留用された日本人

2020年10月07日 | 歴史を尋ねる

 前回の蒋介石の日記に、共産軍に日本人捕虜三万人が参加していた、という記述が気になり、事実関係を当たることにした。今回の表題は、日中国交正常化三十周年を機に企画された、NHKハイビジョンススペシャルセレクション番組のネーミングから頂いた。この番組のサブタイトルに「私たちは中国建国を支えた」と。

 1949年10月1日、30万人が喜びに沸き立つ北京・天安門広場。毛沢東は高らかに中華人民共和国の建国を宣言した。その直後、人民の前に初めて勇姿を現した中国空軍機に、人々は驚嘆の声を上げた。内戦を陸軍だけで戦い抜いてきた共産党にとって、空軍創設は悲願であり、建国と同時にその快挙を成し遂げたことは誇りですらあった。しかし、この創設に関わったのが留用された日本人だった事実は、あまり知られていない。

 敗戦の翌年4月から始まった中国からの日本人の集団引揚げは、1948年8月15日、葫蘆島からの高砂丸を最終船として終了した。この時点で、旧満州に残されていた日本人は6万人以上といわれ、奥地で暮らしていて帰国船に間に合わなかった民間人、残留孤児や婦人、抑留された軍人などと考えられていた。しかし、残された者の中に、敗戦後すぐに共産党軍から要請を受け、革命に参加した日本人たちがいた、その数は八千人とも一万人ともいわれ、多くは旧満州で働いていた技術者であり、職域は鉄道、医療、工場など多岐に亘った。帰国を目の前にしながら好むと好まざるとにかかわらず残留することになり、戦後八年以上も中華人民共和国建国の協力者として働いた。中国では彼らを国際友人と呼び、日本では留用者と呼ぶ、と。NHK取材班は、主として東北地区の中国共産党に協力した或いはさせられた留用者の声を取材して、番組を構成している。しかし当時の国民党支配地域と共産党支配地域を含む留用者問題の全般に対する学術的研究はいまだに空白状態だと、鹿 錫俊氏は研究ノートで指摘している。要因として、中国側の政治的原因として、国共両党とも、かっての敵国人を中国の内戦協力者として使用することは恥ずべきことであった。互いに留用の事実を非難し、双方ともその真相を封印したままであった。日本側に事情として、東西冷戦と日中間の国交断絶状態の中、中国共産党への協力者として、警察にもマークされた。自己防衛のため中国での経歴を言わずにしていた。また台湾では国民政府は長年その閲覧を禁止していたし、大陸では人民解放軍に流用された日本人資料を秘密にし、文化大革命期に散逸されたものもあった。さらには中国人研究者も日本人研究者も留用問題の研究をタブー視してきた、と鹿氏は解説する。

 比較的全貌を理解しやすいのは、ソフトバンクオンラインに連載された松本利秋氏の記事:「日本人が知らない「終戦」秘話[1](https://online.sbcr.jp/2015/07/004082.html)「中華人民共和国建設に協力させられた2万の留用日本人」が良い。事実関係や背景も含めて、よく纏まっている。ただ残念ながら、蒋介石が言う、日本人捕虜三万人が参加していたという、事実関係は不明のままだ。共産軍側を非難するプロパガンダかもしれないが、かといって、蒋介石がやみくもに言っているとも思われない。ここでは大東亜戦争メモランダムとして、山下輝男氏が掲載している「第七十四話 建国と友好に寄与した被留用日本人」を参考に、データ的なものを掲載しておく。

1、復員・引揚げ政策:軍人はポツダム宣言9条に基づき、復員することになっていた。まず武装解除と降伏文書調印が必要で、南京で降伏調印が行われた。100万を超える日本軍人は帰還までの間各種労務に従事しながら待機した。一方、一般邦人について9条は触れていないが連合国軍の人道的取扱いによって帰還することができることになっていた。しかし、350万を超える在外一般邦人(中国49万、満州155万、台湾34万、関東州22万)には連合国の命令がなく、混迷した。日本政府は600万人もの引揚者による国内の混乱を恐れもあり、原則として海外在留者は現地定住を方針とした。しかし、米中の送還責任者は日本人の長期定住を懸念した。日本の影響力維持を恐れる米、財政負担を懸念する中国の考え方があり、定住方針は事実上挫折した。居留民の早期返還の一方、技術者や医療関係者の留用が国民政府によって強く望まれた。日本資産の接収のみならず、技術力をも建国に活用しようと、連合国の全ての日本人引揚げ決定はあったが、中国の強い要望で日本人技術者に限り残留が許されることになった。

2、留用者数: 台湾:台湾経済を考慮して、家族を含む2.7万人。 旧満州:1万6700人余り、旧厚生省発行「援護50年史」によると中国共産党側だけで留用者は家族を含めて3万5千人は下らないと推定。国民党が留用した日本人は約4万5千人。共産党側の統計(東北のみ):武器をつくる部署に約千人、衛生部に約七千人、鉄道や工場に約三千人など、少なくとも計2万3千人を留用。

3、特異な事例:国民党系の閻錫山の勧めに従い、山西省日本軍第一軍の多くの将兵が除隊し、閻錫山軍に合流。 元関東軍第四錬成飛行隊の林弥一郎少佐とその部下は、共産党軍の空軍創設養成受諾、NHK番組の冒頭シーンに繋がる。

4、日赤による被留用日本人帰国活動:林少佐の帰還が認められず、また被留用者の日本帰還の心情を察した日赤は帰国に向けて活動を起した。1953年3月から1958年まで帰国事業が続いたが、このうち200人が内戦や事故で帰らぬ人となった。

 

 


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