオンブズマンの告発で発覚したこと▼前任者が汚職で逮捕され、出直し選挙で勝ったのが浅野氏だった。今度こそ県民に愛想をつかされると全容解明を命じたのが県政透明化の始まり。「第一段階は恥部を見せること。都合の悪い情報を隠そうとする役所が何を言っても県民は耳を傾けてくれません」と以前に語っていた▼岸田文雄首相に恥部を明らかにする覚悟はあるだろうか。組織的な裏金づくりが報じられる自民党安倍派に属する閣僚全4人が辞めたが、よもやこれで幕引きではなかろう▼「信頼回復のために火の玉となって-」と首相の言葉は威勢がよいが、検察の捜査とは別に裏金の全貌を明らかにしない限り、どんな党改革案を示しても国民の胸には響かぬ。防衛副大臣を退いた安倍派の宮沢博行氏が一昨日、この問題で派閥側がかん口令を敷いていると暴露していた。党側が腹をくくった雰囲気は伝わってこない▼裏金発覚後、宮城県の方針は「逃げない、隠さない、ごまかさない」だったという。首相がそれをできない時に政権がどうなるかはだいたい想像がつく。
新幹線が東京-新大阪間で開業した昭和39年10月当時「ひかり」「こだま」とも全席指定だった。こだまに年末年始限定の自由席ができたのはその年の暮れ▼コンピューターでなく手作業で発券したため、混雑時に作業が追いつかず、空席を残して発車することもあったといい、自由席誕生は窮余の策だった▼当時、在来線も含め特急は全席指定が一般的。自由席は後にこだまで通年化され、在来線特急にも広がった。座れぬ恐れもあるが、変更のたびに窓口に並ぶ必要もなく、少し安い特急自由席は人口増加期の大量輸送の一翼を担った。国鉄やJR東海で要職を歴任した須田寛氏の著書に教わった▼東京-博多間の新幹線「のぞみ」がこの年の瀬から年末年始、4~5月の連休、お盆に限り全席指定になる。16両のうち3両が従来自由席だが、ホームなどが混雑し、遅れも招いていた▼窓口に並ばずともスマホで指定席が確保できる時代。手間がかからぬなら必ず座れる指定席の人気が高まるのかもしれない。北陸新幹線「かがやき」や信州を走る在来線特急「あずさ」など近年は通年で全席指定の列車が増えた▼須田氏の本によると、昭和47年の新幹線の岡山延伸を機にひかりにも自由席が導入された。国鉄には特急は従来通り指定席がふさわしいと考える勢力もいたが、押し切られた。逆転した感もある形勢に時の流れを思う。
寒い季節に作家トーベ・ヤンソンさんのムーミンの物語を思い出す。ご存じか。ムーミン一家は冬眠する。ムーミン谷に初雪が降る11月ごろだそうだ▼ムーミントロールは本当は冬眠したくない。「いやだなあ。時間をうんとむだにしちまうんじゃない?」。スナフキンが心配ないさという。「きっとぼくたち、すばらしい夢を見るぜ。そうして、こんど目がさめたときには、もう春になっているんだからね」(『たのしいムーミン一家』)-▼ムーミンではなく、「熊蟄穴」(くまあなにこもる)。季節の移ろいを表現する七十二候によると、今はクマが冬眠のため穴にこもる頃合いらしい▼言われてみれば、この夏から秋にかけてクマが住宅地などに姿を現し、人を傷つけてしまう「クマ被害」もいくらかは落ち着いてきたか▼冬眠前、クマは脂肪を蓄えなければならない。環境変化によって木の実などの食べ物が減ってしまい、人の生活圏にやって来てしまうのがクマ被害の背景というが、この冬、クマたちは無事におなかを満たして床に就けただろうか。腹ペコの「ふて寝」ではやるせない▼熊は穴にこもったとはいえ「クマ被害」の問題は眠らない。どうすればクマと人との遭遇を回避できるか。駆除にも限界があるだろう。「こんど目がさめたときには」。それは無理だとしても良き解決方法を見つけたい。春はすぐ来る。
少々、意地の悪い野球クイズを。「野球の神様、ベーブ・ルースが最後に着たユニホームはどこのチームのものか?」▼ボストン(現アトランタ)・ブレーブスと即答する博識な野球ファンもいるだろう。なるほどニューヨーク・ヤンキースで活躍したルースは現役最後の年、ブレーブスに所属している。だが不正解とする。意地の悪いと申し上げたはずだ。引退後に1年、あるチームでコーチを務めている。答えはブルックリン(現ロサンゼルス)・ドジャースとなる▼ルースと比較され続けてきた投打二刀流の大選手が、ルースと同じブルーのユニホームに袖を通す-とつい、こじつけたくなる。去就が注目された大谷翔平選手。選んだのは名門ドジャースだった▼契約金に肝をつぶす。10年で約1015億円。大リーグどころかプロスポーツ史上、最も高額な契約を岩手出身の若者が手にした。数字が大きすぎてうらやむ気にさえならない▼勝てる球団を選んだのだろう。11年連続プレーオフ出場のドジャースは申し分ないが、その分、プレッシャーは高いはずだ。どこか、おっとりした前球団のエンゼルスとは異なり、常に勝利を求められ、ファンの目も厳しい。そこで金額に見合った成績を残さなければ、歓声は罵声へと変わる▼1015億円は朗報にして試練。どう乗り越えるかオオタニさん。物語の新章が待ちきれない。
かつては今より正月準備に取りかかるのが早かった。12月8日が準備を始める「事始め」だった。この日に家々では邪気払いのため笊(ざる)や籠を竿(さお)の先につけて軒口に出していたそうだが、今ではお目にかからない▼めでたい正月を迎える事始めではなく、不穏な大政局の事始めとなる兆しがある。自民党安倍派の政治資金パーティー券の問題で松野博一官房長官を交代させる方向になっている。パーティー収入から還流を受け、政治資金収支報告書に記載しなかった疑いを持たれている▼首相が店主なら官房長官はそれを支える大番頭である。政策決定、国会との調整、スポークスマン役。その大番頭が突然の交代となれば「大店(おおだな)」の先行きは危うかろう▼他にも同じ疑いのある大物議員が複数いる。いずれも党の要職にあり、松野さんが更迭となれば、これらの議員も身を引かざるを得なくなるだろう。ただでさえ人気のない岸田政権である。党も内閣もガタガタの状態になれば政権の維持も容易ではない。追い込まれかねない▼パーティー券問題を事務手続き上の誤りと軽視する空気が政府、自民党になかったか。甘いというしかなく、厳しい暮らしの中で有権者は政治家のカネを巡る、ふしだらを決して容赦せぬ▼正月準備は「事始め」に続いて、13日が「煤(すす)払い」となる。身を清める大がかりな「煤払い」が永田町に必要である。