御前会議とアメリカの深慮

2017年12月18日 | 歴史を尋ねる
 11月30日、東郷外相はワシントンとベルリンに電報した。野村大使にはハル・ノートに対する抗議を米国政府に申入れよ、と指示し、ベルリンの大島大使には日米交渉決裂必至をドイツ首脳に伝えることを指示した。この頃、海軍中佐高松宮宣仁親王が宮中に参内して、天皇と面談し、内容は不明だが、海軍部内にはなお開戦に危惧の念を持つ者があるようだとの旨を天皇に述べたようだ、と児島襄氏。これは当然で、日本がやろうとしていることは海軍が先頭に立たなければ出来ないアメリカとの戦争なので、海軍の戦闘力が一番問われるものであったが、これまで見て来たプロセスの中で海軍の意思・意見が実に不明確である。

 すでに大本営政府連絡会議は開戦決定を議決し、翌12月1日の御前会議で形式上の決議を行うことになっていた。しかし、日米戦争に主役を演ずる海軍が反対しているとあっては、開戦決定は再検討されねばならない。天皇は木戸内大臣を呼んで相談、木戸は意外な事情に眼を見張りながら奉答、「今度の御決意は、一度聖断遊ばされれば後に引けぬ重大なものであります故、少しでも御不安があれば充分念には念を入れて御納得の行く様に遊ばされねばいけないと存じます」 木戸内大臣は、東条首相の意見を求められるよう、また直ちに嶋田海相、永野軍令部総長を召致して海軍の「真の腹」を確かめられますように、と天皇に進言した。参内した東条首相は、天皇の下問に驚いた様子で、「少しも聞き及びしこともなく、海軍に御下問然るべし」と奉答。午後6時、嶋田海相、永野軍令部総長が参内してきた。天皇はまず永野総長に下問し、総長が奉答した。「いよいよ時機切迫し、矢は弓を離れんとす。一旦矢が離れれば長期の戦争となるが、予定通りやるのか」「大命降下があれば予定の通り進撃致すべく、何れ明日委細奏上仕るべきも、航空艦隊は明日はハワイの西4800カイリに達します」 天皇は嶋田海相に質問した。「大臣としても総ての準備は宜しいか」「人も物も共に充分の準備を整え、大命降下をお待ちいたしております」「独国が欧州で戦争を止めた時はどうか」「独国は元来真から頼りになる国とは思わず、たとえ同国が手を引いても、我は差し支えなき積もりに御座います」 天皇との問答はそれまでであったが、永野総長と嶋田海相は天皇の不安を一掃するように、連合艦隊の士気は旺盛であり、訓練も積まれ、山本連合艦隊司令長官も満足していることなどを言上し、最後に嶋田海相が、「この戦争は石にかじりついても勝たざるべからずと、一同固く覚悟を持している」 永野総長は古巌のような風格、嶋田海相は端正な体躯で、それぞれの声音は重厚、荘重、説得力に富むと児島氏は形容する。まして、国運を賭ける決定に対する覚悟を定めているので、奉答の片言にも気魄がこもっていた。天皇はうなずき、二人が退出すると、何れも相当の確信をもって奉答せる故、予定通り進めるよう、首相に伝えることを、木戸に伝えた。ふーむ、永野軍令部総長のやり取りはおかしい。大命降下があれば、と前提条件を付け、現況を報告したのみで、天皇の懸念に答えていない。この段階で聞かれてもともいえるが、懸念に答えるだけの材料を持ち合わせていなかった、ということだろう。

 翌12月1日、午後宮中で御前会議が開かれた。議題は「対米英蘭開戦の件」。会議は東条首相が議事進行を担当し、東郷外相、永野軍令部総長、東条兼摂内相、賀屋蔵相、井野農相が必要な事項を説明したあと、枢密院議長原嘉道が質問を行った。原議長は特に「只今からどうして戦争の結末をつけるということを考えておく必要があります」と指摘したが、会議自体はなんの支障もなく終わった。「本日の会議に於て、お上は説明に対し一々頷かれ、何等御不安のご様子拝せず。御気色麗しきやに拝し恐懼感激の至りなり」と杉山参謀総長は会議後、そう覚書に記述しているが、天皇が入御したあと、参会者一同は責任を明らかにするために次の決定に署名、花押した。 『11月5日決定の『帝国国策遂行要領』に基づく対米交渉は遂に成立するに至らず。 帝国は米英蘭に対し開戦す』

 ワシントンでは東条首相の演説が大問題になっていた。実際には、11月30日に興亜同盟主催も日華基本条約締結一周年祝賀会で演説する予定だったが、出席できずに演説しなかった。ところが、事務局が29日、首相の演説があるものと思って演説内容を記者団に発表してしまい、それがワシントンでも報道された。その中に「(米英のアジア民族搾取は)人類の名誉のために人類の矜持のために断じてこれを徹底的に排撃せねばならぬのであります」、この英訳が『人類の名誉と矜持にために、われわれは東アジアからこの種の実績を完全に一掃せねばならぬ」となってしまい、ルーズベルト大統領も休暇を切り上げてワシントンに帰ることになった。「ハル・ノート」に対する日本政府の返事であり、まさに戦争決意の表明だと理解されたからであった。このような環境になかで二人の大使はハル長官に抗議をする事態となり、これまで通りの双方の主張の繰り返しに終わり、記者たちの視線の矢を浴びながら、国務省を退出した。このあと届けられたマジック情報を読むと、ハルはホワイトハウスにルーズベルト大統領を訪ね、三日前の閣議で決まった天皇に対する親電工作と議会教書提出を延期するよう進言した。東郷外相が大島駐独大使に打電した電文は「英米両国との戦争状態の発生は極めて大、その時期は意外に早く来るやも知れず・・・」  ハル長官は、この電報は日本側が戦争を仕掛けようとしている事実を明示している、ゆえに天皇宛の親電や議会教書は待った方が良い、と述べた。「いつまで待つのかね」「日本の攻撃がほとんど開始される時までです」 米国は日本との戦争を覚悟している。あとはただ開戦名分を確保するだけだが、それには相手が引き金を絞り出した瞬間」に和平意思を表示するべきだ、と。そうすれば、最後まで平和に努力した名分が立ち、同時に相手が本当に戦争だけを望んでいることを立証できる。ルーズベルト大統領は、軽く頭をかしげて考慮する様子があったが、ハル長官の意見に同意した。

 ヒトカップ湾を出撃して以来、南雲忠一中将が指揮する機動部隊は、順調に北太平洋を東進していた。幸運にも海上は予想外に穏やかで、まさに天祐だと喜んだが、その夜12月2日開戦日を指令する「ニイタカヤマノボレ1208」電が受信された。「開戦と来るか、引き返せと命ぜられるか、一抹の不安はぬぐい切れなかったが、いまやこの電報により作戦一本に没頭できることになった、晴天に白日を望むような気持になった」とは、機動部隊参謀長草鹿龍之介少将の回想であった。
 その頃、米海軍作戦部長H・スターク大将はルーズベルト大統領の指示で、極秘電をマニラのアジア艦隊司令長官T・ハート大将に送った。小型船三隻をチャーターし、最小限の米海軍兵員と武器を載せて米海軍籍に編入したうえ、一隻は海南島と南部仏印のユエの間に、他の一隻はカムラン湾とセント・ジャックス岬との間に、最後の一隻はインドシナ半島南端・カマウ岬沖に配置せよ、と。つづいて野村、来栖両大使を迎えたウェルズ国務次官は、南部仏印に増強されている日本軍は、フィリピン、蘭印、マレー、タイに進出する意図を持つのではないか、と日本政府宛の質問書を手交した。日本がそれら地域に進出すれば米国は相手方を援助することを示唆していた。このウェルズ国務次官の覚書とルーズベルト大統領のアジア艦隊あて指示と組み合わせると、米国の方針も明確である、と児島氏。米国史を振り返ると、独立戦争、米西戦争、第一次大戦という米国の戦いは、すべて船舶の沈没を開戦または参戦の口実にしている。船を沈められれば、米国は戦う、と。日本の開戦行動に合わせる形で、米国側も具体的には戦争への道を歩み始めた。