真珠湾の真実 前編

2022年01月25日 | 歴史を尋ねる

 「東京裁判が進行中だが、米国が先に開戦を計画していたという情報的証拠が欲しい」と極東国際軍事裁判、日本人弁護団副団長の清瀬一郎が、旧特情部の企画運用課長横山幸雄中佐を呼び寄せたと前回のブログで記述したが、清瀬が探したこの情報は東京裁判の計画的筋書をひっくり返す力があったという。つまり日本の真珠湾攻撃は奇襲であったかどうか。アメリカが先に日本から先制攻撃をさせるよう仕組んだという話は後を絶たない。しかし米国側の情報公開もその辺は弁えている。決定的情報は非公開である。しかしロバート・B・スティネットは1982年から1999年にかけて、第二次世界大戦以前の軍事記録はワシントンの国立公文書館、第二次世界大戦とそれ以降はメリーランド州カレッジパークに保管されている軍事記録を調査した。参照情報は、1941年12月22日~1946年5月30日までの八回にわたる国が行った真珠湾調査の公式記録、米国の上院及び下院によって任命された特別委員会により1945年~1946年にかけて実施された上下院合同真珠湾攻撃調査委員会が収集入手した文書、無線監視局USと海軍秘密保全グループコマンドが入手した通信諜報約百万件の文書類が収録されているがそのうち閲覧を許可された文書約六千件、ジミー・カーター大統領が1979年に公開した日本の海軍電報の解読・翻訳文三十万点。スティネットは著書『真珠湾の真実』の執筆に当って引用した文書類、録音テープ、ビデオテープ、写真、画像、ネガ等をすべてカルフォルニア州スタンフォード大学フーバー公文書館に収め、これらのコレクションを一般公開するという。さらに本書は米国の情報の自由法起案者、ジョン・モス下院議員に捧げる、情報の自由法がなかったら、本書で明らかにした情報は、決して日の目を見ることは無かっただろう、そしてスティネットの唯一の目的は、海軍基地及び周辺の陸軍施設に破壊的攻撃をもたらすに至った出来事の真相を明らかにし、それがフランクリン・ルーズベルト大統領とその軍事・政治顧問である側近高官の多くの者にとって、決して奇襲ではなかった事実を伝えることにある、と。
 太平洋戦争を経験した退役軍人の一人(スティネット)として、五十年以上もの間、アメリカ国民に隠蔽され続けた秘密を発見するにつれて、著者は憤激を覚える。しかし、ルーズベルト大統領が直面した苦悶のジレンマも理解した。自由を守る戦いに参加するため、孤立主義に陥っているアメリカを説得するに、彼は、回りくどい手段を発見するほかなかった。そのためには人命を犠牲にするだろうことを承知していたが、それが何人になるのかは知ることが出来なかった。アメリカ国民は、第一次世界大戦において世界を民主主義のために安全な世界を作ろうとした米国の理想が失敗したことに幻滅を感じていた。アメリカ国民の多くは、再び起こる戦争の恐怖から若者たちを守るため孤立主義を唱え、ルーズベルト大統領が息子たちを外国の戦争には送らないだろうと信じていた。しかし、アメリカ国民は自国に対する明らかな武力行為には反撃するだろうと、ルーズベルト大統領は考えていた。そこで、ルーズベルトが側近たちと示し合わせて下した決定は、一連の行動を通じて日本を明らかな戦争行為、つまり真珠湾攻撃へと挑発することであった。
 17年間にわたる公文書の調査及び米海軍暗号解読者たちとの直接インタビューの過程で、ルーズベルトのジレンマを解決した答えは、情報の自由法に基づく請求により入手した途方もない数の文書の中に記録されている、とスティネット。それらの文書には、アメリカを戦争に介入させ真珠湾及び太平洋地域の諸部隊を戦闘に叩き込むべく、明らかな戦闘行為を誘発するために計画、実施された、権謀術数の限りを尽くした措置が記述されている。日本を挑発するために、ルーズベルトには八つの手段が提案された。彼はこれらの手段を検討し、すぐに実行に移した。第八項目の手段が実行されると、日本は反応してきた。1941年11月27日及び28日、米軍司令官たちは、次の命令を受け取った。「合衆国は、日本が先に明かな戦争行為に訴えることを望んでいる」と。ヘンリー・スチムソン陸軍長官によれば、これはルーズベルト大統領から直接出された命令であるという。

 1941年12月7日の出来事を、アメリカが事前に知っていたか否かについて、議論が絶えない。戦争を匂わす日本の外交電報が傍受解読されていたことは、ずっと以前から承知している。しかし、スティネットが発見したことは、われわれはそれ以上に多くのことを承知していた。われわれは戦争挑発手段を実施したばかりでなく、日本海軍の電報も傍受解読していた。日本が攻撃を開始することにより、太平洋艦隊及び太平洋地域の市民たちを含む米軍部隊が大きなリスクに曝され、危険な状態になる事実を、ルーズベルトは受け入れた。ハワイの米軍指揮官、ハズバンド・キンメル海軍大将とウォルター・ショート陸軍中将には、彼らをより警戒させる秘密軍事情報は提供されなかったにせよ、彼らは「合衆国は、日本が先に明かな戦闘行為に訴えることを望んでいる」という大統領命令に従った。20万通以上の文書とインタビューにより、スティネットはこの結論に到達した、と。それではスティネットの調査結果を紐解いてみたい。
 「真珠湾攻撃の数日前、CBSラジオの取材記者ムロー夫妻は大統領夫妻から夕食に招かれた。真珠湾攻撃に関する第一報が入り、ムローは予定を確認したところ、夕食会は予定通り開くとの返事だった。大統領は議会と軍部の指導者たちと会議に入っているため夕食会に参加できないと告げられたが、食事中ムローは少し残るよう伝言があった。12月7日の晩、ルーズベルトは一晩中、議会や軍部の指導者たちと会談し、翌12月8日、開戦措置第一号をとるつもりで、議会に対し対日宣戦布告を要請する決心を固めた。「汚辱の日」として知られる宣戦布告演説の草稿も、この時に準備した。それから大統領はムローとドノバン(大統領の情報調整役、のちにCIAの前身である戦略情報局を創設した)を大統領書斎に招き入れ、25分間会談したが、公式記録は残されていない。ドノバンがヒューベルに後に語った内容が彼に日記に記録されている。大統領はムローとドノバンに、日本の第一撃は枢軸諸国に対して米国民を一致団結させるための、宣戦布告を行う明瞭な論拠となるか否かを尋ねた。あの一撃は、実際にその効力を持っているだろうと、二人が答えた。大統領は、ホワイトハウスの他の者ほどには驚いていない、むしろ歓迎していると、ドノバンは感じていた。大統領は、日本の攻撃は差し迫っている、と真珠湾に事前に警告していた。「ビル、奴らはわが艦船をまるで能なし野郎のように攻撃してきた。われわれは真珠湾やその他すべてに見張りを置くように言っておいたのに、奴らはそれでもなお、われわれを奇襲したのだ」。 大統領はそれでもアメリカの孤立主義者が考えを改めるとは思えない様子で、英国外務省役人のメッセージを読んで聞かせた。再び二人に意見を求めた。アメリカ国民は宣戦布告を支持するだろうか。ドノバンもムローも、きっと支持するだろうと答えた。大統領は真珠湾攻撃に対する国民の反応を最も懸念していた、とこの会談の内容についてほのめかしたのはドノバンだけだった。
 その晩、ムローは妻に語った。「わが取材人生で最大の特ダネだけれど、これを伝えることが自分の務めなのか、それとも聞かなかったことにするべきなのか、判断ができない」。結局のところ、ムローの特ダネが記事になることも、ラジオで放送されることもなかった。ただその情報が何であるにせよ、それはムローに重くのしかかった。ムローの伝記作家によると、「彼はそのことを忘れることも出来ず、特ダネを公表しなかったことで、ときどき自分を責めたりした。あの晩、彼は自分の務めを見極めることも出来ず、ルーズベルト大統領の意図を汲み取ることも出来ず、どうしたら気が済むのかを、決めかねていた」、と。ムローは口を閉ざしたまま、1965年、57歳で亡くなった。」


 スティネットは言う。この会談の当事者たちが明らかにしていないので憶測で語るしかない。ルーズベルトが真珠湾を予知していたか否かを解決するのに役立つ、より多くの直接的な証拠がある。これまでの説明では、真珠湾以前に日本軍の暗号を解読していなかったと言われている。今や、この主張が間違っていることを知っている。また以前の説明では、日本艦隊は厳重な無線封止を守っていたといわれていたが、これも間違っていた。事実ははっきりしている。ルーズベルト大統領は、日本の真珠湾攻撃を事前に知っていた。真の論点は、日本が真珠湾を攻撃するよう、ルーズベルトが慎重に仕向けたのではないか。米国が人目につかない戦争挑発行動を先に取っていたのではないか。1940年10月7日に作成され、ルーズベルト大統領に採用された、ある極秘戦略覚書によると、そうした行動がいくつか、実際にあった、と。
 戦火がヨーロッパとアフリカの一部に広がり、日本、ドイツ、イタリアが三大陸で諸国を脅かしていた時、ワシントンの海外情報部で作成され、ルーズベルトの最も信頼する二人の顧問あてに作成された覚書には、米国の衝撃的な新しい外交政策が提案されていた。それは日本を挑発して米国に対し、明らかな戦闘行為をとるよう企図したものであり、海軍情報部極東課長アーサー・マッカラム海軍少佐が作成した文書だった。彼は1898年宣教師であった両親の間に長崎で生まれ、少年時代を日本の諸都市で過ごし、英語よりも日本語が喋れた。父の死後、アラバマ州に帰り、18歳で海軍兵学校に入校、22歳で海軍少尉に任官すると、駐日アメリカ大使館付海岸武官を命ぜられて来日、日本の皇族とも繋がりが出来た。マッカラム少佐が1940年10月に作成された文書(戦争挑発行動八項目覚書)には、アメリカを動員加担させる状況を作り出そうという計画が認められていた。その八項目の行動計画は、ハワイのアメリカ陸、海、空軍部隊並びに太平洋地域のイギリスとオランダの植民地前哨部隊を、日本軍に攻撃させるよう要求したものだった。1940年夏の世論調査では、米国民の大多数は、アメリカがヨーロッパの戦争に巻き込まれることを望んでいなかった。しかし、ルーズベルト政権の陸海軍省と国務省の指導者たちは、ナチス・ドイツ軍が欧州戦争で勝利を収めたら、米国の安全保障に脅威になるだろうという点で意見が一致していた。米国が行動を移すための呼びかけが必要だと感じていた。
 マッカラム(情報将校)はF-2というコード名を与えられ、1940年前半~1941年12月7日まで、ルーズベルトに届ける通信情報の日常業務を監督し、日本の軍事外交戦略に関する諜報報告を提供していた。傍受解読された日本の軍事外交報告は、海軍情報部極東課を通してホワイトハウスに届けられ、マッカラムが監督した。極東課は日本だけではなく東アジア諸国全部について担当していた。大統領のために準備した各報告は、世界中に張りめぐされた米軍の暗号解読員と無線傍受係の手で収集解読された無線電信の傍受記録が基礎となっていた。当時のアメリカ政府や軍部の中で、日本の活動と意図について、マッカラム少佐ほどの知識を持っている人物はほとんど見当たらなかった。彼は日本との戦争は不可避であり、米国にとって都合の良い時に、日本から仕掛けてくるよう挑発すべきと感じていた。1940年10月作成のマッカラム覚書の中で日本を対米戦に導くと考えた八項目は、①太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。 ②蘭領東インド(インドネシア)内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。 ③中国蒋介石政権に可能なあらゆる援助の提供。 ④遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールへ派遣すること。 ⑤潜水戦隊二隊の東洋派遣。 ⑥現在、太平洋のハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。 ⑦日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう要求すること。 ⑧英帝国が日本に対して取っている通商禁止と協力して、日本との全面的な通商禁止。  この八項目覚書は、ルーズベルトが最も信頼していた二人の軍事顧問、アンダーソン海軍大佐とノックス海軍大佐に送付された。アンダーソンは海軍情報部長で、直接ホワイトハウスのルーズベルト大統領に面会できた。マッカラム覚書の末尾にノックスの承認メモが残され、アーノルドとルーズベルトが閲覧した証拠も見つかった。

 1941年を通じて、日本を挑発して明らかな戦争行為をとらせるようにすることが、ルーズベルトの対日主要政策であったように見える、とスティネットは言う。そこで前もって、この時代の日米関係の詳細を、ビアード著、開米潤監訳「ルーズベルトの責任」巻末を参考にして、整理しておきたい。
 1939年9月1日、ドイツ、ポーランド侵攻。3日、アメリカ、欧州戦争に中立を宣言。1940年1月26日、日米通商航海条約が失効。9月22日、日本、北部仏印に進駐。27日、日独伊三国同盟成立。10月8日、ルーズベルト、リチャードソン太平洋艦隊司令官に「遅かれ早かれ、やつら(日本)は過ちを犯し、われわれは戦争に突入する」と発言。11月2日、ルーズベルト、大統領選挙でこの国は戦争に突き進まないと公約。1941年1月6日、ルーズベルト、一般教書演説で連合国に戦争必需品を貸与する支援計画を発表。10日、武器貸与法案が中立法を打ち消すものでないと発言。このころの聴聞会で、ハル国務長官「自衛にための仕組み」、ノックス海軍長官「わが国の息子たちを戦争にやらずにすむ唯一の方法」、スティムソン陸軍長官「必然的にアメリカの参戦につながるものではない」と説明。21日、ルーズベルト、駐日グルー米大使からの「いずれ日本と正面衝突することを避けられず」との手紙に「まったく同感」と返信。2月1日、太平洋艦隊司令長官に、リチャードソン海軍大将を更迭し、キンメル海軍大将が就任。11日、野村吉三郎駐米大使が着任。3月11日、武器貸与法案が成立。 4月3日、スターク海軍作戦部長、キンメル大将に問題は戦争に参加するかではなく、いつ参加するかだと手紙。4月13日、日ソ中立条約締結。 5月6日、スターリン、ソ連首相に就任。16日、野村・ハル会談。ハル長官は日米了解案を踏まえて日本政府の正式な訓令を要請。5月27日、ルーズベルト、国家非常事態を宣言。合衆国は防衛のみを目的としているが、現代の戦争は瞬く間に展開されるのでパトロール活動を大西洋の南北海域に拡大し艦船と航空機を追加投入していると発表。 6月11日、ノックス海軍長官、米駆逐艦が独潜水艦を撃破したとの報道に何も知らないと発言。その後新聞各紙に、海軍の行動については海軍省が適正とみなすニュースのみを活字にするよう警告。14日、ルーズベルト、独伊の資産凍結を命令。21日、野村・ハル会談、米国側が日米了解案の訂正案をオーラルステートメントとして手交。22日、独ソ開戦。25日、日本、南部仏印進駐を決定。 7月2日、ノックス海軍長官、海軍の遭遇戦・護送の報道は絶対に真実でないと否定。11日、合衆国とアイスランド国籍の船舶の護送を命じる。16日、第二次近衛内閣総辞職、外相を松岡洋右から豊田貞次郎に変えて第三次近衛内閣成立。7月25日、アメリカ、日本の資産凍結。 8月1日、合衆国、全侵略国に石油禁輸を含む経済制裁を適用。8月6日、野村・ハル会談、日本側、仏領インドシナから将来撤退することを提案、制裁解除を求める。9日~12日、大西洋会談。ルーズベルト、①日本に対して警告文を出す、②アゾレア諸島を占領する、③戦後、米英は世界の警察官として治安維持にあたる、とチャーチルと合意。日本を「三十日間はあやしておけるだろう」と発言。17日、野村大使、ルーズベルトに近衛首相との太平洋会談の提案を伝達。ルーズベルトは、日本政府が近隣諸国に武力政策をこれ以上推進すれば合衆国の安全保障上必要とみなすあらゆる措置を講じなければならなくなるとの警告。24日、チャーチル、日米交渉で和解の希望が絶たれればイギリスはためらうことなく合衆国の側につくなどとラジオ演説。28日、米海軍、軍事行動を南東太平洋の海域に拡大。野村大使、ルーズベルトに太平洋会談開催を要請する近衛首相の親書を手交。 9月3日、大統領報道官、近衛首相が大統領に直接会談を提案したとの報道を否定。実際には同日、日本に首脳会談に先立ち事前討議が必要と回答。6日、近衛首相、アメリカの提示した四大原則に完全に同意と返信。アメリカ側はそれでは不十分だとしてさらなる原則や表現に関する合意が必要と回答。ハル国務長官、日米間の調停を目指す予備的対話の進展について何も知らないとの報道。11日、ルーズベルト、グリアー号が独潜水艦に攻撃されたのであって、ヒトラーと武力紛争を望んだことは無いと演説。同日、防衛水域での枢軸国艦船への攻撃を許可。23日、スターク海軍作戦部長、キンメル大将に大統領が大西洋と南東太平洋下部地域に限って、発砲命令を出しているとの手紙。29日、グルー駐日米大使、日本政府が大統領との平和会談をますます切望しており、この好機が逃されないことを切望するとワシントンに報告。 10月2日、合衆国、日本に四原則の確認と仏印、中国からの撤兵要求の覚書。ドイツ、モスクワ攻撃を開始。5日、大本営、連合艦隊に作戦準備を命令。15日、ゾルゲ事件。16日、近衛内閣、総辞職。18日、東条英機内閣が成立。27日、ルーズベルト、カーニー号事件でアメリカは攻撃を受けた、中立法は時代遅れになったと発言。 11月4日、ハル国務長官、東条内閣が切望する合衆国との和解に向けた最後の提案として野村大使に送った傍受通信を入手。11日、国務省の極東部、日本との暫定合意をハル長官に勧告。15日、来栖三郎特使、ワシントンに到着。22日、ハル長官、野村大使と来栖特使と会談。日本側は仏領インドシナ南部からの引き揚げを含む計画を提案。25日、ルーズベルト、ハル国務長官・ノックス海軍長官・スティムソン陸軍長官・マーシャル陸軍参謀総長・スターク海軍作戦部長との会議で「早ければ次の月曜日(12月1日)にも」攻撃される公算を指摘。「どのようにしてわが国にさほど甚大な危険を招くことなく奴らが最初に発砲するように導くか」を議論。25~28日の政府高官会議でハル国務長官、①日本との合意に達する可能性は事実上全くないと発言、②安全保障問題は陸・海軍の手にゆだねられた、③日本の奇襲を防衛戦略の中心に据えるべき、と発言。 26日、連合艦隊のハワイ作戦機動部隊、単冠湾を出港。ハル国務長官、野村大使と来栖特使に覚書を手渡す(ハル・ノート)。日本に中国とインドシナからの全面撤退、中国国民政府のみを認めるなどを要求。日本政府代表は本国で最後通告とみなされる可能性を指摘。27日、陸軍省、ハワイのショート中将に「日本との交渉は事実上打ち切られた模様だ」「合衆国は日本が最初に外的行為をとることを希望する」、日本が敵対行為を始める以前に任務遂行にあたっては一般市民の警戒心を招くこともその意図が露呈することもないようにとの警告を送付。同日、海軍省、ハワイのキンメル大将に「戦争警告とみなすべし」「日本との交渉は終了した」、戦争に定められた防衛体制の配備を命じる通信を送付。28日、日本がクラ地峡に侵攻してイギリスが戦う場合は合衆国も参戦せざるを得ないとの見解で一致。同日、陸軍情報部、日本政府がハル・ノートを屈辱的な提案、交渉は事実上決裂したと駐米大使宛ての通信文を傍受。29日、ハル国務長官、イギリス大使と会談し対日関係で外交が果たす役割は事実上終わり、問題は陸・海軍の手に移ると説明。また日本は早急に意外性のある行動を起こし特定の陣地や基地を獲得するかもしれないと発言。 12月1日、ルーズベルト内閣、アングロサクソン諸国と日本との間で早期に戦争が勃発する危険性を伝える東京から駐ベルリン大使宛ての傍受通信を入手。2日、ルーズベルト、日本政府に仏印南進の理由を公式に問い質したと発表。記者会見で「日本と平和状態にあり、それも完全に友好関係にある」と発言。5日、野村大使と来栖特使、ハル国務長官に仏印での軍事展開は予防のためであり、ABCD諸国の軍備増強に危機感を募らせていると回答。6日、オーストラリア海軍情報部、日本の艦隊がハワイに急行していることを確認。同日、陸軍情報部、ハル・ノートへの日本政府の返書とこれを手渡す時間が送られることを通知した豊田外務大臣から野村大使宛て極秘通信を傍受。午後9時、ルーズベルト、天皇に平和と協調を訴える親書を送信。午後9時半過ぎ、ルーズベルト、日本の傍受電報を受け取り、「これは戦争ということだ」と発言。7日午前4時37分、米海軍基地、日本の「午後一時」通信を傍受。午前10時、米海軍大尉、ホワイトハウスと国務省に日本が真珠湾とフィリピンを攻撃するとの情報を伝達。午前10時半過ぎ、スターク海軍作戦部長、午後一時通信を受け取る。その後11時までに、ハル長官の補佐官、大統領補佐官にも届けられた。午前11時過ぎ、マーシャル大将、午後一時通信を受け取りハワイに戦争警告を民間の電信で発令。午後一時、野村大使、ハル国務長官に面談を申し入れ。午後一時半ごろ、日本、真珠湾を奇襲攻撃。午後1時50分、海軍省、真珠湾が空襲の至急報を受け取る。午後2時、ルーズベルト、ハル国務長官に真珠湾攻撃を告げる。午後2時5分、日本の代表団、20分遅れで国務省に到着、5分後にハル長官と面談。ハル、「この地球上にここまで大きな歪曲と破廉恥な嘘を口にできる政府があるとは今日まで想像したこともなかった」 8日、ルーズベルト、議会に戦争状態の宣言を要請。「屈辱の日」演説。日本がいわれのない、卑劣な攻撃を行ったと説明。イギリスも対日宣戦布告。ドイツ、対ソで苦戦。ヒトラー、モスクワ攻撃を放棄。11日、ドイツとイタリア、アメリカに宣戦布告。16日、ハワイ司令官のキンメル海軍大将、ショート陸軍中将を解任。18日、ルーズベルト、真珠湾事件を調査するロバーツ委員会を設置。22日、ルーズベルトとチャーチル、ワシントンで戦争指導会議。 
 以上はチャールズ・A・ビーアド著「ルーズベルトの責任」の訳者(開米准)がビアードの原書で言及された事項を基に作成されたものである。時系列に事実関係を羅列しただけで、当時の状況が浮かび上がってくる。ビアードは真珠湾攻撃を単に歴史に重大事件として記録するのではなく、ルーズベルト大統領が参戦を決定するまでの過程を炙り出した大統領陰謀説の嚆矢ともなった。これに、スティネットはどんな事実関係を追加したのか。文字数がかさんだので、続きは次回としたい。


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