大隈財政から松方財政へ

2012年07月15日 | 歴史を尋ねる

 大隈が提議した「財政更革の議」の具体的方策は大きく4つ挙げられた。①税制改正、②地方財政の改正、③正貨収支の均衡、④各庁経費の削減。今の財政論議にある福祉施策はないが、国家財政のテーマは何時の世も古くて新しい問題のようだ。まず税制は酒類煙草税増徴、売買譲渡税相続税等の徴収。次に地方財政の改革は、国税と地方税の支弁範囲の改正。続いて正貨収支の均衡、対外支払いを削減するために、雇用外人費・吏員海外派遣費・外国製品購入費などを見直し予算限度額を決める。これに対する最も効果的な方策は官営工場払下であるという意見がこの議に主張されている。そして各庁経費の削減、各官庁の不急・重複の事業の廃止など、内務・大蔵・陸軍・海軍・文部・工部六省の経費削減指令を行なうことである。このようにして財政整理による紙幣消却の諸政策が表明され、明治14年度の紙幣消却予算額は倍増された。

 どうもこの「財政更革の議」は井上馨の「財政救済策」がベースとなって、大隈と伊藤の連名での提議、そして実行に移されたようだ。当時の政治情勢を先の梅村文書によって辿ってみたい。

 「大隈の「外債論」が敗れて以後、論戦の激化は財政対策一本に絞りこまれた。残るところは聖域に踏み込んでの緊縮財政以外にない。その後の財政政策は、井上が五代友厚の「地租米納論」に反対して提出した「財政救済策」の線に沿って展開された。1873年に大蔵大輔を追われた井上はその後も大蔵卿のポストに野心満々であった。見方によればこの時以降井上財政の復活があったとも云うことだ出来よう」

 「開拓使官有物払下事件をきっかけにして起きた明治14年政変で、大隈とその一派は大隈謀叛の名の下にすべて政府から追放された。もつれた政局は黒田も内閣顧問に祭り上げられ、開拓史も廃止された。他方明治14年政変の勝者である伊藤も内閣府の創設に失敗し、岩倉も威信の低下を免れなかった。こうした中で、松方だけは多年の野望であった大蔵卿の椅子をいとめ、ここに松方財政の開幕となった。就任早々、松方はすでに裁可になっていた公債発行の議を葬り去り、大隈財政との断絶を鮮明にするのだが、松方財政のこの面だけを強調するのは片手落ちの誹りをまぬがれない。他方において松方は先行する大隈財政から少なくとも三つの遺産を継承していたことも注目すべきだ」

 (1)大隈が懸命に取り組んできた財政・金融制度の改革。(2)実質的に井上財政の復活と呼んだところの明治13年秋以降の一連の増税と経費削減を組み合わせた財政政策の体系。(3)「松方が大蔵卿に就任した時にはすでに下方転換をとげていた景気動向。当時、米価は明治14年春までにはすでに峠を超えて下降の傾向に転じていた。大隈の手によって公布を見ていた地租徴収期限の繰上げによって農村は一種のパニック状態に陥っていた。松方デフレ下の農民の土地喪失はこのに端を発していた。「事態がここまでくれば、最早デフレは誰の目にもあきらかなところである。これに対して、松方は政策転換どころか、非常にも追い討ちをかけて、断乎として緊縮財政を続行する。砕けた腰を蹴り上げる。これが松方財政であった。こうして松方財政の下で極度に深刻化したデフレを世に"松方デフレ”と呼ぶ」 

 梅村氏のコメントはかなり辛口であるが、井上の辣腕、大隈の才気、松方の堅実と戦国の信長、秀吉、家康にも準えられ、松方の兼ね備えた堅実な性格、健全財政主義、たたき上げの実務経験が大蔵官僚にとって理想の大蔵卿像として歓迎された。