検察側立証と弁護側立証とを比較すると、際立って目立つ相違点は、検察側立証は一般立証に重点を置き、被告個々の責任追及立証は、添え物という感じで進められたのに対し、弁護側立証では被告の個人立証が、極めて大きなウエイトを占めた。検察側は日本国家の政策、行為あるいは日本軍の行動そのものを犯罪であると主張する「侵略戦争遂行の共同謀議」という網を全被告の上に被せ、それには被告たちが触れれば傷つくような鋭い棘が数多く付けてあり、「共同謀議」を具体的に裏付ける立証を行えば、各被告はその時々の日本政府あるいは日本軍の中の特定の地位にあった事で、責任を追及されるように仕組まれ、検察側の主張はそのような姿勢で一貫していた。これに対して弁護側は一般弁護方針である「国家弁護」という主張はするものの、被告相互間には立場を異にすし、利害の反する者があり、国家弁護だけでは共同謀議の網を破ることが出来ず、勢い個人弁護という切れ味の良い刀で検察側の棘を砕き、網を斬り裂かねばならなかった。しかし16人の被告は証人席に座ったが、土肥原、畑、星野、平沼、廣田、木村、重光、梅津の9被告は証人としても証言せず、その個人弁護の立証は、被告以外の証人の証言および書証で行われた。
冨士氏はいう、私はこの九被告が証人にならなかったことを、心から残念に思っている、と。九被告は検察側が訴追した時期に、日本政府あるいは日本軍の中にあって枢要な地位にあった人物で、起訴事実の認否に当たって、無罪を主張し、申立てている。自らの主張を貫くべく、証人席から検察側の訴追を反駁する自らの信念、あるいは日本の立場を堂々と述べてほしかった、と。もっとも残念に思うのは廣田被告で、二・二六事件後に成立した廣田内閣が、昭和11年8月7日に五相会議で決定した「国策の基準」を検察側は極めて重視している。この国策がその後の日本の大東亜侵略の基礎になったものであるとして、検察側はこの国策がその後の日本の大東亜侵略の基礎となったものであるとし、裁判所もこの基準が東亜の支配権を握るばかりでなく、南方に勢力を拡げようとする日本の決意の表明であると厳しい判決を下している。 従って、この国策を決定した五相会議の最高責任者であった当の廣田被告の口から、この国策決定に至った経緯と、この国策が検察側が主張するような日本が大東亜侵略するための国策ではなかった事を、述べて貰いたかった、冨士氏はしみじみ言う。
作家城山三郎著「落日燃ゆ」の中には、裁判の進行中からすでに死を覚悟し、他人を傷つけ、他人と争う証言を行うようなことは好まず、この「国策の基準」は佐藤賢了被告が草案を作成して廣田首相に提出したものであり、この「国策の基準」がクーデターの再発を恐れ、革命気分鎮静の為のジェスチャーとして陸軍が起草したもので明らかにする様、佐藤被告が廣田被告に進言したが、廣田被告は、起草者が誰であろうと、全責任は総理大臣としてあの国策を決定した自分にあるとして佐藤被告の進言を斥け、なおも佐藤被告が、法廷で廣田被告の真実の気持ちを述べて貰いたい旨訴えたのに対して、廣田被告は返事をしなかった、と書かれている。その廣田被告の心情は分かるととしても、尚廣田被告の口から、その後の日本の侵略の基礎となった国策であるとの、日本にとり、誠に不名誉な烙印を押されたこの基準が、なぜこの時期に、どのような経過を辿って決定されたか、聞きたかった、と。首相になることは、歴史に立ち向かうことだ、との覚悟の声を聞いたことがある。廣田被告には、私情を捨て、日本の歴史の審判に立ち向かって欲しかったという想いは、冨士氏だけではない、と思う。
木戸幸一被告:東条被告と共に本裁判の最重要被告と目され、起訴状中の五十五訴因中五十四訴因に訴追されている元内大臣木戸幸一被告の個人立証は、正味八日間に亙ったが、その立証のほとんどは木戸被告の証言に終始した。中でも最大の訴追は、内大臣として天皇の常時輔弼に関する責任、就中、第三次近衛内閣総辞職後、総辞職の原因を作った東条陸相を後継内閣首班として天皇に奏請した事に対する責任である。また、東条首相決定に関連する木戸口述書の内容は、大東亜戦争開始に関連する昭和の歴史を研究する上で、極めて貴重な資料、後世の史家がこの点を冷徹な眼で見つめ、事の真相を見誤ることがないよう研究を進めることを、切に望むと冨士氏。
キーナン首席検察官の主要な尋問は、①東条ほど好戦的な人物はいない、②当時、もし海相が反対したならば日米開戦にならなかった、③従って、陛下が及川海相を次の首相に任命すれば、陛下および内閣にとっては、平和維持の可能性が強かったはずである、等の前提で証人が口述書で述べている、陛下のお言葉があれば東条がその好戦的な考えを変えて日米交渉を真剣に考えると思った、と言っているには真実ではなく、事実は、戦争への決定のもっていくために、好戦的な東条にその決定を任せようと意図して彼を首相に推薦したに違いない、というロジックで尋問を進めた。
これに対して木戸証人は、①東条を好戦的人物と批判するのは当たらない、②当時の最大の問題は9月6日の御前会議決定であり、また陸軍の統制問題であった、③9月6日の御前会議が行われた事は世間に公表されていないので、その実情を知らない人物が首相になっても、御前会議決定を動かすことは困難である、④御前会議の実情を知り、その決定を動かす事が出来る人物としては東条を及川という事になるが、そこに陸軍の統制問題が絡んでくる、⑤陸軍の統制を誤れば結局戦争になる、⑥重臣会議の席上、自分は論理的には及川が政局を担当するのも一案であると意見を述べたが、岡田・米内両海軍大将から海軍から首相を出す事に強い反対が出、結局東条を選ぶ以外に方法がなかった、と。
旧大日本帝国憲法の條章を引用してのキーナン検察官の質問に対して、旧憲法には政治は総て国務大臣の輔弼によって行われるとの条項があり、天皇としては、一つの事が決定する前には色々と注意や戒告を与えたりする事があっても、一度政府が決定してきた事は、これを拒否されないのが明治以来の日本の天皇の態度であり、これが日本の憲法の実際の運用上から成立した慣習法である、と証言した。さらにキーナンは内閣と統帥部が決定したことに対して何故天皇は拒否できないのか、それを阻止するような何かがあったのかとしつこく追及してきたが、日露戦争の時も明治天皇は御前会議の決定について躊躇しておられたが、政府と統帥部の進言により初めて裁可された。今回の場合、天皇の当時のご意思を時の総理に伝えた事によって9月6日の御前会議の決定が再検討される事になり、御前会議の決定は白紙還元されたのであって、このような措置は明治時代にはなかった最も進んだものだった、しかし、その後政府が自存自衛上開戦已む無しと決定してきたので、天皇としては、これを拒否することは出来なかった、と証言。
以上が論戦のメインであるが、木戸口述書の中から、侍従職内記部保管のファイルの中の「重臣会議議事録摘要」から一部引用したい。
岡田(海軍大将) 今回の政変の経緯から見て陸軍が倒したと見るべきで、その陸軍を代表する陸相に大命降下というのは如何であろうか。
木戸 今回の政変は、米内内閣の時の畑陸相が取った態度とは異なり、事の真相を見れば、必ずしも陸軍のみに責任ありとは言えないように思う。
岡田 とにかく陸軍は強硬意見である。内大臣は、従来陸軍は後ろから鉄砲を撃つといわれているが、それが大砲にならなければよいが・・・
米内(海軍大将) 近衛総理は海軍が判然としない、頼りない、というので投出したのではないか。
木戸 そうハッキリととも言えないが、要は陸海軍の一致と、御前会議決定の再検討を基礎にすべきであると思う。従って陸相に担当させるについて疑問があれば、自重論の海相に担当させるのも、また一案である。
岡田 海軍がこの際出る事は、絶対にいけないと思う。
米内 同意見である。
岡田 この際軍がおさまれば、宇垣大将もよいと思う。
若槻(元首相) 東条陸相という事になれば、外に対する印象は悪いと思う。外国に与える影響もよほど悪いと思わねばならない。
原(枢密院議長) 内大臣の云われるようにするのであれば、大命降下の際、方針を明らかにするお示しになる必要があると思う。
廣田(元首相) 内大臣の案は、総理に陸相を兼任させる積りか。
木戸 然り。
廣田 それならば結構である。
阿部(陸軍大将) 内大臣の案に賛成である。
木戸 若槻氏は宇垣大将を推薦されたが、岡田氏も宇垣大将を推薦するのか。
岡田 宇垣大将というのではない。ただ、内大臣の案にも心配の点があると思う。
原 内大臣の案は余り満足ともいえないが、別段案がないから、先ずその案で行くほかない。
木戸 大体の意向は判ったので、奏上の上、ご允裁を得る積りである。
重臣会議後、木戸内府はその一部始終を陛下に奏上して東条陸相を次期首相に推薦したが、その際大命を下すだけでは政局の収拾は明らかに困難であったので、陸海軍の提携を一層密にする事を望まれる陛下の思召しと9月6日の御前会議決定を無視すべき事を明瞭にするため、東条首相に対し、また及川海相に対し、陛下が特別のご命令を与えられるよう奏請した、と口述書。
陛下の東条陸相に対するお言葉は
東条陸軍大臣へ
卿に内閣組織を命ずる
憲法の條規を遵守するよう
時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思う
この際陸海軍はその協力を一層密にすることに留意せよ
後刻海軍大臣を召しこの旨を話す積りである
陛下の及川陸相に対するお言葉は
及川海軍大臣へ
東条陸軍大臣を召して組閣を命じた。なおその際、極めて重大なる事態に直面せるものと思う故、この際陸海軍はその協力を一層密にする事に留意せよと言って置いたから、卿においても、朕の意のある所を体し、協力せよ
以上で旧憲法下の「天皇制」が負うべき責任の実体は、制度上あるいはその運営の面から、具体的に立証された。ただ、キーナン検察官からは特に指摘が無かったが、何故木戸は陸海軍の提携を一層密にすることを殊更要請するのか、このブログでも見て来たように、日米戦争は海軍の戦争である。海軍が確信を持たなければ対米戦争は出来ないと東条も行っていると木戸も述べている。海軍の開戦に対する考えが重要と言っておきながら、陸海軍の協力を述べている。さらに言えば、重臣会議における岡田・米内海軍大将の意見もどうも納得がいかない。当事者意識がまったく窺われない。結局当時の状況についての打開策を一番真剣に考えていたのは東条だと言わんばかりである。その辺の海軍側の懊悩について、次の嶋田海相の口述書で確かめたい。
嶋田繁太郎被告:永野修身被告すでに亡き後、日本海軍に対する検察側の訴追を一身に引き受けた嶋田被告の個人立証は正味三日間に亙って行われ、5人の海軍軍人の証言が終わった後、最後の証言台に座った。検察側の訴追の論理は、①御前会議で決定された、戦争か否かを決定すべき十月中旬が近づいた時および及川海相は開戦に関する決定的意見を述べず、開戦か否かの決を近衛首相に一任する旨発言し、外交交渉成立の見込みなく戦争は不可避であると主張する東条陸相を支持しなかった。②木戸内府の尽力によって東条陸相に組閣の大命降下を見た際、木戸内府は東条陸相、及川海相に対して、陸海軍相互に協調を図るようにとの天皇の御言葉を伝えた。新首相に東条が選ばれたのであるからそこから引き出せる唯一の結論は、新海相は東条と意見を一にする者を選ぶべきであると言う事になる。③嶋田が海相になったのであるから、彼は東条政策の積極的支持者であったという事になる、と。これに対して口述書はこう記す。
「未だ連絡会議が一度も開かれてない10月23日、東条から電話で定刻より電話で定刻より十分ほど早く来るようあり、その通り出かけると、彼は当日から連絡会議を開き、すべてを白紙に還元して対米交渉に関する討議を開始し、戦争を避けるために日本は米国に対して最大限どこまで譲歩し得るのかを深く研究する心算である、と固い決意を繰り返し述べた。故に余は、民衆を苛烈悲惨な争闘に突き落とすような戦争内閣に入閣するとは思わず、むしろその有する軍部の実力、統制力並びに方針に依って、この重大な国際紛争の平和的解決のため、あらゆる手段を尽くすべき内閣の閣員になることを信じた。連絡会議は10月23日から始まり、出席者はいずれも外交交渉によって事態を収拾できるとの確信を披歴し、心から平和を念願したが、問題は、いかにしてその平和を確保するのかにあった。当時の重要問題は余の創り出したものではなく、それらの問題の生起に何の役割も演じたこともなかったが、すでに問題が生起した以上、余はただ海相としての新地位において、その解決を図る以外に途はなかった。かくして余の生涯中、最大責任を負わされた試練の日々が続いた。連絡会議と御前会議との間次の二点に集中した。①いかにすれば、よく在外部隊を撤収する困難な問題を緩和し得るか、この事実と大本営陸軍部の見解とを調和できるか。②米国と了解を達するために、日本の為し得る譲歩の最大限は如何なるものであるべきか。 最大の問題は中国および仏印からの撤兵問題であり、余は海軍部内の見解を確かめ、他の閣僚の意向を知悉し、当時の世論の趨向を充分見極めた。海軍はかって三国同盟に反対し、常にこれに重点を置かないようして来たので、他の問題について了解に到達できれば、三国同盟は解決不可能の問題とは考えなかった。それゆえ最良の解決策は、米英と互譲妥協を図ることであった。かく事態が発生した以上、中国からわが軍を全面撤兵する事は事実上不可能であって、日本国民を驚かせ精神的打撃が極めて大であろうとの強硬意見が支配的であった。もしこのようにすれば、中国が日本に対して勝利を得たに等しく、これによって東亜での米英の威信と地位は昂騰するが、これに反して日本の経済生活および国際的地位は低下し、これら両国に従属するの余儀なきに至るだろうと論ぜられた。故に当時における余の考えは、もし反対論をかかる措置に同調せしめ得るならば、中国本土からわが軍を漸次戦略的撤退をさせ、仏印からは即時撤退を行い、以て妥協に到達することが望ましいという事のあった。これは第三次近衛内閣当時には成し得なかった大譲歩を行おうとするものであった。
11月5日の御前会議において、外交手段により平和的解決に対する最善の努力を着実に継続すると同時に、他方戦争に対する準備にも着手する事が決定された。当時における日本の苦境を思えば、これは矛盾した考えではなかった。連合国が行った対日経済包囲の効果は、実に想像以上に深刻だった。我々は、米国の刻々の軍備の増強を驚愕の眼を以て見守ったが、いかにしても、単なる対独戦のみを考えての軍事的措置とは考えられなかった。
米国太平洋艦隊は、遥か以前からハワイに移動して日本に脅威を与えていた。米国の対日政策は冷酷で、その要求を容赦なく強制する決意を示していた。米軍の軍事的経済的対支援助は、痛く日本国民の感情を害していた。連合国は、明らかに日本を対象として軍事的会談を実施していた。窮地に陥っていかんともならない、というのが当時における日本の切迫感であった。
すでに当法廷で明らかにされたこれらの事実を考慮すれば、日本にはただ二つの解決策が残されていた。一つは日米相互の『ギブ・アンド・テイク』の政策に依る問題解決の目的を以て、外交手段により全局面を匡救する事であり、他の一つは、自力を以て連合国の包囲態勢により急迫した現実の窮境を打開する事であった。この第二の手段に出る事は全く防衛的のものであって、最後の手段としてのみ採用されるべきものと考えた。
いかなる国家と雖も自存のための行動をなし得る権利を持ち、またいかなる事態の発生によりその権利を行使できるに至るかを自ら決定し得る主権を持つ事は、余はいささかも疑わなかった。政府は統帥部と連携して真剣に考究したが、政府統帥部中誰一人として米英との戦争を欲した者はなかった。日本が四ヵ年に亙って継続し、しかも有利に終結する見込みのない支那事変で手一杯である事は、軍人は知りすぎるほど承知していた。従って、自ら好んでさらになお米英のような強国相手の戦争を我より求めたとするが如きは、信じる事が出来ないほど幼稚な軍事的判断の責を、強いて我々に帰せようとするものである。
統帥部は、政府の平和的交渉が失敗に帰した場合には、その要求により自己の職責を遂行しなければならないという問題に直面していた。統帥部の立場は簡単直截なものであった。すなわち、海軍の手持ち石油は約二年半で、それ以上は入手の見込みなく、民需用は六か月以上は続かなかった。十二月に入れば、北東信風が台湾海峡、比島、マレー地域に強烈になって作戦行動を困難にし、翌春迄待てば、日本海軍は手持石油漸減のため、たとえ政府の要請を受けても海戦を賭す事は不可能に陥るであろう。統帥部が11月5日の御前会議において、もし外交交渉が失敗に帰し行動開始に移るべき要請を受けるような事があれば、初冬までになんらかの手を打たなければ行動不能に陥る惧れがあると論じたのは、この考慮に基づくものであった。かくて政府をして、なお外交交渉に依る平和の望みを捨てず、その可能性を信じつつも戦争に対する措置を講じさせるに至ったのは、以上を述べたような事実が齎した、絶対絶命の情勢によるものであった。
政府の案件を平和的に妥協させようとする決意は、難関の急速解決に寄与させようとして来栖大使を米国に派遣した事により、一層明白に表示された。彼の渡米にはなんの欺瞞も奸策もなかった。それは時間的要素を克服し、戦争に追い込まれる前に外交交渉に成功しようとする我々の努力の倍加であった。その点が明瞭に理解信用されない場合、大きな不公平な結果が招来されるだろう。爾来余は、外交措置により平和はついに来るであろうと、大きな希望を抱いていた。余が事態の容易でない事を深く認識するに至ったのは、実にこの当時の事であった。かかる紛糾の情勢は痛く余の心を重くした。余は毎日神社に参拝し、陛下の平和愛好のご熱願に添い奉るよう、神明の加護を祈願した。余は政治家ではない。また外交官でもない。しかし、ただ余の持つ全知全能を傾けて問題の解決に努めた。11月26日の『ハル・ノート』は、実にこのような疑念・希望・心痛・苦心の錯綜した雰囲気の裡に接受したものだった。
これは青天の霹靂であった。米国が、日本の為した譲歩がその如何なるものにせよ、これを戦争回避のための真摯な努力と解し、米国もこれに対し歩み寄りを示し、以て全局が収拾される事を余は祈っていた。しかるに米国の回答は頑強・不屈にして冷酷なものであった。それは我々の示した交渉への真摯な努力をいささかも認めていなかった。
『ハル・ノート』の受諾を主張した者は、政府部内にも統帥部首脳部にも一人もいなかった。その受諾は不可能であり、本通告はわが国の存立を脅かす一種の最後通告であると解された。右通告の条件を受諾する事は、日本の敗北に等しいというのが全体の意見であった。
いかなる国と雖も、なお方途あるにかかわらず第二流国に転落するもののない事は明らかである。すべての重要国は、常にその権益、地位および尊厳の保持を求め、この目的のため常に自国の最も有利と信ずる政策を採用する事は、歴史の証明するところである。祖国を愛する一日本人として、余は米国の要求を容れ、なおも世界における日本の地歩を保持し得るかどうか、という問題に直面した。わが国の最大利益に反する措置を執るのを支持する事は、反逆行為になったであろう。かかるが故に、昭和16年12月1日の御前会議において最終的決定が行われた時、余をして平和の境界線を踏ませたものは実に米国のこの回答であった。もし米国が日本の交渉妥結に対する真摯な努力を認識していたならば、この平和の黄昏においてすら、なお戦争を防止する余裕はあったであろう。11月末には、ほとんど平和に対する望みを失い、戦争の避け難い事を感じた。和戦の分かれるところは、一に米国の態度如何に懸かっていた。
『ハル・ノート』より判断し、余自身事態の好転を期し得ない事を感じた。海軍は対米戦の勝利について全く自信を持たなかったが、時日遷延の後よりも、むしろ今の方がまだ有利な準備が出来得ると我々は確信した。永野大将は軍令部総長としてしばしばこの意見を表明した。従って永野大将と余とは11月30日、海軍は相当な準備が出来ている旨陛下に奉答した。拝謁の際問題となったのは戦争の終局に対して自信があるか否かではなくて、海軍の行った準備につき自信があるか否か、という点だけであった」
丸刈りの頭髪は天辺はやや薄く、大きな耳、濃い太い眉毛、卵形の顔を発言台の方にしっかり向け、背筋をピンと伸ばした軍人らしい姿勢を取り、静かながら明瞭な音声で弁護人、検察官、裁判長の質問に対して明確な答弁を行う嶋田証人の証言ぶりは誠に堂々としており、永野被告亡き後、日本海軍に対する検察側の訴追を一身に引受け、弁護側がその基本方針とする「国家弁護」の線に沿い、国務大臣としての日本政府の立場と、海軍大臣としての日本海軍の立場を充分に証言し、検察側の訴追に真っ向から立ち向かった観があった、と冨士信夫氏。
12月8日の東京新聞「週間法廷手帳」の中で笠井記者は、「未だどの被告も口にしなかった『自衛権』を正面に持ちだし『余は勝利のために努力した』と嶋田被告は証言した。他の被告に比較すれば極めて異例で、簡明な口述書と共に廷内の話題となったのは当然であろう」と解説。
さらに、印度代表パル判事が見解を述べる項で、当時の日本人の脳裡にどんな事が起こりつつあったかを示す記事に、嶋田口述書の大部分を引用している、という。また、対米戦は海軍の戦いであるが、『海軍は対米戦の勝利について全く自信を持たなかったが、時日遷延の後よりも、むしろ今の方がまだ有利な準備が出来得ると我々は確信した。』と言っている。これが正直な当時の判断だったのだろう。