東京裁判 1   (その歴史的位置づけ)

2022年03月06日 | 歴史を尋ねる

 太平洋戦争終結後の極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)に於いて、弁護団の中心人物であり、東条被告の主任弁護人でもあった清瀬一郎は、昭和41年7月、読売新聞文化部記者から東京裁判の思い出を、当時あったことで世人がよく知らないことを、ありのままに執筆願いたいと言われ、とりあえず4,5回分の回顧録のようなものを作り上げた。しかし非常な反響があり、文化部からはせめて30回ぐらい続けてほしい、一方出版局から『秘録・東京裁判』として纏めて出版させてもらいたいという申し出があり、こうした経緯で、50回続けて著書として出版された。実は昭和23年12月末(七被告死刑執行のあと)、読売新聞社より、東京裁判の顛末について執筆してほしいと切なる申し出があったが、その時、清瀬は断然、これを断った。それなら執筆できないわけを書いてくれと申し出があり、そこで清瀬は「東京裁判のことを書かざるの記」として一文を草した。
 連合国はみな自由主義を標榜している。当然法廷における言論の自由をも重要事項として包含している。法廷では、連合国の違法も、わが国の自衛権も、正々堂々、だれはばからず主張することが出来た。いかに耳障りでも、とにかく、これを許さねば道理が立たぬ、と。しかし、法廷以外では、その半分の主張も許されぬ。そのことは当時の占領政策の実際としてわかっている。それは毎日の法廷記事の許可の限度でわかっているた。従って、その時、読売新聞の申し出により、清瀬が正直に、良心的の記事を書けば、新聞の発行禁止は必然であり、それ以上の災害を伴うかもしれない。これを避けるため緩和的言辞を弄すれば、これを読む世人は、清瀬の書いたことを本当かと思われる。それゆえ、日本がこの体制(占領下の言論統制等)にある限り、東京裁判のことは書かぬことを決心した、と『あとがき』に記している。

 平成29年11月、第2回「東京裁判」シンポジウムが国士舘大学で開催され、篠原敏雄国士舘大教授は「学会では1960年代までは東京裁判肯定論、すなわち戦前の日本は侵略と残虐行為を重ねたという見方が主流だった」「いまだに戦前の日本は、残虐な国家だと言い募るメディアもある」と指摘、同シンポジウムに出席した阿比留瑠比産経新聞論説委員は「現在、マスメディアが東京裁判を否定的に見ているかというと、さにあらず。いろいろなことが分かってきて、肯定はしにくいけれども否定もしたくないのであまり触れない。中でも朝日新聞に至っては、いまだに必死に、東京裁判はけじめだから受け入れるべきだと言っている」「ではマスメディアは、どうして歪んだ東京裁判認識、あるいは東京裁判報道になったのか。これはGHQの占領期に、東京裁判を批判できず、批判しないでいた自分たちをいまさら否定できない。正当化するために、東京裁判を否定できなくなって東京裁判に呪縛されている」「これは江藤淳さんのいう『閉ざされた言語空間』がいまだに続いていることだと思う」と。さらに阿比留氏は言う。「なぜそんなことになってしまったのか。昭和20年9月に朝日新聞が発禁処分を受けたのは、鳩山一郎の占領支配やGHQの在り方に関する批判、あるいはアメリカの原爆使用に対する批判を掲載し、2日間にわたって新聞を発禁とした。すると途端に、自分たちが悪かった、GHQバンザイという内容の記事を載せた。これは朝日だけでなく、マスメディア全体の傾向となった。GHQは民主主義を名乗る一方で、日本に厳しい検閲を強いてきた。さらに検閲していること自体を検閲して、言わせないよう、書かせないようしていた。さらに、中国、朝鮮人の批判はいけない。憲法の草案にGHQがどのような役割を果たしたかということもかいてはいけない。占領軍の兵士と日本女性の交渉も書いてはいけない。当初は嘘が分かっていたが、その時代のことを知らない若者が増えてくると、かえって観念的になり、ますます検閲内容の方向に行ってしまう。しかし、例えば昭和27年には、戦犯とされた方々に対する釈放嘆願の著名が日本で4千万集まったと言われている。さらに28年の国会で、全会一致で戦犯釈放決議が成された。朝日新聞ですら、首相の靖国参拝などを平気で書いて、批判していなかった」と。
 「東京裁判では、インドのパール判事が被告全員無罪論をいい、東京裁判は間違っていると主張されたが、当時日本の新聞はほとんどなおざりだった。A級戦犯容疑者とされていた岸信介の『獄中日記』で、東京裁判の判決に対するインドのパール判事の反対意見が相当詳しく日本タイムスに乗せられている。日本の侵略戦争を否認し、共同謀議を否定し、全面的に判決に反対して、被告全部の無罪を主張するものである。その正義感の強きこと、勇気の盛んなること、誠に欽慕すべきものがある、と。その一方で、ただ最も不快とし、かつ恥じなければならぬことは、他の新聞はほんの一部しか載せていない。之は各新聞社の卑屈か非国民的意図に出づるものである。これらの腰抜けどもは宜しくパール判事の前に愧死すべきである、とある。さらに田中正明氏は、ヨーロッパ諸国においては、このパール判決がビックニュースとして紙面のトップを飾り、大々的にその内容が発表され、センセーションを巻き起こした。そしてフレンド派のキリスト教団体や国際法学者や平和主義者の間に非常な共感を呼び、これらに論争が紙面を賑わせた、とその著書に書いている」と。

 話は遡るが、昭和58年6月、講談社は創立70周年記念事業に一つとして長編記録映画「東京裁判」を企画・制作し、同映画は東宝東和の配給で全国の東宝系主要映画館で一斉に上映された。その上映開始一週間前の5月、池袋のサンシャインシティ(元巣鴨拘置所跡に建てられた)で『東京裁判』国際シンポジウムが開かれた。このシンポジウムは一橋大学名誉教授細谷千博、神戸大学教授安藤仁介、東京大学助教授大沼保昭の三人が交代で議長役を務め、日本、アメリカ、イギリス、ソ連、オランダ、西ドイツ、中国、韓国及びビルマの学者、歴史家、評論家等十九人が、東京裁判について「国際法の視点から」「歴史の視点から」「平和探求の視点から」「今日的意義」という分類に従って意見を述べ、この意見を述べた人達が傍聴人を含む参会者からの質問に答える、という形式で進められた。開会にあたって細谷教授は、東京裁判が終わって35年が過ぎ風化しつつあるように思えるが、東京裁判を風化させてしまうには余りにも大きな問題をはらんでいると思えるので、映画上映の時期を選んで東京裁判を取り上げるのも意義があると思って、このシンポジウムを企画した、と。東京裁判でオランダ判事を務めたローリング(レーリンク)博士をはじめ、東京裁判に関係があり関心を持ついろいろな立場の人たちが意見を述べたという。筆者はいま、冨士信夫著「私の見た 東京裁判」の「十五おわりに」を読んでいるが、冨士氏が傍聴していたこのシンポジウム第二日目の午後の発言者として、東京教育大学名誉教授家永三郎は、弁護側立証開始時の清瀬一郎弁護人の冒頭陳述は、現代の大東亜戦争肯定論と基本的に同じ考えに立つものであって到底賛同することはできないと述べ、パル判事の少数意見は日本の中国侵略を弁護する論旨であり、きわめて強烈な反共イデオロギーの偏見にみちみちていて、東京裁判の不法性の有力な論証として利用されている危険性を声を大にして訴えなければならない、と述べた。また、パル少数意見は東京裁判不法論、大東亜戦争肯定論に連なり、ひいては戦後日本の民主主義、平和主義の全面的否定のために利用されているのは看過できず、日本人自身の手で、日本が遂行した侵略戦争遂行過程で発生した残虐行為に対する責任追及をなし得なかった事情を考えるとき、東京裁判の持つ積極的意義を無視してその瑕疵のみを論じ、これを全面的に否定する事の危険な効果を心配しないではいられない、と論じた。
 さらに家永教授は細谷議長から、日ソ中立条約は日本が先に破ったという主張の説明を求められると、関東軍特殊演習を挙げ、関特演は単なる演習ではなく、1941年の御前会議で決定され天皇の允裁を経て動員令が発令されて、八十万人の大軍をソ連国境に集結した行為はソ連に対する侵略の予備陰謀である、と東京裁判法廷におけるソ連検察官の主張と同一論法で、日本が先に日ソ中立条約を破ったという自説を披露した。富士信夫氏は言う。「今、日本には東京裁判史観なる歴史観があると言われているが、それは東京裁判法廷が下した本判決の内容そのものをすべて真実であるとなし、日本が行った戦争は国際法、条約、協定等を侵犯した『侵略戦争』であって、過去における日本の行為・行動はすべて犯罪的であり、悪であった、とする歴史観のようである」と。これらの人は、本判決の内容等を読んだこともなく、従ってその詳細は知らないまま、本判決が侵略戦争と判定したのだから日本が行った戦争は侵略戦争であり、南京大虐殺があったと判定したから南京大虐殺はあったのだと信じ、あるいはなんらかの思惑があって単に口先だけでそう言っているだけかもしれない、という。さらにもう一つ付け加えるならば、米軍の占領下にあった時も、家永教授の主張は清瀬一郎氏が心配した検閲に引っかからなかっただろう、それは占領軍が推奨する考え方に近い、というより全く同一だから。
 この東京裁判史観を信奉する人々は、今後いかに事情が変わろうともその史観を変えることはないのか、あるいは東京裁判の審理の実態を知ればその史観を買えるのか、は素より分からない。しかし現在無垢の状態にあり、次代の日本を背負っていくべき若者たちがこの東京裁判史観によって汚染され、誤った歴史観を持つようになることは、将来に日本にとり大きな損失である。全く偶然の巡り合わせから東京裁判法廷での審理の大部分を傍聴するという貴重な体験を持ち、審理の実態を知る事が出来た者として、まず「東京裁判法廷での審理はどのように進められ、それがどのような形で判決に表されたか」という、審理の実態を明らかにすることが、東洋裁判についての正しい知識を持ち理解を深めていくことに役立ち、そのことが東京裁判史観の払拭に多少なりとも役立つであろうと願いつつ、この記録(「私の見た東京裁判」)の筆を進めてきた、と冨士信夫氏は言う。以上を踏まえて、本ブログでは、冨士信夫氏と清瀬一郎氏の著書を参考に、東京裁判の内容を掘り下げてみたい。ただ東京裁判の日本文速記録の分量は総字数2千4百万字以上、1ページ680字詰めの本に作り上げると、3万7千ページを超す厖大な分量となる、という。富士氏の著書も要約するとしてもその全容を取り上げることは難しく、散文的な叙述にならざるを得ないと断っているので、裁判の全体像を知るために、目次を一瞥してみたい。

 1,はじめに
   1 偶然に関わり合った世紀のドラマ
   2 東京裁判とは
 2、開廷、罪状認否、裁判所の管轄権を巡る法律論争
   1 開廷
   2 罪状認否
   3 裁判所の管轄権を巡る法律論争
 3、検察側の立証を追って
   1 キーナン首席検察官の冒頭陳述
   2 「日本の政治及び世論の戦争への編成替え」に関する立証
   3 「満州における軍事的侵略」に関する立証
   4 「満州国建国事情」に関する立証
   5 「中華民国の他の部分における軍事的侵略」に関する立証
   6 「南京虐殺事件」に関する立証
   7 「日独伊関係」に関する立証
   8 「日ソ関係」に関する立証
   9 「日英米関係」に関する立証
  10 「戦争法規違反」に関する立証
  11 被告の個人責任に関する追加立証
 4、公訴棄却に関する動議
 5、一般問題に関する弁護側立証
   1 清誠弁護人の冒頭陳述
   2 一般問題に関する立証
   3 満州及び満州国に関する立証
   4 中華民国に関する立証
   5 ソ連邦に関する立法
   6 太平洋戦争関係の立証
   スミス弁護人永久追放
 6、被告の個人立証
   1 木戸幸一被告
   2 嶋田繁太郎被告
   3 東郷茂徳被告
   4 東條英機被告
   ウェップ裁判長の一時帰国
 7、検察側反駁立証
 8、弁護側再反駁立証
 9、検察側最終論告
   1 キーナン首席検察官の序論
   2 被告の責任に関する一般論告
   3 被告の責任に関する個人論告
10、弁護側最終弁論
   1 審理経過に見る論告と弁論の相違
   2 鵜沢弁護人の総論
   3 一般弁論中の事実論
   4 各被告の個人弁論
11、弁護側最終弁論に対する検察側回答
12、判決を待つ間
   1 天皇の戦争責任と退位問題
   2 刑の量定についての報道
   3 米人弁護人罷免問題
   4 法廷内の改装等に関する報道
   5 判決時期の予測に関する報道
13、判決
   1 判決公判の経過を顧みて
   2 裁判所の本判決---パル判決と対比しつつ
14、刑の執行とその後
   1 米大審院への訴願
   2 刑に執行とその後
15、おわりに

 東京裁判の現実の審理経過を、冨士氏は以上のように再構成してくれている。以降は個別に論点を見ていき、東京裁判史観はどういうものか、清瀬一郎はもう一つの歴史解釈をどう提示したか見ていきたい。

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