敗戦国日本が分断されず、なぜ朝鮮が分断されたのか

2020年10月22日 | 歴史を尋ねる

 日本では歴史的テーマとしてほとんど取り上げられることはないが、分断国家、韓国では大変重要なテーマである。敗戦国ドイツは分断されたが、敗戦国日本はなぜ分断を免れたか。筋違いにも朝鮮が代りに分断された、と。韓国、北朝鮮の人が言うのは分かるが、日本の高名な歴史学者、和田春樹東京大学名誉教授は、「日本の本土のアメリカの単独占領と朝鮮の分割占領と千島のソ連占領とは、ワンセットで決まったのであり、切り離せないものなのである。日本が単独でアメリカに占領されるという事態になったのは、朝鮮が分割占領されたが故であり、千島がソ連に占領されたが故である、考えてみれば、朝鮮の分割占領の犠牲の上に、アメリカによる日本の単独占領があったということは明らかである」と。明らかでないから、明らかであると強弁している。ここでは、分断が生まれる経緯を、具体的事実関係に遡って、見るしかない。ウィキペディアに頼るのが一番、「連合軍軍政期(朝鮮史)」が扱っている。

 朝鮮は1910年から朝鮮総督府が統治する日本領朝鮮となる一方、一部の朝鮮人朝鮮独立運動を行っていた。これに対し、当時の国際社会日韓併合条約による韓国併合を承認する一方、一部の国々は独立運動団体・関係者への支援・取り込み工作を行っていた。その為、1941年大日本帝国第二次世界大戦へ参戦する時点で、中華民国大韓民国臨時政府光復軍を財政・人的に後援し、ソビエト連邦元東北抗日聯軍の朝鮮人将兵を取り込んで日本との戦闘を想定した民族旅団を編成していた。大戦の戦局が連合国側の優勢となった1945年、カイロ宣言で「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈(やが)テ自由独立ノモノタラシムル」ことを宣言した1945年2月ヤルタ会談で米・英・ソ連首脳はソ連対日参戦に関する極東密約(ヤルタ協定)を締結し、その中で戦後朝鮮を当面の間連合国四ヶ国(米・英・華・ソ)による信託統治下に置くことを取り決めた。1945年8月9日、ヤルタ協定の基づいてソ連は対日参戦を行い満洲国及び朝鮮・咸鏡北道へ侵攻を開始する。8月14日に日本政府はポツダム宣言を受諾し降伏する旨を連合国側に通告するが、ソ連の侵攻は9月2日日本が正式に降伏するまで続き、満州南樺太千島列島及び朝鮮半島北緯38度線以北(北朝鮮)を占領するに至った。8月13日、アメリカの駐モスクワ特使ポーリと駐ソ大使ハリマンは、ソ連が朝鮮半島に野心を持っていることを理由に、朝鮮及び満州の速やかな占領をトルーマン大統領に建議した。しかし、8月14日に日本政府からポツダム宣言受諾の通告を受けた時点で、既にソ連は満州と朝鮮北部に進駐を開始しており、主力がフィリピンにあるアメリカ軍を両地域へ即時投入することは非現実的との理由から、この提案は黙殺された。ただし、朝鮮半島をうやむやのうちにソ連に占領されるのを防ぐため、国務・陸軍・海軍調整委員会は「北緯38度線で米ソの占領地域を分割する」という案を策定し、8月14日にトルーマン大統領の承認を受けた。この案はソ連に提示され、8月16日に同意の返答を受けた。8月17日には一般命令第一号によって『38度線以北の日本軍朝鮮軍)は赤軍(ソ連軍)に、以南はアメリカ軍に降伏する』ことが決定された。  

 朝鮮総督府は政務総監の遠藤柳作が治安維持のために朝鮮人への行政権の委譲を決め、朝鮮独立運動家呂運亨に接触を図っていた。そのため、玉音放送を聞いた呂運亨はその日のうちに安在鴻らとともに朝鮮建国準備委員会(建準)を結成し、組織的な独立準備を進めた。その後、9月2日に日本政府が降伏文書に調印(正式に日本が降伏)したのを受け、呂運亨は李承晩を大統領、自身を副大統領とする朝鮮人民共和国の建国を9月6日に宣言した。だが、建準は独立の方針を巡って右派民族主義者)と左派共産主義者)が対立して混乱した上、当時中国で活動をしていた大韓民国臨時政府関係者も「朝鮮の正統な政府」としての自負から朝鮮人民共和国への協力を拒否した結局、アメリカ及びソ連は朝鮮人が自主的に樹立した政府に対して一切の政府承認を行わず。

北朝鮮の国家建設の場合はどうであったか。1946年1月から米ソが朝鮮での信託統治実施を巡って共同委員会を開く中、北朝鮮では全体を統括する朝鮮人の行政機関として2月8日に北朝鮮臨時人民委員会が設立され、1947年2月20日には正式な行政機関として北朝鮮人民委員会に再編成された。その後、10月20日に米ソ共同委員会が最終的に決裂すると、人民委員会は11月18日に第3次会議を開催し、憲法制定委員会を樹立して北朝鮮独自の憲法制定に着手した。

1948年に入り南朝鮮単独で総選挙を実施する動きが起きると、人民委員会は南朝鮮労働党を通じて選挙の妨害活動に出た。だが、5月10日南朝鮮単独総選挙が強行されたため、人民委員会は南側単独の新政府に対抗する別個の政府樹立を急いだ。8月25日、南北朝鮮を対象とした代議員選挙を行って最高人民会議を設立し、9月3日には朝鮮民主主義人民共和国憲法が公式採択された。そして、9月9日に金日成を首班とする朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣布されて、社会主義政権が発足した。10月12日にソ連の承認を受けることでソ連軍政は終結した。結局は、ソ連軍政下の国家建設であった。

南朝鮮の建国の場合はどうであったか。1945年12月、ソ連のモスクワで開催されたモスクワ三国外相会議にて、朝鮮を米・・ソ・4か国の信託統治下に最長5年間置くことが決定された。だが、東亜日報が『ソ連、信託統治を主張 アメリカは即時独立を主張』と誤報したことで、信託統治に反対(反託)する大韓民国臨時政府系の右派(民族主義派)と信託統治に賛成(賛託)する呂運亨ら左派(社会主義派)との対立が激化した1946年1月7日李承晩が信託統治の反対声明書を発表、その直後から京城にて開催された第一次米ソ共同委員会は反託派の扱いを巡って米ソが対立したため同年5月8日に無期限休会となった。事態を打開しようと中道左派中道右派による左右合作運動が行われたが、左右両派から暗殺などのテロによる妨害を受けて運動は瓦解した。米ソ対立を受けアメリカ軍政は共産主義勢力への取り締まりを強め、46年5月8日南朝鮮警察朝鮮共産党本部ビルを捜索させ、党員による朝鮮銀行100圓券の大量偽造が発覚したと5月15日に発表した。アメリカ軍政はこれを機に共産党の非合法化に転じ、9月には朴憲永などの指導者に逮捕状が出たため、朴憲永は北朝鮮臨時人民委員会が樹立されていた北朝鮮に越北し、平壌から南朝鮮労働党(南労党)を指導して右派との抗争を行わせた1946年10月1日大邱府で南労党の扇動を受けた南朝鮮人230万人がアメリカ軍政に抗議して蜂起し多数の犠牲者が出た(大邱10月事件)。この頃から、南朝鮮では南朝鮮国防警備隊(後の韓国軍)や南朝鮮警察による共産勢力取り締まりが苛烈になり、極右団体の西北青年会による白色テロも公然と行われた。

信託統治問題をめぐって1947年5月から第二次米ソ共同委員会が開かれたが、10月20日に再び無期限休会となった。そのため、米国は米ソ共同委員会での問題解決を一方的に断念し、朝鮮独立問題を国際連合に移管した。米国は「国連の監視下で南北朝鮮総選挙を実施するとともに、国会による政府樹立を監視する国連臨時朝鮮委員団を朝鮮に派遣する」という提案を国連総会に上程可決された。これを受けてUNTCOKは翌1948年1月に朝鮮入りし、南朝鮮で李承晩金九など有力政治指導者との会談や総選挙実施の可能性調査などを行なった。UNTCOKは1948年2月20日に国連小総会へ「国連臨時朝鮮委員団が『任務遂行可能な地域』(南朝鮮)での単独選挙実施案」を提出、賛成多数で可決された。国連の議決により、5月10日にUNTCOKの監視下で南朝鮮単独で総選挙が実施されることが決定したが、それは新政府の統治が南朝鮮のみに限定され、朝鮮の南北分断が固定化されることを意味していた。そのため、朝鮮の即時独立を主張する反託派も、南朝鮮単独政府の樹立を認める李承晩(韓国民主党)派と南北統一政府樹立にこだわる金九(大韓民国臨時政府)派に分かれ、このような政治的対立から南朝鮮は騒乱状態となりストライキや主要人物の暗殺が相次いだ。

アメリカ軍政・韓国民主党の単独政府樹立強行の動きに対して、1948年3月12日には独立運動家の金九金奎植金昌淑趙素昻らが南朝鮮の単独総選挙反対声明を発表し、同じく南部単独選挙に反対する北朝鮮人民委員会と協調する動きを見せた。また、同年4月3日には単独政府の樹立を認めない済州島民や左派勢力などによる済州島四・三事件が起きるが、アメリカ軍政は南朝鮮国防警備隊・警察・西北青年会などの右翼を朝鮮半島から送り込んで反乱住民の鎮圧を図った。その際、鎮圧部隊による島民虐殺が多発したため、少なくない島民が難を逃れようと日本へ密航して在日韓国人となった。1948年5月10日、UNTCOKの監視下で、600人を超えるテロ犠牲者を出しながらも、南朝鮮では制憲国会を構成するための総選挙が実行された。制憲国会は李承晩を議長に選出し、7月17日制憲憲法を制定した他、大統領選挙で李承晩を初代大統領に選出して独立国家としての準備を性急に進めた。それら準備を経て、1948年8月15日に李承晩大統領が大韓民国政府(大韓民国第一共和国)の樹立を宣言、実効支配地域を38度線以南の朝鮮半島のみとした大韓民国の独立とともに公式的にはアメリカ軍政が廃止された。ただし、アメリカ合衆国政府による韓国の独立承認は遅れ、大韓民国政府承認の批准案がアメリカ合衆国議会で可決されたのは1949年1月のことであった。

 韓国(大韓民国)誕生には、歴史家であっても、顔を背けたくなるような凄惨な、激しい抗争の経緯があったのだ。日本による朝鮮併合前の李朝時代の抗争に似ている。アメリカ軍政もこの争いには辟易しただろう。ただはっきりしていることは、和田春樹氏の言う『朝鮮の分割占領の犠牲の上に、アメリカによる日本の単独占領があった』というのは、歴史的事実の曲解である。むしろ進んで分断を選んだ、と言えなくもない。その要因は、ソ連が対日参戦に踏み切った時、満州と朝鮮北部に進駐しており、ソ連が朝鮮半島に野心を持っていた証左で、日露戦争前のロシアの野心の蒸し返しである。この事実関係を無視して、日韓問題を論じると、相互に行き違いを生じるのは火を見るより明らかであろう。