検察側の「中華民国における軍事的侵略」「中国各地における残虐行為及び阿片・麻薬問題」「対支経済侵略」の三部門立証を反駁する「中華民国に関する立証」の冒頭陳述は、畑被告担当のラザラス弁護人が行った。①盧溝橋事件及び日本の不拡大方針、②中国共産党の活動と排日運動、③事変の中支への波及、司令官がこんな状態で、駐屯軍が積極的にことを仕掛けることは考えられない。④南京攻略と平和への日本の努力、⑤漢口攻略とその後、⑥中国新政権、の六項目に分けて、各項目ごとに、証拠を基に事件及び事柄の経過を説明しているが、いわゆる「南京虐殺事件」を含む中国各地での残虐行為に関する検察側の訴追に対して、南京での残虐行為は誇張的に報道されあるいは全然存在しなかった事、中国人による残虐行為で日本軍人に責任転嫁されたものがある事を明らかにする旨強調している。本部門の立証は難航した。さらに大きな特徴は、証拠として受理されたものとほぼ同数の文書が検察側の異議により却下された。
盧溝橋事件:昭和十二年七月七日夜の盧溝橋最初の銃声は、果たして日支双方何れの側によるものだったのか、が検察・弁護双方の第一の争点だった。検察側の主張は宋哲元将軍率いる第二十九軍の秦徳純将軍、宛平県知事王冷斎により、事件当夜の日本軍の演習は不法なものであり、事件の責任は一切日本側に在る旨の証言を行わせているが、最初の銃声が日本側によるものとの確言はなかった。弁護側が当時旅団長だった河辺正三陸軍大将、中国第二十九軍軍事顧問だった桜井徳太郎陸軍大佐、参謀長橋本群陸軍中将、参謀和知鷹二陸軍中将、陸軍省軍事課長田中新一陸軍中将の各氏を次々と喚問した。それぞれの立場からこの事件の関りを述べたが、要約すると、北支駐屯軍の兵力・任務・訓練・演習の状況、中国軍の兵力配備状況、中国側の排日機運激化の状況、事件発生当夜の状況と事件発生後の北支駐屯軍の行動、中央の不拡大方針に基づく中国軍との交渉、停戦協定の締結、停戦協定に違反した中国軍の不法行動と中国軍の大兵力移動集中の状況、日本軍が積極的行動に出るのやむなきに至った事情、事件発生前後の陸軍中央部の判断・処置等に関することであった。橋本群証人の口述書には、事件当夜日本軍は空砲で演習中で実弾は所持していなかったため、中国側から射撃を受けたが応射出来ず危険な状態に陥った、と。河辺証人と弁護士との一問一答形式の口述書では、問 盧溝橋での日支両軍の衝突は、第三者の策謀に端を発するとの説があるが如何。 答 そのことは判然としないが、七月七日事件勃発以後、日支両軍対峙間毎夜不法射撃が頻発し、その都度日支両軍の状況を調査すると両軍共、射撃をした形跡もなく、日支両軍いずれにも属さない第三者が両軍対峙した中間地帯から射撃をしていた事がほぼ判明し、確かに何者かの策謀があったように判断された、と。
この毎夜の不法射撃が、日本軍と蒋介石率いる中国国民軍とを衝突させようとした中国共産軍の策謀であった事を明らかにした文献は、今日巷間にいくつかある、と冨士信夫氏。ふーむ、この河辺旅団長の証言をここで初めて知ったが、そこまで情報をつかんでいたら、旅団長はなぜ日支両軍の衝突を未然に防ごうとしなかったのか、中国共産党の動きぐらい当然掴んでいたのではないか。それとも、河辺旅団長の言葉は、後日の考えなのか、でも両軍の状況を調査したと言っている。司令官に及ばなかったということか。では司令官はどうしていたのか。ウキペディアでは次のことが分かる。「事件当初の司令官田代 皖一郎は、第一次上海事変終結直前にテロに倒れた派遣軍司令官白川義則大将の参謀長として事件を早期に収拾し、その手腕は高く評価された。その後、支那駐屯軍司令官となるが病を得て、司令官の職を香月清司中将に譲り、1937年(昭和12年)7月16日に亡くなった。盧溝橋事件が起ったとき、北京武官だった今井武夫陸軍少将は戦後、当時を回想して、「穏健で部下から信望を集めていた田代軍司令官が、危篤状態でなく、健在だったならば、日中戦争にいたらなかったかもしれない。これも天の配剤か」と嘆いている。宋哲元は田代の死に「自分の留守中に死んだ」と嘆いた」と。司令官がこんな状態で、駐屯軍が積極的にことを仕掛けることは考えられない。では後任の香月清司司令官はどうだったか。これもウキペディアで。「第12師団長、近衛師団長を歴任、1937年(昭和12年)7月11日には重篤となった田代皖一郎中将に代わって、盧溝橋事件渦中の支那駐屯軍司令官に、同年8月の北支那方面軍創設で第一軍司令官となり、河北省での作戦を指揮した。盧溝橋事件の停戦協定を結ぶ際に宋哲元と和平しようとしたものの、蒋介石が宋に妥協を禁じたために失敗した。田代前支那駐屯軍司令官の方針を踏襲し、参謀本部に従って不拡大方針を採ったものの、方面軍幹部の積極策と対立、結果的に河北全体に戦線を拡大した。第1軍司令官解任後は参謀本部付を経て、1938年(昭和13年)7月29日には予備役に編入された」と。以上を見てくると、支那駐屯軍河辺旅団長は当時ナンバー2の立場であった。証言と当時の結果から、河辺は大局より、ことの真相を探って、積極的に動くべきではなかったか、ことの次第によっては、蒋介石をも動かすことが出来たのではないか。河辺の証言は、残念な証言である。
7月7日、支那駐屯歩兵(旅団長河辺正三少将:当日演習出張不在)第一連隊(連隊長牟田口廉也大佐:当夜天津より帰陣)第三大隊(大隊長一木清直中佐)配下の第八中隊(中隊長清水節郎大尉)は、二日後の迫った定期検閲の為、竜王廟東方の荒蕪地で夜間演習を行った。竜王廟付近の永定河堤防から東方に向けて実施する計画で、駐屯軍の規定に沿って演習用の空包のほか、実包を小銃30発、軽機関銃120発ずつ携行していた。前週同じ場所で演習した時何もなかった堤防上で、200人以上の中国兵が工事を行っており、さらに一連の散兵壕が完成しつつあり、銃眼が東方に向けて開いたトーチカが出現していた。清水中隊長は嫌な予感を感じながらも、堤防を背にして演習を開始、10時30分ごろ前段の演習は終わった。清水は各小隊長と仮設敵司令に伝令を走らせ、演習中止・集合命令を伝達させた。ところが仮設敵の軽機関銃が空包射撃を始めた。中隊長との打ち合わせに反した誤射だった。その直後、第八中隊が堤防陣地の方向から実弾射撃を受けた。最初は数発、中隊長は直ちに集合ラッパを吹かせると、竜王廟と盧溝橋とに近いトーチカ付近の間に懐中電灯で合図があったかと思うと、今度は十数発の銃声がして弾丸の空中を飛行していく音が聞こえた。中隊長は伏せを命じ、人員異状の有無点検を命じた(野地伊七手記)。伝令を受けた一木大隊長は直ちに連隊長に電話で事件の概要を報告し、併せ豊台駐屯隊を直ちに出勤するよう意見具申、牟田口連隊長は直ちに同意し、現地に急行、戦闘準備を整えた後、盧溝橋城内にいる営長を呼出して交渉すべきを命じた、と秦郁彦著「盧溝橋事件の研究」は記述する。人員点検で伝令に出した二等兵の行方不明が判明したが、しばらくして帰隊。その後の第八中隊は、一木大隊長と8日、午前二時出会う。一木は清水から行方不明の二等兵が帰隊したことを聞いたが、一木は連隊長の意向に沿い、宛平県城から至近距離に位置する一文字山を占拠、次いで堤防陣地にいると思われる中国兵の動静を探り不法射撃の確証をつかもうと、清水中隊長を含む斥候を出した。しかし堤防壕の中国兵に発見されその場を切り抜けて斥候は帰隊。これらの動きに対する現場中国軍の動静はあまり明確になっていない。事件直後に冀察政権や第二十九軍は、日本軍が発砲や兵士の行方不明を口実に攻撃を仕掛けてきたという構図で意思統一したようなので、十分な調査をしなかったのかもしれない。また8日朝の戦闘で堤防陣地の中国兵は全滅に近い損害を出しているので、詳細が掴みにくかった事もあると、著者秦郁彦は推察する。以上の記述からは、旅団長河辺少将の証言を深く検討した経緯は見られない。日本の敗戦を身をもって経験し、そのキッカケが支那事変、盧溝橋事件だったことは、河辺は百も承知だ。その時の旅団長である。深く考察するところがあっただろう。単なる裁判戦術ではなかった、と思う。
ただ、秦氏は1970年以降に盛んになった中共説を紹介している。出所は葛西純一編訳『新資料・盧溝橋事件』に発している。葛西は関東軍の兵士として終戦を迎え、八路軍に身を投じ、1953年帰国するまで下級将校として大陸各地を転戦、49年末、洛陽勤務時代に中共軍兵士へ無料で配布された「戦士政治課本ー救国英雄・劉少奇同士」なるポケット版の教本に『七・七事件は、劉少奇同士の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動をもって党中央の指令を実行したものである。暗闇の盧溝橋で日中両軍に発砲し、宋哲元の第二十九軍と日本駐屯軍を相戦わせる歴史的大作戦を導いた』と。しかし、秦郁彦氏は冷静である。葛西は各方面からの要請にも拘らず、本人は政治課本の現物を公開しなかった。洛陽時代に読んだ資料のうろ覚えではないかと秦氏。葛西が従軍した時期は、劉少奇が毛沢東に次ぐ英雄と遇され、党内でも高く評価された。学生運動も第二十九軍への浸透を図った、という刊行物も多かった、読み方によっては盧溝橋事件を中共党の計画的行動と短絡的に読み取る背景はあった、と批判的だ。その根拠は、事件当時劉少奇は北平にはいなかった、という。ただ発砲事件だけだったら劉少奇がいなくても出来る。兵士の行方不明が偶発的に起こって、ことが輻輳化したのが事件の拡大化につながった、と見える。1937年段階の中国共産党は前々年の大西遷で壊滅的打撃を受け、ようやく陝西省北部の険阻な山中に新たな根拠地を設け、紅軍の兵力は3~4万人程度で、国民党軍のわずか百分の一に過ぎない。ゲリラ集団と呼ぶのがふさわしい。盧溝橋事件とその拡大は、中共党にとってこうした窮地から離脱する起死回生のチャンスであった。中共中央の事件に対する反応は、異常と思えるほど敏速・大胆だった。7月8日付けで延安が打電したアピールは、4本判明している。①中共中央委員会の日本軍の盧溝橋侵攻に際しての通電、②盧溝橋事件後の華北工作方針問題について北方局に与える指示(党中央書記局→党北方局)、③紅軍指導者の日本侵略者の華北侵攻に際して蒋委員長に宛てた電報(毛・朱・周ら九人→蒋委員長)、④紅軍指導者の日本侵略者の華北進攻に際して宋哲元らに宛てた電報(毛・朱ら七人→宋哲元・張自忠・劉汝明・憑治安)。①の電文、『七月七日夜10時、日本は盧溝橋に於いて中国の駐屯軍憑治安部隊に対し攻撃を開始し、憑部隊に長辛店への撤退を要求した……目下双方はまだにらみ合い交戦を続けている……日本帝国主義の北平・天津と華北に対する武力による占領の危険は、すでに一人ひとりの中国人の目前にまで迫っている。(中略)全国の同胞諸君! われわれは、憑治安部隊の英雄的抗戦を称賛し支持しなければならず、われわれは、宋哲元将軍が直ちに二十九軍全軍を動員して前線に赴き応戦することを要求する。われわれは、南京中央政府が直ちに二十九軍に適切な援助を与えると共に、直ちに全国民衆の愛国運動を解放し民衆の抗戦士気を発揚させるよう……神聖な抗日自衛戦争を支持するよう要求する……国共両党は親密に合作し、日本侵略者の新たな攻撃に抵抗し、日本侵略者を中国から追い出そう!』。 文案は確かに手回しがよい、それとばかり。
「蒋介石秘録」で、蒋介石はかく語っている。「七・七事変の発生を、延安の共産主義者たちはむしろ喜びをもって迎えた。彼らは、対日抗戦が衰弱しきった中国共産党をよみがえらせ、共産党の勢力を拡大できるチャンスになると見た。事変の翌日、共産党中央は、早くも通電を発表、全国の同胞、政府、軍隊は団結して民族統一戦線の堅固な長城を築き上げよう、日本侵略者に抵抗しよう。国共両党は親密に合作し、日本侵略者の新たな攻撃に抵抗しよう」と呼び掛けてきた。九日には、彭徳懐、賀龍、劉伯将、林彪ら人民抗日紅軍を率いる全指揮官が一致して、紅軍を国民革命軍と改名することを願うと共に、抗日先鋒部隊として、日本侵略軍と決戦を交えることを、命令されるよう希望すると電報してきた。蒋介石は心を許してはいなかった、8月13日の日記に「共産党は実は戦争の機会に乗じて、その陰謀を発動しようと狙っている。その防止策を忘れてはならない」と。後で判明したことであるが、共産党中央は早くも8月12日、「抗戦中における地方工作の原則と指示」という秘密指令を流し、国の統一と団結の破壊を企てていた、と事例をもって語っている。
盧溝橋事件に対する河辺正三証人の弁護士との一問一答形式でつくられた口述書の一部より始まって、その問答からその後の判明した歴史的事実を取り上げた。 裁判に戻ると、満州事変の端緒について検察側が弁護側証人に執拗に反対尋問を行ったのに比べ、事件発生の直接原因である最初の発砲の事及びその後の状況について、検察側の反対尋問がほとんど行われなかったことが印象に残ったと冨士信夫氏は記述する。この点をしつこく反対尋問をするとかえって藪蛇になり、事件発生の責任が中国側にあった事が明らかになってしまうのを避けようとする、検察側の配慮によるものだったかもしれない、と。
1937年7月29日、北平南方の通州に於いて在留邦人350人が中国保安隊に虐殺された、いわゆる通州事件が起こった。通州事件発生後河辺旅団長の命によって通州に急行し、現地到着直後目撃した状況について当時の陸軍中将以下を証人として宣誓口述書で証言させた。ただ三証人の間に日時や行動の部分に食い違いがあり、折角の口述書の証拠価値がすっかり減殺された。
盧溝橋事件に関連する弁護側の書証提出は、惨憺たる結果に終わった。弁護側は、明治33年発生の義和団事件後天津を清国に返還した際北支駐屯の日本軍が駐屯地で演習する権利を取得した覚書をはじめ、盧溝橋事件発生後の日本政府声明、外務省スポークスマン談、北支駐屯軍の現地声明、事件後の議会での近衛首相及び広田外相の新聞記者に対する声明、クレーギー駐日英大使やグルー駐日米大使の著書抜粋等合計37通の文書を提出したが、検察側の異議申し立てにより、証拠として受理されたのはこのうちわずか10通に過ぎなかった。
中国共産党の活動と排日運動:弁護側は①中国の日貨排斥、②中国の排日運動と日本に及ぼした影響、③中国共産党の活動と日支関係に及ぼした影響、の三点に分けて具体的立証に入ったが、盧溝橋事件に関する立証以上に文書提出は難航した。中国の日貨排斥の事実を示す証拠として、リットン報告書から該当部分を朗読しようとすると、検察側は不戦条約・九カ国条約に違反したのだから、日貨排斥が行われ在留日本人に脅威を与えても、日本の中国侵略を正当化するものではなく、日貨排斥問題は本件の審理に関係ない、と異議申し立て。しかし裁判長は、本裁判所は国際連盟の決議に拘束されるものではなく、日本の行動が侵略であったか否かは本裁判所が判定を下す、と異議を却下した。第二の排日運動と日本に及ぼした影響に関しては、大連会議に関する証言後、外務大臣演説、在外公館と外務省との往復電報、外務省情報部長談、新聞記事抜粋等合計37通の文書を提出したが、検察側の異議が次々認められ、証拠として受理されたのは7通に過ぎなかった。最も惨憺たる結果に終わったのは、中国共産党の活動とその日支関係に及ぼした影響に関する立証だった。カニンガム弁護人は米新聞記者ジョン・パウエル著「在支25年」からの抜粋、外務省欧亜局作成の中国共産党に関する報告書抜粋、各種外交文書抜粋等合計36通の文書を提出したが、そのうち書証として受理された文書は、上海河相総領事から有田外務大臣宛ての「西安事件に対する救国団体の態度に関する件」と題する事件後の中共の政策や国共合作の状況を報告した外交文書ただ一通だけで、その他の35通は検察側の異議申し立てでことごとく却下された。検察・弁護側の主張は次の通り。中国共産党が日本の武力侵略に対抗するため準備したという事は日本の侵略行為を正当付けるものではない。また、中国が日本に戦争を仕掛けようとした事を示す証拠を提出しても、それは日本の中国に対する侵略を正当付けるものではない、と検察側。日本が中国に既得権を持っていたのに対して中国共産党はこれらを中国から追い払うとしたものであり、これは中国の日本に対する事実上の宣戦布告である、中国共産党の勃興と蔓延はアジア及び日本にとって大きな脅威となった。日独防共協定の締結も、ここに正当な理由がある、と弁護側。双方の主張を聞いた裁判所は協議の為休憩。裁判長は次の通り裁定。「一般立証段階で中国その他における共産党その他思想の蔓延に関する証拠を提出する事は、本審理に関連性がない。ただし、日本の国民、権益に対する中国人及び中国共産党による実際の侵害に関する証拠は、日本の行為を正当付けるものとして、提出して差し支えない」と。
第二次上海事変:証人として出廷した上海総領事岡本季正と上海特別陸戦隊首席参謀武田勇海軍少将の口述書では、「中国側は、1932年5月5日第一次上海事件当時締結された停戦協定に違反して非武装地帯に兵力を集結し、要塞を構築したため、日本人居留民の生命財産に危険が生ずるようになった。そこで岡本総領事の提唱で、6月23日に上海共同委員会を開催して中国側の協定違反を詰問しようとしたが要領を得ず、その内、8月9日大山大尉殺害事件が起こり、事態は急速に悪化した。日本側はなおも事態の平和的解決を図ろうとして、8月13日再度共同委員会の開催を求めて危機回避策を講じようとしたが中国側にはその誠意はなく、遂に13日午前商務印書館から中国便衣隊の発砲、午後八字橋方面から中国軍の砲撃開始により、全面戦争に入ってしまった」と、広田外相からの不拡大方針の訓令を合わせて説明。また、大山大尉と運転手の射殺は、中国衛兵殺害に対する中国側の報復と検察側の主張に対し、「8月9日夕刻大山中尉(死後大尉に進級)が殺害されたことが判明したので、日支両軍の責任者が現場に行った所、虹橋飛行場から百メートル地点の、道路曲がり角右側の溝の中に自動車は破壊されて落ちており、大山大尉は自動車の傍らに多数の機銃弾を浴びて倒れ、更に頭部に青龍刀で割られていた。また運転手は運転台で同じく機銃弾を浴びて倒れていた。次に日支両国責任者と第三国新聞記者とで第二次調査隊を整えて実地調査に行った所、今度は自動車の傍らに一中国衛兵が倒れており、運転手は五百メートル離れた部落の中に持ちさられていた。一回目の調査の時なかった中国衛兵の死体が二回目にはあったので、現地中国軍将校に質問したところ、大山中尉が拳銃で衛兵を撃ったので中国側が反撃したのだと答えた。当時大山大尉は拳銃を持っておらず、運転手は拳銃を持っていたが袋に入れ肩に掛けたまま倒れていた。翌日日支両軍医官立ち合いの上検査したところ、中国衛兵の傷は拳銃弾ではなく小銃弾によるものだった事が明らかになり、ここに、中国側のこの事件に関するトリックが暴露された」と。
南京虐殺事件 当時松井軍司令官の下で中支那方面軍参謀・中山寧人陸軍少将、南京大使館参事官・日高信六郎、中支那方面軍法務部長・塚本浩治の三人が出廷、南京占領当時松井軍司令官のが執った慎重な行動、松井軍司令官の対中国人観、南京攻撃前中国側に降伏を勧告した事実、南京陥落後市内が無秩序になったのは中国側は外交官も官憲もことごとく市内から立ち去った事も大きな原因であった事、当時南京に設けられていた安全地帯には多くの中国正規軍が混入していた為、同所を正当は安全地帯として認める訳にはいかなかった事等、占領直後の南京市内の混乱状態を述べると共に、検察側立証のいわゆる南京大虐殺事件については、真っ向からこれを否定した。このうち、中山証人は検察側の反対尋問に答えて 、一般市民の虐殺事件 これは絶対にない。 俘虜の虐殺事件 これは安全地帯に武器を携行して侵入した中国兵を捜査し、逮捕し、軍法会議にかけて処罰したのが、誇大に報道されたものである。 外国権益に対する侵害 これは一部あった事は事実であるが、日支いずれの兵隊が行ったのかは、現在でも不明である。 婦女子に対する暴行 これは小規模な範囲で行われたのは事実であり遺憾であるが、世に喧伝されたような大事件は絶対にない、と。
検察側は証人には反対尋問は行わず、検察側提出証拠に依拠するとして、提出証拠の幾つかに裁判所の注意を喚起した。
漢口攻撃とその後 訴因に取り上げられている漢口、長沙、衡陽、桂林及び柳州での中国民衆及び中国兵の殺害を全面的に否定する陸軍軍人及び新聞記者合計17人の証人の証言と、当時参謀本部作戦課長の要職にあった河辺虎四郎陸軍中将の、支那事変前後の陸軍中央統帥部の判断・処置に関する証言が行われた。
中国新政権 中国段階の最後は、汪精衛政権に関する立証であった。昭和14年6月汪精衛が来日し平沼、板垣、米内、石渡、有田及び近衛の各大臣と会談した時その通訳を務めた南京大使館一等書記官清水蕫三が出廷し、汪精衛が一連の会談で、日支和平に努めることを強調した旨証言した。また書証としては、汪精衛をはじめ王政権要人たちの演説や王政権公式声明等を収録した出版物も提出された。
以上、冨士信夫氏の著書「私の見た東京裁判」に沿って「中華民国に関する立証」を見てきたが、もう一つ全貌が見えないので、清瀬一郎の冒頭陳述で日本は何を主張したかったのか、整理しておきたい。
「第三部は中華民国との関係である。これは訴因第三、第六、第十九、第二十七、第二十八、第三十六、第四十五、第五十、第五十三、第五十五に関係する。1937年7月7日の盧溝橋における事件発生の責任はわが方にはない。日本は他の列国と1901年の団匪議定書によって兵を駐屯せしめ、また演習を実行する権利をもっていた。またこの地方には日本は重要なる正常権益を有し、相当多数の在留者がいた。 もしこの事件が当時日本側の希望のように局地的に解決されたら、事態はかくも拡大せず、従って侵略戦争がありや否やの問題には進まなかった。それゆえに本件は中国はこの突発事件拡大について責任を有する事、また日本は終始不拡大方針を守持し、問題を局地的に解決することに努力したことを証明する。近衛内閣は7月13日『陸軍は今後とも局面不拡大現地解決の方針を堅持し、全面的戦争に陥る如き行動は極力これを回避する。これがため第二十九軍代表の提示した11日午後8時調印の解決条件を是認してこれが実行を監視す』と発表している。しかるにその後中国側の挑戦は止まなかった。郎防における襲撃、広安門事件の発生、通州の惨劇等が引き続き発生、中国側は組織的な戦争態勢を具えて、7月12日には蒋介石氏は広範なる動員を下命したことが分かった。一方中国軍の北支集中はいよいよ強化された。豊台にあるわが軍は中国軍の重囲に陥り、非常なる攻撃を受けた。そこで支那駐屯軍は7月27日、やむを得ず自衛上武力を行使することに決した。書証及び人証によってこの間の消息を証明する。
それでも日本はやはり不拡大方針を取ったが、蒋介石氏は逐次に戦備を具え、8月13日には全国的総動員を下命した。同時に大本営を設定して自ら陸、海、空軍総司令という職についた。全国を第一戦区(冀察方面)、第二戦区、(察晋方面)、第三戦区(上海方面)、第四戦区(南方方面)に分けて各集団軍を配置して日本全面戦争の態勢を完備した。
外交関係は依然継続していたが、この時期には大規模な戦闘状態が発生した。以上の急迫状態に応じて、わが方では北支における合法的権益を擁護するため、遅れて8月31日に内地より北支に三個師団の兵力を派遣すると共に、また駐屯軍を北支方面軍と改称した。その司令官に対して平津地方の安定を確保する相手方の戦闘意思を挫折せしめる、戦局の終局を速やかにすべきことを命じた。この時に至ってもわが方に於いては北支の明朗化と抗日政策の放棄を要求しただけだった。日本政府はこの事件を、初め北支事変と称して事態を北支に局限し得るものと考えていたが、これが8月中には中支に飛び火した。
中国側は、1932年、英米その他の代表の斡旋によって成立した上海停戦協定を無視して、非武装地帯に陣地を構築し、五万余の軍隊を上海に集中した。この地にあって日本の海軍陸戦隊はわずかに四千人にも足りぬ。日本の在留者の命と財産は危険に陥った。この時海軍特別陸戦隊の中隊長大山中尉が無残にも射殺された。日本は8月13日に在留民の生命財産を保護するために上海に派兵することに決定した。中支における闘争が開始したのはこのような事情の下だった。換言すれば事件を拡大してその範囲及び限度を大きくしたのは中国側だった。以上の事実に関し証人を申し出て、戦闘開始の責任のご判定に資するとするものです。」
「中国との闘争は支那事変と称して支那戦争とは称しない。戦争状態の宣言または承認は何れの当事者よりも、他の国よりもなされない。蒋介石大元帥も1941年太平洋戦争の発生するまで、わが国に向かって宣戦を布告していない。これは欧米の人々には奇異に感ぜられると思う。しかしわが方の考えは、この闘争の目的は中国の当時の支配者の反省を求め、日本と中国の関係を本然の姿に立ち戻そうとすることだった。中華民国の一部分に実際に排日運動を巻き起こしたのは、中国共産党の態度に依るものだった。 蒋介石氏は世間を従動したかの西安事件以来、共産党を容認するに至っているが、日本政府は、この蔣大元帥の行動は遺憾なる一時的の脱線であると見ていた。
当初は日中の間には外交関係は断絶してなかった。両国の条約関係は依然効力を保持していた。降伏してきた中国兵はこれを釈放した。日本在住の中国人は敵人として扱わず、安心して生業を営んでいた。また中国に対し宣戦を布告しなかった目的の一つは、戦争法規の適用によって、第三国人の権益を制限しないようにすることだった。併しながらわが国の希望に反して、戦闘はだんだん拡大していく。その結果占領地における第三国人は自らある程度の影響を受けることは免れない。それが日本とイギリスとの間に1939年7月、いわゆる有田・クルーギー協定が出来た所以だった。」
「日本の一部の軍隊によって中国に於いて行われたという残虐事件は遺憾なことであった。これらはしかしながら不当に誇張され、ある程度捏造までもされている。その実情につき、できる限り真相を証明する。日本政府並びに統帥責任者はその発生を防止することを政策とし、発生を知りたる場合には、行為者にこれに相当する処罰を加えることに努めている。元来、中国の国民との間には、親善関係が進むことが日本の顕著なる国策の一つであり、現在もそうである。それゆえ中央政府にありまた派遣軍を嘱託されていたような軍の幹部が、このようなことを軽々に行ったり、これを黙過するという事のあるべき道理がない。われわれは被告の誰もがこのような行為を命じたり、授権したり、許可したり、並びにそういう事のないこと、法律上の義務を故意に無視したことのないことを証するため、あらゆる手段を尽く。」
清瀬は大局的観点から日本の中華民国に対して執った行動を素直に説明し、事変の拡大がどこにあったかを主張している。極端に言えば自衛措置がだんだん拡大して大規模な戦闘につながったと言っている。
一方後日、蒋介石秘録で蒋介石はかく語っている。 7月8日、盧溝橋事件の発生・経過を廬山で秦徳純(冀察政務委員会が成立すると、宋哲元が委員長に、秦徳純が常務委員兼北平(北京)市長にそれぞれ就任)らから報告を受け、『倭寇(日本軍)は盧溝橋で挑発に出た。日本はわれわれの準備が未完成の時に乗じて、われわれを屈服させようというのか。それとも宋哲元に難題を吹っ掛けて、華北を独立させようというのか。日本が挑戦してきた以上、いまや応戦を決意すべき時だろう(当日の日記)』 宋哲元に電報で指示した。『宛平県城を固守せよ。退いてはならない。全員を動員して事態拡大に備えよ』 7月9日、四川にいる何応欽に対して、直ちに南京に行き、全面抗戦に備えて、軍の再編に着手するよう命令、更に廬山に来ていた第二十六路軍総指揮・孫連仲に対しては、中央軍二個師を率い、保定あるいは石家荘まで北上するよう指示した。また山西省の太原、運城方面の軍を河北省石家荘に集結させるよう指示した。同時に、軍事関係の各機関には、総動員の準備、各地の警戒体制の強化を命じ、河北の治安を預かる宋哲元には、決意と警戒を促した。『国土防衛には、死をかけた決戦の決意と、積極的に準備する精神をもって臨むべきである。談判については、日本がしばしば用いる奸計を防ぎ、わずかでも主権を喪失することのないのを原則とされたい』 10日、国民政府は日本大使館に対し『日本軍の行為は計画された挑発であり、不法の極みである』と文書で抗議した。同時に全軍事機関の活動を「戦時体制」に切り替えるため、緊急措置が取られた、と。そのあと、18には有名な『最後の関頭演説』につながる。
当時両国の事情を分かる事が出来たら、お互い何という馬鹿なことをしているのか、と笑われそうである。お互いに自衛措置を講じながら、戦闘が拡大していく。外務省も折角パイプがあるのに事態を収める折衝が出来ない。現代はこんな行き違いによる戦争が起こらないよう、首脳間、軍当局間のパイプラインが出来ているが、当時の日本にはこんなことを考えている人はいなかったのかな。あと、現在でも解明できてない中国共産党の謀略はどれほどだったのか、それでも両国のパイプラインが出来ていたら、その謀略も発見できたのに。清瀬は言っている、この時は外交関係が維持されていた、と。