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歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

茨城県美浦村・信太入子ノ台遺跡 平安時代初期の猿投窯製灰釉陶器の蓋付き骨壺を発掘

2011年05月19日 | Weblog
 美浦村教育委員会は18日、信太入子ノ台遺跡(しだいりこのだいいせき、同村信太)から、蓋付きの灰釉(かいゆう)陶器と須恵器の蔵骨器(骨壺)が無傷で発掘されたと発表した。
 同遺跡は、縄文時代から奈良、平安時代にかけての遺跡で、これまでに「志太」と書かれた墨書土器などが発掘されている。
 無傷で発掘された灰釉陶器は、高さ22cm、最大直径28cm。猿投(さなげ)窯跡群(愛知県豊田市)で平安時代初期(9世紀初め)に焼かれたものとみられる。40歳前後の男性とみられる焼骨が1体分入っていた。
 須恵器の蔵骨器は、高さ22cm、最大直径24.5cm。奈良時代(8世紀中頃)に登り窯を用いて焼かれたもので産地は不明。これにも蓋があったが、別に造られた物だった。蓋には墨で「大伴」の文字が書かれていた。
 今回の灰釉陶器と須恵器の蔵骨器を含む出土遺物は、22日から9月25日まで、同村文化財センター(同村土浦)で開かれる企画展「信太の古代」で展示される。
[参考:茨城新聞、産経新聞、美浦村文化財センターHP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.4.22信太入子ノ台遺跡 「佛」「冨」「志太」などと書かれた墨書土器が出土
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兵庫県たつの市・布勢駅家 868年の播磨国地震の痕跡

2011年05月19日 | Weblog
 貞観地震は平安時代前期の貞観11年(869)に発生。この前年に播磨国地震が起きた。
 当時の「日本三代実録」の記述などから、寺院などが全て倒壊したと推測されている。
  「播磨國言う。地大いに震動す。諸郡の官舍、諸定額寺の堂塔、みなことごとく頽倒す。」
 実際、たつの市揖西町小犬丸にある古代山陽道の遺跡「布勢駅家」では、1988年の調査で、屋根ごと地面にひっくり返ったような瓦が大量に出土し、播磨国地震で倒壊した官舎の痕跡だと推定されている。
 断層の掘削調査から、震源地は姫路市安富町付近で、地震の規模はM7だったと推定されている。
[参考:神戸新聞]

古代における地震の痕跡・影響は、本ブログからもある程度みれる。
 地震の痕跡
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東大阪市、八尾市・池島・福万寺遺跡 弥生時代の水田跡から見つかったコウノトリの足跡

2011年05月18日 | Weblog
 奈良文化財研究所が18日、東大阪、八尾両市にまたがる池島・福万寺遺跡の弥生時代の水田跡で1996年に見つかった弥生時代前期後半(紀元前5世紀)の鳥の足跡が、コウノトリのものと分かったと発表した。
 コウノトリの骨は縄文時代の遺跡で出土例があるが、足跡としては、元総社北川遺跡(群馬県)の6世紀の水田跡で見つかったものより約900年古く最古という。
 今回の発見により、弥生時代の銅鐸に描かれた鳥も従来のツル、サギ説に加え、コウノトリ説が浮上している。
 出土品や足形は21日から大阪府立弥生文化博物館で展示される。
[参考:時事通信、共同通信、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 池島・福万寺遺跡
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桜井市・茅原大墓古墳 4世紀末の「盾持人埴輪」が古墳の外に配置され、古墳を守っていた

2011年05月17日 | Weblog
 桜井市の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(全長約86m、前方後円墳、)で出土した、「盾持人埴輪」(4世紀末)が古墳の外に配置されていたことが市教委の調査で分かり、当時も古墳を外から守る「役割」だったことがはっきりしたという。
[参考・毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.2.24 茅原大墓古墳 4世紀末の最古の人物埴輪・「盾持人埴輪」が出土
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京畿漣川・無等里第2堡塁遺跡 高句麗時代の札甲が出土

2011年05月17日 | Weblog
 ソウル大博物館は17日、京畿漣川郡旺澄面無等里第2堡塁遺跡(연천 무등리 2보루 유적)で高句麗時代ものとみられる鉄製甲冑(갑옷)の札甲(찰갑)を発掘したと発表した。
 これまで、北朝鮮や中国など高句麗の過去の領土で、破片状態で発見されたことはあるが、今回のように一体が完全に実物として出土したことは初めてという。
 また、城壁外側に突出した方形石垣施設の雉城(치)を包含した石垣城壁構造と敷地造成のための石垣築台などが確認された。 堡塁は望楼性格を兼ねた小規模城郭で、韓半島中部一帯では峨嵯山(標高287m)一帯まで高句麗時代堡壘遺跡が多数分布している。
 本遺跡の僅か北には、昨年5月に確認された2000年前の「製鉄の村」・三串里遺跡がある。
[参考:連合ニュース]

2010.5.18 追記
 東亜日報(동아일보)は、「1500年の眠りから目覚めた高句麗鉄甲冑(鎧)」と報じている。
 漣川地域は6世紀前後高句麗、百済、新羅の争奪戦が激しかった所で、無等里堡塁は臨津江を境界に新羅軍と対立して戦闘を行った高句麗軍の城郭基地である。
 今月8日、城郭内主要軍事建物の出入口と推定される門柱そばで甲冑が発見された。 初めは甲冑の首の部分だけ露出したが17日には肩と手首の部分まで露出して完全な甲冑の姿を表わした。 鉄製小札を革紐で綴って作った「札甲」形状である。高句麗兵士の鉄甲冑はこれまで高句麗壁画を通じて、その姿を察したが今回の発掘で正確な形状が分かることになった。 首から肩を覆う部分が雙楹塚(쌍영총)高句麗将軍壁画と似ているとしている。
[参考:東亜日報]

過去の関連ニュース・情報
 2010.5.6 漣川郡中面三串里の臨津江(イムジン河)川辺沖積地帯から2000年前の「製鉄の村」を確認
 2010.5.7 全南高興郡浦頭面吉頭里・雁洞古墳 出土遺物を先端保存処理し復元
 2009.6.3 慶州市 チョクセム地区で5世紀前半頃新羅の完璧な鎧セットが出土
 2011.3.15 金海・良洞里遺跡で弁韓時代の漆弓と三国時代の短甲などが出土
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京都府大山崎町 1989年に「山崎院跡」から出土した銅塊が東大寺・大仏鋳造に使用した成分と同じ

2011年05月13日 | Weblog
 京都府大山崎町教委は12日、行基(668~749)が建てた大山崎町の「山崎院跡」で出土した銅塊の組成が、奈良・東大寺の大仏鋳造に使われた長登(ながのぼり)銅山跡(山口県美祢(みね)市)の銅と酷似していることが分かったと発表した。
 行基は大仏造立に尽力した功績で大僧正に任命されており、大仏完成後、余った銅の一部が褒賞として山崎院に下賜されたのではないかと推測している。
 1989年に同町大山崎竜光で行われた発掘調査で、山崎院跡に隣接した9世紀前半の側溝跡から6枚の円盤状の銅塊、最大径が19・5~22・5cm、厚さ1・9~2・6cm、重さは1480~2680g、が整然と重なりほぼ完全形で発見された。
 昨年、このうち1枚の成分分析を奈良文化財研究所に委託したところ、長登銅山跡の銅に多く含まれるコバルトや錫を検出。鉛同位体比の分布も、同銅山跡がある長門地方の銅に近い結果が出た。
 大仏造立の詔は聖武天皇が743年に発し、開眼供養は752年に執り行われた。
 「行基年譜」によると、山崎院は行基が建てた49院の一つで731年に建立された。太宰府(現福岡県)と奈良を結ぶ山陽道に面し、跡地からは平城宮と同文様の瓦、寄進者の人名が刻まれた約180枚の「文字瓦」や土製仏像、壁画片も出土している。
[参考:時事通信、共同通信、京都新聞]

過去の関連ニュース・情報
 行基関連
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五所川原市・十三湊遺跡周辺で出土した銅板菩薩坐像が8世紀の「押出仏」と判明

2011年05月12日 | Weblog
 青森県と五所川原市教委は、五所川原市の十三湊遺跡か周辺で出土したとみられる銅板の菩薩座像が、奈良時代(8世紀)に制作された楽器を演奏する「押出仏」であることが分かったと発表した。
 押出仏は高さ13・5cm、幅約8cm。菩薩があぐらをかいて座り、右手を上げて、膝に載せた「腰鼓(ようこ)」という横長の鼓を打っている姿が、銅板に浮かび上がっている。 作製された当時は全体に金箔が張られていた可能性が高いという。 押出仏は、唐の時代に中国で始まり、日本では奈良地方を中心に近畿地方で作られ、7~8世紀にのみ作られたという。押出仏の現存例は全国で約80体と少ない。
 周辺の遺跡で平安時代末(12世紀)の銅製の錺(かざり)金具4個も見つかった。 うち3個は唐草模様のデザインが中尊寺(岩手県平泉町)の金具と似ており、平泉を拠点に栄えていた奥州藤原氏の勢力が、十三湊まで及んでいたことを示す初めての史料という。
 押出仏と錺金具は、十三湊遺跡に近接する湊迎寺(五所川原市)や同市の所蔵品で、押出仏の出土時期や場所は不明という。
[参考:東奥日報、河北新報、共同通信、毎日新聞、日テレ青森放送]
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高島市・天神畑遺跡 国内最古・古墳時代前期の大壁造り建物跡が出土

2011年05月12日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が12日、高島市鴨の天神畑遺跡で、国内最古とみられる古墳時代前期(4世紀後半~5世紀初め)の「大壁造り建物」とみられる2遺構が見つかったと発表した。大壁建物は渡来人がもたらしたとみられ、国内で約100カ所見つかっているが、ほとんどが古墳時代後期(6~7世紀)のもの。
 大壁建物は細い柱を骨材とし、壁の中に土で塗り固める。これまでは、5世紀前半のものとみられる奈良県御所市の南郷柳原遺跡の遺構が最古とされていた。
 今回見つかった2カ所の大壁建物跡は、それぞれ縦約12m、横約10m。四方の外壁部に溝(幅約60cm)が残り、深さ約30cmの多数の穴があった。
 溝から4世紀後半~5世紀初めのものとみられる土器(注1)が見つかった。 川の合流地点で、渡来人が祭祀を行ったと推測される。
(注1)読売新聞は韓式系土器の長胴瓶が、中日新聞では建物跡から布留式土器が出土したと報じている。
 現地説明会は15日午後1時から開かれる。
[参考:産経新聞、京都新聞、読売新聞、中日新聞、NHK、滋賀県文化財保護協会]

過去の関連ニュース・情報
 2010.5.20 大津市・南滋賀遺跡 大壁造り建物跡出土
 2010.2.18 大津市・穴太遺跡 古墳時代後期の大壁造り建物2棟などの跡が出土
 「大壁造り建物」
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忠南燕岐郡・羅城里遺跡 百済漢城時代5世紀頃の豪族や中央官僚クラスの集団集落を確認

2011年05月12日 | Weblog
 韓国考古環境研究所は12日、忠南燕岐郡の錦江(금강)北岸の羅城里遺跡(나성리 유적)約10万㎡を昨年5月以来発掘調査した結果、ここが百済漢城時代首長層の集団集落であることを示す証拠を捜し出したと12日明らかにした。
 昨年の調査では、土壙木棺墓から金銅履物、金銅腰帯、木の鞘の刀と青銅に金箔を被せた玉類、金銅製矢筒などの遺物が収集され、韓国最古の氷庫(빙고)跡が見つかっている。
 特に今回の調査であらわれた区画屋敷(구획 저택)18ヶ所と付属建物跡、道路痕跡などは日本考古学界では豪族居館と呼ぶ遺跡に該当すると評価され、古代韓半島と日本列島間の文化交流様相を追跡するのに貴重な資料になるとしている。
 最大長さが34×30mの平面梯形状の区画屋敷や約15×10mの周溝付建物跡などが発見された。
[参考:聯合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2010.11.8 羅城里遺跡 4~5世紀の物流センター 韓国最古の氷庫跡も確認

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調布市・長谷山西光寺 長谷川正明、近藤勇 ゆかりの寺

2011年05月11日 | Weblog
天台宗・長谷山(ちょうこくさん)聖天院(しょうてんいん)西光寺(さいこうじ) (東京都調布市上石原1丁目28-3)

 縁起については、不明、不確かな部分があります。 また、聖天院は「しょうてんいん」なのか「しょうでんいん」なのか確かめていません。 埼玉県日高市にある高麗山聖天院勝楽寺は「しょうでんいん」です。

 西光寺は、応永2年(1396)に石原聖天坊法師(幸承)により開基されたと伝えられています。
 西光寺の前身は、現在の若宮八幡宮(調布市下石原3丁目5−1)の所にあり、聖天院という祈祷が主であった修験寺でしたが、上石原のの移転に伴い、現在の地に移されたそうです。
 寛永年間(1624-1643)、のちの深大寺住職弁盛上人が真言系の寺院から天台宗に改め、深大寺末寺48寺の学頭寺として生れかわりました。
 これにより、慶安2年(1649)11月に徳川三代将軍家光公より14石2斗の御朱印状を賜わりました。
 本尊は本堂に納められている阿弥陀如来三尊です。


上左:山門、上右:仁王門、下左:本堂、下右:観音堂    近藤勇像

 表門を入ると、山門、仁王門、観音堂が北から南に順に並んで配置され、観音堂の東隣に本堂が西向きに建てられています。
 山門の手前左(東)に、平成13年に建立された新撰組局長近藤勇の像があります。近藤勇(1834-1868)は西光寺と同じ武蔵国多摩郡上石原村で誕生しました。 慶応3年(1867)3月、甲陽・鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣しました。その途中、西光寺で休憩し、その時、上石原村の鎮守・若宮八幡神社の方角を向き必勝を祈願したと言われています。しかしながら、勝沼・柏尾山の戦いで官軍に敗れ、二度と故郷へ戻ることはありませんでした。
 西光寺から南へ600mのところに上石原若宮八幡神社があります。 また、近藤勇の生家(宮川家の旧家)跡が西光寺から北へ3kmのところにあります。そこから東へ500mのところには、曹洞宗萬松山龍源寺があり、宮川家および近藤家の菩提寺となっています。


山門の棟には「丸に桔梗」紋がありました。他の建物にも同じ「丸に桔梗」です。 観音堂にだけ「複弁八葉蓮華文」?が使用されています。桔梗紋は真言宗・智積院の寺門ですが、当寺は「丸に桔梗紋」を使用しています。 もとは真言密教の寺であった名残として使用しているのかもしれないということです。


□ 仁王門は2階に銅鐘が吊るされた鐘楼仁王門です。
 市指定文化財に指定されており、調布市HPでは、「市内に残る唯一の仁王門で、寺の記録によると、西光寺中興の大僧都弁雄が宝永年間(1704~10)に建てたと記されており、釣鐘にも弁雄の名前が銘記されているので、この時の再建であることが明らかである」としています。
 釣鐘の銘には、「西光蘭若、(略)、享保二丁酉天十一月吉日 願主 辨雄法印、長谷山聖天院西光寺、當寺務 本願施主 恭辨法印、下野国佐野天明町鋳師大工 長谷川弥市 藤原吉半 橋想兵衛、(略)」とあり、釣鐘は61世弁雄(?-1705)の願いにて享保二年(1717) 62世恭弁(?-1725)の時に完成されたと解釈できます。
 佐野天明鋳物は平安時代の天慶2年(939)に、下野国の豪族であった藤原秀郷が、河内国から5人の鋳物師(いもじ)を連れてきたのが始めといわれ、室町時代になると茶の湯の世界で筑前の芦屋の釜と並んでその名を知られました。
 長谷川弥市作のものは、ほかにも下記などがあります。
  埼玉県加須市・不動ケ岡不動尊總願寺倶利伽羅不動剣 (1739年)
  群馬県太田市鳥山上町・西慶寺梵鐘 (1742)
  群馬県太田市細谷町・教王寺(真言宗)梵鐘 (1748年)
 仁王像については、作者・造年など不明なので触れるのをやめます。

□ 観音堂は、元禄年間(1688~1703)に当寺六二世恭弁和尚の有縁である長谷川五兵衛尉正明(1645-1716)が当地を拝領したことから、報謝のため寄進しました。
 正明は、堂内の本尊・十一面観世音菩薩と三十三身尊像なども寄進しています。
 十一面観音は聖天宮の本地仏としてお祀りしたものと思われます。 安永四年の『新古什物帳』によると、「十一面本尊観音像厨子入壱体」と記載されています。
 調布市HPには、「観音三十三身像は、観音菩薩が人々を救うために、いろいろな姿で現われるという『法華経』の教えを造形化したもので、観音霊場の33か所という数字も、これを表したものです。(略)。 正明が、「天下御泰平国土御安全」のために、元禄11年(1698)に寄進したことが台座裏に記されています。」、と記されています。



 文化七年(1812)の『新篇武蔵風土記稿』(文政11年(1828)江戸幕府編纂)によれば、観音堂のことを、
  「本堂ノ前、西ニ向ヒテアリ、三間ニ、三間半萱葺向拝五尺二九尺椽欄附、長谷山ノ三字ヲ扁ス、佐玄龍ガ筆ナリ、
  十一面観音、木ノ立像ニシテ、タケ一尺八寸其ノ作不伝」
とあり、この額の裏には、
  「元禄十一年(1698)三月、願主六十二世恭弁」
と記されています。 
 和尚はその縁にちなみ、当山をその後、長谷山と称するようになったといわれます。
 佐玄龍とは佐々木池庵(1650-1722)で、加賀の人。 唐様・朝鮮系の書体で知られた能書家です。
 現在の観音堂は昭和59年に再建されたものです。
 正明は、正長(1536-1573)の3男正吉(1569-1608)を初代とし、正信、正相に続き4代目に当ります。正吉は群馬県吉井町の曹洞宗仁叟寺に、正信、正相、さらに正明の次、5代目正武は文京区駒込の曹洞宗吉祥寺に葬られていますが、何故か正明(戒名:多門院殿観明日音居士)は台東区谷中の日蓮宗大行寺に葬られています。
[参考資料:「調布市百年史」昭和43年調布市役所発行、「調布市史」平成2年同編纂委員会発行、天台宗東京教区HP→西光寺、調布市HP→文化財、新篇武蔵風土記稿(文政11年(1828)江戸幕府編纂)]

2012.5.19追記
読売新聞の朝刊で、埼玉県熊谷市の「歓喜院聖天堂」が国宝にとの記事があった。読みは「かんぎいんしょうでんどう」である。



キーワード: 長谷川正長、長谷川正吉
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済州龍潭洞 耽羅国時代の中心遺跡を発掘し多量の遺物が出土

2011年05月10日 | Weblog
 済州市は9日、海岸から約1.5km離れた場所にある龍潭2洞一帯で耽羅国時代住居跡約30基、掘立柱建物跡2基ほか焼成遺構、井戸跡、住居遺構など約100基の遺構を発掘し、多量の遺物が出土したと発表した。
[出土遺物]
■済州で作られた直立口縁土器、円形粘土帯土器、三角粘土帯土器、鉢形土器、赤褐色土器、把手付土器など
■外地産の灰青色打捺文土器、瓦質土器、軟質土器など
■磨製石斧(마제석부)、有溝石斧(유구석부)、石鑿(석착)、孤石(고석)、石棒(갈돌)、碾石(갈판)、石剣(片석검편)、石核(몸돌)、石齋(석재)
などの石器類
■紡錘車(방추차)と高杯形土器(고배형토기)(など土製品
■鉄製三脚灣入鏃(철제삼각만입촉)など鉄製品
■装身具の管玉

 今回の遺跡は、すでに調査された龍潭洞に位置した松菊里型集落遺跡の一部であるが、遺構密集度が非常に高く現れたとして、耽羅国時代の代表遺跡は済州市龍潭洞と三陽洞だが、龍潭洞は当時の中心生活地で、三陽洞は郊外と見ることができるとしている。
[参考:聯合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2010.7.26 慶南金海市・大甘里 青銅器時代の松菊里型住居跡が金海東部地域で初出土
 2008.11.19 佐賀県・みやき町 西寒水四本柳遺跡 九州北部で初の「花弁状住居」跡
 2008.7.1 済州・三陽洞 紀元前後の住居址があふれて出土
 2008.5.26 済州・三陽洞先史遺跡以前の青銅器時代・初期鉄器時代の遺跡を確認
 2008.9.11 東広島市・溝口4号遺跡 松菊里型住居跡出土

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宮崎市・生目古墳群21号墳 5世紀初め、宮崎平野最古の地下式横穴墓の存在を確認

2011年05月09日 | Weblog
 宮崎市教委により発掘調査中の国指定史跡・生目古墳群(宮崎市跡江)で、全長33mの前方後円墳である21号墳の後円部付近に宮崎平野で最も古い5世紀初めに造られた地下式横穴墓が存在することが分かった。
 石敷きの玄室から管玉や小型の臼玉計5点と土師器の高坏2点などが出土した。21号墳には他に12基の地下式横穴墓が確認されているという。
 生目古墳群は、古墳時代の3世紀末から5世紀にかけて作られたおよそ50の古墳が集まり、宮崎市教委が平成10年から発掘調査を続けている。
 宮崎平野で発見された地下式横穴墓は下北方古墳群(下北方町)の5世紀半ばが最も古いと考えられてきたが、これより数十年遡り、発祥とされるえびの市周辺の本県内陸部で造られ始めたのとほぼ同じ時期という。 これまで内陸部の方が、成立が古いとされていたが見直しが必要となる。
 現地説明会が8日午前10時と午後2時から現地で行われた。
[参考:2011.5.5宮崎日日新聞、2011.5.9読売新聞、NHK]

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埼玉県秩父市・秩父神社 家康江戸入府の年8月に当社に参詣、そして2年後に社殿が造営される

2011年05月08日 | Weblog
 一昨日は、前から行きたかった秩父の羊山公園「芝桜の丘」へ行ってきました。
あいにくの曇りで、また、芝桜も見頃を過ぎたということでしたが、それでも遠くからの眺めはきれいでした。


 帰りに、秩父神社へ寄りました。
 秩父神社の縁起・由緒などは、秩父神社のホームページの社報「柞の杜」に詳しく説明されているので、それを見ると勉強になります。

(左)秩父神社南門(一の鳥居) (右)神門

 簡単に興味のあるところを拾ってまとめてみると、秩父神社の創建は、第十代崇神天皇の時代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神を祀ったことが始まりとされています。中世以降は平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めました。当社も妙見社の祭神・天之御中主神を祀っています。 明治時代になって、秩父神社の旧社名に戻りました。
 毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。 また、夏祭(7月19日・20日)として、境内にある摂社・日御碕宮(祭神:須佐之男命)の例祭・川瀬祭があります。 平安時代に流行した祇園祭の流れをくむもので、万治2年(1659年)の文書に川瀬祭の記述が初めて確認できます。

 写真は、(左)本殿、 (中)本殿に見られる紋は「十六菊紋」と「三葉葵紋」、 (右)神額(扁額)

 現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康が寄進したものです。 社殿は本殿・弊殿・拝殿連繁三棟合殿の権現造りで、千木・鰹木がありません。 社伝によると、社殿は嘉禎2年(1235)と永禄12~13年(1569~70)の2度消失したといいます。 昭和41年、旧社殿の跡地を調査したところ、2層に渡る焦土層が確認されています。 また、昭和43年の発掘調査では、地鎮祭のためのものなのでしょうか、大般若経の理趣分経を石に筆で書いた石経が約50個見つかっています。 消失前の社殿は、本殿、拝殿別棟であったようです。

 『秩父大宮妙見宮縁起』に天正18年(1590)の家康の江戸城入城に関する記載があるとし、「8月に相模国を進発し、八王子より多摩、入間、高麗と巡り、比企には越生、滋光、小川から当社を参詣され、(略)」としその後、「鉢形、忍等の城地をご覧になり、鴻巣の宮地の旅館に暫くご滞留され、江戸のお城へ入られた。・・・」(注1)としています。
 家康は、天文11年(1542)壬寅歳(さらに寅の日、寅の刻)生まれ、家康の江戸入府の天正18年は庚寅歳、当社の大斎事は「寅の秘法」で社殿東側の「寅門」より昇殿したとし、寅にこだわったことがうかがえます。
 そして、翌天正19年(1591)に神領57石の朱印状を賜わり、さらに、翌天正20年(1592)に「信玄焼き」による焼失(1570)以来の社殿造営が果たされました。

(注1) 家康が江戸城に入ったのは、天正18年8月1日(八朔)とも書かれており、『秩父大宮妙見宮縁起』の内容と矛盾を生じています。ただし、8月1日入城のことが後から創作されたとの説を肯定すれば話は別です。
 JR府中本町駅東隣で発掘調査が行われている「武蔵国府関連遺跡」の「府中御殿」は天正18年に造営され、家康、秀忠、家光の将軍3代がタカ狩りの際に使ったり、奥州征伐を終えた豊臣秀吉を招いたりしたとされていますが、秀吉を招いたとする史料はすべて後年のもので確実ではありません。 府中郷土の森美術館が発行している「あるむぜあ」No.92(2010.6.2発行)の中で府中文化振興財団・馬場治子さんが書かれたNOTE『府中御殿』で、「(略)史実として秀吉と家康が7月18日か19日に江戸城にいる事が確かめられており、(略)」と記しています。 ただし、出典は書かれていません。 これが間違いなければ、家康は7月に江戸入城し、8月には相模国を進発し・・・・と繋がります。

日光東照宮と同じ、権現造りの社殿にはたくさんの彫刻が施されており、左甚五郎作と伝えられるものがあります。

左甚五郎作と伝えられる「つなぎの龍」
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渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 黒田継高室・圭光院、黒田治之室・瑶津院および黒田吉之の墓

2011年05月05日 | 瑞泉山祥雲寺
 筑前福岡藩黒田家の菩提寺(墓所)は、下記6ヶ所にある。 墓といっても、埋葬されたものでなく五輪塔、石塔、墓石だけの場合もある。 また、一人の墓が数ヶ所に建てられていたり、改葬や合葬も行われているため、詳しくは専門家の調査したものを調べて見るのがよい。
 6ヶ所の菩提寺(墓所)を設立順に並べると下記のとおりとなる。
■臨済宗大徳寺塔頭龍光院 (1608建立)
■臨済宗大徳寺派横岳山崇福寺(そうふくじ) (1612-1624にかけて中興再建) 福岡市博多区千代4丁目7−79
■臨済宗大徳寺派瑞泉山祥雲寺(しょううんじ、旧・興雲寺、1623建立)
■真言宗南岳山東長寺(とうちょうじ) (1623忠之藩主時代に帰依) 福岡市博多区御供所町6-1
■臨済宗大徳寺派佛陀山天真寺(てんしんじ) (1661建立) 東京都港区南麻布3丁目1−15
■青山霊園 東京都南青山2丁目32−2

上記6ヶ所に埋葬されている、筑前福岡藩主および世嗣の生存年、父親、埋葬場所、法号を下記に記す。ただし、埋葬場所は前述の通り不確かである。

筑前福岡藩黒田家
開祖 如水(孝高) 1546-1604 父・職隆 大徳寺塔頭龍光院、崇福寺 法号:龍光院如水圓清
初代 長政 1568-1623 父・如水 崇福寺、祥雲寺(旧・興雲寺)、 法号:興雲院古心道卜
二代 忠之 1602-1654 父・長政 東長寺 法号:高樹院傑春宗英
三代 光之 1628-1707 父・忠之 東長寺 法号:江竜院淳山宗真
四代 綱政 1659-1711 父・光之 崇福寺 法号:霊源院回山紹光
 世嗣 吉之 1682-1710 父・綱政 祥雲寺 法号:乾光院範雄道洪
五代 宣政 1685-1744 父・綱政 天真寺 法号:泰林院義山道勇
六代 継高 1703-1775 父・長清 崇福寺 法号:功崇院章山道善
 世嗣 重政 1734-1762 父・継高 崇福寺 法号:瑛光院瑞嶽紹鳳 (注:黒田家譜では1737年生まれ)
七代 治之 1753-1781 父・一橋徳川家宗尹の五男 崇福寺 法号:鳳陽院典山紹靖
八代 治高 1754-1782 父・多度津藩主京極高慶の七男 東長寺 法号:竜雲院徳巌道俊
九代 斉隆 1777-1795 父・一橋徳川家治済の三男 崇福寺 法号:敬徳院周山紹礼
十代 斉清 1795-1851 父・斉隆 天真寺 法号:乾竜院利山道見
十一代 長溥 1811-1887 父 薩摩藩主島津重豪の十三男 青山霊園
十二代 長知 1839-1902 父・伊勢津藩主藤堂高猷の三男 青山霊園
十三代 長成 1867-1939 父・長知 青山霊園
十四代 長禮 1889-1978 父・長成 青山霊園
十五代 長久 1919-2009 父・長禮 青山霊園

 今年の3月17日に記した、黒田重政室・菊姫(眞含院、1733-1808)の左右に並ぶ墓、第6代藩主・継高室圭光院と同7代藩主・治之室・瑶津院、さらに圭光院の実父・黒田吉之の墓があったので紹介してみる。


写真は、南を向いて後ろから、左から瑶津院、眞含院(菊姫)、圭光院(幸・こう)の墓が並んで建っている。 正面はすぐそばに塀があり、幅が狭い。なぜ、3人の室の墓が並んで建っているのか、いつ頃からなのかはまったくわからない。 それぞれに2つの石灯籠が立ち、墓と石灯籠を石の瑞垣で囲んでいる。その正面には手水鉢が置かれている。
 墓石には、それぞれ下記が刻まれている。
 ■安永戊戌七年(1778) 五月十七日    圭光院殿明心宗悟大姉
 ■文化五戊辰年(1808) 三月十七日    眞含院殿實高慈清大襌定尼
 ■文政三庚辰年(1820) 十一月二十四日 瑶津院殿瓊山妙瑩大襌定尼

写真は左が圭光院墓、右が瑶津院墓。
 継高(1703-1775)室: 黒田吉之女(黒田宣政の養女)・幸(圭光院、?-1778)
 重政(1734-1762)室: 薩摩藩主島津継豊女・菊姫(眞含院、1733-1808)
 治之(1753-1781)室: 榊原政永女・幸姫(瑶津院、?-1820)

 眞含院こと菊姫は6代藩主継高の世嗣・重政と結ばれ1男2女を生むが、長女・屋世(治之室)以外は夭折。継高は一橋徳川家・初代当主・徳川宗尹の五男・治之(1753-1781)を養嗣子に迎え屋世と結婚するが、屋世も11歳で死去した。重政自身も1762年に継高よりも早く亡くなってしまった。そのため、後継者問題で苦労した。 同じように治之も嗣子がないまま30歳で亡くなっている。 3人の室(女性)はともに長生きをしたが、後継者問題では苦しんだことであろう。


 さて、境内の墓地の秋月黒田藩の南隣に背の高い墓があり、「寶永七庚寅歳(1710) 七月初三日 乾光院殿中大夫前隅州刺史範雄道洪大居士」とあり、調べると圭光院の父・黒田吉之の墓とわかった。圭光院の墓を向いて(東向きに)建っているが、30mほど離れているだろうか。(上写真右側)
 また、黒田吉之の墓の左隣に五輪塔形の墓があり、かなり風化して見え難くなっているが、「寛永第五(1628)戊辰歳 七月廿六日 梅渓院殿天秀妙貞大禅定尼」と刻まれている。 松平忠良の娘で秀忠公の養女となって二代藩主・黒田忠之(1602-1654)に嫁いだ久姫の墓である。(上写真左側)

過去の関連情報
 瑞泉山祥雲寺

キーワード:浄岸院(竹姫)
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釜山広域市加徳島新港予定地から、新石器前期代の人骨14体と玉製品4点が出土

2011年05月04日 | Weblog
 韓国文物研究院は3日、釜山江西区城北洞加徳島(부산 가덕도)の釜山新港浚渫土投棄場予定地一帯を発掘した結果、今年2月の発掘遺物と同じ新石器前期代の人骨14体と玉製品4点、完形の黒曜石鏃(注1)を収集したと発表した。
 人骨の上に胸大の石を乗せているものが発見された。
 また、前回1点だけ出土した玉製品(注2)が4点も出土し、遼東半島を中心にした紅山文化(BC 5000年~BC 3000年)との緊密な交流の証拠とみている。
(注1)完形の黒曜石の矢尻が出土したことを触れているのは、국제신문国際新聞(남차우 기자)
(注2)玉玦(옥결、けつ状耳飾)が出土した。
[参考:聯合ニュース、国際新聞국제신문]

過去の関連ニュース・情報
 2011.2.17 釜山広域市加徳島新港予定地から、8千年前の新石器時代共同墓地を確認し、人骨26体が出土
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