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東京裁判 弁護側立証 第三部 中華民国に関する立証

2022年08月08日 | 歴史を尋ねる

 検察側の「中華民国における軍事的侵略」「中国各地における残虐行為及び阿片・麻薬問題」「対支経済侵略」の三部門立証を反駁する「中華民国に関する立証」の冒頭陳述は、畑被告担当のラザラス弁護人が行った。①盧溝橋事件及び日本の不拡大方針、②中国共産党の活動と排日運動、③事変の中支への波及、司令官がこんな状態で、駐屯軍が積極的にことを仕掛けることは考えられない。④南京攻略と平和への日本の努力、⑤漢口攻略とその後、⑥中国新政権、の六項目に分けて、各項目ごとに、証拠を基に事件及び事柄の経過を説明しているが、いわゆる「南京虐殺事件」を含む中国各地での残虐行為に関する検察側の訴追に対して、南京での残虐行為は誇張的に報道されあるいは全然存在しなかった事、中国人による残虐行為で日本軍人に責任転嫁されたものがある事を明らかにする旨強調している。本部門の立証は難航した。さらに大きな特徴は、証拠として受理されたものとほぼ同数の文書が検察側の異議により却下された。

 盧溝橋事件:昭和十二年七月七日夜の盧溝橋最初の銃声は、果たして日支双方何れの側によるものだったのか、が検察・弁護双方の第一の争点だった。検察側の主張は宋哲元将軍率いる第二十九軍の秦徳純将軍、宛平県知事王冷斎により、事件当夜の日本軍の演習は不法なものであり、事件の責任は一切日本側に在る旨の証言を行わせているが、最初の銃声が日本側によるものとの確言はなかった。弁護側が当時旅団長だった河辺正三陸軍大将、中国第二十九軍軍事顧問だった桜井徳太郎陸軍大佐、参謀長橋本群陸軍中将、参謀和知鷹二陸軍中将、陸軍省軍事課長田中新一陸軍中将の各氏を次々と喚問した。それぞれの立場からこの事件の関りを述べたが、要約すると、北支駐屯軍の兵力・任務・訓練・演習の状況、中国軍の兵力配備状況、中国側の排日機運激化の状況、事件発生当夜の状況と事件発生後の北支駐屯軍の行動、中央の不拡大方針に基づく中国軍との交渉、停戦協定の締結、停戦協定に違反した中国軍の不法行動と中国軍の大兵力移動集中の状況、日本軍が積極的行動に出るのやむなきに至った事情、事件発生前後の陸軍中央部の判断・処置等に関することであった。橋本群証人の口述書には、事件当夜日本軍は空砲で演習中で実弾は所持していなかったため、中国側から射撃を受けたが応射出来ず危険な状態に陥った、と。河辺証人と弁護士との一問一答形式の口述書では、問 盧溝橋での日支両軍の衝突は、第三者の策謀に端を発するとの説があるが如何。 答 そのことは判然としないが、七月七日事件勃発以後、日支両軍対峙間毎夜不法射撃が頻発し、その都度日支両軍の状況を調査すると両軍共、射撃をした形跡もなく、日支両軍いずれにも属さない第三者が両軍対峙した中間地帯から射撃をしていた事がほぼ判明し、確かに何者かの策謀があったように判断された、と。
 この毎夜の不法射撃が、日本軍と蒋介石率いる中国国民軍とを衝突させようとした中国共産軍の策謀であった事を明らかにした文献は、今日巷間にいくつかある、と冨士信夫氏。ふーむ、この河辺旅団長の証言をここで初めて知ったが、そこまで情報をつかんでいたら、旅団長はなぜ日支両軍の衝突を未然に防ごうとしなかったのか、中国共産党の動きぐらい当然掴んでいたのではないか。それとも、河辺旅団長の言葉は、後日の考えなのか、でも両軍の状況を調査したと言っている。司令官に及ばなかったということか。では司令官はどうしていたのか。ウキペディアでは次のことが分かる。「事件当初の司令官田代 皖一郎は、第一次上海事変終結直前にテロに倒れた派遣軍司令官白川義則大将の参謀長として事件を早期に収拾し、その手腕は高く評価された。その後、支那駐屯軍司令官となるが病を得て、司令官の職を香月清司中将に譲り、1937年(昭和12年)7月16日に亡くなった。盧溝橋事件が起ったとき、北京武官だった今井武夫陸軍少将は戦後、当時を回想して、「穏健で部下から信望を集めていた田代軍司令官が、危篤状態でなく、健在だったならば、日中戦争にいたらなかったかもしれない。これも天の配剤か」と嘆いている。宋哲元は田代の死に「自分の留守中に死んだ」と嘆いた」と。司令官がこんな状態で、駐屯軍が積極的にことを仕掛けることは考えられない。では後任の香月清司司令官はどうだったか。これもウキペディアで。「第12師団長、近衛師団長を歴任、1937年(昭和12年)7月11日には重篤となった田代皖一郎中将に代わって、盧溝橋事件渦中の支那駐屯軍司令官に、同年8月の北支那方面軍創設で第一軍司令官となり、河北省での作戦を指揮した。盧溝橋事件の停戦協定を結ぶ際に宋哲元と和平しようとしたものの、蒋介石が宋に妥協を禁じたために失敗した。田代前支那駐屯軍司令官の方針を踏襲し、参謀本部に従って不拡大方針を採ったものの、方面軍幹部の積極策と対立、結果的に河北全体に戦線を拡大した。第1軍司令官解任後は参謀本部付を経て、1938年(昭和13年)7月29日には予備役に編入された」と。以上を見てくると、支那駐屯軍河辺旅団長は当時ナンバー2の立場であった。証言と当時の結果から、河辺は大局より、ことの真相を探って、積極的に動くべきではなかったか、ことの次第によっては、蒋介石をも動かすことが出来たのではないか。河辺の証言は、残念な証言である。
 7月7日、支那駐屯歩兵(旅団長河辺正三少将:当日演習出張不在)第一連隊(連隊長牟田口廉也大佐:当夜天津より帰陣)第三大隊(大隊長一木清直中佐)配下の第八中隊(中隊長清水節郎大尉)は、二日後の迫った定期検閲の為、竜王廟東方の荒蕪地で夜間演習を行った。竜王廟付近の永定河堤防から東方に向けて実施する計画で、駐屯軍の規定に沿って演習用の空包のほか、実包を小銃30発、軽機関銃120発ずつ携行していた。前週同じ場所で演習した時何もなかった堤防上で、200人以上の中国兵が工事を行っており、さらに一連の散兵壕が完成しつつあり、銃眼が東方に向けて開いたトーチカが出現していた。清水中隊長は嫌な予感を感じながらも、堤防を背にして演習を開始、10時30分ごろ前段の演習は終わった。清水は各小隊長と仮設敵司令に伝令を走らせ、演習中止・集合命令を伝達させた。ところが仮設敵の軽機関銃が空包射撃を始めた。中隊長との打ち合わせに反した誤射だった。その直後、第八中隊が堤防陣地の方向から実弾射撃を受けた。最初は数発、中隊長は直ちに集合ラッパを吹かせると、竜王廟と盧溝橋とに近いトーチカ付近の間に懐中電灯で合図があったかと思うと、今度は十数発の銃声がして弾丸の空中を飛行していく音が聞こえた。中隊長は伏せを命じ、人員異状の有無点検を命じた(野地伊七手記)。伝令を受けた一木大隊長は直ちに連隊長に電話で事件の概要を報告し、併せ豊台駐屯隊を直ちに出勤するよう意見具申、牟田口連隊長は直ちに同意し、現地に急行、戦闘準備を整えた後、盧溝橋城内にいる営長を呼出して交渉すべきを命じた、と秦郁彦著「盧溝橋事件の研究」は記述する。人員点検で伝令に出した二等兵の行方不明が判明したが、しばらくして帰隊。その後の第八中隊は、一木大隊長と8日、午前二時出会う。一木は清水から行方不明の二等兵が帰隊したことを聞いたが、一木は連隊長の意向に沿い、宛平県城から至近距離に位置する一文字山を占拠、次いで堤防陣地にいると思われる中国兵の動静を探り不法射撃の確証をつかもうと、清水中隊長を含む斥候を出した。しかし堤防壕の中国兵に発見されその場を切り抜けて斥候は帰隊。これらの動きに対する現場中国軍の動静はあまり明確になっていない。事件直後に冀察政権や第二十九軍は、日本軍が発砲や兵士の行方不明を口実に攻撃を仕掛けてきたという構図で意思統一したようなので、十分な調査をしなかったのかもしれない。また8日朝の戦闘で堤防陣地の中国兵は全滅に近い損害を出しているので、詳細が掴みにくかった事もあると、著者秦郁彦は推察する。以上の記述からは、旅団長河辺少将の証言を深く検討した経緯は見られない。日本の敗戦を身をもって経験し、そのキッカケが支那事変、盧溝橋事件だったことは、河辺は百も承知だ。その時の旅団長である。深く考察するところがあっただろう。単なる裁判戦術ではなかった、と思う。
 ただ、秦氏は1970年以降に盛んになった中共説を紹介している。出所は葛西純一編訳『新資料・盧溝橋事件』に発している。葛西は関東軍の兵士として終戦を迎え、八路軍に身を投じ、1953年帰国するまで下級将校として大陸各地を転戦、49年末、洛陽勤務時代に中共軍兵士へ無料で配布された「戦士政治課本ー救国英雄・劉少奇同士」なるポケット版の教本に『七・七事件は、劉少奇同士の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動をもって党中央の指令を実行したものである。暗闇の盧溝橋で日中両軍に発砲し、宋哲元の第二十九軍と日本駐屯軍を相戦わせる歴史的大作戦を導いた』と。しかし、秦郁彦氏は冷静である。葛西は各方面からの要請にも拘らず、本人は政治課本の現物を公開しなかった。洛陽時代に読んだ資料のうろ覚えではないかと秦氏。葛西が従軍した時期は、劉少奇が毛沢東に次ぐ英雄と遇され、党内でも高く評価された。学生運動も第二十九軍への浸透を図った、という刊行物も多かった、読み方によっては盧溝橋事件を中共党の計画的行動と短絡的に読み取る背景はあった、と批判的だ。その根拠は、事件当時劉少奇は北平にはいなかった、という。ただ発砲事件だけだったら劉少奇がいなくても出来る。兵士の行方不明が偶発的に起こって、ことが輻輳化したのが事件の拡大化につながった、と見える。1937年段階の中国共産党は前々年の大西遷で壊滅的打撃を受け、ようやく陝西省北部の険阻な山中に新たな根拠地を設け、紅軍の兵力は3~4万人程度で、国民党軍のわずか百分の一に過ぎない。ゲリラ集団と呼ぶのがふさわしい。盧溝橋事件とその拡大は、中共党にとってこうした窮地から離脱する起死回生のチャンスであった。中共中央の事件に対する反応は、異常と思えるほど敏速・大胆だった。7月8日付けで延安が打電したアピールは、4本判明している。①中共中央委員会の日本軍の盧溝橋侵攻に際しての通電、②盧溝橋事件後の華北工作方針問題について北方局に与える指示(党中央書記局→党北方局)、③紅軍指導者の日本侵略者の華北侵攻に際して蒋委員長に宛てた電報(毛・朱・周ら九人→蒋委員長)、④紅軍指導者の日本侵略者の華北進攻に際して宋哲元らに宛てた電報(毛・朱ら七人→宋哲元・張自忠・劉汝明・憑治安)。①の電文、『七月七日夜10時、日本は盧溝橋に於いて中国の駐屯軍憑治安部隊に対し攻撃を開始し、憑部隊に長辛店への撤退を要求した……目下双方はまだにらみ合い交戦を続けている……日本帝国主義の北平・天津と華北に対する武力による占領の危険は、すでに一人ひとりの中国人の目前にまで迫っている。(中略)全国の同胞諸君! われわれは、憑治安部隊の英雄的抗戦を称賛し支持しなければならず、われわれは、宋哲元将軍が直ちに二十九軍全軍を動員して前線に赴き応戦することを要求する。われわれは、南京中央政府が直ちに二十九軍に適切な援助を与えると共に、直ちに全国民衆の愛国運動を解放し民衆の抗戦士気を発揚させるよう……神聖な抗日自衛戦争を支持するよう要求する……国共両党は親密に合作し、日本侵略者の新たな攻撃に抵抗し、日本侵略者を中国から追い出そう!』。 文案は確かに手回しがよい、それとばかり。
 「蒋介石秘録」で、蒋介石はかく語っている。「七・七事変の発生を、延安の共産主義者たちはむしろ喜びをもって迎えた。彼らは、対日抗戦が衰弱しきった中国共産党をよみがえらせ、共産党の勢力を拡大できるチャンスになると見た。事変の翌日、共産党中央は、早くも通電を発表、全国の同胞、政府、軍隊は団結して民族統一戦線の堅固な長城を築き上げよう、日本侵略者に抵抗しよう。国共両党は親密に合作し、日本侵略者の新たな攻撃に抵抗しよう」と呼び掛けてきた。九日には、彭徳懐、賀龍、劉伯将、林彪ら人民抗日紅軍を率いる全指揮官が一致して、紅軍を国民革命軍と改名することを願うと共に、抗日先鋒部隊として、日本侵略軍と決戦を交えることを、命令されるよう希望すると電報してきた。蒋介石は心を許してはいなかった、8月13日の日記に「共産党は実は戦争の機会に乗じて、その陰謀を発動しようと狙っている。その防止策を忘れてはならない」と。後で判明したことであるが、共産党中央は早くも8月12日、「抗戦中における地方工作の原則と指示」という秘密指令を流し、国の統一と団結の破壊を企てていた、と事例をもって語っている。

 盧溝橋事件に対する河辺正三証人の弁護士との一問一答形式でつくられた口述書の一部より始まって、その問答からその後の判明した歴史的事実を取り上げた。 裁判に戻ると、満州事変の端緒について検察側が弁護側証人に執拗に反対尋問を行ったのに比べ、事件発生の直接原因である最初の発砲の事及びその後の状況について、検察側の反対尋問がほとんど行われなかったことが印象に残ったと冨士信夫氏は記述する。この点をしつこく反対尋問をするとかえって藪蛇になり、事件発生の責任が中国側にあった事が明らかになってしまうのを避けようとする、検察側の配慮によるものだったかもしれない、と。
 1937年7月29日、北平南方の通州に於いて在留邦人350人が中国保安隊に虐殺された、いわゆる通州事件が起こった。通州事件発生後河辺旅団長の命によって通州に急行し、現地到着直後目撃した状況について当時の陸軍中将以下を証人として宣誓口述書で証言させた。ただ三証人の間に日時や行動の部分に食い違いがあり、折角の口述書の証拠価値がすっかり減殺された。
 盧溝橋事件に関連する弁護側の書証提出は、惨憺たる結果に終わった。弁護側は、明治33年発生の義和団事件後天津を清国に返還した際北支駐屯の日本軍が駐屯地で演習する権利を取得した覚書をはじめ、盧溝橋事件発生後の日本政府声明、外務省スポークスマン談、北支駐屯軍の現地声明、事件後の議会での近衛首相及び広田外相の新聞記者に対する声明、クレーギー駐日英大使やグルー駐日米大使の著書抜粋等合計37通の文書を提出したが、検察側の異議申し立てにより、証拠として受理されたのはこのうちわずか10通に過ぎなかった。

 中国共産党の活動と排日運動:弁護側は①中国の日貨排斥、②中国の排日運動と日本に及ぼした影響、③中国共産党の活動と日支関係に及ぼした影響、の三点に分けて具体的立証に入ったが、盧溝橋事件に関する立証以上に文書提出は難航した。中国の日貨排斥の事実を示す証拠として、リットン報告書から該当部分を朗読しようとすると、検察側は不戦条約・九カ国条約に違反したのだから、日貨排斥が行われ在留日本人に脅威を与えても、日本の中国侵略を正当化するものではなく、日貨排斥問題は本件の審理に関係ない、と異議申し立て。しかし裁判長は、本裁判所は国際連盟の決議に拘束されるものではなく、日本の行動が侵略であったか否かは本裁判所が判定を下す、と異議を却下した。第二の排日運動と日本に及ぼした影響に関しては、大連会議に関する証言後、外務大臣演説、在外公館と外務省との往復電報、外務省情報部長談、新聞記事抜粋等合計37通の文書を提出したが、検察側の異議が次々認められ、証拠として受理されたのは7通に過ぎなかった。最も惨憺たる結果に終わったのは、中国共産党の活動とその日支関係に及ぼした影響に関する立証だった。カニンガム弁護人は米新聞記者ジョン・パウエル著「在支25年」からの抜粋、外務省欧亜局作成の中国共産党に関する報告書抜粋、各種外交文書抜粋等合計36通の文書を提出したが、そのうち書証として受理された文書は、上海河相総領事から有田外務大臣宛ての「西安事件に対する救国団体の態度に関する件」と題する事件後の中共の政策や国共合作の状況を報告した外交文書ただ一通だけで、その他の35通は検察側の異議申し立てでことごとく却下された。検察・弁護側の主張は次の通り。中国共産党が日本の武力侵略に対抗するため準備したという事は日本の侵略行為を正当付けるものではない。また、中国が日本に戦争を仕掛けようとした事を示す証拠を提出しても、それは日本の中国に対する侵略を正当付けるものではない、と検察側。日本が中国に既得権を持っていたのに対して中国共産党はこれらを中国から追い払うとしたものであり、これは中国の日本に対する事実上の宣戦布告である、中国共産党の勃興と蔓延はアジア及び日本にとって大きな脅威となった。日独防共協定の締結も、ここに正当な理由がある、と弁護側。双方の主張を聞いた裁判所は協議の為休憩。裁判長は次の通り裁定。「一般立証段階で中国その他における共産党その他思想の蔓延に関する証拠を提出する事は、本審理に関連性がない。ただし、日本の国民、権益に対する中国人及び中国共産党による実際の侵害に関する証拠は、日本の行為を正当付けるものとして、提出して差し支えない」と。

第二次上海事変:証人として出廷した上海総領事岡本季正と上海特別陸戦隊首席参謀武田勇海軍少将の口述書では、「中国側は、1932年5月5日第一次上海事件当時締結された停戦協定に違反して非武装地帯に兵力を集結し、要塞を構築したため、日本人居留民の生命財産に危険が生ずるようになった。そこで岡本総領事の提唱で、6月23日に上海共同委員会を開催して中国側の協定違反を詰問しようとしたが要領を得ず、その内、8月9日大山大尉殺害事件が起こり、事態は急速に悪化した。日本側はなおも事態の平和的解決を図ろうとして、8月13日再度共同委員会の開催を求めて危機回避策を講じようとしたが中国側にはその誠意はなく、遂に13日午前商務印書館から中国便衣隊の発砲、午後八字橋方面から中国軍の砲撃開始により、全面戦争に入ってしまった」と、広田外相からの不拡大方針の訓令を合わせて説明。また、大山大尉と運転手の射殺は、中国衛兵殺害に対する中国側の報復と検察側の主張に対し、「8月9日夕刻大山中尉(死後大尉に進級)が殺害されたことが判明したので、日支両軍の責任者が現場に行った所、虹橋飛行場から百メートル地点の、道路曲がり角右側の溝の中に自動車は破壊されて落ちており、大山大尉は自動車の傍らに多数の機銃弾を浴びて倒れ、更に頭部に青龍刀で割られていた。また運転手は運転台で同じく機銃弾を浴びて倒れていた。次に日支両国責任者と第三国新聞記者とで第二次調査隊を整えて実地調査に行った所、今度は自動車の傍らに一中国衛兵が倒れており、運転手は五百メートル離れた部落の中に持ちさられていた。一回目の調査の時なかった中国衛兵の死体が二回目にはあったので、現地中国軍将校に質問したところ、大山中尉が拳銃で衛兵を撃ったので中国側が反撃したのだと答えた。当時大山大尉は拳銃を持っておらず、運転手は拳銃を持っていたが袋に入れ肩に掛けたまま倒れていた。翌日日支両軍医官立ち合いの上検査したところ、中国衛兵の傷は拳銃弾ではなく小銃弾によるものだった事が明らかになり、ここに、中国側のこの事件に関するトリックが暴露された」と。

南京虐殺事件 当時松井軍司令官の下で中支那方面軍参謀・中山寧人陸軍少将、南京大使館参事官・日高信六郎、中支那方面軍法務部長・塚本浩治の三人が出廷、南京占領当時松井軍司令官のが執った慎重な行動、松井軍司令官の対中国人観、南京攻撃前中国側に降伏を勧告した事実、南京陥落後市内が無秩序になったのは中国側は外交官も官憲もことごとく市内から立ち去った事も大きな原因であった事、当時南京に設けられていた安全地帯には多くの中国正規軍が混入していた為、同所を正当は安全地帯として認める訳にはいかなかった事等、占領直後の南京市内の混乱状態を述べると共に、検察側立証のいわゆる南京大虐殺事件については、真っ向からこれを否定した。このうち、中山証人は検察側の反対尋問に答えて 、一般市民の虐殺事件 これは絶対にない。 俘虜の虐殺事件 これは安全地帯に武器を携行して侵入した中国兵を捜査し、逮捕し、軍法会議にかけて処罰したのが、誇大に報道されたものである。 外国権益に対する侵害 これは一部あった事は事実であるが、日支いずれの兵隊が行ったのかは、現在でも不明である。 婦女子に対する暴行 これは小規模な範囲で行われたのは事実であり遺憾であるが、世に喧伝されたような大事件は絶対にない、と。
 検察側は証人には反対尋問は行わず、検察側提出証拠に依拠するとして、提出証拠の幾つかに裁判所の注意を喚起した。

漢口攻撃とその後 訴因に取り上げられている漢口、長沙、衡陽、桂林及び柳州での中国民衆及び中国兵の殺害を全面的に否定する陸軍軍人及び新聞記者合計17人の証人の証言と、当時参謀本部作戦課長の要職にあった河辺虎四郎陸軍中将の、支那事変前後の陸軍中央統帥部の判断・処置に関する証言が行われた。

中国新政権 中国段階の最後は、汪精衛政権に関する立証であった。昭和14年6月汪精衛が来日し平沼、板垣、米内、石渡、有田及び近衛の各大臣と会談した時その通訳を務めた南京大使館一等書記官清水蕫三が出廷し、汪精衛が一連の会談で、日支和平に努めることを強調した旨証言した。また書証としては、汪精衛をはじめ王政権要人たちの演説や王政権公式声明等を収録した出版物も提出された。  

以上、冨士信夫氏の著書「私の見た東京裁判」に沿って「中華民国に関する立証」を見てきたが、もう一つ全貌が見えないので、清瀬一郎の冒頭陳述で日本は何を主張したかったのか、整理しておきたい。
 「第三部は中華民国との関係である。これは訴因第三、第六、第十九、第二十七、第二十八、第三十六、第四十五、第五十、第五十三、第五十五に関係する。1937年7月7日の盧溝橋における事件発生の責任はわが方にはない。日本は他の列国と1901年の団匪議定書によって兵を駐屯せしめ、また演習を実行する権利をもっていた。またこの地方には日本は重要なる正常権益を有し、相当多数の在留者がいた。 もしこの事件が当時日本側の希望のように局地的に解決されたら、事態はかくも拡大せず、従って侵略戦争がありや否やの問題には進まなかった。それゆえに本件は中国はこの突発事件拡大について責任を有する事、また日本は終始不拡大方針を守持し、問題を局地的に解決することに努力したことを証明する。近衛内閣は7月13日『陸軍は今後とも局面不拡大現地解決の方針を堅持し、全面的戦争に陥る如き行動は極力これを回避する。これがため第二十九軍代表の提示した11日午後8時調印の解決条件を是認してこれが実行を監視す』と発表している。しかるにその後中国側の挑戦は止まなかった。郎防における襲撃、広安門事件の発生、通州の惨劇等が引き続き発生、中国側は組織的な戦争態勢を具えて、7月12日には蒋介石氏は広範なる動員を下命したことが分かった。一方中国軍の北支集中はいよいよ強化された。豊台にあるわが軍は中国軍の重囲に陥り、非常なる攻撃を受けた。そこで支那駐屯軍は7月27日、やむを得ず自衛上武力を行使することに決した。書証及び人証によってこの間の消息を証明する。
 それでも日本はやはり不拡大方針を取ったが、蒋介石氏は逐次に戦備を具え、8月13日には全国的総動員を下命した。同時に大本営を設定して自ら陸、海、空軍総司令という職についた。全国を第一戦区(冀察方面)、第二戦区、(察晋方面)、第三戦区(上海方面)、第四戦区(南方方面)に分けて各集団軍を配置して日本全面戦争の態勢を完備した。
 外交関係は依然継続していたが、この時期には大規模な戦闘状態が発生した。以上の急迫状態に応じて、わが方では北支における合法的権益を擁護するため、遅れて8月31日に内地より北支に三個師団の兵力を派遣すると共に、また駐屯軍を北支方面軍と改称した。その司令官に対して平津地方の安定を確保する相手方の戦闘意思を挫折せしめる、戦局の終局を速やかにすべきことを命じた。この時に至ってもわが方に於いては北支の明朗化と抗日政策の放棄を要求しただけだった。日本政府はこの事件を、初め北支事変と称して事態を北支に局限し得るものと考えていたが、これが8月中には中支に飛び火した。  
 中国側は、1932年、英米その他の代表の斡旋によって成立した上海停戦協定を無視して、非武装地帯に陣地を構築し、五万余の軍隊を上海に集中した。この地にあって日本の海軍陸戦隊はわずかに四千人にも足りぬ。日本の在留者の命と財産は危険に陥った。この時海軍特別陸戦隊の中隊長大山中尉が無残にも射殺された。日本は8月13日に在留民の生命財産を保護するために上海に派兵することに決定した。中支における闘争が開始したのはこのような事情の下だった。換言すれば事件を拡大してその範囲及び限度を大きくしたのは中国側だった。以上の事実に関し証人を申し出て、戦闘開始の責任のご判定に資するとするものです。」
「中国との闘争は支那事変と称して支那戦争とは称しない。戦争状態の宣言または承認は何れの当事者よりも、他の国よりもなされない。蒋介石大元帥も1941年太平洋戦争の発生するまで、わが国に向かって宣戦を布告していない。これは欧米の人々には奇異に感ぜられると思う。しかしわが方の考えは、この闘争の目的は中国の当時の支配者の反省を求め、日本と中国の関係を本然の姿に立ち戻そうとすることだった。中華民国の一部分に実際に排日運動を巻き起こしたのは、中国共産党の態度に依るものだった。 蒋介石氏は世間を従動したかの西安事件以来、共産党を容認するに至っているが、日本政府は、この蔣大元帥の行動は遺憾なる一時的の脱線であると見ていた。
 当初は日中の間には外交関係は断絶してなかった。両国の条約関係は依然効力を保持していた。降伏してきた中国兵はこれを釈放した。日本在住の中国人は敵人として扱わず、安心して生業を営んでいた。また中国に対し宣戦を布告しなかった目的の一つは、戦争法規の適用によって、第三国人の権益を制限しないようにすることだった。併しながらわが国の希望に反して、戦闘はだんだん拡大していく。その結果占領地における第三国人は自らある程度の影響を受けることは免れない。それが日本とイギリスとの間に1939年7月、いわゆる有田・クルーギー協定が出来た所以だった。」
 「日本の一部の軍隊によって中国に於いて行われたという残虐事件は遺憾なことであった。これらはしかしながら不当に誇張され、ある程度捏造までもされている。その実情につき、できる限り真相を証明する。日本政府並びに統帥責任者はその発生を防止することを政策とし、発生を知りたる場合には、行為者にこれに相当する処罰を加えることに努めている。元来、中国の国民との間には、親善関係が進むことが日本の顕著なる国策の一つであり、現在もそうである。それゆえ中央政府にありまた派遣軍を嘱託されていたような軍の幹部が、このようなことを軽々に行ったり、これを黙過するという事のあるべき道理がない。われわれは被告の誰もがこのような行為を命じたり、授権したり、許可したり、並びにそういう事のないこと、法律上の義務を故意に無視したことのないことを証するため、あらゆる手段を尽く。」

 清瀬は大局的観点から日本の中華民国に対して執った行動を素直に説明し、事変の拡大がどこにあったかを主張している。極端に言えば自衛措置がだんだん拡大して大規模な戦闘につながったと言っている。
 一方後日、蒋介石秘録で蒋介石はかく語っている。 7月8日、盧溝橋事件の発生・経過を廬山で秦徳純(冀察政務委員会が成立すると、宋哲元が委員長に、秦徳純が常務委員兼北平(北京)市長にそれぞれ就任)らから報告を受け、『倭寇(日本軍)は盧溝橋で挑発に出た。日本はわれわれの準備が未完成の時に乗じて、われわれを屈服させようというのか。それとも宋哲元に難題を吹っ掛けて、華北を独立させようというのか。日本が挑戦してきた以上、いまや応戦を決意すべき時だろう(当日の日記)』 宋哲元に電報で指示した。『宛平県城を固守せよ。退いてはならない。全員を動員して事態拡大に備えよ』 7月9日、四川にいる何応欽に対して、直ちに南京に行き、全面抗戦に備えて、軍の再編に着手するよう命令、更に廬山に来ていた第二十六路軍総指揮・孫連仲に対しては、中央軍二個師を率い、保定あるいは石家荘まで北上するよう指示した。また山西省の太原、運城方面の軍を河北省石家荘に集結させるよう指示した。同時に、軍事関係の各機関には、総動員の準備、各地の警戒体制の強化を命じ、河北の治安を預かる宋哲元には、決意と警戒を促した。『国土防衛には、死をかけた決戦の決意と、積極的に準備する精神をもって臨むべきである。談判については、日本がしばしば用いる奸計を防ぎ、わずかでも主権を喪失することのないのを原則とされたい』 10日、国民政府は日本大使館に対し『日本軍の行為は計画された挑発であり、不法の極みである』と文書で抗議した。同時に全軍事機関の活動を「戦時体制」に切り替えるため、緊急措置が取られた、と。そのあと、18には有名な『最後の関頭演説』につながる。
 当時両国の事情を分かる事が出来たら、お互い何という馬鹿なことをしているのか、と笑われそうである。お互いに自衛措置を講じながら、戦闘が拡大していく。外務省も折角パイプがあるのに事態を収める折衝が出来ない。現代はこんな行き違いによる戦争が起こらないよう、首脳間、軍当局間のパイプラインが出来ているが、当時の日本にはこんなことを考えている人はいなかったのかな。あと、現在でも解明できてない中国共産党の謀略はどれほどだったのか、それでも両国のパイプラインが出来ていたら、その謀略も発見できたのに。清瀬は言っている、この時は外交関係が維持されていた、と。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            


東京裁判 弁護側立証 第二部 満州及び満州国に関する立証

2022年07月20日 | 歴史を尋ねる

 この部門の冒頭陳述は、検察側証人若槻禮次郎の反対尋問の際にその尋問の見事さを裁判長から称賛された、南被告担当の岡本敏夫弁護士が担当した。岡本弁護士は本部門の立証を、①奉天事件前の諸問題、②奉天事件及びこれに付随した諸問題、③満州の特殊性及び満州国の誕生、④満州国の国際的諸問題、⑤満州国の国内的諸問題、の五項目に分けて行う旨述べたあと、各項目毎に提出すべき証拠の内容と、証拠に基づく弁護側の主張を述べて、冒頭陳述を終わった。弁護側は具体的に裏付ける証拠として100通を超える文書を提出し、25人の証人を喚問した。
 本部門全体を通じて、検察側立証の反駁に最も効果があったと思えたのは、元関東軍参謀片倉衷陸軍少将の証言だった、と冨士信夫氏。片倉証人は満州事変勃発当時関東軍参謀として勤務し、その後陸軍省、再度関東軍参謀として勤務して満州問題に知識の深い人物であり、その証言は満州事変勃発直前に起こった中村震太郎大尉殺害事件、満州事変勃発直後の関東軍の行動、陸軍中央部と関東軍との関係、事変勃発後満州各地に起こった独立運動、満州国誕生と関東軍との関係及び関東軍の行動、満州国独立後の満州国と関東軍との関係等極めて多岐に亙り、詳細に及んだ。英米法に通じ、直接尋問のツボをよく心得ている岡本敏男弁護人の尋問と片倉証人の証言について、裁判長は「日本側のあらゆる公文書によって、本証人の証言は相当確実な根拠を持っている様である」と発言している。冨士氏に言わせると、裁判長のこのような発言は、片倉証人意外ななかった、と。片倉証言は、田中隆吉・溥儀両証人を始め、検察側書証を真っ向から反撃したものだった。①満州事変勃発当時の関東軍の行動は、全く自衛の行動だった。②満州国の独立は関東軍の策謀ではなく、満州事変を契機として満州各地に台頭した独立の気運が次第に清朝の復帰に発展し、満州の三千万民衆の希望によって誕生したものである。③満州国成立後、関東軍はその発展育成に協力しこれを援助したが、同国を支配するような事はなかった、等を要点。とするものだった。

 片倉証人の重要と思われる点を冨士氏は要約している。「奉天事件の発生は、1931年9月18日午後十一時半頃、奉天から旅順への第一電で知った。本庄軍司令官は遼陽方面の検閲を終えて同夜遅く旅順に帰り、三宅参謀長が奉天から届いた電報を報告した時、軍司令官は入浴中であった。電報接受後の会議で軍司令官は、平素の作戦計画に従って奉天付近に兵力を終結し、爾後敵の出方に応じて行動するよう指示したが、この討議中に日支両軍交戦中との第二電が到着したので、軍司令官は逐次兵力を戦線に注ぎ込む事に決心を変更した。19日午前三時半頃旅順から奉天に司令部が移動したが、同日午後6時頃、南陸軍大臣から『閣議において事変不拡大の方針に決定した故善処せよ』との訓電が到着した。当時金谷参謀総長からも、事変一段落の状況下、今後関東軍は中央と連絡の上行動するようにと訓電を受けていた。9月20日頃にはハルピン方面の情勢が不穏となったため、関東軍特務機関及び総領事から派兵の要請があり、関東軍は中央に意見具申した。これに対して杉山陸軍次官から現地居留民保護は行わない旨の返事があった。9月22日頃陸軍省から現地調査で安藤兵務課長が来満。18日支那軍が無抵抗を表明したにもかかわらず、関東軍がなぜ攻撃したのか:戦闘は開始されており、これは支那側の緩兵手段であって、今さら仕方ないとその申し出を拒絶したとの経緯を聞き、課長は前線の隊長に事情を聴くこととした。 関東軍の行動が迅速であったところから、事前に予測して準備していたか:事変前の関東軍兵力は僅少で平素から訓練の徹底により、万一の場合の作戦徹底に努めていた
 この後片倉証人は、満州各地に独立運動や清朝復帰運動が起きた状況を各要人の名前と行動、特に溥儀擁立に関する要人達の言葉を引用しながら証言すると共に、土肥原大佐の天津での溥儀との会見模様や溥儀の天津脱出の様子、溥儀の身の安全を図るため旅順に隔離したことを証言した後、中央と関東軍の関係、満州国誕生に関連する中央及び関東軍の考え方について証言した。「1932年1月頃、参謀本部の要求により軍司令官は板垣参謀を上京させ、関東軍の状況、満州国に関する情勢を報告させると共に、軍司令官の決意を中央に伝達させた。その決意とは、当時の満州の独立運動の成熟した情勢から見て、満州を独立国として発展させる以外に解決の途はないという客観的情勢に対する軍司令官の意思の表明であって、この決心の基礎は、各種要人との会見の際彼らの意向を聴取した外に、板垣参謀が各地の要人の意向を聴いた結果、彼等が満州に何ら領土的野心のない事を了解すると共に、南京政府、張学良政権の満州復帰に異口同音に反対を唱えた事によるものだった。帰満後の板垣参謀の報告によれば、独立国を建設するという考えは荒木陸相以下にはなかったが、満州に張学良政権や南京政府が復帰できないことは了解し、関東軍は各地の独立政権と連絡を保ちながら全満州の秩序維持と平和回復に努めること、というのが中央の意向であることが判明した」
 検察側立証に真正面からぶっつかり、その一つ一つを覆していった片倉証人に対し、検察側からリットン報告書以下の検察側提出の証拠を基に、証人の信憑性を覆そうと質問が行われたが、検察側の誤解、曲解による質問を証人に指摘され、真相を何れが語っているかは別として、検察側の反対尋問は実効を挙げないで終わった。

 事変勃発の端緒になった南満州鉄道爆破がどのように行われたかについて、弁護側は当時陸軍法務官であり、関東軍法務部長を務めていた大山文雄陸軍法務中将が証人として出廷、事変勃発直後関東軍から現地調査に派遣された調査団作成の調査書が朗読された。この調査書は、1931年9月23日(事件発生後五日後)午後5時14分から6時10分までの間調査が行われ、枕木、軌道等が現場に晒されている状況から、何らかの爆発物によって破壊され、現場付近に残置されていた三人の中国兵の死体は他から運搬してきた形跡はなく、死後四、五日経過している点から見て、中国兵が鉄道を爆破して逃亡しようとした際、日本軍守備兵に射殺されたものと判断された。反対尋問に立ったコミンズカー検察官は、リットン調査団の質問に答えた現地指揮官川本中尉や中国兵を射殺したという守備兵を現場に連れて行かなかったのは不自然で、爆破直後に列車が無事に通過している事実を挙げ、中国兵の死体の位置、血痕の状況について詳細証言を求め、日本側が小細工して死体は後から現場に運んできたのではないか、と疑問視した。裁判長の尋問に対しても、大山証人はあくまで調査書の内容に終始する答弁を続け、何か歯切れの悪さを感じたと冨士氏は述べている。第二部の立証の最後に当る、国内的諸問題について、溥儀証言及び建国後の「神道」を満州国に強制して宗教支配を行おうとしたとする検察側の主張に反駁する証拠が提出された。出廷した証人の中には、溥儀皇帝の筆跡鑑定結果を証言した警視庁鑑識課高村巌、南陸相宛の親書は溥儀皇帝の真筆とした名波敏雄陸軍大佐、満州国の内政と関東軍の立場を証言した植田謙吉陸軍大将、満州国法制関係事項を証言した参事官松本俠など。また書証としてレジナルド・ジョンストン著「紫禁城の黄昏」からの抜粋は、単なる著者の意見に過ぎないとして却下された。

 以上が弁護側立証の概要であるが、どうも反証のパンチがない。検察側の争点と同じ土俵で反証をしている。もう少し歴史的背景から満州問題を捉えてもいいのではないか。そう考えているとき、黄文雄著「満州国は日本の植民地ではなかった」が手元に出てきた。これを読み進めるうちに、大きな観点を見開かせられた。そうか、現在のチベット、新疆ウイグル問題も、実は満州国が否定されたその延長上に起こった問題なのだ、という思いがふつふつと沸き起こった。本当のアジアの歴史を知らないアメリカが、極東アジアの采配を振るったところに、原因があったのではないか。こんな思いを懐きながら、黄文雄の主張に耳を傾けたい。
 「満州国といえば、大多数の日本人は、台湾、朝鮮と並び称せられる大日本帝国の三大植民地だと見なしている。中国人の物言いに倣って「偽満州国」と称したり、日本の「傀儡国家」といったりするような「満州国」のイメージは、戦後に形成されたもので、はっきり言って「自虐史観」の代表的なものである。それは決して正しい歴史認識ではない。このようなイメージは、満州史についての歴史を歪曲したものであり、近現代の国民国家形成に関する歴史認識の不足によって形成された」と。
 「中国では満州という地名は支那と同様に忌み嫌われ、タブーにもなっている。その代わり東北という呼称の使用を、日本人にまで強要している。満蒙の地は中国の神聖不可分の固有の領土と決めつけ、高句麗史まで中国の一地方史と主張してはばかることがない。満州事変は九・一八事変と称して反日抗日のシンボルとし、毎年9月18日は国辱記念日としている。それではなぜ中国人は、先秦時代から万里の長城を築かなければならなかったか。この問いだけで、中国の歴史捏造が明らかになる。中国人は古来、万里の長城以北にある満州は、中華世界とは別世界、異域、異文明圏とみなしてきた。満州が古来、中国の絶対不可分の固有領土だという主張は、中国政府が二十世紀に入って初めて主張したものである。天下王土に非ざるものなしという王土思想は古代からあった。しかし満州という土地まで中国の絶対不可分の領土だという主張は、歴史を捏造したものである」と。
 「史実を見れば、満州は中国と不可分だというより、むしろ有史以来満州と中国とは万里の長城を境に、相容れない二つの世界であった。植生圏を見ても環境がまったく異なっており、文化的・政治的に対立・対峙し続けてきた異なる文化圏であった。この二つの世界は抗争を続けながら、それぞれ国家の興亡盛衰を繰り返して来た。それは中国史とは別の北アジア史、東アジア史である。かって孫文は日本に対し、満州の売却を交渉したことがあった。しかし中華民国の支配権は、建国後一度も満州に及んでいないし、日露戦争後の満州は北はロシアの、南は日本の支配下にあった。山縣有朋はが孫文の売却話を断った事実は、当時の満州の実状をよく物語っている」
 「満州人が17世紀初頭、万里の長城を超え、中国を征服し清国を建てたのち、満州はずっと『封禁の地』として漢人の入植が禁止されてきた。中国人にとっても、古来から満州の地は『荒蕪』あるいは『夷狄』の地として恐れられ、あえて長城を超えて移住するような者はいなかった。そこにいたのはモンゴル系、ツングース系などの北方民族のほか、封禁を犯して、盗墾、盗掘、盗漁、盗採をはたらくような漢人か、鴨緑江以南の農地を得られなかった朝鮮人だけであった。漢人の入植が解禁されたのは、清末に発生した回教徒の反乱以後のことである。やがて北からロシア人、東から日本人がこの地に入ってきた。日露戦争後、満州は両国によって南北に分けられ、日露の勢力下に置かれた。ドイツとフランスを合わせた広さに相当するこの土地は、ちょうどその欧州の二つの国と同じ緯度にあった。そこに多民族共生の『合衆国』すなわち満州国が諸民族によってつくられた。それは満州事変以後のことである」
 「満州国を日本の植民地、傀儡国家だと見なすのは、明らかに建国の背景を無視した言説であり、歴史の歪曲である。日本人が満州国の建国、復国に最大の情熱を傾けたことは事実であり、ただ単に関東軍の陰謀という『陰謀史観』で語りつくせるものでもない。清王朝崩壊後の満州は匪賊が跋扈し、軍閥が民衆から厳しく税金を取り立てていた。満州の民衆にとって『保境安民』こそ心から望むものであり、満州合衆国の建国には民意と時代の潮流を見なければならない」
 「日露戦争後の満州史を、日本軍の『侵略、虐殺、略奪、搾取』の歴史と見なし、『反満抗日』のみで語るのは明らかに歴史の捏造である。関内の中国人にとって、関外の地は荒蕪の地であり、風土病の地でもあった。20世紀に入っても、新たに開拓した土地であり、日本の租借地であった関東州(遼東半島)と満鉄所属地以外、近代産業らしいものもなかった。しかし、満州国建国後13年半にして、そこは北東アジアの重工業の中心地となり、自動車や飛行機まで作られる一大近代産業国家にまで成長した。日本人の開国維新以来のすべての情熱と技術の粋を注ぎ込んだ結晶といってよいし、日本人は誇りに思わなければならない。満州合衆国は、わずか13年半で大日本帝国の崩壊とともに夭折した。建国の理想であった『王道楽土』を実現することは出来なかったとしても、中国人にとっては十分『桃源郷』であった。戦乱と飢餓の拡大、繰り返しによって絶望の淵に追いやられていた中国の流民にとって、満州国こそ最後の駆け込み寺であった。年間百万余りの流民が長城を乗り越え、満州に流入したことこそが何よりの証拠である」
 「満州国の夭折は、アジアの人々にとって悲劇であった。そればかりでなく、中国人にとっても悲劇であった。多民族共生を目指した合衆国の喪失は、戦後アジアの新興多民族国家のモデルの喪失であるばかりでなく、中国人にとっては、近代国家とは何かという問いすら失わせてしまった。今日に至ってなお前近代的な『中華帝国の亡霊』が東アジアの大地に徘徊しているのは、そのためである」と。

 では、どのようにして満州国は誕生したのか。中華帝国は易姓革命によって興亡を繰り返したが、同じように北アジアの遊牧帝国も国家の興亡を繰り返した。満州地域では、前1~後7世紀が高句麗、前2~後5世紀は扶余、6~7世紀は靺鞨、7~10世紀は渤海、10~13世紀は純ツングース系の女真であった。女真族は金帝国を作ったが、その後、モンゴル族の元、その後継の北元の支配下にあった。彼らは松花江流域の海西女真、黒竜江下流の野人女真、牡丹江流域の建州女真の三大集団に分けられる。このうち、後金国を建て、清王朝を作ったヌルハチが出たには建州女真であった。清の太祖ヌルハチが建国して二百年かかって、清は空前の大帝国に成長した。多民族が統合されている清の国家は、それぞれの民族が独自の歴史と文化を持っている。そこで確立された統治システムは、天朝朝貢冊封秩序の体制であった。この秩序は、中央の緩やかな統治に対して周辺国が朝貢し、中央は彼らを統治者として認証(冊封)して応じた。中央集権ではなく、間接統治と直接統治の折衷型であった。清帝国の天下を支えるのは、精強な八旗軍だった。清王朝がもっとも恐れたのは、満州人が絶対多数の漢民族に同化してしまうことだった。そのため旗人の尚武の気風を保つために世襲制で保護し、商売を禁止した。
 しかし清王朝は乾隆帝の時代が過ぎると、自然環境も社会環境も少しづつ崩壊し始めた。それに戦乱と飢餓が重なり、悪循環に陥った。19世紀の中国大陸をみると、白蓮教徒の乱から太平天国の乱、さらにイスラム教徒の乱に至るまで、民衆反乱のなかった年はほとんどなかった。飢餓のない年もなかった。1810年~11年、1849年、1876~78年の大飢饉は、餓死者が一千万を超えていた。数十万人や数百万人の餓死者だ出る年など珍しくもなかった。飢餓があるたびに大量の流民が発生する。1876年の干ばつでは、流民は一千万にも上った。中国大陸は飢餓と戦乱で荒廃し、餓死から逃れた流民が東南アジアに流出し、華僑となった。華北の流民はモンゴル草原へと流れ、河北省と山東省の流民は、主に満州へと流れ込んだ。流民が大量発生するのは、中華世界が人口過剰になった結果、生態系が全面崩壊した現象ともいえる。
 20世紀初めの満州の人口は推定一千万人、そのうち満州人など少数民族は百万人、残りが漢民族であった。だが、30年後の満州事変当時の人口は三千百万人と急増した。日清戦争当時の満州の推定人口はたった百万人だったという見方が多い。満州・モンゴルへの開拓移民の入植は、遊牧民族の牧地、狩猟場、植物採集地へ侵入し、土地を占有することが多かった。それによってツングース系とモンゴル系の先住民は、平野や牧地から辺境へと追われていった。特に悲惨だったのはモンゴル草原であった。清の盛期には、長城を超えて侵入してきた農耕民・流民はすべて万里の長城以南に送還されたが、清が衰退すると、満州・モンゴルの民は、牧草地も狩猟場も漢民族の流民の大洪水に襲われ、辺境地へと追われた。そして、獏北の草原や森林は漢民族の乱開発によって崩壊し、砂漠化が拡大し、自然林は喪失した。
 満州の地は朝鮮民族の故郷の一つという側面もある。高句麗、渤海の滅亡後、朝鮮民族の満州への進出は消極的だったが、清の時代になると立入禁止の満州に流入するようになる。19世紀中ごろになると豆満江を渡り、白頭山周辺に入植、密貿易や盗採、潜墾に従事していた。1869年の朝鮮半島大凶作をきっかけに大量に満州に流入し、やがて豆満江以北の間島一帯は、満州族、朝鮮族、漢民族の三族雑居の地となり紛争地帯となった。また、1636年、清が李朝朝鮮を屈服させた丙子胡乱のとき、おびただしい朝鮮族が満蒙人によって北方に強制連行された。売買された朝鮮族は60万人に上ったとも、史書には記録されている。李朝末期になると朝鮮半島は政情不安が続き、三政紊乱と酷税から逃れて、満州に入る朝鮮人は急増した。
 日本の場合、2・26事件後、広田弘毅内閣は七大国策の一つとして、二十年間に百万戸、五百万人の満州移住計画を立てた。しかしこれは成功しなかった。昭和二十年までに二十七万人のみにとどまった。満州移民に成功しなかった理由は、(1)土地の獲得が困難で、当時中国ナショナリズムの思想が横溢していた。(2)労働者の賃金問題で、熟練労働者は日本の二分の一から三分の一、非熟練労働者は比較にならないほど安かった。(3)中国本土での人口過剰の問題であった。イナゴの大群のように百万人前後が押し寄せる流民に負けてしまった。日本の満州居留民や移民は、日露戦争後、遼東半島の関東州をはじめ満鉄沿線と主要都市に急増し始めた。満州は匪賊と軍閥支配の社会であったから、日本人居留民は満鉄付属地以外にはわずか一万数千人しかいなかった。国策移民が本格的に推進されたのは満州国建国後のことで、1945年には百五十五万人に日本人がいた。
 満州人が中国を征服後、少数民族が広大な中国を統治していくためには、大多数の満州旗人が北京に移住した。民族が入れ替わるようにして漢民族が流民となり、匪賊(暴力的手段を用いて不法行為を繰り返す集団である。「匪」という漢字は「人でなし」や「悪党」といった意味を持つ。匪賊は公権力の及びにくい農村部、行政上の境界の周縁地域、辺境の山岳地域などで活動する集団であることが多い。匪賊には、経済的には破産した農民や没落した地主・知識人、戦時には敗残兵などが加わった)となって満州広野に入った。かくて、満州の地の満州人は少数民族へと転落した。こうして満州の地は馬賊・匪賊の梁山泊となり、満州国成立までの満州社会を支配したものは、官匪・兵匪・学匪といわれる軍閥や匪賊であった。満州社会は馬賊(満州特有の武装集団であり、その成員の大部分が騎乗することから日本ではそう呼ばれている)と、匪賊、警察、軍人が不即不離の関係にあった。そのため軍と匪賊との違いがはっきり分からない。満州軍閥の巨頭、張作霖のように政府側の呼びかけによって馬賊から軍人となった場合もある。中国近現代史が記述する「反日抗日の民族的英雄」とは匪賊を意味することが多い、と黄文雄氏は言う。
 1973年農家に生まれた張作霖は16歳で匪賊の首領の下に投じ、日露戦争の時ロシアに協力していたことで日本軍に逮捕され、やがて日本側についた。辛亥革命後、袁世凱の下に走り奉天将軍となった後、1917年王永江の『保境安民主義』を入れて、北京の中央政権から離脱して東三省の独立を宣言した。1916年の袁世凱の死後、中国は北の北京中央政府軍(軍閥軍)と南の反政府軍(国民党主体の革命軍)との南北対立の激化に伴って、北京政権も流動化し始めた。軍閥政治と軍閥戦争の始まりである。とくに安直戦争(段祺瑞の安徽派と曹昆・呉偑孚らの直隷派の軍閥戦争)の後、北京政権では張作霖の奉天派と呉偑孚らの直隷派が対立、張作霖は敗退して窮地に追い詰められた。北京政府は徐世昌総統と呉偑孚を中心とする直隷軍によって抑えられた。張作霖は政府の職を剝奪されたが、自ら奉天省議会の名で自治保衛団を作り、東三省の総司令官を名乗り、日本関東軍の支持の下で相変わらず満州の実験を握った。北京政府は張作霖討伐を断行し、第二次奉直戦争が起こった。一進一退が続く中で馮玉祥が奉天軍に寝返り、北京でクーデターを起こし、奉天軍の勝利となって戦いは決した。張作霖は北京政府を握り、その勢力は華中まで及んだ。戦いの最中、英米は呉偑孚を支援し、ソ連も北京政府や広東政府の双方を支援して中国の赤化を図っている、満蒙の地に特殊権益を有する日本は当然、奉天軍を援助すべきと張作霖は主張、当時の日本軍にとって、中国の混乱が満州へと波及することは絶対阻止しなければならない、馮玉祥の反乱は、日本の不干渉主義に不満を懐いた関東軍の土肥原賢二中佐が画策したものといわれている。
 他方、孫文の死後、1925年に広東で国民政府が成立した。新政府は蒋介石を革命軍総司令として北伐を開始する。北洋軍閥は各派各系に分かれていたが、大同団結して国民革命軍と対峙した。1928年5月、蒋介石の率いる国民革命軍は山東省済南を落とすと、北洋軍閥軍の敗北は決定的となり、張作霖は北京退去の声明を発して、奉天に帰る途中の6月4日、列車が爆破され、波乱の生涯を終えた。蒋介石が率いる国民革命軍の北伐中にも、国民党内で南京政府VS.武官政府、南京政府VS.北京政府の国民党内戦や政府乱立の抗争があった。国民党内戦の中で最大の内戦は、1930年の中原の戦争である。動員された兵力は百五十万人、犠牲者30万人とされ、この党内の内戦は蒋介石の勝利に終わった。張作霖の息子・張学良が率いる奉天軍が蒋介石軍を支持したからであった。この内戦後、張学良軍は黄河以北の土地を獲得し、蒋介石の信任を得て陸海軍三軍の副指令となった。新たな満州の実力者の誕生であった。張学良は既に1928年12月、関東州と満州鉄道付属地を除く東三省全域に国民党の青天白日旗を一斉に掲げさせた。東三省の易幟である。
 1931年9月、奉天近郊の満鉄線爆破事件(柳条湖事件)を端緒に始まった満州事変当時、日本軍はたった一万五千人の関東軍兵力のみで全満州を占領した。当時満州には関東軍の十数倍から数十倍の兵力を擁する張学良軍閥の軍隊がいた。彼らは日本軍の占領に不抵抗だったというより、民衆から見放されて追放されたと、黄文雄氏は分析する。当時、ソ連は第一次五か年計画に忙殺され、中立不干渉を声明していた。米英も経済大恐慌から回復していない。蒋介石率いる国民党軍は「攘外必先安内」というスローガンを優先させ、国民党軍の力を温存するために関東軍と対決したくなかった。そして満州軍閥は張学良を追放した。首都奉天市長趙欣伯は「日本軍隊が張学良とその軍隊を殲滅し、大悪人の手から東北人民を救い出してくれたことに対して、深く感謝しなければならぬ」と。
 張作霖支配下の満州の民衆は、二重の搾取と掠奪で塗炭の苦しみに喘いでいた。満州の地は、移民の土地であると共に無法の土地でもあった。馬賊・匪賊は推定三十万人から三百万人いた。略奪、放火、強姦、誘拐は日常茶飯事で、民衆は生きていくだけでも容易ではなかった。こんにちの中国史で「反日抗日」の闘士といわれる民族英雄も、馬賊や匪賊の類であった。満州の歳入の8割は軍事費に使われた。二十世紀の中国人は政府も軍閥も革命家も、軍事力こそが命であり、戦争に負ければ、全てを失った。また、満州国成立前の張作霖・張学良軍閥支配下の満州で最大の弊政の一つは通貨の紊乱だった。通貨は、内外公私取り混ぜて、数十種とも百種類前後あったともいわれる。歳出の不足を補填するためには、紙幣の大量増発しかない。そのためインフレが昂進し、満州経済は大混乱に陥った。軍閥時代の満州の最も安易で最大の財源の一つは租税と専売制であった。しかし、満州の国富は、軍閥や税吏の掠奪、争奪だけで失われていたのではない。社会の争乱があるたびに、暴民や暴民も徴税局や穀倉・塩倉を襲撃した。官匪、兵匪、土匪が跋扈しており、この点からも満州の経済発展は難しかった。

だいぶ、黄文雄氏の引用が長くなった、結論を急ぎたい。黄文雄氏は言う、「満州国建国について、関東軍の謀略による張作霖爆殺事件や柳条湖事件を語ることは欠かせない。満州事変とその背景を知る事は、満州国というものを理解するうえで非常に大切である。しかし、これらと同様に、「万宝山事件」や「中村大尉殺害事件」を知る事も重要である。満州国の時代背景には、日本の国家としての権益問題があり、さらに満州を支配していた張作霖・張学良一家の問題もある。満州事変の直接の原因は、張一家の跋扈と圧迫に対して関東軍が逆襲したということであり、満州建国は、そのような時代に生まれた満州民衆をも含む関係者全員の理想でもあった。日本の満州における特殊権益を守ることと、満州軍閥と国民党政府が日本の権益を排除しようとしたことのほかに、万宝山事件に代表される、中国人と朝鮮人との民族対立であった」「万宝山事件とは、1931年7月に長春郊外の万宝山で、朝鮮農民が水田経営のために完成した水路を中国農民が破壊したことに端を発して起きた漢民族と朝鮮族との農民衝突であった。朝鮮人は有史以来、中国人によって故郷の満州遼東から朝鮮半島にまで追い詰められ、属国にされ、強制連行されてきた。ことに満州開拓の朝鮮農民は、中国人官憲に迫害され、賤民として差別され、満州の土地を取りあげられたうえ、追放されたりした。日韓併合後は、日本は自国民である朝鮮人を保護する行動をとった。日本関東州政府からの抗議にも拘らず、満州農民と官憲による朝鮮人農民に対する迫害は続き、朝鮮ではこの報で各地の朝鮮人は在留中国人を襲撃した。この問題は日本政府・関東軍と張作霖政権の間で一大課題となり、関東軍が張作霖を爆殺した背景には、四十万~六十万の在満朝鮮人の保護という意味もあった」と。また、「満州事変のもう一つのきっかけは、1931年6月の中村震太郎大尉殺害事件だ。8月南京の重光葵公使は中華民国政府外交部に厳重抗議したが、王正廷外交部長はすぐさま日本軍の捏造であると公言、前後して万宝山事件も起こり、日本の世論は沸騰、中国非難一色となった。中華民国政府は9月になって初めて事実関係を認め、犯人を逮捕し軍法会議にかけた。この事件は、中華民国政府の反日排日運動が、日本軍部の対日軍事行動を誘発し、緊張を高めることになった象徴的なものであった。満州事変の最大の歴史背景は、中華民国政府が展開した排日悔日運動にあるといってよい。とくに排日教育は、日本排斥を主目的として徹底的に歴史事実を歪曲し、自国の失敗や悪行をひたかくして、全ての非は列強諸国の迫害に起因すると、極端な排外思想と中華思想を教えるものであった。国民党政府には、満鉄・旅順・大連に代表される日本の権益を即時回収し、「日華条約即時無効宣言」要求という方針があった。国策としての反日排日運動はこうして先鋭化した」

 20世紀に入って清に取って代わって中華民国は、その国家主権を満州で行使することが一度としてなかった。また、満州問題に直接介入できなかったのも歴史的事実である。義和団事件以後、満州はロシア勢力に押さえられ、日露戦争後からは、日露両国の勢力が南満と北満を二分し、中華民国の時代になっても、満州は日ソ両国の勢力と満州軍閥という二重支配下に置かれている。満州と中国とは完全に別世界である。だから矢野仁一京大教授の「満州は支那本来の領土に非ず」論も、「満蒙における日本特殊権益論」も、こうした歴史背景から生まれた。当時、関東軍参謀だった石原莞爾は、満州領有計画を研究し、「満蒙問題の解決は、日本の生きる唯一の途」「満蒙問題の解決は日本が同地方を領有」してはじめて完全に達成されると唱え、当時の日本人に大きく影響を与えた。石原には満蒙領有案はあったが、満州国建国案はなかった。満州建国の発案者は、満州青年連盟理事長代理で、関東軍最高顧問の金井章次であったと言われている。
 日本の特殊権益論とは、日露戦争とそれに続く大陸進出で「二十万人の生霊、二十億円の国幣」によって贖われたかけがいのない大地だから、その権益を守るのが日本国民としての使命、という考え方。満蒙領有計画は関東軍首脳部にも大きく支持された。史実は、関東軍高級参謀の河本大作大佐の張作霖爆破事件のせいで、田中義一内閣の満蒙政策は挫折した。そこに、1929年5月、河本大作の後任として満州に板垣征四郎大佐が赴任した。張学良は張作霖爆死後に全東北軍を受け継ぎ、虎視眈々として関東軍を満州から追い出し、全ての満蒙権益の回収を目論んでいた。だが石原莞爾参謀と高級参謀板垣征四郎の二人が組んで、関東軍を一手に引き受け、張学良は手出しができなかった。
 1932年3月、満州国は建国を宣言した。その理念は「順天安民」「王道主義」「民族共和」「門戸開放」の四つであった。「民族共和」の淵源は、満州には西にモンゴル系、東にツングース系諸民族がおり、もっと少数の先住民族もいた。それ以外に漢民族移民と朝鮮民族移民が居住し、後からやってきた日本人移民、北からのロシア人もいた。これらの民族の協和を目指した。もう一つの「門戸開放」は、アメリカが中国分割に出遅れ、権利均等、門戸開放を提唱していたからその影響も考えられるし、近代国民国家を目指す満州国としては、伝統的鎖国政策をとるつもりはなかった。
 満州事変後、満州建国を巡る多くの国家構想が語られた。土肥原賢二大佐は日本人を盟主とする五族協和国案、建川美次少将の宣統帝を首班とする親日政権樹立、満州青年連盟は東北自由国、橘樸は民族連合国家、高木翔之助は「満蒙独立共和国」を提唱し、農村自治国家などの構想もあった。もちろん、満州人、モンゴル人、中国人も満州国建国に奔走した。建国の実務面に際して、溥儀を元首に戴くことは意見が一致したが、国号・年号・国旗・国体・政体については意見が分かれた。帝政論あり、立憲共和制論であった。
 張学良ら満州軍閥が関東軍から追放された後、新国家建設運動は、各地で澎湃として生じた。1932年2月、全満建国促進運動連合大会が開催された。各省代表以外には、モンゴル、各種団体、満蒙青年同盟、吉林省朝鮮人、東省特別区朝鮮人など各代表七百人が参加し、満州建国を宣言した。「三千万民衆の意向をもって即日、中華民国との関係を離脱し、満州国を創設する」ことを宣言した。1931年11月、奉天地方維持委員会では、順序として奉天、吉林、黒竜江、熱河各省が連省自治(連邦制)からスタートし、四省代表者会議を開くなどを決定、省長が推戴された。吉林省では満州事変直後、臨時政府をつくり、率先して独立宣言している。黒竜江省も省長を選び新国家の建設協議に加わった。熱河省も省主席を選んだ。また満州国建国にはずみがついたのは、満州の民衆が日本関東軍を敵視しなかったことである。日本軍はロシア軍、満州軍閥とは異なり、軍律正しく略奪的な行為をしなかった。民衆は軍閥支配を苦しみ、関東軍を解放軍と見なして迎い入れた。中国の近現代史がいう、反日抗日ゲリラとは、住民から略奪する兵匪に過ぎない。その反日排日運動の背後には、国民党や共産党だけではなく、背後に米英、ソ連とコミンテルンもあった。日本の軍事力だけで満州国を作れる状況ではなかった。
 満州国が成立すると、日本国内ではこれを承認するか否か論議が沸騰した。結局9月15日、武藤信義駐満特命全権大使と満州国全権・鄭孝胥国務総理との間に議定書が調印され、満州国を実質的に独立国として承認した。1933年1月、満州国は帝政実施を声明、その成立を71カ国に通告した。最初に承認したのは中南米のエルサルバドル、続いてローマ教皇庁、イタリア、スペイン、ドイツ、ポーランドが承認した。しかし国際連盟から満州国建国の正当性が否認され、承認国は十八カ国にとどまった。
 リットン調査団は事変以前の原状回復だけでは再び紛糾する恐れがあるとして、「満州には、中国の主権の下で広範な権限を持つ自治政府を設置する。これに対し国際連盟の主導で外国人顧問による指導・勧告を行う。あらゆる軍隊を撤退させ、漸次的に非武装地域化する。さらに満州の安全保障なども提案する」とし、日本は調査団の提案に反対した。提案内容は満州を国際管理とするに等しく、現実には全く適合できない、との理由だった。松岡は満州で起こった事件は日本の責任ではない、日本の行動は自衛であり、独立運動も住民の自発的意思によるものだと主張、顧維鈞中国代表は、日本の侵略行為だと反論、理事会は勧告案を日中双方に内示したが、それは事実上の満州国不承認だった。

 だいぶ長い黄文雄氏の引用であるが、陰謀説だけで満州事変は語れないし、傀儡国家批判は歴史の事実関係を見ていない批判のための批判だ。無法の地であった満州を民族共和の近代的国民国家に作り上げた歴史的事実関係をもっと前面に出して、満州国を見直す必要がありそうだ。そういう意味では、松岡の主張は、弁護に終始しているように思えるし、東京裁判の弁護側立証も、謀略論否定に終始している。


東京裁判 冒頭陳述 第二部満州及び満州国に関する事項

2022年06月06日 | 歴史を尋ねる

 「第二部門は1931年以来満州に於いて犯したと主張する犯罪を反証する。これは起訴状に於いては訴因第二及び付属書A、訴因第十八、二十七に関係する。・・・被告の反証せんとする証拠物は極めて多数である」として清瀬は陳述を始める。先ず、リットン報告書を引用し「本紛争に包含される諸問題は、往々称せられる如き簡単なものではない。問題は極度に複雑なり。一切の事実及びその史的背景に関する徹底した知識のある者のみ、事態に関する確定的意見を表示し得る資格がある」と軽々な判断をすべきでないと清瀬は主張する。
 特殊権益「満州国に於ける特殊事態を証するため、日本が当年満州に持っていた権益なるもの並びにその正当性もまた証明されるべきである。日本は何ゆえに満州に特殊の権益を取得したか。なにゆえに日本人は満州に出ていったか。日本は土地が狭く人口が多かった。海外移民が可能であった時にはそれで一部解決されたが、1908年頃、紳士協定で事実上アメリカへの移民を中止した。当時小村寿太郎外務大臣は、わが民族が濫りに遠隔の外国領地に散布することを避け、なるべく満州方面に集中し、結合一致の力によって経営を行うことを必要とするに至った、政府はこれらの諸点を考慮して、カナダ及び合衆国の移民に関しては渡航制限を実施する、と表明した」 1917年11月ランシング国務長官と石井全権との間に協定が出来た。その一部に「合衆国政府及び日本政府は領土の接近する国家の間には特殊の関係を生ずることを承認する。従って合衆国政府は日本が支那に於いて特殊の利益を有することを承認する。日本国の所領に接近する地方に於いて特にしかり」という文字が載っている。この約束はその後取り消されたが、それまでの間に日本は満州で多くのことをなしていた、と。
 清瀬は日露戦争によるロシアから引き継いだ権益という説明は省略して、日本の人口問題から満州問題にアプローチしている。ならば、満州で生活している日本人の直面した問題をもう少し具体的に説明した方が良かったのではないか。著書に掲載される冒頭陳述の全文には特段見当たらない。或いは証拠書類で提示したのかもしれない。

 ではどういう状況であったか、清瀬を離れて、草柳大蔵著「実録満鉄調査部」で見てみたい。
 清朝は故郷の満州が韓民族の農耕で占領されるのを恐れ、漢民族の移住を禁止する「封禁の令」を布いた。その後、帝政ロシアがシベリア鉄道を敷設し始めた時、北満の人口は百万人足らずだった。1908年(明治41)日本が満鉄を経営し始めて、1929年(昭和4)に至るまで、人口は30倍の三千四百万人に達している。その内訳は、日本人と朝鮮人を併せて2%、満州蒙古人で15%、中国人は83%だった。この裏には、昭和2年までに一億六千万円の社会資本投資を行い、耕地面積を5百万ヘクタール(うち満鉄が3百50万ヘクタール)拡大したという実績がある。すなわち、かっては人煙稀な荒蕪地に、都市が生まれ、三千万人もの人が集まったのは、そこに家があり、土地があり、職業があったからではないかと、満州に住む日本人は考える。
 満鉄沿線の付属地は治外法権であり、商租権もあるのだが、抗日排貨の嵐は日に日に激しくなる。一旦、排貨の声が上がると、日本品の売れ行きはハタと止まり、やがて中国人の店先からも問屋の倉庫からも日本品は姿を消してしまう。日本の輸入商や小売商はネを上げ、店仕舞をする音がバタバタと聞こえはじめる。すると、いつの間にか、姿を消していた日本品が以前の三倍から五倍の値札をつけて現れる。この繰り返しで、排貨のたびに、日本品を扱う中国商人は肥え太り、日本人商店は閉店の張り紙を出すのである。
 この運動が激化し始めるのは1922年(大正11)の九か国条約以来である。それがハッキリしだすと、在満日本人の中間層は、政治を身近なものに感じ始めた。草柳はこの現象に注目したい、と。満州に於いて関東軍が独走し得たのは、在満日本人社会が始めから中間層社会の性質を帯び、彼等にとって不条理と思える日常経験が政治的社会を急成長させたのではないか。
 九か国条約第一条第一項に「行政的保全」という字が明記された。この政治用語は、1908年の日米協定の際、ルート米国務長官から協定文に入れるよう、強く要求された字句であった。小村外相は断固としてハネつけ、「アドミニストラチーフ・エンチチー(行政保全)の維持は満州における租借地はもちろん南満州鉄道付属地の行政権と抵触し、満州経営を根底から攪乱すべきのみならず、将来にむかって誤解を生ずる恐れがある。日本政府は到底同意することが出来ない」と高平全権に指示。ところが九か国条約でこの行政的保全をあっさり入れてしまった。しかもアメリカ側の全権は同じルートだった。従って、フランス全権の「支那とは何ぞや」と質問に答えてルートは「この条約の適用範囲は支那本部だ」と答え、わざわざ「満州」を除外した。これに対して中国全権が猛烈に反対、適用範囲を条文に書き込まないことでケリがついた。こうなると中国は、満州も領土の一部と考えるから、領土的及び行政的保全の尊重を日本に訴えてくる。具体的には、満鉄の回収、付属地の治外法権の否認、旅順・大連の租借地返還の声を挙げてくる。この時の日本全権は幣原喜重郎であった。ほとんど抵抗らしい抵抗を示さなかった。そして翌年「石井・ランシング協定」が廃棄となった。
 在満日本人の憤激や、思うべしである、と草柳。「全満日本人連合会」は幣原外交との絶縁を声明、自主的に満州問題を解決するとして「全満日本人自主同盟」と看板を塗り替えた。「満州事変は軍部の独走」とするのが現代史の定説になっているが、如何に軍部が独走しようとしても、軍部以外の社会が軍部の選択を心情的にせよ支持しなければ、独走の距離は短い筈である。日本人が一定の環境下では瞬間的に価値観を共有することは、「文明開化」から「日本株式会社」まで証明済みの事実であろう、と同時に、この心理の共有化作用は「満州事変は軍部の独走」から「高度成長は独占資本の志向」まで、その語り口は、常に単独犯をつくることによって、歴史の埋葬を続けてきたのである、と草柳は戦後の歴史観に切り込む。

 もう少し、草柳の論説に耳を傾けたい。 山本条太郎は満鉄に「経営」を残したが、副総裁の松岡洋右は「思想」を残した。松岡は、その後、満蒙問題については日本を代表するイデオローグに成長するが、彼の思想の要点はリットン卿との会談記録によく現れている、と。「満州を支那の領土と認めるとも、満州を支那本土と同一視すべきでない。満州における主権と本土に於ける主権とはその内容も同一でない。満州は清朝の下のクラウン・ランドもしくは王子の私領たるにすぎず。わずかに二十数年前、支那に併合されたといわれても、満州人はノーというかもしれない・・・」この論理を原点として、松岡は国の内外に向かって満蒙問題を説いていった。軍部でさえ松岡ドクトリンを全面的に採用した。 
 1927年(昭和2)7月、汪兆銘は武漢政府内の共産主義者を徹底的に弾圧、このため共産党員は武漢から脱出、ボロジンなどのソ連顧問団も中国から退去した。こうなると何応欽らの南京政府と汪兆銘らの武漢政府には対立点がなくなる。両政府の合体工作は急速に進んだが、武漢政府から蒋介石の下野という条件が出て、南京側もこれを呑んだ。機を見るに敏な蒋介石は張作霖の討伐真っ最中であったが、戦線を離脱、上海から長崎に上陸、田中・蒋会談を打診、田中は気軽に引き受けた。会談中に汪兆銘から「共産革命の兆しあり、至急帰国せよ」との秘密電報が届き、上海に上陸すると声明を発表、「われわれは、満州における日本の政治的、経済的利益の重要性を無視しない。われわれはまた日露戦争中の日本の国民精神のおどろくべき発揚をも知っている。孫先生もこれを認めていたし、また、満州における日本の特殊的地位に考慮を払うことを保証していた。われわれが革命に成功した暁には、その矛先はインドに向くであろう。われわれは朝鮮を使嗾して、日本に反対せしめようとは思っていない」と。しかし、蒋がこれほどの声明を出した背景には、田中・蒋密約があった。そのポイントは日本が北京に盤踞する張作霖を奉天に追い返してくれれば、国民党軍は張に追い打ちをかけることをしない」と。田中にしてみれば、張作霖と奉天軍三十万を無傷のまま奉天に迎え入れ、この軍事力を背景に張政権を樹立し、しかる後中国から分離して、日本の勢力下に置くという政治図式が現実化する。一方、蒋介石の方は麾下四十万の大軍を擁するとはいえ、装備も錬度も士気も粗悪で、張作霖の奉天軍三十万と戦っても必勝は期し難い。そこで、この際は先ず中国統一を図っておこうという計画が働く。この両者の読みが政治的同意をつくった、と草柳大蔵は推理する。
 蒋介石は宋美齢と結婚して上海経済界の支持を取り付け、汪兆銘とのヨリを戻して国民革命軍総司令の地位に就く。北伐の合意を取り付け、張作霖の奉天軍を各所で破り、山東省に到達。当時日本人は済南に二千人、青島と山東沿線に一万七千人が居住、邦人の生命と財産が損なわれないよう出兵要請、田中首相と軍部は出兵に消極的だったが、東方会議主催の森恪に説き伏せられ、渋々出兵。総司令の蒋介石は治安維持の責に任ずるから日本軍の撤退を要求、しかし賀耀租の軍隊が市内の掠奪と暴行を始め、日本軍と衝突。「蒋介石軍が済南で日本人の商店から掠奪し、日本人を婦人まで虐殺した」とニュースが流れる。このニュースはそのまま大連の「満州青年議会」に飛び込んだ。議会は青島・済南並びに山東鉄道の占領を提議され、収拾がつかなくなりその場で解散、青年たちはいくつもの政党を結成、満蒙独立の動きであった。国民政府側にも大きな転換があった。後年、革命外交といわれるほどの積極外交を敢行した王正廷の登場だった。王正廷登場の引き金は田中内閣の第三次山東出兵だった。予備・後備の兵隊まで招集し、第三師団一万五千人を青島に上陸させた。これが中国民衆の憤激を買い、空気は険悪となった。すると田中は軍艦まで派遣した。先ずアメリカの対日観が変わった。それまで田中内閣の山東出兵は居留民保護のために列国を代表して発動したものと、好意的に解釈していた。しかし第三次出兵を見て、これは過剰介入であり、日本の軍事行動には歯止めがかからないのではないかとの危惧を抱くようになった。この機会を捉えて、国民政府はアメリカ通の王正廷を外交部長に据えた。彼の外交政策の中心は中国の立場を国際社会に訴えることであった。アメリカのバックアップを得て、山東出兵を国際連盟に提訴した。国際連盟にアイヒマンがいた。彼は終始一貫した嫌日家で、中国からの提訴をなにくれとなく取り次ぐばかりか、何度も中国に渡り、経済・交通・教育の各分野にも連盟からの援助を誘導していた。満州事変勃発当時、外交部長の宋子文は重光公使に「両国で委員会をつくり直接交渉で問題を解決しよう」と提案した。これを知るとライヒマンは宋子文と膝詰め交渉し、連盟に提訴させたのだった。

 1927年(昭和2)日本では田中義一内閣が発足した同年、中国では蒋介石による北伐の一旦停止後に張作霖が北京に軍政府を組織し大元帥に就任した。そうした経緯を経て、田中・蒋介石会談並びに密約が交わされた。しかし蒋介石が再び北伐を開始すると、日本政府は居留民保護のため山東出兵、済南日本人虐殺事件(5月4日)が起こった。
 5月18日、関東軍司令官・村岡長太郎は極秘裏に動員令を発令、各地の兵を奉天に集結させた。その目的は山海関から満州に入るときの要衝、錦州に派兵する準備だった。そして日本政府は張作霖と国民政府の双方に、「戦乱が北京と天津地区に発展し、その禍が満州に及ぶ場合、帝国政府は治安維持のため、その措置をとることもある」とメモランダムを突きつけた。駐華公使芳沢謙吉はこの覚書を張作霖に手渡し、早く北京を引き揚げるよう説得、国民政府は直ぐに反発、中国内政に干渉し、国際公法上の領土主権の相互尊重に反する、この種の行為は絶対に承認できないと声明を出した。アメリカも黙っていなかった。国務長官ケロッグは満州の行政権は中国に属すると言明した。
こうした情勢を踏まえ田中首相は関東軍の錦州出勤を制止した。荒木大将は「こうなっては、あとはどうなっても知らんぞ」と叫び、関東軍参謀長・斉藤桓少将は日記に「私により政治を行う現首相の如きはむしろ更迭するを可とすべし」「腰のない外交はダメなり」と書いていた。そして6月4日午前5時、張作霖は皇姑屯で爆殺された。すべてを計画し実行したのは河本大作大佐であった。この時河本は張作霖を殺すだけでなく、関東軍に緊急集合を命じ、張作霖の護衛軍と一戦をまじえる計画を持っていたが、斉藤参謀長に阻止された。
 張学良は父の死を北京で知った。すぐに奉天に潜入して、父の筆跡をまねて、「張学良に余の代理を命じる 張作霖」の命令書をつくり、奉天軍を呼び戻した。蒋介石は7月3日北京に無血入城、満州を除く中国全土を統一した。張学良は直ちに「東三省から青年百人を南京の国民党に派遣し実習させたうえで、東三省党部の事務を開始させる、東三省の政府職員となった者の生命、財産はすべて保護してほしい」と蒋介石に申入れた。これに対し蒋介石は「心から国民党に服従し、中国が統一できるのであれば、ウリが熟しヘタが落ちるまで待った方が良い」と答えた。しかし張学良は7月24日易幟(えきし)を自ら発表した。側近は易幟派と日本協調派に分かれたが、日本政府の圧力が日増しに強まり、張側に反日感情が強まった、と中国側資料は語っている。

 張作霖の葬儀(8月4日)が終わった後、張学良が日本総領事館に返礼に来ると、田中首相から特使として葬儀に参列した林権助駐華公使は「不幸にして、もし東三省が日本の警告を蔑視し、ほしいままに青天白日旗を掲げるならば、日本は必ず断固たる決心を以て、自由行動をとるだろう。今は唯、貴総司令が毅然として、自らの決意に従って行動し、浮言に動かされることがないように望む。もし不逞分子が現れたならば、武力弾圧に訴えてもよい。日本は全力で援助したいと願っている」 張学良「林総領事の発言には黙っている訳にはいかない。私は中国人である。従って、私の考えも当然中国人本位である。私が国民政府との妥協を願うのは、中国の統一を完成し、文治合作を実行し、これによって東三省の一般の人民の熱望を実現したいからである」
 10月8日、蒋介石は張学良を国民政府委員に選んだ。一種の身分保障策であった。12月29日張学良は易幟を断行した。午前7時を期して、奉天・吉林・黒竜江省に青天白日旗が掲げられた。ことに奉天では青天白日旗が全市を埋め尽くした。張学良はすぐさま易幟祭典を行った。欧米列国の領事は招きに応じて参列した。張はこの祭典で、日本の大政奉還の故事を引き、「その国は中央に権力が集まったから発展した。いま政権を上げて返還し、真正の統一を図ろうと思う」と演説した。林領事は抗議に訪れ、懸案になっている鉄道利権の解決策を申し入れたが、張は「外交問題は中央政府の権限である」と取り合わなかった。また、易幟を境にして、中国人たちの排日・抗日の態度も、あからさまになってきた。奉天では城内を歩けぬこともあった。たちまち拉致され、物陰で身ぐるみ剥されて放り出されるという事態が続発する。
 松岡は著書「興亜の大業」の中で「満州事変前の日本には、思い出してもゾッとするような恐るべき敗北主義があった」と述懐している。以上のような日中外交の流れの中で、蒋介石に忠誠を誓い、易幟を断行した張学良は、中国の「国権回復」の満州版を積極果敢に実行し始めた。彼は先ず満州にあるロシアの東支鉄道の武力回収を試みたが、ソ連は国交を断絶、直ちに赤軍を送って張軍を破り、回収を失敗に終わらせた。次いで日本には、関東軍と衝突しないよう、合法的な攻勢を掛けることに腐心した。①満鉄を経済的に枯渇自滅させるための満鉄包囲鉄道計画。②日本人と朝鮮人を追い出すための政策、日本人事業並びに居住の禁止、朝鮮人の農業の圧迫。③満鉄付属地の経済封鎖。
 世界恐慌で満州経済も打撃を受けた。世界市場が縮小して、満州特産の大豆三品の価格が暴落、輸出が激減した。石炭の需要の落ち込んだ。大豆と石炭で運賃収入の90%を占める満鉄の営業成績は極度に悪化する。しかも張作霖・張学良二代にわたる鉄道包囲網の完成は、北満の大豆と東満の貨物を満鉄から吸収していく。運賃も半額だった。彼等は銀建てで満鉄は金建て、金銀の為替差で満鉄は窮地に陥った。また、張の対日攻撃は陰湿で執拗だった。暴力と非合法を使わず、様々なシステムを仕掛ける。中でも効果的だったのは「徴税攻勢」だった。満鉄付属地の境界に「税損局出張所」を設け、出入りする貨物には片っ端から課税した。しかも徴税吏は官吏ではなく請負制であったから、規準も曖昧だった。そのうち税損局員は日本人が経営する商店の中にも張り込むようになった。日本品の売買に伴う取引税というのを勝手に作り、税を徴収した。さらに日本人の経営する旅館のボーイやコックを扇動してストライキを打たせ、彼等が表を歩くと「非国民」という声を浴びせた」と「実録満鉄調査部」は記述する。ふーむ、これは明らかに中国共産党系の活動内容だ。張学良の裏に、中国共産党活動分子が巧みに入り込んだのだろう。事態は容易ならざる状況に追い込まれていたことを表している。当然、日本側からのリアクションを予想したであろう、と草柳。しかし浜口内閣の幣原外交はあまりに協調主義的であった。戦後、加瀬俊一が指摘する、「幣原外交が成功するには、世界平和が継続し、国際的自由が保証され、中国の政情が安定してその対日態度が公正であることが条件」であった、と。ところが、世界恐慌が起こり、ソ連が強国として台頭し、中国が革命外交を標榜して排日運動を展開する。幣原外交の前提は崩れ去っていた。
 しかし、この幣原外交はアメリカにとっては好ましいものだった。当時の国務長官スチムソンはその著書で「日本を我々が見守りつつあることを知らしめ、同時に正しい側にある幣原氏を助けるような方法を工作し国家主義者の扇動者として利用されないことである」と記述している。「満州事変を中国が連盟の席上に持ちだした。アメリカはオブザーバーであったので、国務省はこの事件について消極的な態度をとっていた。そこへ錦州まで出た日本の軍隊が呼び返されるという事態が起こった。これは外務大臣の幣原がやらしたことだ。荒馬のような陸軍を引き留めた幣原は実に不敵な男だ。私はそれを非常に頼もしく思い、日本に強圧的手段をとらず、幣原の国内的権威を失墜させぬよう努めた。ところが12月、幣原の辞職が発表された。これを聞いて私は憤然として、ようし、それなら積極的に日本を叩きつけてやれと、イギリスの外務大臣を国際電話に呼び出し、アメリカ政府は、日本の満州における行動を積極的に責めることに決した、と告げた」と。ふーむ、このスチムソンの態度はおかしくないか。ことの是非を知らず、単純に一方的に他を攻める。むしろ仲裁に入るなら分かるが、一方的に責めるとは。なぜか解せないスチムソンの言動である。そして錦州まで進撃した日本軍を引き返させたのは、金谷範三参謀総長の一存で決定したことであった。事実誤認も犯している。

 随分、草柳大蔵の著書からの引用が長くなり過ぎたが、改めて満州における日本人居留民の苦難を思い知らされた。いったい、あれだけの兵士を失って戦った日露戦争は何だったのか、小村寿太郎が紳士協定により日本移民を満州地区に送るとした当時は何だったのか、それがこの仕打ち。日本人ならば、当然起こる疑問だろう。冒頭陳述で清瀬は更に何を訴えたのか、本題に戻ることにしたい。
 未解決三百件「当時満州にあった政権は、日本との緊密なる提携の下でその勢力を維持していたが、1925年から全中国に国権回復運動が台頭した。満州における情勢も大いに変化した。1928年の張作霖の爆死、満州政権の易幟があった。次いで国民党支部の満州進出を見るに従って、日満の紛争は逐年増加した。1931年に於いて未解決の案件は三百件におよんだ。」  
 関東軍と張学良軍「日本は条約及び協定によって、関東州及び満州における権益保持のために関東軍を駐在する権利を持っていた。1936年の関東軍の兵力は、一万四百人に過ぎない。これは1905年のポーツマス条約の制限以下だった。これに対して張学良軍は正規軍二十六万八千、不正規軍がこのほか大きな部隊があった。関東軍は包囲されてわずか一万四百の小兵力に過ぎなかった。しかもその任務は南満州鉄路一千キロの保護と百二十万人に達する在留邦人の保護を任務としていた。一旦事が起これば、自衛の為に迅速に行動をとる必要に迫られていた」と。
 1931年9月18日夜 「検察団は1931年9月18日夜の鉄道爆破事件を日本側の策謀によるものと主張している。被告側においても実情を証明するために、証拠を提出する。いずれにしてもその夜、軍隊的衝突が発生しました。すでに発生した以上、関東軍においては軍自体の自衛と軍本来の任務のために中国軍を撃破しなければならない。この間の消息は当時関東軍の司令官だった故本庄大将の遺書によって証明が可能。わが中央においては事態の拡大を希望せず、なるべく速やかに解決しようとしたが、事件は希望に反して逐次拡大した。その真相並びに連盟理事会とアメリカ側との態度について、適切な証拠を提出する。またその真相は、すでに証言や書証によって検察側からも示されている。」
 自治運動より満州国政府の成立 「一方、関東軍が自衛の為に在満中国兵力と闘争している間、満州の民衆の間にいろいろな思想から自治運動が発生しました。これらの思想は保境安民の思想、共産主義に反対する思想、蒙古民族の中華民国よりの独立運動、張学良に対する各地政権並びに将領の不平不満、清朝の復辟希望等である。1932年2月に東北行政委員会が出来、3月1日には満州国政府の成立となった。かつて満州建国後においては、日本出身者も満州国人民の構成分子となることが許され、また満州国建設後には、満州国の官吏となって育成発展に直接参与したことは事実である。しかしそれは建国後のことである。現に1931年9月には、日本の外務大臣及び陸軍大臣は在満日本官憲に対して、新政権樹立に関与することを禁ずる旨の訓令を発している。換言すれば満州国政権の出現は、リットン報告の如何にかかわらず、満州居住民の自発的運動であって、証拠により証明する。満州における事態は、1933年5月には一段落となった。1935年、6年の間には中国側においても事実上の地位を承認せんとしていた。世界の外の各国も逐次満州国を承認しました。ことに1941年には、本法廷に代表検察官を送っているソビエト連邦は、満州国の領土的保全及び不可侵を尊重する契約をした。」

 満州事変に対する突っ込みがやや弱い冒頭陳述に思えるが、弁護側の立証戦略を考慮した陳述かもしれない。検察側は、田中隆吉証言・森島守人証言・溥儀証言を三本柱に、その周囲をリットン報告書と日本の各種外交文書を張り巡らしてがっちり固めた観があるから。従って続いて満州及び満州国に関する弁護側立証を見ることとしたい。


東京裁判 検察側ストーリーの崩壊と清瀬弁護人の冒頭陳述

2022年05月29日 | 歴史を尋ねる

 キーナン検事やコミンズカー検事などの手腕には、清瀬も敬服するところがある、事件の取り調べにかかったのは、早くとも昭和20年の9月ごろとみられる。それまでは、日本の歴史も知らず、日本語も漢字も知らぬ人が、わずか半年の間にあれだけの事実を調べ上げ、五十五の訴因にまとめ上げ、それを証する書証、人証を取りそろえた努力は買わねばならぬ、と清瀬一郎は賞する。そのうちには日本人さえ知らなかった資料さえある。例えば日本の民主化の経路を証明する時、枢密院が普通選挙法案提出には治安維持法案と並行提出すべきことを条件としたこと、尾崎行雄と清瀬の連名で、南陸軍大将に満州出兵を慎まれたき旨の手紙を出したことも調べ上げていた。しかし田中上奏文(偽物)をつかんだだけは千慮の一失というべき、と。検事側が本件各訴因で共同謀議の始期を1928年1月1日としたのは、田中上奏文を見ての事だろう、この上奏文が本物なら、このように考えるのは無理もない。検事側は昭和21年、証人として秦徳純将軍を出廷させて、この文書を証明しようとしたが、林逸郎弁護士の反対尋問により破られてしまった。秦徳純証人はついには「それが真実のものであるということを証明することは出来ないが、同時にまた真実でないということも証明できない」ということになってしまった。奉天領事をしていた森島守人が出廷し「田中メモは聞いたことがある。またそれが偽物である事も承知している」と証言したが、判決ではこの証拠は無視された。最終的に田中上奏文は東京裁判では証拠として採用されなかった。
 (ウキペディアは言う。田中上奏文は当時10種類もの中国語版が出版され、組織的に中国で流布され、また1931年には上海の英語雑誌『チャイナ・クリティク』に英語版「タナカ・メモリアル」が掲載され、同内容の小冊子が欧米や東南アジアに配布された。ソ連のコミンテルン本部も同1931年『コミュニスト・インターナショナル』に全文掲載し、ロシア語、ドイツ語、フランス語で発行し「日本による世界征服構想」のイメージを宣伝した。フランス国会では、1931年11月26日にジャック・ドリオが文章を引用しながら演説をおこなった。1931年(昭和6年)9月の満州事変が勃発。中国は翌1932年のジュネーブの国際連盟第69回理事会において「日本は満州侵略を企図し、世界征服を計画している」と訴え、その根拠として1930年に中国国民政府機関紙で偽書であると報じた田中上奏文を真実の文書として持ちだした。そのため日本政府は田中上奏文が偽書であることを立証する必要にせまられた。中国は日本が世界征服をもくろんでいると強調し、国際世論に訴えた一方、日本側は文書の真贋を問題とするにとどまった。1932年(昭和7年)5月6日に、ニューヨークの堀内総領事はタイムズ紙に田中上奏文の記事を掲載するについて、田中上奏文の記述の誤りを指摘するため、大正5年の日支交渉担当者田中義一の官職、フィリピン訪問の状況や襲撃事件について事実の確認を外務大臣に求めている。同年、K.K.カワカミは著書、Japan Speaks の中で、犬養毅が指摘する田中上奏文の誤りを掲載して偽書であることを示そうとした。米国人ジャーナリスト・エドガワ・スノーは1934年の処女作『極東戦線』(Far Eastern Front)で、田中上奏文について「一九二七年六月、日本の文武官を集めて開かれた、将来のアジア政策についての会議ののちに作成されたもようである」として触れている。スノーは、日本政府や犬養毅が田中上奏文を偽造であるとしたことを紹介し「この覚書が示す考えとほとんど同じ考えをもっていた右翼の手によって暗殺された古ギツネ(犬養毅)の悲劇的な死は、たとえ覚書自身がにせものであったとしても、その背後にある精神の実態をもっともよく証明するものだと思われる。もしにせものづくりがこの覚書をデッチあげたのだとすれば、彼はすべてを知りつくしていたことになる。この文書がはじめて世界に出たのは一九二八年だったが、それは最近数年間の日本帝国主義の進出にとってまちがいない手引き書となったのである。」と述べた。スノーは『アジアの戦争』Battle for Asia (1941年)の中でも、田中上奏文の一説を引用している。)

 昭和23年11月12日、各被告に刑が宣告されたが、そのうちただ一人、文民であった広田弘毅への死刑言い渡しには世間は驚いた。広田が死刑の宣告を受けねばならぬ羽目に至った事情を清瀬は説明する。はじめキーナンその他検事は、田中上奏文を入手した。検事はこれが日本の膨張政策の脚本だ、ヒトラーのマイン・カンプに相当するものだと考え、これを基本に訴因を組み立て、共同謀議の発生初期を昭和3年1月1日(田中内閣の時)とし、その間種々の公文書、私文書を捜索充当し、証人を物色し、過去十八年に亙る日本の東亜、ひいては世界侵略の絵巻を展開しようとした。しかし田中上奏文が偽作であることが判明した。検事にしても、裁判官としても、これに代わる基礎的計画案がなければ共同謀議の根本が崩れる。この上奏文に替えて飛びついたのが広田内閣成立初期(昭和11年8月12日)に決定した『国策の基準』であった。
 【国策の基準】
1、国家経綸の基本は大義名分に即して、内、国礎を鞏固にし、外、国運の発展を遂げ、帝国が名実共に東亜の安定勢力となりて、東洋の平和を確保し、世界人類の安寧福祉に貢献して、茲に肇国の理想を顕現するにあり。帝国内外の情勢に鑑み、当に帝国として確立すべき根本国策は外交、国防相俟って東亜大陸における、帝国の地歩を確保すると共に、南方海洋に発展するに在りて、規準大綱は左に拠る。
(1)東亜に於ける列強の覇道政策を排除し、真個共存共栄主義によりて、互いに慶福をわかたんするは、即ち皇道精神の具現にして我対外発展政策上常に一貫せしむべき指導精神なり。
(2)国家の安泰を期し、その発展を擁護し以て名実共に東亜の安定勢力たるべき帝国の地位を確保するに要する国防軍備を充実する。
(3)満州国の健全なる発達と、日満国防の安固を期し、北方蘇国の脅威を除去すると共に、米英に備え日満支三国の緊密なる提携を具現して、我が国際的発展を策するを以て大陸に対する政策の基調とす。而して之が遂行に方りては列国との友好関係に留意す。
(4)南方海洋、特に外南方方面に対し我民族的、経済的発展を策し、努めて他国に対する刺激を避けつつ漸進的、和平的手段により我勢力の進出を計り以て満州国の完成と相俟って国力の充実強化を期す。  (以下略)

 この国策は当時は公にされていない。これを検察眼により猜視すれば、これこそ日本の不法侵略の意図を固めたものである。この決定の時の首脳者が広田であるとすれば、広田は侵略の主唱者であるとの検察官、裁判官の心証を生じたのは無理からぬところである、と清瀬。昭和15年7月の「基本国策要綱」も「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」も、広田の「国策の基準」に従い、これを発展せしめたものに外ならない。広田有罪の認定理由にも主としてこれを挙げた。なおこの上に、広田が外務大臣をやっていた1937年(昭和12)と1938年に、日本軍の南京に於ける残虐行為に関する報告を受け取った。弁護人の証拠によれば、これらの報告は信用され、この問題を陸軍に照会したし、陸軍省から残虐を注視させるという保証を受け取った。この保証が与えられた後も、残虐行為は一カ月もつづいた。この時残虐行為をやめさせるため、直ちに措置を講ずることを閣議で主張しなったことも広田の責任として挙げられている。だが、これだけでは死刑にならなかっただろうと清瀬。

 さていよいよ、清瀬一郎の冒頭陳述が巡ってきた。これは被告に対する弁護のみならず、東京裁判史観に対する日本人としての反論でもある。この清瀬の陳述が世にそれほど取り上げられていないことも不思議な現象だ。ここでは、清瀬の陳述に耳を傾けたい。
 「裁判長閣下並びに裁判官各位  起訴状記載の公訴事実並びに諸証拠に対し、被告より防禦方法を提出する。裁判所は数か月の間、周到なる注意をもって検察側の主張を聴取した。被告に、この訴訟の歴史的重要性にふさわしい態度をもって、その主張を陳述させることは非常にありがたい。ご判断をうくべき争点の限局して、迅速に訴訟行為を進行させようと考えている。ただ、事柄は重大かつ新奇な意義を含んでおり、万一自ら定めた標準を超え、後裁定の法則に外れる場合があってもご寛恕あらんことを要請いたします」と言って、陳述は始まった。起訴事実は55の訴因に分かれているが、その多くは同一の起訴事実を他の角度から見て別個の訴因として表現している、また訴因中のあるものは被告の全部に関係し、他のものは一部に関係している。被告ら及び弁護人らは共通事項について共通の証拠を挙げることに協定した。その結果、 第一部 一般問題、  第二部 満州及び満州国に関する事項、  第三部 中華民国に関する事項、  第四部 ソビエト連邦に関する事項、  第五部 太平洋戦争に関する事項。  これらの各事項に関する証拠提出を終わった後、各被告人はその立場で個人的に関係ある事実を立証する。従ってこの段階を便宜上、第六部 個人ケーセスまたは個人弁護」と称します。

 第一部 一般問題 主なものを表示してこれに立証方針を説明する、として、1、1928年以降の軍事措置は犯罪に非ず、 2、機関を構えた個人に責任なし、 3、準備措置は他国のそれを眼中において作成される、 4、日本人の懐いた三希望(独立主権の確保・人種差別廃止・外交の要議)、 5、中国の自存と発展、 6、独伊との理念願望の相違、 7、八紘一宇、 8、東亜新秩序または大東亜共栄圏、 9、皇道、 10、ドイツ人の人種的優越感、 11、共同謀議、 12、組閣の慣行(共同謀議の余地なし) 13、大政翼賛会はナチに非ず、 14、陸海軍大臣の現役将官制、 15、世界征服、東亜征服の共同謀議なし、 16、両事変以来一貫せる計画なし、 17、公立学校(軍国主義教育に非ず)、 18、日本は本来、自由貿易主義、 19、私有財産制の擁護と国体の護持、 20、1930年以後の数年の直接行動(国内革新運動)、 21、1937年以後の国防計画、 22、自衛権存立するや否やの判断、 23、統帥と国防、 24、連合軍が使った戦法は犯罪というべからず、 25、侵略とは何ぞ、 26、戦争と殺人、 27、官職にあった者の責任、 28、太平洋戦争中の事件とドイツの行為、などを陳述した。ただし、数字は筆者が付け、見出しは清瀬が著書発行時に追加したものを利用して、詳細説明を省略した。以上で凡そ清瀬が何を取りあげたか推測できると思うが、「日本国が1928年以来取ってきた防衛措置、陸海軍の準備的措置が、侵略の性質を帯びたりや否やということが、重大な問題となっているが、各国の準備的措置は必ずや、常に他の国の行動を踏まえて作成される。この事実を念頭に置かず、準備的措置の不正の目的があったか否かを判定することは出来ない」「日本の対内、対外政策の本質を理解して頂くには、独立主権の確保・人種的差別の廃止・わが国外交の原理の三つがあり、これは1853年日本が外国と交際していらい、全国民に普遍的に懐かれていた国民的、永続的かつ確固たる熱望である」「日本の朝野は隣邦中国の自存と発展に格別の同情を寄せてきた」「1900年代の初めころから、わが国は多数の中国人留学生を招いた。蒋介石主席もその中の一人、1911年、辛亥の中国革命以来、わが国朝野は孫文先生の志業に非常に好意を寄せてきた。わが参謀本部並びに軍令部では年次作戦計画というものを作っていたが、ただ中国に対しては全面的な仮定的作戦計画さえも立てたことがない」などを具体的に立証した。

 以上は冒頭陳述の第一部の概要のみであるが、この冒頭陳述の世評を清瀬はその著書で紹介している。当時、ニューヨーク・タイムズは痛烈な批判をした。「清瀬弁護人は、日本は軍事的攻勢の包囲環の犠牲者に過ぎないと論じたが、もし一切の日本の行動が『自衛』であったとしたら、それは盗賊の犠牲者に対する『自衛』に他ならない。かって日本の戦争指導者どもがその犯罪弁護に言い古した、古臭い神話や、宣伝が、東京の戦争裁判で口にされているが、これらのことは、ナチス党の戦犯者たちでさえ、あえてしなかった思い上がりである」と。APの記者は清瀬が次のように弁解したと報道している。「外国人がそう思う(ニューヨーク・タイムス電)のは当然で、日本の態度を外国人に分かってもらうことは、なかなか困難である。私は冒頭陳述の中で、日本精神の正しさを裁判長や全世界の人々に納得してもらおうとした。それはわれわれの義務である」と。ところで、日本の新聞でも朝日や読売などは、その社説に於いて清瀬論旨を批判した、と清瀬。いつの時代も変わらないメディア等の態度である、負け組には蜘蛛の子を散らすように逃げて、強いもの(当時はGHQの意向)に従う。そんな中で、言論界の大長老、徳富蘇峰は日本言論界の冷淡な態度に憤慨され、わざわざ清瀬に書面を寄せた。「・・・今日に於いて、最も不愉快なるは本邦言論界の本裁判、特に清瀬先生に対する態度也。相手国側の言論界はともかくも、自国側の言論界は今少し日本人らしくあるべき筈のところ、まるで他邦人口調では到底、箸にも棒にもかからぬとはこの事と存じ候。先生はこの際日本国を代表して、世界の法廷に向かって明治維新の皇謨(こうぼ)以来の真面目を説明相為されることなれば、天下を挙げて之を非としても決して躊躇はないことと拝察され、この際、一層明快外切天下千秋の公論を開拓するため、御奮闘くださいますよう。・・・」 さらに口述書を法廷に提出して、自分を証人に呼んでくれと88歳の蘇峰が書いてあった。


東京裁判 ポツダム宣言の真意と清瀬弁護人から見た裁判の実情

2022年05月15日 | 歴史を尋ねる

 

 日本はポツダム宣言を受諾して降伏したのであるが、当時から今日(執筆当時の昭和42年)に至るまで、世間では無条件降伏という言葉が流行し、占領中にはすぐに「何しろ、われわれは無条件降伏をしたのだから致し方がない」といって、占領軍の横暴ぶりを見逃す言い草としていた、と清瀬一郎著「秘録 東京裁判」で、当時の日本人に対してコメントする。今現在も、われわれ日本人の中にこう思っている人が多いのではないか。しかし東京裁判の弁護人は、はじめから終りまで、ポツダム宣言受諾は無条件降伏ではないことを断言し、これを弁護の中核とした。この主張を貫かなければならぬ理由がある、と。当時、占領政策の一環として報道に関する検閲をGHQは実施していた。法廷記事許可の限度があり、自由な報道が規制されていたことが影響していたが、清瀬はいまこそその当時の思いを伝えたいと、記事にした。まずそこを汲み取って、東京裁判弁護団の主張に耳を傾けたい。
 あの裁判は、連合国側ではポツダム宣言第十条によるものであると主張している。第十条「われら(連合国)は、日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民として滅亡せしめんとする意図を有するものにないが、われらの俘虜を虐待せる者を含む、いっさいの戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加えられるべし」  連合国はこの条項にもとづいて東京裁判を始めた。 第五条「われらの条件は、左のごとし。われらは右条件より離脱することなし。右に代わる条件は存在せず。われらは遅延を認めない」と掲げている。 ポツダム宣言第六条から第十三条に至る各条件は、連合国から出した条件であり、自らこれより離脱しないことを宣言している。そこで問題となるのは、第十条の戦争犯罪人という言葉の意味についてである。弁護側はポツダム宣言が発せられた昭和20年7月26日を基準として、その当時の戦争犯罪は何を意味したかを研究した。その頃の国際法学者で、宣戦布告をしたり、戦争行為をなすこと自体を戦争犯罪だといっているものは一人もいない。従って、同年7月の時点では東京裁判でいう平和に対する罪、人道に対する罪というのは戦争犯罪の範囲外であるから、このような起訴は当然却下さるべきものであるというのが、弁護団のとった方針の一つだった。この論理は、検事の起訴状朗読直後に裁判管轄に対する異議として申し立てられた。この申立に対して法廷は判断を下さなければ、手続きは進行出来ない道理となる。そこで法廷はいったん閉廷し、裁判官の会議を開いた。その結果、弁護側の異議を却下する。却下の理由は後にこれを説明する、と。強引にその場を切り抜けた。
 そうすると、遅くとも判決の時までには、この国際法上の問題が詳しく述べられるものと、弁護士側も被告たちも待っていたが、判決文にはそれと思われるところはなかった、と清瀬。ただ一箇所、われわれ裁判官はマッカーサーからこの裁判条例で裁判することを命じられ、これを引受けてこの裁判をするのであるから、条例自身の無効なることを判決することは出来ない、と。弁護団の主張は、裁判条例を否認するものではない。ただ戦争犯罪という言葉の解釈を論じているので、ポツダム宣言が発せられた時点の、戦争犯罪人という言葉の意味を明らかにすべしというのであった。

 しかし、あの当時は日本の新聞その他が、日本は無条件降伏をしたのだと宣伝し、前段のような議論は世間の耳に入らなかった。時が経って、はじめて各方面からこの問題が取り上げられるようになった。占領中、マッカーサーの陣営内にあった、ウイリアム・シーボルトはその著書(野村賢三訳『日本占領外交の回想』)で、「当時としては、国際法に照らして犯罪ではなかったような行為のために、勝者が敗者を裁判するというような理論には、私は賛成できなかった」と語っている、と。

 ではポツダム宣言の真意は何なのか。清瀬は掘り下げる。1943年(昭和18)11月27日に発せられたカイロ宣言では、その末項に「この戦争では日本の無条件降伏をもたらす必要な重大、かつ長期の行動を続行すべし」とある。ルーズベルトは死ぬまでそう考えていたに相違ない。ところがルーズベルトが亡くなり大統領はトルーマンに代わった。この頃には、アメリカでも日本がソビエトを通じて和平斡旋に着手したことを知っていた。戦後になって分かったことであるが、1945年7月2日、スチムソン陸軍長官がトルーマン大統領に「対日計画案」と「付属宣言書」を提出した。対日計画案は、日本本土作戦計画が着々準備されていること、アメリカ軍が日本本土に上陸し強行占領を始めるのは、日本よりの最後の抵抗があるであろうことを述べ、これには米側も重大な犠牲を払わなければならぬが、この際実質的に日本軍の無条件降伏を確保する方法はないであろうか、また日本側も最後まで戦うの愚をさとり、実質的には無条件に等しいことでも、これを受諾するだけの理性的な判断力と弾力性を持っているものと信じる、と説明。そして結論としては米・英・華及び、もしその時までにソ連邦も交戦国になったならばソ連邦も加え、四国代表から慎重に時をはかり、日本の降伏と本土占領の受入れを日本に呼びかけよう、そしてその呼びかける場合の宣言案を添付している。この宣言案が後のポツダム宣言になった。ただ、この宣言案では、十三条に日本が立憲君主制を維持することが出来る旨の規定があったが、バーンズ国務長官がポツダムに持って行き、原稿をチャーチル首相に渡す前に削除した。
 以上の如く、本来ポツダム宣言というものは日本に降伏の条件を示したものであるが、実質的に無条件降伏と等しい様に見えるように起草されたものであるから、元来これを無条件降伏そのものと見るには無理がある。けれども、スチムソンもバーンズも、対内的立場があって、その頃は国務省内の官吏にも、陸海軍軍人にも、日本に無条件降伏を迫ったという事でなければ誰も承知する筈がない、それゆえ、あの通りの曖昧な文章になった。そして十三条は単に日本軍隊に無条件降伏という事を入れており、あたかも日本国が無条件降伏を強いられたかの如く見せかけている、と清瀬は解説する。
 さらに清瀬は、アメリカ国務省が発表した「1945年7月26日の宣言と国務省の政策の比較検討」という文書を紹介している。この比較検討の結果、ポツダム宣言は必然的に従来の国務省の政策を変更せざるを得ないこととなり、とくに無条件降伏の解釈と適用に関する従来の政策に修正を余儀なくさせるものであるとし、進んで従来の政策とポツダム宣言の記載を対照して記載している。その重要な点を適示すれば、「この宣言は日本国および日本国政府に対し降伏条件を提示した文書であって、受諾されれば国際法の一般規範により国際協定をなすものであろう。国際法は国際協定中の不明確な条項はその条項を受諾した国に有利に解釈されている。条件を提示した国は、その意図を明確にする義務を負う。国務省の政策は、これまで無条件降伏とは何らの契約的要素も存しない一方的な降伏のことだと考えていた。」「この宣言は、無条件降伏は全日本軍隊にだけ適用されるものと解している。国務省の政策は、無条件降伏が日本国に適用されると解し、これらのものはみな連合国がその政策を実施するために適当と考える、いっさいの行為に黙従しなければならないと解している。」
 清瀬は言う。われわれ弁護団は、当時、またその直前、米国内でのいかなる経緯で、ポツダム宣言が発せられたのかの歴史を知ることが出来なかった。今となってみれば、スチムソン覚書で、ポツダム宣言は真に無条件降伏ではなかったことがはっきりした、と。
 昭和21年5月13日、清瀬は当裁判所の管轄(平和に対する罪、人道に対する罪の裁判権限)に関する動議を説明、キーナン検事、コミンズカー検事の反駁、米人弁護人の敷延陳述などがあり、弁護側に理由ありと思われたが、前述の如く裁判長は将来宣明で切り抜けた。昭和23年11月4日、インド・豪・仏・蘭代表の裁判官を除く多数派判決で、この点に言及。「ニュルンベルクで開かれた国際軍事裁判所は、裁判所条例は戦勝国の側で権力を恣意的に行使したものでなく、その判定の当時(1946年10月1日)に存在していた国際法を表示したものである。問題はパリ不戦条約の法的効果は何であったか、かくてニュルンベルクでは不戦条約に反する行為は犯罪を構成するという主張を引用し、東京裁判所はニュルンベルク裁判所の以上の意見とその意見に到達するまでの推論に完全に同意する」と。この裁判所の説明は不十分、と清瀬。ドイツは本当の意味での無条件降伏をした。日本はポツダム宣言中の諸条件を条件として降伏した。ニュルンベルク判決では判定当時(1946年10月)に存在した国際法をもって裁判したというが、東京ではポツダム宣言受諾時の当時の国際法上の戦争犯罪を基準にせよと主張した。7人組多数派判決は提出した動議却下の理由とならない。インドのパール判事はその異議を当然受理されなければならないとした。ウェッブ裁判長は平和に対する罪は事後法だから、これだけでは死刑は適当でないという意見を後日述べた。朝日新聞記者団編集「東京裁判」下巻にこんな個別意見を述べている。
 その後、1950年12月、朝鮮戦争の最中、国際連合の国際法委員会はニュルンベルク原則の法式化に対する賛否を各国に質問した。質問を受けた加盟60か国中、回答をなした国はわずかに七か国。翌1951年12月、事務総長より同様各国に質問したところ、回答した国は十五か国。ニュルンベルク原則(東京裁判原則)を法典化しようとする計画は挫折してしまった。
 先に引用したシーボルトは東京裁判の方式や裁判の合法性自体を疑問とし、マッカーサー自身も米国上院の委員会で「東京裁判は失敗であった」と証言したといわれる。

 東京裁判の不当性について、清瀬はいろいろ語っているが、この長い裁判で事実問題で弁護側の証明の成功したのは、八紘一宇が侵略思想でないということと、タイ国はわが国の同盟国であって、タイ国の俘虜に対する虐待はある筈がないという、二つぐらいである、と。
 さらにドイツと日本では、終戦の事情が違う、と清瀬は言う。ドイツではヒトラーも死亡し国土は連合国に分割占領され、真に無条件降伏した。日本の場合、沖縄は失陥したが、本土の全部に対して敵は一兵も上陸していない。国内にも本土決戦論もあった。この時にポツダム宣言があったから、その意義を研究し、また照会したうえでこれを受諾した。ポツダム宣言の中には、俘虜を虐待した者を含む戦争犯罪者は裁判に付するとある。連合国はこの条件を守る義務がある。ニュルンベルクと同一の裁判を為すべきではないと繰り返し弁護側より抗争した。然るにウエッブ以下(パール判事を除く)の裁判官の耳には、この言葉が入らない。ニュルンベルクとほとんど同一文の憲章を、ニュルンベルクと同一に適用した。ウエッブは、刑の量定までもニュルンベルクの基準によるべきだと称した。それならこれは、復讐を目的とする裁判であったと定義せねばならぬ動かすことが出来ない証拠がある、と。
 1943年(昭和18)の1月26日、ルーズベルト大統領とチャーチル首相が、アフリカの西岸カサブランカで会合、戦争遂行および処理方法を談じ合った。発表した宣言がカサブランカ宣言。この時両国は枢軸国に対しては、無条件降伏を求めることを決めた。(ただし日本に対しては後で変更した) しかしドイツに対しては、これを実行した。無条件降伏という内に復讐裁判が含まれていた。その証拠にはその年の2月12日、リンカーン誕生日にルーズベルト大統領がした演説中、「われわれ連合国が、枢軸国、或いは枢軸派と交渉する唯一の条件は、カサブランカで宣言した条件、無条件降伏である。それは彼らの犯罪的な、野蛮な指導者に対しては処罰を加え、報復を加えることを意味する」 敵国指導者に報復を加えることを意味する、とルーズベルト大統領は演説した。これが証拠の第一号。
 1945年5月、ドイツ壊滅後、8月8日に連合国はロンドンに会合し、ドイツ処理の方法を議した。この会議に、ソ連を代表して参加したトライニン教授は「ヒトラー一味の刑事責任」という書を出版した。その中に、「ヒトラー一味の殺戮者どもが、その極悪非道の諸犯罪によって、世界のすべての公明誠実な人々、並びにあらゆる自由を愛する人々の胸の中に、最も熾烈な、そして抑えることのできない憎悪並びに仮借することのできない応報に対する渇望を湧き立たせた今日、この問題は極めて切実なものとなった」と。これはまたヒトラー一味に対する裁判が、復讐裁判であった事を立証する証拠の第二号。
 右のロンドン会議に、合衆国を代表して参加したのはジャクソン判事で、この会議の結果をトルーマン大統領に報告して、ヒトラー一味に対しては裁判を用いず、これに制裁を加えることも理屈として可能であるが、やはり公平のために裁判の形式を取ることにした、と。裁判の形式を取らず、降伏した旧敵国指導者を殺戮することは報復それ自身であり、仮にその代わりに裁判をしたところで、その裁判は報復裁判である。これはニュルンベルク裁判が報復裁判であった事を立証する証拠の第三号である。しかもウエッブらはニュルンベルク裁判と東京裁判とは、同一性質の裁判であるとの前提で審理し判決した。ルーズベルトとチャーチルがカサブランカで会った時代には、復讐を言い出すのも無理がないところ、国内の士気を鼓舞する必要もあったろう。しかしながら実際に勝利を得て、敵が条件付きまたは無条件で降伏した場合に、正常心にかえることが出来なかったのであろうか、と清瀬。パール判事は「復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないというようなやり方は、国際正義の観念とはおよそ縁遠い。こんな儀式化された復讐は瞬時の満足感を得るだけのものであって、究極的には後悔を伴うこと必然である」と言っている。日本人弁護団副団長 清瀬一郎は精一杯の批判をする。「東京裁判が復讐裁判だと定めた以上は、日本の元指導者に一等兵と同一待遇を与えると云ったり、証人として出た日本の元総理大臣に対し、君は大バカ者だと云ったり、ことさらに日本の旧大本営を法廷に選んだり、天皇誕生日を起訴状交付の日としたり、死刑の形式を絞首としたり、検察官さえも無罪だと信じ切っていた被告に七年の重労働を課したり、不条理千万な証拠拒否をしたりしたのは、よく目的にかなった行動であって、諸公はよく成績を上げたとして、連合国側より賞賛されべきものであろう」と。ふむ、今もって東京裁判を祭り上げ日本の識者もメディアも同様に、連合国側から賞賛されるだろう。

 清瀬もスパイスのきいた風刺が上手だ。歴史上ある事実があった場合、それをそのまま叙述せず、この筋書きにある意味を与え、想像的事実を付加して、歴史上の事実を美化したり、誇張する。多くの戯曲や歴史小説はこんな経路で成立する。ダンテの神曲も、吉川英治の歴史小説も、と。本件裁判における起訴状は訴因一より五十五に及び、きわめて長文のものであるが、例として訴因第一を掲げる。「訴因第一 全被告は他の諸多の人々と共に、1928年1月1日より、1945年9月2日に至るまでの期間に於いて、共通の計画、又は共同謀議の立案または実行に、指導者・教唆者・共犯者として参画したるものにして、前述の計画実行につき、本人自身より為されたると、他の人により為されたるとを問わず、一切の行為につき責任を有す」  訴因第二から第十七までの各訴因の冒頭には、いずれも冒頭に「1928年1月1日より、1945年9月2日に至るまでの期間に於いて云々」をかぶらせている。われわれ弁護団は本件裁判はポツダム宣言、ことにその第十条に基づいて設定されたものであり、ポツダム宣言なるものは太平洋戦争を終わらせるための約束であるから、戦争犯罪というのも、太平洋戦争におけるものに限ると信じていた。今(著述時点)もそのように思っている。然るに検察官はそれより十七年も遡って、1928年(昭和3)以来の戦争犯罪に及ぶとして起訴した。1928年ごろより被告ら全部が東亜制圧の大きな計画を夢み、共通の計画、準備、実施を遂げんとした東亜の天地を覆う雄大至極な一大戯曲の役者であったのだと起訴し、後には裁判所も一部制限したが、大体においてこの絵図を承認した。
 こんな拡大を可能にしたのは、英米法の共同謀議(コンスピラシー)の観念を類推したのに由来した。本件検察官は共同謀議が存する以上、いったんこれに参加した者は、その時以後、明確にこれより離脱しない限り、その者が知ると否とにかかわらず、他の者が成した全行為、並びに言辞につき責任を負う。ただし、それらの言動は、その者が加わりたる計画に範囲内たるべし、とコミンズカー検事の最終論告は言う。ゆえに共同謀議の観念は、わが国や、大陸法系の共同正犯、教唆犯、従犯等とは全く考え方を異にした法理であった。これを国際裁判における法の一部として採用するについて大いに議論がある。ハーバート・ロウ・スクールのセイヤー教授は、共同謀議の理論は変則的、地方的の理論であると指摘している。清瀬の論は、仮に共同謀議の理論を借用するとしても、日本の場合、本件の事案をこれに適用するのは前提を誤っている、と。日本では1928年、田中義一内閣の時代に膨張政策実行の団体であって、多くの人がこれに加入し、ついには太平洋戦争となったという事情ではない。田中義一内閣が倒れた後には反対党であった浜口内閣が成立した。この内閣がどうして田中のコンスピラシーに加入するものであろうか。その後にはまた反対党の犬養毅内閣が成立している。軍部の将軍も皆政府の任命でその地位に就き、本人の希望のみによるものではない。なんらかの不当な行動があったならば、それに応じた責任を取るべきであるが、訴因第一~十七には、全被告はと言って訴追している。不合理な言い分である事は一見して明瞭である。また戦争犯罪の始期を1928年1月1日にしたのはなぜか。この時の田中義一内閣は前年4月に成立し、5月には山東出兵を決定した。これは英仏側に立っての事である。6月には旧憲政会、政友本党が合併して民政党が成立し、衆議院に多数の議席を有するに至り、12月に政府不信任案を提出、政府は1月、不信任案上程直前、衆議院を解散した。1928年1月というのはこんな時代であり、後18年間も継続し、発展し、ついに太平洋戦争に至らしめるような団体が、公にも、私にも、存在していた証明は少しもない。一大ドラマの序曲は空想でつくられた。その原因は検事の懐いた田中上奏文の過信であった、と清瀬は断ずる。


東京裁判 項目別詳述 続 検察側立証

2022年05月05日 | 歴史を尋ねる

 冨士信夫著「私の見た 東京裁判」に依る。

 検察側立証
   (6) 南京虐殺事件に関する立証
 検察側立証を結果から見ると、最も力を入れたのは戦争法規違反、日本軍による俘虜及び一般人の殺害並びに、これらの者に対する残虐行為であったが、中でもその立証に力を入れたのは、いわゆる「南京虐殺事件」に関する立証であった、と冨士氏は言う。昭和12年12月13日、日本軍が南京を占領した直後から発生したと言われるこの事件は、当時日本国内では報道されず、多くの日本人がこの事件について初めて知ったのは、検察側立証の内容が新聞紙上に大々的に報道された時であった、と。検察側は立証のため、当時南京大学外科部長であった米人医師ロバート・ウィルソン、南京大学教授で安全地帯委員会委員のマイナー・ベイツ、同委員で紅卍協会副会長の許傅音、南京アメリカ協会牧師ジョン・マギー、中国陸軍軍医大尉梁廷芳、在上海無任所公使伊藤述史、他南京在住中国人三人を証人に立てると共に、米人及び中国人の宣誓口述書十七通と数通の文書を書証として提出した。衝撃的な証言をしたのはマギー牧師とベイツ氏だった。    マギー牧師:まず最初、日本軍の兵隊はあらゆる方法で中国人を殺した。その後、三十人ないし四十人の日本軍が一段となって、その殺戮行為を組織的にやっていた。間もなく日本軍による殺戮行為は至る所で行われた。南京市内の至る所に中国人の死骸がゴロゴロ横たわっている状態になった。日本兵に連行された中国人は機関銃や小銃で殺され、銃剣で刺殺去れた。ある婦人の話では、目の前で夫が縛り上げられ、池の中に放り込んだ。強姦が行われ、多数の婦人、子供が殺された。   ベイツ証人:近所からも女が連れ去られ強姦された。中には大学教授の奥さんもいた。私はその現場を見て、その兵隊から女を引き離した。残虐的な事件を申し述べることは差し控えるが、大学構内だけでも、九歳の小さい子供及び七十六歳のお婆さんが強姦されたことを付け加えます。占領後一か月して、国際委員会委員長ラーベ氏及びその同僚は、ドイツ官憲に対して、少なくとも二万人の強姦事件があった事を信じている、と報告した。   マギー証人に対する弁護側からの反対尋問に対し、目撃したのは一人の事件だけだった、と答えた。二日間にわたるマギー証人の証言はほとんど伝聞証言だった。また、証人として出廷させず、宣誓口述書の提出だけで立証を進めようとする遣り方に対し、ローガン弁護人は反対尋問できない事を理由に、証拠としての受理に異議を申し立てた。これに対して宣誓口述者に再尋問調書を送って証言を求めることだできる旨、裁判長は答え、今後650通に上る宣誓口述書のみの提出も予定されている事に鑑みて、弁護側は対応不可能と回答、結局裁判長とローガン弁護人との間にやり取りがあったが、結局提出される口述書は全部証拠として受理するという裁判所の裁定が下った。
 口述書の外に、南京安全地区委員会作成の「南京安全地区文書」の抜粋、南京地方裁判所付検察官作成した日本軍南京地方における犯罪に関する報告書、南京駐在アメリカ総領事及びドイツ大使がそれぞれ本国に打電した報告書が含まれていた。この内、中華民国三十五年(昭和21年)二月南京地方裁判所付検察官作成の犯罪調書には、被殺害者 三十四万人、焼失または破壊家屋 四千余戸、被姦及び姦後殺害された者 二、三十名、被逮捕後生死不明者 184名で、その他調査未完のものがある、と記述してある。しかしこの調書は、事件当時ではなく、東京裁判が行われるという昭和21年2月に作成されたものであることに注意。著者の冨士信夫氏は、日本軍人の軍記風紀はそこまで弛緩していたのだろうか、と疑問符を発している。
 (「日中間の大規模な戦争が開始された本当の発端は、1937年の8月13日に発生した第二次上海事変である。そしてこの戦闘は、正しく中国側から仕掛けたのである(この日、蒋介石は上海に駐屯していた5千人余りの日本海軍特別陸戦隊に対する総攻撃を命令した)」と林思雲氏は「日中戦争」(PHP研究所)で記している。中国の主戦派は以下の理由で対日勝利を確信していたと林氏は指摘する。①中国軍は人数において優る(中国陸軍は191個師団、加えて1,000万人の徴兵が可能だった。日本は17個師団、兵力は25万、徴兵は最大で200万人)。②日本は資源が貧弱で、中国の「寄生虫」にすぎないから、経済断交によって容易に日本を締め上げることが出来る。③列強諸国は中国側に立っている、と。1920年代後半から蒋介石はドイツから武器装備を調達したが、1933年、ヒトラーが政権を握ると、中独武器貿易は急増した。前述した上海の日中攻防に、ドイツは74名の軍事顧問を派遣し、中国軍をドイツ製武器で武装させ、ドイツ式の防衛陣地を築かせて、日本と戦った(記述済み)。そして日本軍の損害は、上陸から11月8日までの第二次上海事変で戦死9115名、負傷31257名に達した。続く南京への追撃戦で戦死傷者18,761(第9師団のみ)、南京戦で6,177、合計65,310の損害となった。日本軍は当初大変苦戦してやっとの思いで中国軍を圧した。その勢いで南京まで疾走した。日露戦争以来の大変な戦死傷者を出している。その勢いで南京戦は見る必要がある。)
    (7)『日独伊関係』に関する立証
 米国代表タヴェナー検察官の冒頭陳述:1936年(昭和11)11月25日に締結された日独防共協定、独ソ不可侵条約の締結により不調に終わった平沼内閣における日独伊軍事同盟交渉、昭和15年9月27日に締結された日独伊三国同盟条約、三国同盟条約下における三国の協力関係、大東亜戦争開戦後の単独不講和条約並びに軍事協定の締結等、日独の協力の実態を明らかにする立証を行う旨、述べた。  大島被告担当のカニンガム弁護人は、大島が大使として行った行為は国際法に認められている外交特権によって行われた行為で、大島に対する訴追は彼が外交官の地位に在った間の言動に関するもので、裁判所条例より国際法が優先されるから、外交官であった間の大島の言行を証拠として提出することに異議を申し立てた。これに対して裁判長は、弁護人の議論は本裁判の最終段階で議論されるべきものであり、現時点では弁護人の申し立ては検察側の証拠提出を妨げるものにはならない、として異議を退けた。
 この後、検察側訴追の立証は、キーナン首席検察官やコミンズ・カー検察官と違って、精緻で、日独伊間に締結された各種協定をはじめ、大島被告尋問調書、白鳥被告著書抜粋、木戸日記抜粋、日本政府各種公式文書、外交電報等の外に、ドイツ降伏後の連合軍が押収した多数のドイツ外務省保管文書、外交電報等を次々と順序立てて提出し、独伊との関係を次第に深めて行く日本の姿を浮き彫りにした。 ①防共協定と一緒に締結された秘密付属協定の内容と日本政府の態度、(外務省情報部長発表分の抜粋:この協定は何れの特定国をも目標にしたものではなく、単にコミンテルンの赤化工作を対象としたものであるが、真の意義を理解せず、種々の不当な非難を受けた) ②三国軍事同盟交渉:大島被告が駐独陸軍武官当時、リッペントロップ独外相から全世界を対象とする同盟条約として提案されたものを基にして、交渉は開始された。大島大使と白鳥大使は共に独案を賛成したが、日本政府は独提案を同意しなかった。平沼内閣は妥協案を提示したが、両大使は伝達を拒否。その後の交渉中に独ソ不可侵条約が締結され、防共協定秘密協定違反で独政府に抗議を訓令したが、大島大使はこれをすぐに実行せず。 ③三国同盟条約の締結:条約締結に消極的な米内内閣打倒のため畑陸相を辞任させ、その後任を推薦しない手段を陸軍が執り、米内内閣総辞職。後継近衛内閣の松岡外相は「日本は日満支を中心に東亜の新秩序建設を為さんとするが、ドイツの意向はどうか、また日米関係についてドイツは米国に対して何をしようとするのか、日本の為に何が出来るか」を確かめるため松岡・スターマー会談を開いて、話合いを急速に進め、御前会議を経て、9月27日条約に調印した(欧州戦争又は日支戦争に参入していない国によって攻撃された時は、三国はあらゆる政治的、経済的、軍事的方法により相互に援助すべきを約す)。  ④独ソ戦以降の日独の動き:1941年12月14日大島大使歓迎会の席上、ヒットラー総統が日本の真珠湾攻撃をドイツの電撃作戦と軌を一にしたものと称賛した事実を立証。
    (8)日ソ関係に関する立証
 ソ連代表ゴルンスキー検察官は、日本の侵略を理解する為として、遠く1904年の日露戦争から説き起こし、日ソ中立条約が存在した時期に対日宣戦布告を行った事について、日本が独ソ開戦後六十万人に及ぶ兵力をソ満国境に配備したとする点に触れ、ドイツに対する組織的援助と同盟国たる英米に対する開戦で、中立条約はその意義を失った。さらに終戦の調停を依頼した事実について、ソ連政府は日本の調停依頼を当なきものとして拒否、米英の要請に応じて日本に宣戦布告をした。日本の帝国主義者たちに戦争に敗れたことを悟らせるために壊滅的打撃を必要とした、と。弁護人は 検察官自らが証言をするような陳述をすることに反対すると共に、陳述内容が提出文書の紹介というより、結論的、議論的、煽情的である点に異議を申立てた。裁判長もこの点に関する弁護側の異議を認めて検察官に注意を与えると共に、文書提出にあたっては極力簡単にするよう善処を求めた。 
 ソ連の諜報能力の一端を示す証拠が提出された。駐ソ大使であった広田と参謀本部から派遣された原田少将の会談記録が提出され、日本は戦争をする覚悟で対ソ強硬策をtる必要がある、その主目的は共産主義の予防より極東シベリアの占領にある事を広田が述べ、帰国の上はこの旨を参謀総長に伝える内容だった。昭和16年度の満州における動員計画や対ソ作成委計画には、ソ連抑留中の瀬島龍三中佐、松村知勝少将を証人として出廷させ、ソ連抑留中の多数の関東軍将校の宣誓口述書を提出した。また欧州戦争勃発以後のソ連に対する日本の動きの立証つぃて、松岡・リッペントロップ会談記録、リッペントロップ・オット間往復電報、スメターニン駐日ソ連大使日記、東郷・大島間往復電報、大島・リッペントロップ会談記録の抜粋を提出した。
    (9)日英米関係に関する立証
 ヒギンス検察官の冒頭陳述:ヘーグ条約、国際連盟規約、パリ不戦条約、太平洋の島嶼に関する四国協定、日米間のワシントン条約、ベルサイユ条約、九カ国条約等を取りあげてその内容に触れ、次いで満州事変、支那事変の発生に伴って満州、支那で発生した諸事件、事変に関連する日本政府の声明や米英の執った処置等を述べた後、1941年秋から始まった日米交渉について開戦に至るまでの経過を述べ、「満州の急速なる征服、その資源開発、北支開拓への推進、及び全支那征服への試みは、これら被告側の研究し、計画された行動であった。委任統治領における海軍基地及び要塞の準備、仏印インドシナの占領、シャムの武力侵略は、彼らの戦争への里程標に他ならなかった。真珠湾、シンガポールは彼らの戦術上の目的に過ぎなかった。広大なる戦略は全支那、フィリピン諸島、オーストラリア、ニュージーランド、及びインドを要求したのである」と。       ①満州事変、支那事変関係  検察側は主として米国務省保管の「日米外交叢書」から日米外交電報、米国務長官以下政府要人の覚書、日本政府公式文書等を提出したが、その中に昭和11年8月7日広田内閣の首・陸・海・外・蔵の五相会議で決定された「国策の基準」があった。これは国策大綱に続いて広田内閣で決定されたが、最終論告で検察側は、これが日本の大東亜各地への侵略の基礎となった国策であると論じ、裁判所もその判決でこれを極めて重視していた。   ②1941年以後の日米交渉関係  日米開戦を見るに至った直後の原因である日米交渉がどのように開始され、いかなる経過を辿り、何故不調に終わったのか、各種書証、バランタイン証言(日米交渉に直接関与した米国国務相顧問)、日米両国の提案や出来事等を説明しているが、検察側提出書証の中には米国側が傍受・解読した日本側の外交電報が数通含まれていた。日米交渉に関する外務省や大使館の各種電報や電話の内容がことごとく米国側に傍受され、日本政府の意図、交渉要領等はすべて事前に承知していた。またバランタイン証人に対し日米合計9人の弁護人が前後五日間に亙って反対尋問を進めたが、裁判長は本証人を米国外交の機微な点まで証言し得る資格を持つ専門家とは認めず、証人自身の意見、結論等は一切無視すると見解を明らかにした。
 また日米弁護人中、ブレイクニー弁護士の反対尋問が最も精彩を放ち、有利と思える証言を引き出した、と冨士氏。主なものは、1,日本の駐兵問題として、中国での中国共産党の活発な活動があった。 2,日米交渉中、米国は武器貸与法によって中国を援助した。支那事変が宣戦布告なき戦争であると批判しながら、一方的に一方の国に武器援助した。 3、資産凍結は経済戦争を意味する。資産凍結により、日本が世界との通商が途絶した。 4、日本は重要物資を海外に依存していることを米国はよく承知していた。 5、1941年春から、米国は日本の外交電報を傍受し、日米交渉上考慮に入れていた。 6、近衛・ルーズベルト会談を、近衛首相はこれが最後の手段だといったこと、このことをグルー大使からハル長官に進言したことを承知している。 7、開戦前に、米英蘭支間に軍事的意見交換があった。 8、グルー大使が、対日禁輸は戦争になると進言した事は承知している。 9、11月20日の日本側提案を、米国としては日本の最後通告と認めた。従って、11月26日の米国側提案は、日本の最後通告に対する回答であった。  10、ハル長官は11月27日に「交渉は軍の手に移った」といったが、これは情勢の重大なことを言ったものである。日米外交交渉は終り、戦争の可能性をこの時点で認めたことになる。  11、11月26日の米国案を、日本が受諾する可能性は極めて少ないと考えた。  12、12月1日以降、ハル長官は戦争を予期していたのは事実である。 13、12月7日、日本の通告の最後の部分を大統領は同日午前十時に読んでおり、この通告が午後一時に手交されるようになっている事も、あらかじめ承知していた。
 弁護側は宣誓口述書を提出したグルー米大使、クレーギー英大使、スチムソン国務長官、ハル国務長官、バーンズ国務長官、サージャント英外務次官等の出廷を要求したが、検察側は高齢等を理由に応じず、裁判長もニュルンベルク裁判でも事例がなかったとして、弁護側の要求を却下した。 さらに検察側は冒頭陳述で、もしルーズベルト大統領の親電が東京到達後ただちに天皇陛下に届けられたら、歴史の途は変わっていただろうと述べているが、もしルーズベルト大統領が真に日米危機回避を願っていたらその時期は、日本の乙案に対してハル・ノートを提示した時期であり、しかもハル・ノートに代わって、大統領が自ら野村大使に親書を渡して本国への伝達を依頼し、同時にグルー大使にも打電して、日本政府に伝達するか、直接親書を奉呈するよう措置すべきであった、と冨士信夫氏は記述している。確かに冨士氏は急所を突いている。それをしなかったことは、米国も戦争已む無しと判断していたからであり、米国側からの史実に依れば、むしろ戦争を日本に起こさせようと目論んでいた。冨士氏の言うように大統領の一大謀略であった、と史実は語っているが、東京裁判の時期はそこまで解明されていなかった。    ③大東亜戦争の計画・準備・開始  検察側立証には、元合衆国艦隊司令長官ジェームス・リチャードソン海軍大将が証人として出廷し、米海軍省保管の公式文書を基にして、日本海軍の戦争計画・準備に関する陳述書を朗読した外、永野・嶋田両被告尋問調書、木戸日記抜粋等を提出した。リチャードソン大将の陳述書のコピーが回ってきてその内容を検討すると、種々に誤解や曲解があるので強力な反対尋問を用意していたが、反対尋問のスケジュールを誤解して、結局日本人弁護士が尋問に立たず、早々に反対尋問の終結を宣言してしまった。    ④大東亜戦争開戦以後    この項目で注目を引いたのは、開戦直後外務省の依頼で日本の法律学者が研究作成した、「戦争開始の際の敵対行為に関する研究報告」であった。この研究報告は、対米最後通告そのものは、国際法の立場から見た場合、開戦宣言に該当しないと結論づけている。対米通告の中には敵対行為を開始する旨の明確な文言はないが、対米最後通告中の最後の言葉は、あの時の日米情勢から見て、当然敵対行動を開始する意と解することが出来、従ってハーグ条約に規定する開戦宣言に相当するものであるとの解釈の下で、最後通告を米国政府に伝達するよう措置したものと冨士氏は考えている。ルーズベルト大統領はこの文面を見て、これは戦争だなとスタッフに漏らしたことが何よりの証拠だ。
      (10)戦争法規違反に関する立証
 検察側はこの立証に力を注いだ。すでに立証が終わった南京虐殺事件、マレー半島各地や泰湎鉄道での俘虜虐待事件を含め、日本内地、比島を含む大東亜各地で日本軍により行われたとする戦争法規違反に関する立証のため、出廷させた証人数は44人、提出書証1035通、公判日数41日に及び際立った。裁判所条例制定当時、国際法になかった平和に対する罪で全被告を一網打尽に捕まえはしたものの、最終的に極刑を課すには現行法にある戦争法規違反で被告を有罪にする以外に途なしと判断して、この点に立証の重点を置いたのだろう、と冨士氏は推測する。
  1、比島における戦争法規違反 : 対日憎悪をむき出しにした比島代表ロペス検察官による戦争法規違反の立証は、四日間に亙った。ロペス検察官の冒頭陳述開始前、カニンガム弁護人が、フィリピン共和国は法規条約加盟国でないから、証拠提出の資格がない。比島での戦争法規違反の犯罪については、山下・本間に関する米国設置の軍事裁判ですでに法律的解決をみており、再審理を行うべきでない、と主張したが、裁判長は、フィリピン共和国の独立は昭和21年7月であったとしても、本訴追は米国検察団のフィリピン・セクションで取り上げることが出来る、検察側は、山下・本間の執った行動に対する責任が本件被告たちにある、として訴追していると述べ、弁護人の異議を却下した。 冒頭陳述に続いて、パターンの死の行進並びに各地収容所での虐待、マニラで鴨緑江丸に乗船した米軍捕虜が門司港に到着した時わずか三分の一しか生き残っていなかった事件、マッカーサー並びに米国政府の抗議文などが提出された。    2、大東亜各地での戦争法規違反  :  豪州代表マンズフィールド検察官は日本軍により犯された残虐行為の証拠として、シンガポール、ビルマ、香港、台湾、海南島、アンダマン、ジャワ、ボルネオ、スマトラ、セレベス、アンポン、チモール、ニューギニア、ニューブリテン、ソロモン、その他太平洋諸島、仏印インドシナ、中華民国、海上輸送、日本、海上に分けて、証拠を提出した。
      (11)被告の個人責任に関する追加立証
 この立証には冒頭陳述がなく直ちに証拠の提出に入った。出廷証人は二人で、証人の一人はお馴染みになった田中隆吉被告、証言は荒木、土肥原、板垣、南、武藤、佐藤、東條の七被告に及んだ。コミンズ・カー検察官の尋問に答え、「本庄関東軍司令官が満州は独立させなければならないとの意見を政府に進言した際、内閣は独立に反対だったが、荒木陸相は満州問題解決のためにはこれ以外の方法はない、として満州独立に賛成だった。満州でのアヘンの取扱いは、陸軍特務機関が管掌し、土肥原は二度にわたって奉天特務機関長であった。その後阿片専売局が設置されたが、これに協力したのは板垣関東軍参謀長、東條関東参謀長であった。陸軍の政策関係の声明は軍務局が行い、渉外関係も同様だった。武藤は昭和14年4月以来軍務局長として中心的存在であった。当時は陸軍が日本国家の推進力であり、その陸軍の一切の施策はほとんど武藤局長の頭脳から出てきたものであった。そのほとんどは東條陸相に採用された。昭和16年11月29日の局長会議において武藤局長は、ハル・ノートを日本が受諾すれば、日本の長年の国是であった大東亜共栄圏確立は水泡に帰し、日本はじり貧になり滅亡する。これを防ぎ、大東亜共栄圏を確立するためには、日本は米英と戦わなければならないとの意見を発表した。12月8日、陸軍省職員全員が会同して東条陸相から訓示を受けた時、武藤はこれで東條陸相も英雄になったと語った。東條が陸相から首相になった経緯を佐藤軍務課長は説明したが、東條陸相を首相にしなければ陸軍の統制が取れないということを自分に話した」 
 反対尋問に立った岡本尚一弁護士は、陸軍省管制の機構上から、軍務局も他の部局同様陸軍大臣管轄下の一局に過ぎなかったのではないか、と問うと、田中は機構上は同意しつつ、仕事の内容については軍務局の仕事がもっとも重要であり、軍務局の同意なくして他の部局は仕事をすることが出来なかった、と現実論を強調。さらに信念をもって決断し行動する東條が武藤の言葉を鵜呑みにしたとは思えない、と問うと、田中は東條が政治・外交については経験が少なく、その感覚に富む武藤の言を重用したのだと思う、と。

 1月24日午後四時すぎ、コミンズ・カー検察官の日本陸軍編成部隊所在地一覧表を提出し朗読した時を以て、検察側立証は終わった。前年6月4日、キーナン首席検察官の冒頭陳述からの公判回数は151回、出廷証人94人、提出文書2550通であった。


東京裁判 項目別詳述 検察側立証

2022年04月18日 | 歴史を尋ねる

 冨士信夫著 「私の見た東京裁判」に依る。
 1,裁判所設立経緯
 ポツダム宣言第十項「吾等の俘虜を虐待せし者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる裁判を行うべし」。 ミズーリ号艦上での降伏文書調印からわずか9日後の9月11日、連合国総司令部は東條英機元首相以下39人の戦犯容疑者逮捕令を出した。12月26日米英ソ三国外相会議で、連合国軍最高司令官の権限が「日本降伏条項の履行、同国の占領および管理に関する一切の命令並びに補充的指令を発すべし」と、発表された。昭和21年1月19日、マッカーサー司令官は極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言書を発表するとともに、極東国際軍事裁判所条例を発布した。この条例が、東京裁判法廷が拠って立つ根本の法であった。
 2,起訴状
 4月29日天皇誕生日の日、国際検察団は裁判所に起訴状を提出すると共に巣鴨拘置所に拘禁中の被告に起訴状の写しを送り、正式に28人の被告が正式に起訴された。起訴状本文「本起訴状の言及せる期間に於いて日本の対内対外政策は犯罪的軍閥に依り支配せられ且つ指導せられたり。かかる政策は重大なる世界的紛争及び侵略戦争の原因たると共に平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益の大なる毀損の原因をなせり」との書き出しに始まる前文に続いて、三類五十五訴因に分かれている。
   第一類  平和に対する罪
     訴因1~5  戦争に関する共同謀議
     訴因6~17 戦争の計画・準備
     訴因18~26戦争の開始
     訴因27~36戦争の遂行
   第二類  殺人
     訴因37・38宣戦布告前の不法なる攻撃による殺人の共同謀議
     訴因39~43宣戦布告前の不法なる攻撃による殺害
     訴因44   不法なる攻撃による俘虜及び一般人の殺害に関する共同謀議
     訴因45~52不法なる攻撃による俘虜及び一般人の殺害
   第三類  通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
     訴因53   戦争法規慣例違反の計画・立案・実行に関する共同謀議
     訴因54   違反行為の命令・授権・許可による戦争法規違反
     訴因55   俘虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反
 これら25訴因については全被告に責任が、その他の訴因についてはそれぞれの訴因に名前を挙げられた被告に責任があるとされている。訴因がどのように書かれているかの説明として、訴因第一「全被告は他の諸多の人々と共に1928年(昭和3年)1月1日から1945年9月2日に至るまでの期間において共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして・・・」  さらに各訴因の要点は別表第一に列挙している。
  別表第一  訴因の要点
  第一類  平和に対する共同謀議
   A   戦争に関する共同謀議
    1、1928年1月1日~1945年9月2日の間に於ける大東亜全域に対する全面的な戦争に関する共同謀議
    2、満州事変に関する共同謀議
    3、支那事変に関する共同謀議
    4、大東亜戦争に関する共同謀議
    5、日独伊三国同盟による連合国に対する戦争に関する共同謀議  
   B  戦争の計画準備   (以下略)
 別表第二は被告と訴因との関係、別表第三は被告の担当弁護士の一覧で、日本人弁護士と米人弁護士を記載。

 3、裁判所の管轄権を巡る法律論争
  かねて弁護側が提出していた、裁判所の管轄権を巡る法律論争が展開された。
  (1)裁判所の権限:(清瀬弁護人)本裁判所はポツダム宣言第十項を根拠として設置、かつ同宣言は降伏文書により日本側は確認受諾したものであるから、連合国も同条項に拘束される。従って同条項に規定されている以外の戦争犯罪人裁判は行い得ない。裁判所条例には平和、人道に対する罪なるものが規定されているが、ポツダム宣言にそのようなものは含まれていない。従って、連合国にも最高司令官にも、かかる規定を設ける権限はない。当時戦争犯罪人の意義は、戦争法規違反の罪を犯した者をいうのであって、戦争の計画・準備・開始・遂行を戦争犯罪であるとする考えは、ポツダム宣言発出当時、文明国間には存在しなかった。 
  (2)起訴の範囲:(清瀬弁護人)ポツダム宣言は1945年7月26日現在、日本と連合国間に在った戦争を終結させるための国際法上の宣言である。従って戦争犯罪の範囲も、大東亜戦争中の犯罪だけを含むべきであって、過去すでに終了した戦争の犯罪人まで起訴できるものとは、断じて考えられない。しかるに満州事変を取り上げ、張鼔峰・ノモンハン事件を取り上げている。ポツダム宣言発出当時、日本とタイ国間には戦争はなく、タイ国は連合国でなかった。
  (キーナン検察官)被告側の動機は、ポツダム宣言に対する被告側の解釈により、裁判所の管轄範囲を制限するもので、日本の降伏はある条件に基づくものだと述べている。この主張に対して我々は、単に法律問題としては関心を持たないが、かかる誤った主張を全然反駁せずに終わることは、到底耐えられない。日本の降伏は無条件なもので、終戦時スイスを通じて連合国の送達された文書で、これを立証できる。ポツダム宣言および降伏文書には、最高司令官は降伏条件履行のため、適当と認める一切の行為を為し得る権能が定められており、裁判所条例は、降伏文書第五項に基づく最高司令官の命令の一つと解釈すべき。弁護側は、ポツダム宣言発出時考えられていた戦争犯罪は戦争法規違反だけであると主張しているが、1943年2月12日ルーズベルト大統領は「枢軸国首脳が彼らの犯罪の結果を免れようとする企画に対してカサブランカ宣言、すなわち無条件降伏あるのみ。我々は枢軸国の一般民衆に対して処罰を意図しないが、有罪な野蛮な指導者に対しては、処罰と報復を加えようとするものである」旨述べている。  それはポツダム宣言を読めば判然とする。侵略戦争を共謀し、計画し、開始し且つ遂行した犯罪人には厳重なる処罰が課せられ、それは一般犯罪人と同様である。
  (カー検察官)降伏の瞬間より天皇および日本国家の権能は最高司令官に従属すべきとの降伏文書と俘虜の虐待する者を含む一切の戦争犯罪人に対して厳重な裁判を行うとのポツダム宣言第十項の文言を結び付け、ポツダム宣言にいう戦争犯罪とは、通例の戦争犯罪以外の犯罪も含まれると解釈すべき。
  (清瀬弁護人)両検事は日本の降伏は無条件降伏といっているが、ポツダム宣言第五条には「吾等の条件は左の如し」といっている。条件付きの無条件降伏という事はない。同宣言第十三項に無条件降伏という言葉が出てくるが、これは日本政府が日本国軍隊の無条件降伏を宣言せよというのであって、日本政府、日本国民に無条件降伏を言ったものではない。戦犯という言葉の定義は、刑罰をもって処罰されるというのが世界共通の定義であるが、不戦条約の前文には、条約上の権利を失うとあるが、違反した国を処罰するという規定はない。両検察官とも文明擁護のために裁判をしなければならないというが、いわゆる文明の中には、条約の尊重、裁判の公正が含まれていないだろうか。トルーマン大統領は今年に一般教書で、世界の歴史が始まってから初めて戦争製造者を罰する裁判が行われつつある、と。
  (裁判長)トルーマン大統領が云ったという事は、本件に何ら関係がない。討論は本件をもって終結する。
 ふーむ、起訴の範囲、満州事変迄遡るという点については、検察側の弁論はない。そんなものなんだろう。
 この後裁判所書記が、「アメリカ合衆国その他の連合国対被告人全体に関する申立及び追加申立、平沼・松岡・重光・東郷・梅津の申立、板垣・木村・武藤・佐藤の裁判権に関する却下申立は」と文書を朗読したのを受けて裁判長は「すべて却下されました。その理由は将来に宣言致します。これにて休廷」と裁判所の裁定を発表し、この日の公判は終わった。弁護側として、管轄権に関する動議が認められるとは思っておらず、却下される事を百も承知で提出した。弁護側が提出した動機は「この裁判は国際法に準拠した司法裁判なのか、それとも、勝者が敗者を力を以て裁こうとする、司法の仮面をかぶった政治裁判なのか」を問い、後世のため、東京裁判の真の姿を明かにしようと意図したためだった。

 4、検察側の立証について
  (1)キーナン首席検察官の冒頭陳述 
 本訴追が正義の執行であり、本裁判が文明及び人道の立場から行われるべきものであることを強調、本論に入り、前半では侵略戦争が犯罪である理由をもっぱら国際法及び刑法の見地から詳論し法的根拠として①アメリカおよびドイツの成文法並びに慣習法、②文明国における法の一般原則、③諸判決例及び各国法律学者の学説等を引用している。本論の後半では侵略戦争のための共同謀議、殺人、戦争法規違反、人道に対する罪について、検察側が依拠しようとする事件・事柄の概要に触れ、立証には確信を持っている旨を述べたあと、「国家自体は条約を破るものではなく、また公然たる侵略戦争を行うものではないという事を強調する必要がある。責任はまさに人間という機関に在る。すなわち、平和を維持するためにかかる条約及び協定を実施するためなり、又は破壊したりするためなりの権力を何らかの方法によって自発的に求め、かつ獲得した個人に在る。彼らはその権力を自発的に掌握したのであるから、一般普通の正義の命ずるところに従って、彼等自身、彼等の行為に対し個人的に処罰を受けねばならない」と。最後に東京湾の降伏手続きの際の連合国最高司令官の声明に厳格に準拠し行動すると言って冒頭陳述を結んだ。
  (2)「日本の政治及び世論の戦争への編成替」に関する立証
 要旨は次の通り。①日本は明治19年以降次第に学校での軍事教練を強化し、青年を戦争への熱情に駆り立てるべく、対敵憎悪の感情を注入した。②組織的宣伝により、満州を日本の生命線とし、さらに大東亜共栄圏の使命を説き、米英を日本の大敵なりと宣伝した。③検閲の強化、宣伝・情報・映画の統制、言論の抑圧を行い、以て侵略戦争の方向に国民を駆り立てた。④軍部大臣現役武官制を陸軍が逆用する事により、政治に対する軍の圧力を強めた。⑤さらに軍部は、過激な国家主義、愛国団体と結託し、暗殺の陰謀を続けた。⑥政治的計画としてあらゆる政党を解散させ、軍国主義的、極端な国家主義的団体でもある大政翼賛会を創設し、以て非人道的、違法な戦争を連合国に仕向ける最終的準備を完了させた。                                                                          
 ①で注目すべき証言を行ったのは京都帝大法学部長瀧川幸辰証人:日本の学校制度における教育形式は、自由な思考、自由な思想を欠き、中国及び満州での日本の侵略的戦争行為に理由付けする事のみ没頭したもので、日本の将来の偉大と運命とは、侵略的戦争行為にある事を学生に教えるよう企てられ、学生の心に、他の民族国家に対する蔑視、憎悪を吹き込む効果を挙げて、学生達を、将来の侵略戦争に備えしめた、と。反対尋問にたった清瀬弁護士が、瀧川証人の帝大免職事情について質問したのち、将来の侵略戦争という言葉をどういう意味で使ったかと質問すると、「満州事変を含めて、それ以後のすべての戦争を自分は侵略戦争と考えている。当局が何と考えたかは、私の関知するところではない。事実は侵略戦争ということを示しているのだから、事実によって認めてもらうしかない」と日本人証人として初めて、満州事変、支那事変、大東亜戦争を日本の侵略戦争と断定する証言を行った。
 軍部の政治的圧迫、暗殺事件等の具体的立証としては、幣原喜重郎・犬養健・若槻禮次郎・宇垣一成の各氏を含む七人が証人として出廷、組閣大命が下った宇垣大将は、陸軍大臣の時縮軍を断行し、三月事件を中止させた事等の理由により、軍部大臣現役武官制を逆用して、陸軍大臣の推薦を拒絶、組閣の大命を拝辞せざるを得なかった、と口述書で証言した。また、罪状認否を最後に出廷できず不帰の客となった松岡被告からは、その抱懐する信念をその口から聞きえず、失ったことは、本法廷での審理の上からも、将来の大東亜戦争をめぐる歴史研究の上からも、誠に惜しまれると、筆者の冨士信夫氏はいう。たしかに、日独伊三国の共同謀議という訴追に対する松岡の弁論を聞きたかった日本人は多いだろう。
   (3)満州における軍事的侵略に関する立証
 ①1931年9月18日、柳條溝事件の発生は日本軍が軍事行動を開始するための一つの口実で、事件直後、朝鮮軍越境事件を含む日本軍の迅速な行動は、かねてよりの計画に基づくもの。②満州占領後溥儀を首領とする満州国を樹立したが、その実態は関東軍が操る傀儡政権に過ぎず、人事・行政の一切の権力を持っていた。③日本軍は侵略の手を熱河から内蒙古に進めたのみならず、万里の長城線より南方にまで兵力を進め、1933年塘沽停戦協定でその侵略を停止したが、日本はさらに将来の侵略を考慮して北支、内蒙に自治政権を樹立し、日本の軍事的・政治的・経済的統治権の拡張と強化に努めた、と冒頭陳述。
 四人の証人が出廷したが、最も異色だったのは元陸軍少将田中隆吉証人だった。大東亜戦争を迎えた昭和17年9月、東条陸軍大臣と戦争指導上の事で意見が衝突、健康上の理由もあって現役を去った。終戦後「敗因を衝くーー軍閥専横の実相」という本を著して陸軍部内の暗闘を暴露した異色の人物と見られていたが、昭和22年にはさらに「日本軍閥暗闘史」も著した。サケット検察官の巧みな尋問に答えて田中証言は、1928年(昭和3)6月4日の張作霖爆殺事件から始まり、関東軍参謀河本大作大佐以下十数名の計画の基づいて決行されたもの、1931年(昭和6)9月18日に発生した柳条溝事件(満州事変)は、満州侵略の口実を作ろうとする日本陸軍の陰謀であり、その主要関係者は陸軍中央部では参謀本部第一部長建川少将、橋本中佐、長大尉、民間では大川周明、関東軍にあっては板垣大佐、石原中佐であったとして、これらの人々の事変勃発前後の行動について詳細に証言した。さらに満州国独立問題に移り、長大尉が関東軍の独立を唱えて中央政府を威嚇し、それまで満州国の独立にさほど賛成でなかった中央政府を急速に独立賛成に傾かしめたと述べ、南関東軍司令官、東条関東軍参謀長の満州国に対する支配権行使の状況を証言、その後、冀東防共自治政府、冀察政務委員会、内蒙古自治委員会等、満州事変発生後に北支及び内蒙古に誕生した自治政権に対する土肥原、南、東条、梅津等関東軍首脳部にあった各被告の権力行使や活動状況の事にまで及んだ。アメリカの検察官はFBI出身者がいた。司法取引が行われたのだろうと冨士氏。
 事変発生当時奉天総領事館首席補佐として勤務していた森島守人が証言、田中義一内閣の対満積極政策、張作霖爆殺事件、昭和6年に入ってからの満州での緊張の高まり、柳条溝鉄道爆破発生時直後の事態収拾の話し合いでの板垣大佐、花谷少佐両参謀の威嚇的態度、その後の満州国の承認経緯について宣誓口述書で語った。さらに書証として事変勃発翌日の木戸日記、リットン報告書が朗読された。
    (4)満州国建国事情に関する立証
 検察側は、その建国は全く関東軍の策謀によるものであって、表面独立国を装わしめたが事実は関東軍が一切の指導権を持っていた傀儡政権に過ぎなかったと主張し、具体的に裏付ける最も強力な証拠として、溥儀前満州国皇帝を証人として喚問した。二日半にわたる溥儀証人証言の要点は「事件発生後、天津駐屯軍司令官香椎中将の強制により旅順に行き半年滞在中、関東軍司令官本庄大将は板垣参謀を派遣して、東三省で張学良が人民を圧迫し、日本の既得権益に対しても悪影響を及ぼしているので、この軍閥を追い払い、東三省人民の幸福のために新政権を作り、私が満州人なので、私に新政権の領袖になるよう伝達させた。私はこの申出を拒絶したが、板垣は不満のようであった。その後、彼は鄭孝胥及び萬縄械に向かって、私を新政権の首領に擁立しょうとする事はすでに関東軍が決定した政策でもあるから、もしこれを拒絶する時は、断固たる処置に出る旨語った。そのため両人及び羅振玉は、私に板垣の申し出に応じるよう勧めた。私は、真意に於いては拒絶したい意思を持っていたが、日本側の武力圧迫と、これら顧問たちの勧告により、やむを得ずこれに屈服した。・・・・建国当初板垣は満州国の完全な独立と私の意志通りの施政が行われることを約束したのだが、事実は全くこれと違って、関東軍が一方的に押し付けたものであり、皇帝としての私は、何ら自由な手も口も持っていなかった。リットン卿との会見も、日本軍将校の監視下で行われ、命の危険があったので、種々の事情を告げられなかった。・・・」
 弁護側の反対尋問に対する溥儀の証言は、終始一貫、日本の強制下全く自由意思がない傀儡皇帝に過ぎなかったとの主張で貫かれ、あるいは質問の論点を避け、忘れた、記憶がないと逃げる答弁に終始。裁判所に信憑性の疑念を懐かせるところがあったが、昭和6年9月以降日本の高官に、自分が復辟を受諾する意思を認めた書簡を出したことはないかとの質問、証人が否定するや、証人の家庭教師遠山猛雄が南陸軍大臣の許に持参したもので、後に昭和9年4月3日、満州国皇帝特使として来日中の鄭孝胥満州国国務総理が、溥儀皇帝の真筆に間違いないとその左下方に奥書した宣統帝御璽が押してある手紙を証人に示し証言を求めた。溥儀はしばらく見詰めていたが突然立ち上がり、中国語で絶叫した。翻訳すると「判事各位、これは全く偽造であります」と。その親書なるものを翻訳すると「今次の満州事変に対する中華民国政府の措置は、当を失している。友邦日本と戦いを開き、尊き人命を害した。余は甚だこれを憫む。ここに皇室の家庭教師である遠山猛雄を派遣し、余に代りて陸軍大臣南大将を訪問し、余の意のある処を伝達せしめる。我が朝は人民の苦しみを忍びぬ故に、政権を漢民族に譲ったのである。その後二十年も経過したのであるが、中華民国の政治は、進めば進むほど紊乱するに至った。これは実に我が朝の考え及ばざるところである。・・・」 児島襄氏によると、昭和39年北京で発行された溥儀著「我的前半生」のなかで、満州国執政就任についてもそれが自発的意思に基づくものであった事、南陸相宛親書も自筆である事なども認めている。ふーむ、歴史の真実を判定するのは、なかなか、困難な作業が伴う。
 溥儀が法廷から姿を消した後、検察側は満州国建国に関する関東軍の策謀を立証するものとして、合計二十通の電報を提出した。これらの電報は昭和6年11,12月の間に天津、上海、奉天、牛荘、遼陽、北平の日本総領事館から外務省宛ての電報、及び陸軍大臣から関東軍司令官宛ての電報だったが、19通の外交電報はいずれも満州国独立に関連する関東軍の動きを報告する内容のもので、先の溥儀証言の一部を裏付けるようなものが多かった。①上海村井総領事より幣原外務大臣宛て:当地漢字新聞は日本側は東三省の独立を扇動し・・・目下極秘裏に種々の手段を用いて宣統帝を奉天に連れ出さんと画策中なるも、皇帝は依然拒絶せられつつある為日本側は脅迫手段に出で居る旨掲載せり。 ②天津桑島総領事より幣原外務大臣宛て:土肥原は館員に対し、満州の事態を現状まで漕ぎ着けたるは、一に出先の軍部の活動にして、今後に於ける収拾上是非共に帝の擁立を必要とする場合、現政府が之を阻止するが如き態度にいづるは奇怪千万にして、果たして然りとせば、或いは関東運は政府と離れて如何なる行動にいづるやも保ち難し。   先に触れた森島守人証言と併せ考える時、関東軍の圧力により不本意な行動をとらされた外務省関係者の間には、満州国の誕生は全く関東軍の策謀によるものであって、外務省も中央も強くこれに反対していたのであるから、今その真相が裁判によって明らかにされるのは当然、という考えがあったためこのような結果になったのであろうが、弁護側が国家弁護を根本方針として弁護を保持しながら弁護を進めることの難しさを、冨士信夫氏は嘆いている。
   (5)中華民国ぼ他の部分における軍事的侵略に関する立証
 冒頭陳述は、1932年1月29日に始まる第一次上海事変、1937年7月7日の盧溝橋事件を経て、1941年12月8日大東亜戦争当日の第三次上海侵攻、上海共同租界の接収及び満州以外の中国全土に及ぶ日本の軍事侵攻の実態を述べ、これらの軍事侵攻には全被告に責任がある事を強調した。同陳述中、今後提出する証拠の紹介より、検察側の意見、結論と見られるものが含まれていたため、この点について裁判長から厳しい指摘を受けた。この項の立証の主眼点は、昭和12年7月7日夜発生した盧溝橋事件であった。戦争拡大の立証として、当時の中国第二十九軍副軍長秦徳純上将と河北省宛平県知事王冷斎の両人を証人、当時北平駐在アメリカ大使館付陸軍武官補デビット・パレット大佐の宣誓口述書だった。 秦徳純証人の第一の口述書は事件発生前の1935年6月、北察哈爾で日本軍将校二名と下士官兵が中国軍によって一時抑留され、土肥原少将と秦徳純副軍長との間に、土肥原・秦徳純協定が締結されるに至った「北察哈爾事件」について述べたもの。 第二の口述書は盧溝橋事件に関するもので、事件発生直前の河北・察哈爾両省方面の政治情勢を述べるとともに、日本の侵略段階を、分化離間・経済独占・武力脅迫に分けて陳述し、当夜の事件発生の状況を次のように述べている。日本特務機関長松井の電話は、「陸軍一中隊が今しがた盧溝橋付近で夜間演習中、駐屯する中国部隊から射撃を受け、演習部隊は呼名点呼の結果、一名行方不明なので入城して検査すると言っているが、どうすればいいか」とのこと、徳潤は折り返し「日本軍隊が勝手にわが国の領土内で演習するということは、国際法に違反したことである。事前に通知もなく、許可も与えていないので、わが方は何ら責任を負うことはない。もし事実兵隊が失踪しているならば、地方警察と一緒に代わって捜索してやれ」と外交委員会を通じて伝達した。その後の日本側とのやり取り、両軍の戦闘開始の模様から、7月28日の日支全面交戦に至るまでの経過も述べ、その全部の責任は日本側に在るとし、当時の華北駐屯軍司令官香月清司陸軍中将以下数名の名前を挙げた。
 この秦徳純証人に対し弁護側は8人の弁護士が立って反対尋問を行ったが、秦証人の証言は、自分に不利になると論点を避け、不必要に長い陳述を行い、あくまで全部の責任は日本側に在ると答弁する。ブルックス弁護人は、中国側の排日・悔日行為、中国共産党の活動が日支関係を悪化させた大きな原因であって、この事が満州事変、支那事変発生の遠因であるとの反対尋問を進めようとしたが検察側から宣誓口述書の範囲外であると異議申し立てにより、ほとんど却下された。
 検察側提出の三十通の証拠書類の中で、その後の経過から見て、日支関係に決定的な影響をもたらす結果になってしまったと考えられる文書が、昭和13年1月16日近衛内閣が出した帝国政府声明「帝国政府は南京攻略後尚支那国民政府の反省に最後の機会を与える為今日に及べり、然るに国民政府は帝国の真意を解せずみだりに抗議を策し、内人民塗炭の苦しみを察せず外東亜全局の和平を顧みる所なし、よって帝国政府は爾後国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」 この声明はトラウトマン駐支ドイツ大使の仲介努力が実らなかった結果、日本政府が発した声明だったが、蒋介石政権に絶縁状を叩きつけた格好になり、その時の日本政府の意図のいかんにかかわらず、この日以後日本軍は、広大な支那大陸での日支紛争の泥沼の中にさらに巻き込まれていってしまった、と見ることが出来ると冨士信夫氏。                                                                                                                                               


東京裁判 3 (その概要、続)

2022年04月08日 | 歴史を尋ねる

 引き続き、A級戦犯の横顔を見ていく。   永野修身(海軍大将・軍令部総長:公判途中で病没) 日米開戦時の軍令部総長だった永野は、海軍の中の開戦論者の代表格で、真珠湾攻撃の決行を最終的に決断した当人であった。「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国かも知れぬ」「もはやディスカッションなすべき時に非ず。早くやって貰いたいものだ」「3年後にやるより今やる方がやりやすい」など。しかし勝算については永野は決して言質を与えなかった。自信がなかったのだ。かといって避戦の立場をとれば内乱が起きると考えていた。避戦派の旗頭であった井上成美海軍大将の「古来、敗戦で亡びた国はあっても内乱で亡びた国はない」という見方と正反対だった。     大川周明 (国家主義者:公判途中で免訴)  文学部哲学科でインド哲学を研究しているうちに、白人による植民政策の暴状を知り、アジア主義にめざめて次第に被圧迫民族解放の信念を抱くようになった。満鉄の東亜経済調査局で特許植民会社制度研究で博士の学位を得た。自ら抱く日本主義を推進するため北一輝、満川亀太郎らと猶存社を結成、国家改造をめざした。昭和維新をめざした5・15事件では、海軍将校たちに資金やピストルを渡して幇助罪に問われ、禁固刑が確定した。その後は政界新指導者層のブレーンの一人として影響力を発揮し、戦時中は汎アジア主義を鼓吹する著述活動をした。東京裁判では精神病院に送られ免訴となった。    大島浩(陸軍中将・駐独大使)経歴の過半を駐在武官として過ごした。最初が駐独、駐オーストリアの武官を経て、野砲連隊長に着いた後、駐独武官として渡独、日米開戦の引き金となった日独防共協定、日独伊防共協定の締結を強力に推進した。昭和13年予備役編入とともに駐独大使に出世した大島は、日独伊三国軍事同盟の締結を主張、その最中独ソ不可侵条約が締結され、この年、大使を更迭された。帰国後松岡外相の進める日独伊三国同盟の必要性を声高に主張、締結後の15年12月、再び駐独大使となって、敗戦後の昭和20年12月までその職にあった。    岡敬純(海軍中将・軍務局長:終身禁固刑)昭和15年10月から軍務局長の要職に就き、19年7月に海軍次官になるまで3年10カ月間もその職にあった。支那事変・太平洋戦争のほぼ全期間にわたって海軍軍政を担当、陸軍省の武藤章中将と同じ立場だった。陸軍に引きずられないようにと、国防政策を担当する軍務局第2課をつくったが、開戦推進派の石川大佐を据え、第3次近衛内閣の末期、和戦を決める時期に部内の反対を押し切って総理一任に海軍の態度を決定したことや、開戦後の陸海相対立する場面であやふやな態度をとり、この時期の嶋田繁太郎海相と共に部内からその弱気を痛撃された。    佐藤賢了(陸軍中将・軍務局長:終身禁固刑)内大臣だった木戸幸一は、検察の尋問に対して陸軍強硬派の中心は佐藤と武藤であると証言、最も若いA級戦犯容疑で逮捕された。議会で法案趣旨説明中、ヤジに対して黙れ発言をした人物で、当時は軍務課班長だった。そのあと、東条の下で軍務課長、軍務局長を歴任、東条軍政の中枢で戦争遂行の舵を取った。     重光葵(外相:禁錮7年)重光が特命全権駐華公使に抜擢された昭和7年、日中間でようやく第一次上海事変の停戦協定が調印に運びとなった。この調印式を前に公園で天長節祝賀会の壇上で、韓国の独立運動家が爆弾を投げつけ、多くの死傷者が出たが、重光は右足切断の重傷を負った。しかし重光はベッドで調印し、協定を調印させた。戦前戦後を通じて外相を4回努めている。最初が昭和18年の東条改造内閣で、当時に日本政府は汪兆銘の国民政府に、米英に対して宣戦布告をさせることと引き換えに、不平等条約の日華基本条約の撤廃を考えていた。東条はその推進のため重光を外相に据えた。それほど戦局は逼迫していた。その東条内閣がサイパン島陥落で瓦解し、小磯内閣に代わっても重光は留任した。降伏直後の東久邇宮内閣で、ミズーリ艦上で行われた降伏文書調印式に日本帝国政府代表として署名した。29年の第一次鳩山内閣で副総理兼外相として日ソ国交回復交渉を成功させ、国連にも加盟した。     嶋田繁太郎(海軍大将・海相:終身禁錮刑)嶋田の軍歴で、軍政に関わった経験がない。その上海軍大臣に就任する前の4年間は、艦隊や鎮守府の司令長官に出ていて中央にいなかった。大臣に就任したのは日米開戦直前の昭和16年10月だった。就任の打診があった時辞退したが、海軍元帥伏見宮の勧告もあり、断り切れなかった。戦後嶋田は述懐、「私は敗戦には責任を感じるが、開戦には責任を感じない」と。大臣になって初めて御前会議にことを知った。そして伏見宮から「すみやかに開戦せざれば戦機を逃す」という言葉を聞くと、3日後の海軍省幹部を呼んで「この際戦争の決意をなす」「海相一人が戦争に反対したため戦機を失しては申し訳ない」と、いともあっさりと日米開戦を伝えた。2週間前までなにも知らなかった人が、先輩の米内大将や同期の山本五十六連合艦隊司令長官など海軍首脳たちが身を張って主張してきた日米避戦論を無視する形で、陸軍の主張する戦争を決意した。以後嶋田は東条の副官などと揶揄されるほど、東条首相への協力を惜しまなかった。
  白鳥敏夫(駐伊大使:終身禁錮刑 服役中に病没)外務省の長老・石井菊次郎の甥にあたり、英語は省内きっての使い手であった。その白鳥は早くから軍部や大川周明などと関係を持ち、対米英強硬外交の主唱者であった。外務省の情報部長だった満州事変当時、白鳥は内閣書記官長だった森恪や陸軍の鈴木貞一中佐などと結び、満州事変に対する国際連盟の非難に対抗するため強硬外交の宣伝役をつとめた。そして軍部とタイアップして、連盟脱退への世論誘導に奔走した。以来、アジアモンロー主義を提唱して型破りを謳われたが、結局スウェーデン公使に追われた。しかしここでも大島浩と組んで日独防共協定成立に走り回り、昭和13年イタリア大使に起用されると、大島と組んで日独伊3国軍事同盟の締結交渉を強力に推進し、本国政府に圧力をかけ続けた。     鈴木貞一(陸軍中将・企画院総裁:終身禁錮刑)満州事変後の軍務局課員時代、白鳥敏夫などと連携して国際連盟脱退論を主張、軍の推進役となった。昭和16年4月予備役となった鈴木は、近衛内閣の企画院総裁として入閣、以来、東条内閣でも留任、18年10月まで総裁をつとめた。この時代、国防国家体制の確立と戦力増強計画の中心となった。鈴木が太平洋戦争で果たした最大の役割は、開戦直前の御前会議で、日本の経済力と軍事力の数量的分析を報告した。そこで鈴木は、石油の輸入を止められ以上3年後には供給不能となり、産業も衰退し、軍事行動もとれなくなり、中国はもとより満州、朝鮮も失うことになる、だから開戦して、南方資源地帯の占領の必要性を説明した。     東郷茂徳(外相:禁錮20年)東郷は外交官試験に5回挑戦してやっと合格している。31歳になっていた。この粘り強さが東郷の特徴で、外交官としてはエリート・コースを歩いた。駐ソ大使時代、モロトフ外相と折衝して日ソ漁業交渉、ノモンハン事件停戦交渉を成立させ、また日ソ不可侵条約、通商条約、日ソ中立条約締結交渉を進めた。16年10月、東条内閣の誕生で外相に就任したが、日米開戦を阻止することは出来なかった。17年9月、大東亜哨省設置に反対して東条首相と激論、外相を単独辞職した。その東郷に、鈴木貫太郎より外相就任以来が来て、入閣。戦争継続を主張する軍部大臣たちを向こうに回して、鈴木首相に協力して聖断に持ち込んだ。しかし、和平の仲介を最後までソ連頼りにしていたなど、外交官としてのキレと読みは鈍くなっていた。     東条英機(陸軍大将・陸相・元首相:絞首刑)昭和16年10月、首相に就任するや憲兵隊の中枢を関東憲兵隊時代の部下で固め、反東条勢力の弾圧に駆使した。満州の東条は憲兵司令官として腕を振るい、関東軍参謀長、陸軍次官に就任、中央に帰った。昭和15年7月、第2次近衛内閣の陸相として初入閣、翌16年10月に近衛が内閣を投げ出す夜、首相兼陸相・内相に親任された。しかし昭和19年7月、それまで絶対に防衛できると公言していたサイパンが陥落し、本土防衛が危うくなるや内閣を総辞職した。     梅津美治郎(陸軍大将・参謀総長:終身禁錮刑 服役中に病没)陸軍士官学校・陸軍大学校をトップで卒業した梅津は、緻密・冷静な学究肌の軍人といわれ、政治の表面に出るのを極力避けていた。梅津が支那駐屯軍司令官のときに結んだのが「梅津・何応欽協定」(昭和10年6月)、ささいな事件を口実に河北省から国民党勢力を駆逐した。もう一つは、東京湾のミズーリ号艦上で行われた降伏文書調印式で、大本営を代表して署名した。当時参謀総長だった梅津は最初はこの仕事を拒否したが、昭和天皇がじきじきに説得し、已む無く引き受けた。

 以上28名のA級戦犯の横顔を見てきて気がつくことは、直接日米開戦に結び付く被告だけではなく、満州事変に関わった被告や三国同盟に関わった被告、日本で軍部台頭に関わった被告などが挙げられている。しかし絞首刑の判決を受けた被告には、日米開戦に直接関わった被告、南京事件に関わった被告、満州事変や華北分離工作などに関わった被告、さらには2・26事件後の軍部と妥協人事をした元首相などだった。日本の戦前の歴史をよく知らない海外の検察官がここまで深堀出来ているのは、検察官の精力的な事情聴取もあったと思われるが、木戸幸一や田中隆吉などへの尋問、そして木戸日記、原田日記、近衛公手記(「第二次乃至第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」が本来の題号)なども活用された。
 28戦犯に対する検察の訴因(起訴事実)を整理して置きたい。3類に分けられ、合計55項目からなっている。第一類 平和に対する罪(第1~36項) 第2類 殺人及び共同謀議の罪(第37~52項) 第3類 通例の戦争犯罪並びに人道に対する罪(第53~55項)。 第1類の1項 1928年(昭和3)1月1日から1945年(昭和20)9月2日までの期間五、日本が東南アジア、太平洋、インド洋地域を支配下におこうとした共同謀議、 2項 同上期間、満州(中国の遼寧、吉林、黒竜江、熱河)を支配するための共同謀議、 19項 1937年(昭和12)7月7日、中華民国に対する戦争開始(日中戦争)、 20項 1941年(昭和16)アメリカ合衆国に対する戦争開始(太平洋戦争)。   第2類の39項 1941年12月7日午前7時55分、ハワイ真珠湾のアメリカ合衆国の領土と艦船、航空機に対する攻撃を行い、キッド少将他約4000名の陸海軍将兵及び一般人に対する不法な殺害の罪、 45項 1937年12月12日以降、南京市を攻撃して数万の中華民国の一般人と武装解除された兵員を殺害した罪、 52項 1938年7~8月、ハーサン湖区域でソ連邦軍の若干名を殺害した罪。    第3類の53項 1941年12月7日から1945年9月2日までの間、アメリカ合衆国、全英連邦、フランス共和国、オランダ王国、フィリピン国、中華民国、ポルトガル共和国、ソビエト社会主義共和国連邦の軍隊と捕虜と一般人に対する戦争法規慣例違反。
 この訴因をよく読むと、第3類通例の戦争犯罪は太平洋戦争が開始されて以降に限定されているが、第1類平和の罪は1928年(田中上奏文が流布された時期か?)まで遡り、第2類共同謀議の罪は1931年9月18日奉天郊外の柳条湖事件にまで遡っている。こうしたツジツマ合わせの不合理性について清瀬弁護人が法廷で取り上げているので、後述したい。

 以降は、東京裁判を構成した人々、裁判官、検察官、弁護団について概観しておきたい。先ず、裁判官の陣容について:裁判官は、マッカーサー元帥によって制定公布された「極東国際軍事裁判所条例」に基づいて、降伏文書に署名した、米、英、ソ、中、豪、オランダ、仏、カナダ、ニュージーランドの9か国から出されることになった。しかし、条例が一部改正され、新たにインドとフィリピンの代表が加えられ11人となった。後に「被告全員無罪」の判決を下したのはインド代表のパル判事だった。ウエッブ裁判長の横顔:オーストラリア代表の弁護士。児島襄氏によれば「地方裁判所の古参判事といったところ」だという。彼は太平洋戦争終結直後、昭和17年日本軍がラバウル攻略に際して、約150名のオーストラリア人と現地住民を虐殺したといわれる事件の調査報告を出して知られることになった。天皇の訴追を強く求めていたオーストラリア政府は、そうした経歴を持つ反日色の強いウエッブを選んだ。実際、裁判は検察側に有利なように進められることが多く、検察に不利な発言や意見が弁護側から出されると、あからさまに遮ったり、理不尽に却下するなどといった場面がしばしば見られた。ただし、天皇を不起訴に決めているアメリカ政府を代表するキーナン首席検事とは、しばしば対立した。
 検察官の陣容:キーナン率いるアメリカの検事団が最も早く来日した。30人を超えるスタッフはFBI出身者が多く、彼らの導入したFBI方式のやり方で戦犯の選定作業が進んだ。スタッフは毎日スガモプリズンに足を運び、収容されている容疑者たちの聴取を精力的に行った。並行して米国務省は著名した9か国に代表検事と判事を派遣するよう要請、アメリカに次いで多くのスタッフを派遣してきたのはソ連で、残る他の国々は2~3名の法律家と数名の事務職員で構成された。首席検事ジョセフ・キーナンの横顔:検事時代、フランクリン・ルーズベルトを応援。ルーズベルト政権が誕生すると、司法長官特別補佐官に任命され、中央進出を果たす。ここでは暴力犯罪の防止策を講じ、ギャングの一層に努めた。こうしたギャング退治のボスだったせいか、キーナンは万事に高圧的で鬼検事と評され、他の連合国検事たちの評判はすこぶる悪かった。
 弁護団の陣容:弁護人には弁護士資格がない人でも良かった。しかし、被告人たちはかっての大日本帝国の政府や軍部の中枢にいた人たちだったため、弁護人選びは難航した。当初、被告とその家族は陸軍省や海軍省、弁護士会などの依頼、中には被告の知人、友人が自ら買って出る場合もあったが、東条英機被告の弁護人はなかなか決まらず、戦争末期、陸軍省の国際法顧問団に嘱託していた清瀬一郎弁護士に頼みこんだ。清瀬は引き受け、それまでの実績から弁護団の副団長も務めた。その清瀬は、法廷では裁判官を狼狽させるほどの論戦を展開する一方で、日本の戦争は自衛戦争だと主張して、関係者やマスコミから痛烈に批判された、と山崎遊氏(太平洋戦争研究会)は記述する。東京裁判の検事団は専門スタッフを500名ほど抱え、GHQの後ろ盾があったから、資料収集や証人尋問も自由自在に出来た。経費も潤沢だった。対して弁護団はスタッフは勿論日本人弁護士の大半は手弁当だった。資料集めや証人獲得もままならず、法廷では反日色を鮮明に打ち出す検察陣と判事団を向うに回して戦わなければならなかった。だが、日本人弁護士はもとより、アメリカ人弁護士も真剣に被告の弁護に取り組んだ。ただ、熱心組、被告が何を考えているかを盗もうとするスパイ組、そして中間組の3種類が居たといわれている。

 東京裁判の概要を語るにあたって、最後に本判決とは別に、11人の判事のうち5人が本判決に反対する少数意見を提出した。それを見ると、全員極刑の強硬意見もあれば、全員無罪の少数意見もある。日本が始めた中国や米英仏蘭に対する戦争ではあったが、日本軍部や政府の指導者に対する刑罰を科すことのむつかしさがあった。 ウエッブ裁判長(豪)の少数意見:被告全員を死刑にすることに反対した。その理由として、最大の責任を問われなければならない天皇が訴追されなかったことを挙げている。従って、本判決には論理的にも倫理的にも同意するが、量刑が著しく不当である、と。    レーリンク判事(蘭)の少数意見:・東京裁判は太平洋戦争に限定すべき。・共同謀議の認定方法に異議がある。・平和に対する罪では死刑を適用すべきでない。・通例の戦争犯罪では、岡敬純、佐藤賢了、嶋田繁太郎も死刑が相当である。・広田弘毅は通例の戦争犯罪では無罪であり、平和に対する罪では有罪だが、死刑にすべきでない。     ベルナール判事(仏)の少数意見:当裁判所は裁判所条例を自ら審査すべきだった。侵略戦争は不戦条約によるのではなく、自然法によって裁かれるべき。     ハラニーリャ判事(フィリピン)の少数意見:刑の宣告は寛大すぎ、これでは犯罪防止にも見せしめにもならないと強く非難。      パル判事(インド)の少数意見:(全員無罪の意見書を書いた) 一国の政策決定にかかわった指導者を共同謀議で裁こうとする考え方が非常識である。侵略戦争に関して明確な定義は確立されておらず、その国が自衛の為に武力を発動すると宣言すれば、当時にあっては自衛戦争だった。この観点から、不戦条約に関しては、取りまとめた一人である当時の米国務長官ケロッグが米議会で証言したことや、当時の田中義一首相兼外相との間に取り交わされた書簡などを証拠として取り上げた。そして、どの国にも自国以外での武力行使に関しても自衛の為だとすればこの条約に違反したことにならない、問題はその戦争を世界が是認するかどうかであって、それに関して世界の世論に対してその国が責任を負うべきものである、という論理で一貫させている。そう論じつつも、満州における日本の行動は、世界はこれを是認しないであろう、同時にその行動は犯罪として非難することは困難であろう、と。パル判決の終末は「時が熱狂と偏見を和らげた暁には、また理性が、虚偽から、その仮面をはぎ取った暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」の一句をもって結んでいる。


東京裁判  2  (その概要)

2022年03月29日 | 歴史を尋ねる

 再度、東京裁判に戻る。東京裁判はどのような経緯でスタートしたのか。その概要を太平洋戦争研究会編「東京裁判の203人」で見ておきたい。

 ・まずは、戦勝国はいかなる法律で日本の指導者を戦犯にしたのか。
 ダグラス・マッカーサー陸軍元帥が厚木に海軍飛行場に降り立ったのは、昭和20年8月30日だった。その前日8月29日、アメリカ政府はマッカーサーに暫定的な「日本降伏後初期の対日政策」を無線で指令した。その指令は「連合国の捕虜その他の国民を虐待したことにより告発された者を含めて、戦争犯罪人として最高司令官または適当な連合国機関によって告発された者は逮捕され、裁判され、もし有罪の判決があったときは処罰される」と。アメリカ政府が戦争犯罪人に対する逮捕・訴追命令の根拠にしたのは、日本が降伏する直前の8月8日に米英仏ソの4か国が締結した「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定(ロンドン協定と呼ばれる)」とポツダム宣言である。 ポツダム宣言第10項には「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」という一文があり、ロンドン協定には、捕虜虐待などの「通例の戦争犯罪」のほかに、侵略戦争を計画、実行した者をも犯罪者として裁ける「平和に対する罪」と、占領地の一般住民に対する虐待、虐殺などの非人道的行為をした者を裁く「人道に対する罪」の2つが、戦争犯罪の概念として新たに加えられている。さらに協定には、これらの戦犯を裁くための国際軍事裁判所条例(憲章)が付属している。ドイツで行われたニュルンベルク裁判も、東京の極東国際軍事裁判も、このロンドン協定に基づいて開設された。両裁判の被告たちは、いずれも国家の中枢にいて政治や軍事を動かしてきた人たちで、いずれも「通例の戦争犯罪」(交戦法違反など)に加えて、ロンドン協定にもられた「平和に対する罪」と「人道に対する罪」で訴追された。これらの容疑で逮捕・訴追された人たちは、その他の戦犯容疑者と区別するために「A級戦争犯罪人容疑者」と呼ばれた。その他の戦犯容疑で逮捕された人たちは「BC級戦争犯罪人容疑者」と呼ばれ、殺人や虐待などの残虐行為を命令する立場にいた各級指揮官などをB級、それらの犯罪の実行者をC級としていたともいう。しかし、現実にはB級とC級の区別は難しく、日本軍将兵を裁いた戦勝7か国(アメリカ、英、豪、オランダ、仏、中国、フィリピン)が主宰した49の軍事法廷では、「BC級戦争犯罪人」として一括処理された。ちなみに戦勝7カ国に起訴された日本軍将兵は合計5644名で、このうち死刑が934名、終身・有期刑が3413名、無罪1018名、その他279名という数字が残されている。

 4か国が締結したロンドン協定には、新たに「平和に対する罪」と「人道に対する罪」の2つが加えられたが、いわゆる事後法であるとして現在でもその違法性が論議されている罪状である。対象となる行為をしたときに、その行為が犯罪とされていなかった場合、事後につくった法律で処罰することは本来、禁じられているからだ。事後法とともに問題にされたのが、ロンドン協定で採択された「共同謀議罪」である。連合国は1943年10月、枢軸国の戦争指導者を処罰するためにロンドンに連合国戦争犯罪委員会を設置し、45年にロンドン協定を締結した。当初、イギリスは枢軸国の指導者を処罰するのに裁判方式をとることに強く反対した。その理由は、国際軍事裁判によって裁くことは法律問題が煩雑なうえに、時間がかかり、具体的犯罪行為を個々の立証することは困難であるため、即決処刑を主張した。しかし、ソ連は即決処刑には反対で、アメリカは裁判方式を強く主張した。ここでアメリカのスチムソン陸軍長官などから提案されたのが「共同謀議罪」の導入だった。「共同謀議」とは英米法特有の法概念で、アメリカのコンスピラシー(conspiracy=陰謀)などがその例だった。2人以上の人間が、何らかの犯罪の実行に合意し、そのうちの最低1人が何らかの行動を起こせば、計画に合意した全員が処罰の対象となる法律である。
 スチムソンら当時の連合国首脳は、この「共同謀議罪」を適用して、満州事変後の日本の軍事行動に関わった軍人や政治家らを「平和に対する罪」で十把一絡(じっぱひとからげ)にしようとしたのである。イギリスが懸念しているような個々の犯罪行為の立証は必ずしも必要なく、犯罪全体の計画に何らかの関与があれば、それで容疑は十分だという、きわめて大雑把な論理である。東京裁判では100名を超える「A級戦犯容疑者」が逮捕され、その中から28名がA級戦犯に指名され、国際軍事裁判の法廷に立たされた。アメリカのマサチューセッツ工科大学教授のジョン・ダワーはインタビューに答えて、「歴史事実の問題で言えば、判決が認定した1928年から日本の指導者が戦争の共同謀議をしていたという説を受け入れる歴史家はいません」と明快に答えている。

 ・連合国はいかにしてA級戦犯を選定したのか。
 30日、厚木に降り立ったマッカーサー元帥は、横浜にある宿舎のホテル・ニューグランドに直行、夕食をとると、CIC(対敵諜報部)部長ソープ准将に命令を出した。それは東条英機陸軍大将の逮捕と戦争犯罪人容疑者のリスト作成だった。この時の元帥の指示は、戦争犯罪人には捕虜虐待などの戦争法規違反者と侵略戦争を計画・実行した者たちの2種類があり、前者の逮捕・拘置はカーペンター大佐の法務部が担当し、東条など侵略戦争を指揮した者たちはソープ准将のCICが担当せよというものだった。翌31日、ソープ准将はCICスタッフに戦犯容疑者の人選と東条逮捕を命じた。しかし日本の政治や陸海軍組織の事情に疎いスタッフは、誰を戦犯容疑者にリストアップしたらいいか、東条がどこにいるのかも見当が付かなかった。9月2日、ミズーリ戦艦での降伏調印式、9月8日東京赤坂の米大使館での国旗掲揚指揮を終えるとマッカーサー元帥はソープ准将を呼んで、東条の逮捕とリストアップはどうなっているか尋ねた。マッカーサーは明らかに不満顔だった。ソープ准将は焦った。クラウス中佐が東条は東京に自宅におり、近々新聞記者と会見するらしいという情報を聞き込み、ソープは閃いた。東条が戦犯第一号なら、彼の内閣の大臣だった連中が戦犯に指名されてもおかしくない、と。翌9日、ソープは東条内閣の閣僚を中心に、ホセ・ラウレル(元フィリピン大統領)、ハインリッヒ・スターマー(駐日ドイツ大使)、オン・サン少将(ビルマ独立義勇軍司令官)など日本に協力した外国人を加えた戦犯容疑者のリスト(第一次)をマッカーサー司令官に提出した。マッカーサーは直ちに米国務省に報告し、翌10日、国務省から了解の返電を受け取った。
 内報を受けた日本政府(東久邇宮内閣)は、リストに現職の国務相緒方竹虎や元首相の広田弘毅の名を見つけ、「現職の重臣は避けてほしい」と司令部に申し入れ、了承を取り付けた。11日、マッカーサー司令部は東条英機元首相をはじめとする、43名の戦争犯罪容疑者の逮捕を命令した。この第一次戦犯容疑者には、日本人以外にフィリピン人3名、オーストラリア人2名、ドイツ人3名、オランダ人、ビルマ人、タイ人、アメリカ人各1名が含まれていた。こうして米軍CICによるA級戦犯容疑者の逮捕が開始された。以後、逮捕命令は近衛文麿や木戸幸一らが含めれる12月6日の逮捕命令発表まで4次にわたった。その逮捕者合計は100人を超え、人選はかなりいい加減なもので、なぜこの人が、と首を傾げたくなる人のかなりいた、と平塚柾緒氏は言う。一方で、自らの逮捕を予期したのか、杉山元元帥や橋田邦彦元文相、小泉親彦軍医中将のように自殺する者も後を絶たなかった。未遂に終わったが東条もその一人だった。

 昭和20年12月6日、ジョセフ・キーナンが19名の検事を含むアメリカ検察陣幹部38名を率いて来日した。8日、マッカーサーはキーナンを局長に任命、国際検察局を都心の明治ビルに設置した。キーナンたちアメリカ検事団はA級戦犯を選定するため、連日のように巣鴨拘置所に通い、東条大将をはじめとする軍人、政治家の尋問を精力的に開始した。12月28日、米国務省は日本の降伏文書に調印した英、仏、中、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ソ連の各国に裁判官と検察官を1名ずつ指名するよう要請した。
 キーナンは検察局のアメリカ人要員をAからHまでの8グループに分け、被告の選定作業を開始した。Aグループ:1930年~36年1月まで。 Bグループ:1936年2月~39年7月まで。  Cグループ:1939年8月~42年1月まで。 Dグループ:財閥からの被告予定者の選定。  Eグループ:超国家主義団体からの被告予定者の選定。  Fグループ:陸軍軍閥からの被告予定者の選定。  Gグループ:官僚からの被告予定者の選定。  Hグループ:日本政府の資料調査で、被告の選定作業には直接関与しない。 そして検察陣が逮捕者や証人を尋問する中で、有力な協力者が現れた。その一人は、11月24日に内大臣府が廃止されるまでその要職にあった、昭和天皇の第一の側近・木戸幸一だった。木戸は12月6日逮捕令が出され、16日に出頭、その木戸に対する尋問は、12月21日からキーナン首席検事をはじめ、国際検察局の有力スタッフによって進められた。この尋問の中で木戸は「日本陸軍の中で戦争を望んでいたのは誰だったか?」と質問に対して、まず陸軍省の軍務局長だった佐藤賢了中将と武藤章中将の名をあげ、続いて企画院総裁だった鈴木貞一陸軍中将について「彼は対米戦争には成算があると主張していた」と答えている。木戸は延べ30回を超す尋問を受け、満州事変から終戦にいたる間に起きた様々な事件や重要会議の決定についても供述した。そして、それらの事件や会議での関係者名を明かにし、検察陣の被告選定に協力していった。さらに彼が昭和5年元旦から出頭する前日までに書いた日記(のちに『木戸日記』として刊行された)も検察局に提出した。
 木戸が検察局の質問に答えて、重大な政治責任や戦争責任があると言明あるいは示唆した人物のうち、結果として、東京裁判の被告に選定されたのは15人にもなる。全被告28人の半数を超えた。その人物は、陸軍:南次郎、荒木貞夫、小磯国昭、板垣征四郎、橋本欣五郎、松井石根、鈴木貞一、東條英機、武藤章、佐藤賢了の10名。海軍:永野修身、嶋田繁太郎、岡敬純の3名。残る2名は元外相の松岡洋右と右翼の大川周明。

 検察側へのもう一人の協力者は田中隆吉少将で、、満州事変に連動して起こった上海事変の謀略を担当した功績をかわれて関東軍参謀となり、綏遠事件などの謀略を実行した後、陸軍省に呼ばれ少将に昇進した。昭和15年12月に、憲兵の元締めである兵務局長に就いた。ところが上司の登場英機首相と対立し、昭和17年9月、予備役にされた。田中は東京裁判が対象とする、満州事変から終戦にいたる期間に起きた様々な事件について、その内容と関係者を詳細に証言している。張作霖爆破事件の内幕を暴き、満州事変の発端となった柳条湖事件(満鉄線爆破)も関東軍の謀略であったことを暴き、さらには橋本欣五郎大佐らの桜会による3月事件、10月事件、そして2・26事件と、日本陸軍の暗黒部分を多岐にわたって暴き続けた。これら田中尋問の一次資料を読み込んでいる粟屋健太郎立教大学名誉教授は、A級戦犯被告28名の検察ファイルには、田中隆吉の人物評を利用して資料として添付されている者が17名に上ると記している。そして田中の証言は、被告選定や被告の立証準備の有力な資料として、検察側に活用された、という。田中は事前の協力だけでなく、実際の法廷にも検察側の証人としてたびたび出廷し、被告たちを名指しで証言した。こうして、当初CICが逮捕・拘留した戦犯容疑者以外からも、何人もの戦犯候補者が浮上し、被告の最終決定は次のプロセスで決められた。
 まず被告の絞り込み作業は、昭和21年3月に設立された国際検察局執行委員会(委員長はイギリス代表検事コミンズ・カー)が行い、これを各国検事で構成された参与検察官会議にかけて最終決定案とする。この決定案を、マッカーサー司令官が承認するという手順を踏んだ。この被告の選定作業の中で、新たな戦犯容疑者が洗い出され、3月末に、元軍令部総長永野修身海軍元帥、元海軍省軍務局長岡敬純海軍中将、元陸軍省軍務局長武藤章陸軍中将の三人に逮捕令が出された。4月8日までに東条元大将をはじめとする26名の被告が決定されたが、オーストラリア代表検事のマンスフィールドは昭和天皇の訴追を強硬に主張した。しかしアメリカ政府は占領政策を円滑に進めるためには天皇の存在は欠かせないと判断し、キーナン首席検事は、昭和天皇の訴追には断固反対、昭和天皇の免責が決定された。しかしその後も被告選びが二転三転し、まず、第7方面軍司令官だった板垣征四郎大将とビルマ方面軍司令官だった木村兵太郎大将が追加、さらにソ連検事団が到着、尋問と選定をやり直すと言い出し、4月17日、重光葵元外相、梅津美治郎元関東軍司令官、鮎川義介満州重工業総裁、藤原銀次郎王子製紙会長、富永恭次陸軍次官を追加するよう求めてきた。参与検察官会議の討論の結果、重光と梅津が被告に編入され、最終的に被告数は28名となった。以上でもわかるように、死刑囚を出すかもしれない戦犯選びも絶対的なものではなく、きわめて恣意的、曖昧な根拠による選定でもあった。 

 最後に、A級戦犯28被告の横顔を見ておきたい。  荒木貞夫(陸軍大将:終身禁固刑)旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれた。日本が国際連盟を脱退した昭和8年当時、脱退論をあおって政官界を引きずり、日本を孤立化へ追い込んだ一人、そして陸軍の政界進出は5・15事件を契機としているが、その推進者は陸相当時の荒木と真崎甚三郎参謀次長、林銑十郎教育総監の3人だった。青年将校がクーデターを計画した3月事件、10月事件は、この荒木・林・真崎の3大将を政権の中枢に据えようとしたものだった。   土肥原賢二(陸軍大将:絞首刑)大佐だった満州事変当時は奉天特務機関長としてもっぱら謀略に明け暮れ、中国人から土匪源の異名で恐れられた。関東軍が奉天を占領した時、奉天市長も務め、清朝の廃帝・溥儀を執政として満州国建国を企図した時、溥儀を天津から連れ出したこと、もう一つは華北分離工作を積極的に推進したことで、察哈爾(チャハル)事件をきっかけに土肥原・秦特純協定と呼ばれるものを強引に締結したこと。土肥原の華北分離工作とは、河北省内の冀東防共自治政府を成立させ、国民政府からの離脱宣言をさせて、満州国の隣にもう一つの小満州国を作ろうとした謀略のこと。土肥原は被告選定段階では有力な証拠もなく、当人の自供も得られなかったが、中国代表検事の強い要求で選ばれ、絞首刑判決を受けた。    橋本欣五郎(予備役大佐:終身禁固刑)トルコ駐在の時、トルコ共和国建国の父、アタチュルク初代大統領に傾倒し、昭和5年帰国した橋本は、アタチュルクの国民国家建設運動と橋本独特の天皇帰一主義を結合させた国家体制を提唱、若手将校たちを糾合して桜会を結成、3月事件、10月事件を計画したが、いずれも事前に情報が洩れて失敗、重謹慎処分を受ける。2・26事件後の粛軍人事で予備役に編入され、国家社会主義系右翼らと大日本青年党を結成して統領に収まった。    畑俊六(陸軍元帥:終身禁固刑)米内内閣の陸相だった昭和15年7月、単独で辞表を出し、米内内閣を倒閣に追い込んだ。それは米内光政海軍大将が新米英派で、陸軍の推進するドイツとの連携を拒んだからで、畑の行動は陸軍の総意ともいえた。畑は頭脳明晰、陸大最優秀の軍刀組で、順調に大将に昇進、阿部内閣の陸相にもなった。当時陸軍の若返り人事が叫ばれたが、陸軍統制派の横暴を抑制するため昭和天皇が統制派の穏健分子である畑を指名した。しかし結果的には、非戦派の米内内閣を瓦解させ、好戦派の過激分子に開戦の途を開く結果を招いた。また支那事変勃発に際しては武漢作戦時の中支那派遣軍司令官で、中国各地で引き起こした残虐行為を停止させる措置をとらなかった。    平沼騏一郎(元首相:終身禁固刑)東大法科卒業とともに司法省に入り、判事・検事畑を歩み、大逆事件の主任検事などを務め、検事総長に登り詰める。その後山本権兵衛内閣に司法大臣となり、政治の途へ。山本内閣総辞職後、神道イズムの鼓吹を目標とした国本社を創立、陸軍の真崎甚三郎、荒木貞夫、海軍の加藤寛治、末次信正といった軍部革新論者たちと結びついた。その後広田弘毅首相の推薦で、枢密院議長に。昭和14年1月、近衛内閣のあとを受けて首相に就任。大島浩駐独大使、白鳥敏夫駐伊たちの執拗な勧めもあって日独伊軍事同盟の締結交渉を行っていたが、同年8月、独ソ不可侵条約が締結されたことに仰天、退陣した。    広田弘毅(元首相:絞首刑)外交官の道を歩いてきた広田は昭和8年、斎藤実内閣の外相に抜擢された。2・26事件のあとの昭和11年3月、組閣の大命が下った。皇道派を追い落とした陸軍の統制派は広田の組閣に介入、陸軍推薦の5名を閣僚に押し込んだ。その組閣人事で軍部と妥協したことが日独防共協定の締結を生み、さらには軍部大臣現役武官制の復活も認めざるを得なかった。昭和12年1月末、広田内閣は瓦解したが、続く第一次近衛内閣で再び外相に就任、日独伊防共協定を成立させた。支那事変に突入するや、副総理格の広田は高圧的外交を推し進め、軍部とともに日本を戦争に引きずり込んだ。   星野直樹(満州国総務長官:終身禁固刑)大蔵省入りした星野は、その財政手腕を買われて建国直後の満州国政府に招かれ、財政部理事官を皮切りに総務司長となり、満州国の財政部門で活躍した。この満州時代、関東軍首脳と親密な関係を作り、星野の画策した産業5カ年計画、満州重工業会社の創立、日満統制経済の実現などは、これら軍部人脈の後押しによるものだった。関東軍参謀長の東条英機と知り合ったのもこのころで、満州国を実質的に支配していた人物を指す言葉「二キ三スケ」(東条英機、松岡洋右、鮎川義介、岸信介、星野直樹)の一角を占めていた。昭和15年第二次近衛内閣の無任所大臣で経済新体制を目指し、東条内閣が誕生すると内閣書記官長として中枢に入り、東条側近として絶大な発言力を保持した。     板垣征四郎(陸軍大将:絞首刑)板垣に対する戦犯容疑は、満州事変と満州建国に関する謀略問題だった。満州事変は日本軍が奉天郊外の満鉄線を爆破(柳条湖事件)し、それを中国軍の仕業として戦端を開いた。この一連の謀略を計画・指揮したのが、高級参謀だった板垣大佐と作戦主任参謀だった石原莞爾中佐だった。しかし当時その事実を知っていたのは陸軍内部でもほんの一部で、東京裁判で全容が明らかになった。事変直後少将に昇進した板垣は建国間もない満州国にもかかわりを深めた。中将に昇進した板垣は13年6月、第一次近衛内閣の陸相となり、続く平沼内閣でも陸相に留任して日独伊三国同盟の締結を強硬に主張した。第7方面軍司令官の板垣はシンガポールでイギリス軍に身柄を拘束されていた。しかし東京裁判の被告に選定され、急遽、東京に移送された。     賀屋興宣(蔵相:終身禁固刑)官僚の典型的なエリートコースを歩い賀屋は、陸海軍の予算編成を担当、自然に陸海軍の少壮幕僚たちと親しくなった。林銑十郎内閣で大蔵次官、第一次近衛内閣で大蔵大臣に抜擢、折しも盧溝橋事件によって支那事変が起こり、本格的な戦時予算の途を開いた。昭和16年10月に発足した東条内閣の蔵相に再び就任、今度は戦時予算編成に取り組んだ。主要閣僚だった賀屋は、戦時公債を乱発し、増税によって巨大な軍事費中心の予算を組んで東条内閣を支えた。その予算編成は中国の資源収奪や大東亜共栄圏の中心としてブロック経済を視野に入れた。    木村兵太郎(陸軍大将:絞首刑)絞首刑に処せられたA級戦犯7被告の中で、木村ほど一般国民になじみの薄い軍人はない。木村の経歴の中でもっとも華やかな舞台は、第2次、第3次近衛内閣と東条内閣における陸軍次官というポストだった。仕えた陸相は東条英機、当時陸軍きっての秀才と言われた武藤章が軍務局長で、次官には温厚な木村が選ばれたのだろう。しかし東京裁判では東条陸相の腹心と思われたか、予想もしない死刑判決を受けた。東条、武藤が絞首刑でバランスをとったとも思られる。    小磯国昭(陸軍大将・元首相:終身禁固刑)東条内閣が瓦解し、昭和19年7月に誕生したのが小磯内閣だった。予備役になって7年も経っており、戦局には疎かった。日本はこんなに負けているのかとびっくり、さらに予備役のまま組閣したから、規則で大本営の会議にも出席させて貰えなかった。しかし敗戦間際に首相になったばかりにA級戦犯に選ばれた。ただ満州事変後に関東軍参謀長を務め、資源を中国に求めることを前提に、総力戦体制に適合する国防経済の確立を提唱していた。朝鮮半島に通じる海底トンネルの建設さえ構想した。      木戸幸一(内大臣:終身禁固刑)明治の元勲・木戸孝允の曾孫。昭和8年、西園寺公望の推薦で宮内省内大臣秘書官長に任ぜられた。学習院、一高、京大を通じての親友である近衛文麿が内閣を率いることとなり、文相・厚相を兼務して、近衛内閣の副総理をもって任じていたが、近衛内閣退陣とともに野に下り、貴族院議員を務めていた。15年6月、内大臣に就任、後継首相候補を木戸は重臣会議を招集して意見を聞き、木戸が天皇に推薦するようになった。しかし日米開戦直前の東条内閣、戦争末期の小磯内閣、終戦処理の鈴木貫太郎内閣の登場も、木戸の影響力と無関係ではありえなかった。それだけに東京裁判での木戸の役割は、昭和天皇を戦犯の座に座らせないこと一点に絞られた。木戸日記を提出したのも、天皇の平和主義者としての側面を強調するためだった。そのため木戸の証言は軍人被告に対する容赦ない批判となり、軍人被告から罵声を浴びせられた。    松井石根(陸軍大将:絞首刑)松井は陸軍有数の中国通。10年8月に予備役に編入されたが、支那事変が起きると、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官を命ぜられ再び中国大陸に渡った。いわゆる「南京虐殺事件」はこの松井司令官の下で起きた。松井が絞首刑の判決が言い渡された後の昭和23年11月23日、花山信勝教誨師との面談で語っている。「私は日露戦争で従軍したが、当時の師団長と今の師団長と比較すると、問題にならんほど悪い。日露戦争の時、シナ人に対してもロシア人に対しても、俘虜の取扱はよくいっていた。今度はそうはいかなかった。武士道とか人道とかという点で、当時とは全く変わっていた。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面司令官だったが、折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった、と。ところが、このことの後で、みんなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った。従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変嬉しい。このまま往生したいと思っている」と。    松岡洋右(外相:公判途中で病没)満州事変、満州国建国という一連の行動が国際連盟で侵略行為とされたとき、日本の首席全権大使だった松岡は脱退演説をぶって退場、「ジュネーブの英雄」として軍部や右翼からもてはやされる存在となった。第二次近衛内閣で外相の椅子を手にした松岡は、日独伊3国軍事同盟を締結、ドイツに飛んでヒトラーに会い、モスクワでスターリンと日ソ中立条約を締結。松岡の考えでは3国同盟にソ連を加え、アメリカに対抗できる体制を整えたつもりだったが、独ソ開戦という思わぬ事態に直面、松岡構想は崩れた。    南次郎(陸軍大将;終身禁固刑)満州事変は南大将が第2次若槻内閣の陸相を努めている時起きた。南は事変の謀略計画そのものには参画していないが、直前にそれを知り、中止勧告の使者を送った。しかし、事変が起こってからは政府の不拡大方針に従わず、軍閥をバックに南一流の押しの一手で篠原外交を封じ、軍独走の端緒を開いた。     武藤章(陸軍中将:絞首刑) 武藤の軍務局長は昭和14年9月~17年4月の2年7カ月もつづいた。盧溝橋事件が起きた時、武藤は参謀本部作戦課長で、直属上司石原莞爾部長の不拡大方針に対して、武藤は拡大論を主張して激しく対立、日本軍を泥沼の戦場に追いやる端緒をつくった一人であった。その武藤が軍務局長として日米開戦の舵をとることに成った。局長就任後、先ず日独伊3国同盟、北部仏印進駐、日ソ中立条約締結、日米交渉開始、南部仏印進駐、日米交渉打ち切り、対米英宣戦と、じゅうような外交案件が相次いだ。この軍部狂奔時代の渦中にあって、海軍の岡敬純軍務局長と共にその最先端に立って軍政を推し進め、政党活動と議会政治を仮死状態に陥らせる役割を演じた。    


韓国に埋もれた「日本資産」の真実 『帰属財産研究』

2022年03月14日 | 歴史を尋ねる

 上記著書を借りることが出来たが、返還時期も早いので、急遽東京裁判の記載中に割り込んでその概要を知っておきたい。それは歴史のあり様について、著者李大根(イ・デグン、経済史学者 1939~ )が貴重な考え方を提示しているから。著者が帰属財産問題に目覚めたのは1982年だという。民間の研究所にいて、大学に移ってきたころだった。母校の先生の還暦記念論文集に寄稿を頼まれ、やっと思いついたテーマが帰属財産問題だった。日本人が解放後に残した財産を、新たに登場した米軍政がどのように扱ったかがその内容で、この帰属財産と著者の出会いはそこからだった。著者は1988年、日韓共同研究会の韓国側メンバーとして参加、帰属財産関連の論文を載せる。三度目のきっかけは1999年、三星経済研究所から解放後の韓国経済の研究を依頼され、そこに原稿を寄稿している。だが、帰属財産について最善を尽くせなかったことが悔やまれ、この莫大な財産である歴史的遺物を、地中の奥深く埋めたまま知らぬふりをしてはならない、という強い問題意識があったものの機会が訪れず、大学定年後70歳になってやっと決心を固めて、研究に着手した、という。4~5年かけて最終章迄原稿を書き上げ、分量は予想より多くなったが、自分が見てもまだまだ不十分である、この著書が懸け橋となって、後続の研究が行われることを期待している、と。

 著書の概要は、著者自身が説明している。研究領域を二つの分野、植民地時代、日本人によって帰属財産がどのように形成されたかという財産形成の領域と、解放後にそれがどのような措置を取られ、誰によってどのように管理・運営・処分されたかという管理の領域である。 財産形成の領域は、(1)国家が完全に責任を持つ公共財、つまり治山治水関連の砂防・植樹・森林緑化・灌漑・水利事業などと、教育・保健・衛生・芸術・体育・文化事業など、(2)公共的な性格が強く、政府がその設立・運営に深く関与する社会間接資本としての鉄道・道路・港湾・電信・電話など、(3)第一次、第二次、第三次産業全般にわたるほとんどの民間企業群。 管理の領域は、解放直後の米軍政による管理と、1948年に韓国政府に移管された後の管理に分けた。 しかし一次資料を読む込む過程で、それらすべて扱うのは到底力が及ばぬことが分かった。こうして、一部を切り捨てながら進めたので、全体像を描くという当初計画はかなわなかった。このように縮小して、本の構成を次の七章にまとまった、という。

 第一章 なぜ帰属財産なのか
    1、植民地遺産としての帰属財産
    2、いまになって問題として取り上げる理由
    3、研究が不十分な理由
    4、結語:研究の必要性
 第二章 日本資金の流入過程
    1、序論:資料・概念・用語の問題  初期併合以前の資金流入、工業化のための財源調達、典拠資料と資金
                      カテゴリー、概念上の留意事項
    2、資金の類型別流入額  国庫資金の流入、大蔵省預金部資金の流入、会社資本の流入、個人資本の流入
    3、流入資金の総合と評価  流入資金の形態別構成、流入資金の目的別構成、流入時期別特性、1940年代
                  前半における大規模な資本流入の性格、総合評価
 第三章 帰属財産の形成過程:社会間接資本建設
    1、鉄道  草創期の鉄道敷設計画、京釜鉄道株式会社の設立と朝鮮鉄道、朝鮮鉄道運営体制の変遷、鉄道の
          路線拡大と資金調達、解放当時の鉄道事情、おわりに:朝鮮鉄道が残したもの
    2、道路  近代社会の開幕と治道論の台頭、日政時代の道路建設、解放当時の道路事情
    3、港湾  序:港湾の前史、港湾の段階的改築過程、港湾の等級別状況、解放当時の港湾事情
   (補論)山林緑化事業  朝鮮後期における韓国山林の事情、総督府の山林政策と緑化事業、総督府の山林政策
               と人工造林、おわりに:解放当時の山林の姿
 第四章 帰属財産の形成過程:産業施設
    1、電気業  はじめにー韓国電気業の始まり、日政時代の電気業の発達、発電事業の展開過程、電源開発の
           波及効果、解放当時の電気事情
    2、鉱業  開港期の鉱業開発と外国人特許制度、総督府の鉱床調査と鉱業制度の整備、韓国鉱業の発展
          過程、総督府の朝鮮鉱業振興政策、解放当時の鉱業事情
    3、製造業  植民地工業化の性格、工業化の段階的展開過程、工業構造の変動と重化学工業化、解放当時の
           製造業の実体
 第五章 帰属財産の管理:米軍政時代
    1、解放時における日本人財産の状況  日本人財産の種別構成、企業体財産の実態、日本人財産に対する
                       資産価値評価
    2、米軍政の帰属財産接収過程  米軍政の登場と日本人財産の運命、帰属財産のカテゴリーと規模、帰属
                    事業体の運営の実態
    3、帰属事業体の管理および処分  米軍政の財産管理政策、帰属事業体の払下げおよび処分、帰属農地の
                     分配事業
    4、帰属財産の韓国政府移管  移管財産の実態、米軍政による帰属財産管理の決算
 第六章 帰属財産の管理:韓国政府時代
    1、韓米の最初の協定と帰属財産の引受  韓米協定の意義、韓国政府の帰属財産引受の過程、引受財産の
                        種別構成
    2、引受財産の実情と管理体制  引受財産の部門別構成、管財行政の原則と管理機構、事業体財産に対する
                    管理制度
    3、帰属財産の処理過程  帰属財産処理法の制定、民間払下げの原則と規準、払下げの過程と実績、不良
                 企業体の清算、帰属銀行株式の払下げ
    4、民間払下げ以降の運営状況  企業運営上の問題点、政府の企業運営改善措置、帰属財産民営化の意義
 第七章 解放後の韓国経済の展開と帰属財産
    1、植民地遺産としての帰属財産  植民地主義と植民地遺産、植民地遺産と韓国の経験
    2、1950年代の経済と帰属財産  解放後における韓国経済の三部門モデル、1950年代の対日貿易の
                      特性
    3、1960年代の韓日協定と帰属財産  1960年代における帰属財産の変貌、韓国経済の構造と特性

 目次を見ただけで、誠実に事実関係を洗い出そうとしている姿勢が窺われる。著者はソウル大学商学部卒業後、韓国産業銀行調査部、国際経済研究所を経て、成均館大学経済学部教授、ニューヨーク州立大学、京都大学、北京大学に留学。グローバル時代に適合した、広く世界を渡った人ならではの見地が見受けられる。では、本書に立ち入りたい。
 1945年8月の終戦とともに、朝鮮の日本人居住者は、軍人、総督府の職員から民間人に至るまで、直ちに日本に帰らなければならなくなった。9月に米軍が進駐すると、朝鮮総督府を閉鎖し、そこに米軍政庁が立ち入った。米軍政に与えられた最初の任務は、日本人居住者をなるべく早く本国に撤収させることであった。日本人はこれまで自分が住んでいた家屋や田畑、工場など、すべての財産を残したまま、身一つで朝鮮を去らねばならなかった。(この姿を見て、韓国人は戦勝国気分になったのかな?) 日本は朝鮮に対する植民地経営において驚くべき経済開発の成果をあげた、と著者は言う。(ブログ筆者は、朝鮮併合を植民地というこばに置き換えることに違和感を感じている。世界史で使われる植民地の定義は併合とは実態が違っている。NHKもいつしか朝鮮併合を植民地という言葉で表現するようになった。韓国歴史学者の言葉にすり寄ったと理解している。そこから日本併合の実態が、曲解させる要因になっている、と考えている。当時の日本の使用言語で十分ではないか。ただ、李大根氏は日本の植民地支配は一般の植民地支配と違うと、丁寧に説明している、が。)
 著者は言う。日本人が朝鮮に渡ってきて財産を形成し、資本を蓄積するようになったのは、1876年の江華島条約の締結により、日本に対する門戸が開放されたときからである。主要三港(釜山、元山、仁川)の門戸が開放され、日本資本はこの開港場を通じて朝鮮に流入し始めた。
 開港以前、韓国の道路は牛馬車の通行どころか、人一人通るのがやっとの狭い路地が大部分だった。曲がりくねっていて路線も一定ではないうえ、道路がところどころくぼんでいる。雪や雨が降ると道路が水たまりになって、通ることも出来ない。人工的に造られた道路というよりは、人々が往来し続けることにより自然に作られた道路がほとんどであった。1876年2月、日本に対して開港すると朝鮮朝廷は日本を視察するため修信使節団を派遣、その時日本の道路事情を驚きの目で記録している。また5年後の紳士遊覧団も同様な記録であった。その翌年1882年、日本を訪問した金玉均により至急の優先的解決課題として①衛生問題、②農業と養蚕、③道路改築を挙げ、とくに国を豊かにする産業を開発するには、まず治道が必要と主張した。1894年の甲午改革を機にようやく関連法制が作られたが、政府による道路改築計画は、財政および技術の問題より実行できなかった。1905年、乙巳条約が締結され、日本が統監府を設置すると、政府内に治道局を設置し、日本技師も派遣され、全国的に最も重要な四路線を選定し、近代的な道路改築事業を推進した。総延長256キロで、主要地域を結ぶ中心路線となった。1908年には第二期工事として七路線、総延長198キロに及んだ。統監府が設置されてから韓国併合の1911年までの実績は大小20路線、総延長840キロに達した。また総督府体制に移行すると、道路改築事業はいっそう積極的になり、道路の等級分け、道路管理の責任所在も明確にした。
 草創期の鉄道敷設はどうであったか。開港後、近代交通手段の寵児である鉄道敷設が課題に挙がった。朝鮮には自ら敷設できる技術がなく、鉄道敷設権を特許契約により他国に委託する方式によらざるを得ない。1882年、競合する多くの列強から日本と英国が先ず、朝鮮朝廷に要求した。しかし最初の敷設権(京仁線)は予想を覆して、1896年3月米国人モースという民間人に渡った。これは1894年8月締結された朝日暫定合同約款の規定を朝鮮が一方的に破ったとして、日本の強い抗議にあった。背景には日清戦争後の三国干渉が大きく作用したようだ。1896年、更にソウルー公州間、ソウルー義州間の鉄道敷設権がフランスの会社に渡った。当時の朝鮮の財政状態や技術水準から、到底自力で敷設することなどできなかった。フランスの見せかけの計画に引っかかっただけだった。その敷設権をロシアが自国に渡すよう要求した。これは日本に対する露骨な挑戦と見做された。
 1897年朝鮮最大規模の京釜線鉄道敷設権が日本にわたると日本では朝鮮鉄道事業に対する投資ブームが起こる。株式発行と共に朝日両国間のこの歴史的な事業を記念する意味で、朝鮮王室3500株、日本皇室1000株を優先株として引き受けるよう特別の配慮措置もとった。ただ鉄道経営上、他国に渡った京仁線、京義線などの敷設権も渡して貰わないと朝鮮鉄道事業の効率性、採算性にが保証できないと日本側が主張、幾多の紆余曲折の末、朝鮮政府の同意を得て交渉し、一元化に成功した。以降、日韓併合が行われるまでの11年間に、総延長1043㌔の鉄道路線が整備された。この大規模工事の資金はどうしたのか。曲折はあったが、大韓帝国期の鉄道建設は、日本政府からの直接財政支出か日本政府保証の社債などで調達された。また、併合後の総督府時代も大きく変わらなかった。1938年末時点で朝鮮総督府の特別会計上の国債発行額の83%が鉄道関連事業費だった。日露戦争が1905年に終了し、日本は統監府を設置して朝鮮の内政に深くかかわり、鉄道事業の運営体制も変化が起きた。日本国内の鉄道をはじめ、朝鮮鉄道・満州の東清鉄道などの運営を一つに結ぶ統合計画がすすめられた。鉄道事業の一元化計画は、すべての鉄道を日本政府(逓信省)が管轄する鉄道事業の国有・国営化を意味した。
 開港から植民地時代を経て、韓国の鉄道は外国資本と技術による他律的な開発方式に依存してきた。そして短期間に驚異的に発展した。戦後、政治的に独立した第三世界の新生開発途上国の中で、韓国ほど自国の領土に近代的な鉄道網が細かく構築されていたケースは見当たらない。代表的な近代的交通手段である鉄道の発達は、韓国の初期近代化過程において社会経済的変化をもたらすリーディング・センターとしての役割を十分果たしたといえる、と著者は言っている。

 李大根氏は補論として山林緑化事業を挙げている。社会間接資本の範疇に含めるのは性格上不都合だが、帰属財産の形成と関連し重要な意味を持つと考えるので、補論として収録した、という。非常に誠実な取り上げ方で、しかも極めて重要な事業だった。 19世紀後半、朝鮮王朝が門戸を開いた時の、国土面積の7割以上を占める韓国の山林はどうだったかというと、韓国の山野は山と呼べないほど荒廃した黄土色のはげ山だったという。当時外国人のカメラで撮られたソウル近郊の仁王山には松の木一本も見当たらなかった。朝鮮と満州の国境地帯で見られる原生林や江原道の一部の高山地帯にある深山幽谷を除くと、程度の差はあれ、山野のほとんどがはげ山だった、という。なぜか。当時の人々は、政府や公共機関を含め、山林に対する所有の概念がなかった。すべての土地は王のものという王土思想が山林にまで及んでいたのか、どんな山林であれ、自由に出入りでき、その中の木や草などの林産物を自由に採取できた。しかし、植樹や育林問題に関して、中央政府や地方官庁も、誰も関心を持っていなかった。その乱伐の原因を求めると、1、燃料用薪に対する需要の増大、一般民家までオンドルが普及すると炊事用だけだなく暖房用の薪の需要が急増した。 2、建築用木材として松の需要が高く、政府は禁松政策をとったが、松の乱伐を防ぐことが出来なかった。 3、耕作する田畑のない窮民たちの火田、17~18世紀、山地をやたらと焼き払って開墾する事態が急増した。
 日本は1905年、統監府を設置し、韓国政府の外交と財政の分野に顧問官制度を導入し、その他の教育や治安分野などにも日本の官吏を招聘して諮問を受ける方法で、国政全般にわたって一大改革を進めた。こうした改革措置の中で第一に施行しようとした分野が、これまで知られていなかったが、このはげ山を青くする山林緑化事業であった、と。韓国政府は統監府の要請を受け入れて森林法を制定、林籍調査に着手したが、森林法自体が韓国の山林の現実とかけ離れて全く当てはまらなかった。総督府はやむを得ず新たに森林例を制定し、山林緑化を最優先目標に据え、所有権を付与する方式を推進した。これまで土地調査事業に対する歴史的意義を強調するあまり、この林野調査事業について知らないばかりか、等閑視する傾向にあった。全国土の7割が林野であることを考えると、極めて重要な歴史的意義を持っていた。にもかかわらず、韓国の学会の一部では、総督府の林相・林野調査の目的は朝鮮山林の収奪であり、民有林を収奪して国有林にした、という主張まで出てきた。申告も未申告も最終的に調整されており、未申告の場合は直ちに国有林に転換されるという主張は、歴史的事実を大きく歪曲するものであった。
 初代総督寺内正毅が、赴任と同時に「治山・治水・治心」という独特の政策スローガンを掲げ、人工造林事業を一つの挙国的な国民運動レベルに昇華させる計画を立て、果敢に実践に移そうとした。総統府は併合翌年の1911年、4月3日を「植樹の日」と定め、国を挙げての国民造林運動推進を図った。政府は各学校や官庁を動員する方式で積極的に記念植樹を推奨した。結果的に、併合前の1907年から1942年までの35年間で82億本の植栽実績を上げた。植民地後期、1930年以降、戦時下の極めて困難な時期に、総督府は他の政策事業をほとんど中断させても山林緑化事業だけは強力に推進したことをどう理解すべきか。日本の朝鮮統治の根本理念がどこにあったかを如実に物語るものである、とわざわざ著者は記述している。
 日本から受け継いだ韓国の青い山野は、解放後、長くたたずかってのはげ山に戻った。解放後の政治的・社会的大混乱で、治山治水・山林緑化の関する行政システムが崩壊した。韓国の山林が再び本来の青さを取り戻したのは、1973年から始まる朴正熙政権の第一、二次山林緑化事業からだという。政府の第三次経済開発五か年計画の一環として、挙国的な山林緑化運動が成果を収めた。

 朝鮮の電気業と鉱業がどのような過程を経て発展の道を歩んだのか考察されているが、ここでは省略して、すべての産業の根幹と言える製造業がどのように発展したか、見ておきたい。日政時代の工業化問題に関する研究実績は、①韓国人が行った国内派による研究、②当事者格である日本人研究者の研究、③英語圏を中心とした第三国による研究の三つに分けられる。①については、植民地侵略・収奪論に基づき、日本による工業化それ自体を否定する極端な立場や工業化自体は認めるが、日本の資本と技術により日本のために行ったものであるから、韓国人としてそこに意味を付与する必要がないという立場など、植民地的工業化に対する否定的立場が韓国の学会の主流である。これらの見解は、韓国人の暮らしや福祉とは全く関係なく展開されたという共通の背景がある。実際に起きている現実には意図的に目をつぶり、日本が敷設した鉄道や道路を現実に韓国人が利用しているんを目にしながら、鉄道や道路が存在することすら認めようとしない。それがこれまでの韓国側研究者の基本的な立場である。 ②の日本側研究者は、一つは日本史的観点から、帝国主義の対外膨張史・侵略史または植民地朝鮮の工業化を扱う傾向と、もう一つは徹底して朝鮮史的観点から、工業化が植民地朝鮮の社会経済全般にどのような変化をもたらしたか、朝鮮の近代化ないし資本主義の発展にどのように寄与したのかという面で朝鮮の工業化問題を扱っている。結局、植民地工業化の過程を通じて朝鮮経済の発展、ひいては朝鮮の資本主義的な市場経済の成立と発展をもたらしたという工業化の肯定的意味を付与しようとしている。さらに、日本の資本と技術によって行われたことは厳然たる事実であるが、それが鉄道と道路の敷設や発電所の建設、そのほか水利事業、電信・電話事業など社会間接資本の開発とともに朝鮮社会が伝統社会から近代的な産業社会に移行する物質的土台を構築した。また精神的側面でも、無限の学習効果を通じて国民の意識構造を改革し、近代的な制度と法令が作られ、近代的な資本主義の市場経済制度を導入する契機になったと見ている。
 ここで大事なことは、日本は資本や技術、あるいはフレームワークを持ち込んだが、その実践は韓国人が行った事実も見落とせない。つまり国民の学習や意識の改革は韓国人がよいと思って実践した。そこの行為をもう少し強調する論説があってもいい。どうも植民地という言葉が邪魔して、与えられたものという意識が強すぎる。文化文明の受容は最初はそんなものではないか。韓国人はやはり同じ日本人のようになろうとしたのではないか。そのこと自体は否定されるものではない。その先に韓国人としてのアイデンティティが生まれるのではないか、ブログ筆者はそのように考える。
 ③は欧米人学者の研究。1960年代、韓国、台湾などのアジア新興工業国(NIEs)が高い経済成長を遂げたのは、歴史てき背景がある筈だとして、植民地時代の日本が行った工業化に着目した。その成功のルーツを植民地工業化に見出そうとした。特に朝鮮の場合、1930年代後半から1940年代初頭にかけて日本の産業資本が大規模に流入し、これによって重化学工業化が飛躍的に発展した。それが解放後の韓国の工業化過程に有用な歴史的経験として作用した。この主張の中核は、当時の総督府当局の強力な統制経済下での計画的、先導的な役割に注目している。1960年代以降、朴正熙時代の経済開発五か年計画を通じた政府の先導的な工業化戦略の成功は、植民地時代の日本による工業化にそのルーツを求めている。 以上の三つの認識方法は相互にかなりの偏差がある。特に韓国人研究者は、決して見逃してはならない深刻な認識上の誤謬を犯している、と李大根氏は指摘する。自分の目で直接見ることが出来る歴史的事実についても、意図的に見ようとしない研究者としての不誠実な姿勢である。自分が利用してきた国内の鉄道や新作路、または自分が通った小・中学校や大学の建物や運動場、日本人が作った制度や法令、そして数多くの科学技術や学術研究のための理論や概念・用語などの存在自体を否定するならば、それは客観的事実の否定という側面で、科学の領域から外れていることを意味する。植民地時代に韓国は驚くべき水準の工業化または重化学工業化を経験し、西洋的概念では産業革命の段階に至るほど経済構造が高度化したことを、意図的に否定することに他ならない、と。

 解放時における日本人財産の状況はどうであったか。上は総督府の建物から下は民間人の個人住宅まで、様々な財産があった。第一に、軍事施設を含む各種国公有の公共的性格に財産。公共財産は①朝鮮に駐屯していた軍用財産、②朝鮮総督府傘下の行政司法などの国公有財産、③鉄道、道路など各種事業体の財産。  第二に、①農耕地、牧場、鉱山、工場、銀行など各種民間企業所有の産業施設、②家屋、敷地など民間所有の個人財産、③学校、病院、図書館など公共的性格の非営利団体の財産、④自動車,自転車などの運搬用器具、⑤漁船、漁労道具、農畜産用器具などの各種生産手段、⑥田畑で栽培中の農作物、牧場で飼育中の動物、養殖中の魚介類、果実、家畜類、⑦一般商店の在庫、個人の家財道具、会社の動産類。  第三に、有形財産とは別に、各種無形の財産。株式、社債、有価証券、各種債権、特許権、商標権、著作権などの無形財産。
 1945年8月、朝鮮総督府は日本への撤収を控え、朝鮮を去る企業に対する実態調査を緊急に実施した。総督府は後日起こりうる戦争賠償に備えるため、調書を作成し日本に持ち帰ろうとしたが、米軍政の方針は、帰還する日本人はいかなる場合も一般書類を持参できないというものだった。総督府は仕方なく総督府内の韓国人高級官吏に預け後日渡してもらう約束をしたが、結局米軍兵に押収されたという。日本の海外財産のうち、朝鮮に置いていった日本政府の評価は、在外財産調査会の朝鮮部会責任者であった旧総督府財務局長が、一年以上実態調査を行って報告している。国公有財産は除外して、民間における私有財産評価額は、企業体財産500~550億円、個人財産250億円規模に達すると推定。

 1945年8月時点で、この地に残された日本人財産、当時の価格での評価額を52.5億ドルとして、このうち北鮮に所在する財産29.7億ドルについては除外し、南鮮側に残された財産22.8億ドルの財産について、見てみる。9月、米軍政は、日本人財産の所有権を米国に引き渡す措置を断行、その中には民間人所有の家屋や土地もすべて含まれた。
 1948年の政府樹立と同時に、米軍政から帰属財産を引き受けた韓国政府は、最初からすべての帰属財産を民間に売却する方針を立てた。一般企業の運営を早急に正常化し、生産を促進しなければならない状況にあったので、帰属企業体を優先して民営化させる必要があった。李承晩大統領が、米国式の自由企業主義の対する確固たる信念を持っていたこともあるが、時代状況が政府に民営化を急がせた。増加する財政収支赤字を補うため、民間払い上げを急がせた。しかし六・二五(朝鮮)戦争の勃発により、払下げ計画に支障が生じる。しかし戦争物資生産の迅速な増強が必要とされ、民間払下げが急がれた。1950年~1956年の間に大半の企業が払い下げられた。飲食料品工業(509件)、機械・金属工業(271件)、化学工業(151件)、繊維工業(121件)などが払い下げられた。1958年5月末までに、帰属事業体は100社ほどの未処分企業を残してほとんどが処分された。未処分企業の中には、大手電力会社三社(朝鮮電業、京城電気、南鮮電気)、鉱工業では大韓重工業、朝鮮機械、大韓重石、三成工業などの大企業、運輸・倉庫業や新聞社など比較的大規模な企業が未処分となった。
 しかし米軍政権下であれ韓国政府への移管後であれ、帰属企業体の運営が正常化されず経営不良となり、赤字経営から抜け出せなかった。問題は大規模な事業体を運営できる経営者や技術者がいなかったことである。また南北間の産業上の不均衡、電力問題、主要工業用原料鉱や燃料用地下資源の分布状況も北鮮に偏っていた。こうした問題を抱えながら、1950年代の韓日間の輸出・輸入の比率は次の通りであった。韓国の総輸出に占める日本の比重は、」1950年75%から57年の49%、58年の59%と引き続き圧倒的な割合を堅持した。総輸入でも1950年の69%から51年の72%、52年の59%と50年代前半は輸入においても絶対的であった。これが後半になると、米国から援助物資の輸入が大幅に増加したうえ、政府が対日輸入に強力な抑制措置をとった影響で、58年には13%、59年には10%にまで縮減した。また、韓国側は慢性的な赤字累積により、まともな決済方法では貿易が持続できなくなった。これで米国側は韓日間の交易では、精算勘定を設置して、決済猶予・後払い方式に切り替えた。別途その間はいろいろ紛糾したが、1950年代の韓日関係は特殊な事例が積みあがった。韓国は外交上の相互主義の原則を無視し、外交的慣行に反する行為を日本に頻繁にとった。換言すれば、米国側に助けられて、韓国は外交的にも経済的にも日本から一方的な特惠を受けていた。もう一つ、1950年代までは韓国経済の流れにおいて、植民地遺産である帰属財産は生き残り、経済全般にわたって相当な役割を果たしていた。
 1950年代、韓国にとっての最大の外交的課題は、日本との国交正常化を実現することであり、一日も早く韓日会談の開催を成功させなければならなかった。サンフランシスコ講和条約締結と時をk同じくして、米国側の要求により韓日会談が開かれるが、結局10年間、何の成果もなく歳月を送った。その責任は李承晩大統領が行った会談決裂のための遅延作戦が最大の責任であった。1965年の韓日両国の国交正常化に向けた韓日協定の締結こそ、韓国現代史における一大歴史事件であった。協定の締結により、日本から入った五億ドル以上の経済協力資金(請求権資金+商業借款)は、1960年代に朴正熙政権が経済開発五か年計画を成功させる土台となった。経済政策の性格を1950年代の自由主義政策基調とは明確に異なる、政府主導の計画経済政策基調に変えた原動力といる、李大根氏は断言する。結論として、約40年間にわたる植民地支配の物的遺産と言える帰属財産は、解放後、1960年代前半までは与えられた役割を忠実に果たし、新時代が求める経済協力という名の莫大な資本が日本から導入され、帰属財産という名誉とは言えないレッテルがついにはずれた、と。

 最後になったが、著者がなぜ今になって帰属財産をとりあげるのか、触れておきたい。歴史歪曲に対する国民の認識を正すために、この帰属財産を原状復帰させるのが何よりも重要な課題だとしているが、著者の問題意識は深い。一つには韓国経済が解放後から1950年代までは当然のこと、1960年代初めまでは一人当たりGNPがわずか62ドルであり、これは当時のフィリピンやタイはもちろん、はるか彼方のアフリカ諸国にも及ばぬほどの最貧国であったという主張が公然と繰り広げられている。政府やマスコミ、ひいては経済学者の間にまで広がっているこの主張は果たして歴史的事実に符合するのか。こうした主張は、主に1960~70年代、朴正熙政権時代の経済開発の功績を過度にあおるための政治的意図から作られた、誇張された比喩である。あるいは、植民地時代の日本による経済的発展を意図的に隠すためにものか、李承晩大統領が政治的に独裁を行うだけで経済的に何もしなかったという点を強調するための1950年代卑下論の三つに分けられる、という。いずれにしても、不当な政治的要求による歴史的事実の歪曲に違いない。そうではなかったことを明確にしたいという知的好奇心が、このように遅きに失した帰属問題を取り上げることになったゆえんである。1945年8月15日の解放当時、韓国に形成された資本蓄積の水準は、戦後どの第三世界の新生国家とも比較できないほど、アジアではどの面から見ても、日本に次ぐ第二位の経済先進国であった。こうした水準の韓国経済が、1960年代に入るや世界最貧国に転落するというのか。韓国はもちろん、先進国も国民所得の統計が出る前である。発展途上国の場合、人口統計すらまともに整備されていなかった時代である。国民一人当たりGNPという概念を持ち出して国別に数値比較すべきでない、と李大根氏。うむ、誠にその通りだ。ブログ筆者も当時の韓国は最貧国だという記事を何回か、読まされた。李氏の言うとおりだ。国民を誤導する歴史歪曲を正すためには、何よりも歴史的反証資料として帰属財産の実体に関する研究が必要である、と。
 もう一つ、1960年~70年代の「請求権資金」という名前で入ってきた日本資金の性格に関し誤りがあるからだ、という。韓日協定に基づいて提供された日本からの資金(無償三億ドル、有償二億ドル)の性格を、人々はどのように理解しているのか。ほとんどの韓国人は、過去35年間の植民地支配に伴う韓国人の精神的・肉体的苦痛と経済的収奪に対する報償的な次元であり、日本にとって有利な条件で提供した有償・無償の資金であると思っている。だから、韓国が日本に対して当然要求できる権利、対日請求権の行使として受け取る資金であると、いままで理解してきた。しかし、きちんと調べてみると、この請求権の資金の性格は、韓国人が知っている内容とは全く異なる。これを正しく理解するために、当時の韓日会談の過程を書いてみる、と。1952年の韓日両国は相手方に対し、異なる性格の「財産請求権」を提起することから始まる。韓国側は植民地支配に対する報償的な性格の請求権を提起、日本側は自分たちが韓国に置いてきた財産、特に民間の私有財産に対する財産権行使としての請求権を提起した。終戦後、韓国に入った米軍政が日本人の私有財産まで没収し、それを韓国政府に無償で移管したことは明らかな国際法違反であるため、日本はこの財産を取り戻す権利がある、というものであった。双方の主張が拮抗し、会談は決裂する。しかし請求権を主張するためには、その正確な金額を相手に提示しなければならない。だが双方に正確な金額を提示することあ不可能であるとわかると、互いに相手への請求権の主張を放棄することで相殺しようと決める。従って、請求権という用語も自動的に消滅することになった。しかし韓国側は請求権という用語を使い続けた。国家レベルの請求権は消えても、戦前、日本の軍需産業やその他民間企業などに従事していた韓国人労働者の未払賃金やその他債権などに対する民間の個別の請求権は存在し続ける、と。しかし、件別にその請求権を算定する基礎資料を見つけるのは事実上、不可能であることを双方が了解して、代案として政治的交渉を通じた一括打開方式で問題を解決する道を選んだ。両国の間で最終的に決定した無償三億ドル、有償二億ドルの資金は、こうした政治的考慮による一括打開方式の産物だった。従って韓国で慣行として使われてきた「対日請求権資金という用語は、その資金の本来の性格を正確に反映した表現ではない、と李大根氏は言う。朴正熙政権は、韓日協定締結の当事者として、このような事実をありのまま国民に伝え、十分納得させてから、政府自ら用語の使用に慎重を期すべきだった。しかし反対世論を意識しすぎたせいか、そうはしなかった。その点こそが、朴正熙政権18年における代表的失政であると著者は言う。こう言い切る李大根氏に敬意を表したい。


東京裁判 1   (その歴史的位置づけ)

2022年03月06日 | 歴史を尋ねる

 太平洋戦争終結後の極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)に於いて、弁護団の中心人物であり、東条被告の主任弁護人でもあった清瀬一郎は、昭和41年7月、読売新聞文化部記者から東京裁判の思い出を、当時あったことで世人がよく知らないことを、ありのままに執筆願いたいと言われ、とりあえず4,5回分の回顧録のようなものを作り上げた。しかし非常な反響があり、文化部からはせめて30回ぐらい続けてほしい、一方出版局から『秘録・東京裁判』として纏めて出版させてもらいたいという申し出があり、こうした経緯で、50回続けて著書として出版された。実は昭和23年12月末(七被告死刑執行のあと)、読売新聞社より、東京裁判の顛末について執筆してほしいと切なる申し出があったが、その時、清瀬は断然、これを断った。それなら執筆できないわけを書いてくれと申し出があり、そこで清瀬は「東京裁判のことを書かざるの記」として一文を草した。
 連合国はみな自由主義を標榜している。当然法廷における言論の自由をも重要事項として包含している。法廷では、連合国の違法も、わが国の自衛権も、正々堂々、だれはばからず主張することが出来た。いかに耳障りでも、とにかく、これを許さねば道理が立たぬ、と。しかし、法廷以外では、その半分の主張も許されぬ。そのことは当時の占領政策の実際としてわかっている。それは毎日の法廷記事の許可の限度でわかっているた。従って、その時、読売新聞の申し出により、清瀬が正直に、良心的の記事を書けば、新聞の発行禁止は必然であり、それ以上の災害を伴うかもしれない。これを避けるため緩和的言辞を弄すれば、これを読む世人は、清瀬の書いたことを本当かと思われる。それゆえ、日本がこの体制(占領下の言論統制等)にある限り、東京裁判のことは書かぬことを決心した、と『あとがき』に記している。

 平成29年11月、第2回「東京裁判」シンポジウムが国士舘大学で開催され、篠原敏雄国士舘大教授は「学会では1960年代までは東京裁判肯定論、すなわち戦前の日本は侵略と残虐行為を重ねたという見方が主流だった」「いまだに戦前の日本は、残虐な国家だと言い募るメディアもある」と指摘、同シンポジウムに出席した阿比留瑠比産経新聞論説委員は「現在、マスメディアが東京裁判を否定的に見ているかというと、さにあらず。いろいろなことが分かってきて、肯定はしにくいけれども否定もしたくないのであまり触れない。中でも朝日新聞に至っては、いまだに必死に、東京裁判はけじめだから受け入れるべきだと言っている」「ではマスメディアは、どうして歪んだ東京裁判認識、あるいは東京裁判報道になったのか。これはGHQの占領期に、東京裁判を批判できず、批判しないでいた自分たちをいまさら否定できない。正当化するために、東京裁判を否定できなくなって東京裁判に呪縛されている」「これは江藤淳さんのいう『閉ざされた言語空間』がいまだに続いていることだと思う」と。さらに阿比留氏は言う。「なぜそんなことになってしまったのか。昭和20年9月に朝日新聞が発禁処分を受けたのは、鳩山一郎の占領支配やGHQの在り方に関する批判、あるいはアメリカの原爆使用に対する批判を掲載し、2日間にわたって新聞を発禁とした。すると途端に、自分たちが悪かった、GHQバンザイという内容の記事を載せた。これは朝日だけでなく、マスメディア全体の傾向となった。GHQは民主主義を名乗る一方で、日本に厳しい検閲を強いてきた。さらに検閲していること自体を検閲して、言わせないよう、書かせないようしていた。さらに、中国、朝鮮人の批判はいけない。憲法の草案にGHQがどのような役割を果たしたかということもかいてはいけない。占領軍の兵士と日本女性の交渉も書いてはいけない。当初は嘘が分かっていたが、その時代のことを知らない若者が増えてくると、かえって観念的になり、ますます検閲内容の方向に行ってしまう。しかし、例えば昭和27年には、戦犯とされた方々に対する釈放嘆願の著名が日本で4千万集まったと言われている。さらに28年の国会で、全会一致で戦犯釈放決議が成された。朝日新聞ですら、首相の靖国参拝などを平気で書いて、批判していなかった」と。
 「東京裁判では、インドのパール判事が被告全員無罪論をいい、東京裁判は間違っていると主張されたが、当時日本の新聞はほとんどなおざりだった。A級戦犯容疑者とされていた岸信介の『獄中日記』で、東京裁判の判決に対するインドのパール判事の反対意見が相当詳しく日本タイムスに乗せられている。日本の侵略戦争を否認し、共同謀議を否定し、全面的に判決に反対して、被告全部の無罪を主張するものである。その正義感の強きこと、勇気の盛んなること、誠に欽慕すべきものがある、と。その一方で、ただ最も不快とし、かつ恥じなければならぬことは、他の新聞はほんの一部しか載せていない。之は各新聞社の卑屈か非国民的意図に出づるものである。これらの腰抜けどもは宜しくパール判事の前に愧死すべきである、とある。さらに田中正明氏は、ヨーロッパ諸国においては、このパール判決がビックニュースとして紙面のトップを飾り、大々的にその内容が発表され、センセーションを巻き起こした。そしてフレンド派のキリスト教団体や国際法学者や平和主義者の間に非常な共感を呼び、これらに論争が紙面を賑わせた、とその著書に書いている」と。

 話は遡るが、昭和58年6月、講談社は創立70周年記念事業に一つとして長編記録映画「東京裁判」を企画・制作し、同映画は東宝東和の配給で全国の東宝系主要映画館で一斉に上映された。その上映開始一週間前の5月、池袋のサンシャインシティ(元巣鴨拘置所跡に建てられた)で『東京裁判』国際シンポジウムが開かれた。このシンポジウムは一橋大学名誉教授細谷千博、神戸大学教授安藤仁介、東京大学助教授大沼保昭の三人が交代で議長役を務め、日本、アメリカ、イギリス、ソ連、オランダ、西ドイツ、中国、韓国及びビルマの学者、歴史家、評論家等十九人が、東京裁判について「国際法の視点から」「歴史の視点から」「平和探求の視点から」「今日的意義」という分類に従って意見を述べ、この意見を述べた人達が傍聴人を含む参会者からの質問に答える、という形式で進められた。開会にあたって細谷教授は、東京裁判が終わって35年が過ぎ風化しつつあるように思えるが、東京裁判を風化させてしまうには余りにも大きな問題をはらんでいると思えるので、映画上映の時期を選んで東京裁判を取り上げるのも意義があると思って、このシンポジウムを企画した、と。東京裁判でオランダ判事を務めたローリング(レーリンク)博士をはじめ、東京裁判に関係があり関心を持ついろいろな立場の人たちが意見を述べたという。筆者はいま、冨士信夫著「私の見た 東京裁判」の「十五おわりに」を読んでいるが、冨士氏が傍聴していたこのシンポジウム第二日目の午後の発言者として、東京教育大学名誉教授家永三郎は、弁護側立証開始時の清瀬一郎弁護人の冒頭陳述は、現代の大東亜戦争肯定論と基本的に同じ考えに立つものであって到底賛同することはできないと述べ、パル判事の少数意見は日本の中国侵略を弁護する論旨であり、きわめて強烈な反共イデオロギーの偏見にみちみちていて、東京裁判の不法性の有力な論証として利用されている危険性を声を大にして訴えなければならない、と述べた。また、パル少数意見は東京裁判不法論、大東亜戦争肯定論に連なり、ひいては戦後日本の民主主義、平和主義の全面的否定のために利用されているのは看過できず、日本人自身の手で、日本が遂行した侵略戦争遂行過程で発生した残虐行為に対する責任追及をなし得なかった事情を考えるとき、東京裁判の持つ積極的意義を無視してその瑕疵のみを論じ、これを全面的に否定する事の危険な効果を心配しないではいられない、と論じた。
 さらに家永教授は細谷議長から、日ソ中立条約は日本が先に破ったという主張の説明を求められると、関東軍特殊演習を挙げ、関特演は単なる演習ではなく、1941年の御前会議で決定され天皇の允裁を経て動員令が発令されて、八十万人の大軍をソ連国境に集結した行為はソ連に対する侵略の予備陰謀である、と東京裁判法廷におけるソ連検察官の主張と同一論法で、日本が先に日ソ中立条約を破ったという自説を披露した。富士信夫氏は言う。「今、日本には東京裁判史観なる歴史観があると言われているが、それは東京裁判法廷が下した本判決の内容そのものをすべて真実であるとなし、日本が行った戦争は国際法、条約、協定等を侵犯した『侵略戦争』であって、過去における日本の行為・行動はすべて犯罪的であり、悪であった、とする歴史観のようである」と。これらの人は、本判決の内容等を読んだこともなく、従ってその詳細は知らないまま、本判決が侵略戦争と判定したのだから日本が行った戦争は侵略戦争であり、南京大虐殺があったと判定したから南京大虐殺はあったのだと信じ、あるいはなんらかの思惑があって単に口先だけでそう言っているだけかもしれない、という。さらにもう一つ付け加えるならば、米軍の占領下にあった時も、家永教授の主張は清瀬一郎氏が心配した検閲に引っかからなかっただろう、それは占領軍が推奨する考え方に近い、というより全く同一だから。
 この東京裁判史観を信奉する人々は、今後いかに事情が変わろうともその史観を変えることはないのか、あるいは東京裁判の審理の実態を知ればその史観を買えるのか、は素より分からない。しかし現在無垢の状態にあり、次代の日本を背負っていくべき若者たちがこの東京裁判史観によって汚染され、誤った歴史観を持つようになることは、将来に日本にとり大きな損失である。全く偶然の巡り合わせから東京裁判法廷での審理の大部分を傍聴するという貴重な体験を持ち、審理の実態を知る事が出来た者として、まず「東京裁判法廷での審理はどのように進められ、それがどのような形で判決に表されたか」という、審理の実態を明らかにすることが、東洋裁判についての正しい知識を持ち理解を深めていくことに役立ち、そのことが東京裁判史観の払拭に多少なりとも役立つであろうと願いつつ、この記録(「私の見た東京裁判」)の筆を進めてきた、と冨士信夫氏は言う。以上を踏まえて、本ブログでは、冨士信夫氏と清瀬一郎氏の著書を参考に、東京裁判の内容を掘り下げてみたい。ただ東京裁判の日本文速記録の分量は総字数2千4百万字以上、1ページ680字詰めの本に作り上げると、3万7千ページを超す厖大な分量となる、という。富士氏の著書も要約するとしてもその全容を取り上げることは難しく、散文的な叙述にならざるを得ないと断っているので、裁判の全体像を知るために、目次を一瞥してみたい。

 1,はじめに
   1 偶然に関わり合った世紀のドラマ
   2 東京裁判とは
 2、開廷、罪状認否、裁判所の管轄権を巡る法律論争
   1 開廷
   2 罪状認否
   3 裁判所の管轄権を巡る法律論争
 3、検察側の立証を追って
   1 キーナン首席検察官の冒頭陳述
   2 「日本の政治及び世論の戦争への編成替え」に関する立証
   3 「満州における軍事的侵略」に関する立証
   4 「満州国建国事情」に関する立証
   5 「中華民国の他の部分における軍事的侵略」に関する立証
   6 「南京虐殺事件」に関する立証
   7 「日独伊関係」に関する立証
   8 「日ソ関係」に関する立証
   9 「日英米関係」に関する立証
  10 「戦争法規違反」に関する立証
  11 被告の個人責任に関する追加立証
 4、公訴棄却に関する動議
 5、一般問題に関する弁護側立証
   1 清誠弁護人の冒頭陳述
   2 一般問題に関する立証
   3 満州及び満州国に関する立証
   4 中華民国に関する立証
   5 ソ連邦に関する立法
   6 太平洋戦争関係の立証
   スミス弁護人永久追放
 6、被告の個人立証
   1 木戸幸一被告
   2 嶋田繁太郎被告
   3 東郷茂徳被告
   4 東條英機被告
   ウェップ裁判長の一時帰国
 7、検察側反駁立証
 8、弁護側再反駁立証
 9、検察側最終論告
   1 キーナン首席検察官の序論
   2 被告の責任に関する一般論告
   3 被告の責任に関する個人論告
10、弁護側最終弁論
   1 審理経過に見る論告と弁論の相違
   2 鵜沢弁護人の総論
   3 一般弁論中の事実論
   4 各被告の個人弁論
11、弁護側最終弁論に対する検察側回答
12、判決を待つ間
   1 天皇の戦争責任と退位問題
   2 刑の量定についての報道
   3 米人弁護人罷免問題
   4 法廷内の改装等に関する報道
   5 判決時期の予測に関する報道
13、判決
   1 判決公判の経過を顧みて
   2 裁判所の本判決---パル判決と対比しつつ
14、刑の執行とその後
   1 米大審院への訴願
   2 刑に執行とその後
15、おわりに

 東京裁判の現実の審理経過を、冨士氏は以上のように再構成してくれている。以降は個別に論点を見ていき、東京裁判史観はどういうものか、清瀬一郎はもう一つの歴史解釈をどう提示したか見ていきたい。


初めて「現代史」の時代が終わり、ようやく本来の歴史が始まる

2022年02月13日 | 歴史を尋ねる

 京都大学教授中西輝政氏が、スティネットの著書で解説を付けている。経緯はわからないが、初出が『正論』平成12年10月号となっていて、文藝春秋社から第一刷は平成13年6月30日なので、何らかの理由で急遽採録されたのかもしれない。中西氏はコメントする。
 「本書はいわゆる真珠湾ものの一冊である。従来から、日本軍の奇襲をルーズベルト大統領とワシントンの政府首脳はその場所が真珠湾であることを含め知っていながら、それをハワイの米太平洋艦隊司令官キンメルにはあえて知らせず、しかもその責任をすべてキンメルとショートの二人にだけ負わせたとする、いわゆるルーズベルト陰謀説を説く本である。この五十年余りの間に数多くの真珠湾ものがあり、陰謀説はこれまで耳にタコができるほど聞かされてきた。しかもあれほど甚大な損害を座視することは無かったはずの反陰謀説もあり、状況証拠から言えば限りなくクロに近い心証だが、反論の余地もなくはない、というのが実証を重んじる歴史家のこれまでの立場だった」 「知性の徒を自任している歴史家や知識人にとって、陰謀説と言われるような議論に与するにはどうしてもためらいが残ってしまう。一旦、議論が泥仕合的様相を呈すると、またかという思いが定着し、どうせこれまでの焼き直しだろうと思ったが、この本は五十年にわたったモヤモヤを取り払うだけでなく、決定的ともいえる重要文書を含め、膨大な新史料の発掘によってこの論争に実質的にピリオドを打つものだと感じさせた」 「私(中西)は、歴史家として「現代史」という学問的なジャンルを認めないことにしている。もちろん時事問題の一応の整理という意味はある。とりわけ戦争に関わる国際政治の歴史というものは、五十年やそこらで歴史の真実をたとえ一応としてでも、確立し得るとは到底思えないからである。歴史の正当性というものが余り問題にならず、気軽に秘密文書を公開した十八世紀や十九世紀のヨーロッパ外交史を長く研究してきた者として私は、歴史上本当に重要で決定的な史料というものは、表向きどんな文書公開のルールを定めていようとも、結局、その出来事から少なく見て二世代(最低60年)を経なければ決して世に出てくることはない、と確信している。二世代前、それは到底、現代とは言えない。二十世紀は、歴史の正当性が最大限に重視され、プロパガンダを歴史として長期にわたって押し付けることが定着してきた世紀であった。どの国も、自国の当面の政策や対外戦略にとって有利な歴史を作り出し、それを維持することが、かってのどの時代よりも重視されるアコギなる世紀、それが二十世紀であった」 「第一次大戦の開戦原因や戦争責任をめぐる論争はいまだに続いているし、ロシア革命や干渉戦争に関する客観的な研究はこの十年やっと緒に就いたばかりだ。辛亥革命や内戦の歴史は、いまだプロパガンダとしての現代史でしかあり得ない。とすれば、歴史の正当性が一層深く絡みついている第二次大戦、特にその一部を成すと考えられてきた昭和の大戦について、本当の意味の歴史研究が、いま二世代経ったところでようやく緒に就こうとしているのも、いわば順当な展開なのである」と。
 確かに、謀略やプロパガンダが飛び交う国際社会に於いて、大方の人々が納得のいく歴史を記述することは、まことに困難だ。現代史というと、確かに主義主張が飛び交って、記述する人の見方・主張を知るに過ぎないことがある。時事問題の一応の整理と言い方が、妙に理解しやすい。

 著者ロバート・B・スティネットはジョージ・ブッシュ中尉(のちの米大統領)の下で、アメリカ海軍の軍人として戦い、十度の戦闘功労勲章を受けて、大統領特別感状にも輝いた第二次大戦の英雄であり、1986年にオークランド・トリビューン紙の記者をやめた後、この十数年ひたすら真珠湾の真実を求めてその研究に従事してきた。その間、日米戦争についてBBCなどの主要メディアでアドバイザーを務めてきた大戦史の権威の一人。こうした経歴の持ち主が、情報の自由法の活用によって、これまで推測ないし噂の域を出なかった問題と生存する証人へのインタビューの繰り返しによって、厖大な史料を示して事実を確定していく。本書の注が示すように、精緻を極めた手法には圧倒されると、中西氏も認めるところだ。60年後に初めて公のされた『Hitokappu Bay』の文字の入った米海軍秘密文書のコピーを原書で目にしたときは、長年ヨーロッパのインテリジェンス(秘密情報史)の研究の研究に関心を持ってきた中西氏さえ、驚いている。日本はあの戦争でマッカーサーやニミッツ、ハルゼーらに敗れたのではない。彼らは絶対負けるはずのない完璧な事前情報に基づいて作戦を展開したのに過ぎない。また、フォードやGEのアセンブリー・ラインに象徴されるアメリカの物量が戦争の主役であったわけでもない。あの戦争に於いて、究極的かつ決定的な意味で日本を撃破した主役は、ローレンス・サフォードやジョセフ・ロシュフォート、あるいはウィリアム・フリードマンやアグネス・ドリスコら、大戦中日本の外交・海軍暗号の解読を可能にした人々であった、と中西氏。こんなことは今や二十世紀戦争史の常識だが、イデオロギー的に歪んだ歴史書や、八月が来るたびにあの戦争を考えると言いながら、その實相の一番の核心部分について、なぜ日本人はこれほど無関心でいられるのだろうか、と。欧州外交史の研究を通して、欧米人がこうした秘密情報問題に示す真摯な関心を見てきた中西氏には、全く理解できない、と嘆息している。

 引用が長くなるが、中西氏の経験は改めて唸らせるものがある。「私(中西)が今から30年(現時点では50年)ほど前、イギリスのケンブリッジ大学の歴史学部の大学院に留学したが、その時就いた国際関係史の指導教官サー・ハリー・ヒンズリー教授(のち副学長)は、1939年に第二次大戦が勃発した時、ケンブリッジ大学の三年生であったが、戦時動員でイギリス情報部(M16)に勤務し、折から解読可能となったドイツ(及び日本、ソ連など)の最高軍事暗号の解読資料(ウルトラ情報)の配布と管理に大戦後の1947年まで携わった人物であった。彼はそれまで一言も話さなかったが、1975年にその秘密が第一段階に解除になると、その後は折に触れウルトラにまつわるエピソードを私に話してくれた。ヒンズリーがなくなった後教え子に明かにされた話は、彼は二十代後半でウルトラをめぐる英米協力の要路に関わる仕事をしていたが、1946年1月、大戦後も英米間では秘密情報とくに暗号解読についてグローバルな協力関係を続けていくという合意を成立させ、冷戦後の今日、欧州諸国で話題となっているいわゆる「エシュロン」体制の発足に極めて重要な貢献をした、という。この「エシュロン」システムこそ米ソ冷戦を西側の勝利に終わらせ、アメリカを唯一の超大国路線を確立させた最大の支柱であったこともよく知られている。しかしこの話も決定的な核心は、二世代・六十年を過ぎないと明らかにはならないもう一つの例証である」と。「こうした目で日米開戦に至る流れと戦争の推移を見てゆけば、日本の外交と戦争の営みに対して、長年にわたる英米各々の対日情報活動の蓄積の上に立って1930年代の末から緊密さを深め、すでに確固たるものになっていた英米の情報と国策の協力体制の網の中に絡めとられていく日本の姿がはっきりと浮上してくる。そしてあの大戦争の中で、愛国の至情に燃えた日本の多くの軍人と国民が払ったあの壮大な戦争努力が、苦も無く一瞬のうちに壊滅させられていく『日本の哀れさ』がひとしお浮かび上がる」と。
 「第二次大戦中、イングランド中部コヴェントリー市に対するドイツ空軍の大空襲計画を事前に掴んだ英首相ウィンストン・チャーチルは、予め対抗措置を取ればドイツ側がイギリスによる暗号解読の事実を疑うことになると恐れ、イギリス政府としてはコヴェントリー市民にはいかなる警報も出さず、結局、数万の命を犠牲に供したことは、今日ではよく知られた事実である。そしてこのことは今日に至るもイギリス人の大多数によって倫理的に正しい決断だったと容認されている。それほど暗号や秘密情報活動は、国家の生存や歴史の進路に決定的に重要性を持つことが広く認識されているわけであり、それはまた戦時、平時の区別なく広く受け入れられている国際関係の常識ともなっている」

 著書「DAY OF DECEIT(ルーズベルトの欺瞞の日々)」の圧巻は、日独伊三国同盟が結ばれた翌月、1940年10月、海軍情報部の極東課長アーサー・マッカラムが起草しルーズベルト政権によって採用されたと見られる『対日開戦促進計画』の文書である。(著者は1995年1月24日、第二公文書館の軍事関係部門の記録グループ38の特別米軍収納箱6号で、アーサー・マッカラム少佐作成の、日本を挑発して米国に対し明白な戦争行為に訴えさせるための、八項目の行動提案を発見した) アメリカ国民の九割近くが欧州への参戦に反対、という当時のアメリカ国内の状況を踏まえて、いかにすれば国民が一致して対ドイツ参戦に向かえるか、このことが40年の大統領選挙中もルーズベルトの脳裡を離れなかった最重要課題であった。苦境に立つ英国を救い、欧州の覇権と民主主義を擁護するため何としても欧州に参戦することでルーズベルトとその側近たちは早くから一致していた。それゆえマッカラム(1898年長崎で生まれ、海軍士官として日本にも駐在した日本通)の文書には三国同盟をまたとない好機ととらえ、日本を極限まで追い詰めて暴発させることによって、裏口から欧州参戦を果たす、日本を知り尽くした容赦のない戦略思考の上に立つ対日開戦促進の外交軍事戦略プログラムが、そこに織り込まれた。その核心は八項目にわたる段階的日本追い詰めプログラムだが、当時の日本で叫ばれていた、「ABCD包囲網」という見方を裏付けるもので、この包囲網が何を目的としているか理解できず、シナリオ通り坂道を転げ落ちていったことが明らかにされた。戦後も長く続いた山本五十六神話も、細部に至るまでアメリカ側の監視下に行われていたことが説明されている。開戦通告の伝達をめぐる日本外務省の世紀のチョンボも含めて、ルーズベルトの『リメンバー・パール・ハーバー』の演出効果を高めさせた。
 以上のことは、日本人にとって一体何を意味するのか、単なるショックややっぱりそうだったのかという感慨だけでは済まされない、と中西輝政氏。もはやカッコ付きの「現代史」ではなく、真の歴史を安心して究明できる時代が訪れた。これらを謀略と片づけるのではなく、古来どの国でも、国家が生き残ろうとするとき示す理性の発露と見るべきで、日本も国家を作っている以上、この理性(情報活動や外交活動)を学ばなくてはならない、と。例えば、第二次大戦をめぐって、「コミンテルン」や世界の進歩派リベラル知識人を巧妙きわまる手段で操り、自国の国益に奉仕させたソ連の情報・対外戦略は、全くの不可能を可能にさせる手品ともいえる事例に満ちている。ソ連崩壊後の今日、コミンテルン関係の史料が少しづつ出始め、第二次大戦の戦争原因をめぐる論議にも新しい意味を持ち始めている。中日戦争に至る経過や、日本と米英両国との対立を助長していた中国側の情報・外交活動の中身については、現在の北京政権が崩壊すれば、はるかにインパクトの大きい史料が出てくるだろう、と中西氏は言う。
 21世紀に向けた日本の歴史の教訓として、「新秩序」の掛け声に押され三国同盟の締結へと向かった日本指導部のけた外れの愚かさと、コミンテルン戦略に乗って支那事変の泥沼にはまり込むというとんでもない戦略的無能力の、この二つが大東亜戦争の決定的誤りが歴史の教訓となるだろう、と。


真珠湾の真実 後編

2022年02月09日 | 歴史を尋ねる

 テッド・エマニュエル海軍一等下士官は、秘密海軍情報チームの一員で、ホノルルに寄港する日本船はすべて調査するよう、大統領からの指令が1936年8月から出ていた。これらの船舶の乗組員と何等かの関係のあるオアフ島在住の日本人は、すべて身元を調査して名簿に記録せよ。問題が発生した特は真っ先にその人物を強制収容所に入れよ、と。エマニュエルは、後にスパイだったと著書を出した元海軍少尉、吉川猛夫(森村正は偽名)が在ハワイ日本領事館一等書記官として着任するその姿をシャッタに捉えることだった。一等書記官という役職は重責で、外国勤務経験を有する人物が任命されるのが常だが、外務省の外交官名簿にも登録されていなかった。日本海軍はオアフ島での軍事活動を観察、米太平洋艦隊をひそかに調査するため、スパイとして軍令部に所属する吉川が選ばれた(軍令部はすでにシアトルにはK少佐、ロサンゼルスにはY中佐が駐在)。アメリカ情報部は疑いを抱いた。27歳の青年がこれほど重要な役職に就けるはずがなかった。
 森村がホノルルに到着する前日以降、元海軍情報部長ウォルター・アンダーソンは森村の監視ははFBIではなく海軍情報部で行うと、FBIホノルル支局長ロバート・シバーズに語った。シバースはボスであるフーバー長官に抗議したが、変わらなかった。エマニュエルはその日繰り返しシャッターを切り、森村をA級スパイ容疑者リストに追加した。その後八か月間、ワシントンにいるアメリカの情報部員は、森村の送る報告を監視したが、森村の送った津暗号とPA暗号の内容は、それを最も知る必要のあった人物、キンメル、ショート、シバースには知らされなかった。
 海軍情報部は森村の電話に盗聴器を仕掛けた。盗聴された会話は速記用口述録音機を通して記録され、カー海軍大尉のオフィスに運んだ。この録音より森村の活動は夜遊びと情報収集のための遠出が明らかになった。しかし森村はスパイ防止法に触れないよう、決して軍事施設には立ち入らず、写真撮影もしなかった。軍事施設の絵葉書と米国測量局発行の地図が簡単に手の入った。森村のスパイ活動は、8月21日までの第一段階(吉川の著書では兵要調査と言っている)で22通の電報を東京に送っている。この中で真珠湾及び陸軍航空基地で見た艦艇及び飛行機の種類を報告した。

 森村は8月21日以降、情報収集の第二段階に入った。真珠湾在泊艦船の追跡に加え、真珠湾の格子状地図作成に取り掛かった、とスティネット。(吉川の書籍によると、10月23日軍令部から密使がホノルルに到着、和紙一本のコヨリに97項目の質問が書いてあった。1、在泊艦船の総隻数。2、艦種別隻数、艦名。3、戦艦、空母の停泊位置。4、戦艦の停泊または係留の状況。5,戦艦、空母の動静。6,戦艦が泊地から港外に出るに要する時間。7,最も多くの艦船が在泊すると推定できる日は何曜日か。8,戦艦が停泊するときには防雷網を装備しているか。9,戦艦が入渠している日数及び場所、など。これを見て吉川は、軍令部の方向が暗示されたように思った、と。)(スティネットによると、真珠湾攻撃時撃墜された日本機から、海軍情報部は『敵艦停泊状況報告スケッチ』を回収した。その図面には湾内に停泊する艦名が、その位置とともに図示されていた。このスケッチは吉川からの情報を基にして軍令部が作成したのだろう。さすがにここまでの図面は吉川から電報で送れないだろう。これでは日本軍の動きが見え見えだから。)
 しかし、スティネットの記述はもう少し具体的だ、どの情報に基づいて記述しているか不明だが。「森村と琴城戸(ホノルル生まれでアメリカ国籍を持っていた。1939年に領事館で働くようになった)とはウマが合った。行く先々でバーや売春宿に入り浸り、合間に島の軍事施設の調査を行った。盗聴器が琴城戸の声を初めて拾ったのは1940年12月、41年2月18日から海軍はスパイ容疑で調査対象としたが、FBI のスパイ名簿には彼の名前がない。琴城戸は海軍基地の軍事的配置を、最新の状態に描きかける手伝いを依頼された。彼はフォード島に横付けしてる戦艦、修理施設及び海軍の乾ドックの位置を確認、森村は真珠湾のスケッチを描いて、軍事目標とそれぞれに該当する四文字を書き込んだ。その日の午後、RCA社が受け取りに来て、いつもと違う経路で東京の海軍省に送った」と。
 スティネットの著書には、電文などのコピーと解説が数多く掲載されて、注書きも丁寧だ。1941年9月24日の掲載電文は、東京(豊田)からホノルル駐在領事宛の極秘電報で、報告注文は、真珠湾内の水域を大きく五つの区域(A、B、C、D、E)に分け、それぞれに軍艦、空母については錨泊中のもの、艦種・級を記入。これは上下両院合同調査委員会に提出された、爆撃計画命令作成のため東京から発信された電報の英語版である。1945年に議会は陸軍暗号解読班がこの電報を15日遅れの10月9日まで解読、翻訳できなかったと説明された。陸軍情報部長はこの手の通信諜報を下らぬおしゃべりとして片づけてしまった。この電報は、ハワイのキンメル大将とショート中将とに知らせることは、差し控えられた、とスティネットのは解説する。(吉川猛夫著「私は真珠湾のスパイだった」で、吉川はこの電報の発信者の真意を測りかねた、と。もし軍令部の参謀であれば、湾内の状況は熟知している。浅瀬に所在する船舶の有無を聞いてきたり、繫留、入渠中の艦船は重要でないと言っている。これは何の意味なのか。百も承知の軍令部が言ってくるはずはない。あるいは外務省の役人がまた聞きで聞いてきたのか。だが、この電文は戦後、日本が攻撃を決意したものと脚光を浴びた。ただ電文起案者は、今も、不明である、と。)続いて、もう一つの掲載電報は、1941年9月29日、ホノルル(喜多)からワシントン宛、今後の艦船の位置を示すための略号が極秘電報で送られている。ただ注意すべき点は、スティネットのはいずれも森本の電報だとしているが、電文には森村の文字は見当たらない。情報当局はこれから森本だと判定することは当時はできない。(上記の吉川の著書では、森本が折り返し電を9.29打ったとしている。ただ掲載電文には喜多とあるから、森村の名前は使ってないようだ)スティネットは「あのスパイを泳がせろ」と森本のことを言っているが、森本と電文はすぐには結びつかなかったのかもしれない。ここには吉川の著書で面白い記述がある。(「真珠湾攻撃の翌月、FBI隊長のシーバスが日本総領事館を訪ねてきて、領事館関係者を米国本土・強制収容所に送り込んだ話が載っているが、FBI物語の中で、シーバスは次のように語っている。「戦争直前のハワイ駐在の正式隊員は7名、開戦に備えて、数千人の敵性分子の名簿を作成し、いざという時には逮捕する用意と準備をしていた。日系市民は危険だ、危険だと言われながら、実際に逮捕し尋問してみると何の根拠もなかった。そちらの日系市民を捉えることに夢中になりすぎて、あれだけの電報を打った者が総領事館にいたことに気が付かなかった。わかっていたら、早々にそ奴の首根っこを押さえてやったのに。残念だった・・」と。) 米海軍情報部はスパイを泳がせて情報を収集することが主目的である。森本はその隘路にいて逮捕されずにすんだのか。

 真珠湾攻撃直前の六日間に、森村は十通の電報をサウス・キング通りのRCA社から打電した。電報は数分以内に東京へ送られ、同時にフィリピンの重要監視局CASTを含むアメリカの手に渡った。しかし、マッカーサー陸軍大将やハート海軍大将がCASTのスパイ報告を、ハワイの司令官たちに知らせた記録はない。12月6日、土曜日の朝、東京はPAシステムを介して森村に、海軍基地と近辺の陸軍施設との、現在の防空態勢を報告せよと指示した。森村は正午前に最後の報告を書き上げ、ハワイは奇襲に最適であると伝えた。日本の爆撃機と雷撃機のパイロットたちへの最後のアドバイスは、「阻害気球なし。これらの場所に対する奇襲成功の算あり」 森村の電報はRCA社からPA暗号を介して東京に送られた。サンフランシスコ無線傍受局TWOが傍受し、テレタイプでワシントンに解読文を転送した。RCA社ホノルル支店からHYPOのロシュフォートのために、森村報告のコピーが作成された。日本の真珠湾攻撃計画は今や、アメリカの暗号解読員たちには、そのすべてが明らかになった。にもかかわらず、それを最も必要としていたキンメルとショートに見せられることもなく、徒に放置されていた。
 アメリカの軍事・外交暗号解読のトップであるジョセフ・ロシュフォートと、彼の補佐ファーンズリ・ウッドワードは、すぐに解読されなかった理由を述べている。12月1日から6日の間のRCA社が処理した電報は27通、そのうち18通はスパイ情報、9通は定期的文書だった。21通は12月5日金曜日の午後受け取り、すぐに解読・翻訳された。12月6日の土曜日に傍受された6通は12月7日の夜中に配達された、と。海軍当局者は森村の「阻害気球なし」という報告は、日曜日の午後遅く、攻撃から七時間たってからロシュフォートに届いたのではないかと見ている。それだとしても尚、アメリカの暗号解読者たちにとってはなお、電報を解読して太平洋艦隊に警告するチャンスはあった。真珠湾攻撃に至るまでの六日間、第十四海軍区情報参謀メイフィールド大佐は暗号化された電報の取り扱いを監督した。彼には、傍受電報をキンメルに届けるという、重大な責任があった。メイフィールドはその責任を果たさなかったが、それを責められることは無かった。

 10月21日、ロシュフォートは第十一航空艦隊司令長官塚原二四三中将の無電を傍受し、日本の大規模侵攻作戦を次の通り予測した。「塚原中将が空母部隊を自分の部隊に追加した事実は、長距離の大規模作戦を暗示している」 通信概要日報で、ロシュフォートは第三及び第四航空戦隊が、この作戦に加わったと述べていた。翌日ロシュフォートは、千島列島を中心として北部及び中部太平洋の広大な海域の東方と南方に大きく展開すると思われる、別の日本航空作戦部隊を発見した。「証拠は無いが、大規模な演習か作戦行動かが進行中で、航空隊は主として南洋諸島、高雄、海南島、インドシナ、千島の部隊を含み、潜水艦はマーカス島、父島から千島列島に配備されている。先日、幌莚島が航空基地として確認されたので、演習は千島列島北部まで広がっている」
 一方日本が戦争行為を企てているもう一つの証拠は、東京駐在のジョセフ・グルー大使から送られてきた。11月5日、御前会議で米国と連合国との開戦が決定された、日本軍部は東南アジア目標地域の侵攻占領に対して承認が与えられ、山本大将も直衛行動(主に戦艦や空母を護衛する駆逐艦や巡洋艦などの使用される言葉)が許可された。グルーから国務長官コーデル・ハルに送られた長い報告書の末尾に「米国との戦争は、芝居がかったやり方で、危険なほど突然にやってくるかもしれない」と締めくくられていた。
 ロシュフォートの推定とグルーの警告を読んだアメリカ政府は、もう一つのことに着手した。海軍当局が米国および連合諸国の船舶はすべてこの海域から引き揚げるよう、代わりに太平洋を横断する船舶は、オーストラリアとニューギニアの間のトレス海峡を通るよう命ぜられた。この命令は、南雲中将の機動部隊が単冠湾を出港した一時間後に出された。そして、キンメルはロシュフォートから報告される気がかりな傍受電報に基づき、ハワイ北方海域で日本機動部隊の捜索を命じた。キンメルの率いる艦艇が日本軍の意図した海域にいることをホワイトハウスの軍当局者が知ると、彼らはキンメルに帯平癒艦隊を真珠湾錨地に帰投させるよう指示した。12月23日午後三時、キンメルは「演習を中止せよ」と命令を出した。彼の手元には、日本が奇襲攻撃をかけてくる可能性があると警告する一方、日本の行動を早める位置に太平洋艦隊を置かないよう、作戦部次長インガルソン少将から電報が来た。「日本との交渉が好ましい結果に終わる可能性は極めて疑わしい。現在の情況は、われわれの意見では、フィリピンまたはグアムに対する攻撃を含む、奇襲侵攻的な行動をとる可能性がある。すでに緊迫している情況を複雑化したり、日本軍の行動を刺激したりしないために、内密に伝達する」 キンメルは、インガルソン少将からの電報を、日本を挑発するなという禁止命令だと考えたという。キンメルはスターク大将からの伝えられたルーズベルトの指示で、「大統領が、発砲は大西洋及び西南太平洋地域のみで行うよう指示した」という命令を思い出した、と。これに従わなければ軍法会議にかけられるということを暗示していた。
 キンメルは日本の空母機動部隊発見を目的とする新しい任務を承認した。真珠湾を敵の攻撃から守るため、空母エンタープライズと戦艦アリゾナを中心に艦艇25隻で、11月28日から12月5日まで軍事行動を実施する計画だった。しかしこの計画は実行されなかった。スターク大将からキンメルに、航空母艦を使用して陸軍の追撃機をウェーク島とミッドウェー島まで運ぶよう命令した。28日早朝、空母エンタープライズは戦闘機を搭載し、太平洋艦隊最新鋭の軍艦十一隻が護衛についた。結局ワシントンからの命令により、キンメルは太平洋艦隊で最も老朽化した艦艇を真珠湾に残し、空母二隻を含む近代的軍艦21隻をウェーク島とミッドウェー島に派遣した。最後の瞬間になって艦艇を真珠湾から移動させた状況は、議会調査委員会で討議された。開戦当時の海軍作戦部長であったスターク大将は次の通り答えている。「それらの艦艇が派遣されたかどうかは、記憶が定かではない・・・はい、確かに派遣されました。その日時はキンメル大将が決めました。われわれは特定の日時は決めていません」 スタークは事実を取り違えていた。海軍の記録によるとスタークが派遣日を12月26日と決めていた。空母レキシントン及び空母エンタープライズの任務群が真珠湾を出港した後の湾内残留艦艇のほとんどは、艦齢27年に達する、第一次世界大戦当時の遺物であった。

 1941年12月28日、ルーズベルトは首都ワシントンを離れ、ジョージアに向かったが、出発する前に、大統領・陸軍長官スチムソン・国務長官ハル・海軍長官ノックス・陸軍参謀総長マーシャル・海軍作戦部長スタークは戦時内閣(とスチムソンが名付けた)会議に入った。大統領は新たな提案をし、戦時内閣はこれに賛成した。その提案は、米英蘭の連合国に対し、日本から攻撃を仕掛けた場合、悲劇的な事件が発生するとの警告特別電報を、裕仁天皇に送ろうというのであった。ルーズベルトは天皇宛ての電報を用意したが、送信は12月6日の夜まで一週間送らされた。「米国民は平和と諸国民の共存の権利とを信じ、過去数か月に亙る日米交渉を熱心に注視してきた。吾人は支那事変の終息を祈念し、諸国民において侵略の恐怖なく共存し得るが如き太平洋平和が実現されることを希望し、且つ堪えがたき軍備の負担を除去し、各国民が如何なる国家をも排撃し、もしくは特惠を与えるが如き、差別を設けない通商を復活することを祈念する。・・・私が陛下に書を出すのは、この危局に際し陛下に於かれても同様暗雲を一掃するの方法に関し考慮せられんことを希望するが為である」
 ルーズベルトは12月6日午後8時(米国東部標準時)まで待って、ジョージ・グルー大使を経由して裕仁天皇にこの電報を送った。東京時間で12月8日午前零時15分、グルーは東郷茂徳外相に、天皇との接見を申し出た。東郷は、伝えてみるが、実現できるかどうか約束できないと返答した。グルーはそのまま大使館に戻ったが、接見が叶えられることは無く、わずか三時間後には、機動部隊攻撃の発艦時刻が迫っていた。
 12月1日、国務長官ハルと長い電話を交わした後、ワシントンに帰るべきであることに意見が一致、ホワイトハウスに帰着後、ルーズベルトはノックス・ハル・スタークと話し合った。野村大使と日独間でやり取りされた外交電報が少なくと四通届けられた。野村大使への訓令は「両三日中に日米交渉は実質的に打ち切りとする他なき情勢であるが、先方に対して、交渉決裂の印象を与えることを避けることとしたい」と東郷外相。さらに別の電報は、外相の意向をベルリンの大島大使を通して、ヒトラーやリッペントロップ外相に宛てたものであった。「我と英米両国との間に戦争状態の発生を見る虞の極めて大なることを内密通報せられ、且つ右発生の時期は意外に早く来るやも知れず」と。ルーズベルトはこの電報のコピーを手元に保管した。

 12月6日7日、真珠湾攻撃直前に傍受された四通の外交電報がどのように取り扱われたかを追ってみると、日本の武力行使を待つというアメリカの政策とルーズベルト大統領へ提供するための暗号解読作業が如何に速やかに行われていたかが明らかとなる。日本はそれらの電報を24時間の間に四回に分けて送信した。東京はまず予告電報をワシントンの野村大使に送り、対米交渉の回答を送ることを通知した。その回答は二通に纏められた。そのうち第二通目の電報には十三項目、第三通目には十四項目が含まれている、と。第四通目にはこの回答を米国に手交すべき日時が指定されるとあった。東郷は野村に対して、明日(6日)十四項目からなる覚書と手交日時は後送されると、東郷は野村に伝えた。野村は覚書を清書し、訓令が届いたら、速やかに覚書を米側に手交できるよう、万端の準備を整えておくことになっていた。日本側は知らなかったが、これら四通は野村大使に届く前に、アメリカ陸海軍の暗号化解読班が、傍受・解読・翻訳していた。四通の日本外交電報は、日本と米国政府との関係を断絶せしめる覚書で、12月7日日曜日の午後一時(米国東部標準時間)に米国政府に手交せよと命じたものであった。
12月6日午後三時までに、最初の十三項目までの電報は無線傍受局SAILで傍受され、海軍無線監視センターUSへ転送され、午後四時頃には解読され英文に書き換えられていた。US局長サフォード中佐は戦争がまもなく始まると判断してホワイトハウスにこれを伝えた。クレイマー少佐がホワイトハウスに走り、ホワイトハウスではレスター・シュルツ大尉が待っていた。シュルツは午後九時三十分、大統領書斎に案内され、そこにはハリー・ホプキンズもいた。大統領は十分ほどかけて全十三項目を読んだと、シュルツは上下両院合同真珠湾委員会で証言した。日本の戦争理由を述べる長文の電報では、アメリカが日本の経済政策を邪魔し、支那事変では蒋介石側に味方して、この戦争を長引かせようとしていると非難していた。ルーズベルトは覚書の最後のページを読み終えると、ホプキンズの方を向いて「これは戦争を意味する」と言ったのをシュルツは覚えている。そのとき時間は午後九時四十五分だった。大統領もホプキンズも、真珠湾が日本の攻撃目標になっているとは議論しなかったし、開戦日時についても何も発言しなかった。書斎で待っている間、シュルツ大尉は、二人の問答を聞いた。ホプキンズが日本の都合で戦争が始まるのだから、奇襲されるのを防止するため、われわれが最初の一撃を加えることができないのは困ったことだ、述べると、大統領は頷いて「それは出来ない。われわれは民主的で平和的な国民なのだから」 そして語気を強めて「しかし、われわれは良い記録を残した」と。シュルツはこれだけはハッキリ覚えている、という。シュルツによると、大統領は受話器を取り上げスターク海軍作戦部長に電話をかけた。午後十時にはルーズベルトが書類をシュルツに返し、シュルツはクレイマーに書類を返した。クレイマーはその後海軍の先任将官たちに書類を見せて回った。 

 12月7日零時五分過ぎ、東郷外相の覚書の第十四項目と、午前一時三十七分、最終部分にあたる、覚書の手交時刻が指定されている第四通目が入電した。SAIL電信員は直ちに傍受し、ワシントンUS局へ送信された。傍受電報を解読、翻訳して午前七時半、クレイマー少佐に手渡された。午後一時が断行通告時間であることが陸軍情報当局者に伝わっていることを確認し、二通の電報をホワイトハウスに届けた。一方マッカラムはこの電報の写しをスターク大将に届けた。時刻は今や午前九時三十分、ハワイ海域では日本機動部隊が速力をあげて南下、二時間以内に機動部隊は第一次攻撃隊を発進させる予定になっていた。
 日曜日の早朝に傍受された電報は、クレイマーによりホワイトハウスへは午前十時に届けられた。ハワイ時間では午前四時三十分に当たる。今度は海軍副官ビアドール大佐経由で寝室にいたルーズベルトに届けた。ビアドールによると、大統領はその傍受電報を読んだものの、午後一時という覚書手交時間については、何もコメントしなかったという。大統領は警戒していないかのようだった、とビアドールは語っている。
 スティネットは両日のルーズベルトの動静を、主任執事ハウェル・クリムの記録簿を調べているが、土曜の夜にレスター・シュルツの訪問は記録せず、日曜日早朝のビアドールの訪問も記されていなかった、と。午後一時にはルーズベルトとホプキンズが書斎で食事をとったという記録になっている。うーむ、この世界の闇は相当深いのだ。

 キンメル提督とショート将軍は、12月7日、日曜日朝9時半からゴルフをする約束をしていた。午前7時45分、当直参謀から真珠湾入口水路で敵潜水艦を発見したとの電話で、ゴルフはあっけなく立ち消えた。キンメルが自宅を出ようとした時には、戦艦群の上に爆弾が落下し始めた。戦艦アリゾナが、大きな火の玉となって炎上した。艦長の多くは、週末も艦上で過ごしていた。戦艦八隻は攻撃の矢面に立たされ、四隻は沈没、四隻は損害を受けた。旗艦アリゾナの乗組員の八割から九割が戦死、キッド少将やバルケンバーグ大佐も犠牲となった。
 午前9時35分、日本攻撃隊は航空攻撃を止めて、空母へ帰投し始めた。彼らはオアフ島で米軍に大きな人的損害を与えて去っていった。陸海軍戦死者は合計2273名、負傷者1119名。百一隻の艦艇のうち16隻が大破、陸軍機96機、海軍機92機を失った。市民の犠牲者も多かった。これは日本軍に空襲されたのではなく、米海軍の高射砲から発射された砲弾の炸裂による被害で、多くは目標を外れてホノルル市街に落下した、という。そして市民の犠牲者が増えたのは、日本軍のパイロットが空母に帰った後、炸裂弾が爆発して市民が巻き添えになった。1941年12月16日、キンメルは太平洋艦隊司令長官を更迭され、大将から少将に降等された。
 しかしスティネットは言う、日本にとっては戦略ミスがあった。日本機動部隊は石油タンク、海軍工廠の乾ドック、機械工場、修理施設といった工業能力も破壊すべきであった、と。日本が工業基盤を破壊していたら、その打撃は太平洋におけるアメリカの反撃を阻止して米軍を本土西海岸まで降誕させただろう、と。ところが実際は、ミッドウェー海戦の頃には、アメリカは艦艇を修理し、比較的被害の少なかった真珠湾海軍基地を拠点として攻撃能力を回復しており、六カ月前に真珠湾にやって来た日本艦隊の六隻のうち四隻を撃沈した。

 アメリカはほとんど一夜にして完全な戦時体制に移行した。枢軸国をうち破ってこの戦争に勝利しようとするアメリカ国民の決心を、軍事的または道徳的に制限するものは、もはや何もなかった。戦争に勝つためには何をしても許される風潮がみられた。しかし、ハワイが受けた無残な破壊によって、なぜアメリカの太平洋の要塞が無防備だったのか、と議会、主に共和党議員の間で疑問が抱かれるようになったのは、開戦からわずか十日後のことであった。政府に向けられた批判に驚き、真珠湾調査によって戦争努力が傷つけられ、中間選挙に影響を与えることを懸念したルーズベルト大統領は、最高裁判事に助言を求め、提案された議会による調査を拒否して、連邦最高裁判所陪席判事オーウェン・ロバーツを委員長に指名し、五人からなる調査委員会を発足させた。しかし、軍事機密を守るため、ロバーツ調査委員会は徹底した調査を行うことが許されず、日本海軍の電報傍受についても公然と議論されず終わった。米海軍の傍受電信員たちは誰一人として証言台に立たず、彼らの無線日誌や文書を証拠として提出することもなかった。無線傍受局については何も明らかにされなかった。
 ルーズベルト大統領はロバーツ調査委員会の報告を、1942年1月24日正式に承認した。日本の攻撃が成功した原因はキンメル太平洋艦隊司令長官とショート陸軍司令官の判断ミスによる、との結論で、両名は職務怠慢の罪に問われた。しかしマーシャル陸軍参謀総長とスターク海軍作戦部長は、指揮官として任務を適切に遂行していたと判断された。これに対してジュームス・リチャードソン元合衆国指定長官兼太平洋艦隊司令長官は、「これほど不当で、不公平で、嘘で塗り固められた文書を、政府印刷局が印刷したことはない。この委員会は名誉ある人物で構成されているのに、極めて遺憾であり、恥ずかしく思う」

 真珠湾攻撃から四日後、事実を解くカギとなる重要な証拠が隠匿され始めた。隠匿指令の第一号は、海軍通信部長リー・ノイズ少将から発せられた。彼は真珠湾攻撃以前に傍受した、日本の軍事および外交暗号電報ならびに関連した指令を海軍地下金庫に引渡して五十四年間公開しないという検閲規定を定め、文書または文書化されたものはすべて破棄するよう命令を出した。ノイズがこの破棄命令を出したのは、ロバーツ調査委員会が組織されるほんの数日前だった。その命令により、あらゆる真珠湾調査から、日本の軍事電報の傍受記録を除外する方針が定められた。破棄を免れた書類もあった。たとえば著者が1995年1月にマッカラムの覚書を発見したのも、アーサー・マッカラム名義の個人ファイルの中だった、と。

 1945年8月に日本が降伏すると、その二週間後に海軍は真珠湾攻撃以前の傍受記録をすべて最高機密文書として分類し、一般への公開、閲覧を禁止した。議会に対しても傍受記録の閲覧を許可しなかった。さらに第一航空艦隊の無電を傍受した電信員と暗号解読員に対してかん口令が敷かれ、アーネスト・キング元帥がその閲覧を監督した。「海軍省は暗号解読成功物語については一切、公式に否定したり肯定することにより、権威付けする意図はもっていない。漏洩や事実を知った人による追加説明により、裏付けされたり補強されたり、あるいは議論が拡大しないようにすることがもっとも重要である、と本官は繰り返し忠告する」 守秘義務は、解雇された者も含め、海軍に奉職した者すべてにある。


真珠湾の真実 中編

2022年01月31日 | 歴史を尋ねる

 ロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実」は、原題が『DAY OF DECEIT   THE TRUTH ABOUT FDR AND PEARL HARBOR 』。監訳者 妹尾作太男氏は副題を「ルーズベルトの欺瞞の日々」としている。訳出の仕方は実にうまい。思わず本を手にしたくなる。
 前編では「1941年を通じて、日本を挑発して明らかな戦争行為をとらせるようにすることが、ルーズベルトの対日主要政策であったように見える。明らかな戦争行為という語句を含む陸海軍の司令が太平洋方面の指揮官に送られた」までだった。ここからがスティネットの発見し、分析した結果である。前回記したマッカラムの戦争挑発八項目のうち、最も衝撃的な項目は、日本の領海内または領海付近に米艦を故意に配備するという項目であった。ホワイトハウスで秘密会議が行われた時、ルーズベルトはこの項目は自分が担当すると語った。彼はこの挑発行動をポップアップ(飛び出し)と呼び、自分はそれらの巡洋艦があちこちでポップアップ行動を続けて、ジャップに疑念を与えるようにしたい。そのため巡洋艦を一隻は二隻失っても気にしないが、五隻は六隻を失う破目に陥りたくない、と。1941年3月から7月にかけて、ホワイトハウスの記録によると、ルーズベルトは国際法を無視して、ある部隊を日本海域に派遣した。最も挑発的な行動の一つは、瀬戸内海に通じる豊後水道への出撃だった。豊後水道のその先には日本海軍の本拠地江田島があり呉基地があった。日本海軍省は東京駐在のジョセフ・グルー米国大使に抗議した。「7月31日の夜、宿毛湾に停泊中の日本艦船は、東方から豊後水道に接近するプロペラ音を捕らえた。当直駆逐艦が探索して、船体を黒く塗装した二隻の巡洋艦を発見した。当直駆逐艦が向かっていくと、二隻の巡洋艦は煙幕に隠れて南方方向に見えなくなった。その船はアメリカ合衆国巡洋艦であったと信じている」と。

 マッカラムが覚書を作成した翌日の1940年10月8日、日本と極東に関する二つの重要な決定が下された。第一は、国務省が米国人に対して極東から可及的速やかに立ち去るよう告げた。第二は、大統領執務室で合衆国艦隊司令長官ジェームス・リチャードソン大将と前海軍作戦部長のウィリアム・リーヒ大将と時間を延長した午餐会で、大統領はマッカラムの6項目目、ハワイ海域を基地とする合衆国艦隊を維持する件を議題に乗せた。リチャードソンはこの提案を聞くと、合衆国艦隊を危険にさらすルーズベルトの計画を承認しなかった。彼は挑発のため軍艦を犠牲にすること、遅かれ早かれ日本は米国に対し明白な行為をとるだろう、米国民は喜んで参戦するだろう、というルーズベルトの語ったことに強く反対した。
 米海軍は1941年2月、大幅な再編成が行われた。リチャードソンは艦隊司令長官より外され、ルーズベルトは大西洋艦隊と太平洋艦隊を創設・承認した。この再編成により、ルーズベルトは先任海軍将校たちを飛び越えてハズバンド・キンメル少将を太平洋艦隊司令長官に抜擢し、大将に進級させた。キンメル提督がマッカラムの戦争挑発計画を知っていた証拠はない。「アメリカに対して第一撃を加えるよう日本を操るルーズベルトの戦略は、われわれには知らされていなかった」と、キンメルは1955年に刊行した著書の中で語っている。キンメルは「海軍省が入手可能な関係情報すべて、特に暗に真珠湾在泊艦隊への攻撃を示す情報を残らず自分に迅速に提供してくれるだろうとの確信を抱いて、私は太平洋艦隊を指揮することを引き受けた」と。
 アーサー・マッカラムは1940年2月23日、最初の諜報報告をホワイトハウスに送った。その報告は二通とも外交暗号だった。最初の電報でルーズベルトは、日本が蘭領東インドの東方、チモールのポルトガル領における石油の輸出権利を獲得するために外交的圧力をかけていることを知った。二通目は日本陸軍がボリビアに対してすず資源を獲得するために顧問を派遣するものだった。ルーズベルトは傍受電報の原文を読んだが、手元には置かなかった。返却されワシントンの無線監視局USにある、マッカラムの金庫に収納された。政府が真珠湾攻撃を阻止するのに失敗したことについて議会が質問を開始したとき、ホワイトハウスの文書回覧記録簿と秘密内容を含む日本の無線電報傍受記録は、すべて海軍通信将校が管理する地下金庫にしまい込まれた。

 1940年9月下旬か10月の第一週にかけて、陸海軍の暗号解読班は日本政府の主要な暗号システムを二つ解読した。それは主要外交暗号の紫暗号と海軍暗号の一部であった。海軍暗号は29種からなる別々の海軍作戦暗号で、艦艇、商船、海軍基地及び大使館付海軍武官にも暗号化され使用された。真珠湾の真実は外交暗号ではなく、海軍暗号の中に見出される。1997年12月の米海軍協会が発行している雑誌「海軍歴史」は、ミッドウェーの勝利は、米海軍の暗号解読員たちが、日本海軍暗号二十九種のうちの一つ、D暗号を破った結果、もたらされたものであった、記述されている。D暗号を五数字暗号と呼んでいた。その理由は、五つの数字の組み合わせで、日本語の一字か一句を表していた。ハワイ攻撃日本機動部隊旗艦赤城を表す五桁の数字は28494であった。彼らは五数字暗号の外に、別の三つの海軍暗号を解読していた。一つは海軍商船番号、二つ目は各種の日本軍艦、部隊、将校及び日本商船に付与された呼出符号、三つめが軍艦、商船、個人が自らの到着、出発、目的地を報告する海軍発着信通報暗号であった。日本海軍はこれら四つの海軍暗号を真珠湾攻撃以前から太平洋戦争が終わるまで使用した。アメリカが解読に成功したことは、厳重に秘匿された国家機密であった。ルーズベルト大統領は解読翻訳された日本電報の写しを規則正しく受け取っていた。
 アメリカの暗号解説者たちは、日本の四つの海軍暗号の解読を成功した時期については、未だに議論が絶えない。数度にわたる真珠湾調査で得られた証言では、日本海軍の暗号は1942年春まで解読されなかったと示唆している。スティネットの調査結果はこれと異なり、解読に成功したのは1940年の秋にはじめ、アーサー・マッカラムの覚書が大統領執務室に届けられたのと、大体同じころだった、と分析する。海軍作戦部長ロイヤル・インガルソン少将は、太平洋艦隊の二人の指揮官宛ての1940年10月4日付書簡で、日本海軍の戦略と戦術を探り出して予見する能力を米国が得たことを明らかにしていた。日本海軍の主要暗号である「作戦通信暗号(五数字暗号)」の解読は難題であった。解読できることは十分はっきりした、とインガソルが述べている。しかし時間がかかった。時間を短縮するため、米海軍は特別の暗号解読機をを開発した。この機械は国立公文書館に引き渡されていない。海軍の入手した五数字暗号の傍受暗号文も国立公文書館に引き渡されていない。この異常というべき秘密主義は、ルーズベルトが日本の真珠湾攻撃を事前に知っていたのではないか、という疑いから遠ざけることを意図した措置である、とスティネット。

 1940年11月5日、大統領選挙の開票結果の第一報は、ウィルキーの勝利を暗示していたが、間もなくルーズベルトが有利となり、一般投票で票を稼いだルーズベルトはウィルキーに大差で圧勝した。書斎から現れたルーズベルトは「わが国は困難な状況に立たされていますが、皆さんが選んだ大統領はフランクリン・ルーズベルト、今までと変わりありません」 共和党は引き続き孤立主義を貫こうとしていたが、チャーチルが率いる英国政府は、全く異なる見解を示していた。海軍作戦部長のスターク提督はマニラにいるハート提督に「イギリスはルーズベルトの再選後、数日でアメリカは戦争に突入するだろうと予想している」と電報を打った。
 新年を迎え、マッカラムの戦争挑発行動八項目のうち、潜水艦24隻をマニラに派遣する、米主力艦隊をハワイ諸島周辺に配置する、日本が石油や原料を要求しても拒否するよう、オランダを説得する。海軍情報部は日本の外務大臣松岡洋右が1941年1月30日に発信した外交暗号電報を傍受解読して、日本の外交政策の変化を捉えた。「二国間の関係が危機的状況にあることを考慮に入れて、われわれは最悪の事態に対して準備を整えなければならない」 松岡はワシントン駐在の日本大使に米国内の諜報網の組織化、広報宣伝活動の変更を命じ、艦隊の動きと陸軍の演習とに関する詳細な報告を求め、航空機と艦艇の生産量について詳細な情報収集を指示した。日本の外交政策の中心は大東亜共栄圏と呼ばれる経済戦略であった。これは東アジア諸国を日本の通貨で統一しようという趣旨の経済政策で、アメリカ・イギリス・オランダなどの経済的な支配から、日本経済を保護するもので、天然資源に乏しい日本にあって、この地域の豊富な資源を確保しようという狙いもあった。そして最悪に事態を迎えた場合、交戦もやむを得ないというものだった。アーサー・マッカラムは、戦争挑発行動八項目を実施すればいつでも、この最悪の事態を招くことが出来ると確信した。最後の八項目目、日本経済を締め上げ全面的な通商禁止が実施されれば、やがて、最悪の事態は本当に訪れる、と。
 1940年当時、中部太平洋の日本軍事基地は、戦闘には全く適していなかった。それらの基地は、軍事的建造物は何もない、水深の深い錨地で構成されていた。燃料保管庫もなければ、乾ドックも修理工場もなかった。格納庫、燃料補給設備、飛行機などの航空機用諸設備は全然なかった。中部太平洋地域の軍事通信設備も、旧式のものであった。日本の真珠湾攻撃が計画され始めたのは1940年秋で、マッカラムの覚書がホワイトハウスに送付された一か月後のことであった。及川古志郎海相は実行に移すのが早かった。11月中旬、彼は山本五十六を海軍大将に昇進させ、日本帝国連合艦隊の指揮を命じた。及川と山本は英米と開戦する場合の戦略について話し合い、真珠湾を空から奇襲することにより開戦すべきであるということで、二人の意見が一致した。1941年1月半ば、山本は主要幕僚を任命して戦術を検討させた。山本が信頼している海運将校たちに真珠湾攻撃計画を打ち明けて間もなく、東京の米国大使館に真珠湾計画が漏れた。三等書記官ビショップがシティバンクの東京支店で両替しているとき、ペルーの日本駐在公使シュライバー博士から、「日本は軍事的資産をすべて投入して、真珠湾攻撃を計画している」と。ジョセフ・グルーは翌日国務長官ヨーデル・ハルに連絡した。ハルはこの電報を陸軍情報部と海軍情報部に配布した。マッカラムは米艦隊のハワイ駐留が日本を戦争に引き込みつつあることを太平洋艦隊に警告する代わり、太平洋艦隊司令長官に就任したばかりのキンメル大将に、「海軍情報部はこの情報を全く信用していない。日本陸海軍の現在の配備と使用とに関する既知にデータから、真珠湾への移動が差し迫っていなければ、予見しうる将来、計画されてもいない」と。

 1941年2月1日、米海軍の全面的組織替えが実施された。新しい太平洋艦隊には、展開される戦争挑発政策の監視役が組み込まれたが、この変化に気づいたものはほとんどいなかった。ルーズベルトはこっそり海軍情報部長ウォルター・アンダーソン大佐を少将に進級させ、戦艦部隊司令官という肩書で、太平洋艦隊所属の全戦艦に対する指揮権を与えた。アンダーソンは1939年6月から40年12月まで、海軍情報部の部長を務め、つねに政策決定の中心にいた。大統領と直接連絡を取り、連邦捜査局のフーバー長官とも、週に一度は会っていた。最も重要な点は、アメリカが日本の軍事暗号と外交暗号を破ったことを承知していたことだ。アンダーソンが旗艦を訪れた時、キンメルにそのことは伝えていない。キンメル大将同様、ハワイに陸軍司令官ウォルター・ショート中将にも暗号解読の秘密は明かされなかった。日本の外交暗号はショート将軍の指揮所から、ほんの数歩しか離れていないところで傍受されていたが、ここで傍受された暗号電報は無線でワシントンに転送され、海軍傍受局USのパープル暗号機械で解読された。キンメルは艦隊の指揮を執って間もなく、情報網から締め出されていることに気づいた。キンメルはスタークに機密性の高い情報についてその責任を果たすよう要請した。さらにキンメルは情報網に入り込もうとして手を打った。しかしこれも守られなかった。1941年7月末頃には、キンメルはワシントンの情報網から完全に排除された(1941年7月15日から12月7日までの分について、それをタイムリーに解読する手段がなかったようだ。1941年当時、アメリカの暗号解読班がすぐに読んでいたか否かは、1999年現在も議論が絶えない。その是非を証明する方法もなく、また五数字暗号の解読方法も公表されていない。そのような議論は議論するに値しないと著者は考えている。なぜならば、その答えは全く明らかであるから。政府当局はキンメル大将とショート中将らハワイの司令官に、自分たちとは無関係に日本の真珠湾計画を知られて、日本の明白な戦争行為を阻止されたくなかったのだ、と)。

 1940年秋から41年初めにかけて、マッカラムの二つの項目が実行に移された。一つは「蘭領東インド内の基地施設の使用並びに補給物資の取得に関する、オランダとの協定を締結」と、もう一つは米国が「日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張する」ことであった。1940年9月、日本はオランダが石油などの対日輸出をじわじわと絞めてくるのを感じて、石油製品その他の天然資源の日本への流れを維持するため、ジャワ島での外交会議をオランダに申し出た。日本代表団を率いるのは商工大臣小林一三で、オランダの代表はムック経済相であった。小林とムックとの間で行われた外交交渉は過熱し、日本代表団は怒って、オランダ代表団はワシントンの傀儡に過ぎないと主張した。卓上には、蘭領東インドの膨大な石油資源から石油と石油製品を獲得するための権利が含まれた、日本の提案書が置かれていた。日本はオランダに対し、最低でも年間三百十五万トンの石油を提供するよう要求した。そして五年間という条件を追加した。ムック経済相は小林を𠮟責し、日本の石油要求は非常識だ、石油製品の生産と販売はオランダの会社が行っており、オランダ政府は管理しているにすぎないと主張した。その後1941年6月まで、期間を延長して外交交渉を続けたが、オランダから石油を入手することはできなかった。傍受電報は蘭領東インドへの日本経済使節団に言及し、また可及的速やかに蘭領東インドを占領することに、日本が関心を抱いていることを明らかにしていた。しかしアメリカは蘭領東インド問題で参戦するだろうか、ルーズベルトは疑問に思った。東南アジア問題への介入を、アメリカ国民はほとんど支持しない、と彼は感じていた。10月8日、ホワイトハウスでリチャードソン大将は昼食を共にしたとき、大統領の回答を語っている。「私は大統領に参戦するのか、と尋ねた。日本がタイ、クラ海峡、蘭領東インドのいずれかを侵略しても、われわれは参戦しない。彼らがフィリピンを攻撃しても、参戦するか、疑問に思っている。しかし、彼らは常に過失を避けることはできないだろうし、戦争が続き、作戦地域が拡大すれば、遅かれ早かれ、われわれは参戦することになるだろう、と大統領は答えた」 
 米国海軍通信将校のマッカラムと駐米オランダ大使館付海軍武官ヨハン・ランネフト大佐は緊密に協力関係が出来ていた。1940年12月、小林使節団に関わる傍受電報に関しマッカラムはランネフトに電報の写しを渡した。ランネフトはロンドンに亡命中のオランダ政府に報告、日本への土地貸与は拒否された。オランダの暗号解読班は、ジャワ島バンドンにあるカーメル14で日本海軍の通信を盗聴していた。12月7日までの期間、アメリカ・イギリス・オランダの三か国間で、海軍秘密情報について緊密な協力と情報交換が実施されていた。フランク・ノックス海軍長官は、極東の米海軍情報当局者が特に重要な情報を交換することで、イギリスとオランダの海軍情報部に協力していると、ハル長官に語っている。941年の春から夏にかけて、ホワイトハウスが日本とオランダの石油交渉を裏で操っていた。3月19日、オランダ外相クレフェンズ博士とルーズベルトはホワイトハウスで会談し、オランダ外相は会談後、日本のあらゆる要求を拒否してきたし、今後もこの態度を貫くつもりである、と。1941年、クレフェンズ外相とランネフト大佐、日本の軍事及び外交情報を交換しながら、ルーズベルト政権との密接な関係を維持した。
 1941年12月初旬、ランネフトは日本の空母兵力が移動していることを知った。この報告はワシントンの海軍情報部から入手した。ランネフトの日記によると、一か所はハワイの真西であり、もう一つは日本から東に向かう空母の動きだった。その詳しい位置情報について、日記の中では触れていない。しかし太平洋の海図を見れば、ハワイから真西はその先にマリアナ諸島があり、さらにフィリピン海に達する。実際は日本の第三航空戦隊と第四航空戦隊が、フィリピン海で東南アジア進攻の準備中であった。問題は、日本から東寄りに進路を取っている日本空母部隊について、ランネフトがその位置を指摘したことであった。12月2日、ランネフトは海軍情報部を訪ねた際、海軍諜報航跡図に日本を出港して東寄りの航路を進んでいる二隻の空母の航跡が記入されているのを見た。その週の12月6日、彼は海軍情報部が記録を続けている、日本艦船の最新の航跡図を見た。この時マッカラムと彼の上官で海軍情報部長のウィルキンソン大佐は日本空母部隊を指さして、ホノルルの西方への分離を指摘した。日記の記述は「1941年12月2日、海軍省で会議。日本を出港し東寄りの航路を進んでいる二隻の日本空母の位置が、海図上で私に指し示された」 米海軍の公式記録もランネフトの日記の記述を支持している。
 太平洋には11の米海軍傍受局がありハワイ・オアフ島には傍受局Hと無線監視局HYPOが設置されていた。HYPOはH局の傍受電信員たちが受信した、日本海軍の電報を解読・翻訳した。H局で受信した電報と、H局のそれら電報の無線日誌とは、アメリカが真珠湾攻撃を事前に知っていたことを示す、有力な証拠である。しかし記録の多くは、1941年から46年にかけて行われた何回もの真珠湾調査及び1995年の議会による調査委員会からも除外された。最も有力な証拠は11月25日、第一航空艦隊宛ての山本連合艦隊司令長官の電報である。当時31隻の艦隊は千島列島の単冠湾に錨泊して、出撃する指令を待っていた。山本は第一報で「機動部隊は極力その行動を秘匿しつつ、11月26日朝単冠湾を離れ、12月3日午後、北緯42度東経170度の地点に進出し、速やかに燃料補給を完了すべし」 第二報では、「機動部隊は極力その行動を秘匿しつつ、対潜対空警戒を厳にしてハワイ海域に進出し、開戦劈頭、在ハワイの敵艦隊主力を攻撃し、これに致命的打撃を加えるものとする。最初の航空攻撃はX日の明け方とする。正確な日時は後令する。空襲終わらば機動部隊は緊密に連携を保ち、敵の反撃に備えつつ、速やかに敵海域を離れ、内地に帰投するものとする。対米交渉成立の場合、機動部隊は警戒態勢を維持しつつ帰投し、再編成を行うものとする」 これら二通の電報は、日本側の通信データはすべて取り除かれ、傍受局がどこかも示されずにワリン中将『真珠湾』と合衆国戦略爆撃調査団海軍分析課編集『太平洋戦争の会戦』という二冊の米海軍歴史書に、1941年に米海軍無線監視局で傍受されたまま、日本海軍の電報形式に則った形で掲載されている。
 無線傍受局Hの記録によると、山本は11月24日午後1時から26日午後3時54分の間に呼出符号で13通の無線電報を打っている。1979年、ジミー・カーター大統領が国立公文書館に公開を指示した傍受日本海軍電報ファイルの中から、これら13通の電報は行方不明となっている。日本艦船の航路通報は傍受局Hが傍受した暗号電報記録により、発信されたことが実証されているが、それらのうち一通も、1946年の上下両院合同調査委員会にも、1995年の国防総省の調査委員会にも、提示されなかった。それどころか、日本艦船は無線封止を続けていたので、アメリカの無線情報部は日本艦船を見失ったと、議会で証言した。キンメル司令官の情報参謀レイトンもこの主張を支持した。1946年、レイトンは公聴会で、真珠湾攻撃までの25日間、日本空母部隊・空母部隊指揮官に対する日本の使用していた周波数帯域での無線通信は聞かれなかった、と証言した。しかし、レイトンは隠蔽工作を行った、とスティネット。日本軍の暗号電報傍受記録は入手可能であったのに、レイトンは日本艦船の単冠湾への移動について、キンメル司令官への報告を怠った、と。コレヒドール、グアム、ハワイ、アラスカにある海軍無線監視局は、確かに無線暗号電報を受信していた。機動部隊、31隻の艦船とその司令官たちは、11月12日から12月7日の奇襲まで25日余りの間、無線封止を破って発信し、また東京から電報を受け取っていた。
 ランネフトの記述によると、傍受電報と海図上に記入された航跡は、日米との衝突が差し迫っていることを暗示していた。彼はこの件について次の通り語った。「われわれの間では誰もホノルルが攻撃される可能性について、言及しなかった。私自身も、そのことを考えなかった。なぜならホノルルにいる各人が、海軍情報部にいる者と同様、100%警戒している、と私は信じていましたから」

 アメリカは1920年代の初めから、日本政府の通信盗聴を続けてきた。ルーズベルト政権の軍部指導者たちは、これを「見事な配備」と呼んだ。1941年、無線傍受局は太平洋を囲むようにして、25か所に設置されていた。この中には日本の軍事暗号と外交暗号を解読した四か所の暗号傍受解読局が含まれていた。オアフ島にあるホーマー・キスナーのH局、ジョセフ・ロシュフォートのHYPO、さらにコレヒドールのCAST,シアトル近くのSAIL。無線傍受局の配置には極めて大規模な分野での努力と成功を必要としたが、これによってアメリカは日本政府の動向を多年にわたり常に把握することが出来た。ジョセフ・ロシュフォートと彼が指揮するHYPO局とは、真珠湾の悲劇と第二次世界大戦で、凄まじい暗号解読劇の主役を演じた。ロシュフォートは暗号作業に秀いで、大尉に昇進して、諜報部隊を立ち上げるのに携わり、上司が海上勤務を命じられると、ロシュフォートは担当将校となって部隊は無線監視傍受局USとなった。監視局は海軍12,陸軍4で運営され指揮権は各局に委任されていた。米海軍の日本監視プログラムは史上最大規模で、SAIL,CAST,HYPOの各局がそれぞれの地域の無線傍受統制中枢としての役割を果たした。傍受した電報の解読と翻訳とは四局、太平洋地域ではCASTとHYPO,ワシントンではUSと陸軍通信情報部で行われた。イギリスの監視局はシンガポール、香港、カナダのバンクーバー。オランダは蘭領東インドのバンドンに無線監視、暗号解読局カーメル14が置かれていた。以上が見事な配備の全貌であった。
 ロシュフォートの指揮するHYPOは約140名の無線諜報スペシャリストを抱えていた。さらに32名のスぺシャリストがダッチハーバー、ミッドウェー、サモア、オアフで無線方位測定器の操作に当った。さらにオアフ島の沿岸警備隊の暗号解読員もHYPOに傍受情報を提供した。オアフ島では毎日一千通の日本軍事情報を傍受解読し、調べる必要があった。中部太平洋情報ネットワークは、その努力を日本海軍情報だけに集中して、外交情報は収集しなかった。外交情報の収集はCASTとSAILの任務だった。ロシュフォートは任務に忠実であったが、翻訳するだけでなく、予測までした。しかし、フィリピンには陸海軍共同の暗号諜報施設があったが、オアフ島ではHYPOと陸軍無線傍受局FIVEとの間には連絡網がなかった。ウォルター・ショート陸軍中将の管理下にあったFIVE傍受電信員は日本の外交電報を受信していたが、パープル暗号解読機がなかったので、CASTかワシントンに解読を頼むしかなかった。ショート中将はFIVEで傍受した無線の重要性に気が付き、ロシュフォートに陸軍の傍受電信員に解読するよう指令を出してほしいと要請したが、ロシュフォートの反応も検閲のために明かにされていない。
 アメリカ太平洋艦隊司令官が、これら諜報コミュニティの機密情報に接触できたのは、キンメル大将が解任された12月16日」のことである。その日、一時的にキンメルの後任に就くことになっていたウィリアム・パイ中将が、南雲の845通目の電報を受け取った。電報になかで奇襲攻撃による太平洋艦隊の損害を報告していた。キンメル大将と太平洋艦隊とは「見事な配備」の受益者であるべきだった。それがUS局の局長ローランス・サフォードの意図であった。彼は6月1日まで、ロシュフォート、百四十名の暗号解読員と電信員及びキンメルに、そのように伝えていた。1941年7月15日よりHYPOは、日本海軍の活動情報を毎日、要約して報告していた。12月6日朝、キンメルがロシュフォートから最後の通信情報概要を受け取るまでに、11万2千通の日本海軍無線電報がH局で傍受されていたが、日本の攻撃を示唆する傍受電報は、一度も通信情報概要に現れなかった。また第一航空艦隊が真珠湾攻撃を計画していた時、同艦隊が発信した844通の電報のうち、どれ一つとして通信情報概要に記載されてなかった。
 1944年ルーズベルトが四期目の大統領選に出馬したとき、共和党候補のトーマス・デューイが「見事な配備」を知り、ホワイトハウスは真珠湾が攻撃されるまで日本の電報を読んでいたのなら、太平洋艦隊はなぜ不意打ちを食らったのか、ルーズベルトを破る方法を思いついた。しかし、そんなことをすれば、日本は直ちに暗号を変更してしまうだろうと、当時、統合参謀本部議長だったジョージ・マーシャル陸軍大将は、暗号問題を選挙キャンペーンに利用しないよう、アメリカ人の命がかかっているとして、デューイを説得した。


真珠湾の真実 前編

2022年01月25日 | 歴史を尋ねる

 「東京裁判が進行中だが、米国が先に開戦を計画していたという情報的証拠が欲しい」と極東国際軍事裁判、日本人弁護団副団長の清瀬一郎が、旧特情部の企画運用課長横山幸雄中佐を呼び寄せたと前回のブログで記述したが、清瀬が探したこの情報は東京裁判の計画的筋書をひっくり返す力があったという。つまり日本の真珠湾攻撃は奇襲であったかどうか。アメリカが先に日本から先制攻撃をさせるよう仕組んだという話は後を絶たない。しかし米国側の情報公開もその辺は弁えている。決定的情報は非公開である。しかしロバート・B・スティネットは1982年から1999年にかけて、第二次世界大戦以前の軍事記録はワシントンの国立公文書館、第二次世界大戦とそれ以降はメリーランド州カレッジパークに保管されている軍事記録を調査した。参照情報は、1941年12月22日~1946年5月30日までの八回にわたる国が行った真珠湾調査の公式記録、米国の上院及び下院によって任命された特別委員会により1945年~1946年にかけて実施された上下院合同真珠湾攻撃調査委員会が収集入手した文書、無線監視局USと海軍秘密保全グループコマンドが入手した通信諜報約百万件の文書類が収録されているがそのうち閲覧を許可された文書約六千件、ジミー・カーター大統領が1979年に公開した日本の海軍電報の解読・翻訳文三十万点。スティネットは著書『真珠湾の真実』の執筆に当って引用した文書類、録音テープ、ビデオテープ、写真、画像、ネガ等をすべてカルフォルニア州スタンフォード大学フーバー公文書館に収め、これらのコレクションを一般公開するという。さらに本書は米国の情報の自由法起案者、ジョン・モス下院議員に捧げる、情報の自由法がなかったら、本書で明らかにした情報は、決して日の目を見ることは無かっただろう、そしてスティネットの唯一の目的は、海軍基地及び周辺の陸軍施設に破壊的攻撃をもたらすに至った出来事の真相を明らかにし、それがフランクリン・ルーズベルト大統領とその軍事・政治顧問である側近高官の多くの者にとって、決して奇襲ではなかった事実を伝えることにある、と。
 太平洋戦争を経験した退役軍人の一人(スティネット)として、五十年以上もの間、アメリカ国民に隠蔽され続けた秘密を発見するにつれて、著者は憤激を覚える。しかし、ルーズベルト大統領が直面した苦悶のジレンマも理解した。自由を守る戦いに参加するため、孤立主義に陥っているアメリカを説得するに、彼は、回りくどい手段を発見するほかなかった。そのためには人命を犠牲にするだろうことを承知していたが、それが何人になるのかは知ることが出来なかった。アメリカ国民は、第一次世界大戦において世界を民主主義のために安全な世界を作ろうとした米国の理想が失敗したことに幻滅を感じていた。アメリカ国民の多くは、再び起こる戦争の恐怖から若者たちを守るため孤立主義を唱え、ルーズベルト大統領が息子たちを外国の戦争には送らないだろうと信じていた。しかし、アメリカ国民は自国に対する明らかな武力行為には反撃するだろうと、ルーズベルト大統領は考えていた。そこで、ルーズベルトが側近たちと示し合わせて下した決定は、一連の行動を通じて日本を明らかな戦争行為、つまり真珠湾攻撃へと挑発することであった。
 17年間にわたる公文書の調査及び米海軍暗号解読者たちとの直接インタビューの過程で、ルーズベルトのジレンマを解決した答えは、情報の自由法に基づく請求により入手した途方もない数の文書の中に記録されている、とスティネット。それらの文書には、アメリカを戦争に介入させ真珠湾及び太平洋地域の諸部隊を戦闘に叩き込むべく、明らかな戦闘行為を誘発するために計画、実施された、権謀術数の限りを尽くした措置が記述されている。日本を挑発するために、ルーズベルトには八つの手段が提案された。彼はこれらの手段を検討し、すぐに実行に移した。第八項目の手段が実行されると、日本は反応してきた。1941年11月27日及び28日、米軍司令官たちは、次の命令を受け取った。「合衆国は、日本が先に明かな戦争行為に訴えることを望んでいる」と。ヘンリー・スチムソン陸軍長官によれば、これはルーズベルト大統領から直接出された命令であるという。

 1941年12月7日の出来事を、アメリカが事前に知っていたか否かについて、議論が絶えない。戦争を匂わす日本の外交電報が傍受解読されていたことは、ずっと以前から承知している。しかし、スティネットが発見したことは、われわれはそれ以上に多くのことを承知していた。われわれは戦争挑発手段を実施したばかりでなく、日本海軍の電報も傍受解読していた。日本が攻撃を開始することにより、太平洋艦隊及び太平洋地域の市民たちを含む米軍部隊が大きなリスクに曝され、危険な状態になる事実を、ルーズベルトは受け入れた。ハワイの米軍指揮官、ハズバンド・キンメル海軍大将とウォルター・ショート陸軍中将には、彼らをより警戒させる秘密軍事情報は提供されなかったにせよ、彼らは「合衆国は、日本が先に明かな戦闘行為に訴えることを望んでいる」という大統領命令に従った。20万通以上の文書とインタビューにより、スティネットはこの結論に到達した、と。それではスティネットの調査結果を紐解いてみたい。
 「真珠湾攻撃の数日前、CBSラジオの取材記者ムロー夫妻は大統領夫妻から夕食に招かれた。真珠湾攻撃に関する第一報が入り、ムローは予定を確認したところ、夕食会は予定通り開くとの返事だった。大統領は議会と軍部の指導者たちと会議に入っているため夕食会に参加できないと告げられたが、食事中ムローは少し残るよう伝言があった。12月7日の晩、ルーズベルトは一晩中、議会や軍部の指導者たちと会談し、翌12月8日、開戦措置第一号をとるつもりで、議会に対し対日宣戦布告を要請する決心を固めた。「汚辱の日」として知られる宣戦布告演説の草稿も、この時に準備した。それから大統領はムローとドノバン(大統領の情報調整役、のちにCIAの前身である戦略情報局を創設した)を大統領書斎に招き入れ、25分間会談したが、公式記録は残されていない。ドノバンがヒューベルに後に語った内容が彼に日記に記録されている。大統領はムローとドノバンに、日本の第一撃は枢軸諸国に対して米国民を一致団結させるための、宣戦布告を行う明瞭な論拠となるか否かを尋ねた。あの一撃は、実際にその効力を持っているだろうと、二人が答えた。大統領は、ホワイトハウスの他の者ほどには驚いていない、むしろ歓迎していると、ドノバンは感じていた。大統領は、日本の攻撃は差し迫っている、と真珠湾に事前に警告していた。「ビル、奴らはわが艦船をまるで能なし野郎のように攻撃してきた。われわれは真珠湾やその他すべてに見張りを置くように言っておいたのに、奴らはそれでもなお、われわれを奇襲したのだ」。 大統領はそれでもアメリカの孤立主義者が考えを改めるとは思えない様子で、英国外務省役人のメッセージを読んで聞かせた。再び二人に意見を求めた。アメリカ国民は宣戦布告を支持するだろうか。ドノバンもムローも、きっと支持するだろうと答えた。大統領は真珠湾攻撃に対する国民の反応を最も懸念していた、とこの会談の内容についてほのめかしたのはドノバンだけだった。
 その晩、ムローは妻に語った。「わが取材人生で最大の特ダネだけれど、これを伝えることが自分の務めなのか、それとも聞かなかったことにするべきなのか、判断ができない」。結局のところ、ムローの特ダネが記事になることも、ラジオで放送されることもなかった。ただその情報が何であるにせよ、それはムローに重くのしかかった。ムローの伝記作家によると、「彼はそのことを忘れることも出来ず、特ダネを公表しなかったことで、ときどき自分を責めたりした。あの晩、彼は自分の務めを見極めることも出来ず、ルーズベルト大統領の意図を汲み取ることも出来ず、どうしたら気が済むのかを、決めかねていた」、と。ムローは口を閉ざしたまま、1965年、57歳で亡くなった。」


 スティネットは言う。この会談の当事者たちが明らかにしていないので憶測で語るしかない。ルーズベルトが真珠湾を予知していたか否かを解決するのに役立つ、より多くの直接的な証拠がある。これまでの説明では、真珠湾以前に日本軍の暗号を解読していなかったと言われている。今や、この主張が間違っていることを知っている。また以前の説明では、日本艦隊は厳重な無線封止を守っていたといわれていたが、これも間違っていた。事実ははっきりしている。ルーズベルト大統領は、日本の真珠湾攻撃を事前に知っていた。真の論点は、日本が真珠湾を攻撃するよう、ルーズベルトが慎重に仕向けたのではないか。米国が人目につかない戦争挑発行動を先に取っていたのではないか。1940年10月7日に作成され、ルーズベルト大統領に採用された、ある極秘戦略覚書によると、そうした行動がいくつか、実際にあった、と。
 戦火がヨーロッパとアフリカの一部に広がり、日本、ドイツ、イタリアが三大陸で諸国を脅かしていた時、ワシントンの海外情報部で作成され、ルーズベルトの最も信頼する二人の顧問あてに作成された覚書には、米国の衝撃的な新しい外交政策が提案されていた。それは日本を挑発して米国に対し、明らかな戦闘行為をとるよう企図したものであり、海軍情報部極東課長アーサー・マッカラム海軍少佐が作成した文書だった。彼は1898年宣教師であった両親の間に長崎で生まれ、少年時代を日本の諸都市で過ごし、英語よりも日本語が喋れた。父の死後、アラバマ州に帰り、18歳で海軍兵学校に入校、22歳で海軍少尉に任官すると、駐日アメリカ大使館付海岸武官を命ぜられて来日、日本の皇族とも繋がりが出来た。マッカラム少佐が1940年10月に作成された文書(戦争挑発行動八項目覚書)には、アメリカを動員加担させる状況を作り出そうという計画が認められていた。その八項目の行動計画は、ハワイのアメリカ陸、海、空軍部隊並びに太平洋地域のイギリスとオランダの植民地前哨部隊を、日本軍に攻撃させるよう要求したものだった。1940年夏の世論調査では、米国民の大多数は、アメリカがヨーロッパの戦争に巻き込まれることを望んでいなかった。しかし、ルーズベルト政権の陸海軍省と国務省の指導者たちは、ナチス・ドイツ軍が欧州戦争で勝利を収めたら、米国の安全保障に脅威になるだろうという点で意見が一致していた。米国が行動を移すための呼びかけが必要だと感じていた。
 マッカラム(情報将校)はF-2というコード名を与えられ、1940年前半~1941年12月7日まで、ルーズベルトに届ける通信情報の日常業務を監督し、日本の軍事外交戦略に関する諜報報告を提供していた。傍受解読された日本の軍事外交報告は、海軍情報部極東課を通してホワイトハウスに届けられ、マッカラムが監督した。極東課は日本だけではなく東アジア諸国全部について担当していた。大統領のために準備した各報告は、世界中に張りめぐされた米軍の暗号解読員と無線傍受係の手で収集解読された無線電信の傍受記録が基礎となっていた。当時のアメリカ政府や軍部の中で、日本の活動と意図について、マッカラム少佐ほどの知識を持っている人物はほとんど見当たらなかった。彼は日本との戦争は不可避であり、米国にとって都合の良い時に、日本から仕掛けてくるよう挑発すべきと感じていた。1940年10月作成のマッカラム覚書の中で日本を対米戦に導くと考えた八項目は、①太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。 ②蘭領東インド(インドネシア)内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。 ③中国蒋介石政権に可能なあらゆる援助の提供。 ④遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールへ派遣すること。 ⑤潜水戦隊二隊の東洋派遣。 ⑥現在、太平洋のハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。 ⑦日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう要求すること。 ⑧英帝国が日本に対して取っている通商禁止と協力して、日本との全面的な通商禁止。  この八項目覚書は、ルーズベルトが最も信頼していた二人の軍事顧問、アンダーソン海軍大佐とノックス海軍大佐に送付された。アンダーソンは海軍情報部長で、直接ホワイトハウスのルーズベルト大統領に面会できた。マッカラム覚書の末尾にノックスの承認メモが残され、アーノルドとルーズベルトが閲覧した証拠も見つかった。

 1941年を通じて、日本を挑発して明らかな戦争行為をとらせるようにすることが、ルーズベルトの対日主要政策であったように見える、とスティネットは言う。そこで前もって、この時代の日米関係の詳細を、ビアード著、開米潤監訳「ルーズベルトの責任」巻末を参考にして、整理しておきたい。
 1939年9月1日、ドイツ、ポーランド侵攻。3日、アメリカ、欧州戦争に中立を宣言。1940年1月26日、日米通商航海条約が失効。9月22日、日本、北部仏印に進駐。27日、日独伊三国同盟成立。10月8日、ルーズベルト、リチャードソン太平洋艦隊司令官に「遅かれ早かれ、やつら(日本)は過ちを犯し、われわれは戦争に突入する」と発言。11月2日、ルーズベルト、大統領選挙でこの国は戦争に突き進まないと公約。1941年1月6日、ルーズベルト、一般教書演説で連合国に戦争必需品を貸与する支援計画を発表。10日、武器貸与法案が中立法を打ち消すものでないと発言。このころの聴聞会で、ハル国務長官「自衛にための仕組み」、ノックス海軍長官「わが国の息子たちを戦争にやらずにすむ唯一の方法」、スティムソン陸軍長官「必然的にアメリカの参戦につながるものではない」と説明。21日、ルーズベルト、駐日グルー米大使からの「いずれ日本と正面衝突することを避けられず」との手紙に「まったく同感」と返信。2月1日、太平洋艦隊司令長官に、リチャードソン海軍大将を更迭し、キンメル海軍大将が就任。11日、野村吉三郎駐米大使が着任。3月11日、武器貸与法案が成立。 4月3日、スターク海軍作戦部長、キンメル大将に問題は戦争に参加するかではなく、いつ参加するかだと手紙。4月13日、日ソ中立条約締結。 5月6日、スターリン、ソ連首相に就任。16日、野村・ハル会談。ハル長官は日米了解案を踏まえて日本政府の正式な訓令を要請。5月27日、ルーズベルト、国家非常事態を宣言。合衆国は防衛のみを目的としているが、現代の戦争は瞬く間に展開されるのでパトロール活動を大西洋の南北海域に拡大し艦船と航空機を追加投入していると発表。 6月11日、ノックス海軍長官、米駆逐艦が独潜水艦を撃破したとの報道に何も知らないと発言。その後新聞各紙に、海軍の行動については海軍省が適正とみなすニュースのみを活字にするよう警告。14日、ルーズベルト、独伊の資産凍結を命令。21日、野村・ハル会談、米国側が日米了解案の訂正案をオーラルステートメントとして手交。22日、独ソ開戦。25日、日本、南部仏印進駐を決定。 7月2日、ノックス海軍長官、海軍の遭遇戦・護送の報道は絶対に真実でないと否定。11日、合衆国とアイスランド国籍の船舶の護送を命じる。16日、第二次近衛内閣総辞職、外相を松岡洋右から豊田貞次郎に変えて第三次近衛内閣成立。7月25日、アメリカ、日本の資産凍結。 8月1日、合衆国、全侵略国に石油禁輸を含む経済制裁を適用。8月6日、野村・ハル会談、日本側、仏領インドシナから将来撤退することを提案、制裁解除を求める。9日~12日、大西洋会談。ルーズベルト、①日本に対して警告文を出す、②アゾレア諸島を占領する、③戦後、米英は世界の警察官として治安維持にあたる、とチャーチルと合意。日本を「三十日間はあやしておけるだろう」と発言。17日、野村大使、ルーズベルトに近衛首相との太平洋会談の提案を伝達。ルーズベルトは、日本政府が近隣諸国に武力政策をこれ以上推進すれば合衆国の安全保障上必要とみなすあらゆる措置を講じなければならなくなるとの警告。24日、チャーチル、日米交渉で和解の希望が絶たれればイギリスはためらうことなく合衆国の側につくなどとラジオ演説。28日、米海軍、軍事行動を南東太平洋の海域に拡大。野村大使、ルーズベルトに太平洋会談開催を要請する近衛首相の親書を手交。 9月3日、大統領報道官、近衛首相が大統領に直接会談を提案したとの報道を否定。実際には同日、日本に首脳会談に先立ち事前討議が必要と回答。6日、近衛首相、アメリカの提示した四大原則に完全に同意と返信。アメリカ側はそれでは不十分だとしてさらなる原則や表現に関する合意が必要と回答。ハル国務長官、日米間の調停を目指す予備的対話の進展について何も知らないとの報道。11日、ルーズベルト、グリアー号が独潜水艦に攻撃されたのであって、ヒトラーと武力紛争を望んだことは無いと演説。同日、防衛水域での枢軸国艦船への攻撃を許可。23日、スターク海軍作戦部長、キンメル大将に大統領が大西洋と南東太平洋下部地域に限って、発砲命令を出しているとの手紙。29日、グルー駐日米大使、日本政府が大統領との平和会談をますます切望しており、この好機が逃されないことを切望するとワシントンに報告。 10月2日、合衆国、日本に四原則の確認と仏印、中国からの撤兵要求の覚書。ドイツ、モスクワ攻撃を開始。5日、大本営、連合艦隊に作戦準備を命令。15日、ゾルゲ事件。16日、近衛内閣、総辞職。18日、東条英機内閣が成立。27日、ルーズベルト、カーニー号事件でアメリカは攻撃を受けた、中立法は時代遅れになったと発言。 11月4日、ハル国務長官、東条内閣が切望する合衆国との和解に向けた最後の提案として野村大使に送った傍受通信を入手。11日、国務省の極東部、日本との暫定合意をハル長官に勧告。15日、来栖三郎特使、ワシントンに到着。22日、ハル長官、野村大使と来栖特使と会談。日本側は仏領インドシナ南部からの引き揚げを含む計画を提案。25日、ルーズベルト、ハル国務長官・ノックス海軍長官・スティムソン陸軍長官・マーシャル陸軍参謀総長・スターク海軍作戦部長との会議で「早ければ次の月曜日(12月1日)にも」攻撃される公算を指摘。「どのようにしてわが国にさほど甚大な危険を招くことなく奴らが最初に発砲するように導くか」を議論。25~28日の政府高官会議でハル国務長官、①日本との合意に達する可能性は事実上全くないと発言、②安全保障問題は陸・海軍の手にゆだねられた、③日本の奇襲を防衛戦略の中心に据えるべき、と発言。 26日、連合艦隊のハワイ作戦機動部隊、単冠湾を出港。ハル国務長官、野村大使と来栖特使に覚書を手渡す(ハル・ノート)。日本に中国とインドシナからの全面撤退、中国国民政府のみを認めるなどを要求。日本政府代表は本国で最後通告とみなされる可能性を指摘。27日、陸軍省、ハワイのショート中将に「日本との交渉は事実上打ち切られた模様だ」「合衆国は日本が最初に外的行為をとることを希望する」、日本が敵対行為を始める以前に任務遂行にあたっては一般市民の警戒心を招くこともその意図が露呈することもないようにとの警告を送付。同日、海軍省、ハワイのキンメル大将に「戦争警告とみなすべし」「日本との交渉は終了した」、戦争に定められた防衛体制の配備を命じる通信を送付。28日、日本がクラ地峡に侵攻してイギリスが戦う場合は合衆国も参戦せざるを得ないとの見解で一致。同日、陸軍情報部、日本政府がハル・ノートを屈辱的な提案、交渉は事実上決裂したと駐米大使宛ての通信文を傍受。29日、ハル国務長官、イギリス大使と会談し対日関係で外交が果たす役割は事実上終わり、問題は陸・海軍の手に移ると説明。また日本は早急に意外性のある行動を起こし特定の陣地や基地を獲得するかもしれないと発言。 12月1日、ルーズベルト内閣、アングロサクソン諸国と日本との間で早期に戦争が勃発する危険性を伝える東京から駐ベルリン大使宛ての傍受通信を入手。2日、ルーズベルト、日本政府に仏印南進の理由を公式に問い質したと発表。記者会見で「日本と平和状態にあり、それも完全に友好関係にある」と発言。5日、野村大使と来栖特使、ハル国務長官に仏印での軍事展開は予防のためであり、ABCD諸国の軍備増強に危機感を募らせていると回答。6日、オーストラリア海軍情報部、日本の艦隊がハワイに急行していることを確認。同日、陸軍情報部、ハル・ノートへの日本政府の返書とこれを手渡す時間が送られることを通知した豊田外務大臣から野村大使宛て極秘通信を傍受。午後9時、ルーズベルト、天皇に平和と協調を訴える親書を送信。午後9時半過ぎ、ルーズベルト、日本の傍受電報を受け取り、「これは戦争ということだ」と発言。7日午前4時37分、米海軍基地、日本の「午後一時」通信を傍受。午前10時、米海軍大尉、ホワイトハウスと国務省に日本が真珠湾とフィリピンを攻撃するとの情報を伝達。午前10時半過ぎ、スターク海軍作戦部長、午後一時通信を受け取る。その後11時までに、ハル長官の補佐官、大統領補佐官にも届けられた。午前11時過ぎ、マーシャル大将、午後一時通信を受け取りハワイに戦争警告を民間の電信で発令。午後一時、野村大使、ハル国務長官に面談を申し入れ。午後一時半ごろ、日本、真珠湾を奇襲攻撃。午後1時50分、海軍省、真珠湾が空襲の至急報を受け取る。午後2時、ルーズベルト、ハル国務長官に真珠湾攻撃を告げる。午後2時5分、日本の代表団、20分遅れで国務省に到着、5分後にハル長官と面談。ハル、「この地球上にここまで大きな歪曲と破廉恥な嘘を口にできる政府があるとは今日まで想像したこともなかった」 8日、ルーズベルト、議会に戦争状態の宣言を要請。「屈辱の日」演説。日本がいわれのない、卑劣な攻撃を行ったと説明。イギリスも対日宣戦布告。ドイツ、対ソで苦戦。ヒトラー、モスクワ攻撃を放棄。11日、ドイツとイタリア、アメリカに宣戦布告。16日、ハワイ司令官のキンメル海軍大将、ショート陸軍中将を解任。18日、ルーズベルト、真珠湾事件を調査するロバーツ委員会を設置。22日、ルーズベルトとチャーチル、ワシントンで戦争指導会議。 
 以上はチャールズ・A・ビーアド著「ルーズベルトの責任」の訳者(開米准)がビアードの原書で言及された事項を基に作成されたものである。時系列に事実関係を羅列しただけで、当時の状況が浮かび上がってくる。ビアードは真珠湾攻撃を単に歴史に重大事件として記録するのではなく、ルーズベルト大統領が参戦を決定するまでの過程を炙り出した大統領陰謀説の嚆矢ともなった。これに、スティネットはどんな事実関係を追加したのか。文字数がかさんだので、続きは次回としたい。