日米交渉決裂の裏(チャーチルの役割)

2017年12月02日 | 歴史を尋ねる
 野村大使は来栖大使と共に11月20日、ハル長官を訪ね「乙」案を提示した。この乙案に対するハル長官の反応は、長官の渋面と冷たい論評だった。乙案の内容をすでにマジック情報で承知し、外交戦術上の対策まで考究中のハル長官としては、あまり強い反応を見せないように発言を制限したと、後日回想している。「蒋介石政権に対する援助打ち切りは困難だ」「とにかく日本の政策が明確に平和政策になることを切望する」などと、事態の発展には無意味な感想を述べて、二人の大使を送り出した。
 二人の大使が大使館に戻った時、のちに米国議会が真珠湾攻撃の調査のために設けた「上下両院調査委員会」が『ウインド・メッセージ」と呼んだ秘電が届いていた。電文は、外交関係が断絶して国際通信が途絶えるような非常事態の際は、暗号を持たせた天気予報を日本から短波放送で挿入して知らせる、というものであった。交渉期限が25日までとあるが、交渉とは無関係にぐんがうごいていると、来栖大使は予感した。その予感は的中し、陸軍の場合、南方攻略部隊を指揮する軍司令官五人が11月6日親補され、マレー・シンガポール攻略を担当する山下奉文中将は、15日サイゴンに到着した。必要資材は台湾、インドシナ各地に続々と集積され、開戦と同時にインドシナからタイを経てマレーに兵員、物資を運ぶが進められた。海軍もハワイに向かう攻撃部隊は、主力である空母六隻を基幹とする機動部隊のほかに、小型特殊潜航艇を運ぶ潜水部隊に分かれるが、18日までにそれぞれの基地、母港を離れて待機地点に向かった。

 風電報をマジック情報解読で承知したハル長官は21日朝、国務省幹部と陸海軍首脳者を招集して対策を協議した。①回答を出さずこのままにして置く、②日本側の提案を拒絶する、③反対提案を行う、この三方針のどれを選ぶか、ハルは提議した。一同はあっさりと第三案に同意した、一案、二案は米国側の誠意について疑わせ、日本側の開戦口実に利用される恐れがある、陸海軍の要求は、ヨーロッパ参戦を有利に行い対日戦略の強化で日本を圧伏させるために、できれば六か月、少なくとも三か月の準備期間が必要だという。ハル長官は、「三か月暫定協定案」に「全面協定案」をつけることとして国務省案を作成する、と述べた。
 その夜来栖大使がハル長官のホテルを訪ねた。さらに翌22日、土曜の夜だったが野村・来栖両大使がハル長官のホテルを訪ねた。東郷外相は、乙案を全部受諾させるよう説得せよ、乙案は「真に忍び難きを忍んで敢えてした提案であり、右以上の譲歩は絶対不可である」と、二人の大使を励ました。ハル長官がマジックを利用しての演技外交を展開すれば、東郷外相はまっしぐらにイエスかノーかを迫っている。とにかく譲歩しても交渉を纏めたいと念願する野村大使にとっては、米国側のマジック情報も知らないだけに、ハル長官の頑固さもさることながら、東京の督促は得策でないとしか思えなかった。野村大使と来栖大使がハル長官と会談を終えたのは22日午後11時で、日本時間は23日午後一時であったが、機動部隊は全兵力がヒトカップ湾に集結を終わった。

 11月25日米国政府の主要閣僚のうち、国務、陸軍、海軍長官三人による恒例の三相会議が開かれ、ハル国務長官は、日米交渉の「三か月」延期を期待する暫定協定案と全面的解決案の二つを提示し、同日か明日に日本大使に手交するつもりだと述べた。スチムソン陸軍長官はチャーチルや蒋介石が承知すうだろうかと質問したが、暫定協定案はすでに英、蘭、支那各国に内示して、やがて返事が届くはずだと答えるとうなずき、散会となった。続いて正午からホワイトハウスで、ルーズベルト大統領、ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長の六人で、議題は対日問題に絞られた。ルーズベルトは、日米関係の切迫を指摘して、「日本人は警告せずに奇襲を行う伝統を持っているから、あるいは次の日曜日に攻撃を受ける可能性もあると思う」 日本はかつて日露戦争の開始日を日曜の旅順港攻撃で開始した実績がある。そこで議論の中心テーマは、「われわれがあまり大きな危険にさらされずに日本側に最初の第一発を撃たせよう、どうやって彼らをその立場に追い込むか」であった。議会民主主義の国・米国としては、開戦という重大決定は米国民の支持がなければおこなえず、国民の支持は、「日本人が最初に攻撃したのであり、侵略者が誰か、について疑念の余地がない」場合のみ、完全な形で入手できる。どうすれば第一発をうたせられるか。ハルはやはり暫定協定案が最も有効だと述べた。ヨーロッパ戦線では、ソ連軍はロストフを奪回して対独反撃に移り、明らかにドイツの対ソ攻勢は頓挫している。東南アジアでも、フィリピン防衛は12月中に飛躍的に強化され、一方、日本海軍は8月以来、一滴の石油燃料も入手していない。戦争せずに日本を経済封鎖で屈服させられれば、これに越したことはない。仮に暫定協定で日本が幾分の物資輸入で一息ついたところで、それも三か月間のことである。その間に米国の戦備は充実するのだから、日本はあきらめるか、あるいは戦争に訴えても米国は容易に処理できる、10月末に開かれた大本営政府連絡会で田中新一少将が心配した筋書きと同じである。結局、英国、オランダ、支那の反応を見てから決めることにして会議はおわった。時刻は11月25日午後一時半、日本時間では26日午前三時半であった。その二時間半後、南千島ヒトカップ湾に集結した南雲機動部隊は、旗艦・空母「赤城」のマストにかけあがった信号機を合図に出撃を開始した。

 南雲機動部隊がハワイに向かって北太平洋を進む出したころ、ハル国務長官は、暫定協定案に対する英国、オランダ、支那の返事を受け取った。英国、オランダは条件付きで暫定協定案を賛成した。しかし、蒋介石・支那政府は強硬に反対した。蒋介石は日本に石油を一滴売ることは支那人民の血を一ガロン流させることになる、と胡適駐米大使を通じて長官に抗議し、また宋子文は同じく蒋介石総統の言葉を陸海軍長官に伝えた。「米国が対日経済封鎖と資産凍結を解除するならば、支那民衆は、支那は米国の犠牲にされたと考え、支那民衆の士気は崩壊し、支那軍全将兵の士気も崩壊するであろう」と。予想外に激しい蒋介石政府の反対はハル長官を当惑させ、相談を受けたホーンベック顧問の暫定協定案の放棄を提案した。ハル長官は考え込んだままであったが、翌26日早朝、駐英大使ワイナントから電報を受け取り、その電報は暫定協定案についてのチャーチル首相の大統領あての回答であったが、その内容は「彼はひどく貧弱な料理しか与えらられないのではないか? もし彼らが崩壊すれば、われわれの共同の危険は極めて大きくなるだろ」というものであった。 この電報を読み終わったハルは、ルーズベルト大統領に電話し、長官の用意したメモを読み上げ、日本には暫定協定案を提示せず、「包括的基礎協定案」を手渡すことにしたい、と提言した。敵をなだめるよりも、味方を失わないことの方が大切です、と。ルーズベルト大統領はハル長官の言葉が終わると、即座に、オーケー、同意する、と答えた。そして約一時間後に日本大使館に連絡して、両大使を招待、二人の大使を迎えると、遺憾ながら乙案は受諾できない、そこで米国側の6月21日案と日本側の9月25日案を照合して調整した一案を用意したと述べた。
 二人の大使は「ハル・ノート」を一読して顔色を変えた。内容はこれまでハル長官が繰り返していた「四原則」をまず確認したのち、日米両国が採るべき十項目の提案を列記していたが、明らかに乙案などはまったく無視し、また6月21日案にもない苛酷な要求を盛り込んでいる。来栖大使は憤然とした口調で質問したが、交渉打ち切りを覚悟しているハル長官は、泰然として無言でこたえるだけであった。

 ここまでは児島襄氏の著書によるが、菅原出氏の分析は最後の意思決定の部分が別の解釈となっている。チャーチルの出番ということである。菅原氏はこう記述する。
 日本と暫定協定を結び、フィリピン増援のために必要な三か月の時間稼ぎをするという決定が下されたわずか数時間後に、この決定は突如破棄された。この25日から26日にかけて何が起きたのか。25日の決定後に、胡適中国大使がハルに抗議し、国務省に蒋介石の支持者から大量のヒステリックな電報が送りつけられたことが知られているが、この事実をもってアメリカの外交政策が一夜にして変えてしまった理由とするには、余りに説得力に欠ける。実際ハルは中国の抗議に批判的で胡適大使を呼んで厳しく警告していたし、それまで中国に同情的だったルーズベルトでさえ、抗議を受け入れる様子はない、という記録が残っている。ハルはこの暫定協定案破棄の決定を下したのは自分だとのちに証言しているが、その後明らかになった資料から、この証言の信憑性は揺らいでいる、と。例えばルーズベルトの側近だったホプキンスの書きものや対日強硬派のホーンベック顧問とのやり取りのメモなどから、協定案破棄の決定者はルーズベルトだったことを強く示唆している。大統領や主要閣僚が正式に承認した政策を国務長官一人で破棄することは不自然と菅原氏。これに関して戦時中に行われたアメリカ陸軍真珠湾調査委員会は、「26日に、日本が英米に対して戦争をはじめる意図を持っているという具体的な証拠がホワイトハウスに入っている」という結論を出している。25日の深夜から26日の朝にかけて、日本の戦争意図を示す証拠がルーズベルトの下に届けられたというのだ。25日夜にチャーチルからルーズベルトに蒋介石のことを懸念する先の腹すかし電報が入っているが、それが破棄原因とは考えられない。実はもっと緊急の電報がチャーチルからルーズベルトに送られたことがイギリスのハリファックス駐米大使の日誌に記されている、と。26日の朝、ルーズベルトの長男、陸軍大佐が大統領からチャーチル宛ての電報をニューヨークの「イントレビット」の下へ携行され、「交渉は打ち切った。陸海軍は二週間以内に戦闘を予期している」と送られているが、内容から前日のチャーチルから送られた電報に対する回答であった可能性が強いと菅原氏。情報源はイギリス情報機関だと考えられるが、マレー半島攻撃を通告なしで12月1日に行われるであろうとする情報がワシントンに届いている。さらに極秘扱いされている箱が六箱中三箱も残されているという。ルーズベルトは日本の戦争意図情報をチャーチルから受取り、日本の交渉は軍事攻撃をカムフラージュするために行っていると判断し、後日批判されないよう、暫定協定案の破棄決定を下したのではないか、こう推定している。

 1942年2月15日、いまだ真珠湾の衝撃が冷めやらぬ中、チャーチル首相は全世界に向けてラジオ演説を行った。この中でチャーチルはアメリカの参戦を歓迎して、「アメリカンの参戦を夢にまで見、そしを目的とし、そしてそのために活動してきた」と喜びのあまりつい口を滑らせ、すぐさまハリファックス駐米大使から「アメリカ人の耳には聞こえが悪い」と警告を受けた。この言葉が物語るように、チャーチルはアメリカを戦争に引きずり込むために懸命に働きかけ、そして最後にその目的を達した、というのである。ふーむ、当時の日本は、蒋介石やルーズベルトだけでなく、スターリンやチャーチルなど世界史に燦然と残る人物を相手に戦いを挑んだこととなった。

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