戦後の朝鮮半島

2020年10月10日 | 歴史を尋ねる

 当時日本人は敗戦の虚脱状態の中で、進駐軍の到来、政治の混迷、食糧の確保など自らの生活の追われ、戦後の極東アジアがどうなっていくのか皆目わからない、注意を向けることさえ覚束ない時を過ごしていた。日本の戦後史を語るとき、朝鮮半島がどうだったかは見落としがちになるが、現在の極東アジアを考えるとき、まさしくこの時が出発点になっている。中国大陸の国共両党の攻防をすでに見て来たが、もっと身近な朝鮮半島はどうであったか、ここで振り返っておきたい。

 韓国が建国されたのは、1948年8月。北朝鮮が建国を宣言する一カ月前だった。1945年8月、日本の降伏前からソ連軍が朝鮮半島に進軍し、北部地域の占領を始めていた。朝鮮半島をソ連の占領から守るため、アメリカ軍が朝鮮半島南部に入り、半島をソ連とアメリカで分割統治することをソ連に提案、ソ連はこれを受け入れた。北緯38度線で南北に分割された。韓国は北朝鮮に対するコンプレックスがあった、と池上彰氏。金日成はつくられたヒーローだったが、日本支配に対抗して旧満州で日本と戦ったことは事実であり、韓国も北朝鮮同様に自ら独立を勝ち取ったという建国神話をつくらざるを得なかった、と。それを知る重要な文献が、大韓民国憲法の前文、「悠久の歴史と伝統に輝く我々大韓民国は三・一運動で成立した大韓民国臨時政府の法統を継承し」という文章で、大韓民国は日本の支配に反対する人々の運動から始まった大韓民国臨時政府の正統性を受け継いでいる国だ、という意味だった。しかし、この臨時政府は名ばかりの組織で、その運営費用はすべて中華民国政府が出していたので、独立した組織だとは言えない。ヨーロッパの事例を見ると、オランダやフランスなどはナチスドイツの指揮下に入ると、自国を追われた政権は、イギリスに移り亡命政府をつくった。これら亡命政権は、国を追われたリーダーたちが再び自国を取り戻すために作戦を立てたり、本国との連絡をとったりするためにおかれたもの、イギリスの全面的支援を受けることなく、自主的に運営していた。大韓民国臨時政府は、日本が統治している朝鮮半島の人々との間に、なんの連絡手段もなく、上海に逃げた一握りの人たちが勝手に大韓民国臨時政府という名前を使ったに過ぎなかった。その後、日中戦争が1937年に始まり、日本が上海を攻めると、国民党政権と共に重慶に逃げた。臨時政府は光復軍という軍隊を持っていたが、その実態は200人ほど、その維持費は全部中国政府が出していた。また光復軍も日本軍とたたかったことがない。ところが憲法には、大韓民国は日本の統治に反対してつくられた臨時政府を受け継いだ国だと、書いている。北朝鮮は、日本と戦って連戦連勝の将軍が国をつくった、と言っており、韓国も負けずに建国神話として探し当てたのが、大韓民国臨時政府だということになったと、池上氏は時々厳しい指摘をする。

 大韓民国建国にあたってリーダーに選ばれたのが、李承晩だった。1875年生まれ、朝鮮併合前の大韓帝国時代で、アメリカ人宣教師がつくったミッションスクールに入学、キリスト教徒になった。韓国初の日刊紙の記者として活動中、皇帝を譲位させる陰謀に加担したとして逮捕、投獄され、1904年日露戦争の特赦で出獄、アメリカに渡った。プリンストン大学で博士号を得て帰国するが、朝鮮半島は日本に併合されていたため再び渡米、大韓民国臨時政府が上海にあった頃、臨時政府の大統領に推挙された。しかし、仲間たちとうまくやっていくことが出来ず、臨時政府から追い出され、アメリカに戻った。朝鮮半島に戻ったのは、日本が降伏した後の、1945年10月だった。すでに70歳であった。李承晩はアメリカの大学に通い、キリスト教徒、アメリカ人と同じ民主主義的な考え方を持っているだろうと、アメリカが支援をした。韓国では民主的な選挙が行われ、選挙で選ばれた国会議員が大統領を選ぶという間接選挙を経て、李承晩は大統領になった。ところが、1950年5月に行われた第2回国会議員選挙では、李承晩に反対する勢力が国家議員の多数を占めた。そこで、李承晩は国民による直接選挙で大統領を選ぶ方法に変更する憲法改正案をつくったが、そのとき朝鮮戦争が勃発、大混乱の中で反対派の国会議員を次々と逮捕、憲法改正を実現した。1952年8月、国民による大統領選挙が行われ、圧倒的多数で再選された。さらに終身大統領を目指して憲法改正案を通し、朝鮮戦争真っただ中、長期政権への道を開いた。

 北朝鮮は1948年9月建国された。建国の父は金日成、しかし金日成は本名ではない。金成桂といった。日本による韓国併合は1910年、その2年後に生まれた。金成桂の両親はクリスチャン、当時の平壌はアメリカ人宣教師によるキリスト教教育が盛んだった。父親は民族主義団体に参加して逮捕され、出獄後は満州に逃れて医者を続けた。金成桂は一時、母親の故郷で過ごしたが、15歳のとき満州に移る。4年後の1931年、満州事変が起り、満州国が出来た。金成桂は抗日運動に関わったが、満州で抗日運動をする朝鮮人の多くは、中国共産党に入党していた。金成桂は白頭山のふもとで抗日運動を続けたが、日本の治安部隊に追われ、1940年10月、ソ連へと逃げ込んだ。ソ連は対日戦争を念頭にいずれ朝鮮半島を攻めることを想定して、ソ連軍の中に朝鮮人部隊を作り、ハバロフスクの近郊に野営地を置いていた。金成桂はソ連軍の兵士となり、大尉として朝鮮人部隊を率いるようになった。日本敗戦後、朝鮮半島の北部はソ連の支配下に置かれた。そこで目をつけたのが、朝鮮人部隊の隊長だった金成桂だった。この時、抗日の英雄「キムイルソン伝説」を利用した。日本が朝鮮半島を統治していた時、日本軍と勇敢に戦い続けているキムイルソンという伝説的な将軍がいる、そんな話がまことしやかに語られ、朝鮮半島に広まっていた。都市伝説のようなものだった。金日成の公式伝説には、1919年3月1日、朝鮮半島に抗日独立運動が起る、そのとき、金日成は運動の先頭に立って朝鮮の人たちを指導したといわれている。金成桂は1912年生まれ、そのときまだ7歳。しかし北朝鮮の金日成の公式の伝説には、そう書かれている、と。

 1945年10月14日、平壌で開かれた日本支配からの解放を祝う祝典で、金日成こと金成桂は初めて市民の前に姿を見せた。伝説の将軍キムイルソンを一目見ようと集まった人々で、8万人収容するスタジアムが埋まった。登場した金日成の姿を見て、みんな驚いた。誰もが白髪の老将軍が現れると思っていた。そこに現れたのが33歳の若者、朝鮮語もたどたどしかった。その集会に参加して、その後北朝鮮から逃げた人の証言によると、聴衆の間からキムイルソンの偽者だという声が上がり、大騒ぎになった。周りを警備していたソ連軍兵士が空に向かって銃を撃ち、騒ぎを収めた、と池上彰氏は「池上彰の世界の見方 朝鮮半島」の中で解説している。金日成はソ連の後押しで北朝鮮の最高指導者に据えられ、自分の実力ではなく、その地位に就いた。実力も経験もない金日成は、日本の統治下で戦っていた歴戦の勇者の上に立たなければならない、コンプレックスを感じたはずだと池上氏。朝鮮半島や中国で日本軍と戦ってきた勇者たちに対し、アメリカ軍のスパイだ、韓国のスパイだと決めつけて、次々とライバルを粛清。身の危険を感じて、中国やロシアに逃げた人もいる。結局、金日成はソ連から一緒にやって来た自分の仲間以外は、みんな粛清してしまった。ここからさらに歴史の偽造が始まる。伝説の将軍金日成は歴戦の勇士でなくてはならない。そこで、朝鮮半島に留まり、白頭山の山中で日本と戦い続けたという神話を捏造した。金成桂の息子はユーラだったが、北朝鮮に戻ってきて金正日という朝鮮名をつけた。そして金正日は白頭山の秘密基地で生れた。さらに朝鮮半島が日本の支配下に置かれている間、金日成は戦い続け、その戦歴は10万回日本軍とたたかった、すべて勝った、と。ソ連によってトップに据えられたリーダーは、次々とライバルを粛清し、偽りの伝記をつくることによって、自分の権威を維持するしかなかった、と池上氏はコメントする。