歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

御所市・秋津遺跡 縄文時代のノコギリクワガタがほぼ完全な形で出土

2011年05月24日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が24日、御所市の秋津遺跡で、縄文時代晩期後半(2800~2500年前)のノコギリクワガタがほぼ完全な形で出土したと発表した。 昆虫は腐食しやすく、クワガタの全身が発見されるのは縄文時代に限らず初めて。
 橿考研によると、縄文時代のクワガタは東京都東村山市の下宅部遺跡(しもやけべいせき)などで一部(大あご)が見つかっているが、全身の出土例は確認されていないという。
 全長6・3cmのオスで、小川の南岸に生えていたアカガシの根っこに付着した泥の中から見つかった。大雨などの影響で死後すぐに泥で真空に近い状態でパックされたため良好に残ったとみられる。
 アカガシのほかにもクヌギやコナラなど食用の実が成る樹木の雑木林が小川の南側で見つかり、北側では約1千点もの縄文土器の破片も出土した。
 出土したクワガタは橿考研付属博物館(橿原市畝傍町)の特別展で25日~6月12日に展示される。
[参考:産経新聞、共同通信、読売新聞、NHKニュース]

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慶南昌寧郡・霊山古墳群 新羅の影響が濃厚な伽耶古墳を発掘

2011年05月24日 | Weblog
 国立伽揶文化財研究所は24日、慶南昌寧霊山古墳群(창녕 영산고분군)の発掘調査の結果、新羅の影響が濃厚な5世紀初期頃の横口式石室墳(앞트기식굴방무덤、횡구식석실분)1基と各種土器類や馬具類など遺物が多数発見されたと発表した。
 墓は直径15m、高さ2.9mで、内部から長軸4.5m×短軸1.2m×高さ1.6mの細長方形の石室が現れた。
 石室は木棺に納めた主被葬者の死体を安置する空間と、副葬品を別に置く副葬空間に区分されている。
 埋葬空間では遺物の大部分が盗掘されていたが、副葬空間では各種土器類と馬具類、そして殉葬人骨片等古代埋葬文化の様相を知ることができる資料が多数収集された。
 この石室墳周辺では、中小型の木槨墓(덧널무덤)と石室墓(돌방무덤)など各種墓11基が確認された。
 今回霊山で初めて発掘された中大型墳規模の横口式石室墓は、築造方法と出土遺物などからみて、昌寧地域では最も早い5世紀前半代の石室墓とみられ、昌寧地方には新羅の影響力が遅くとも5世紀初期までに及ぼしたという事実が確認された。
[参考:聨合ニュース]

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近江八幡市・荘厳寺 空也上人像(重文)の胎内に納入品

2011年05月24日 | Weblog
 滋賀県立琵琶湖文化館は23日、近江八幡市安養寺町の荘厳寺(しょうごんじ)が所蔵する「空也上人像」(国指定の重要文化財、高さ約84cm)をX線CTスキャン(断層撮影)で調査したところ、像の胎内にこれまで存在が知られていなかった丸められた冊子のようなもの(長さ約20cm、直径約5cm)があることが分かったと発表した。
 像は一木割矧造りで、短い衣を着て草鞋(わらじ)を履き、胸には念仏時に打ち鳴らす鉦(かね)を下げ、右手には鉦を叩くために用いる撞木(しゅもく)、左手には鹿角杖(わさづえ)を持つ。 平安時代に念仏を唱えて全国を回った姿を伝える数少ない鎌倉時代の制作の彫刻像とされる。
 空也上人(903-972)の代表的な肖像彫刻としては、京都の六波羅蜜寺に「空也上人立像」(高さ117cm、木像、鎌倉時代、康勝作)が伝わっている。
 昨年、九州国立博物館で開かれた「湖の国の名宝展-最澄がつないだ近江と太宰府-」に出展された際に調査したところ、腹部から紐でくくられた冊子のようなものが画像で確認された。
 納入品は、腐食などがほとんどみられないことから比較的新しく、大正12年(1923)に像が京都国立博物館で解体修理された際の修理の経緯を記した修理願文か寄付者の名前などを書いた結縁交名(けちえんきょうみょう)ではないかと推測される。 具体的な中身は次の解体修理が行われる100~200年後までお預けという。
[参考:京都新聞、産経新聞、滋賀県立琵琶湖文化会館HP]

備考:
浄土宗 別意山荘厳寺 (べついざん しょうごんじ) (滋賀県近江八幡市上野町)
 元亀2年(1571)に織田信長の天台宗寺院の焼き討ちに遭った。それまでは、安養寺という天台宗の寺院であった。
 慶長9年(1604)に浄土宗の朝誉(ちょうよ)が堂を建て、荘厳寺と改称した。 近くにある、国の重要文化財である石造五重塔は、鎌倉時代のものであるが、安養寺の遺物とされている。

安養寺廃寺
 荘厳寺の東南700mに安養寺廃寺がある。 白鳳期から中世末期までの寺院で、「輿地志略(よちしりゃく)」は「相伝、往古安養浄土寺と号する大伽藍地にて、当村悉く其境内なりといふ。今石仏石塔等散在す其の遺跡なり」と記している。
 白鳳期の蓮華紋重弁軒丸瓦片や瓦堆石層が見つかっており、地名に荘巌坊(しょうごんぼう)が残っているという。 また、近くの安養寺遺跡からは単弁八葉蓮華文軒丸瓦も出土している。
 荘巌寺所蔵の空也上人立像以外の、本尊・木造釈迦如来立像(重文) 木造聖観音像(重文)も当寺の遺品と伝えられている。

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