日本銀行創立の議

2012年07月19日 | 歴史を尋ねる

 明治14年(1881)10月政変で大隈は失脚し、松方が大蔵卿に就任して財務運営の中枢にすわった。松方は当時実施間際であった大隈の内外債募集案を否定し、反対意見を封じるため天皇・閣員の一任を取り付けた。ここに明治13年9月以降順次整備されてきた緊縮財政ー紙幣整理路線実行体制がが固められた。当時、西南戦争を契機として激しいインフレを引き起こし、国際収支は悪化して正貨が枯渇し、財政も収入低下と支出増で破綻に瀕していた。松方は、この財政経済危機の主因が不換紙幣増発にあると認識し、その解決策を漸進的紙幣整理と正貨蓄積による兌換制度の確立にもとめた。具体的には第1に緊縮財政と増税により財政剰余を捻出し、その一部で直接紙幣消却を図る。第2に予算制度上の赤字構造を是正し収支均等化に努める。第3に準備金を海外荷為替資金として輸出商に貸付け、売上代金を正貨で領収し兌換準備として正貨蓄積を図る。第4に、中央銀行を設立して近代的通貨信用機構を整備し兌換銀行券を発行して、漸次政府紙幣をそれに切り換えていく。このような構想をもとに松方は、明治15年(1882)3月「日本銀行創立の議」「同創立趣旨の説明」を提出し、中央銀行設立の必要性を訴えた。

 明治15年10月、日本銀行はようやく開業の運びとなった。この創立はわが国経済の近代化への基本的礎石であるという意味で、単に金融財政上のみならず経済一般の歴史上一大時期をかくするものであった。明治維新以来開始された政府の近代的通貨・金融制度の移植・育成努力がようやく辿り着いた最終到着点であった。そしてそこに導く駆動力になったものは、富国強兵・殖産興業という、国民的課題の達成を目指さざるをえなかった明治政府の歴史的使命感であった、と日銀百年史http://www.boj.or.jp/about/outline/history/hyakunen/hyaku1.htm/は語っている。それでは、その具体的事実とは何か、先を急ぎたい。

(1)公定歩合の設定:開業と同時に開かれた重役会で①公債証書抵当貸付を一口10万円を極度に3ヶ月11%、1ヶ月10%(年)。②定期預金、1000円以上6ヶ月以上5%(年)。③当座預金は無利子、とする旨を定め大蔵卿の許可を願い出、許可を得た。

(2)国庫・国債事務の取扱:明治維新後の急速な統一国家形成過程において、全国の租税を敏速・確実に中央に集中・保管すると共に、これを再配分することの出来る統一的な国庫制度の確立が必要で、このためには、行政組織、予算・会計制度、通貨・金融制度、交通・通信機関等さまざまな前提条件の整備を必要としたが、それを並行して①府県の財政を規制・統一して国庫の収入とする余地を作り出す、②各省・各府県の出納機関として旧為替方を排除して、近代的金融機関に出納業務を移す。、という二つの方法を中心に国庫制度の統一が進められた。日銀開業時には、国庫金の取扱は収納・支払とも、大蔵省為替方を命じられた各地の銀行が当たっていた。これを政府は日銀に国庫金の取扱を命じた。