山東懸案解決に関する条約と21か条要求改廃問題

2014年08月29日 | 歴史を尋ねる

 1915年の対華二十一か条要求以来、中国問題をめぐって対立を深めていた日米は、大戦後のパリ講和会議において、中国・山東半島のドイツ権益の処分をめぐって激しく対立した。その無条件譲渡を講和条約に明記するよう要求する日本全権に対して、「新外交」を掲げる米国のウイルソン大統領は中国への直接返還、もしくは連合国による国際共同管理を主張し、交渉は紛糾を重ねた。結局、国際連盟の成立を優先したウイルソンが屈し、日本の要求が全面的に認められた。ただし、日本の次席全権であった牧野伸顕は、それと引き替えの形で、山東の中国への還付条件を、政府の方針を大幅に緩和する形で公に声明し、またウイルソンの中国政策構想への積極的な賛意をたびたび表明した。山東問題のウイルソンの対日譲歩は、こうした牧野の言動を評価し、日本を含めた連盟下での大国間協調によって、今後の列強の対支政策を革新するための政治的決断であったと、中谷直司氏は概括する。引き続いて、ワシントン会議での極東問題の焦点は山東懸案であった。この問題で対中直接交渉による解決を目指していた日本政府は、ワシントン会議の議題にすべきでないとの立場であった。一方の北京政府は直接交渉をあくまで避けたい意向であったが、ヒューズやバルフォア、およびマクマリーは加藤友三郎や施肇基に直接交渉を斡旋した。山東問題の審議は直接交渉の形式で始まったが、オブザーバーとして米国からはヒューズ、マクマリー、ベル前駐日代理大使、英国からはバルフォア、ジョルダン前駐華公使、ランプソンが参加した。

 山東問題交渉に際して北京政府は、日本によるドイツ権益の継承を認めないと代表団に打電した上で、その訓令を公表した。中国政府の非妥協的態度は徐世昌総統らの会議に対する不信感が存在していた。山東鉄道が完全に返還されない限り山東問題の解決はあり得ないとシューマン駐華米国公使に伝えていた。当初日本側はこの山東鉄道に関して日中合弁花を要求していたが、中国側の合意を得られなかったばかりか、米英両国にも好感を与えなかった。そこで日本側は、山東鉄道を借款鉄道として、借款期間中は経営者の幹部に日本人を登用する案で歩み寄ったが、中国側は山東鉄道を買収して、国庫証券を発行して鉄道財産を日本に償却するという案を譲らなかった。停滞し始めた日中交渉を打開したのはマクマリーとランプソンであった。さらに交渉を引き継いだヒューズとバルフォアは鉄道財産の償却期間15年として、その間運輸主任と会計主任は日本人を登用する案を提示し、中国側もやむなく受諾した。山東問題を解決せしめた功労者は、マクマリーとランプソンであった。とりわけマクマリーはヒューズやルートと異なる路線を実践し、日中間の公正なる仲介者として振舞い妥協点を提示する巧みな外交交渉を展開したと服部龍二は高く評価している。

 一方、日本が租借していた関東州に関する協議は、顧維鈞が1921年の会議で租借地撤廃を提起したことによって始まった。英仏両国の代表団が威海衛と広州湾を返還することに合意したのとは対照的に、日本代表団は条約によって関東州租借権は99年間延長されたとの立場を堅持した。原内閣期の新四国借款団交渉によって日本の特殊権益は米英仏各国によっても承認されたとの解釈を示し、ルート4原則をも援用した。ボルフォアも日本の立場に理解を示し、英国の九龍租借地になぞらえて日本の主張を擁護した。それでも中国側は、日本は最後通牒を送って調印を強要したもので条約の改廃を要求した。21か条要求関連条約改廃問題は、結局閉会間際に初めて審議に付され、日本側から幣原が発言し、支那が自由独立の国として締結した国際協約を廃棄する案は同意しがたい、尚、列記主義的南満特殊権益の範囲を除いて南満東蒙の租借優先権を新借款団に提供し、南満での外国人顧問招聘の優先権を放棄した上で、留保していた21カ条要求の第5号を撤回するという三項目で譲歩を行った。中国代表からはブライアン・ノートを引用しつつ日本の態度に批判を浴びせたが、審議は簡単に打ち切られた。当時のニューヨークタイムズ紙は、日本側の「抜け目ない譲歩が21カ条問題の議論を封じ込めたと報じた。ワシントン会議を成功裡に終わらせたいとするヒューズやバルフォアの思惑もあって、日本は何とか現状を大きく変えないでやり過ごすことができた。しかし中国側は大きな不満を残したままであった。