サムライ・デモクラシー誕生

2012年12月10日 | 歴史を尋ねる

 これまで明治維新後の日本の統治システム、社会経済の変化を追ってきたが、もう一つ大きな流れを追いかけてみる必要があると、岡崎久彦著「百年の歴史ー日本近代外交史」から啓示を受けた。そこで日本のデモクラシーの流れを追ってみたい。あわせて日本の官僚制とネーミングされる仕組みは何を指すのかも併せて考えてみたい。

 明治22年(1889)2月11日紀元節、憲法が発布された。この年はフランス革命から百年、更に1689年イギリスの名誉革命による権利章典の制定された年から二百年、また東ヨーロッパ諸国の共産体制が次々崩壊し、ベルリンの壁が崩れたのは、その百年後。日本以外の場合は、いずれも戦争か革命の混乱の中で議会民主主義が達成されたが、日本では知識層の民間運動である自由民権運動で平和的に達成されたのが特徴であると岡崎氏が概説する。そして戦後の民主主義が政治体制として、他の選択肢が全く想像できないほど定着しているのは、単に占領とか新憲法があったからということでなく、やはり百年の歴史があるからだと岡崎氏は力説する。占領当初、米国の知日派の人々の考えは、日本の自由民権運動の最後の到着点である大正デモクラシーを復活させることであったと云う。戦後の日本の選挙制度は大正デモクラシーの延長で、岡崎氏が記憶している戦前の代議士の生活は基本的には戦後のそれと何も変わっていない、うーん、相当巨視的な見方が必要だ。

憲法発布と同時の大赦令により、逮捕収監されていた自由党員は釈放され、処刑者の復権も行われた。板垣退助は「自由党史」の中で、「一たび憲法が発布され、立憲政体がここに確立されると、昨日まで死をもって争った人々も、たちまちそれを忘れたように、和気藹々たるものがある。これがわが国の美風である」と結んでいる。日本国民は清新の気を持って憲法を迎えた。それは直ちに第一回選挙の実態に反映された。第一回の総選挙は多少の情実はあってにしても、買収は絶対になかった。立候補者の顔ぶれも一府県の代表的人物であり、その多くは天下の名士というべき立派な人々だった。全国各地とも、藩閥官僚に代わって国政を託せる一流の人物を挙げようとし、また府県も自分の府県からは他府県に負けない人物を出そうと競い合った。自分から立候補を名乗り出るのは品性下劣とされ、本人が迷惑がる立派な人物を選挙民が担ぎ出す例が多々あったという。

 第一回議会では、政府は八千万円の予算を提出したが、反政府の意気盛んな自民党は八百万円の減額を主張して対立した。ここで板垣退助と大江卓予算委員長は迫りくる日清戦争に備えて、軍事費を除く六百万円の削減を主張したが、多年血を浴び獄をくぐってきた自由民権の強硬派は譲らず、板垣、大江等土佐派29人は自由党を脱党して妥協案に賛成し予算を成立させた。これは土佐の裏切りと批判されたが、同士との決別も敢えてして国家的見地で行動する純粋さは中々出来ないことであった。清廉潔白、人物識見本位、国家社会のために働く、第二回の総選挙は大弾圧を受けてこの世界が崩れたが、この清新の気風がそのまま続いていたら、日本の議会民主主義は世界に誇る清廉潔白、人物本位のサムライ・デモクラシーとなっていたのではないかと、岡崎氏は惜しんでいる。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。