散歩のついでに・・・

犬も歩けば棒にあたる。デジカメを常に持ち歩き、気ままに撮った写真を中心に思い思いに綴っています。

かなさわ・かまくら道

2008-06-14 17:41:49 | 古道
保土ヶ谷区内の古道を歩こうと思い今日は金沢横町の道標で記された『かなさわ・かまくら道』を散策。
正確にいうと今回は保土ヶ谷区から南区(鎌倉街道)までです。
どこからスタートしようかと地図を見たり、Webサイトを調べたりと多少、事前準備に時間が掛かりましたが、山越え(二つ)のコースなので自転車ではなく徒歩で行く事を考え、相模鉄道線天王町駅をスタート地点とする事にしました。
なるべく、昔からの道を歩こうと思い天王町付近の古い地図でルートを確認。
横浜市のサイトにはGoogle Earthの衛星・航空写真に重ね合わせてみる事のできる古い(昭和20年代)地図データがあるのでダウンロードして現在と比較確認する事ができます。
右の赤線は昭和39(1964)年の帷子川河川改修工事以前の天王町駅付近の川の流れです。
駅前のかって帷子橋が架かっていた場所は小さな公園となっていて、帷子橋のモニュメントがあります。
また、古町橋は右の画像の場所に架かっており、川の流れは左側のマンションから右へ流れていました。
川の跡は一部、公園になったり巾が狭くなっていますが、道路になっています。
現在は陸地ですが、江戸時代以前は天王町の帷子橋近くまで入り江となっていたり、この古町橋より内陸まで海が広がっていたようで、時代によって渡れる場所が変化して鎌倉道もそれに合わせて変化(移動)しているそうです。
神明社御由緒(旧伊勢神宮領榛谷御厨総鎮守)
今から一千年以上昔、保土ヶ谷の地が榛谷(はんがや)とよばれていた平安時代の中頃、天禄元年(970)当社の御祭神・伊勢の天照大神が武州御厨の庄の内、榛谷の峯に影向し、それから川井、二俣川、下保土ヶ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄元年(1225)神託があって、神明の下宮を建て、当地を神戸と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社嶺を免ぜられ、宮司以下数十人の禰宜社人 供僧 巫女が仕え、年に75度の祭祀を営み隆盛を極めたという。
その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正十八年(1590)徳川氏入国の時、社殿の造営が行なわれ御朱印地が安堵された。また、元和五年(1619)宮居を神戸山山頂から現在の処に遷し、社殿の造営、社頭の整備が行われた。


明治二年の修営時には、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦安置所の御用材を下賜された。明治六年村社に列せられ神饌幣帛料供進の神社に指定された。
平成十年十月、鎮座1030年祭、当地遷座770年祭、伊勢神宮鎮座2000年祭を記念して『平成の大造営』が行なわれ、三百八十年ぶりに御本社、摂末社神楽殿等総ての境内建物十二棟が一新された。
平成十二年四月、神奈川県神社庁献貨使参向神社に指定された。
御祭神は天照大神。
社殿建築様式は、本殿・拝殿とも神明造り。
野村ビジネスパークから月見台へ上る坂道。通称ビール坂。
昔、神戸町(今の野村ビジネスパーク)にはこの辺りの湧き水を利用したビール会社、後に日本最大の製瓶工場があり、それが由来になった坂道。
道のつながりからするとこの坂道はかなさわ・かまくら道ではないと思いますが、この坂道を登り切った先の道がかなさわ・かまくら道と表記されているので、かなり急な坂道ですが、登って行きました。
月見台から坂を下り切り、旧東海道保土ヶ谷宿の東側、金沢・浦賀往還への出入り口にあたり、通称『金沢横町』と呼ばれていた場所にある道標四基。道標はそれぞれ、
円海山之道 天明三年(1783)建立
かなさわ、かまくら道 天和二年(1682)建立
杉田道 文化十一年(1814)建立
富岡山芋大明神社 弘化二年(1814)建立
本日はこの道標にある『かなざわ、かまくら道』を歩く事が目的。
金沢横町の道標を見てJR東日本の踏切を渡り、国道1号線へ。
交差する所に歩行者信号があるので渡ると案内表示がありますので、案内に従って路地を進みます。
石名坂(いわな坂)という名前の坂道です。
道の左側は民家がポツポツとある程度で緑が残されていますが、道の右側はマンション等が建ち並び、残念ながら古道の面影が非常に薄くなってしまっています。
御所台地蔵尊
石名坂の『政子の井戸』の手前、左手にあります。
人が一人登れる石段の先に庚申塔や馬頭観音、石灯籠があります。
長い年月で文字はかすれて見にくいですが元禄、貞亨と六合掌三猿や阿弥陀立像、三猿文字庚申に刻まれています。

御所台の井戸(政子の井戸)
政子の井戸と呼ばれるようになったのはこの井戸の水を政子が化粧に使ったという言い伝えと、この一帯が政子の所領する土地だったのではないかという説のふたつがあるそうです。
きれいに整備されていますが、これだけ周りに民家が建ってしまうと井戸水としてはどうなっているんでしょうか?
坂を登り切り、横浜清風高校を通り過ぎた先の信号の角にあるのが、『北向地蔵』
解説によると横浜市地域有形民俗文化財
僧三譽伝入(さんよでんにゅう)が享保二年(1717)に、天下泰平・国土安全を祈念するとともに旅人の道中安全を祈願して建立したものです。この場所は東海道の保土ヶ谷宿の通称金沢横町から分岐した金沢・浦賀往還への途中に所在するため、角柱には『是より左の方かなさわ道』『是より右の方くめう寺道』と刻まれ、金沢方面と弘明寺方面への道案内も兼ねています。と書かれています。
北向かい地蔵の名前がついた理由として始め、北(江戸)を指し示すように建立しその後、修繕の時などに地蔵の向きを変えても、いつの間にか北向きに戻っているので「北向地蔵」と呼ばれるようになったと言い伝えがあるそうです。
ここまでが明確化されている『かなさわ・かまくら道』。
今回はここから直進して蒔田、鎌倉街道へ向いましたが、諸説あるようでここから先はどの道が昔のかなさわ・かまくら道かは特定されていないようです。
また、首都高狩場線建設のため旧道が分断され、道がなくなっている状況も特定を難しくしているようです。
相鉄天王町駅から保土ヶ谷、蒔田経由京急井土ケ谷駅まで二時間近く二山越えて歩きましたが、歴史的を伝えるものは『金沢横町の道標』、『御所台地蔵尊と御所台の井戸』『北向地蔵』と少なく、また、宅地化が進み古道を歩いても往時を思わせる風景がなくなっているのは非常に残念です。
次回、保土ヶ谷区内の古道は和田町(和田橋)を起点とした古鎌倉街道を調べて歩く予定。
では。
コメント (2)
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