歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良県三郷町・勢野東遺跡 縄文時代草創期の石器工房跡か、2万点の石器が出土

2011年05月27日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所と三郷町教委が27日、奈良県三郷町の勢野(せや)東遺跡で縄文時代草創期(約1万5000年前)の石器工房跡が見つかったと発表した。
 狩りで使う槍先形尖頭器を作っていたとみられ、石器約2万点がまとまって出土した。この時期で同じ石器が大量に出土した遺構はこれまでに東京、新潟、長野で計4カ所確認されているが、西日本では初めてという。
 石器は殆どが1cmから十数cmまでの破片で、製作過程の破片や失敗作とみられる未完成品ばかりが残されていた。
 出土状況から、川べりで石のハンマーを使って石器の形を整えていたとみられる。
 石材は、9km南の二上山で採れるサヌカイト(安山岩の一種)とみられる。 また石材の「チャート」で作られた槍先形尖頭器も1点出土し、奈良では採れないため、岐阜県や兵庫県丹波地方などの産地と交流していた様子がうかがえるという。
 石器は6月1~9日、三郷町役場隣の町文化センターで展示される。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞]

勢野東遺跡


キーワード:勢野東遺跡
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宇治市・旦椋遺跡 円墳や竪穴住居跡を発見、大規模な群集墳の可能性

2011年05月27日 | Weblog
 宇治市は26日、古墳時代の豪族、栗隈氏(くりくまし)の拠点と推定される旦椋遺跡(あさくらいせき、宇治市大久保町)の発掘調査で、古墳時代後期(6世紀後半)の小型円墳(直径18~20m)1基と飛鳥時代(7世紀)の竪穴住居跡6棟が見つかったと発表した。
 円墳や住居跡は、室町~江戸時代に繰り返されたとみられる洪水で土砂が堆積し、地表から約2m下から出土した。
 円墳は6基目となる。 古墳の分布範囲は旦椋神社(同市大久保町)が北限とみられていたが、今回は神社の北西側で出土したため、古墳の造られた推定範囲が、今回の発見や一帯の地形から従来の倍に広がる可能性があるとみている。
 現地説明会は28日午前10時~正午に行われる。
[参考:京都新聞]

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渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 金森家の菩提寺として

2011年05月27日 | 瑞泉山祥雲寺
 再度、渋谷区広尾の祥雲寺に行ってきました。 いつもは、朝早いうちに行くのですが、今回は夕方近くからでした。
 カラスに襲われました。 といっても威嚇ですが、頭上すれすれをめがけて5、6回飛んできて威嚇されました。
 祥雲寺の墓地は、北側3分の1くらいが丘のようになっていて、多少木が生えており、もしかしたらそこに巣を作っているのかもしれません。 夕方に行かれる方は是非気をつけてください。

 さて、祥雲寺および京都・大徳寺と金森家の関係について、少々調べました。

 まず、大徳寺との関係は、資料「大徳寺の歴史」(山田宗敏編 平成5年5月 毎日新聞社発行)によると、
■ 金森兵部卿法印素玄五郎八長近(1524-1608) 飛州(飛騨)高山城、三万八千石、織田信長の冥福を薦るために、大徳寺に金龍院を剏(創)る。(法名:金龍院素玄要仲玄英)
 曾孫長門守頼直(1621-1665) 飛州に大隆寺を建てる。禅海俊公を開祖とする。
 長近の孫・飛騨守重近(1584-1657)は病と称して辞職する。 卜居し、京都にて剃髪し入道となる。 名を宗和といい、茶会を能くし、世に名声あり。
■ 金龍院 慶長年中、金森五郎八長近が松嶽紹長を請じて造立する。 松嶽紹長は故あって山門を擯出したため、傳叟を請じて住持とした。天瑞の西にあり。
■ 妙高山大隆寺 某年、飛州金森長門守頼直は、傳叟を嗣ぐ禅海(宗俊)禾上を開祖として高山城に建立する。 2世は大陰禾上。金龍院に属する。(注2)
のようになります。
(注1) 金龍院は、文禄元年(1592)に建立されましたが、明治22年に廃寺となり、同じ大徳寺の龍源院に統合されました。
(注2) 元禄5年(1692)、6代藩主金森頼時が出羽国上山藩(現山形県上山市)に移封となると衰退し、安永7年(1778)に大而宗龍が曹洞宗の寺院として再興。 境内には金森頼直夫妻とその子の墓碑がある。

 金森家は江戸においては、広尾にある大徳寺派・瑞泉山祥雲寺を菩提寺としました。
 先日、ブログ・「飛騨の歴史再発見!」で金森氏の戒名がたくさん書かれていたので、それを書かれた徳積善太さんにリンクさせていただくことをお許しいただいて、それを元に今回、祥雲寺を再訪問したしだいです。
 金森氏と祥雲寺の関係

 もとは、いくつかのあるいはたくさんの墓が並んでいたと思われますが、どうやら今は少なくとも2つに集約されてしまっているようです。 わかっている2つの墓石(塔)には下記のように刻まれています。
 

左: 源姓金森累世之塔
右:(表)源姓土岐金森累世父母霊
  (裏)延享二乙丑年(1745)八月十二日兵部侍部源頼錦建
  (表下部基礎石)覚樹院殿前兵部侍郎茅山清藍大居士

 金森頼錦(1713-1763)は1736年に家督を継いでいますので、その9年後にこの墓塔を建てました。 藩内の騒動により、1758年改易され盛岡藩の南部利雄に預けられた後、宝暦13年(1763年)6月6日に死去しました。 墓の下部基礎石に小さく刻まれた戒名は、恐らく死去後に刻まれたと思いますが、「茅山清監」の部分は、「茅」は「芳」あるいは「第」、「清」は「青」と書かれているものがあります。 先の「金森氏と祥雲寺の関係」では「第山清藍」としています。 「飛騨遺乗合符」(桐山力所編纂)の「金森家大系図」では「芳山清藍」としています。ちなみにWikipediaでは「芳山青藍」としています。

追記2011.6.17 「金森氏雑考」(大正十年十一月 陸軍中将・押上森蔵著)によれば、金森頼錦が亡くなった盛岡の地での墓臺石には、「『樹覚院殿兵部侍郎茅山清藍大居士宝暦十三年六月六日』と彫し」と記しています。樹と覚が反対になっていますが、「茅山清藍」としています。

追記2011.1017 前述の記載内容は、文面の流れから盛岡の地での墓石のものかと判断したが、実際に盛岡の地・法泉寺に赴いてみるとまったく違った内容であった。それについては、改めて記すことにする。

本ブログ内の過去の関連情報
 瑞泉山祥雲寺
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京都市中京区・平安京右京三条一坊六町跡 「百花亭」建物跡?が出土

2011年05月27日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所が26日、平安京右京三条一坊六町に当たる場所(中京区西ノ京星池町17番地59他)で平安時代前期とみられる建物跡が見つかったと発表した。 藤原良相(よしみ)(813-867)の邸宅「百花亭」があったとされる場所で、百花亭を構成した建物跡の可能性があるとしている。
 掘立柱穴跡が複数出土、建物は南北6・3m、東西4・2m以上で、庇を支えた柱跡もあった。出土した土器から9世紀の建物跡と判断した。
 藤原良相は、藤原良房の弟で右大臣などを務めた。 邸宅は桜が多く植えられていたことから「百花亭」と呼ばれ、清和天皇が行幸した記録『三代実録』が残る。
 『三代実録』巻十二貞観八年(866)三月廿三日己亥
 鸞輿幸右大臣藤原朝臣良相西京第。觀櫻花。喚文人賦百花亭詩。預席者册人。四位四人。五位八人。六位廿八人。天皇御射庭。賜親王以下侍從以上射。左右近衛中少將預焉。中鵠者賜布。伶官奏樂。玄髻稚齒十二人遞出而舞。晩奏女樂。歡宴竟日。賜扈從百官祿各有差。夜分之後。乘輿還宮。

 なお、「百花亭」の候補地は一坊六町のほかに一坊四町、十三町などもある。
 現地説明会が28日午前10時から開かれる。
[参考:読売新聞、京都市埋蔵文化財研究所HP]

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福井県若狭湾 400年前の地震と津波による大きな被害を文献で確認

2011年05月27日 | Weblog
 福井県の若狭湾で、約400年前、地震と津波により大きな被害で出たことを示す記述の残る文献が複数あることが分かった。
 敦賀市の依頼を受けて、敦賀短期大学(敦賀市)の外岡慎一郎教授(日本中世史)が調べたところ、京都の神社の神主が戦国~江戸時代につづった日記「兼見卿記(かねみきょうき)」で、天正13年(1586)に起きた「天正大地震」で「丹後、若狭、越前の海岸沿いで、家々が波に押し流されて人が死亡した」といった内容の記述があった。前日に「夜に地震があった」と記されていることから、地震による津波を記録したものと推定できるという。
 またポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが書いた「日本史」にも同じ天正大地震の記述として、「山と思われるほど大きな波に覆われ、引き際に家屋も男女もさらっていってしまった」といった記述が見つかった。
[参考:時事通信、共同通信、NHK、日経新聞]

 また、2006年11月1日付共同通信の記事で、「福井県沖断層群で大地震が起きた場合、若狭湾沿岸で津波が3mを超す恐れがあるとのコンピューターシミュレーション結果を、神戸大の石橋克彦教授らがまとめ、名古屋市で開催した日本地震学会で発表した。」内容の記事があったので付け加えておく。
 要旨: 日本海側の津波被害を伴う地震は新潟地震(1964年)をはじめ新潟以北に多く、それより西側では具体的に想定されてこなかったと。 若狭湾沖約100kmにある問題の断層群は、断層3本からなり全体の長さは約80km。付近には西北西側と東南東側から圧縮する力がかかっており、2000年には断層群東端でマグニチュードM6・2の地震も発生した。
 もし、長さ80kmの断層が4mずれるM7・6の地震を想定すると、島根半島や隠岐諸島から能登半島までの広範囲で、津波は1m以上に。このうち若狭湾内の多くの地点で3m以上となるという。
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岡山県・鹿田遺跡 4年前に出土した木製品が平安時代後期の猫の操り人形と判明

2011年05月27日 | Weblog
 岡山大埋蔵文化財調査研究センターは26日、同大鹿田キャンパス(岡山市北区鹿田町)にある鹿田遺跡(岡山市北区鹿田町)で、ネコの頭部をかたどった木製の操り人形が出土していたと発表した。平安時代後期の11世紀中頃のものとみられ、これまでに確認された動物の操り人形では、やはり同遺跡で見つかった14世紀のサルを約300年遡る最古のものという。
 鹿田遺跡は、古代から中世の権力者藤原摂関家が領有した荘園「鹿田荘」の跡で、木製品は2007年度の発掘調査で井戸跡から出土した。
 ネコの頭部は長さ、幅とも約6cmで、ウツギ属の木のこぶを利用して作られ、加工された目や鼻の跡が残っていた。2カ所に径約5mmの穴が開いてあり、木串を差し込んで操作したとみられる。
 傀儡子(くぐつし)と呼ばれた芸能集団が使っていた可能性が高いという。
[参考:共同通信、山陰中央新報]
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