開戦前夜 日米諒解案の行方

2017年07月17日 | 歴史を尋ねる
 野村大使は、まず「日米諒解案」日本文を東京に打電した。外機密 第二三四号と表記された電報を訳了される毎に読んでいたアメリカ局長寺崎太郎は、たちまち眼をむき、次官大橋忠一の部屋に駆け込んだ。大橋次官も電文の数節を走り読みしたとたん興奮して、首相官邸に行くと車に飛び乗った。近衛首相も、さすがに驚いた気配であったが、ほぼ一週間前に井川理事がサンフランシスコで竜田丸に託した原則的協定案を受け取っている。同じころ訳文コピーは陸、海軍両者にも配達されたが、読み終わった陸軍省軍務局長武藤章は「この諒解案も岩畔の作文だと。あまり策が多すぎる」苦々しげに口を開いた。二人の大佐は、呆然としていた。こんな結構な話があるものだろうか。米国の参戦を自国の福祉と安全を防御するためにだけに認める以外はひたすら米国が日本側に好意を示している。支那事変については、満州国承認や駐兵協定をふくめる条件で米国大統領が蔣介石政府に和平を勧告するし、日米通商関係は廃棄された日米通商条約なみに改善し、米国から「金クレジット」も供与する。また、日本が東南アジアに武力進出しないことを信じて石油、ゴム、錫、ニッケルなどの軍事物資を提供する。米国および南西太平洋地域に対する日本人移民も受け入れる。出来るだけ早くホノルルでローズベルト大統領と近衛首相の首脳会談を開き、決めてしました・・・というのであった。
 「話がうますぎてかえって疑惑も生じますが、失敗してもともとです」「たぶん米国は参戦の腹を決めているが、対独、対日の二正面作戦には自信がないので、日本に手を打って太平洋の安全をはかろうとするのは、あり得ることでしょう」二人の大佐は感想を述べると、武藤は「枢軸分裂の謀略ではあるまいか」「ちょっとアメをしゃぶらせて日本を中国から撤兵させ、ドイツを料理した後で袋叩きにするつもりじゃないだろうか」と、しきりに首をひねった。

 その夜、第19回政府統帥部連絡懇談会で「日米諒解案」が審議された。政府側から近衛首相兼外相、平沼内相、東条陸相、及川海相、大橋外務次官、統帥部側は杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長が出席し、武藤陸軍省軍務局長、岡敬純海軍省軍務局長、富田内閣書記官長が陪席した。列席者の反応は、武藤少将と二人の大佐が示したものと大差なかった。うますぎる話だという感想は一同が一致し、実質的には米国が一方的に日本に同情的理解を示している形であり、米国諒解案と呼称したくなるほどであった。とにかく、思いつく不審点をワシントンに問いただした上で受諾しよう、モスクワから日本に向かっている松岡外相の帰国を急がせよう、と次第に浮き浮きした雰囲気を高めながら、連絡懇談会は散会した。会議には、野村大使、岩畔大佐からの説明電も披露され、いずれの内容も「日米諒解案」が米国側の提案であり、米国側が合意を急いでいる印象を伝えた。政府、軍代表たちが、半信半疑の想いのうちにも飛びついてみる心境になったのは、そのためである、と児島襄。ふーむ、松岡外相を除く当時の当事者たちが一斉に飛びついた。外務省も日本文を見ただけで飛び出している。もう少し裏付けをとる作業があってもいいのではないか、みんな一様に話がうますぎるといっているのだから。さらにハル長官の野村大使との協議の時、誰も随行者が居なかったのか、その辺の実情は、児島氏の著書には触れられていない。日本が追い込まれて戦端が開かれたというが、追い込まれる端緒は、この時の判断であった。さらに言えば、この時米国側は日本の外交機械暗号を解読する”マジック”作業を行っていた。日本側の手の内はほとんどお見通しであった。ふーむ。日本側がここまできれいに誤解してしまった背景を考えずには居られない。

 松岡外相は、4月22日、立川陸軍飛行場に到着した。飛行場には近衛首相、富田書記官長、陸軍次官をはじめ、オット駐日ドイツ大使、インデリル駐日イタリア大使も出迎えた。「松岡クンは感情の強い人だから、はじめに言い出す人物によっては、その時の気分でどう出るか判らない。ボクが自動車の中で話をすれば案外すらすらと行くかもしれない」 だが、近衛首相と松岡外相の車中会談は実現しなかった。飛行場では、近衛首相は松岡外相の耳に低い声で囁き込み、別々に車で首相官邸に向かった。松岡外相は、車中でまず南洋局長斉藤音次が持参した日米交渉を伝える海軍省軍務局第二課長石川信吾大佐の書簡に眼を通し、次いで大橋次官から『日米諒解案』の説明を受けた。「なんだって。それじゃ、そのアメリカの提案というのは、ボクがモスクワでスタインハートに言った話とは違うんだね」 松岡外相はモスクワで米国大使スタインハートに、米大統領に日支和平の仲介を依頼した旨を語り、帰国一週間後に折衝する、と述べていた。その会談は4月8日付けで東京に報告してある。二日前に近衛首相が電話で米国の提案がきていると知らせた時も、このスタインハートとの会談の反応と思い込んでいた。「ちがいます。申し上げましたように二人のカトリックの坊さんと井川、岩畔などが・・・」「怪しからん。そんなことは許せない。ボクは反対だな」 松岡外相はうめき、大橋次官をにらみすえた。首相官邸に近づくと、急に宮城前に方向転換を命じた。大橋次官はとっさに「陸軍の謀略? 平沼一派の松岡失脚陰謀? 神父を手先とするアメリカの陰謀?」の三疑点を胸奥にわかせ、早急の協議を希望する近衛首相に肩透かしを食わせる必要を感じて宮城参拝でタイミングをずらせた、と推察した、と児島襄は推し量る。

 松岡外相が首相官邸に戻って来たのは午後9時過ぎ、9時20分から政府統帥部連絡協議会が開かれた。最初帰朝報告があり、外相が一息つくと近衛首相は話題の転換を提案して、「日米諒解案」の審議を求めた。松岡はいう、この問題は支那事変処理以外に重大なことが含まれている、同盟国であるドイツやイタリアに対する信義の問題もあるし、体一米国は信用できない。 第一次大戦のとき、米国は日本と石井・ランシング協定を結んで参戦した。後顧の憂いをなくすためである。ところが大戦が終わると、さっさと協定を破棄した、こんどの「日米諒解案」にしても、同じく悪意七分善意三分の策略でないとは言い切れない。兎に角自分は疲れた、二週間か一カ月、慎重に考えたい。閣僚の間から不満の私語がわき起こり、時期を失したら米国に対して工作が失敗するだろう、という意見が口々に述べられた、と。

 米政府当局は松岡外相渡米説に神経を刺激されていた。外相がヨーロッパ旅行中から一部の新聞が予想記事を流布していたが、外相帰国3日後、グルー駐日大使は松岡外相から訪米の意向を伝えられた場合、どのように答え、どのような態度を示すべきか指示してほしい、とハル国務長官み要請した。米国では、松岡外相は根強い親独伊論者であり、明白な親ファシズム論者だと観察されていた。「米国政府は他国の責任ある地位を占める人物の訪問を歓迎している、ゆえに、マツオカが訪米するつもりなら、むろん、歓迎されるであろう・・・」 ハル長官は、松岡外相にその旨を伝えていいが、同時にそれはグルー大使の個人的見解だと付け加えて、米国政府の指示を求めることにせよ、と回答した。

 「5月12日付の日本側正式提案を受け取ると、われわれは直ちに厳密な検討を加えたが・・この文書からは、ほとんどかすかな希望の光も照射していなかった」 ハル国務長官は、「日米諒解案」に対する松岡修正案についての感想を、そう記述している。 ①日米両国の抱懐する国際観念並びに国家観念、②欧州戦争に対する両国政府の態度、③支那事変に対する両国政府の関係、④両国間の通商、⑤南西太平洋方面に於ける両国の経済的活動、⑥太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針・・・の六項目についての了解点を列記していた。①は日米両国が平和愛好心を維持することを強調し、④以下は両国の国交調整が成就した後の付属事項といえた。焦点は②③の二項目、②は「日本及び米国政府は世界平和の招来を共同の目的とし、相協力して欧州戦争の拡大を防止するのみならず、その速やかなる平和克服に努力する」 (ヨーロッパの平和とはなにごとか。ヨーロッパの大半はヒトラーの掌中にある。いま速やかなる平和をもたらすのは、ヒトラー・ナチスの勝利の下での平和になるではないか) つづく条文は (要するに米国が参戦したら制裁するということか。明らかに米国に対する威嚇だ) 続いて (攻撃的施策とはどういうことか。結局は英国に対する援助をやめろという、これまた威嚇にほかならない) ③は 「米国政府は、近衛声明に示される三原則及び右に基づき南京政府と締結された条約および日満支共同宣言に明示された原則を了承し、且つ日本政府の善隣友好の政策を信頼して、直ちに蔣介石政権に対し和平の勧告をなすべし」 (蔣介石政権が存立をかけて戦っている領土保全と独立確保をあきらめさせ、満州の承認、汪兆銘政府の承認、日本軍の駐留を蔣介石政府に飲ませろ、という意味になる) あまりにも日本側の一方的利益を主張しすぎている、とハル長官は結論したが、ホーンベック顧問は、憤慨しながら、日本はヨーロッパ戦争に参加する地理的位置にも政治的立場にもない、日本は支那で敗北しているわけではない、日本が支那から兵力を引き揚げたがっているのは、別の土地にその兵力を進出させようとしているために違いない。「日本の意にかなう協定を結ぶことは、結局は日本の武力南進、あるいはわれわれに対する攻撃までも激励する結果になりかねない」
日本側の主張を認めるのは、米国がこれまで維持してきた「満州不承認」政策を放棄し、他国に対する「領土保全」「主権尊重」の原則を放棄することに通じる。

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