戻り道 同盟と集団安全保障(日本の孤立外交)

2014年08月24日 | 歴史を尋ねる

 引続き岡崎久彦氏(「幣原喜重郎とその時代」)によって、当時を解説してもらおう。岡崎氏は「新外交」なるものがはたして日本の安全を託するに足るものであったかという問題テーマを掲げて分析する。じつはワシントン体制の下の国際協調外交とは、他面日本の孤立外交であったというパラドックスがあるという。これは米国のウイルソン主義の本質からくるものである、と。ウイルソン主義の分析と評価は、キッシンジャーが第一人者だ、従って適宜引用し説明する、という。旧世界において平和を維持するもっともオーソドックスな方法は、各国間の同盟によってバランス・オブ・パワーを維持することであった。しかし米国はこの概念を軽蔑し、リアルポリティークの実行を不道徳と考えていた。米国が国際秩序の基準としたものは、民主主義であり、集団安全保障であり、そして民族自決だった。

 キッシンジャーによれば、集団的安全保障の概念と同盟の概念は180度反対のものだ。同盟は特定の潜在的敵国を仮定しているが、集団安全保障は、ちょうど国内で司法制度が刑法を維持するように、特定の犯人を想定している訳ではない。制度が有効に機能するためには、すべての国が、各々の国益の相違にかかわらず、脅威の性格についてほぼ同じ認識を有す場合であり、現実には起こりえない状況を条件としている。そしてこれまで世界が経験してきたことからすると、その前提が誤りであったことを示している。国際連盟の下の満州事変、伊のエチオピア侵略、独のオーストリア、チェコ制圧、ソ連のフィンランド侵攻、国際連合の下ではソ連のハンガリー、チェコ、アフガニスタン侵攻に対した何の役にも立たなかった。湾岸戦争については、集団安全保障は米国のリーダシップに取って代わるものではなく、それを正当化するために発動された、と。

 同盟は対抗するグループの間にバランス・オブ・パワー(「問題を平和的に解決するしかない力関係」)を作って平和を守ること、集団安全保障は敵味方全員のためのルールをつくって、それをみんなが守れば平和になるということで、誰かが守らない場合の保障はない。日本は海洋国としての日本の安全を百パーセント守ってくれた日英同盟の代わりに日英米仏の四か国条約と中国に関する九か国条約を与えられるが、これは日本にとってなんの安全の保障にもならなかった。同盟なしで孤立して安全を守ろうと思えば、その国が安全と思う水準は限りなく上がっていく。一メートルでも国境が遠い方がよいというロシアの伝統的政策はその典型、日本の生命線も、やがて朝鮮から満州へと拡大していく。同じことがヨーロッパでも起こったという。仏は独の報復に備えて英国との同盟を望んだが、与えられたのは英仏独伊白の五か国条約であり、それは東欧諸国とのあいだの種々の安全保障取り決めも含んだ。これがロカルノ条約であり、どの国の安全にも役立たなかったのは歴史が示している、と。

 それならば、バルフォア試案の線に沿って日英協力関係が残っていたらどうなったろうか、と岡崎氏。日英は中国大陸における権益の維持に共通の関心を持っていたから、お互いに帝国主義国として相互の利益を守っただろう。幣原外交の失敗は帝国主義である当時の日本外交に、米国式理想主義という本来に合わない衣を着せようとした。英国式外交の方がよほど似合っていた。1927年の南京事件で日英米の居留民が危険に曝され、英国が日本の軍事協力を慫慂した時、幣原の協調外交は断固武力介入に反対した。もしバルフォア試案が生きていれば、日英同盟は事実上復活していただろう。これは中国にとって厳しい状況であり、日本は同盟の信義上インドなどの独立も支持できないから、アジア解放に時期はもっと怒れていただろう。他方、日本の帝国主義的進出が過激になると、米国との衝突路線となることを恐れて英国がブレーキをかけただろう。満州事変も防げたかもしれないし、仮に起こってもリットン報告書の線で収まっただろう。大恐慌の後で英帝国の市場への参入はできたかどうかわからない。しかし不況の結果日本の国内状況が対外政策にはね返る効果は抑制できたはずだ。ましてや、日独伊三国同盟のような非現実的な、空想的なものには絶対入らなかったことは間違いないという。その先の見通しは岡崎氏の著書を見て頂くことにして、ここでは日本孤立外交の淵源を見ておきたかった。


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