ノーベル平和賞 ハル国務長官

2017年12月25日 | 歴史を尋ねる
 ハワイ空襲・第一次攻撃は、現地時間12月7日午前7時35分の急降下爆撃隊の投弾に始まり、午前8時25分ごろに終った。その頃にはすでに嶋崎重和少佐指揮の第二時攻撃隊167機がハワイ上空に到着し、次々に帰投する第一次攻撃隊に代って攻撃を続けた。そして、午前9時45分、日本機はハワイの空から姿を消した。一時間五十分の空襲は、戦闘時間としては長いものではないが、平時体制のまま予期しない攻撃を受けたハワイの将兵、市民にとっては、無限の長さとも一瞬の夢魔とも感じられたに違いない、と児島氏。
 「エア・レイド・オン・パールハーバー、ジス・イズ・ノー・ドリル」(真珠湾空襲中、演習にあらず) ハワイ海軍航空部隊司令官パトリック・ベリンジャー少将は、空襲開始直後にそう放送し、その後も、繰り返し放送し続けた。ホノルル放送も午前八時過ぎには敵襲を伝え、市民の外出禁止、防火用意、冷静さの維持などを訴えた。だが、真珠湾上空をおおう火煙、八方から落下する高射砲弾片、次々に口伝される流言などは、一般市民を興奮させ、動揺させた。

 空襲により、米太平洋艦隊は真珠湾在泊艦艇94隻のうち、戦艦8隻を含む18%が撃沈破され、陸海軍機479撃墜破され、死者2404人、負傷者627人の被害を受けた。混乱は日本機が退去した後に激しく、日本総領事館が所在するホノルル市ヌアヌ通りは、夜に入るまで「狂乱状態」になった市民の群れでごった返した。
 南雲機動部隊は、ハワイ時間7日午後1時50分ごろ、第一次、第二次攻撃隊の収容を終わり、24ノットで北上して戦場を離脱した。損害は第一次攻撃隊9機、第二次攻撃隊20機、ほかに別動隊として真珠湾口に潜行した特殊潜航艇5隻であった。

 野村大使は、来栖大使と共に国務省から大使館に帰ってきて、はじめて真珠湾空襲の報告を受けた。国務省を退出するとき、玄関付近に新聞記者らしい十数人が群がり、口早に質問を浴びせてきた。その態度は異常に冷たく、かつ質問の内容も異様であった。ハル国務長官との会見、あるいは日本政府の対米回答について尋ねるよりも、日本は米国を騙したのか、日本は勝てると思うのか、など、まるで戦争が始まったことを前提にしているような質問であった。大使館に帰着して、海軍武官横山大佐の報告によって事態が承知できたが、野村大使は、そうか、と答えると、居間に閉じこもった。
 陸軍武官磯田少将は、野村大使の労をねぎらうため部屋に入いったが、発言は途切れ、双眼に涙が溢れた。野村大使がどれほど純粋かつ純心に日米交渉の妥結を望み、そして日米戦争回避を念願していたか、知悉していた。着任以来十か月間、大使はまるで日米両国政府に懇願するように平和を訴え続けた。策略も謀略もなく、ひたすら善意を拠り所とし、また相手の善意の発露を期待しながら、希望を捨てまいと努力していた。

 職業外交官からみればその姿はあまりにナイーブにすぎ、苛酷な国際政治の実態を知る者からはその仕事ぶりは素人すぎると判定されるかもしれない。ミスキャストだという評言も、容易だろう。だが、純心な善意だけで戦争は阻止し得ないにせよ、無雑な善意という細い一本の糸が戦争を引き留めるために存在し続けた事実は、貴重である、とここまで日米交渉の事実関係を調べ上げた児島氏はいう。

 来栖大使も、自室で黙想していた。来栖はこの朝、事態の好転を期待する気持ちであった。ニューヨークの『三井物産』支店長宮崎清の斡旋で財界の有力者バーナード・バルークとコンタクトしていた。12月3日、バーナード・バルークはルーズベルト大統領と会談した、といい、「タラ、という魚は、餌をみると気づかないふりをしながら、突然に食いついてくる。大統領にもそういう癖がある。10日に再開する約束をしたよ」と来栖に電話してきた。たしかに、手応えがあった、とバルークは告げた。
 バルークは、日米戦争が結局は共産主義国を援ける結果にしかならぬと判断し、大統領の天皇宛親電工作、米国の譲歩と対日十億ドル借款をルーズベルト大統領に進言した。大統領が天皇あてに親電を送ったのは、そのバルークの進言が実現しはじめたものと来栖大使は理解し、6日夜は、とくにバルークとの連絡係、寺崎成一一等書記官と共に祝杯をあげた。それだけに、開戦のニュースは事態転換寸前の一撃を受けた想いだった。

 だが、感慨に身をひたしている余裕はなかった。友好国に居住していたが、一転して敵国に身を置くことになった以上、それに即応した措置が予想される。大使館では、機密書類の焼却と暗号機械の処分が急がれた。新聞記者二、三十人が強硬にインタビューを求め、館内に入って来た。大使館前の群衆も、中には火炎瓶を用意するなど、ひどく不穏な様子であったが、警官が大声で、東京のグルー大使の安全も考えろ、と叫んで、解散させた。

 野村、来栖両大使と大使館員は、そのまま大使館で籠城生活を送った後、12月29日、バージニア州山中のホット・スプリングスのホテルに収容された。開戦と共に、「有害危険な敵国人」として逮捕された在留邦人は3,933人で、司法省移民局管轄の収容所と陸軍省管轄の収容所に抑留された。翌年6月12日スウェーデン船に乗船して皆が乗り込み、アフリカの交換地モザンビークの港に到着、7月22日、日本からの交換船が駐日米国大使グルーをはじめアジア各地の引き揚げ連合国民を乗せて交換港に入港、そこで乗船の交換が行われた。

 帰国した野村、来栖両大使は、8月21日、天皇に拝謁、日米交渉の経過を奏上した。来栖大使は、天皇の下問があれば奉答すべく、野村大使のそばに控えていたが、下問はなく、「ご苦労であった」と、慰労の言葉を述べた。次いで8月31日、首相官邸で東条首相主催の夕食会が開かれ、食後、東条首相は参謀総長杉山元対象と共に来栖大使を応接間の一隅に招き、声を潜めて、言った。「この度はまことにご苦労でしたが、ついては、こんごはこの戦争を一刻も早く終結するようご尽力を願いたい」 来栖大使は、東条首相の主張の「余りの単純さ」にびっくりした。東条首相としては、折から、ミッドウェー海戦での海軍の敗退のあと、ソロモン群島ガダルカナル島に予期以上に早く米軍が反抗してきている戦況に鑑み、いずれは戦争終結の機会を探索せねばならぬと思い、来栖大使にささやいたのだった。だが、来栖はそのような戦況は知らない、知ったとしても感慨は同じに違いないと児島氏。来栖大使は、東条首相が戦争という国家の大事を、まるで電灯のスイッチをひねるように簡単な仕事と考えているのか、と感じ、「総理、和平工作は戦争を起すように簡単にいかぬものですよ」、ぷすりとそういうと、失礼、といって立ち上がった。

 野村大使は昭和17年12月辞職、昭和19年5月枢密顧問官に就任した。戦後は公職追放令の適用を受けて閑居していたが、追放令が解除されると、昭和28年3月、日本ビクター社長に就任、その年10月に渡米した。12年ぶりに米国を訪ねた野村は、プラット海軍大将、スターク海軍大将、ニミッツ元帥をはじめ、フーバー元大統領、ルーズベルト大統領夫人など、かっての知人を歴訪した。野村はハルも訪ねた。ハルはすでに隠退生活に入っていた。往時を回顧する対話をかさねるうちに、野村はハルが1945年のノーベル平和賞を受賞したことを思い出した。受賞の理由は、日米交渉における努力を中心とした平和外交の推進ということになっている。お祝いをいい、当然の受賞と思う、と野村が云うと、ハルはうなずいたが、急いで応えた。
 「世界の情勢は変わりましたな。日本の再建が成功することを祈っております」 ノーベル平和賞のことには触れてもらいたくない・・・といった風情であった。

 児島襄戦史著作集第Ⅳ巻 開戦前夜 はこう締めくくっている。児島氏は万感の思いでこのフレーズを探し出したのだろう。