昭和恐慌による農業・農村の疲弊

2012年12月01日 | 歴史を尋ねる

 引続き坂根嘉弘氏の著述をフォローさせて戴く。 「汗水垂らして作ったキャベツ五十個でやっと敷島一つにしか当らず、蕪は百杷なければバット一つ買えません。繭は三貫、大麦は三俵でたった十円です。これでは肥料代を差し引き1体何が残りますか」 これは昭和恐慌時の急激な農産物価格下落を表現した有名な一文である。煙草代や肥料代に比べ、農産物価格が極端に安く、引き合わなくなったことを嘆いている。恐慌期であるからすべての物価が下落したのであるが、問題は非農産物価格に比べ農産物価格が極端に安くなったことにあった。恐慌期の農業問題の焦点は、この農産物価格下落による農業恐慌(農村疲弊)からいかに脱出するかであった。

 昭和6年(1931)12月、大蔵大臣になった高橋是清は、金本位制を即日廃止し、日銀引受の赤字国債による積極政策をとった。輸出拡大と需要創出政策により、国内景気の回復を図った。農業部門の恐慌対策としては、通常農村経済更正運動や産業組合拡充政策を挙げるのが一般的であったが、当時の運動の特徴は精神運動的色彩が強く、過少消費・自給主義を推進し勤労主義を推奨するもので、高橋が進めようとしている景気回復政策と齟齬をきたす恐れがあった。もっとも重要な政策は米価支持政策であった。政府は本格的な米価支持政策へと大きく舵を切った。1921年の米穀法は政府による米穀の買入・売渡を定めたが、米価基準は示されなかった。その後の改正を経て1933年、米穀統制法が成立した。米穀の最高価格・最低価格が決められ、公定価格を超えて米価が乱高下する場合、政府は無制限に買入・売渡ができることになった。いま一つ高橋財政の重要な施策は時局匡救(きょうきゅう)政策であった。向こう三年間、巨額の財政支出を土木事業や失業救済に当てるというもので、高橋財政の需要創出政策の重要な一環であった。農林省の主な事業は①大規模開墾、②用排水幹線改良、③小規模開墾、④小規模用排水改良、⑤暗渠排水、⑥農道・堤などの改良・新設。事業の国庫負担は五割、地方負担分にも低利資金供給が用意された。諸政策総動員である。農業土木事業は即効的効果はなかったが、労賃散布による追加的所得のほうが効果的であった。国内消費財市場拡大に寄与した効果は大きかったと見られている。

 昭和恐慌期に都市では企業倒産や人減らしが進行し、失職した労働者は出身地への帰村帰農傾向を強めた。更に農業経営から日雇労働力を押し出す傾向が強まり、結果農村部に労働力が滞留していった。地域的に見ると、東北など東日本では農村労働者の農外(都市部)への流動性も低く、農村に膨大な人口を抱え込む傾向が強かった。加えて、東北などでは人口の自然増大が大きく、耕作地主は出来る限り自作地を広げようと、小作人から土地取上げの動きを強めた。各地で小作地取上げが生じ、土地取挙げ争議が頻発することとなったが、東北などは人口圧力がより強く表われたため、しだいに土地争議の主要舞台となっていった。ここで注意すべきと坂根氏が言うのは、土地争議の当事者階層は決して経営規模の小さい貧農や雑業層ではなかった、多くを占めたのは比較的経営規模の大きい小作・小自作の中の中・上層経営であったであった。当時の農民組合運動の指導者は、土地争議の小作側当事者を貧農と認識していたが、まったくの誤認であったという。次に地主側当事者は、案外零細の土地所有者が少なくなかった。特に小作地の自作地化を進めようとした地主には零細な土地所有者が多かったという。農民組合が中・上層経営の小作側を支援するという、構図もあったようだ。現場から遊離した、頭の中でしかでしか考えない社会改革者といわれる人たちは、いつの世にもいるものである。


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