ハル・ノートと開戦前夜

2017年12月15日 | 歴史を尋ねる
 二人の大使が一読して顔色を変えたハル・ノートの内容はどういうものだったか。そこではまずハルの「四原則」を再確認したのち、日米両国が採るべき十項目の提案を列記していた。そして、そのうち次のような条項が含まれていた。A、日米両国政府は英、蘭、ソ、タイと共に多変的不可侵条約の締結に努む。 B、日本政府は支那及び仏印より一切の軍隊を撤収すべし。 C、両国政府は重慶政府を除く如何なる政権をも軍事的、政治的、経済的に支持せず。 D、両国政府は支那に於ける治外法権を放棄し、他国にも同様の措置を慫慂すべし。 E、両国政府は第三国と締結している如何なる協定も本協定の根本目的、即ち太平洋全地域の平和確保に矛盾するが如く解釈せられざることに付き同意す、と。
 Aは日本がこれら各国の包囲下に置かれることを意味し、BCDを併せれば、日本は満州国を含む支那大陸全域から完全に引揚げることになり、Eは日独伊三国同盟の実的廃棄を求めている。明らかに「乙」案などまったく無視し、アメリカ側が提示した「6月21日」案にもない苛酷な要求を盛り込んでいる、と児島襄氏は解説する。日米が戦争をした訳でもないのに、敗戦国のような法外の要求を突きつけたということか。内容的にも、先の財務省特別補佐官H・D・ホワイトの『解決案』に酷似し、その時の考え方がベースになっているのだろう。

 日本時間11月27日午後、大本営政府連絡会議が開かれ、出席者は一様に憮然とした表情を並べた、という。~これでは「九か国条約」時代に逆戻り、~最後通牒とみなすべきでないか、~米国側はすでに対日戦の決意をしたから、この覚書を出したとしか思えない、~いったい、今までなんのために交渉してきたのか、この結論を引き出すためだったら、まったくの時間をムダであった。意見は失望と憤りに彩られた声音が飛び交い、次の結論に到着した。「日米交渉は失敗した。いつ米国から攻撃をうけるかも測られぬ」 会議の雰囲気は気落ちした暗さに支配され、開戦手続きが議決された。1、連絡会議に於て戦争開始の国家意思を決定すべき御前会議議題案を決定す。2、連絡会議に於て決定したる御前会議議題案を更に閣議決定す。3、御前会議に於て戦争開始の国家意思を決定す。
 「ハル・ノート」全文は27日夜に到着したが、内容を読めば読むほど東郷外相は落胆し、その夜は陸海相とも連絡せずに就寝した。東郷外相が寝ている時間、ワシントンでは野村、来栖両大使がハル同席のもと、ルーズベルト大統領と会談した。両大使はハル・ノートの苛酷なことを訴え再考を求めたのに対し、大統領は、日本が一方で武力進出を心がけ、また三国同盟を掲げながら平和と物資の供給を望むのは信頼感を失わせる言動だ、と首をふるだけであった。大使は、大統領が日支和平の紹介者になるといったではないか、ステーツマンシップの発揮を希望する、と述べたが、「明金曜日静養に赴き、来週水曜日帰るので、その間もし何らかの局面打開に資する事態が発生すれば結構である」と。

 その数時間後、スチムソン陸軍長官の部屋で行われた陸海軍首脳会議は二つの問題を討議した。①日本からの攻撃の脅威に如何に対処すべきか。②極東派遣陸海軍指揮官に如何なる警告を発するべきか。会議は、できればフィリピン防衛強化事業が終わる翌年3月まで対日戦を回避したい、警告は明白で最終的なものにすべきだと結論した。しかしルーズベルトは第一テーマの結論は拒否した。第二のテーマはオーケーだと回答した。27日夜、マーシャル参謀総長はフィリピン、ハワイ、カリビア海、サンフランシスコ方面の陸軍指揮官に警報を打電した。「対日交渉は、残すところ日本政府が回答し交渉継続を申出ることだが、これは極めてかすかな可能性があるに過ぎない。日本の将来の行動は予測し難いが、敵対行動がいつでも予測できる。もし敵対行動を避けることが出来なければ、米国は日本が最初の明白な行動に出ることを希望している・・・」 続いてスターク海軍作戦部長から、ハワイの太平洋艦隊司令部とフィッシュ・キャンペーンのアジア艦隊司令部に警報が打電された。「日米交渉はすでに終り、日本の侵略的行動がここ数日以内に予期される。・・・日本軍はフィリピン・タイ・クラ海峡・ボルネオに対して、陸海共同の遠征作戦を行う意図を持っているように考えられる・・・」 この二つの警告を見比べると、陸軍は「第一発を日本側に撃たせろ」という政治的配慮に重点を置き、海軍は日本側の進出目標を東南アジアだと判断し、より軍事的配慮に重点がある相違がみられる。しかしいずれも、日米交渉を終結させた旨を明言し、日本側の行動開始に備えて、所要の部隊に待機を命じている。そして陸海軍とも、警告電の中で「必要と思われる偵察及びその他の措置」、あるいは「適切な防衛のための展開」を指示していた。ノックス海軍長官に言わせれば、銃の安全装置を外して相手に銃口を向けて待つ態勢をとれ、という指令であり、発砲一歩前の命令でもあった。
 その翌日、11月28日午後、政府首脳会議(ルーズベルト、ハル、スチムソン、ノックス)を開いた。ルーズベルトは陸海軍の戦争警告指令についての報告を聞いたあと、開戦手続きを議題に選んだ。日本の交渉期限迄あと二十時間だが、われわれはどうするか、①何もしない、②もう一度最後通牒的警告を行う、③直ちに開戦する、という三案を提示した。スチムソン長官第三案を主張したが、結局は第二案に落ち着いた。そしてルーズベルト大統領は天皇に対する警告電を発することを発案した。また、議会対策として、危機の切迫と米国の対策を述べた大統領特別教書を議会に送ることも、決められた。

 ワシントンでその会議が終わった頃、東京では宮中で政府と重臣の懇談会が開かれた。最後の決断を下す前に重臣たちの意見も聞きたい、という天皇の発案によって開かれたものであった。若槻礼次郎、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、林銑十郎、阿部信行、岡田啓介、米内山たちの八人の重臣は、東条首相兼陸相、嶋田海相、東郷外相、賀屋蔵相、鈴木企画院総裁から事情説明を聞いた。八人の重臣のうち、若槻、平沼、近衛、岡田、米内の五重臣はなお隠忍して戦争を回避すべき、と述べ、広田、林、阿部の三重臣は積極的行動を主張し、とくに岡田、阿部両重臣がそれぞれの立場の主唱者であった。
 懇談会のあと重臣たちは天皇の陪食を済ませ、さらに天皇と会談した。若槻、岡田、平沼、近衛の四重臣は、長期戦に対する物資能力について不安を表明し、若槻はとくに、単に大東亜共栄圏の確立などという理想に捉われての戦争は危険だ、と述べた。米内重臣は「ジリ貧を避けんとしてドカ貧になるべきではない」といい、また広田重臣は、開戦後といえども外交交渉による解決の方途を求めるべきだ、と指摘した。林、阿部両重臣は、すでに政府と軍部との充分な協議があったと思うので、結論に信頼すると述べた。これらの重臣の意見に対して、東条首相は細かに説明と反駁を行い、天皇は無言のままで聞いていた。この会合が終わると、大本営政府連絡が開かれ、戦争決意に関する御前会議の運営、ドイツ・イタリアに対する外交措置、具体的な開戦手続き、日米交渉の打ち切り方などが議論された。

 ワシントンと東京の様子を比較すると、アメリカはすっかり臨戦態勢に入っているが、日本はまだ逡巡する様子が窺がわれ、東条首相を筆頭とする政府と軍部がなんとか意思統一を図ろうとする状態だ。戦況の先行きを占うような両国当事者の行動様式である。 

 

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