大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書から見えてくる

2023年05月30日 | 歴史を尋ねる

 『東條英機 宣誓供述書』は数奇な運命を辿って、戦後60年の節目に当たる平成17年8月、ワック株式会社から編者東條由布子『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』として発行された。編者まえがきで東條由布子氏は言う。この本をお届けできるのは、さまざまな出会いのお蔭だ、と。このブログでは、従来より当事者に語らせるのが歴史を語るうえで一番大事だ、としてきた。歴史家と言われる人に語らせると、手あかがついて見えるものも見えなくなる、と考えているからだ。筆者がこの本を手にできた のも、この様々な出会いのお蔭だったと聞かされると、戦後日本のゆがみが改めて見えてくる。ゆがみの実像を見てみよう。
 由布子氏はいつものように神田の古書店街に東京裁判関連の本を探しに行くと、平成10年1月ある書店で戦記物などがうずたかく積まれた中に、薄い一冊が挟まっていた。そこには「天皇に責任なし 責任は我にあり」と書かれ、傍らに「東條英機 宣誓供述書」とあった。この本の奧付を見ると、昭和23年1月20日、洋洋社発行とあった。この本がどういういきさつで洋洋社から出版されることになったかは不明、ところが出版されるとすぐ、連合軍総司令官のマッカーサー元帥によって昭和20年9月から敷かれた報道管制の一環として、この「東條英機 宣誓供述書」は発禁第一号に指定され、長い間日の目を見ることがなかった。その本を手に入れた由布子氏は友人藤川義生氏に会う機会があった。この話をすると、義生氏はすぐに複写して全文を手作りで製本し、五十冊を全国の識者に送った。その一冊が長野県に住んでいた瀧澤宗太氏に渡り、恩給をはたいて復刊に尽力してくれた。そして全国の有志に呼び掛け、日本中の図書館、大学、出版社のうち、七割のところに届けることが出来た。その後の経緯については詳しく触れていないが、7年後にワック社から復活した。渡部昇一氏も述べている通り、近現代史の超一級の資料の一つである。ところが言論の自由と声高に言うところが長年黙って避けている。不思議な現象である。この供述書が占領下の日本で発禁文書であったこと事も確かだし、パル判決もそうであった。だが、これらの文書をGHQが公開できなかったのは、そこには真実が述べられており、連合国側こそ大戦の原因になっている事、また東京裁判の訴因は虚構、あるいは夢想である事が白日の下にさらされることを、占領国側が恐れたからであるに違いないと渡部氏。その渡部氏が残念がるのは、供述書に書かれている東條証言が引用された文献等をあまり見た事がない、東條英機悪人説があまりに蔓延って、参照するに足らずという空気があるのではないか、だとしたら、それはとんでもない間違いである、と指摘する。従って、この供述書から、大変興味のある個所について、引用させていただく。

 まずは、対米英開戦を意思決定した9月の御前会議前後に関して

 「第三次近衛内閣と日米交渉  9月6日御前会議以前
 第二次近衛内閣の日米交渉は停頓しついに該内閣の倒壊となった。第二次近衛内閣の辞職の表面の理由はかって御手洗証人の朗読した声明書の通りであり、辞職の経緯の一部は木戸候日記にも記載してあるが、私の観察によればこの政変は日米交渉を急速にかつ良好に解決するために松岡外相の退場を求めた事だった。同氏に辞職を迫るときは勢い混乱を生ずるが故に、総辞職という途を選んだ。そのことは7月16日、目白が近衛公別邸にて首相ならびに連絡会議関係の閣僚、すなわち平沼、鈴木、及川の諸氏および私が集まって協議した趣旨によっても明らかだ。そこで総辞職の決行を決議しその日の夕方総辞職になった。すなわち第二次近衛内閣は外務大臣を取りかえても日米交渉は成立せしめようと図った。この経過によっても、次にできた第三次近衛内閣の性格と使命が明らかだ。
 しかるにアメリカ側では南部仏印進駐を以て日本の米英蘭を対象とする南進政策の第一歩であると誤解した。これによって太平洋の平和維持の基礎を見出すことを得ずといって日米交渉の打切りを口にし、また資産凍結を実行するに至りました。日本政府においてはなお平和的解決の望みを捨てずその後といえども日米交渉の促進に苦慮した。大統領の提案はわが国が仏印進駐の意図を中止するかまたは進駐措置が既に開始せられたるときは撤兵を為すべしというのであった。これを条件として次の二つのことを主張している。その一つは、日、米、英、蘭、支により仏印中立化の共同保障である。その二つは仏印における物資獲得につき、日本に対する保障をなすというのであった。他方日本としては8月4日に連絡会議を経てこれに対する対策を定めた。日本の回答の重点は四つ。 一、日本は仏印以上には進駐せぬ。しかし仏印より支那事変解決後には撤退すること。 二、日本政府は比島の中立を保障する。 三、米国は南西太平洋の軍事的脅威を除去すること、そして英、蘭両政府に対して同様なる措置を勧告すること。 四、米国は南西太平洋、ことに蘭印における日本の物資獲得に協力すること、また日本と米国との正常関係の復帰のために必要な手段を取ること。
 元来、日本の南部仏印進駐は前に述べたような理由で行われたので、これを必要とした原因が除去せられるか、または緩和の保障が現実に認められるにあらざれば仏印撤退に応ずることは出来ない。国家の生死の問題に対しては一方的の強圧があったというだけで、これに応ずるということは出来ない。日本は進出の限度および撤兵時期も明示している。この場合にでき得るだけの譲歩はした。しかるに米国側は一歩もその主張を譲らぬ。日本の仏印進出の原因の除去については少しも触れていない。ここに更に日米交渉の難関に遭遇した。
 近衛首相はこの危険を打破するの途はただ一つ。この際日米の首脳部が直接会見し、互いに誠意を披歴して、世界の情勢に関する広き政治的観点より国交の回復を図るのほかはないと考えた。そこで1941年8月7日に野村大使に訓電を発し首相と大統領との会見を申出た。同年8月28日には近衛首相よりルーズベルト大統領に対するメッセージを送った。米国では趣旨においては異存はないけれども、主要なる事項、ことに三国同盟条約上の義務の解釈ならびにその履行の問題、日本軍の駐留問題、国際通商の無差別問題につき、まず合意が成立することが第一であって、この同意が成立するにあらざれば首脳者会談に応ずることを得ずという態度であった。そこでこの会談は更に暗礁に乗り上げた。」

 「昭和16年9月6日 御前会議
 米英蘭の1941年7月26日の対日資産凍結を巡り日本は国防上死活の重大事態に当面した。この新情勢に鑑みわが国の今後採るべき方途を定める必要に迫られた。ここにおいて1941年9月6日の御前会議において「帝国国策遂行要領」と題する方策が決定された。この案はこれより一両日前の連絡会議で内容が定められ、更に御前会議で決定されたのであって、統帥部の要求に端を発し、その提案にかかる。私は陸軍大臣としてこれに関与した。
 この帝国国策遂行要領の要旨は窮迫せる情勢に鑑み、従来決定された南方施策を次のような要領により遂行するというのであった。 一、10月上旬頃までを目途として日米交渉の最後の妥協に務める。これがためわが国の最小限の要求事項ならびにわが国の約諾し得る限度を定め極力外交によってその貫徹を図ること。 二、他面10月下旬を目途として自存自衛を全うするため対米英戦を辞せざる決意を以て戦争準備を完成する。 三、外交交渉により予定期日に至るも要求貫徹の目途なき場合は直ちに対米英蘭開戦を決意する。 四、その他の施策は従前の決定による、 というのだった。この要領を決定するに当って存在したりと認めた窮迫せる情勢およびこれを必要とした事情は概ね次に七項目である。

 a 米英蘭の合従連衡による対日経済圧迫の実施  米英蘭政府は日本の仏印進駐に先立ち、緊密なる連携の下に各種の対日圧迫を加えて来た。これらの国は1941年7月26日既に資産凍結冷を発した。また比島高等弁務官は同時にこれを比島に適用する手続きを取った。イギリスは同日、日英日印、日緬各通商航海条約の破棄を通告し、同日日本の資産を凍結した。蘭印政府もまた7月26日日本の資産を凍結した。右の如く同じ日にアメリカ、イギリス、オランダが対日資産凍結をなした事実より見てこれらの政府の間に緊密なる連絡が取られていたことは明白なりと観察された。その結果は日本に対する全面的経済断交となり、爾来日本は満州、支那、仏印、泰以外の地域との貿易は全く途絶し日本の経済生活は破壊されんとした

 b 米英蘭による対日包囲体制の間断なき強化、米英軍備の間断なき増強等    当時わが統帥部の観察によれば米国の海軍主力艦隊は1940年5月以来ハワイに進出しますます増強されており、ことに航空的に増強されていると判断された。1941年7月には米大統領は太平洋に散在の諸島の防備強化の費用として三億ドルの支出を米国議会に求めた。当時日米の関係は甚だしき緊迫の状態を示して来ていた。これと対応して米国海軍の大拡張が計画された。1941年7月には米国上院は海軍長官に国家非常事態宣言中、海軍勤務年限延長の権限を賦与する法案を可決した。同月同大統領は海軍費ならびに海軍委員会費33億2300万ドルの追加予算の支出を議会に要求した。1941年9月3日には米国海軍省は同年1月ないし8月までの完成ないし就航戦艦2隻、潜水艦9隻、駆逐艦12隻その他を含め合計80隻なる旨を発表した。同年7月26日にはフィリピンに極東米陸軍司令部を創設しこれをマッカーサー将軍の麾下に置く旨を発表した。同年7月30日には米国下院陸軍委員会は徴集兵、護国軍および予備兵の在営期間延長の権限を大統領に付与する決議案を採択している。1941年8月米陸軍予備兵3万人を招集し、9月1日より米国極東軍マッカーサー総司令官の麾下に編入する旨ケソン比島大統領が命令を発した。1941年7月25日には米国の国防生産管理局は1940年7月以降一カ年間に議会の承認する国防充実および援英予算は507億8000万ドル、そのうち飛行機費107億9000万ドルなる旨を発表していた。1941年7月10日にはルーズベルト大統領は議会に対し150億ドルの国防費および武器貸与予算、うち陸軍強化費47億4000万ドルの支出を求めている。
 これらの情報によっても1941年7月以降においても米国側は軍備拡張に狂奔せることが窺われる。また以下の情報により米英蘭の間に緊密なる連携あることもうかがわれた。すなわち1941年7月24日に米国海事委員会は南ア、ターバン、カルカッタ、シンガポール、マニラ、ホノルル、紅海方面に海事連絡員の派遣を発表している。同年8月26日にはニュージーランドの首相フレイザー氏はニュージーランドの基地の米、豪、蘭印の共同使用に同意する旨を表明した。1941年7月4日重慶の郭外交部長は米、英、支、結束の必要を放送した。同年8月末にはマクルータ准将を団長とする軍事使節を重慶に派遣する旨ルーズベルト大統領が言明している。なお次に米側高官は威嚇的言動を発表したという報道がわが方に達しました。これらの報道の二、三を挙げれば、ノックス海軍長官はボストンで開催中の各州長官会議において、今こそは米国海軍を用いるべき時である旨演説した。ルーズベルト大統領は議会に特別教書を送り議会が国家非常時状態の存在を承認せんことを要求した。1941年7月23日にはノックス海軍長官は海軍が米国の極東政策遂行上必要なる措置を敢行する旨言明した。同年8月14日には有名な米英の共同宣言(注:米国大統領F. ローズベルトと英国首相チャーチルにより発せられた共同宣言。 領土不拡大,民族自決,通商・資源の均等解放,安全保障など,第2次大戦および戦後処理の指導原則を明らかにした)が発表された。8月19日にはケソン比島大統領とウォーレス米国副大統領とは交換放送を行い米国参戦の暁にはフィリピンはこれに加担する旨言明した。以上の如くこの当時においては米国側の威嚇的言動の情報が引き続いて入って来た。なお同年6月にはシンガポールにおいて英、蒋軍事会議が開かれ両者の間に軍事同盟が出来たとの情報が入っていた。

 c  日本の国防上に与えられたる致命的打撃   米英蘭の資産凍結により日本の必要物資の入手難は極度に加わり日本の国力および満州、支那、仏印、泰に依存する物資によるのほかなく、その他は閉鎖せられある種の特に重要な物資は貯蔵したものの消費によるのほかはなく、ことに石油はすべて貯蔵によらなければならぬ有様であった。この現状で推移すればわが国力の弾発性は日一日と弱化しその結果日本の海軍は二年後にはその機能を失う。液体燃料を基礎とする日本の重要産業は極度の戦時規制を施すも一年を出ずして麻痺状態となることが明らかにされた。ここに国防上の致命的打撃を受けるの状態になった。

 ⅾ  日米交渉の難航と最後の打開策の決定   以上の如き逼迫状態に伴い、政府としては松岡外務大臣の退陣までも求めて、成立した第三次近衛内閣は極力交渉打開の策を講じたが、ついに毫もその効果はなく、更に近衛首相は事態の窮境を打開するため日米首脳者の会談を企てたが、米側においてこれに応ずる色もないという情況だった。しかし、日本としては前諸項の米英蘭の政治的、軍事的、経済的圧迫により日本の生産は極度の脅威を受けるけれども戦争を避ける一縷の望みを日米交渉に懸けその成立を図らんとした。これがため従来の好ましからざる結果にも鑑み新たなる観点に立ちて交渉の基礎を求めねばならぬと考えた。

 e  支那事変解決の困難さの増大   重慶はその後更に米英の緊密なる支援を受けて抗戦を継続し、日本は各種の方法を以て解決を図ったが、その目的を達成しないために、南方の状態はますます急迫し日本としては支那の問題との両者の間に苦慮するに至った。

 f  作戦上の要求に基ずく万一の場合における対米英蘭戦争の応急準備   前諸項の原因で日本は国防上の危機に追い詰められて来たが、それでも日本は極力平和的手段により危機の打開に尽力した。しかし、他面日米交渉の決裂も予想しておかねばならない。この決裂を幾分でも予想する以上は統帥部はその責任上これに応じる準備を具えねばならない。その準備は兵力の動員、船舶の徴用、船舶の艤装、海上輸送等広汎に亙った。外交上の関係は別とするもこの準備は統帥部だけではできない。まずは国家意思の確乎たる決定を前提とする。

 g  外交と戦略との関係   外交により局面がどうしても打開できぬとなれば、日本は武力を以て軍事的、経済的包囲陣を脱出して国家の生存を図らねばならない。しかるときは問題は外交より統帥に移る。上陸作戦の都合と戦略物資の状況により武力を以てする包囲陣脱出のためには重大なる時期的制約を受ける。すなわち統帥部の意見によれば上陸作戦の都合は十一月上旬を以て最好期とし、十二月は不利なるもなお不可能に非ず、一月以降は至難、春以降となればソ連の動向、雨季の関係上包囲陣脱出の時期は著しく遷延することになる。この間戦争物資は消耗しわが方の立場は更に困難に立ち至るというにあった。また武力行使のためには統帥部として国家意思決定後最小限一か月の余裕が必要であるとのことだった。 

 以上主として国防用兵の関係により日米交渉に十月上旬なる時期的制限を要した。各種の情勢が9月6日の国策要綱を必要とした理由である。万一太平洋戦争開戦となる場合の見通しは、世界最大の米英相手の戦争であるから容易に勝算のあり得ないことは当然である。そこで日本としては太平洋およびインド洋の重要戦略拠点と、日本の生存に必要なる資源の存在する地域に進出して、敵の攻撃を破砕しつつ頑張りぬく以外に方法はないと考えた」  

 続いて、ハルノート発出前後について

 「東條内閣における日米交渉    東條内閣における日米交渉はもっぱら外務省がこれを扱った。私が承知しているのは、その大綱のみだ。10月2日のアメリカより提出されたハルノートを巡り、日米交渉に関連して第三次近衛内閣が崩壊したことは前に述べた通り。東條内閣の成立と共に政府と統帥部は白紙還元の趣旨に基づき、とりあえず10月21日、日米交渉継続の意思を外務大臣より野村駐米大使に伝達した。その趣意は同月24日若杉公使よりウエルズ国務次官にこれを通じている。日本政府は前述の1941年11月5日の御前会議において決定された対米交渉要綱により外務省指導の下に、甲、乙両案を以て日米交渉に臨みその打開につとめた。(中略)
 日米交渉は甲案より始めたものだが、同時に乙案をも在米大使に送付している。交渉は意のごとく進攻せず、その難点は依然として三国同盟関係、国際通商無差別問題、支那進駐にあることも明らかになり、政府としては両国の国交の破綻を回避するため最善の努力を払うため従来の難点は暫く措き主要かつ緊急なるもののみに限定して交渉を進めるためにあらかじめ送ってあった。乙案によって妥協を図らしめた。この間の消息は既に当法廷において山本熊一証人の発言せる如くである。
 1941年11月17日私は総理大臣として当時開会の第七十七議会において施政方針を説明する演説をした。これにより日本政府としての日米交渉に対する態度を明らかにした。けだし、日米交渉開始以来既に六か月を経過し、両国の主張は明瞭となり、残る問題は両国の互譲による太平洋の平和維持に対する努力をなしうるや否やのみにかかっている。これがため日本としては現状において忍びうる限度を世界に明かにする必要を認めた。日本政府の期するところは日本はその独立と権威とを擁護するため(1)第三国が支那事変の遂行を妨害せざること、 (2)日本に対する軍事的、経済的妨害の除去および平常関係の復帰、  (3)欧州戦争の拡大とその東亜への波及の防止、とであった。右に引き続き東郷外相は日米交渉におけるわが方の態度につき二つのことを明らかにした。その一つは今後の日米交渉に長時間を要する必要のなかるべきこと。その二つはわが方は交渉の成立を望むけれども大国として権威を損なうことはこれを排除する、というのであった。首相および外相の演説は即日世界に放送せられ中外に明かにされた。
 米国の新聞紙にも右演説の全文が掲載されたと報告を得た。それゆえ米国政府当局においても十分これを承知しているものと思われた。右政府の態度に対して11月18日貴衆両院は何れも政府鞭撻の決議案を提出し満場一致これを可決した。ことに衆議院の決議案説明に当たり島田代議士のなした演説は当時のわが国内の情勢を反映したものと判断した。
 これより先、米英豪蘭の政情および軍備増強はますます緊張し、また首脳者の言動は著しく挑発的となってきた。これがわが国朝野を刺激しまた前に述べた議会両院の決議にも影響を与えたものであった。例えば1941年11月10日にはチャーチル英首相はロンドン市長就任午餐会においてアメリカが日本と開戦の暁にはイギリスは一時間以内に対日宣戦を布告するであろうと言明したと報ぜられた。引続き、その翌々日イギリスのジョージ六世陛下は議会開院式の勅語にて英国政府は東亜の事態に関心を払うものであると言明せられたと報ぜられた。ルーズベルト大統領はその前日である休戦記念日において米国は自由維持のためには永久に戦わんと述べ前記英国首相並びに国王の言葉と相呼応している。ノックス海軍長官の如きは右休戦記念日の演説に対日決意の時到と演説をした。かくの如くわが第七十七議会の前における米英首脳者の言動はすこぶる露骨且つ挑発的であった。
 ルーズベルト大統領は11月7日には在支陸戦隊引揚を考慮中なる旨を言明し、14日には右引揚に決定した旨を発表した。英国の勢力下にあったイラクは11月16日対日外交を断絶した。一方11月中旬にはカナダ軍のゼー・ローソン准将麾下の香港防衛カナダ軍が香港に着いた。なお、11月24日には米国政府は蘭領ギアナへ陸軍派兵に決した旨を発表した。米軍の蘭領への進駐は日本として関心を持たずにはおられない。11月21日にはイギリスんぽアレキサンダー海相はイギリス極東軍増強を言明した。これより先、11月初めには米国海軍省は両洋艦隊建艦状況は1月ないし10月に主力艦就役二、進水二、航空母艦就役一、巡洋艦進水五、駆逐艦就役十三、同進水十五、潜水艦就役九、同進水十二なる旨発表した。11月25日には比島駐在の米陸軍当局はマニラ湾口要塞に十二月中に機雷を敷設する旨発表した。
 これと相呼応して英国海峡植民地当局もまたシンガポール東口に機雷を敷設する旨発表した。11月下旬ノックス海軍長官は米の海軍募兵率は一カ月一万一千名なる旨を言明した。在天津の米人百名は11月下旬に引揚を行った。以上の如く米英側の情勢は日本を対象とする開戦前夜の感を与えた。

 かくのごとき緊張裏に米国政府は1941年11月26日に駐米野村、来栖両大使にたいし、11月20日の日本の提案については慎重に考究を加え関係国とも協議したが、これには同意し難しと申し来り今後の交渉の基礎としての覚書を提出した。これがかの11月26日のハルノートである。この覚書は従来の米国側の主張を依然固辞するばかりでなく更にこれに付加するに当時日本の到底受け入れることのなきことが明らかになっていた次の如き難問を含めたものであった。(一)日本陸海軍はいうに及ばず支那全土(満州も含む)および仏印より無条件に撤兵すること (二)満州政府の否認、(三)南京国民政府の否認、(四)三国同盟条約の死文化  であった。(中略)

 11月27日午後連絡会議を開き各情報を持ち寄り審議に入ったが、一同は米国案の過酷なる内容には唖然たるものがあった。その審議の結果到達した結論の要旨は次の如く記憶する。(一)11月26日の米国の覚書は明らかに日本に対する最後通牒である。(二)この覚書はわが国としては受諾することは出来ない。かつ米国は右条項は日本の受諾し得ざることを知りてこれを通知して来ている。しかも、それは関係国と緊密なる了解の上になされている。(三)以上のことより推断しまた最近の情勢、ことに日本に対する措置言動並びにこれにより生ずる推論よりして米国側においてはすでに対日戦争の決意をなして居るものの如くである。それ故にいつ米国よりの攻撃を受けるやも測られぬ。日本においては十分戒心を要するとのこと。
 この連絡会議においては、もはや日米交渉の打開はその望みはない。従って11月5日の御前会議の決定の基づき行動するを要する。しかし、これによる決定はこの連絡会議でしないで、更に御前会議の議を経てこれを決定しよう。そして御前会議の日取りは十二月一日と予定し、その御前会議には政府から閣僚全部が出席しようとした。この連絡会議と御前会議予定日との間に相当日を置いたのは、天皇陛下がこの事態につき深く御軫稔あらせられ一応重臣の意見を聞きたいとの御考えをお持ちになっておられることを承知していたので、御前会議を直ちに開かず数日間遅らせた。(中略)
 次の事柄は私が戦後知り得た事柄であって、当時はこれを知らなかった。(一)米国政府は早くわが国外交通信の暗号の解読に成功し、日本政府の意図は常に承知していたこと  (二)わが国の1941年11月20日の提案は日本としては最終提案なることを米国国務省では承知していたこと  (三)米国側では11月26日のハルノートに先立ち、なお交渉の余地ある仮取極め案をルーズベルト大統領の考案に基づきて作成し、これにより対日外交を進めんと意図したことがある。この仮取極め案も米国陸海軍の軍備充実のために余裕を得る目的であったが、いずれにするも仮取極めはイギリスおよび重慶政府の強き反対に会いこれを取り止めて、この提案に及んだこと、並びに日本がこれを受諾せざるべきことを了知しいたること  (四)11月26日ハルノートを日本政府は最後通牒と見ていることが米国側に分かっていたこと  (五)米国は1941年11月末すでに英国と共に対日戦争を決意していたばかりでなく、日本より先に一撃を発せしむることの術策が行われたることがある。11月末のこの重大なる数日の間において、かくのごとき事が存在していようとは夢想だにしなかった。」(中略)

 「敗戦の責任は我にあり   私は世界史上最も重大なる時期において、日本国家がいかなる立場にあったか、また同国の行政司掌の地位に選ばれた者達が、国家の栄誉を保持せんがため真摯に、その権限内において、いかなる政策を立てかつこれを実施するに努めたかを、この国際的規模における大法廷の判官各位にご諒解を請わんがため、各種の困難を克服しつつこれを述べた。かくの如くすることにより私は太平洋戦争勃発に至るの理由および原因を描写せんとした。私は右等の事実を徹底的に了知する一人として、わが国にとって無効かつ惨害を齎したところの1941年12月8日発生した戦争なるものは米国を欧州戦争に導入するために連合国側の挑発に原因し我が国に関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信する。なお東亜に重大なる利害を有する国々が何故戦争を欲したかの理由はほかにも多々存在する。これは私の供述の中に含まれている。ただわが国の開戦は最終的手段としてかつ緊迫の必要よりして決せられたものである事を申上げる。満州事変、支那事変および太平洋戦争の各場面を通じて、その根底に潜む不断の侵略戦争ありたりとする主張に対しては私はその荒唐無稽なる事を証するため、最も簡潔なる方法を以てこれに反証せんと試みた。わが国の基本的かつ不変の行政組織において多数の吏僚中のうち少数者が、長期にわたり、数多くの内閣を通じて、一定不変の目的を有する共同謀議をなしたなどという事は理性ある者の到底思考し得ざる事なることが直ちに御了解下さるでしょう。私は何故に検察側がかかる空想に近き訴追をなさるかを識るに苦しむものである。
 日本の主張した大東亜政策なるものは侵略的性格を有するものなる事、これが太平洋戦争開始の計画に追加された事、なおこの政策は白人を東亜の豊富なる地帯より駆逐する計画なる事を証明せんとするため本法廷に多数の証拠が提出された。これに対し私の証言はこの合理にしてかつ自然に発生したる導因の本質を白日の如く明瞭になしたと信じる」
 「終わりに臨み、日本帝国の国策ないしは当年合法にその地位にあった官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもない。一歩は一歩より進み、また適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法および法律に定められた手段に従いこれを処理してきたが、ついにわが国は彼の冷厳なる現実に逢着した。当年国家の運命を商量較計するのが責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった。われわれは国家の運命を賭した。しかして敗れました。眼前に見るが如き事態を惹起した。
 戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任いかんとの問題とは、明白に分別できる二つの異なった問題である。第一の問題は外国との問題でありかつ法律的性質の問題である。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかってわが国が本戦争を為したことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追され、また敗戦国の適法な官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられたとは考えた事はない。
 第二の問題、敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず真心より進んでこれを負荷せんことを希望する」

 


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