戻り道 日英同盟存否の仮説

2014年08月23日 | 歴史を尋ねる

 前回は幣原喜重郎の外交テクニックを弄しすぎた批判に触れたが、岡崎久彦氏はもう少し踏み込んで分析している。当時日本は大きな政策選択の岐路に立たされていた。それは旧外交と新外交の岐路であり、パワーポリティックス路線とウイルソニアン路線の岐路であると岡崎氏はいう。これは親英路線か親米路線の選択であった。当時でいえば原敬の「対米英協調」か内田康哉外相の「対英米協調」の違いだともいう。原敬は第一次大戦の勃発直後に、「今回の世界大戦で各国の均衡が破れる」ことを予測し、中国問題の解決のためには日米間の提携が絶対必要であると考えていた。将来は日英同盟さえあてにならず、日本は「多少の犠牲を払うも」対米関係の改善を最優先すべきだと主張したそうだ。先が見える人には見えるものだ。そして、対米協調が帝国外交の大主義、大輪郭だという信念を一貫して持っていたそうだ。幣原はワシントン会議が終わる直前、次のように述べている。「日本は条理と公正と名誉に抵触せざる限り、出来るだけの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だと思わない。日本はその提供した犠牲が、国際的友情および大義に照らして無益になるまいという考えの下で、よろこんでいるのである」と。なかなか微妙な言い回しである。外交官の信念といえばわかるが、当時の日本国の信念といえるか、そうでなければ日本国民に十分理解を得る努力が要求される。国際世論と日本の世論との齟齬を来さない努力は当時といえども政治家に要求されると思う。

 幣原は会議で、①満蒙における借款の優先権を新しい四か国借款団の共同事業に提供する。②南満州における日本人顧問の優先権を放棄する。③21か条要求で、将来のために留保していた第五号を正式に撤回するの三つを譲歩した。さらに満蒙における特殊利益を認めた石井・ランシング協定については、内田外相は明示的にその表現が残ることを望み、幣原全権との意見の相違が生じたが、幣原は石井・ランシング協定の実質は確保されているのだから、と本省を説得して、事実上解消させている。幣原の考えは、日本の貿易業者および実業家は地理上の位置に恵まれ、また支那人の実際要求について相当の知識を持っている。日本人が優先的もしくは排他的権利を獲得する必要はない。自由平等な競争ならば日本は勝てる、特権は必要ない、と。日英同盟をあっさり捨てて四カ国条約に踏み切ったのは、この機会に日本の針路を変えようという信念のもとに、外交技術を使ったのかもしれないと、岡崎氏。そこで問題は、当時の日本の国家戦略として正しかったかどうか、当時言われた「新外交」が本当に世界の平和、日本の安全を守るのに有効なものであったか、もしそうであっても、日英同盟を離れた日本として、国内状況から考えて新外交を貫くことが実際上可能だったか、どうか。

 残念ながら歴史的結論はすでに出ている、という。幣原はある期間その理想の実現に努力し成功した。しかし、それは満州事変までの十年しかもたなかった。もし中国側のナショナリズムが意図的な排日侮日運動のかたちで表われることがなければ、もし世界大恐慌がなかったら、あるいは原敬の暗殺がなかったらという歴史上のイフはあるが、しかし、協調外交の国内的基盤が、こうした現実に起こった困難に耐えうるだけの強さがなかったことは歴史的事実である、と。困難に際しても、外交的にアメリカとの協調を維持するために英国の助力があればまだ何とか手はあったかもしれない。しかし、国際的に孤立していた日本としては、国内の状況に押し流されるほかなかったといえる。国内政治の上からいえば、むしろ日英同盟を維持した方が幣原の協調外交を維持し易かった。14年間在米日本大使館の顧問をしていたムーアは「日英同盟を存続していたならば、文官と海軍で陸軍を押さえ得た。米国が英国を強要して日本との同盟を廃棄させたのは米国外交の失敗だった」と嘆じたという。