大隈重信の反金本位積極財政

2012年07月01日 | 歴史を尋ねる

 明治8年当時の貿易構造は、生糸、蚕卵紙、茶、紙など第1次生産品及び半製品を輸出し、社会資本形成のための器材や民間需要のための消費財を輸入するという今でいう発展途上型の貿易構造であった。必然的に輸入超過になり、支払のために正貨(金貨・銀貨)が大量に流出した。おまけに貿易不均衡を反映して洋銀相場が円安に振れたため、金銀の流出を益々大きくなった。その結果、銀行の保有する金貨が銀行券と引き換えられ減少し、兌換銀行券の発行を困難とした。明治7年に渋沢や井上、伊藤が予期したのと全く逆のスパイラルが働いて、不換紙幣は兌換紙幣の国立銀行券に代るどころか、国立銀行券が金貨に換えられる事態となった、銀行は回収に回った。これに対し、大蔵卿の大隈重信は、明治9年6月、銀行券の発行には金貨を準備を廃止し、政府紙幣の準備で良い事にした。また、銀行券発行の限度を従来の資本金の6割から8割に拡大した。理論上は無茶苦茶であったが、これが当時の最も現実的な国立銀行救済方法であった。

 さらに当時家禄処分によって華士族に対して発行される公債証書の取扱が問題となっていた。そこで華士族をこの公債で一家を維持する方法として、公債証書を以って銀行を経営させるのが良いとなった。そしてその銀行紙幣は政府紙幣を以って兌換するとして、明治9年8月国立銀行条例の改正を行なった。この後、152の銀行が誕生した。これが大隈重信持論の積極財政であった。①政府紙幣の正金(金貨・銀貨)を先延ばしして、銀行券の発行などで通貨供給量を増大させ、金融機関を発達させ、企業活動を活発化させる。②その結果国内に産業が生まれ、国産品が増大し、国内需要を賄うばかりか輸出も拡大する。③これによって貿易収支も改善され、通貨が安定し、正金も流出から流入に転ずる。④その流入した正金を以って、金本位制を確立する。

一方大隈重信のもとで次官をつとめていた松方正義は、この積極財政を容認しながらも、紙幣の本質が正貨兌換性にある以上、政府紙幣や銀行券を増発するよりも、これを減少に向かわせ、さらに国産愛用と輸入抑制を積極的に推し進めて、兌換準備金を増加させなければならないという金本位制に立つデフレ策を建策した。しかし松方正義の建策は、なにはともあれ、金銀の流出を防ぎ、既存の国立銀行の破綻を回避し、同時に新設の国立銀行の育成を促進させるという当面の課題のために押し切られ、大隈の積極財政が政府の方針となった。大隈が緊急避難的にとった反金本位制の積極財政は、国立銀行を雨後のタケノコのように次々生み出し、通貨供給量だけは確実に増大させたので、世の中は一転して好景気の様相を呈するようになった。そこに、この積極財政を一段と加速させる異常事態が生まれた。明治10年2月に勃発した西南戦争であった。


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