日本に学んだ清朝末期「黄金の十年」:「支那の覚醒」とは当時人口に膾炙した

2023年12月11日 | 歴史を尋ねる

 中国と同様、西洋列国に迫られて開国を余儀なくされながら西洋の先進文化を摂取して近代化を成し遂げ、わずか三、四十年で清国、ロシアを打ち破った日本は、中国の官僚、知識人の目を見張らせた。東海の一小国として見下していた日本だったが、彼らの日本に対する思いは尊敬に変わり、日本を手本に近代改革に乗り出した。実に、二千数百年来の中華帝国君主独裁体制の抜本的な大変革の動きといってよい、黄文雄氏の眼には、そう見える。一般の史書にはなぜかあまり触れられていないが、日清戦争の終結から清朝崩壊まで、1895年から1912年までの十数年間は、当時世界からも「中国の日本化」と称される時代だった、と。米国学者ダグラス・レイノルズは、1898年から1907年までの十年を、日中関係が調和と提携に満ちた「黄金の十年」だと評価している。+
 このような見方に対し、中国ではお決まりの「日本陰謀史観」から、「友好」の仮面をかぶり、留学生を招いて日本の傀儡を作り、あるいは改革に協力することで中国で指導的地位を確保しようとした、との見方が得られる。日本がやることなす事すべてが侵略のための陰謀だったとなる。もちろん日本の改革支援は基本的には国益に基づいてのものだった。だがそれを友好の仮面と断じるには、日本の官民には「ボランティア精神」なり「思いやり」や「義侠心」なりがあまりに旺盛だった、あまりにも献身的で自己犠牲的だった、と。

 「清国保全論」とは当時の日本の政策であり、世論だった。西洋列強の中国進出はと領土の分割は、隣国日本にとっても脅威であり、日中は提携して西洋の東亜侵略勢力に対抗しなければならないという考え、そのためには何としてでも中国を目覚めさせ、日本同様に近代化を押し進めさせ、日中の強力な同盟関係を築きたかった。「支那の覚醒」とは当時人口に膾炙した、中国に対する期待を込めた言葉だ。これは明治維新から大東亜戦争終結までの間、中国が「日本が中国の征服を企み、侵略を遂行した」と言ってやまない時代に、一貫して用いられた言葉でもあると、黄文雄氏の分析は鋭く正鵠を得ている。日本の史家がこうした分析が出来ないのは、なぜなのか。あまりにも、相手の言分に押されて、予断が入りすぎているのかな。
 中国に対する期待は西力東漸の脅威に直面する同じアジア人としての同情心、親近感、愛情に裏付けられたものだった。ことに「黄金の十年」においては、「日中はもともと兄弟の国である。たまたま朝鮮問題を巡って憎しみあっただけだ」といった認識が普遍的だった、と。日本人の中国人に対する「義侠心」とは、幕末からの攘夷精神の延長であり、拡大だった。それは侵略者に対する武士道的な正義感の発露だった。そのような「運命共同体」意識の下で多くの日本人は、勇気と英知を発揮しつつ、時には身命を賭してまで、この国の進歩のために働いた。そして多くの中国人官僚、知識人は、その友情に感謝し、そして応えた。清末思想界のリーダーの一人梁啓超は当時、「他日、日中が合邦して黄色人種の独立を守り、欧州勢力の東漸を途絶えさせる」とまで言っていた。
 黄文雄氏はこうも言う。当時の日本人のこうした打算をも超越するような民族的な誠意やまごころは、現代の人々には理解されにくいかもしれない。何事も「打算」「陰謀」「偽善」という角度からしか物事を見ようとしない中国人には、なお信じ難いところだろう、と。もう少し言えば、まごころとか義侠心、同情心や親近感などの言葉がなかった国の人には、理解を求めても難しい。

 朝野をあげた日本視察の奔流
 戊戌政変後、西太后は再び政権を握り、維新事業をすべて廃止し、旧来の政策へと逆行した。そこで発生したのが義和団の排外騒動、事態は北清事変に発展したが、事変に対する失策の責任を回避するため、1901年1月、逃亡先の西安で皇帝名義の上諭を発し、中国及び西洋諸国の政治を参考に、群臣に意見を求めた。この新政、光緒新政という新たな近代化の動きが開始された。近代化政策の方針として、人材育成、科挙の廃止、学校設立、各産業の振興、軍備の整理、法律の改正、警察・裁判制度の確立等が訴えられた。そして欧米諸国をあまねく視察するのが好ましいが、まずは日本の視察を急務とすべき、と。かくして海外視察は国論となった。1903年頃から視察はブームになり、中央、地方による半ば強制的な視察派遣であった。「近代中国官民の日本視察」の統計から、十年間のジャンル別の視察者数は、教育516名、政治247名、軍事189名、実業188名、警察・監獄146名、地方自治134名、法律・裁判52名。日清戦争後、「商務はわが国の富強の基」であるとして商業視察を命じられた劉学洵一行は、東京では三井、三菱、日本銀行、正金銀行などを含む財界、工商界首脳による盛大な歓迎会に出席、商工会議所渋沢栄一より、励まされた。「日本は国土が狭く物産も少ない。しかし維新以降、君臣上下が一体となり、商業の振興が富国の基礎であるとの認識で、その経営に務め、ようやく今日の進歩を見るに至った」「貴国は広大で人口も多く、商人も労苦に耐えることを知っている。もし今後進歩を求めようとするなら、世界中の商業もかなうことは出来ないだろう」と。劉学洵は日本で多数の会社や工場を視察し、商工業の近代化の成功が日本の富強の原動力であることを確信した。一連の見学は彼に大きな感慨をもたらした。王子製紙で紙の製造の全工程を見て、中国は最も早く紙をつくったが、現在は遥かに遅れている。日本の製紙技術には欧州も及ばないだろう。恵比寿麦酒の工場では、日本のビールが西洋のビールの輸入にも耐え、中国沿岸部や南洋諸島にまで輸出されていることを聞き、競争力とは不断に技術を改良し、製品の質の向上を行ってこそのものである、と知ったという。
 1902年に農業視察に訪れた直隷省の農務局長黄璟(こうれい)は日本の近代化を心底絶賛してやまなかった。「日本国内は田畑が図画のように整備され、男女問わず勤勉だった。学校は林の如く、鉄道は織(ぬの)の如しだ。学ばない人はおらず、精通しない学問もない。およそ商業、工芸、軍備、警察、開墾、鉱産発掘などの諸事業には力を注ぎ、行われている。四十年足らずで西洋と肩を並べるに至ったのは、僥倖だという事ではない」 この時黄璟は、「中国を改良進歩し、友邦と共にアジアでそばたとう」と日記に残している。
 四川省が派遣した丁鴻臣の観察記録によると、案内役の福島安正陸軍少将は、「ロシアに対抗するため、日本は中国が軍事制度を整備し、全力を挙げて日本と提携することを心から期待している。シベリア鉄道が完成したら取り返しがつかないことになる」として相互援助を訴えた。また青木周藏外相も、「学校と新軍建設は急務だが、学校の効用は遅いから、軍の建設に全力をかけるべきだ」と進言した上で、「最近のロシアの大連、旅順進出は東洋の恥であるから大いに争わなくてはならない。中国が強くなければ日本は独りで争うことになるから、中国からの要望があれば、日本は全力で援助することが出来る」と語ったという。丁鴻臣は帰国後、中国は日清戦争での怨みを捨てて建軍を行い、日本を援助してロシアに対抗すべきだという提言を行っている。
 海国以来、日本人の間で広く唱えられていた日中提携によるアジア防衛といった軍事戦略構想は、たえず中国側の無理解、日本に対する誤解、あるいはその時々の情勢によって実現できなかった。しかし日中の信頼関係が醸成されていた「黄金の十年」のこの時期、その構想は確かに実を結ぼうとした、と黄文雄氏。

 明治憲法がモデルの立憲改革
 清国が開国後数十年を経ても憲法を制定せず、専制体制を守ってこられたのは、専制国ロシアの発展を口実に立憲論議を抑えていた。しかし日露戦争でロシアが敗れると、朝廷も立憲という抜本的な国家改革の乗り出さざるを得なかった。清国政府が立憲制度の導入に反対したのは、憲法が制定されると皇帝の権力が制限されるからだった。そうなれば、その権力下で保障されていた官僚たちの権益も大きく損なわれる。官僚というものは改革を嫌うものであり、特に眼中に国家存在のない中国官僚の場合は、昔からそうだった。中国の歴史上、改革という改革がほとんど失敗しているのは、官僚が反対するからだ、と。ところが、視察者たちの日本の憲法に関する報告を西太后一派を動かした。彼らの報告は、「国の内政、軍備、財政、議会の操縦について、君主は統治権を有する。君権は完全厳密である」といって、君権は安泰という事ばかりが強調され、臣民の権利や国民の民主的機能に関する条項について、あまり語られなかった。こうして西太后は、1906年、立憲政治の準備を命じ、予備立憲、官制改革の乗り出すことになった。
 西太后に憲法改革を同意させた政治視察大臣載沢(光緒帝の従兄弟)は、最初に日本を訪問、大歓迎を受け、首相、外相、陸相と会見、天皇にも拝謁した。憲法講義を担当したのは、伊藤博文、金子憲太郎、東京帝国大学穂積八束であった。憲法導入で国体は変わらないのかとの質問に、穂積は「国体は歴史発展の産物。日本は憲法と国会を設けたが、固有の君主国体の妨げにはなっていない」と説いて一行の懸念を説いている。また伊藤は、「憲政には君主立憲国と民主立憲国の二種類がある。貴国は数千年来の君主国であって日本と同じだから、日本の政体を参考にしたらよいのではないか」「君主立憲と専制の最も大きい違いは、立憲国の法律は必ず議会の協賛が必要だということ。法律は全国で統一しなければならない」と。載沢は日本での視察を終えた時点で早くも、日本をモデルに、と考えた。英国等を経由して帰国した載沢らの上奏によって清国の予備立憲が決定されると、憲法調査のため達寿、続いて李家駒が日本憲法視察大臣として派遣された。清国政府は総理大臣桂太郎と伊藤博文に直接支援を依頼し、明治天皇も伊藤に十分世話をせよと命じた。一年間に亙り講義を受けた李家駒はすっかり日本に心酔し、中国が大日本帝国憲法と同様、欽定憲法の制定を主張するようになった。
 「日本の憲法が有効に実施されたのは、事前に二回も官制の大改革を行ったからだ」という日本視察者端方の意見により、1906年9月、清国政府は立憲の手始めに官制改革に着手した。端方が提示した改革案は、①中央行政統一のために責任内閣制を導入、②全国の機関運営を円滑にするため、中央・地方の権限配分を確定、③中央各官庁の整理・統廃合、④地方行政制度の改革、⑤官吏体制の改革などで、どれも主に日本を参考にしたものだった。当初は保守派から激しい反対意見が続出したが、日本で研究を重ねた視察組が中心となり、着実に進められた。李家駒などは日本を例に、宦官の排除を含む皇室制度の改革まで提言した。立憲のタイムスケジュールでは、準備期間九年を経て憲法を発布するとされた。この期間内に中央・地方行政、司法・立法機関の制度的整備確立や各種法律の改正、また国民の啓蒙教育を行う事だった。第九年目には憲法のほか、皇室大典、議員法、上下議院の議員選挙法の公布、予算決算の決定、新たな中央・地方官制の完全実施、国民の識字率の5%までの引き上げも行われるとされた。「日本並み」を目指す、近代国家プランであった。
 1911年7月、李家駒は憲法協同編纂大臣に任命され、汪栄宝とともに八十六か条百十六項目からなる中国初の憲法草案を完成させた。しかしこの年10月に勃発した辛亥革命によって、この草案は永遠に葬られた。
 革命の勃発に狼狽した清国政府は康有為や梁啓超の指導を受け、11月3日に立憲制への移行を明言した「憲法信条十九条」を発布している。もはや大日本帝国憲法より現行の日本国憲法に近い内容だった。国会が法律を制定し、内閣が行政を担当すれば共和政治と実質的に同じだから、革命派も納得できるだろうという考えからだが、皮肉にも清朝廷の実権は、この新憲法で内閣総理になった袁世凱に簒奪され、間もなく清国は滅びた。

 懲罰主義から日本式裁判・監獄制度へ
 清末に確立された司法・裁判制度は日本を模倣したものである、と黄氏。裁判や監獄制度だけでなく、近代中国の法制度は決定的に日本の影響を受けることになった。当時出版されていた法律書の多くが日本視察・留学経験者の手になる日本書の翻訳だったことも、その大きな原因である、と。

 日本で学んだ「時間の観念」という思想大革命
 中国では時刻を公布するのは皇帝の大権とされていたものの、実際は様々な地方時間、自然時間、社会時間が存在していた。だから中国に渡った西洋の宣教師などは、正確な時間が分からないことを生活上の最大の悩みとしていたという。西洋から時計が紹介されたのは明末、二十世紀初頭には、香港、マカオなどの通商港の商店には軒並み時計が掛けられていたが、時間が正確かどうか誰もわかっていなかった。中国では時計は、官僚、商人など裕福層のアクセサリーにすぎなかった。その中国に「時間の観念」を広く紹介したのが、日本から帰った視察者、留学生たちだった。西太后の新政以降の日本への視察者たちは、まず日本へ向かう船の中で、出発から食事、点灯、消灯、下船まで、あらゆる作為が時計の時間に照らして行われることを知る。到着後の行動は、すべて時間にのっとってたことは言うまでもない。おそらく彼らは、まず何よりも時間の支配というものを通じて、近代社会という別世界の味を味わったことだろう。彼らの視察記録の多くには、洋式の日付、時間が書き記されていた。江蘇省の民族資本家で立憲運動の中心的指導者であった張謇(ちょうけん)もそうした一人であったが、彼は帰国後もその習慣を守り続けた。張謇の建白によって清国政府は、産業、通商などを司る商部の設置に合わせて、「1903年3月、鉄道、通信、関税などの政府事業にグリニッジ標準時を採用した。
 中国にもたらされた時間の観念は、政治、社会、産業の近代化を促進する上で大きな力となっただけでなく、知識人に対しても文化的な大変革をもたらした。この点について黄文雄氏は、フランスの学者マリアンヌ・ブルギエールの論文「時間の解釈と日本の影響」の言葉を引用しながら解説する。  中国人はそもそも一般に、時間を周期的時間と直線的時間の組み合わせとして考えていた。だから実質的内容はどうあれ、発展とは古代の理想を実現することと認識されており、それを未来に結び付ける感覚はなかったし、歴史は鑑(かがみ)であって、そこでは現在が規範とすべき理想を過去のできごとが再現していると理解していた。だから歴史の観念は確かに過去と現在を包摂していたが、未来を表すはっきりした言葉はなく、それはときに前古に対する前途、前世に対する来世として表現されていたにすぎなかった。ところが中国人が日本で経験した標準化された時間のなかでは、あらゆる瞬間は均質で一律に測定されるものであった。現在と比較して過去の特別の優越性があるわけではない。時間は使うものであり、現在の各瞬間においてもっともよく使うことが出来るので、事実上、現在が過去より重要になった。こうした時間意識の精神的変革は、若い知識人たちの中国の過去に対する考えのなかに忍び込んでいった。これにより、彼らは自分たちの歴史から距離をおいて考えることが出来るようになった、と。
 中国人にとって最高の文化とは中国尚古文化であり、唯一絶対の信仰対象ですらあった。進歩という思想の採用は、その信仰を放棄することに等しく、まさしく思想革命の名に値する、と黄文雄氏は分析する。日本人は外来思想の摂取に比較的柔軟だが、中国人はその逆である。その分、日本人にとっての文明開化以上の思想大革命だったと言えるだろう、と。当時多くの日本書が翻訳されたが、そのなかには西洋各国や日本の歴史に関するものが多かった。それらは文明の進歩を記述する西洋の歴史学の基づいたものである。そして時間の観念は、中国の過去の歴史、文化を謙虚に見つめ、分析する契機を与えた。

 国民国家をめざした日本型教育システムの導入
 明治維新後の日本政府は、教育の普及発展こそ近代国家発展の最も有効な手段と考え、明治4年(1871)に早くも文部省を設立し、翌5年には小学校から大学に至る近代教育体系(学制)を決定した。その後の学校令で小、中学校と大学の系統が整備され、別系統として師範学校、そして実業学校、専門学校が設置された。清国において日本の教育の目覚ましい発展ぶりに着眼したのが、康有為ら変法自強運動に人々だった。彼らは近代国家が強大なのは機械や兵器が優れているからだけではなく、根底に研究や教育の普及があるからだと確信し、変法と共に興学を主張し、日本をモデルとした教育改革、つまり洋務運動時代の人材教育から国民教育への転換を訴えた。彼らの運動は戊戌維新とともに挫折したが、その人材育成の教育理念は、西太后の新政後に受け継がれ、結実していく。
 1904年、張之洞や管学大臣張百煕が「奏定学堂章程」を提出し、中国最初の学制として施行された。これは近代中学の教育システムの原形だが、学校の編成といい、修学期間といい、内容のほとんどが日本の学制の模倣であり、違うと言えば名刺の違いぐらいだった。この学制はその後改訂が加えられながらも、基本的には中華民国や今日の中華人民共和国にまで引き継がれている。「奏定学堂章程」には、「村に不学の戸なく、家に不学の人なし」とする日本の義務教育施行の理念がそのまま盛り込まれている。これは中国の文化史、社会史上特筆すべきことだと言ってよい。この国における学問とは、あくまで「四書五経」に代表される儒教イデオロギーを中心とした支配階級(官吏)の為の特権であり、立身出世、一門栄華の道具であり、大多数の民衆とは無縁のものだったからだ。むしろ支配階級の都合(愚民政策)から、民衆が学問することは危険視されていた。「祖法」に固執し、「改革」を嫌う中国において、これは革命的なことだった。1907年には、「強迫教育(義務教育)施行令」が公布され、学齢児童を就学させない父兄の罰則規定も設けられた。当時の小中学校では、日本式に図画、体操、音楽などの教科も取り入れられ、生徒たちの世界を大きく広げた。ほとんどの教科についてはもちろん教育に当たる人材がいなかったため、日本留学帰りの者や日本人教員が教える場合が多かった。日本を模倣し、中国に近代的な教育制度を根付かせた大功労者は厳修。厳修は科挙出身ながら革新精神に富み、日清戦争の敗北で世界の趨勢に対処し得る近代的教育制度の必要性を痛感し、科挙の科目に「経済」を加えるよう上奏し、それが原因で一度は免官されたが、自費で日本を訪れ、幼稚園から大学に至るまで、幅広い視察を行っている。帰国後、日本で得た知識を生かし、袁世凱総督の指揮の下で、直隷省で教育行政を指導し、数多くの各種学校の設立に関わった。1906年の統計では、同省では北洋大学堂以下、医学堂、農学堂、師範学堂、そして各地の小学堂に至るまで、総計四千三百余校の新式学校があったが、その大半は厳修の在任中に開設された。厳修の導入した日本式の教育行政は大きく進展し、やがて全国的なモデルとなった。また自ら再度日本を視察しただけでなく、積極的に日本への視察、留学を奨励した。
 また、中国では教育の最高行政機関として「学部」が設置された。それから間もない1906年1月、直隷省での実績が認められた厳修が学部の事務次官に抜擢された。彼は文部大臣栄慶の尻を叩きながら、彼が中心となって新教育制度の確立を行った。更に日本を模倣しなければならないと考えた厳修は、日本における教育の指針「教育勅語」に注目し、1906年3月、その中国版である「教育宗旨」を起草して皇帝に上奏し、全国に公布した。「教育宗旨」は忠君、尊孔、尚公、尚武、尚実の五項目からなっていた。尚公とは省と省、州と州、県と県、ひいては郷、里、家、族同士の間に境や縄張りが存在しているが、それを克服して全国民を団結させ、公徳や団体の効果を教えて、国民一人ひとりが他人を自分のように扱い、国を自分の家のように愛するように教育を行わなければならないというものだ。これは教育勅語の「兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし」である。今日の日本人は前近代的、封建的と見る向きもあるが、厳修は当時中国人の前近代的な民族性を的確に見抜き、このような形で抜本的に改めようとした。黄文雄氏は厳修のこの慧眼に敬意を送っている。

 川島浪速によって生まれた近代警察組織
 北清事変中、北京で日本軍は軍事警務衙門を設置し、治安の維持に功績があった。その顧問として柴五郎中佐の下で任務にあたり、市民の尊敬を集めていたのは川島浪速という人物である。川島は副島種臣や榎本武揚が明治13年(1880)に組織した「興亜会」に入会、その後アジアの復興と西洋侵略勢力の駆逐という志を立て、同郷の福島安正少将の紹介で中国に渡り、活動をした。日清戦争の時には陸軍通訳官となり、乃木希典将軍率いる第二師団の台湾征討に従い、豪胆な交渉で強力な六堆義軍を帰順させるなど勲功を立てている。また北清事変で、独軍に紫禁城の砲撃を中止させる役目を買って出た日本人が、この川島だった。これによって清軍はようやく降伏した。福島少将は川島に日本軍と清国軍二百を与えて、紫禁城を中心とする北京市内の警備を任せた。そして軍事警備衙門が発足すると、その顧問になった。
 清朝時代、兵力として当初は八旗軍と緑営があり、その後新興の郷勇や新軍があったものの、近代警察に相当する治安、公安組織はなかった。川島は、今後中国国内の混乱を国際紛争に発展させないようにするため、中国人自身の手による警察制度の確立を発案した。ちょうど中国の朝野も日本の警察制度を賞賛しており、時期としてよかった。1901年4月、清軍の旧兵舎を利用して北京警務学堂という警察学校を設立した。川島は総監督に就任し、日本の文武官の中から中国語が出来る警察官や法律の人材を選んで講師にした。清国の陸軍から三百人余を選抜させ、軍事警務衙門勤務として講習を受けさせた。これが中国における近代警察の嚆矢であった。ところが日本軍が占領地区の民政権、警察権も返還、慶親王と李鴻章はこれを惜しみ、川島の留用を申出て、破格の待遇で、指揮監督の権限が与えられた。川島は警務学堂の制度の拡充を図り、5年間の卒業生は三千名近くに及び、入学希望者も逐年増加し、1906年には6千名を超えた。
 ある日、粛親王は川島宅を訪ね、川島と日清の提携について語り合った後、突然国と国が提携する前に、まず我々が兄弟の義を結ぼうと言い出し、義を結んだあと、子供のいない川島を気の毒に思い、第十四王女を川島の養女とした。これが後に「東洋のマタハリ」「男装の麗人」として有名になる川島芳子である。辛亥革命当時、川島と粛親王は満蒙独立運動を指導した。清朝崩壊後は王家も離散し、粛親王の死後、親王家の面倒を見たのは川島だった。

 近代教育を根付かせたのは日本人教員だった
 中国の近代改革における日本人の教育的貢献は、学校設立だけにとどまらない。新式学校における日本人教員の活躍は、規模という面ではさらに大きな貢献をしている。東文学堂の中島裁之は李鴻章に対し、日本人教員の招聘の必要性を説いたとき、李鴻章は即座に二千人を招聘するとの意向を示し、使者を日本に派遣した。文相菊池大麓は清国のため、優れた人材を送ると約束し、師範学校関係者を募集した。日本人の教員が大量に招聘されるようになったのは、1905年からである。日本人教員の任期は二、三年だった。多くは才能と品行が認められて選抜された教育者であり、また中国人学生も好学の気風が旺盛だったため、教育の成果は良好だったという。中国における新学の萌芽を育んだ日本人の功績は計り知れない。中でも特筆に値する貢献は、師範学校における新たな教育者の養成だった。新しい教育制度を打ち立てるに当たり、全国各省に多数の師範学校を設立した。そして多くの日本人教員がそれらの学校に赴任していった。
 日本では明治時代にはお雇い外国人教師がおり、教育の発展に多大の貢献をしたが、清末の日本人教員の貢献は、初等から高等教育に至るといった規模においても、全く無から着手したという意味において、それ以上に大きいものだったと言える。しかしこのような日本人による貢献も。、わずか十年ほどで下火になる。確かに辛亥革命による清国の崩壊が大量帰国のキッカケとはなったが、実はそれ以前から日本人教員は減少していた。その理由として、日本留学生が大量に帰国して日本人に代わり、日露戦争後の中国国民の間に起こった列国からの利権回収運動で、日本人が握っていた教育権も回収の対象になった。そしてもう一つは列国による妨害である。欧米諸国からすれば、中国の教育界を握る日本が煙たくて、「中国の日本化」は何としても阻止したい。これらの国が執ったのが、中日分離策、日本人排斥策だった。中国への勢力扶植に出遅れた米国は、二十世紀初頭以来、教育援助の形で中国進出に力を入れた。それだけに米国人のやり方は露骨だった。米国紙上で、日本人教員の排斥とそれに代わる外国人の任用、ミッション系の学校の開設を訴えた。教会からの潤沢な資金と治外法権に守られながら、中国の高等教育を牛耳っていく。
 米国政府は1907年、中国人留学生の無償受け入れ協定を清国政府と結んだり、翌年には北清事変の賠償金を一部返還して、留学生の経費に充てることを決定した。現在の精華大学は、返還された賠償金で建てられた米国留学予備校「清華園」の後進である。この時、外交的老獪さに欠ける日本政府は、こうした米国の動きに有効な対応策を講じることが出来なかった。後の中国での親米反日派が台頭したのは、このような争奪戦で、日本が米国に敗れた結果である、と黄文雄氏。確かに、ここまで中国の近代化に貢献しながら、反日になっていく過程は、日本人でなくとも、歯がゆいだろう。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。