ミッドウェーの前哨戦 珊瑚海海戦 その1

2019年05月17日 | 歴史を尋ねる
 ミッドウェー海戦大敗の前、日本は敵の見えない本格的な空母戦を珊瑚海で戦っている。でも、日本はこの海戦の教訓を活かしていないという。日本海軍のウイークポイントは何だったのか、今回はこの辺に焦点を当てながら、海戦を振り返って見たい。

 先ずはブログ『夕撃余談1942年の戦い』から。第二次世界大戦における海戦は、空母による決戦がその勝敗の鍵であった。海戦の本場、インド洋、太平洋においてはより強力な空母戦力がある方が強いしエライ、という単純な図式がほぼ成立していた。そしてアメリカ軍の戦争計画より、かなり早い段階で迎えてしまった開戦直後だと、日米の空母戦力はまだ互角であり、この結果、本格的な海上戦闘が始まった1942年は壮絶な空母決戦の年となった。ただし、両者の空母戦力が拮抗していたのは1943年前半までで、それ以降はバケモノと言っていいエセックス級正規空母を大量生産してきたアメリカの工業力によって一方的な戦力差が付いてしまった。この結果、第二の空母決戦の年である1944年の戦いは戦闘と言うより、アメリカ海軍による日本空母部隊の一方的な虐殺に近い状態になった。とはいえ、全世界で空母による艦隊決戦を行った経験があるのは日米両軍だけ。そして単純な戦力差ではなく、純粋に両者の戦略、戦術が勝敗を決した、といえる。正規空母同士の戦いは1942年の5月の珊瑚海海戦(Battle of coral sea)、6月のミッドウェイ海戦(Battle of Midway)、8月の第二次ソロモン海戦(Battle of the Eastern Solomons)、そして10月の南太平洋海戦(Battle of the Santa Cruz Islands)のみだった。

 さて、空母が強いしエライのは実戦の結果から明らかだが、それはなぜか、という基本的な部分を最初に確認しておく。 単純に言ってしまえば、当時最強の対艦攻撃能力を持っている上に、それらが通常艦船では反撃不能な遠距離から飛んで来て、かてて加えて、近距離からの投弾による高い命中率を誇るためだった。すなわち戦艦主砲砲撃に近い(若干劣るが)破壊力を持つ急降下爆撃機、そして駆逐艦や潜水艦と同じような魚雷攻撃をする雷撃機、これらがより遠くから飛んできて、そしてより近距離から正確に攻撃を行えたからであった。航空兵力は母艦から数百kmも離れた場所まで飛んでくるから、空母が無い艦隊は反撃のチャンスすらないまま海の藻屑となる。ただし、航空機最大の敵は実は地上砲火である、という点から一元化された明確な対空防御の指揮系統の確立、そしてレーダーの管制射撃、直撃しないでも損害を与えられる近接信管の開発などによって、大戦後半では航空機といえど、そう簡単には敵艦隊に近づけなくなった。ただし、アメリカ軍の艦隊に限るという条件付だった。とりあえず、空母から飛んでくる航空機による打撃力は当時の海上兵器の中でも最強の部類に入るものばかりだった。これは第二次大戦開戦直前(1930年代後半)から各国で実用化された航空機の1000馬力級エンジンの登場が大きな役割を果たしている。

 このエンジンによって大型の兵装が搭載可能になり、この結果、戦艦や巡洋艦の主砲弾に匹敵する爆弾、さらには戦艦クラスに十分な損傷を与えることが可能な魚雷を艦載機に搭載できるようになった。これによって相手がどんな軍艦であろうと、海上戦において空母に沈められない相手は無い、という恐るべき時代がやって来たのが第二次世界大戦直前の世界の海軍の状態だった。そして、それを強烈に証明して見せたのが、日本海軍の真珠湾攻撃だったわけだ。(ただし相手は全て旧式戦艦で、しかも後にほとんどの艦の引き上げに成功、復旧工事の後、戦線に復帰して来てしまった。さらに言うなら空母も全て逃してしまっており、戦略レベルでは この作戦は間違っても成功とは言いがたい。事実、これだけの大規模奇襲を行いながら、その後、1941、42年を通じて南太平洋の制海権を得られてない)

 また、アメリカの飛行機では、1940年5月に初飛行し、1942年の空母の年の段階で アメリカ海軍 主力艦上爆撃機(Dive bomber /急降下爆撃機)だったダグラスのSBDドーントレス。爆撃機としてだけではなく、海戦で重要な敵の発見と周辺哨戒任務を兼ねた機体のため、偵察爆撃機(Scout Bomber)と呼ばれる事も多い。また、1000lb(ポンド/約453.6kg)爆弾を機体下面に搭載しての飛行が可能で、戦艦主砲よりやや劣るものの、巡洋艦の主砲よりはるかに強力な打撃力を持った。それが艦爆の仕事に必要な最低限の打撃力だった。そして実際、この機体によって珊瑚海海戦、ミッドウェイ海戦ともに日本海軍は大きな損失をこうむる事になる。ちなみに日本側の主力艦上爆撃機である99式艦爆の爆弾搭載量は半分の250㎏の爆弾しか搭載できなかった。
 だから、ドーントレスを運用していたアメリカ海軍航空部隊の破壊力は、戦艦の主砲よりは劣るものの、巡洋艦よりはずっと強力だった。このため、絶対不沈レベルの装甲を持った戦艦以外の相手、すなわち巡洋艦や正規空母までなら、この爆弾だけで十分撃沈が可能だった。実際、空母艦隊決戦で、アメリカ側の爆撃のみで沈められた艦は赤城、加賀、蒼龍をはじめ、複数あった。

 さて、MO(ポートモレスビー攻略)作戦は、陸軍よりも南方進出に熱心だった日本海軍が計画したもので、米豪間の海上封鎖実行を目論んだ一連の作戦の一つだった。まず基本的な情報として、戦場となったニューギニア島南東部と ビスマルク&ソロモン諸島、そして珊瑚海の位置関係を地図で確認しておく。 MO作戦も、この地域で行われた作戦だった。地図で見るとわかるように、ソロモン諸島は、アメリカの拠点、南の三連星のニューカレドニア、フィジー、サモアに対峙する地域となっている。一方、ビスマルク諸島の北には日本の南太平洋の拠点、トラック諸島があるから、この海域で日米海軍が衝突するのは ある意味、当然だった。
 まず最初は、先に見た1月20日からに行われたビスマルク諸島侵攻だった。ラバウル、ガビエン占領は例の一航戦&五航戦の航空支援を受けてあっさり成功、この結果、日本海軍はラバウルに南方進出の基盤となる航空基地を建設する。ここからは、二方面作戦となって、全く別方向に位置する西のニューギニア島と東のソロモン諸島の攻略を日本海軍は同時進行で計画する。最初はニューギニア島のラエ、サラモアへの侵攻を目論んだSR計画が立てられ、それによって3月8日にラエ、サラモアへの上陸が決行が決まった。それに続いて計画されたのが、ニューギニア島南部のポートモレスビーと、反対方向のソロモン諸島のツラギを同時に攻略する、というMO作戦だった。

 3月8日に行われたSR作戦は、ほとんど抵抗を受けずに成功、日本海軍はニューギニア島のラエとサラモアをあっさり占領してます。先に述べたように航空支援の空母はなかったが、それで大丈夫だった。これで南洋部隊はこの方面の侵攻に自信を深めたが、全てが順調だったのはここまでだった。 上陸直後の3月10日に、1942年2月以降のアメリカの空母攻勢作戦の一つ、ラエ・サラモア空襲の奇襲攻撃を受けた。これによって、攻略を担当していた南洋部隊は輸送艦4隻の沈没をはじめ、大損害を受けることになった。
 これは日本側が接近に気がついてなかったアメリカ空母機動部隊、USSレキシントン(TF17)とUSSヨークタウン(TF11)を中心とした合同機動部隊が、ニューギニア島の南側から密かに空襲部隊を発進させ、奇襲に成功した空襲だった。(TFはTask force、独立して任務遂行可能な空母機動部隊の略号) この時、例によって日本側の機動部隊主力は、はるか西のセレベス島にあり、そのスキを衝かれた形になった。(五航戦の翔鶴、瑞鶴は日本で訓練中)
 これにショックを受けたのが、航空攻撃にトラウマを持つ現地の南洋部隊で、(ウェーク島でたった4機のF4Fにひどい目にあった) 彼らはすぐさま、連合艦隊司令部に空母の援護を要請する。アメリカの空母機動部隊が活動してるなら、次に予定されてる ポートモレスビー&ツラギ攻略のMO作戦は航空支援無しには無理だ、というわけだった。この結果、先に紹介した改造空母の祥鳳が第四艦隊率いる南洋部隊に派遣され、その指揮下に入ることが決定されます。が、これだけでは不安だ、としてさらに正規空母の派遣を南洋部隊は求めた。このため、戦史叢書によると3月13日に南洋部隊(第四艦隊)の司令部と連合艦隊参謀の話し合いが北のトラック泊地で行われ、ここで正規空母の派遣が決定されたようだ、とされている。

 対するアメリカは3月の段階で、暗号解読によってMO作戦の存在を知った。その後、4月になって、今度はイギリス側(オーストラリア経由)が同じく暗号解読によって五航戦の空母派遣を知り、これをアメリカに通報、これによって日本側の作戦、空母機動部隊を伴ってのポートモレスビー侵攻、というのは完全に知られる事になった。この一帯はオーストラリアの勢力域であり、さすがに空母まで出てきては、持ちこたえることはできない、と再度、アメリカに救援要請が出された。で、ラバウルとガビエンの時は援軍を拒否したアメリカ海軍だったが、この段階では既にイケイケ海軍に変身済み、さらにポートモレスビーはアメリカにとっても重要な航空基地であり、よって太平洋戦域のアメリカ海軍責任者、ニミッツは、これを受けて立つことにした。この時期、作戦直前の4月末の段階でアメリカ空母の配置はUSSヨークタウンは既に珊瑚海にあり、USSレキシントンは真珠湾を出て、フィジーとニューカレドニアの中間に近い海域に居た。USSホーネットとUSSエンタープライズは、前に見たようにドゥーリトルの東京空襲を終えて、4月25日に真珠湾に帰還した直後だった。
 最終的に、日本側の艦隊がトラック泊地から動き出す前日、4月29日になって太平洋戦域のアメリカ海軍責任者、ニミッツは全空母の珊瑚海に向けての出撃を命じた。このタイミングは、完全に暗号を解読されてるゆえだった。 結局、真珠湾から出撃した2艦は海戦に間に合わなかったが、それでも全力で迎え撃つ、というのがアメリカ側の方針だった。この全力を尽くさない日本海軍と、常に全力で戦いに出るアメリカ海軍の構図は、後のミッドウェイ海戦でも再現されることになった。

 この五航戦の派遣と、祥鳳の南洋艦隊への移籍はどちらも4月10日決定され、両者とも、トラック諸島への集合が命じられた。が、その準備に入った直後にドゥーリトルの東京爆撃があったため、どちらもこのアメリカ空母機動部隊の追撃を命じられ、その後、改めてMO作戦に回されることになった。この追撃戦の時、祥鳳は長時間にわたって時速20ノット(約37km/h)という高速航行を行っており、改造空母とはいえ、その機動力は十分だ、という事を証明している。しかし、祥鳳は南洋部隊(第四艦隊)専属とされたので、MO作戦後も現地に留まる予定であり、これの配備は南洋艦隊司令部で歓迎された。が、MO作戦開始後約1週間、珊瑚海開戦初日(珊瑚海海戦は2日に渡って展開される)に早くもこれが撃沈されてしまい、第四艦隊司令部は衝撃を受けることになった。といっても、後で見るように改造空母、補助的な航空戦力でしかない空母を単独でアメリカ空母機動部隊の前に放り出したのだから、この船は南洋部隊(第四艦隊)司令部に殺された、と言っていい。
 改造空母とはいえ元は軍艦であり、先に見たように18ノット以上で航行が可能だった
祥鳳の指揮官たちは五航戦側の支持を得て、上陸部隊(陸軍南洋支隊)とは離れて瑞鶴、翔鶴と共にに行動することを希望した。独自に敵空母の索敵、撃破に当たる空母機動部隊に航空戦力を集中し、その打撃力を有効に使うことを、南洋部隊司令部に訴えた。が、第四艦隊司令部の参謀だった川井大佐はこれを拒否、上陸部隊を安心させるため、その輸送艦隊と近距離、常に視界に入るような距離での護衛を祥鳳に命じた。すなわち他の二空母とは切り離された空母の単独運用だった。上陸部隊は敵航空部隊からの攻撃を恐れており、その要望によって、素人目にもそこに空母が居る、という援護を行うことになった。この上陸部隊を直接護衛する、という話は、さすが貴重な正規空母、しかも借り物で一時的に指揮下に入っただけの五航戦の二空母にこの任務をやらせるのは気が引けたらしく、その結果、南洋部隊(第四艦隊)直属の祥鳳がその役割を担う事になったが、ゼロ戦7機しかない空母で2隻の正規空母からなるアメリカ機動部隊の攻撃を防げるわけもなく、海戦の初日、最初に沈む空母となった。(祥鳳撃沈時のアメリカ側の襲撃は戦闘機だけで倍以上の17機、艦爆(爆弾)艦攻(魚雷)は合計74機だった。これが南洋部隊司令部の空母運用の拙さその1だった。その2は正規空母部隊に対するものだった。まず200機からの戦闘機を持つオーストラリア北東部にある基地、タウンズヒル基地の攻撃を、ゼロ戦を37機しか搭載してない
五航戦の翔鶴、瑞鶴に対して要請した。さすがに驚いた五航戦司令部がこれに反対、さらに南洋部隊(第四艦隊)の頭越しに連合艦隊司令部にこれを訴えて圧力をかけ、命令を取り消させた。さらに南洋部隊による正規空母に対する変な指令その2が、当時は南洋部隊の管轄下にあったラバウル基地の部隊に対するゼロ戦輸送の依頼だった。当時、戦闘によって消耗しつつあったラバウル基地に9機のゼロ戦の輸送を依頼した。(翔鶴が5機、瑞鶴が4機運んだ)

 いよいよMO作戦が開始されるが、この作戦は、なんのための作戦?と聞かれれば
ニューギニア島南岸のポートモレスビーを攻略するための作戦だよ、の一言でオシマイ。じゃあ、具体的にどんな作戦なの?と聞かれると、30秒くらいの沈黙の後、脂汗流しながら倒れる、というくら面倒な内容で、いかにも第四艦隊の参謀連中が考えたらしい、机上の空論作戦になっていた、と夕撃余談さんは解説する。
 さて、まず基本中の基本、作戦の目的は
●連合軍の拠点となっているニューギニア島南岸の
ポートモレスビーに上陸、これを占領する
であり、基本的な約束事としては
●5月10日を上陸予定日とし、これをX日とする
というだけだ。
 X日、という言い回しは日本海軍の正式な命令に使われるもので、すべての作戦の日取りはこの日を基準にX-1、X+3といった表示で指示される。しかし、ここからがやっかいで、MO作戦は大きく四つに分かれた作戦構想とそれを実行する部隊に分かれた。この結果、それぞれがほぼ独立し、平行しながら作戦は展開される事になり、めちゃくちゃヤヤコシイ状態、と言っていい。そして、案の定、いくつもの行き違いが後に生じることになった。とりあえず、四つの作戦要素ごとの部隊を見ておくと、
1. ポートモレスビー攻略部隊
2. 水上基地建設部隊
3. 上陸部隊の護衛艦隊主隊
4. 空母機動艦隊

2.は、制海権を持たない珊瑚海に進出する不安から、日本海軍が考え出した対策。ポートモレスビー上陸部隊の進出に先立ち、水上機基地の建設を行い、珊瑚海一帯を航空機で哨戒しよう、うまくいったら九七式飛行艇(大艇)に魚雷積んで、攻撃までやろうという考えで、そのために作戦海域周辺に基地をつくろう、というものだった。そのために選ばれたのが、ツラギ、デボイネ、ロドニーエントランスの三箇所の土地で、ポートモレスビーの前に、まずここを占拠して水上機基地を造ろう、というものだった。

 水上機基地建設&現地制圧部隊はラバウルの湾内に集結後、ポートモレスビー攻略部隊に先行して出撃した(実際の作戦では4日先行した)。そしてソロモン諸島の東側で(より遠くまで偵察飛行ができるから東側が理想的) 水上機の基地に向いている、と判断されたツラギの攻略に向かい、最初の水上機基地をここに建設、珊瑚海北側の哨戒を開始した。その次はニューギニア島の東側に広がる珊瑚礁の島々、当時はルイジアード諸島と呼ばれていた島の中にあるデボイネ島に進出、ここに次の水上機基地を建設した。
 作戦開始からわずか4日前、それでもツラギとデボイネの基地は造られ、作戦中に活動を開始した。 特に、ツラギはその上陸直後にUSSヨークタウンから空襲を受けながら、
その基地機能を立ち上げた。が、結果から言うと、その水上機による偵察は、実際の戦闘にはほぼ寄与せず、さらには計画されていた九七式飛行艇(大艇)による魚雷攻撃も、急造の基地では機材がなくて機体に魚雷を積むのに時間がかかりすぎた、といういかにも日本海軍らしい理由で飛び立つことすら無く失敗した。いたずらに作戦を複雑怪奇にしたわりには、
効果はイマイチ、というのが正直なところだった。

 1のポートモレスビー攻略部隊は、ラバウルを出てまっすぐポートモレスビーに向かった。ただしツラギの攻略部隊から、駆逐艦2隻と掃海艇、さらに補給艦などが ツラギの作戦終了後、こちらに向かい、途中で合流することになっていた。ちなみにポートモレスビー攻略部隊と行動を行動を共にした直衛部隊は駆逐艦による第六水雷戦隊だが、 菊月、夕月の2隻の駆逐艦は先にツラギに向かったため、当初の護衛は旗艦の軽巡 夕張と5隻の駆逐艦だけだった。
 では、それ以外の護衛部隊、祥鳳の居る主力護衛艦隊、そして五航戦を中心とする空母機動部隊は何をしてたのか。まあ、これらが

3. 上陸部隊の護衛艦隊主隊
4. 空母機動艦隊

の動きになるわけで、こちらはラバウルからではなく、より北のトラックから出撃する手はずになっていた。はるか南のラバウルから出撃するポートモレスビー攻略部より護衛艦隊のMO主隊は4日早く、五航戦を中心とするMO機動部隊は3日早くトラックを出航、その後、ソロモン近海に入る事になっていた。トラックから出撃する速度が遅い(半分以下)のポートモレスビー攻略部隊より先に作戦海域に入り、索敵を行ってその安全を確保する、という予定だったと思われる。 
問題は、五航戦を中心とした空母の機動部隊の方に生じていた。こちらはソロモン諸島をぐるっと東に大回りする、かなり遠回りなルートを取っており、ラバウルから真っ直ぐ南下するポートモレスビー攻略部隊から軽く1000km以上も東に位置する事になる。なんでまた、という感じだが、これはポートモレスビー周辺の連合国側の索敵をかわし、先に発見される不利を避けたのが原因だった。

 以上が、ポートモレスビー攻略作戦時の戦う前の状況だった。森史朗氏の『暁の珊瑚海』という労作があるが、煩雑になる恐れがあり、夕撃余談のブログで整理した。次回は初の空母戦を見ておきたい。

 







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