互いにまことに遥かであると嘆息するほかない。

2020年10月12日 | 歴史を尋ねる

 タイトルは幕末・明治維新直後の日朝関係についての、司馬遼太郎のコメントである。李朝朝鮮の誇りは、儒教という文明主義の国であることだった、と。前王朝の高麗朝は仏教を尊んだ。それを滅ぼした李朝は、明に勃興と共に興り、五百二十年近く続いた。仏を廃し、儒教に変えた。親へのつかえ方、祖先への祭祀、血族の順序や尊卑貴賤という身分制を固守すること、そのための形式こそ大切だった。特に李朝儒教は、中国よりも形式に厳格で、そのためにはつねに他を論難し、つねに自他を正し、ときに咆哮しなければならなかった。「礼は国の幹なり」という様に、人倫の秩序を守るための基本であり、上下の差別を重んじ、自他の差を服装や儀礼で装飾化することであった。差別が国の幹であった。国際関係も礼で律する。李朝朝鮮の国王にとって北京の皇帝は本家の当主であり、自らは身を屈して分家であることを守った。西洋風の属国ではない。

 江戸時代、朝鮮国王から江戸の将軍に対し、前後十二回、通信使が派遣された。1716年の通信使の製述官申維翰の紀行「海游録」によると、紀行文の中で「この島は一州県にすぎない」「対馬の当主は、わが国の藩臣である」と。小中華という架空の真実の中で生きる儒教の徒の申維翰は、日本人に対し、人という文字を使わない、人とは文明人のことで、不特定の人々をさすとき、群衆といわず群倭という。対馬藩の警備人のことを禁徒倭、様々な人々という場合、諸倭という。くどいほどに差を明らかにする。申維翰の用法では、倭とは人間の形をとっているものの内容は野蛮人であるという意である、と司馬遼太郎はコメントする。ところが、その群倭が明治維新という革命を起した。維新前年、最後の将軍徳川慶喜は、政権を朝廷にもどした旨、対馬藩を介して朝鮮に通告した。長い書簡だったが、応答はなかった。礼とは日本語の礼儀や行儀という互敬的な作法ではない。二世紀にわたって外交関係があった徳川家の当主慶喜に対し、返事もしなかったところに、礼の持つ滑稽感があると司馬遼太郎。シリアスな国家間の問題に置き直すと滑稽感とは言っていられなくなる。それが維新後の書契問題(既述済)であろう。維新成立早々の9月、新政府は対馬藩の通じ、その旨の書を送った。これも無返答だった。その年の11月、ふたたび書を送った。返書はなかった。明治3年2月、今度は三人の使者が釜山の倭館へ行った。外交関係の役人だった。今度は釜山の地方官が会った。維新の事情を告げ、善隣の方針を述べた。が、李朝政府から応答はなかった。明治6年5月、釜山の倭館の門壁の告示文が張り出された。倭が洋服を着始めたのはけしからん、と。「其の形を変じ、俗を変える。これすなわち、日本の人というべからず。無法の国と言うべし」 隣国がやった起死回生の明治維新も、礼の輪の中で片づけられた、そして司馬遼太郎の冒頭の嘆息に繋がる。

 欧米諸国の東アジア進出に危機意識を抱き、明治維新を成し遂げた人々にとって、嘆息ばかりしてはいられなかった。西郷隆盛の征韓論、江華島事件、壬午事変、甲申事変を経て福沢諭吉も脱亜入欧と長嘆息、ついには日清戦争、さらに日露戦争。その先に日本による朝鮮併合へと進んでいった。19世紀後半から20世紀初頭、極東アジアは朝鮮問題を中心に事件が重なった。その後の歴史を紐解くと、「互いにまことに遥かである」と嘆息していればよかったか、明治の日本人は行動を起してその解を求めたが、現在の韓国の人はその時どうすれば良かったか、未だ解答を出していない。そして当時の日本を非難するが、実際は李朝朝鮮がその(自主独立の方策)解答を延ばした結果が、南北に分かれた国家になった、と歴史は解答を出している。長年、朝鮮半島の歴史や政治を研究してきた筑波大学大学院教授の古田博司氏は「韓国に対しては『助けない、教えない、関わらない』を『非韓三原則』にして日本への甘えを断ち切ることが肝要」と説く。日韓が地政学的に隣国という関係にありながら、これも一つの現代版嘆息だ。相当重症である。再度登場してもらうが、古田氏の嘆息の内容について、触れておきたい。

 韓国人は自分たちがかっては文明的に卓越していたと主張する。しかし日本で7世紀後半から8世紀にかけて、万葉集、古事記、日本書記が編まれ、平安末期には源氏物語絵巻など四大絵巻が完成する国風文化が花開いたが、朝鮮半島ではそのような証拠はない。半島ではようやく12世紀に正史「三国史記」、13世紀に「三国遺事」が登場するが、唐や日本と同様の律令が統一新羅で編纂・施行したことはなかったというのが現在の有力説、また高麗時代の史料の殆ど残されていない、李朝実録が丸ごと残ったのは日本が朝鮮に入り、史料保存に努めた結果だ。李朝時代の文芸にしても、主人公がシナ人、場所もシナ大陸と言ったものがほとんどだという。歴史上の朝鮮は、中華文明に対する他律的文化しか持っておらず、国風文化はついに育たなかったと古田氏。李朝漢文は四六駢儷体という易しい漢文が主体で、高度な文化内容を展開するには無理があった。経済は明朝初期の反商業政策を受け継ぎ、流通は主に粗放な市場と行商人が担っていた。農村には村界がなく、流民化した民が食える村に集まっては有力者の下でとなって生活していた。彼らは五百年間の貧窮の中に閉ざされていた。独自のハングル文字を作り上げるまで、この国の言語を表記する体系は漢文しかなく、新羅語、百済語、高句麗語、高麗語がどのような言語だったか、分からない。以上から、古田氏は具体的には語っていないが、韓国の歴史を記述するにあたって、具体的事実を語る文献がない、ということだ。古田氏は35年間、朝鮮研究をやってしまったが、晩年となり韓国に読むべき古典や近代文学がなく、脾肉の嘆をかこっている。日本人は簡単に想像できないが、言葉通りだと、由々しき事態、みんな勝手な解釈をし始めるのではないか。

 古田氏はさらに言う。日露戦争ののち、南満州鉄道株式会社が生まれると、白鳥庫吉は後藤新平を説いて満鉄東京支社の中に満鮮歴史地理調査室を設けさせ、満韓の歴史や地理の研究を始めた。ここで養成された人々はやがて日本の東洋史学・朝鮮史学の中心的人物となるが、ここではじめられたのは朝鮮史研究ではなく満鮮史研究であった。朝鮮史は朝鮮民族の主体的発展の歴史ではなく、満州を含む大陸史の一部に吸収された。戦後、他律性史観の元凶と批判された福田徳三は、1902年夏朝鮮を旅行し、朝鮮の実情を見聞し、資料を収集して書かれた「韓国の経済組織と経済単位」という論文を発表、「もともと所有権がない。売買という現象がないのは当然である。韓国においては、土地に対する権利の移転は旧文記ならびに新文記と称する書類の授受をもって行われる。長期間継続する実際の使用収益を根拠とする証券の意味である。韓国の農業の技術の極めて幼稚であること、その収穫の甚だ寡少であること、ともにその最大根本の原因は所有権の存在しないことである。商業もまた同じ。韓国には商人が存在しない。ただ定期に各所で輪番に開かれる市とこの市に出入りする行商と生産者または消費者とがあるだけ。ただ、京城、平壌、開城その他の重要な都邑の地については商廛と商人がある。これは小売商ないし御用商人である」と深い知見を窺がい知ることができる、と。

 戦後の朝鮮史研究は、左派学者の幻想や虚構を糧として出発した。韓国の左派学者の歪曲史観に相変わらず加担する日本の左派学者も健在である。和田春樹東京大学名誉教授は、「重要なことは、新しい歴史認識をもって、日韓条約第二条の対立を解決すること、つまり日本側の解釈を棄て、韓国側の解釈を採用すること、併合条約は当初より無効であったと認めることによって、韓国民の認識への同調をあらわすことである」と。これは韓国が国家の正統性を確立するため、日韓併合条約を無効とし植民地時代を歴史上から抹殺するという、最後の手段に同調を表明するものである。しかし、2001年11月、韓国政府傘下の国際交流財団の財政支援の下、アメリカのハーバード大学・アジアセンター主催で国際学術会議が持たれた。韓国側は日本による朝鮮併合の不法論を国際舞台で確定したかった。韓国側はいかに日本が不法に朝鮮を併合したかということを主張したが、国際法の専門家のケンブリッジ大学J・クロフォード教授が強い合法論を行った。「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではない」と主張、韓国側はこれに猛反発し反論したが、同教授は「強制されたから不法という議論は第一次大戦以降のもので、当時としては問題になるものではない」と一喝。また、日本による韓国併合は、それが英米をはじめとする列強に認められている以上、どのような大きな手続き的瑕疵があり、被併合国の主権者の意思にどれほど反していたとしても、当時の国際法慣行からすれば、無効ということは出来ない、と。