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被告の個人立証:「重臣会議議事録摘要」と「嶋田口述書」

2023年05月04日 | 歴史を尋ねる

 検察側立証と弁護側立証とを比較すると、際立って目立つ相違点は、検察側立証は一般立証に重点を置き、被告個々の責任追及立証は、添え物という感じで進められたのに対し、弁護側立証では被告の個人立証が、極めて大きなウエイトを占めた。検察側は日本国家の政策、行為あるいは日本軍の行動そのものを犯罪であると主張する「侵略戦争遂行の共同謀議」という網を全被告の上に被せ、それには被告たちが触れれば傷つくような鋭い棘が数多く付けてあり、「共同謀議」を具体的に裏付ける立証を行えば、各被告はその時々の日本政府あるいは日本軍の中の特定の地位にあった事で、責任を追及されるように仕組まれ、検察側の主張はそのような姿勢で一貫していた。これに対して弁護側は一般弁護方針である「国家弁護」という主張はするものの、被告相互間には立場を異にすし、利害の反する者があり、国家弁護だけでは共同謀議の網を破ることが出来ず、勢い個人弁護という切れ味の良い刀で検察側の棘を砕き、網を斬り裂かねばならなかった。しかし16人の被告は証人席に座ったが、土肥原、畑、星野、平沼、廣田、木村、重光、梅津の9被告は証人としても証言せず、その個人弁護の立証は、被告以外の証人の証言および書証で行われた。
 冨士氏はいう、私はこの九被告が証人にならなかったことを、心から残念に思っている、と。九被告は検察側が訴追した時期に、日本政府あるいは日本軍の中にあって枢要な地位にあった人物で、起訴事実の認否に当たって、無罪を主張し、申立てている。自らの主張を貫くべく、証人席から検察側の訴追を反駁する自らの信念、あるいは日本の立場を堂々と述べてほしかった、と。もっとも残念に思うのは廣田被告で、二・二六事件後に成立した廣田内閣が、昭和11年8月7日に五相会議で決定した「国策の基準」を検察側は極めて重視している。この国策がその後の日本の大東亜侵略の基礎になったものであるとして、検察側はこの国策がその後の日本の大東亜侵略の基礎となったものであるとし、裁判所もこの基準が東亜の支配権を握るばかりでなく、南方に勢力を拡げようとする日本の決意の表明であると厳しい判決を下している。 従って、この国策を決定した五相会議の最高責任者であった当の廣田被告の口から、この国策決定に至った経緯と、この国策が検察側が主張するような日本が大東亜侵略するための国策ではなかった事を、述べて貰いたかった、冨士氏はしみじみ言う。
 作家城山三郎著「落日燃ゆ」の中には、裁判の進行中からすでに死を覚悟し、他人を傷つけ、他人と争う証言を行うようなことは好まず、この「国策の基準」は佐藤賢了被告が草案を作成して廣田首相に提出したものであり、この「国策の基準」がクーデターの再発を恐れ、革命気分鎮静の為のジェスチャーとして陸軍が起草したもので明らかにする様、佐藤被告が廣田被告に進言したが、廣田被告は、起草者が誰であろうと、全責任は総理大臣としてあの国策を決定した自分にあるとして佐藤被告の進言を斥け、なおも佐藤被告が、法廷で廣田被告の真実の気持ちを述べて貰いたい旨訴えたのに対して、廣田被告は返事をしなかった、と書かれている。その廣田被告の心情は分かるととしても、尚廣田被告の口から、その後の日本の侵略の基礎となった国策であるとの、日本にとり、誠に不名誉な烙印を押されたこの基準が、なぜこの時期に、どのような経過を辿って決定されたか、聞きたかった、と。首相になることは、歴史に立ち向かうことだ、との覚悟の声を聞いたことがある。廣田被告には、私情を捨て、日本の歴史の審判に立ち向かって欲しかったという想いは、冨士氏だけではない、と思う。

 木戸幸一被告:東条被告と共に本裁判の最重要被告と目され、起訴状中の五十五訴因中五十四訴因に訴追されている元内大臣木戸幸一被告の個人立証は、正味八日間に亙ったが、その立証のほとんどは木戸被告の証言に終始した。中でも最大の訴追は、内大臣として天皇の常時輔弼に関する責任、就中、第三次近衛内閣総辞職後、総辞職の原因を作った東条陸相を後継内閣首班として天皇に奏請した事に対する責任である。また、東条首相決定に関連する木戸口述書の内容は、大東亜戦争開始に関連する昭和の歴史を研究する上で、極めて貴重な資料、後世の史家がこの点を冷徹な眼で見つめ、事の真相を見誤ることがないよう研究を進めることを、切に望むと冨士氏。
 キーナン首席検察官の主要な尋問は、①東条ほど好戦的な人物はいない、②当時、もし海相が反対したならば日米開戦にならなかった、③従って、陛下が及川海相を次の首相に任命すれば、陛下および内閣にとっては、平和維持の可能性が強かったはずである、等の前提で証人が口述書で述べている、陛下のお言葉があれば東条がその好戦的な考えを変えて日米交渉を真剣に考えると思った、と言っているには真実ではなく、事実は、戦争への決定のもっていくために、好戦的な東条にその決定を任せようと意図して彼を首相に推薦したに違いない、というロジックで尋問を進めた。
 これに対して木戸証人は、①東条を好戦的人物と批判するのは当たらない、②当時の最大の問題は9月6日の御前会議決定であり、また陸軍の統制問題であった、③9月6日の御前会議が行われた事は世間に公表されていないので、その実情を知らない人物が首相になっても、御前会議決定を動かすことは困難である、④御前会議の実情を知り、その決定を動かす事が出来る人物としては東条を及川という事になるが、そこに陸軍の統制問題が絡んでくる、⑤陸軍の統制を誤れば結局戦争になる、⑥重臣会議の席上、自分は論理的には及川が政局を担当するのも一案であると意見を述べたが、岡田・米内両海軍大将から海軍から首相を出す事に強い反対が出、結局東条を選ぶ以外に方法がなかった、と。
 旧大日本帝国憲法の條章を引用してのキーナン検察官の質問に対して、旧憲法には政治は総て国務大臣の輔弼によって行われるとの条項があり、天皇としては、一つの事が決定する前には色々と注意や戒告を与えたりする事があっても、一度政府が決定してきた事は、これを拒否されないのが明治以来の日本の天皇の態度であり、これが日本の憲法の実際の運用上から成立した慣習法である、と証言した。さらにキーナンは内閣と統帥部が決定したことに対して何故天皇は拒否できないのか、それを阻止するような何かがあったのかとしつこく追及してきたが、日露戦争の時も明治天皇は御前会議の決定について躊躇しておられたが、政府と統帥部の進言により初めて裁可された。今回の場合、天皇の当時のご意思を時の総理に伝えた事によって9月6日の御前会議の決定が再検討される事になり、御前会議の決定は白紙還元されたのであって、このような措置は明治時代にはなかった最も進んだものだった、しかし、その後政府が自存自衛上開戦已む無しと決定してきたので、天皇としては、これを拒否することは出来なかった、と証言。
 以上が論戦のメインであるが、木戸口述書の中から、侍従職内記部保管のファイルの中の「重臣会議議事録摘要」から一部引用したい。
岡田(海軍大将) 今回の政変の経緯から見て陸軍が倒したと見るべきで、その陸軍を代表する陸相に大命降下というのは如何であろうか。
木戸 今回の政変は、米内内閣の時の畑陸相が取った態度とは異なり、事の真相を見れば、必ずしも陸軍のみに責任ありとは言えないように思う。
岡田 とにかく陸軍は強硬意見である。内大臣は、従来陸軍は後ろから鉄砲を撃つといわれているが、それが大砲にならなければよいが・・・
米内(海軍大将) 近衛総理は海軍が判然としない、頼りない、というので投出したのではないか。
木戸 そうハッキリととも言えないが、要は陸海軍の一致と、御前会議決定の再検討を基礎にすべきであると思う。従って陸相に担当させるについて疑問があれば、自重論の海相に担当させるのも、また一案である。
岡田 海軍がこの際出る事は、絶対にいけないと思う。
米内 同意見である。
岡田 この際軍がおさまれば、宇垣大将もよいと思う。
若槻(元首相) 東条陸相という事になれば、外に対する印象は悪いと思う。外国に与える影響もよほど悪いと思わねばならない。
原(枢密院議長) 内大臣の云われるようにするのであれば、大命降下の際、方針を明らかにするお示しになる必要があると思う。
廣田(元首相) 内大臣の案は、総理に陸相を兼任させる積りか。
木戸 然り。
廣田 それならば結構である。
阿部(陸軍大将) 内大臣の案に賛成である。
木戸 若槻氏は宇垣大将を推薦されたが、岡田氏も宇垣大将を推薦するのか。
岡田 宇垣大将というのではない。ただ、内大臣の案にも心配の点があると思う。
原 内大臣の案は余り満足ともいえないが、別段案がないから、先ずその案で行くほかない。
木戸 大体の意向は判ったので、奏上の上、ご允裁を得る積りである。

 重臣会議後、木戸内府はその一部始終を陛下に奏上して東条陸相を次期首相に推薦したが、その際大命を下すだけでは政局の収拾は明らかに困難であったので、陸海軍の提携を一層密にする事を望まれる陛下の思召しと9月6日の御前会議決定を無視すべき事を明瞭にするため、東条首相に対し、また及川海相に対し、陛下が特別のご命令を与えられるよう奏請した、と口述書。
陛下の東条陸相に対するお言葉は
 東条陸軍大臣へ
 卿に内閣組織を命ずる
 憲法の條規を遵守するよう
 時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思う
 この際陸海軍はその協力を一層密にすることに留意せよ
 後刻海軍大臣を召しこの旨を話す積りである

陛下の及川陸相に対するお言葉は
 及川海軍大臣へ
 東条陸軍大臣を召して組閣を命じた。なおその際、極めて重大なる事態に直面せるものと思う故、この際陸海軍はその協力を一層密にする事に留意せよと言って置いたから、卿においても、朕の意のある所を体し、協力せよ

 以上で旧憲法下の「天皇制」が負うべき責任の実体は、制度上あるいはその運営の面から、具体的に立証された。ただ、キーナン検察官からは特に指摘が無かったが、何故木戸は陸海軍の提携を一層密にすることを殊更要請するのか、このブログでも見て来たように、日米戦争は海軍の戦争である。海軍が確信を持たなければ対米戦争は出来ないと東条も行っていると木戸も述べている。海軍の開戦に対する考えが重要と言っておきながら、陸海軍の協力を述べている。さらに言えば、重臣会議における岡田・米内海軍大将の意見もどうも納得がいかない。当事者意識がまったく窺われない。結局当時の状況についての打開策を一番真剣に考えていたのは東条だと言わんばかりである。その辺の海軍側の懊悩について、次の嶋田海相の口述書で確かめたい。

嶋田繁太郎被告:永野修身被告すでに亡き後、日本海軍に対する検察側の訴追を一身に引き受けた嶋田被告の個人立証は正味三日間に亙って行われ、5人の海軍軍人の証言が終わった後、最後の証言台に座った。検察側の訴追の論理は、①御前会議で決定された、戦争か否かを決定すべき十月中旬が近づいた時および及川海相は開戦に関する決定的意見を述べず、開戦か否かの決を近衛首相に一任する旨発言し、外交交渉成立の見込みなく戦争は不可避であると主張する東条陸相を支持しなかった。②木戸内府の尽力によって東条陸相に組閣の大命降下を見た際、木戸内府は東条陸相、及川海相に対して、陸海軍相互に協調を図るようにとの天皇の御言葉を伝えた。新首相に東条が選ばれたのであるからそこから引き出せる唯一の結論は、新海相は東条と意見を一にする者を選ぶべきであると言う事になる。③嶋田が海相になったのであるから、彼は東条政策の積極的支持者であったという事になる、と。これに対して口述書はこう記す。
「未だ連絡会議が一度も開かれてない10月23日、東条から電話で定刻より電話で定刻より十分ほど早く来るようあり、その通り出かけると、彼は当日から連絡会議を開き、すべてを白紙に還元して対米交渉に関する討議を開始し、戦争を避けるために日本は米国に対して最大限どこまで譲歩し得るのかを深く研究する心算である、と固い決意を繰り返し述べた。故に余は、民衆を苛烈悲惨な争闘に突き落とすような戦争内閣に入閣するとは思わず、むしろその有する軍部の実力、統制力並びに方針に依って、この重大な国際紛争の平和的解決のため、あらゆる手段を尽くすべき内閣の閣員になることを信じた。連絡会議は10月23日から始まり、出席者はいずれも外交交渉によって事態を収拾できるとの確信を披歴し、心から平和を念願したが、問題は、いかにしてその平和を確保するのかにあった。当時の重要問題は余の創り出したものではなく、それらの問題の生起に何の役割も演じたこともなかったが、すでに問題が生起した以上、余はただ海相としての新地位において、その解決を図る以外に途はなかった。かくして余の生涯中、最大責任を負わされた試練の日々が続いた。連絡会議と御前会議との間次の二点に集中した。①いかにすれば、よく在外部隊を撤収する困難な問題を緩和し得るか、この事実と大本営陸軍部の見解とを調和できるか。②米国と了解を達するために、日本の為し得る譲歩の最大限は如何なるものであるべきか。 最大の問題は中国および仏印からの撤兵問題であり、余は海軍部内の見解を確かめ、他の閣僚の意向を知悉し、当時の世論の趨向を充分見極めた。海軍はかって三国同盟に反対し、常にこれに重点を置かないようして来たので、他の問題について了解に到達できれば、三国同盟は解決不可能の問題とは考えなかった。それゆえ最良の解決策は、米英と互譲妥協を図ることであった。かく事態が発生した以上、中国からわが軍を全面撤兵する事は事実上不可能であって、日本国民を驚かせ精神的打撃が極めて大であろうとの強硬意見が支配的であった。もしこのようにすれば、中国が日本に対して勝利を得たに等しく、これによって東亜での米英の威信と地位は昂騰するが、これに反して日本の経済生活および国際的地位は低下し、これら両国に従属するの余儀なきに至るだろうと論ぜられた。故に当時における余の考えは、もし反対論をかかる措置に同調せしめ得るならば、中国本土からわが軍を漸次戦略的撤退をさせ、仏印からは即時撤退を行い、以て妥協に到達することが望ましいという事のあった。これは第三次近衛内閣当時には成し得なかった大譲歩を行おうとするものであった。
 11月5日の御前会議において、外交手段により平和的解決に対する最善の努力を着実に継続すると同時に、他方戦争に対する準備にも着手する事が決定された。当時における日本の苦境を思えば、これは矛盾した考えではなかった。連合国が行った対日経済包囲の効果は、実に想像以上に深刻だった。我々は、米国の刻々の軍備の増強を驚愕の眼を以て見守ったが、いかにしても、単なる対独戦のみを考えての軍事的措置とは考えられなかった。
 米国太平洋艦隊は、遥か以前からハワイに移動して日本に脅威を与えていた。米国の対日政策は冷酷で、その要求を容赦なく強制する決意を示していた。米軍の軍事的経済的対支援助は、痛く日本国民の感情を害していた。連合国は、明らかに日本を対象として軍事的会談を実施していた。窮地に陥っていかんともならない、というのが当時における日本の切迫感であった。
 すでに当法廷で明らかにされたこれらの事実を考慮すれば、日本にはただ二つの解決策が残されていた。一つは日米相互の『ギブ・アンド・テイク』の政策に依る問題解決の目的を以て、外交手段により全局面を匡救する事であり、他の一つは、自力を以て連合国の包囲態勢により急迫した現実の窮境を打開する事であった。この第二の手段に出る事は全く防衛的のものであって、最後の手段としてのみ採用されるべきものと考えた。
 いかなる国家と雖も自存のための行動をなし得る権利を持ち、またいかなる事態の発生によりその権利を行使できるに至るかを自ら決定し得る主権を持つ事は、余はいささかも疑わなかった。政府は統帥部と連携して真剣に考究したが、政府統帥部中誰一人として米英との戦争を欲した者はなかった。日本が四ヵ年に亙って継続し、しかも有利に終結する見込みのない支那事変で手一杯である事は、軍人は知りすぎるほど承知していた。従って、自ら好んでさらになお米英のような強国相手の戦争を我より求めたとするが如きは、信じる事が出来ないほど幼稚な軍事的判断の責を、強いて我々に帰せようとするものである。
 統帥部は、政府の平和的交渉が失敗に帰した場合には、その要求により自己の職責を遂行しなければならないという問題に直面していた。統帥部の立場は簡単直截なものであった。すなわち、海軍の手持ち石油は約二年半で、それ以上は入手の見込みなく、民需用は六か月以上は続かなかった。十二月に入れば、北東信風が台湾海峡、比島、マレー地域に強烈になって作戦行動を困難にし、翌春迄待てば、日本海軍は手持石油漸減のため、たとえ政府の要請を受けても海戦を賭す事は不可能に陥るであろう。統帥部が11月5日の御前会議において、もし外交交渉が失敗に帰し行動開始に移るべき要請を受けるような事があれば、初冬までになんらかの手を打たなければ行動不能に陥る惧れがあると論じたのは、この考慮に基づくものであった。かくて政府をして、なお外交交渉に依る平和の望みを捨てず、その可能性を信じつつも戦争に対する措置を講じさせるに至ったのは、以上を述べたような事実が齎した、絶対絶命の情勢によるものであった。
 政府の案件を平和的に妥協させようとする決意は、難関の急速解決に寄与させようとして来栖大使を米国に派遣した事により、一層明白に表示された。彼の渡米にはなんの欺瞞も奸策もなかった。それは時間的要素を克服し、戦争に追い込まれる前に外交交渉に成功しようとする我々の努力の倍加であった。その点が明瞭に理解信用されない場合、大きな不公平な結果が招来されるだろう。爾来余は、外交措置により平和はついに来るであろうと、大きな希望を抱いていた。余が事態の容易でない事を深く認識するに至ったのは、実にこの当時の事であった。かかる紛糾の情勢は痛く余の心を重くした。余は毎日神社に参拝し、陛下の平和愛好のご熱願に添い奉るよう、神明の加護を祈願した。余は政治家ではない。また外交官でもない。しかし、ただ余の持つ全知全能を傾けて問題の解決に努めた。11月26日の『ハル・ノート』は、実にこのような疑念・希望・心痛・苦心の錯綜した雰囲気の裡に接受したものだった。
 これは青天の霹靂であった。米国が、日本の為した譲歩がその如何なるものにせよ、これを戦争回避のための真摯な努力と解し、米国もこれに対し歩み寄りを示し、以て全局が収拾される事を余は祈っていた。しかるに米国の回答は頑強・不屈にして冷酷なものであった。それは我々の示した交渉への真摯な努力をいささかも認めていなかった。
 『ハル・ノート』の受諾を主張した者は、政府部内にも統帥部首脳部にも一人もいなかった。その受諾は不可能であり、本通告はわが国の存立を脅かす一種の最後通告であると解された。右通告の条件を受諾する事は、日本の敗北に等しいというのが全体の意見であった。
 いかなる国と雖も、なお方途あるにかかわらず第二流国に転落するもののない事は明らかである。すべての重要国は、常にその権益、地位および尊厳の保持を求め、この目的のため常に自国の最も有利と信ずる政策を採用する事は、歴史の証明するところである。祖国を愛する一日本人として、余は米国の要求を容れ、なおも世界における日本の地歩を保持し得るかどうか、という問題に直面した。わが国の最大利益に反する措置を執るのを支持する事は、反逆行為になったであろう。かかるが故に、昭和16年12月1日の御前会議において最終的決定が行われた時、余をして平和の境界線を踏ませたものは実に米国のこの回答であった。もし米国が日本の交渉妥結に対する真摯な努力を認識していたならば、この平和の黄昏においてすら、なお戦争を防止する余裕はあったであろう。11月末には、ほとんど平和に対する望みを失い、戦争の避け難い事を感じた。和戦の分かれるところは、一に米国の態度如何に懸かっていた。
 『ハル・ノート』より判断し、余自身事態の好転を期し得ない事を感じた。海軍は対米戦の勝利について全く自信を持たなかったが、時日遷延の後よりも、むしろ今の方がまだ有利な準備が出来得ると我々は確信した。永野大将は軍令部総長としてしばしばこの意見を表明した。従って永野大将と余とは11月30日、海軍は相当な準備が出来ている旨陛下に奉答した。拝謁の際問題となったのは戦争の終局に対して自信があるか否かではなくて、海軍の行った準備につき自信があるか否か、という点だけであった」

 丸刈りの頭髪は天辺はやや薄く、大きな耳、濃い太い眉毛、卵形の顔を発言台の方にしっかり向け、背筋をピンと伸ばした軍人らしい姿勢を取り、静かながら明瞭な音声で弁護人、検察官、裁判長の質問に対して明確な答弁を行う嶋田証人の証言ぶりは誠に堂々としており、永野被告亡き後、日本海軍に対する検察側の訴追を一身に引受け、弁護側がその基本方針とする「国家弁護」の線に沿い、国務大臣としての日本政府の立場と、海軍大臣としての日本海軍の立場を充分に証言し、検察側の訴追に真っ向から立ち向かった観があった、と冨士信夫氏。
 12月8日の東京新聞「週間法廷手帳」の中で笠井記者は、「未だどの被告も口にしなかった『自衛権』を正面に持ちだし『余は勝利のために努力した』と嶋田被告は証言した。他の被告に比較すれば極めて異例で、簡明な口述書と共に廷内の話題となったのは当然であろう」と解説。
 さらに、印度代表パル判事が見解を述べる項で、当時の日本人の脳裡にどんな事が起こりつつあったかを示す記事に、嶋田口述書の大部分を引用している、という。また、対米戦は海軍の戦いであるが、『海軍は対米戦の勝利について全く自信を持たなかったが、時日遷延の後よりも、むしろ今の方がまだ有利な準備が出来得ると我々は確信した。』と言っている。これが正直な当時の判断だったのだろう。


閑話休題 情報なき国家の悲劇 堀栄三 世界は腹黒い 高山正之

2023年04月18日 | 歴史を尋ねる

 東京裁判の検察側立証、弁護側立証(被告の個人立証は未だ)を見てきたところで、大本営参謀の情報戦記の著者、堀栄三氏の東京裁判に関する明快な言説を読んで、物事をここまでクリアに述べることの大切さに感じ入った。『「日米戦争は米国が仕掛人で、日本は受けて立たざるを得なかったのだ」と、東京裁判で立証して、日本の戦犯を弁護しようとした一人に、清瀬一郎弁護士がいた』と。
 堀はその著書でいう。昭和21年4月、変名をして潜伏生活を営んでいた、旧中央特種情報部の企画運用課長横山幸雄元中佐に、東京の終戦事務局からの電報で、「至急東京へ出頭せよ」と言ってきた。横山はとにかく出頭すると、終戦事務局には、東条大将の旧秘書官井本熊男元大佐が待っていた。「いま東条大将たちの裁判が進行中だが、米国が先に開戦を計画していたという情報的証拠が欲しいのだ。特情部が解読した資料の中にそれが無いかね、もしそれがあったら東京裁判は根本から覆すことが出来る。この情報を一番欲しがっているのが、清瀬一郎主席弁護人なのだ」「清瀬一郎主席弁護人から同様な質問を受け、清瀬弁護人たちが真剣に『真相はこうだ』のラジオ放送にも拘らず、それをひっくり返そうとしている。ひいき目ではなく、信念をもって日本の側から、『真相はこっちだ!』と反撃しようとしていた。記憶では、開戦の頃の国民政府(蒋介石政府)の駐在武官が、本国宛に打った暗号電報の中に、確かに米国が対日戦争を決意して、あれこれと日本を誘い出そうとしていることを報告した解読電文があったと、頭の中に浮かんだが、開戦時北京に居たし、その解読電文は開戦後特情部で読んだものであり、その上特情部の全資料は一片の紙も残さず焼却して灰燼と化した。ただの記憶だけで裁判の立証にならず、清瀬弁護士を非常に落胆させた」と横山氏の手記。

 情報とは実に難しいものである、と堀栄三氏は回想する。隠そうとしている情報を取ろうとする難しさだけでなく、善悪を逆にするような謀略にも対処していかねばならない。あの時特情部が全資料を焼却しないで、灰燼にならなければ、あるいは東京裁判の計画的筋書をひっくり返して、全世界にワシントン会議以来の米国の野望を暴露させ得たかも知れなかった、と。多少堀氏の見解は希望的観測と言えるかもしれないが、日本側の主張の有力な論拠になり得たかもしれない。特情部は、暗号解読関係者は処刑されるという風聞が伝わったので、ひたすら身内大切の一心から、軍という立場だけで、暗号作業の秘匿第一に全神経を費やして、国家国策的立場にまでは思いが及ばなかった。敗戦という歴史始まって以来の出来事だったために、特情のような隠密的で狭視的な伝統は場合によっては、国家的に不利な結果を招いてしまうことになる、と解説する。

 米軍は戦後、日本の特情部がある程度、米国の暗号を解読(暗号原理を解明して読むこと)したり、盗読(暗号書を盗んで読むこと)したりしていた事を知ったが、しかし実際には、日本陸軍は昭和11年頃から、国民政府外交部の暗号書を写真撮影したのを手始めに、日本内地でも外国公館などへ専門家を忍び込ませ、暗号書の写真撮影を実施していた。結論的には日本陸軍は、昭和11年頃から昭和17年初頭まで、米国務省の外交暗号の一部を確実に解読または盗読し、国民政府の外交暗号、武官用暗号はほぼ完全に解読または盗読していた。この事実の裏を返せば、日本が日米開戦に踏み切った原因の大きな一つに、米国暗号の解読、盗読という突っかい棒があったと判断されると堀氏、特に陸軍が開戦に積極的であったということからも、と。だが、事は簡単ではなかった。開戦一か月後には米国は暗号を全面的に改変し、以後昭和20年8月まで米国暗号は日本の必死の研究追及にも拘らず解明できなかった。これも裏を返せば、日本に米国の暗号をある程度盗らせておいて、開戦に誘い込んでから計画的に料理をしようとした疑いもなくはない、と。これを情報的に観察すれば、日本を開戦に追い込むための、米国の一大謀略であったと見るのもあながち間違っていない、と堀栄三氏。
 情報に中でも謀略ほど恐ろしいものはない。米国は日本を占領するや否や、早々に『真相はこうだ』というラジオ放送を毎日毎日繰り返して日本人に聞かせた。「日本人は大本営や軍部に巧みにだまされて、戦争に駆り立てられたのだ。米国はこの気の毒な日本人を救うために、日本の軍部を叩きのめして、いかにこの戦争が無益なものであったかを思い知らしめるために、やむを得ず原子爆弾を使わなければならなかった。従ってすべては日本の軍部の責任であり、憎むべきは日本の軍部であることを、日本人は今こそ自覚しなければならない・・・」 極めて巧妙に責任をすり替えた謀略宣伝であった、と。このラジオ放送のために、日本人は一握りの間違った戦争や戦略を指導を行った中枢部の軍人や政治家たちの責任に気付かないで、一途に国のためと思って生死を賭けた戦場の軍人兵士、軍属、その他の人々を犬死と思い、日本人は馬鹿な死に方をしたと、思いこまされてしまった、と嘆く。

 清瀬一郎は東京裁判で太平洋戦争の原因を冒頭陳述で次のように語った。『われわれは今太平洋戦争の原因自身を証明する段階に到達した。これは慎密かつ重要なる研鑽を必要とする。われわれはこれが真に日本の生存のためにやむにやまれぬ事情の下に、自衛権を行使するに至った事を証明する。裁判所のご注意を乞いたいのは、日本は1937年以来、心ならずも中国との間に戦争にも比すべき大きな闘争状態、しかも各国よりは戦争として認められていないものに巻き込まれていた事実についてである。日本は第三国においては、当然この特殊の状態を承認してもらえると期待している。1939年天津事変に端を発して、日英交渉をなした結果、イギリスは前に言及したように同年7月22日、わが国との間に共同声明を発して、大規模な戦闘行為進行中なる中国における現実の事態を承認する旨を声明した。ワシントン政府がこの声明をどう了解したのか我が方においては不明であるが、1939年7月26日に、突如1911年以来、両国通商の根本であった日米通商航海条約廃棄を通告した。これより両国間の誤解はだんだん増大した。爾来、アメリカはわが国に対し種々なる圧迫と威嚇を加えて来た』 その第一は経済的な圧迫、その第二はわが国が死活の争いをしている相手方蒋介石政権への援助、その第三はアメリか、イギリスおよび蘭印が中国と提携して、わが国の周辺に包囲的体形をとった。第一のわが国に対する経済圧迫の例としては、①1939年12月、モーラル・エンバーゴーを拡大して、飛行機、その装備品、飛行機組立機械並びにガソリン精製の機械を禁止品目に追加した。②1940年7月、屑鉄の輸出を禁止。屑鉄は当時わが国のとっていた製鉄法から見て極度に必要なもので、その禁止はわが国の基本産業に重大打撃を与えた。③同年8月、航空用ガソリンの輸出を制限した。日本は年に5百万トンの石油の供給を受けなければならない。これは国民生活及び国防上の必要最小限、しかし国産石油は年に30万トン、この間の不足は海外よりの輸入により補うのほかはない。そこで東亜における唯一の石油供給国であった蘭印に対し、小林商工大臣を派遣し、後に吉沢大使を派遣し、交渉を続けたが、ついに商談は不調に終わった。これは蘭印が米英と通じての態度である。④これと同様の妨害は仏領印度支那およびタイの当局よりも実施された。我が国の正常なる必需品、米の輸入およびゴムの輸入は妨害された、と。
 たしかに、清瀬は堀がいう通りの冒頭陳述をしている。そして堀は、その上さらに情報戦術、謀略をも日本は蒙っている、と。日本は清瀬のいう戦争の見方に立って、昭和の歴史を再構築する必要がある。侵略戦争とか植民地支配とか、実態にそぐわない世界からのレッテル張りに盲従することなく、戦争ないし事変の真実の奥深き原因を発見(清瀬一郎の言葉)し、解明する事が必要であり、いま一部の人々がその役割を担って、懸命に努力している。

 日本の歴史を辿っていると、思わず「世界は腹黒い」という表題の高山正之氏の著書が関心を引いた。高山氏は週刊新潮で辛口の評論「変見自在」を連載していたから、ご存じの方も多いと思うが、氏は、米国は先の戦争のはるか前から、日本を故意に誹謗し、非白人で非キリスト教徒の野蛮人の国と言い募ってきた、米国がなぜ日本をそこまで憎むのか、それを探るためにダワーが言う「興隆する時代の日本」の足跡から初めて先の戦争の様々な現場を訪ねている。そしてそこで日本人が何を考え、何をしたか、対する彼らはどう対応したか、を追いかけている。まさしく、上記の人々の一人である。英自治領ビルマの首相ウ・ソーの辿った足取りを高山氏は見事に描き上げている。歴史とはどういうものなのか、歴史とは何なのか、思わず考えさせるエッセイ、評論なので、ここで引用させて頂きたい。

「1941年秋、英自治領ビルマの首相ウ・ソーはロンドンにチャーチルを訪ねた。その当時のビルマには防衛、外交、財政の権限は一切認められておらず、名ばかりの『自治』だった。彼はチャーチルに言った。『英国のためにビルマ兵を戦場に送ります。その代わりに戦後にビルマの独立を認めてほしい』と。しかし人種差別意識の強いチャーチルはそんな論議をする気にもならず、そっけない返事で彼を追い返した。ウ・ソーは、それで大西洋を渡った。民族自決をうたう『大西洋憲章』を書いたルーズベルト米大統領に会うためだった。しかし、この大統領もチャーチルに輪をかけたアジア人蔑視思想の持ち主で、ウ・ソーはお目見えの機会も与えられないまま三週間も待って、しおしおと帰途についた。米西海岸からハワイへ。さらにパンアメリカン航空の飛行艇でマニラに飛ぶつもりだった。ホノルルに着き、搭乗便をホテルで待っていた彼は12月のある朝、異様な轟音に驚いて窓の外を見た。そのには日の丸を付けた無数の戦闘機が舞い、黒煙の立ち上る真珠湾に、そして遠くヒッカム基地に襲い掛っていた。
 その年の大晦日、ポルトガルの首都リスボンにある日本大使館に一人の訪問者があった。対応した公使の公電が麻布の外務省板倉公館に残されている。『ビルマ首相ウ・ソーが密かに来訪せり。・・・シンガポールの命運旦夕に迫りビルマ独立の為の挙兵には絶好の機会と認められる。日本がビルマの独立尊重を確約されるのおいてはビルマは満州国の如く日本の指導下に立つ国として日本と共に英国勢の駆逐に当り、また日本の必要とする資源は悉く提供の用意あり』 ウ・ソーは自分が真珠湾で目撃したものがしばらくは信じられなかったという。同じ肌の色をした日本人が、少なくともアジアでは白人の力と英知の象徴とされた飛行機を操り、傲慢な白人どもを叩きのめしていた。おびえて逃げ惑う白人の表情も彼は初めて見るものだった。 ウ・ソーはまた、国際社会の指弾を浴びる満州国の姿をかなり正確につかんでいた。阿片が禁止され、学校が作られ、インフラも整備されていた。そのすべてがビルマにはなかった。彼は独断で、この決断を下し、国に戻ったら、それを時期出来る自信があった。ビルマ首相の極秘訪問を伝える公電は翌1月1日、暗号化され東京に送られた。同じころ、ウ・ソーはリスボンからレバノン経由で祖国に向かう民間機のシートに身を沈めていた。
 ベイルートに着いた時彼は英軍の情報部将校に呼び止められた。彼は捕らえられ、終戦までナイロビの監獄に繋がれた。なぜ、こんなに早く裏切りが露見したのか、彼は見当もつかなかった。実はその二年前に、米海軍情報部とFBIが協力してニューヨークの日本総領事館から暗号表を盗み出し、それ以降の日本の外交文書はすべて即座に解読されていた事が82年に解禁された米安全保障局の文書で明らかにされている。ウ・ソーの逮捕を知らされたルーズベルトはチャーチルに書く送っている。『私はビルマ人が大嫌いでしたが、あなた方もこの五十年間、彼らには随分、手を焼かれたことでしょう。幸い、日本と手を結ぼうとしたウ・ソーとかいう彼らの首相はあなた方の厳重な監視下に置けれています。どうか一味を一人残らず捕らえて処刑台に送り、自ら蒔いた種を自分で刈り取らせるよう、願っています』 しかし、ウ・ソーはすぐには殺されなかった。英国は彼の処刑をもっと有効な形で実行した。
 日本の敗戦後、ビルマに戻った彼は祖国がいつの間にか植民地から立派なビルマ人の国に立ち戻っているのを知った。それをやり遂げたのは戦時中、日本と協力したアウン・サンだった。ウ・ソーは複雑な思いだったといわれる。宗主国に楯突こうとして監獄につながれたのに、それも評価されず、若い英雄が彼にとって代わっていたからだ。その彼に英国は一台のジープと何丁かの軽機銃を彼が希望するままに引渡したという。そして翌日、旧英総督府に一台のジープが乗り付け、四人の兵士が二階の閣議室に乱入し、アウン・サンを軽機銃で撃ち殺した。英国は、ウ・ソーをアウン・サン暗殺の黒幕として処刑した。そしてアウン・サンの娘、スー・チーを英国に引取り、育てた。いつの日か、英国に役立つカードになると期待して。
 腹黒い策士、野望家と歴史の中で酷評されるウ・ソー。彼が衝き動かし、アジアを揺るがせた戦争の顛末を素直に見直してみると、本当に腹黒いのは誰かがよく分かる。」

 この高山氏の評論は、「真珠湾を見た男  世界はみんな腹黒い」という表題がついている。短い評論であるが、当時世界的に最も評価が高かった政治家チャーチルなりルーズベルトなりの人となりが違った意味で浮き出ている。そして歴史が問うたのは、事の善悪ではなく、その後の結果如何だという事か。歴史が結果如何だとすれば、東京裁判の被告も救われないこととなる。

 


東京裁判で日本弁護団が主張した事。続

2023年04月01日 | 歴史を尋ねる

 前回は、真珠湾事件米両院合同調査委員会報告書の中から、ブレイクニー弁護士が日本電報傍受電の米国での発着時刻をしめす一覧表を証拠として提出したところで終わった。米両院合同調査委員会ではどんなことが議論されたのか日本語版ウキペディアには、出てこない。やっと、『シルバー回顧録』で触れられている。

『1.日本軍による真珠湾攻撃の被害の大きさから、太平洋艦隊司令長官 キンメル海軍大将と ハワイ軍管区司令官 ショート陸軍中将が、防備責任の怠慢を理由に退役させられた。
 2.処罰を正当化するため、ホワイトハウスは直後の12月16日に大統領特命による調査委員会 ( ロバーツ委員会 ) を発足させ、なぜこれ程大きい被害を受けたのか、の調査に
   当たらせた。しかし調査の方法が余りにも政府側 ( の責任回避 ) に偏っていたため、調査に対して疑惑が深められた。
 3.米国の勝利が確定的になった1944年 ( 昭和19年 )に、職務怠慢の理由で退役させられた キンメル海軍大将、ショート陸軍中将から、 えん罪 を晴らすために正式の軍法
   会議開催要求が起こった。
 4.その理由は政府首脳が日本軍の真珠湾攻撃を事前に知りながら、故意に現地司令官に知らせず、被害発生の責任を押しつけたとするものであった。
 5.法廷で事実関係を争うことの不利を避けるため、ルーズベルト政権の ホワイトハウスは、陸軍、海軍長官に指導監督権限がある陸軍査問委員会、海軍査問委員会での再審を実施
   することで決着を図った。
 6.両軍の査問委員会における判決は、事実の立証するところに基づき、( 当時の ) 現役の個人または団体の誰も、違反を犯していないし、重大な過失を招いても
   いない。
というものであった。

 7.しかし海軍長官 ノックスは、ルーズベルト政権首脳が計画した 「 日本を挑発し先制攻撃をさせることによる、戦争開始の筋書き 」を秘匿するため、事実上海軍査問会
   議の判決を破棄してしまった。
 8.その後議会がこの件の調査に乗り出すと、当時の ホワイトハウスは自ら調査を取り仕切る方が賢明と判断し、与党である民主党主導による上下両院合同の真珠湾調査委員会( 以
   下議会合同調査委員会という )を発足させた。
 9.延べ 70 日の聴聞会で 331名から証言を集め、1千万語におよぶ調査資料を集めた。しかし民主党、共和党との政治上の駆け引きから、軍人に対する昇進を エサにした、暗
   号解読書類の破棄などの証拠の隠滅工作や、左遷の暗示、脅迫による証言の撤回、記憶喪失、証人としての出頭拒否などがおこなわれた。
10.その結果、議会合同調査委員会の結論は、ハワイの司令官達の過失は判断の誤りであって、義務の怠慢ではない。というものに変更されたが、真実の解明とはほど遠
   い、うやむやなものとなった。
11.ニューヨーク、タイムスの記事によれば、真珠湾の防備の怠慢を問われて退役させられた当時の太平洋軍司令長官キンメル海軍大将と、ショート陸軍中将の名誉を回復する決議
   が、1999年5月25日に上院で賛成52、反対47で採択された。遺族にとっては58年振りの悲願達成であった。提案者の ロス上院議員は 歴史の誤りを正し 、二人
   を公平に扱うべきであると説明した。』

 ブレイクニー弁護士が日本電報傍受電の米国での発着時刻をしめす一覧表を証拠として提出したというのは、ここでいう議会合同調査委員会からの資料であろう。前回からの続きである。検察側の異議申し立てと検察側に同調するかのような裁判長の発言を聞いたブレイクニー弁護士は、反駁した。「検察側は、被告たちは対米覚書発出に当って、それが間に合わなくなる危険性がある範囲まで発出を遅らせる計画をしたと主張しているが、実際の覚書の電報は、事前に米国側に渡っていた。被告たちは、一定の時刻に覚書を手交しようと衷心から意図したのである。結局はそのように行われず、事態は悪く発展したが、それは被告たちにはどうすることも出来なかった事である。故に、裏切り的攻撃であったとして有罪無罪を決定するび当たり、もしその覚書が被告たちが意図した通りに渡されていたらどうなったか、を考察する事は興味ある事である。ヘーグ条約違反の問題が取り上げられたが、もともとヘーグ条約の規定で戦闘行為開始前に宣戦布告を行うというのは一国が奇襲を受けるのを避ける為であり、もし戦闘行為の開始が絶対的である事が予期された時は奇襲にはならない。また同条約は事前に通告すべき旨規定しているが、その時間については何ら規定していないから、極端な場合には、通告後一分で攻撃しても条約違反にはならない。本証人の口述書によれば、米国は覚書手交の四時間前にその内容を承知していたのであり、通告後一分で攻撃を受ける場合と比較すれば、問題にならない。さらに本口述書によれば、日本の連絡会議構成員が対米覚書を宣戦布告と同様なものであると考えたように、米国当局もそのように考えていた事が明らかになる」と。以上の弁護側反論を聴いた裁判所は、検察側の異議を却下してブラットン宣誓口述書を証拠として受理した。
 ブラットン口述書の要旨は次の通り。「日本が対米覚書を発出する旨の電報を12月6日(注:ワシントン時間)午後2時に知り、マイルズ・ジロー両将軍に報告した。覚書の第十三部までは午後9時から10時半の間に受領し、国務省に送ると共にマイルズ将軍に電話した。第十四部は12月7日午前8時15分から8時半の間に自宅で閲覧(注:日本大使館で十四部を翻訳し終えたのは午後零時半であった)、直ちに国務省に届けた。午後一時に手交すべき旨の訓電は午前9時頃閲読し、マイルズ、ジロー、マーシャル将軍に報告、午前11時25分四人で会談した結果、覚書手交の午後1時またはその後に、日本は太平洋上で戦闘行為を起こすだろうとの意見一致を見、マーシャル将軍はスターク作戦部長と電話で相談し他後で、ハワイ、比島、パナマ等の防衛司令官に送る警報電報を自分で書いた。電信本部長は電報は三十分ないし四十分以内に宛先に届くと言ったので、午前11時58分その旨将軍に報告した」と。そして警告電報の内容は、「東部標準時午後1時、日本側は実質上最後通牒に等しきものを提示しつつあり。なお日本側は暗号機を即時破壊すべき命令を受けたり。指定時間がいかなる意味を有するやは目下不明なるも、右事情に鑑み厳戒を要す。海軍当局にも本通告を伝達せよ」
 ブラットン証人に対する反対尋問は行われず同証人退廷後、ブレイクニー弁護士はさらに、米国側が事前に覚書内容を知り、戦争の発生を予知していた事の追加立証として、真珠湾事件両院合同調査委員会報告書の中から、米海軍が真珠湾攻撃開始約三時間前に覚書十四部全部の傍受電な配布を完了していた事に関する海軍省無電課ローレンス大佐の証言、12月6日夜、覚書13部までの傍受電を読んだルーズベルト大統領が、「これは戦争を意味する」と言ったことを確認する海軍省通信局情報通信課員レスター・シュルツ中佐の証言、日本の暗号機破壊の電報は、外交関係の断絶及び戦争開始を意味すると考えたとのウエルズ国務次官、マイルズ陸軍少将及びインガルソン陸軍大将の証言等を抜粋朗読した。

 対米最後通告手交の遅延は被告たちの共同謀議の結果であった、との検察側主張を完全に覆すことが出来た。更に、米当局は日本の傍受電を解読する事によって事前に日本の最後通告の内容を知って対応策を講じており、結果的に日本軍の真珠湾奇襲攻撃は成功したものの、それは米軍当局の誤判断、あるいはなんらかの理由によるものであった事を明らかにし得た事は歴史を真相の一端を明らかにし、今後の歴史研究上、極めて貴重な資料を提供した、と冨士信夫氏。しかし日本の歴史家もマスコミも腰が重かった。近年になってやっと動き出したと言ったところか。
 もう一つ冨士氏は疑念を提起している。ブレイクニー弁護士が提出した証拠によれば、マーシャル参謀総長の警告電報はハワイ防衛司令官にも送られ、同電の末尾には「海軍当局にも本通告を伝達せよ」とある。同警告電報は日本軍の真珠湾攻撃開始時間、午後1時25分より前に、充分な時間的余裕をもって現地に到着した筈である。しかしこの警告電報の内容がはハワイ防衛司令部から海軍側には伝えられなかったらしく、日本軍の攻撃が完全に成功している。また、なぜスターク海軍作戦部長はマーシャル参謀総長から電話連絡を受けた後、直ちに海軍の通信系を使って在ハワイ海軍部隊に直接警告電報を打たなかったのか。ルーズベルト大統領をして「これは戦争を意味する」と言わしめた日本の傍受電により、開戦時期の切迫を感じたはずの米国が、ことハワイ所在海軍部隊に関する限り、なぜ一切戦争の圏外に置こうとした第三者に感じさせるような措置を執ったのか。決め手になる決定的証拠は、これまでの出版物でだされていないと冨士氏。冨士氏がこの著書を発行したのは、1988年だった。

 ・海軍関係 : 冒頭陳述は米人弁護人三羽烏の一人、ブラウン弁護士が行った。衒いも隠しもなく、その立証に自信を持ち、検察側立証の欺瞞性を突いて、真っ向から立ち向かっていた。 ①海軍大臣は常に現役の上級士官から任命されて、軍部大臣の任命を政府に対する圧力に利用するという検察側の主張に、海軍大臣の任命には何も関係ない。 ②海軍諸学校の教育は、海軍に関する専門学科、高水準の精神教育、国際法に関する教育に重点を置いて行われ、起訴状にあるような全体主義、侵略、好戦、仮想敵国に対する残忍・憎悪の誠心を叩き込むような教育は行われなかった。 ③軍人の昇進は、職務上の能力と成績に適応して制度運用が行われ、共同謀議に与って高級将校になったが故にその責めに任ずべきという検察側の論は当たらない。 ④起訴状は、日本が自己に有利な案に列国を同意させることに失敗しワシントン条約を廃棄したとあるが、もし世界列強が真に軍縮を心から欲していれば、日本案こそ真の解決策を提供するものだった。 ⑤日本は南洋委任統治諸島を不法に要塞化したとして検察側が提出した証言の口述書が如何に虚偽なものであり、書面証言を受理した事が、被告に取り如何に不利であるか、明らかにする。 ⑥日独間には、純粋な海軍の立場からいえば、同盟国間の戦争協力は皆無であった。 ⑦米英蘭に対する日本海軍の戦争準備は、1941年末期外交交渉がほとんど手を尽くし、当面の重要問題解決の見込みがなくなった後、初めて実施された。 ⑧日本海軍首脳部は、敵対行為の開始に先立ち国際法の規定に合致した正式の通告がなされると信じ切っていた、等主張したが、特に⑦については、「日本の行動たるや、あたかも小人が自己を守るために巨人に向って打ちかかるもののようであった事を明らかにする。絶対絶命、ほとんど絶望的境地に追い詰められた事を痛感したのでない限り、日本は敢えてかかる身の程知らずの挙に出ようとはしなかった」と、日本の執った行動を正しく理解するよう求めている。この後、証人二十人を喚問、三十六通の文書を書証として提出、この内検察側証拠の欺瞞性を暴露するため、南洋防備に関する反証のために出廷した、元南洋興発技手若松誠の証言だった。検察側の提出した証拠の中に、証人として出廷せず陳述書だけを提出した南洋諸島各島の島民のものと共に、若松氏の陳述書があり、すでに受理、朗読された。弁護側は若松氏を探し出し、検察側の陳述書は米軍将校があらかじめ用意した項目について質問した上で若松氏の答弁を記録したが、最終的に出来上がった書類の内容は日本語で読み聞かせられないで署名させられたうえ、その上、宣誓していない事が判明した。そこで若松氏の上京を求め、前期事情を明らかにした宣誓供述書を作成し、若松氏を出廷させて、その口述書をブラウン弁護士が朗読した。わずか一つの実例に過ぎないが、証人を出廷させないで提出された検察側作成の陳述書が如何に出鱈目なものであるか白日の下に曝した、極めて貴重な証言だった。翌日の新聞紙上には、極めて簡単に事実関係を伝えたが、検察側陳述内容の誤謬を指摘した部分は、一言も触れていなかった。

  日米海軍力の比較に関する立証も、弁護側の勝利に終わった。検察側は先に戦争準備の段階で、日本海軍保有の戦艦、巡洋艦、航空母艦に関する資料などで、開戦時日本海軍が多数の攻撃的艦船を保有している事を法廷に印象付けようとした。ブラナン弁護士は日米艦船の数字を読み上げ、1941年12月7日現在の艦艇、日本391隻、146万トンに対して米国1537隻、265万トン。建造中の艦艇、日本88隻、37万トンに対して米国1321隻、143万トン。日本の海軍力が、米国の海軍力と比べ遥かに小さかった事が明らかになった。
 真珠湾攻撃に関して四証人が証言した。①元軍令部部員三代辰吉大佐:当初は、真珠湾攻撃があまりにも投機的で、万一失敗した場合、爾後の作戦がほとんど不可能と考えられたことその他の理由で反対だった軍令部が、その後の情勢の変化と連合艦隊の強い決意により、最終的に真珠湾攻撃に賛成するに至った経緯。 ②元赤城飛行隊長淵田美津雄大佐:第一航空艦隊における飛行隊機の実際の訓練の情況と、真珠湾攻撃が決して長期に亙って計画されたものでなく、海軍戦略の死に物狂いの計画に過ぎなかった事情。 ③元第一航空艦隊参謀源田実大佐:昭和16年1月ごろ、真珠湾攻撃作戦の研究を依頼した手紙を示され、爾後、第一航空艦隊としての真珠湾攻撃に関する計画・準備の実際を担当してきた状況。 ④元第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介中将:16年4月に山本連合艦隊司令官から打ち明けられた時、極めて実現困難と思えて反対したが、長官の固い決意と切なる希望表明により、計画・準備を進めた。 検察側は真珠湾攻撃そのものには関心が無いらしく、反対尋問はなかった。

 ・陸軍関係 : ブルーエット弁護士による陸軍関係の冒頭陳述が行われたが、検察側、裁判長から、今後提出する証拠を説明する冒頭陳述ではなく最終弁論だと酷評された。陸軍関係では16人の出廷証人、提出書証39通。出廷証人中に陸軍軍備、戦争準備全般に関して、元参謀本部第一部長田中新一中将が証言した。田中証人の口述書は、参謀本部の作戦計画、用兵、国防判断及び陸軍の戦争準備全般を、①昭和16年度の作戦計画、②昭和16年7月2日の御前会議を経て国策決定を見た後における作戦準備、③9月6日御前会議を経て国策決定を見た後における作戦準備、④9月中旬以後における作戦準備の状況、⑤11月5日御前会議を経て対米甲案、乙案決定後の作戦準備、⑥結論の六項目に分けて詳述した。この内①ないし⑤の項では、陸軍としては情勢の推移に応じて受動的に立ち上がる作戦計画は立てたが、全般として軍需資材と船舶不足のため作戦準備は遅々として進まなかった事、9月6日の御前会議で、外交交渉に支障をきたさない範囲で作戦準備を進めるよう決定されたが、10月中旬東条内閣の成立によって9月6日の決定は白紙還元され、作戦準備は一向に進捗しなかった事、11月5日の御前会議で本格的な作戦準備を進めることが決定され、爾後陸海軍の作戦協定その他の準備が着々行われたが、未だ開戦は決定されておらず、万一日米交渉妥結の時は、一切の作戦を中止する事に陸海軍の意見が一致しており、「南方作戦計画要綱」にもその旨明記されていた事等を述べ、最後に結論としては、日本陸軍としての大東亜戦争のための作戦準備は、情勢の変化によって9月6日以後に開始されたが極めて貧弱であり、かつ開戦決定は12月1日まで行われておらず、陸軍としては早期から対米英蘭戦争計画のようなものは持っていなかった事を述べた。これに対して検察側はこの口述書は議論に満ちており、反対尋問をすればさらに議論が出るだろうと述べたところ、裁判長は、本証人は主として日本がどのように物事を考えたかの理由を述べており、それは意見ではなく事実である、これに対して反対尋問を行うのは困難であろう、日本人が何を考えたかは日本人だけが知る事である、と意味深長な発言を行った。

 ・俘虜関係 : 「侵略戦争」とか、「共同謀議」とかいう理念の問題とは異なり、起訴状の三訴因を具体的に裏付けるものとして圧倒的多数の検察側証拠として立証されたものは、日本軍人によって行われた俘虜及び一般人の虐待・殺害等の事実であった。こうした事実は、一部地区のものを除いて、否定し去ることは出来ない、従って弁護側の主張及び立証は、勢い、消極的にならざるを得なかった、と冨士信夫氏。弁護側の主張及び立証は、・日本人の俘虜観、・日本人と欧米人との生活習慣の相違、・俘虜に関する諸条件の解釈の相違、・戦況の推移に伴う日常生活の困難性 等の理由から、日本人としては俘虜たちを極力条約その他の規定に従って取り扱うとしたがそれが出来ず、多くの違反行為が行われてしまった、これらの違反行為は内外各地・各部隊での偶発行為であって、被告たちが知らないとき、知らない場所で発生したものであり、決して被告たちの共同謀議により起こったものではない、従って被告たちに責任はない、という線で進めざるを得なかった。弁護側の立証は、①戦争法規に関するもの、②俘虜取扱についての中央の方針に関するもの、③起訴状に訴追されているもの、中国各地での残虐行為の否定に関するもの、④戦争法規違反行為が行われた事に対する釈明、あるいはその否定に関するもの、⑤俘虜を厚遇し、対手側から感謝された事に関するもの、⑥官軍関係の戦争法規違反についての検察側立証の反駁に関するもの、であった。しかし弁護側立証は、厖大かつ圧倒的な検察側立証に到底太刀打ちできるものでなかった。


東京裁判で日本弁護団が主張した事。

2023年03月20日 | 歴史を尋ねる

 冨士信夫著「私の見た東京裁判」を題材に、東京裁判での歴史認識を見てみたいと思ったが、これまで見てきたように、どうも東京裁判は歴史認識の発見の場ではなさそう、清瀬一郎が冒頭陳述で『困難であるが、公正に近代戦争を生起した一層深き原因を探求せねばならない。平和への道は現代の世界に潜在する害悪を根絶するにある。近代戦悲劇の原因は人種的偏見によるものであろうか、資源の不平等分配により来るのであろうか、関係政府の単なる誤解に出ずるのか、裕福なる人民、又は不幸なる民族の強欲、又は貪婪にあるのであろうか、これこそ人道のために究明されなければならぬ。起訴状によって示された期間中の戦争ないし事変の真実にして奥深き原因を発見することにより、被告の有罪、無罪が公正に決定される。それが将来世代のために恒久平和への方向と努力の方途を指示するであろう』と述べたが、裁判の方向はその方向には向かわなかった。当ブログも、思わず横道にそれて、南京事件について深入りをしてしまった。この後は、東京裁判で争われた点について、淡々と記述するが、これといった点について深堀したい。

 これまで、一、開廷、罪状認否、裁判所の管轄権を巡る法律論争。  二、検察側の立証:①キーナン首席検察官の冒頭陳述、②日本の政治及び世論の戦争への編成替え、③満州における軍事的侵略、④満州国建国事情、⑤中華民国の他の部分における軍事的侵略、⑥南京虐殺事件、⑦日独伊関係、⑧日ソ関係、⑨日英米関係、⑩戦争法規違反、⑪被告の個人責任。  三、公訴棄却に関する動議。  四、弁護側立証:①清瀬弁護人の冒頭陳述、②一般問題、③満州及び満州国、④中華民国、までが、これまで見てきた範囲である。
 ④中華民国に関する立証は、・盧溝橋事件及び日本の不拡大方針、・中国共産党の活動と排日運動、・事変の中支への波及、・南京攻略と平和への日本の努力、・漢口攻略とその後、・中国新政権、に分けて、各項目ごとに証拠を基に事件及び事柄の経過を説明、いわゆる「南京虐殺事件」を含む中国各地での残虐行為に関する検察側の訴追に対しては、南京での残虐行為は誇張的に報道されあるいは全然存在しなっかった事、中国人による残虐行為で日本軍人に責任を転嫁されたものがあったことを明らかにする旨弁護側は強調したが、裁判所側にどこまで受け入れられたか、未知数だった。
 続いて、⑤ソ連邦に関する具体的立証は、・防共協定、・張鼓峰・ノモンハン事件、・対ソ軍備、・日ソ中立条約に分けて、120通以上の書証の提出と、延二十九人の証言とにより正味十七日間に亙って行われた。その中で検察・弁護双方の言い分を聞いた裁判長は、「本法廷では、欧州の共産主義活動は東洋の問題に関係ない旨述べた。日本人の生命、財産が中国共産党によっていかに侵害されたかは関連性あるものとしたが、我々は全世界の共産主義理念に対して裁決を与える権利があると考えたことはない。日本は共産主義とは闘ったが、未だソ連に攻撃を仕掛けたことはないと述べている。その日本は保守主義の英国や、資本主義の米国に対して攻撃を開始した。しかしながら、如何なる影響を与えるかは別問題で、我々は弁護側が関連性、重要性があるとして提出する証拠はひとつも見逃さない心積もりである」と。中華民国関係立証の時とは、裁判所の態度が変化してきた。それは戦後世界に徐々にその兆しが見え始めた米ソの対立が、裁判官たちの心理に微妙な変化を与えた。
 ・日ソ中立条約関係の立証時、興味深いやり取りが行われた。ソ連の対日宣戦布告時の駐ソ大使佐藤尚武証人の口述書提出に対する異議申し立てに当って、ヴァシリエフ検察官は、日本が太平洋戦争の早期平和的解決を図るため、ソ連に仲介を依頼した時ソ連の執った行動について、「弁護側が提出しようとする証拠は、ソ連が平和招来のため執ったこの歴史的事実としての行動を一方的見解を基にして告発しようとするもので、断じて許されない。テヘラン会談から日本降伏までの間のソ連の行動は世界平和招来のための侵略者に対する圧迫行為であり、テヘラン、カイロ、ヤルタ、ポツダム等の協定は何者によっても覆されるべきものである」と主張。これに対しブレイクニー弁護人は「1945年7,8月に、日本は太平洋戦争の終結に関してソ連の仲介を求めているが、これは日本が対ソ侵略の意向を持たず、平和を熱望していた事を明らかにするものである。ソ連自身の執った行動から見て、ソ連が日本の執った行動を訴追する事は公正と正義のあらゆる原則に反する。検察側は、正当な理由なく他国を攻撃する事が侵略戦争だと主張しているが、その場合、正当な理由なく他国を攻撃した国家は侵略国家でありその指導者は戦争犯罪人であることをソ連が認めた事になり、英米の要請ということ以外何らの理由なく、またその理由も発表しないで対日宣戦を行ったソ連も侵略国家であると言わざるを得ない。検察側の主張は力を以て本問題を審理から除外しようとする政治的発言に過ぎない」と。裁判所は本件協議にため一時間の休息に入り、再開した法廷で裁判長は、「ソ連参戦後の被告の行動は訴追されておらず、証拠も提出されていないので、ソ連参戦に関する事項は本裁判の審理に関連性がない。よって本口述書は、ソ連の参戦に関する部分を除いて受理する」と。
 佐藤証人退廷後、ブレイクニー弁護人は米国の元駐ソ軍事使節団長ジョン・ディーン少将の宣誓口述書を提出した。その内容はテヘラン、モスクワ、ヤルタ、ポツダム等の重要会談に参加したディーン少将が会談の内容を明らかにしたもので、弁護側はこれにより日本が対ソ作戦計画を立てた事を以て対ソ侵略行為であったとするソ連側の訴追を、真っ向から撃破しようとするものであった。検察側のディーン口述書受理反対の異議申し立てに対して、「検察側の異議は、戦勝国の一員たるソ連の言い分を言葉に変えて述べたに過ぎない。ソ連検察官の言い分は、被告の執った行動が犯罪的であったか否かを審理するためで、『侵略国側から出た証拠』は使用できないという。この議論は本裁判所の判決を予測するもので、もしこのような事が行われるとすれば、本裁判は初めから行う必要を認めないものである」と痛烈なソ連攻撃の言葉を以て、反駁弁論を終えた。裁判所は一旦休息に入った後、再開した法廷で裁判長は、佐藤証人と同様、ソ連参戦の部分を除いて、ディーン口述書を受理すると裁定した。

 ⑥太平洋戦争関係の立証は、・三国同盟、・経済、・外交、・海軍、・陸軍、・俘虜も六つに部門に分けて、正味32日間行われた。
 まず三国同盟関係ではカニンガム弁護人が証人四人を喚問し書証五十通を提出したが、六日間のうち半分の三日間は証人の証言に費やされた。陳述のプロセスは、◎独ソ不可侵条約の締結により、日独間は完全に打ち切られた。◎阿部・米内両内閣の進めた親英米政策が、米国の無理解により失敗した。(対英米親善政策を旨とするようにとの陛下のご意向を体し、日本政府は欧州戦争に介入する事なく、支那事変処理に邁進する旨の政府声明を発した事、米国の日米通商航海条約の廃棄通告に対し、日本は同条約の期限満了前に暫定協約締結を米国側に提議したが米国政府がこれに応じなかった事、オット駐日独大使が日本側に冷遇されるようになり、松岡外相との会見でこの点について不満を漏らした事等を立証した) ◎三国同盟条約締結の目的は世界平和の維持にあり、平沼内閣当時の失敗した軍事同盟とは全然別個のものであった。(リッペントロップ外相の特使として来日したスマーターはオット大使と共に極秘裏に松岡外相と会見し、これ以上の戦争拡大を避けて米国を戦争に引き入れないようにしようとするドイツの意図を説明し、日本を欧州戦争に引き入れる意図もない事、日本の要請があれば日ソ友好関係の増進、支那事変の解決に貢献するよう尽力する用意のある事を明らかにした。松岡外相はドイツ側の意向に全面的に賛意を表したので、直ちにベルリンに報告、リッペントロップ外相から交渉開始の訓電を受け、交渉は急速に進捗して、9月27日条約調印を見た。当時大島は何の官職もなく、本交渉には何の関係もない)◎三国同盟条約締結後、日独間には原則的に協力がなかった。(松岡・ヒットラー会談につき、ヒットラーはソ連の態度いかんにかかわらずソ連を攻撃する決心をしていたが、松岡にはその事は一切隠蔽していた。シンガポール攻撃問題はヒットラーが松岡外相に働きかけた事を思わせ、松岡外相がヒットラーに完全に騙されていた事をレーダー提督の著書から見せつけられた。)◎日独間には軍事的協力はなかった。(当時在日独大使館付陸軍武官アルフレッド・クレッチマー陸軍少将が証人として出廷、・独ソ戦勃発2か月前、独ソ戦の可能性を日本側から質問され、本国からはデマであると強く否定するよう回答。・日本がタイあるいは蘭印を攻撃する事はありうると考えていたが、日本側の動きから日米開戦は避けられる、と考えてた。・独ソ戦への日本の参加を三回に亙って日本側に要求したが、日本参謀本部は独ソ戦介入不可能を明言した。・日独間に効果的な情報交換はなかった。)◎三国同盟条約と日ソ中立条約との関係。(死の直前に作成されたリッペントロップ口述書が受理された。・大島とは1935年以降、日独関係についてしばしば協議を行った。・防共協定を、世界の民主主義国家に反抗するものであったとするのは正しくない。・三国同盟条約締結は、米国の参戦防止にあった。・独ソ開戦後、日本がソ連を攻撃すれば効果的だと申し入れたが、日本はソ連と対抗する事は拒否するだろうと思った。・大島も自分も日本の真珠湾攻撃の事前通告を受けていない。・日独関係は緊密ではなく、わずかな協力もなかった。・日独はイタリアと共に世界征服を企図したとの訴追を受けているが、このような主張はばかげたことである。)◎日独間には効果的協力はなかった。
 日米交渉が不調に終わった理由の一つが三国同盟条約の存在があった事、締結前夜石井菊次郎枢密顧問官が表明したドイツの国柄についての憂慮の事実がその後のドイツの行動に現れた事、日独間に実際的協力がほとんどなく日本の得る処が少なかった事等を冨士信夫氏はコメントしているが、むしろ英米側が米国の参戦へ導くプロパガンダの匂いがする。参戦防止を逆さにとって、参戦の理由に作り上げたというのが、実態ではないか。

 六週間の休廷のあと、太平洋戦争関係冒頭陳述に入った。嶋田被告担当の高橋弁護人が行った。「今後提出される証拠は、日本及びその代表者として行動した被告たちは侵略戦争を行ったものではなく、事実は、国家の存立を危うくした自衛の戦争に巻き込まれたのであった事を立証する。さらに、太平洋戦争はあらかじめ計画され、長年に亙って準備されたものであったという検察側の主張を破砕し、被告たちの意志に反して戦争という結果に立ち至った事を立証する」と述べ、各項目ごとの陳述に入った。①日本の工業経済は、侵略戦争のために計画され指向されたものではなく、民需に応じて発展し、最後にその必要部分が戦争に転用されたに過ぎない。②資源の乏しい日本に対する連合国各国の経済圧迫と、これに併行する対日軍事包囲網は着々と整備された。③1941年から日本の三代の内閣は事態の平和的解決を図るべく、熱心な日米外交交渉を進めた。④米国の11月26日付け対日通牒は、最後通牒と解された。日本が米国の要求を受諾し得ない事は、日本の当局者のみならず米国当局者や他の第三者にとっても明らかであった。12月1日、あらゆる希望を失い日本は戦争を決意したが米国は以前からその事を予知していた。日本の対米通告手交が遅れたのは、被告たちの力の及ばないワシントンにおける事情の結果であった。⑤日本陸軍の戦備は、1941年9月6日以前には為されなかった。それ以前にあったものは、仮想敵国に対する年次作戦計画に過ぎなかった。⑥いわゆる侵略戦争のための教育・宣伝が行われたとの検察側訴追を反駁するため、海軍の人事・教育に関する証拠を提出する。⑦南洋委託統治諸島を日本が要塞化したとの検察側主張を反駁するため、強力な証拠を提出する。⑧海軍の戦備は、四海海に囲まれた国に相応しい海軍軍備を行ったもので、世界列強が当時採った方法と何ら矛盾するものではない。⑨真珠湾攻撃は、長時間の準備後に行われたものでも、侵略的傾向を示す予め計画された行動でもなく、日本に対して大きな軍事的勢力の優勢を持った大国に対抗するための、日本の絶体絶命の思想を表したものである。⑩日本政府及び統帥部首脳は寛仁を旨とする武士道に則って行動し、俘虜及び一般住民に暴行を加え虐待する等は思いもよらない事だった。⑪被告たちの幾人かは開戦に反対し、ただ自衛上、最後の手段としてのみそれに賛成した。「これによって、一般段階における証拠は、日本は何ら侵略戦争を準備し且つこれを行った事無く、又何ら現存国際条約及び協定を故意に侵犯した事の無き事、並びに太平洋戦争開始の時に現存した複雑な国際環境は、平和維持の為に非常に努力したにも拘らず、不可避的に追い込まれた戦争を決意した事を支持する十分な事由と相当の根拠とを証する」と言って冒頭陳述を終えた。

 「日本に対する連合国の圧迫」という副題の付いている経済関係の立証は、木戸被告担当のローガン弁護人が行った。「我々の第一の目的は、欧米諸国は日本の権利を完全に無視して無謀な経済的立法を行い、また真珠湾攻撃に先立つ数年間、欧米諸国は故意かつ計画的、共謀的に日本に対して経済的、軍事的圧力を加え、その結果が戦争になる事を充分承知し、そのように言明し且つそのように行動を執った事を明らかにする事である。また、・・・遂に日本は欧米諸国の思う壺に嵌り、日本から先ず手を出すようにと彼らが予期し希望した通り、自己の生存そのもののために、戦争を決意せざるを得なかった事実を立証する。・・・今ここに我々が問題にするものは、日本を遮二無二戦争に駆り立てるために用いられた手段である」と。日本人ではない、欧米の弁護人が、ここまで主張していることに、敬意を表すると共に、日本人の歴史家でここまで言うことが出来る人は、どれほどいるのか。日本人は戦争を真正面から吟味する必要がある、そうすると「日本は欧米諸国の思う壺に嵌り、日本から先ず手を出すようにと彼らが予期し希望した通り、自己の生存そのもののために、戦争を決意せざるを得なかった事実」を我々自身の手で正当に分析できる、と思う。
 国土狭小、資源が乏しい日本が生きていくためには、国内の工業化と海外貿易に依存する以外に方法がなかった事情を詳細に述べ、1931年から1941年までの間の日本の鉄鋼生産高、造船工業の実態、商船、漁船、貨車、戦車、自動車等の保有数が、他の列強と比較して極めて貧弱だった事、さらに米国およびこれに追随する英蘭の日本資産凍結冷、米国の対日石油禁輸措置は日本の生存権を拒否するに等しいものであった。「我々が引用する証拠は、日支戦争に対する米国の介入は、未だ如何なる非交戦国にも見られないものであった事、中国に対する全面的援助は米国の大胆な政策となり、それが日本にますます多くの血を中国の上に流させる結果を齎した。・・・この間米国は、太平洋上でも決して眠っていたのではない。増援軍は絶えずフィリピンに送られていた。フィリピン周辺海域への機雷の敷設、シンガポールの要塞化、遠距離基地の急速な改良等が、着々と進行していた。以上が1941年12月7日以前の極東情勢の描写である。多数の導火線を持った火薬樽が、誰の目にも明らかに認められた。最初の導火線に誰が点火したか、か重要。どの導火線が最初に爆発したか、は問うところではない」
 しかしすでに中国関係立証段階で明らかになったように、裁判所の態度が、訴追されているのは被告、すなわち日本の行動であり、連合国がどのような行動に出たとしてもそれは本件審理には関係ない、との検察側の異議にことごとく裁判所に容認され、過半数の文書は却下された。東京裁判ではそうであっても、歴史の法廷では逆にことごとく認定されるだろう。
 次いで、外交関係。弁護側立証は、日米交渉を弁護側の立場から論じ、被告たちの考え方・判断・処置等を明らかにする外交関係の立証に入った。冒頭陳述はブレイクニー弁護士が担当し、①生起した諸事件を理解し誰に実際責任があったのか正しく判断するためには、日本の文武の関係を理解する必要がある。作戦上の問題については参謀本部と軍令部が最高絶対権威であり、軍略及びその関連事項については、参謀本部と軍令部が政府に対して責任を取ることなしに決定する力を持っていた。逆に、政府は参謀本部と軍令部の同意なしに何もできず、参謀本部と軍令部は国防上の必要から、国務に強力な影響を及ぼすことが出来た。②日本の南部仏印進駐は直ちに米英蘭による日本の資産凍結並びに対日経済断交を招来したが、この措置は、日本の南部仏印進出の数週間前から米側から考慮されていた。③東條内閣の出現は、一般に日本で過激的意見が勝利を制した証拠と考えられているが、事実は新首相は日米関係問題の再検討を就任と共に実行した。④日本側最終案「甲案」提示の当初は見込み良好だったが、米国は日米交渉に興味を失い、日本の誠意を疑うようになった。⑤対米最後通告の米側への手交は、ワシントンでの書類作成時の予期せぬ手違いのため指定時間に遅れて攻撃後になったが、政府及び連絡会議関係者が通告の件について決定した際、通告手交は一切の攻撃に先んじて行う意向であった。⑥日本の対米通告を、宣戦を要求する条件に適合するものであったとする考えは、日本の当事者だけでなく米国当局者も同じであった。米国は戦争の切迫について充分警告を受けており、11月26日付通告が交渉決裂に至ることものである事を、事実上予想していた、と述べた。
 日本の対米最後通告の米国側への手交が日本軍の真珠湾攻撃開始後になったため、「リメンバー・パールハーバー」として、全米国民を一大結束させるに至った事は歴史的事実であるが、何故遅れたかの事情は、元外務省電信課長亀山一二と来栖大使に随行した元外務省書記官結城司郎次の証言によって明らかになった。この対米最後通告の手交遅れは、「真珠湾の騙し討ち」「真珠湾を忘れるな」と大きく喧伝されて米国民の一大結束を齎し、その事がその後の戦局の推移に大きな影響を及ぼした事を思う時、この対米最後通告手交遅延の原因を作った外務省及び出先機関の責任は、きわめて大きかった、と冨士信夫氏。
 一方、米国側の傍受電発着時刻を示す一覧表を朗読した後、米国が日本の傍受電解読して対米最後通告の内容及びその手交時刻前に承知し、その対応策を執っていた事を立証するためにブレイクニー弁護人は当時連合国総司令部G-2民間情報部次長で、開戦当時米陸軍省作戦局軍事諜報部極東課長だったルフェス・ブラットン陸軍大佐を証人に出廷させ、その宣誓口述書を提出しようとした。これに対してタヴェナー検察官は、米国がどのような事態を知っていた事を立証したからとて、被告たちの侵略行為を正当化するものではないから、本口述書は重要性、関連性がないと異議を申立て、裁判長も同意した。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        


「南京大虐殺のまぼろし」の実像 3

2023年02月13日 | 歴史を尋ねる

 南京城攻略戦について、南京大虐殺の言葉を追いかけて、当時の当事者の言葉を集めてきた。多少、ピックアップ的になったので、今回は茂木弘道著「戦争を仕掛けた中国になぜ謝らなければならないのだ!ー「日中戦争」は中国が起こしたー」とヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦争史観の虚妄」を参考にしながら、南京城攻略戦を俯瞰し、併せて「南京大虐殺」を世界に最初に報道した記者たちの実態を見ながら、大虐殺がプロパガンダだったことを見届けたい。

 不拡大方針を実行しつつあった日本政府・軍は、蒋介石がドイツ大使トラウトマンの仲介に依る和平提案を受け入れず、抗戦を続けているので、戦争終結のためには策源地の南京占領が必要であると意見が強まり、11月28日、参謀本部は南京攻略を決定した。12月1日、松井石根中支那方面軍司令官(上海派遣軍と第十軍)に南京城攻略命令が下命された。12月9日に南京包囲を完了し、降伏勧告文を南京防衛軍司令官宛てに飛行機から投下、同じ日南京安全地帯国際委員会から蒋介石宛て休戦協定案が持ちかけられた。この案は、中国軍に南京からの平和的撤退を要請し、日本軍の無血入城を図るというもので、蒋介石から拒否された。日本軍の最後通牒は10日の正午だったが、中国側からの回答もなく、午後一時日本軍は南京城に対する全面攻撃を開始した。城外では激戦が続いたが、外郭防御陣地を失った南京城は近代兵器に依る攻撃に耐えきれず、唐生智指令官は、12日20時、部下を見捨てて逃亡。そして13日、南京城は陥落した。指令官の逃亡で中国軍は混乱の中を城外に敗走する結果となった。この敗走の過程で中国軍督戦隊による中国兵の殺害なども多発した。逃げきれない兵士が、軍服を脱いで安全地帯に隠れるという戦時国際法違反をおかし、後に摘発され処刑されるケースがかなり生じた。しかし、南京城内で戦闘そのものは殆ど起こらず、安全地帯以外には人を見ずというのが日本軍入場時の実情だった。城外では脱出した部隊と日本軍の間で激しい戦闘がいくつも起こったが、城内はほぼ平穏となった。

 日本軍は、全軍が入城したのではなく、各部隊の選抜された一部部隊が入城した。たとえば熊本第六師団は二個大隊を選抜、二十連隊は一個中隊を選抜といった具合で、最初に入城したのは、一万以下であったと推定される。城内での混乱はほとんどなかった。そのことは同時に入城した150名近くの日本の記者・カメラマンがつたえている。それよりも入城した部隊の兵士がいぶかったのは、城内が森閑としていて人っ子一人見つからない状態だった。それもそのはず、南京市民はほぼ全員、国際委員会が管理する安全区に集まっていて、その数二十万だった。唐生智司令官が12月8日、市民は安全区に集合せよとの指令を布告していた。
 南京城は全長34キロに及ぶ城壁で囲まれている。城門は13ヶ所、ここを通らないと城内には入れないし、出れない。面積は40平方キロ、世田谷区の70%ぐらいで安全区はほぼ市の中心部に置かれていた。150人の記者・カメラマンは城内を精力的に取材し、記事を送ってきている。東京の中央区の半分くらいしか面積のない安全区で虐殺などが起これば、記者の目に留まらない筈はない。しかしそんな記事は一つもなく、また戦後になって私は見たという記者もいない。典型的な記事は、朝日新聞の写真シリーズでしょう。第一回目は12月17日河村特派員撮影の「平和蘇る南京」。以降「きのうの敵に温情〈南京城内親善風景〉」、「南京は微笑む〈城内点描〉」、「手を握り合って越年〈日に深む日支親善〉」と連載されていくが、これが当時の南京の実情であったことは間違いない、と茂木氏。こんなところでどうやって大虐殺が起こせるのか、常識で考えればわかることだ、と。

 安全区国際委員会はその活動記録を英文で残している。1939年に国民党の外郭団体が監修し、Documentos of the  Nanking  Safety Zone というタイトルで上海で出版されている。そこに記されている次のことは重要だ。 1、南京の人口は、陥落時20万、その後12月中はずっと20万だったが、陥落後一カ月後の1月14日には、25万と記録されている。  2、住民の苦情を書き留めたリストに殺人が26件挙げられている。しかし目撃があったのは一件のみで、合法的な殺人とわざわざ注がついている。
 いわゆる大虐殺事件がいかに捏造のものか、この2点で説明できる、と。さらに付け加えると、台北の国民党党史館で東中野修道教授が発見した「国民党宣伝部国際宣伝処工作概要という「極機密」印のついた資料に、南京戦を挟む約11カ月の間、南京から避難した漢口で、300回の記者会見を外国人記者を招いて行ったことが書かれている。ところが日本軍非難を目的としたこの記者会見でただの一度も南京で市民虐殺があったととか、捕虜の不法殺害を行ったとか言っていない。本当に大虐殺があったら、何も云わない事はあり得ない。「南京虐殺は南京が陥落した後で、蒋介石政府がそれを糾弾していた」と思われがちだが、300回の記者会見で一度も云わなかった事実が記録として残っている。うっかり言って事実関係を調べられることが怖かった、と推測される。
 ところが「日本の日本侵略に加担しないアメリカ委員会」といYMCAが主体となって組織した反日団体が、南京事件の半年後の出した『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』と題するブックレットが、1938年に6万部も印刷されて、マスコミ、議会、学会その他に配布された。その中で南京事件より半年も後の広東爆撃で何百人も死者が出たと大々的に書かれているが、南京などは全く出ていない。これも有力な証拠だ。戦後、日本が米軍に軍事占領されまともに抵抗できず、反論できないときになって、勝者が勝手にでっち上げて、大宣伝したウソ話が南京大虐殺だと、茂木氏は結論付けている。

 では、いったいどうして南京大虐殺という情報が流され、欧米でも常識化されたのか。一つはティンパーリー著『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とな何か)』と題する本で、当時ニューヨークとロンドンで出版された。この著作は当時、西洋知識人社会を震撼させた。「ジャーナリストが現地の様子を目の当たりにした衝撃から書いた、客観的なルポ」として受け取られた。この本はレフト・ブック・クラブから出版された。この「左翼書籍倶楽部」は、北村稔教授の調査によると、1936年に発足した左翼知識人団体で、その背後にはイギリス共産党やコミンテルンがあったという。東中野修道教授はさらに調査し、この本は中国語版も出版されたほか、しばらくして日本語版やフランス語版も出版された。この時上海にいたティンパーリー記者は英国のマンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員であると同時に国民党中央宣伝部の顧問でもあった。全八章からなる『戦争とは何か』の最初の四章が南京に関する描写で、そのほとんどが匿名の下、ベイツ教授とフィッチ師が描き出したものであった。第一章前半は、城門陥落の12月13日から15日までが、匿名のベイツ教授によって描かれていた。これは、15日に南京を離れたスティール記者やダーディン記者などに利用してもらおうと、ベイツ教授が事前に準備していた原稿であった。両記者はベイツ教授の原稿をニュースソースとして「南京虐殺物語」や「陥落後の特徴は屠殺」という記事を『ニューヨーク・タイムズ』や『シカゴ・ディリー・ニューズ』に載せた。その記事とベイツ教授の原稿が似通っているのは、東中野教授の研究で明らかになっている。ベイツ教授は、城門が陥落して二日もすると、殺人、暴行、掠奪によって見通しが暗くなったと、記述するが、しかしよく読むと、ベイツ教授が実際に見たのは、路上の死体と中国兵の連行のみであった。ベイツ教授の言う「たび重なる殺人」とは、死体と連行後の処刑を根拠に、男たちの処刑、元兵士の処刑、すなわち市民殺害、捕虜殺害を暗示したものであった、という。もう少しこのブログで付け加えれば、武装解除した元兵士は、一般市民だから、市民虐殺と言っても言い訳が立つと、ベイツ教授は考えたと思う。巧妙なすり替えである。次にフィッチ師が『戦争とは何か』の第一章後半を絵がいていると。12月14日から16日までの殺人を記述している。フィッチ師も実際には処刑を見ていないが、兵士の処刑を、日本軍による市民殺害や捕虜殺害と見做して描写している。また『14日の火曜日に、日本軍は、戦車や大砲や歩兵やトラックが、町に雪崩れ込んできました。恐怖時代が始まったのです。』と記述しているが、実際は「戦車第一中隊は明14日午前十時に宿営地を出発し、担当区域の外周に沿う主要道路を掃蕩して帰還せよ」と命じられていたから、戦車は外周に沿う主要道路にのみ待機していた。従って戦車や大砲、トラックが安全地帯に雪崩れ込んでくることはなかった。しかしフィッチ師のように記述すると、読者はまさに強姦・掠奪・殺人を意のままに狂奔する日本軍を想像するだろう、と。
 ティンパーリー著『戦争とは何か』の中身に触れたが、ヘンリー・S・ストークスによると、ティンパーリーは中国社会科学院の『近代來華外国人人名辞典』にも登場するが、それによれば「盧溝橋事件後に国民党政府により欧米に派遣された宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と。また、『中国国民党新聞政策之研究』の南京事件の項目には、「日本軍の南京大虐殺の悪行が世界を震撼させた時、国際宣伝処は直ちに当時南京にいた英国のマンチェスター・ガーディアン紙の記者のティンパーリーとアメリカの教授のスマイスに宣伝刊行物『日軍暴行紀実』と『南京戦禍写真』を書いてもらい、この画書は一躍有名になったという。このように中国人自身が顔を出さずに手当を支払う等の方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的宣伝手法は、国際宣伝処が戦時もっとも常用した技巧の一つであり効果が著しかった」と。国際宣伝処長の曽虚伯はティンパーリーとの関係について言及している。「ティンパーリーは都合の良いことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の「抗戦委員会」に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。彼が南京から上海に到着すると、我々は直に連絡を取った。そして香港から飛行機で漢口(南京陥落後の国民党政府所在地)に来てもらい、直接会って全てを相談した。我々は目下の国際宣伝において中国人は絶対に顔を出すべきでない。ティンパーリーは理想的な人選であった。我々は手始めに、金を使ってティンパーリーとスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することに決定した」「我々はティンパーリーと相談して、彼に国際宣伝処のアメリカでの影の宣伝責任者になってもらうことになり、トランスパシピック・ニュースサービスの名のもとにアメリカでニュースを流すことを決定、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコの事務所を取り仕切ってもらった。その事務所に参加した人たちはみな経験を有するアメリカの記者であった」と。北村稔教授の本によると、ティンパーリーは犠牲者数として「三十万」という数字を本国に伝えた。いったい、この数字はどこから来たのだろう。北村教授は中国の情報機関がティンパーリーを通じて、世界に発信したとしている。ストークスは言う。「1938年初頭で、中国の情報機関が十分に整備されていなかったが、ティンパーリーの働きは絶大で、中国の情報機関も驚愕し、味を占めた。日本人は野蛮な民族だと、宣伝することに成功した。中国人は天使であるかのように位置づけられた。プロパガンダは大成功だった」と。

 もう一つは、南京大虐殺を世界に最初に報道した記者たちである。南京陥落後の12月15日、『シカゴ・ディリー・ニューズ』アーチボールド・スティール記者は、南京大虐殺物語との見出しで、トップの扱いでこのニュースを報じた、「南京陥落の物語は、落とし穴に落ちた中国軍の言語に絶する混乱とパニックと、征服軍による恐怖の支配の物語である。何千人もの命が犠牲となったが、多くは罪にない人達であった」と。12月18日、『ニューヨーク・タイムズ』ティルマン・ダーディン記者は、「南京に於ける大規模な虐殺と蛮行により、殺人が頻発し、大規模な掠奪、婦女暴行、非戦闘員の殺害、南京は恐怖の町と化した」と。「多くの罪のない人たちであった」とか「非戦闘員の殺害」という表現は、あたかも一般市民の虐殺があったような印象を与える。もしそういう事実があったのであれば、重大な国際法違反であり、大量の民間人を殺害したのならば、「大虐殺」の誹りは免れない。さらに1938年7月、先に触れたティンパーリーの『戦争とは何か』が出版された。この本は、南京陥落前後に現地にいて、その一部始終を見たという匿名のアメリカ人の手紙や備忘録をまとめて、南京に於ける日本軍の殺人、強姦、掠奪、放火を告発したものだった。この本の評価がいっそう高まったのは、その後、匿名の執筆者が国際委員会のメンバーで南京大学教授で、南京の著名な宣教師として人望のあったマイナー・ベイツと、やはり国際委員会のメンバーで宣教師のジョージ・フィッチ師であることが判明した。ベイツは東京裁判にも出廷し、日本軍の虐殺を主張した。しかし、匿名の執筆者がベイツやフィッチだと判明したのは、東京裁判後であり、弁護側の反論もまだ十分な情報がなかった。ベイツは国民党政府「顧問」であり、フィッチは妻が蒋介石夫人の宋美齢の親友だった。ベイツは「『戦争とは何か』で、12月15日に南京を離れようとしていた様々な特派員に利用してもらおうと、私が同日に準備した声明が掲載されている」と述べている。その特派員はスティール記者、ダーディン記者などであり、ベイツが渡した「声明」とは、次のようなものであった。
 「日本軍による南京陥落後二日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な掠奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまった。市内を見回った外国人は、この時、通りには市民の死体が多数転がっていたと報告していた。・・・死亡した市民の大部分は、13日の午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き刺されたりしたものだった。・・・元中国軍として日本軍によって引き出された数組の男たちは、数珠つなぎに縛り上げられて射殺された。これらの兵士たちは武器を捨てており、軍服さえ脱ぎ捨てていた者もいた。・・・南京で示されているこの身の毛もよだつような状態は・・・」 ベイツの記述内容は、日本兵の従軍日誌と符合しないし、兵士の死体を市民の死体とすり変えている。安全地帯の状況説明もないし、指揮官が逃れたことも触れていない。戦闘の状況が不明のまま、手当たり次第に、自らの想像を膨らませて、状況を説明している。これを利用してスティール記者、ダーディン記者が特報の記事に仕立てているさまは、東中野教授が詳細に分析している。
 さらに当時の南京に関する公式記録と、まったく相容れない。当時、国際委員会は、南京の不祥事を日本大使館に『市民重大被害報告』(Daiiy Report of the Serious Injuries to Civilians)を届けている。『市民重大被害報告』は、ルイス・スマイス南京大学社会学部教授によって、1938年1月に纏められた。全444件中の123件がティンパーリーの著した『戦争とは何か』の付録に収録され、その後に蒋介石の軍事委員会に直属する国際問題研究所の監修で『南京安全地帯の記録』として1939年夏に英文で出版された。それによると南京陥落後の三日間の被害届は次の通り。  「12月13日~殺人ゼロ件、強姦一件、略奪二件、放火ゼロ件、拉致一件、傷害一件、侵入ゼロ件。 12月14日~殺人一件、強姦四件、略奪三件、放火ゼロ件、拉致一件、傷害ゼロ件、侵入一件。 12月15日~殺人四件、強姦五件、略奪五件、放火ゼロ件、拉致一件、傷害五件、侵入二件。」 これは日本側による報告ではなく、国際委員会が受理した南京市民の被害届で、日本大使館に提出されたものである。以上から、ベイツは、中央宣伝部の「首都陥落後の敵の暴行を暴く」計画に従ってでっち上げられた。さすがにスティール記者もダーディン記者も、そこまででっち上げられたとは、思っていなかったかもしれない。二人の特派員は、南京の信頼のおける人物が目撃した報告として報道したが、その真偽の裏は取らなかった。スティールとダーディンは世界で最初に「南京大虐殺」を報道した歴史的栄誉に輝く外国特派員となったが、東京裁判に出廷した時は「頻発する市民虐殺」を事実として、主張することがなかった。しかし、この後も、外国特派員による「南京大虐殺」の報道が続いて、欧米の新聞に載った。2月1日、こうした外国特派員の記事を根拠に、国際連盟で中国代表の顧維鈞が演説して、南京市民が二万人も虐殺されたと言及した。

 1938年4月、東京のアメリカ大使館付き武官キャーボット・コーヴィルが調査のため南京にやってきた。米国大使館のジョン・アリソン領事などと共に、ベイツなど外国人が集まって、南京の状況を報告した。その結果を、コーヴィルは「南京では、日本兵の掠奪、強姦は数週間続いている。アリソンは大使館再開のために1月6日午前11時に南京についたが、略奪、強姦はまだ盛んに行われていた」と報告している。この報告には殺人や虐殺という報告がない、ベイツまでもいたのに。一人として市民虐殺をアメリカ大使館付き武官のコーヴィルに訴えなかったのか、とヘンリー・ストークスは疑問を挟む。そしてさらに、もっと摩訶不思議なことがある、と。アメリカの新聞記事が「日本軍による虐殺」を思わせる報道をしているのも拘らず、中央宣伝部は「南京大虐殺」を宣伝材料として国際社会にアピールしなかった。そして、南京陥落の四ヵ月後に中央宣伝部が創刊した『戦時中国』の創刊号は、「南京は1937年12月12日以降、金と略奪品と女を求めて隈なく歩き回る日本兵の狩猟場となった」と報告しただけで、「虐殺」にはまったく触れてなかった。そもそもベイツもフィッチも、南京城内の安全地帯にいた。安全地帯は大虐殺どころか、殺人の被害届もわずかしかなかった。いったい、ベイツやフィッチの描写する「三日間で一万二千人の非戦闘員の男女子供の殺人」や「約三万人の兵士の殺害」とはどこで起こったところのことか。
 スティール記者は「河岸近くの城壁を背にして、三百人の中国人の一群を整然と処刑している」と報じている。ところが国民党政府もその中央宣伝部も、日本をいっさい非難していない。ちなみに日本軍が安全地帯から連行した中国兵は、問題ない限り市民として登録されていた。敗残兵は苦力、労働者となっていた。苦力は好待遇で、月額5円の給料を支給された。日本軍の一等兵の本給は、月額5円50銭だった。中央宣伝部がティンパーリーに依頼し、制作した宣伝本『戦争とは何か』について、興味深い事実がある、と。同書は漢訳されて『外人目撃中の日軍暴行』として出版された。ところが、英文にあったベイツの遺体や死者の数が削除されている、という。なぜか。中央宣伝部は英文の読者は海外の外国人であるため、バレないと思った。しかし漢訳本となると、中国にいる事情通がこうした記述を読んだら、それは事実でないと批判してくるかもしれない。虚偽の宣伝・プロパガンダと露見してしまう。そこでその部分を削除した、と考えられいる。中央宣伝部が「四万人虐殺説」を削除したのは、以上から理解できるが、さらに重要なのはベイツが「四万人不法処刑説」を主張する文を漢訳版で削除されたことに納得している。また、中央宣伝部国際宣伝処工作概要の中の「対敵課工作概要」にこの本の要約が掲載された。ところが、この要約には「大虐殺」「虐殺」どころか「殺人」という言葉も出ていない、と。唯一考えられる理由は、国民党政府も、中央宣伝部も、国際宣伝処も「南京大虐殺」を認めていなかった、と東中野氏は推論する。
 世界が注目する中で行われた、敵の首都陥落戦である。天皇の軍隊である「皇軍」の名を汚す事がないように、南京攻略軍の司令官だった松井岩根大将が、綱紀粛清を徹底していた。蒋介石と毛沢東は南京陥落後に、多くの演説を行っているが、一度も日本軍が南京で虐殺を行った事に、言及していない。このことだけとっても、「南京大虐殺」が虚構であることが分かると、ヘンリー・S・ストークス(英国人記者)は自ら多年のジャーナリストとしての体験から、断言する。


「南京大虐殺のまぼろし」の実像 2

2023年02月06日 | 歴史を尋ねる

 蔣介石は唐生智将軍を南京防衛司令官にして南京死守を宣言したが、将軍は南京を放棄して敵前逃亡した。蒋介石政府が唐将軍の逃亡から六日後の12月18日に「軍事裁判の結果死刑を宣告」したことを人々は当然のことと受け止めた。しかし、1966年香港で出版された書籍では、唐将軍は1949年に国民党を捨てて共産党に走り、戦後も共産党政権下で湖南省副省長などを歴任した。唐生智の処刑という重大発表は蒋介石政府しか流せないから、その発信源は蒋介石の中央宣伝部しか考えられない。なぜ虚報が流されたのか。その答えは、唐生智逃亡は最初から織り込み済みだったのでないか、これが東中野修道教授の推理である。なんの為だったのか、それは東中野氏が台北で探り当てた極秘文書「編集課工作概況」が報告したように、中央宣伝部は「首都陥落後の敵の暴行」を宣伝することを目標に定めていた。その方法としは、これを外国人に宣伝してもらうやり方だった。仮に唐生智将軍が逃亡しなかった場合、唐司令官をはじめとする中国軍は玉砕しても、英雄的な振る舞いとして感動させただろう。しかし首都陥落後の敵の暴行を宣伝することは出来ない。唐生智将軍が降伏を命令することなく、多くの将兵を残したまま逃亡してしまえば、残された兵士たちに城外脱出の余裕がなくなる。城壁に囲まれた南京で逃げ場を失った中国兵はパニックに陥り、軍服を脱ぎ捨て、市民の避難遅滞「安全地帯」に逃げ込む。これは南京の欧米人が予想しなかったことだ。国際委員会はどうするか。日本軍は残敵掃蕩で安全地帯に入ってくる。この先の混乱まで先読みして、中国側が情報戦を展開したのではないか、と。従って蒋介石政府の南京死守は表向きの宣言で、唐生智逃亡は最初から織り込み済みだったのではないか、と東中野教授。フーム、この推理は多少、後付けの感じがする。ただこの事態に対して、司令官が逃亡したことが、事態を悪化させた。これは戦争のルールを逸脱している。南京事件の混乱は、まず命令を発せず、敵前逃亡した司令官の責めに帰着する。日本軍の所業を責めるより、まず自らの兵士を放り出したこの中国軍・中国政府の非を責めるべきである。その証拠に、蒋介石政府は、唐生智司令官を銃殺刑に処したと発表しているではないか。
 日中関係八十年の証言としてサンケイ新聞社が取材した「蒋介石秘録」にここの部分はどう記述しているか。『上海戦線の中国軍主力が呉淞江南岸へ転進した直後の11月5日、日本軍三個師団は杭州湾金山衛に上陸した。続いて13日には日本軍1個師団が長江の白茆口に上陸、東、南、北の三方から挟撃された中国軍は、さらに西へ転進、南京防衛に総力を入れることとなった。国民政府は11月19日の国防最高会議で、首都を南京から西方の重慶に移すことを正式に決定した。12月7日早朝、日本軍は南京城に東と南から迫り、城外の中国軍陣地に総攻撃を開始した。日本軍の機械化部隊と波状的な空襲の前に、13日、ついに南京は陥落した。1927年、国内軍閥および共産党と戦うなかで首都をおいて以来十年、南京は外国の侵略軍に踏みにじられることはなかった。南京防衛戦における中国軍の死傷者は六千人を超えた。しかし、より以上の悲劇が日本軍占領後に起きた。いわゆる南京大虐殺である。日本軍はまず、撤退が間に合わなかった中国軍部隊を武装解除した後、長江岸に整列させ、これに機銃掃射を浴びせてみな殺しにした。虐殺の対象は軍隊だけでなく、一般の婦女子にも及んだ。金陵女子大学内に設置された国際難民委員会の婦女収容所にいた七千余人の婦人が、大型トラックで運び出され、暴行のあと、殺害された。日本軍将校二人が、百人斬り、百五十人斬りを競い合ったというニュースが、日本の新聞に大きく報道された。こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は二か月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。「倭寇は南京であくなき惨殺と姦淫を繰り広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極みに達しているのだ」(1938年1月22日の日記)』  なんと、南京攻防戦の記述が少ないことか。首都を攻められることは、国家存亡危機の時であるし、当時は相当苦慮したことだと思われるが、時の推移をあっけなく記述して、肝心の南京大虐殺に筆を進めている。唐生智将軍のことは一切触れず、「撤退が間に合わない中国軍部隊」とサラッと経緯をも触れず記述する当たり、この時期だけは詳しく触れたくないのがありありで、さらに事実関係をゆがめている。少なくとも南京の戦場には政府関係者、軍の首脳部はいなかった。そもそも情報が取れなかったはずである。唯一の情報源は、中央宣伝部副部長の董顕光と国際宣伝処処長の曽虚伯(董顕光の自伝では最後の段階まで南京に残ることを決意したと書いているが、いつまで南京に残ったかは明らかでないと東中野教授は言う)らか、あるいは安全地帯を管理する国際委員会のメンバーであろう。1月22日の蒋介石の日記の情報源はどこなのか、海外メディアのニュースか、中央宣伝部からか。中央宣伝部からの情報であれば、この秘録の言葉『同胞の痛苦はその極みに達している』と空々しいし、海外メディアからならば、その怒り方がおとなしい。他人事の様だ。蒋介石には秘録に記述できない事柄がたくさんあったことの証左と思われる。

 まずは問題点を整理しながら東中野修道著『再現南京戦』を参考に南京事件を見ていきたい。南京陥落(12月13日)二十日前の南京では、蒋介石も董顕光、曾虚伯も馬超俊南京市長もまだ南京に残っていた11月22日、南京の欧米人が国際委員会を設立し、南京残留の市民のために非武装中立地帯としての避難地帯を設けることにし、その青写真を発表した。国際委員会は上海で設置に成功した「上海南市安全地帯」をモデルにした。しかし南京の安全地帯には多くの問題点があった。まず上海の安全地帯は境界に有刺鉄線が張り巡らされ、その出入り口をフランス軍兵士が警戒し、力づくで中国兵の侵入を阻止していた。しかし南京のそれはただ単に大きな道路を境界として、ところどころに安全地帯を示す旗が立てられているだけだった。中国軍の侵入を阻止する第三者の軍隊はいなかった。中立地帯であるべき安全地帯に、中国兵はどこからも難なく入れた。さらに非戦闘員のための避難地帯でありながら、中国軍の軍事施設が撤去されていなかった。それどころか軍事施設を増強していた。日本軍は12月8日、「南京全体が要塞、中立地帯不可能」(東京朝日新聞12月9日)と発表し、安全地帯は承認しないが尊重すると付言するにとどめた。ちなみに、軍事標的を狙った日本軍の弾が逸れて安全地帯に落ちたことは、実に僅かであった。そこで国際委員会のラーベ委員長は、日本軍に宛てた最初の第一号文書の中で、「貴軍の砲兵隊が安全地帯を砲撃しなかった見事な遣り方に感謝します」と謝意を表明している。ところが、「榴弾が落ちた。福昌飯店の前と後ろだ。十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。(略)さらにもう一発、榴弾今度は中学校。死者十三人」と書かれたラーベ日記を見ると、日本軍は市民の安全地帯まで攻撃したと思えてしまう、と。
 日本軍は南京は必ず陥落する、中国軍に降伏勧告を出し、戦火を避けたいと願った。12月7日に南京城攻略要領を下達し、降伏勧告を出した9日にも「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を全軍下達した。『一、皇軍が外国の首都に入城するは、有史以来の盛時にして、世界に斉しく注目しある大事件なるに鑑み、正々堂々将来の模範たるべき心組みをもって、各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為等、絶対になからしむるを要す。 二、部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ、苟も名誉を棄損するが如き行為の、絶無を期するを要す。 三、別に示す要図に基づき、外国権益、特に外交機関には絶対に接近せざるはもとより、特に外交団が設定を提議しわが軍に拒否せられたる中立地帯には、必要のほか、立入を禁じ、所要の地点に歩哨を配置す。又、城外に於ける中山陵その他革命志士の墓、及び明孝陵には立入ることを禁ズ。 四、入城部隊は、師団長が特に選抜せるものにして、予め注意事項、特に城内外国権益の位置等を徹底せしめ、絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配置す。 五、略奪行為をなし、また不注意と雖も火を失するものは、厳罰に処す。軍隊と同時に多数の憲兵補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。』 この注意事項を今読むと、すでに中国側の中央宣伝部の戦略を見通しているような内容になっている。南京事件の首謀者として処刑された第六師団長谷中将の申弁書でも軍紀風紀の厳正を要求し、犯すものは厳罰を加えることを下達している。又、松井司令官以下司令部の発する注意事項は、世界を意識し、歴史を意識した、視野の広い見方が出来ているし、事前に想定される混乱を防ぐ手立てを打っている。当時の日本軍を知らない戦後の日本人が、思い込みで想像している日本軍とはだいぶちがう。従って、こうした前提を抑えながら、南京事件を見ていく必要がある。

 引き続き東中野氏の著書に従って、南京城陥落後の入城・掃蕩状況を見てみよう。注意事項にあったように、師団長の厳選した部隊が、城内を七つの区域に分けて、それぞれに掃蕩の部隊を配置させた。選抜された、限られた部隊だけが入城し、掃蕩にあたった。そして許可された報道関係者のみ入城を許された。南端を掃蕩した金沢九師団土屋第四中隊長は、12月13日東南の光華門から入って「城壁こそ砲撃によって破壊されていたが、街並みの家々は全く損壊しておらず、瓦一つ落ちていない。ただ不気味な静寂、異様な寂寞感がわれわれを包み、勇敢な部下も一瞬たじろいだ。未だかって味わったことのない、言葉では表せないこの静けさは、いつの間にか私を中隊の先頭に立たせた。市街に深く侵入すればするほど、まさに死の街という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、粛然とした町並みのみが果てしなく続いていた」 また、南京市政府も南部にあったが死せる南京であった、と。
  部隊が城内に入った午後4時30分過ぎに、城内掃蕩に関する第二の指令「南京城内掃蕩要領」が出た。特に注目する点は『三、・・・遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるを以て、その疑いある者は悉く之を検挙し、適宜の位置に監禁す』と。日本軍は中国兵の大部分が便衣(市民服)に着替えていることを知っていた。中国兵か市民かの区別は注意を要することも知っていた。そこでその疑いのある者は悉く検挙して適当なところに監禁せよと指令をしている。従って金沢九師団歩兵第六旅団長は九つの指令を発している。1、軍司令官の発令した注意事項を周知徹底させること、そののち安全地帯を掃蕩すること。 2、大使館などの外国権益の建物は、敵が利用していない限り立入を禁じて、歩哨の配置が指示された。 3、安全地帯に掃蕩に入る各隊の任務は「残敵掃蕩」であり、必ず将校が指揮すること、それゆえ下士官以下が勝手な行動に出ることは厳禁された。 4、安全地帯の青壮年は凡て敗残兵または便衣隊と見做して逮捕監禁すること。しかし青壮年以外の敵意のない支那人民、特に老幼婦女に対しては、彼らが日本軍の威風を敬仰するよう、市民には寛容に接することが指示された。 5、銀行などへの侵入を禁じて、歩哨を配置すること。 6、家屋内に侵入して掠奪することはきびしく自戒すること。 7、放火はもちろん、失火であっても軍司令官の注意事項どおり厳罰に処すこと。 8、合言葉を「金沢」「富山」として友軍相撃にならないよう中止すること。 9、中国兵による放火が発生しているため、火災を発見したならば、付近の部隊はもちろん、掃蕩隊も速やかに消火に務めること。 以上を見ると日本軍の軍紀レベルが非常の高いことが窺われる。蒋介石もこれを知ったら、南京徹底抗戦も考え直しただろうか。でも不思議な事に、日本軍の南京大虐殺が世界の通説になっている。一つは東京裁判の結果であろうが、もう一つは日本のメディア関係者の結果だろうか。簡単に相手の意図したプロパガンダの術中にはまったか。とにかく、中国軍の軍紀の低さの巻き添えに、日本軍が巻き込まれた、と言えるかもしれない。

 東中野修道著「再現南京戦」では「城内安全地帯の十日間 12月13日➡23日」という章を設け、国際委員会のラーベ委員長、「戦争とは何か」を匿名で記述したベイツ教授やフィッチ師らの当時の記述内容と日本軍の陣中日記などを突き合わせ、事実関係はどうだったか、克明に比較検討している。詳細は同書を読んで頂くことにして、ここではその見出しを羅列ことにして、東中野氏が伝えたいと考えている内容を読み取っていただく。 『掃蕩戦前夜12月13日、・日本軍は「掠奪」「失火」という不法行為を心配していた、・選抜された部隊が担当区域を掃蕩した、・金沢七連隊が入る前の安全地帯(国際委員会のラーベ委員長は12月12日から中国人将校を自宅に匿っていた、武器を隠し持つ中国兵が安全地帯にいた、路上には死体があり、挹江門には大量の死体があった、武器を隠し持った中国兵が外交部や最高法院に潜伏していた、武器を以て抵抗する中国軍がいた)、・金沢七連隊が初めて安全地帯に入ったのは12月13日の夜であった、・ベイツ教授とフィッチ師は日本軍が「市民」を射殺したと記す、・死体は市民の死体だったのか、・12月13日の掃蕩は翌日から始まる掃蕩戦の下見であった、・本格的な掃蕩を命ずる「歩兵第七連隊命令」、  三日間の掃蕩戦と処刑、・安全地帯周辺で襲撃してくる中国軍部隊、・うろたえる欧米人、・国際委員会は12月17日に何を抗議したのか、・ベイツ教授は処刑を市民殺害や捕虜殺害であったかのように描く、・フッチ師も処刑を市民殺害や捕虜殺害であったかのように描く、・ラーベ委員長の日記、・掃蕩一日目の安全地帯、日本軍兵士の陣中日記、・抵抗しない中国兵は解放された、・金沢七連隊の「南京城内掃蕩成果表」、  安全地帯掃蕩戦三日間に於ける掠奪、・欧米人の描く三日間の「掠奪」、・実際どんなものが掠奪されているのか、・日本軍は南京占領の為に調達が必要であった、・組織的掠奪と見られた原因、・「官憲徴発」の発令、・徴発のさいに日本軍は対価を支払った、・調達が掠奪となったのは言葉の壁が大きかったのではないか、・南京市民や中国兵による掠奪は無かったか、  入城式前日から三日間頻発した「強姦事件」、・12月17日に入城式が、18日には慰霊祭が行われた、・特に入城式前日から慰霊祭まで「強姦事件」が頻発する、・金陵女子大学のヴォートリン女史の日記から、・12月16日から三日間に欧米人の周辺に起きた出来事、・夜の外出は危険であった、・朝夕「点呼」があった、・他の部隊の安全地帯立ち入りは厳禁されていた、・陥落後の日本軍は移動に向けて多忙を極めた、・日本軍の処罰はことのほか厳しかった、・国際委員会の日本大使館宛て抗議文書、・「強姦につぐ強姦」において何人が被害者となったのか、・「市民重大被害報告」とは何だったのか、・なぜ12月16日から突如として強姦の訴えが多発したのか、   放火も多発、・12月20日前後の火災が多発した、・日本軍は消火に心がけた』 
 この中で特に課題となるのは、金沢七連隊の伊佐連隊長の陣中日記である。 12月14日の項には「朝來、掃蕩を行う。地区内に難民区あり。避難民約十万と算せらる」と記している。この時の掃蕩が現在に至って大問題になっている。連隊長は掃蕩の方法について、歩兵第七連隊命令において、次のように周知徹底を図っている。『一、各隊は掃蕩を担当した区域内に兵力を集結し、掃蕩を続行せよ。なお掃蕩地区内では歩兵第七連隊以外の部隊の勝手な行動を絶対に禁止せよ。 二、各隊の俘虜は掃蕩区域内の一か所に収容し、その食糧は師団に請求せよ。 三、歩兵第七連隊は城内に宿営するのではなく、掃蕩隊として入城したものであり、掃蕩終了後は城外に出ることを忘れてはならない。 四、外国権益内に敗残兵が多数いる見込みであるが、これには語学堪能な者を選抜して当らせることになっているから、各隊としては外から十分に監視しておくようにせよ』  安全地帯を掃蕩する際の困難の一つは、外国権益内に敗残兵が多数いる見込みと分かっていながら、外国権益の下にある建物を自由に掃蕩出来なかったことである。例えば憲兵によって外国人の建物には「大使館職員の建物にして無断立ち入り厳禁」ひんsの張り紙が貼られたり、中国兵がいると分かっていながら、そこには堂々と「避難民九名居住宅」と掲げてあったり、「独逸人家屋につき侵入を禁ず」と墨書された憲兵隊の注意書きもあった。  12月15日の項には「朝來担当地域の掃蕩を行う。午前9時半より旅団長閣下と共に地区内を巡察する」と記している。ハーグ陸戦法規は俘虜(戦争捕虜)に対して、氏名と階級については実を以て答えると定めている。金沢七連隊が拘束した中国兵を尋問調査した時、その中には将校がほとんどいないことが判明した。中国軍の将校が本当の階級を隠して市民に成りすまし、安全地帯に潜伏していると判断されたことから、その摘発が翌16日の重点課題となった。それは外国権益の建物を捜索の重点において中国軍将校を摘発することであった。  12月16日の項には、「赤壁路の民家に宿舎を転ず。三日間に亙る掃蕩にて約6500を厳重処分する」と簡単に記している。こうして本格的な掃蕩は終わった。この三日間の残敵掃蕩戦において金沢七連隊は約6500名の中国兵を処刑したと記されている。このように処刑を堂々と記していることからすれば、これらは合法的処刑と見做していたことになる。

 1980年代から日本では、この日本軍の処刑に関して次のような論調が出てくる。①北村稔「南京事件の探求」平成13年:当時の法解釈に基づく限り、日本軍による手続きなしの大量処刑は正当化する十分な論理は構成し難い。 ②中村粲「敵兵への武士道」平成18年:軍司令官には無断で万余の捕虜が銃刺殺された。便衣の兵は交戦法規違反であると強弁してはならず、何より武士道に悖る行為であった。 ③原剛「本当はこうだった南京事件」推薦の言葉、平成18年:まぼろし派の人は、捕虜などを揚子江岸で銃殺もしくは銃剣で刺殺したのは、虐殺ではなく戦闘の延長としての戦闘行為であり、軍服を脱ぎ民服に着替えて安全区などに潜んでいた便衣兵は、国際条約の「陸戦の法規慣例に関する規則」に違反しており、捕虜の資格はないゆえ処断してもよいと主張する。しかし、本来、捕虜ならば軍法会議で、捕虜でないとするならば軍律会議で処置を決定すべきものであって、第一線の部隊が勝手に判断して処断すべきものではない。 ④秦郁彦「昭和史の論点」平成12年:南京事件の場合、日本軍にもちゃんと法務官がいたのに、裁判をやらないで、捕虜を大量処刑したのがいけない。その人間が、銃殺に値するかどうかを調べもせず、面倒臭いから区別せずにやってしまったのが問題なのです。 ⑤吉田裕「現代歴史学と南京事件」平成18年:国際法違反の行為があったとしても、その処罰には軍事裁判の手続きが必要不可欠であり、南京事件の場合、軍事裁判の手続きを全く省略したままで、正規軍兵士の集団処刑を強行した所に大きな問題がはらまれていた。以上が私の主張の中心的論点である。
 以上の論者は一様の軍事裁判の必要性を主張している。ただ、この人たちが南京のこの現場にいた時、軍事裁判をやっただろうか。戦闘行為の真っ最中で、いくら戦意を失っている兵士とはいえ、どんな裁判を想定しているのか。何が争点になるのか。戦闘行為中、日本軍兵士も命を懸けているのは、東中野氏の書物からも伝わってくる。個々の状況に依るのではないか。 ひとえに、戦争中の敵方の司令官が遁走していて、指示も出していない、残された将校も具体的な戦闘行為の意志表示をしていない、ただただ安全地帯に逃げ込むことは、法規も想定していないケースではないか。司令官は残された中国軍兵士がどうなってもいいという考えだったと推測される。ここが南京事件の核心ではないか、だから中国中央宣伝部宣伝処工作班は虐殺というしかなかった、自らの非のすり替えを実践したのではないか。東中野修道教授も、「当時の関係者は、戦時中であったからこそ国際法を基準に判断していた。南京に復帰してきた外交官も国際法を熟知しており、日本軍の処刑を問題にできなかった。外交官の関心事は市民に対する被害の有無に移っていた。日本軍も、戦闘詳報などで見てきたように、市民に被害が及ばないようくれぐれも注意を払っていた」と。 

 ここからは鈴木明著「南京大虐殺のまぼろし」に戻ることとする。洞著「南京事件」は両角部隊が14,777人の捕虜を一兵あまさず虐殺した事実から説き起こしている。この事件の発端は、朝日新聞の横田記者が16日の電報で、この「大戦果」を伝えてきたもので、写真もついており、まぎれもなき「事実」に立脚したものである。記事は「両角部隊のため、幕府山付近で捕虜にされた14,777名の南京潰走敵兵は、何しろ前代未聞の大捕虜群とて、捕らえた方の部隊が聊か呆れ気味。一番弱ったのは食事で、部隊さえ現地で求めている所へ、これだけの人間に食わせるだけでも大変だ。茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到底食わせることが出来なかったーーー」 洞氏の文章によると、戦後、秦賢助という作家が、その先は死だったという文章を紹介していた。そこで鈴木氏はこの捕虜の行く末を確認するため、両角部隊の上級指揮官である山田旅団長を訪ねた。時代は丁度、田中首相が北京に行こうという時で、山田氏は喋るべきか迷ったが、子息の勧めで、以下の話を鈴木氏に語ってくれた。
 『山田旅団長のメモ  14日、他師団に幕府山砲台までとられては面目なし。午前四時半出発、幕府山に向う。砲台付近に至れば、投降兵莫大にて、始末に困る。付近の文化住宅、村落、皆敵のために焼かれたり。 ここに集まった中国軍は、挹江門から下関に逃れ、西の方に逃げようとしたが、そのには日本の二個師団の一部が回っていたから、慌てて東の方に逃げ出した。その大部分は食べるものもなく、疲労困憊し、全く無抵抗のまま捕らえられた。山田旅団長は「抵抗しない者は保護する」といった。道路端には、彼らの投げた鉄砲だけで、五千丁を数えた。学校に竹矢来をめぐらしている場所があり、そこに入れた。そこに入れる時、両角部隊長と二人で、軍人かどうか、一人ひとり確認した。横田記者の記事は少し多すぎる。両角部隊長は八千人ぐらい、と言っていた。 15日、捕虜の始末で師団に派遣した所「始末せよ」との命を受ける。各隊食糧なく、困窮せり。捕虜将校のうち幕府山の食糧ありと聞き運ぶ。捕虜に食わせることは大変なり。 この日、軍司令部から「捕虜がどうなっているか」と憲兵将校が見回りに来た。山田旅団長は自分で案内して、捕虜の大群を見せた。「君、これが殺せるか」というと、憲兵将校はしばらく考えて、「私も神に仕える身です。命令はお伝え出来ません」と帰っていった。  16日、軍司令部に中佐を派遣して、捕虜の扱いにつき打ち合わせ。話合いが付かないうちに、三日後に山田旅団は浦口に移動せよとの命令が届いた。この時①軍司令部に送り届けるか、②釈放するか、③銃殺するか、の三つしかない。①の途は完全に塞がれた。もし②の道を取れば、この捕虜たちは、この部隊を自分たちの十分の一くらいの人数しかいないと知って殲滅を計ってくるかもしれない。釈放するという恐怖ははかりしれない。残された道は③しかない。しかし、この期に及んで、あえて第二の道を選んだ。村から出来るだけの船を徴発し、揚子江を渡して北の方に逃がしてしまおう。とにかく、かなりの時間をかけて、捕虜が江岸まで辿り着いたときには陽はとっぷりと暮れていた。彼らがここまで従ってきたのは、「北岸に送り届ける」という日本軍の言葉を信じたのか、じっと我慢してスキをうかがっていたのかは、分からない。また実際舟が来ていたか、どの程度の準備があったのかも分からない。その時突如捕虜の間から暴動が起こった。深夜、暗闇の中で、一斉に捕虜が逃げ出した。その中に、小銃と機関銃が打ち込まれた。日本側は不意を衝かれたため、混乱した。あとは何がどうなったか分からない。朝、すべてが明るみに出た時、千余りの捕虜の死体に交じって、日本兵八名と日本軍将校一名の死体があった。この事件が単に捕虜への一方的虐殺ではなかったことを、この一人の将校の戦死が物語っている。「人間というのは醜いものなんですかねえ。それにしても、戦いはむごいなア。軍は食料くれと言えば食料はない、医薬品をくれと言えば、それもない、大砲の弾もないといってきたなア、聖戦なんて、ひどいものだったなア・・・』
 


「南京大虐殺のまぼろし」の実像 1

2023年01月30日 | 歴史を尋ねる

 昭和46年11月5日、朝日新聞に掲載された本多勝一氏の「中国の旅」の連載記事で、「ちょっと待てよ」と思ったのが切欠で、当時までに伝えられている南京大虐殺と日本人の残虐性について、事件の解明などは不可能だが、敢えて自分の眼で見た南京のイメージを綴ってみようと思い立った、と「南京大虐殺のまぼろし」の著者鈴木明氏はいう。自身のもつ平凡な常識とささやかな推理力と実行力だけで、関係者を訪ねて歩き、その状況を雑誌「諸君!」に分載していった。1983年出版の文春文庫版は絶版になって久しかったが、2006年ワック社より改定版として復刊された。東中野修道教授からは、日本軍の南京占領に関する先駆的研究であり、パイオニア的な役割を果たしている、と解説されている。今日まで南京大虐殺は四度浮上している、と。まず一度目は、南京陥落の数日後にアメリカの新聞記事「南京大虐殺物語」、そして7か月後に単行本「戦争とは何か」が南京大虐殺を描いて世界に知らせている。そして1941年にエドガー・スノーが「アジアの戦争」で、1943年にアグネス・スメドレーが「シナの歌声」で南京大虐殺に触れている。その間、中国国民党政府も、アメリカ政府も、日本を非難したことはなかった。二度目は、1946年に始まった東京裁判においてであった。東京裁判が始まるとアメリカ側は南京大虐殺「数万」という起訴状を読み上げ、それから二年半後に南京大虐殺二十万以上という判決を朗読し、その翌日、松井磐根司令官に対し南京大虐殺10万以上の責任を問うという判定を朗読している。こうして日本軍は南京大虐殺をおこなったと断罪され、松井大将はその責任を問われて処刑された。一方、同時期に行われた南京裁判では、南京攻略の時に熊本第六師団の師団長であった谷寿夫中将が三十万人虐殺のかどで、また当時毎日新聞が連載した百人斬り競争の記事を証拠に、二人の少尉が南京大虐殺のかどで処刑された。しかし、世界でも、日本でも、中国でも、南京大虐殺が話題にされることはなかった。
 それから四半世紀が経った日中国交正常化の1972年前後が三度目の浮上となった。日中友好が盛んに叫ばれ始めた昭和46年6月に朝日新聞の本多勝一記者が、未だ国交のなかった共産党独裁の中華人民共和国から入国を許され、約40日余りに亙って、日本軍から被害を受けたという人たちの声を集めながら、戦争中の中国における日本軍の行動を、中国側からの視点から明らかにするという目的に立って取材を行った。それが「中国の旅」と題して朝日新聞に連載された。その中で、「南京大虐殺として知られる事件が私たち一般日本人に明かされたのは、戦後の極東軍事裁判であった。・・・南京で直接聞いた被害者たちの体験は、それまでに私が読んだ限りでの記録から想像していた状況をはるかに越えていた」と。しかし、この中国の旅に、鈴木明氏はちょっと待てよと立ち止まって、疑問を呈した。鈴木氏は言う。「かって日本中を沸かせたに違いない武勇談は、いつの間にか人斬り競争の話となって、姿を変えて再びこの世に現れた・・・昭和12年に毎日新聞に書かれたまやかしめいたネタが、34年の年月と日本、中国、日本という距離を往復して、朝日新聞に残虐の神話として登場したのである」  鈴木氏はこの問題をそのままにしておけば大変なことになると直感していたのだろうと、東中野教授は言う。本多氏が中国側からの視点からのみで書いたのに対して、鈴木氏は日本側の視点も入れて複眼的でなければ、と鈴木氏は日本軍将兵、従軍記者、従軍カメラマンを訪ね歩いた。その数、五十人を下らない。
 中国の旅が出た時、これは大変なことになるという鈴木氏の予感は当たった。日本の世論に大きな波を生んだ。1980年代には南京大虐殺が教科書に記述されるまでになり、南京大虐殺記念館も建設された。そして1997年にはアイリス・チャン「ザ・レイプ・オブ・南京」が登場し、一気に南京大虐殺が世界中に広まった。これが第四の浮上だ、と東中野教授。 しかし教授はいう、南京大虐殺の津波が押し寄せた時、鈴木氏が訪ね歩いた思索のの結晶が堅固な防塁となって、その後いろいろな研究成果が生まれてきた。 ティンパリー編「戦争とは何か」は宣伝本であり、ティンパリー記者も国民党中央宣伝部の顧問であったことが鈴木氏自身によって突き止められ、南京大虐殺の源流はこの戦争プロパガンダ本と新聞記事の虚報であったことが、東中野修道教授の著書「南京事件--国民党極秘文書から読み解く」によって解明された、という。
 鈴木氏は言う。訪ね歩いた先の日本軍将兵が、「いま南京大虐殺というようなことが言われているが、私は日本軍が意図的に民衆や捕虜を大量虐殺したとは、とても考えられません。むろん私は見ても聞いてもいません」と話されるのを聞いて、意外であったと述懐する。だから、書名はまぼろしとした。謙虚にすべてを解明できたわけでないから、という訳だろう。しかし、相手が意図をもってプロパガンダしてきたら、それに対抗するのは中々難しい。精々矛盾点を指摘するぐらいしかないだろう。ましてや、国家間の問題となるとそう易々とは行かない。出来ることと言えば、日本側の問題提起した人たちが、もう一度見直してもらうしかないだろう、しかし、期待できない。まずはわれわれ自身が正確な情報を取得するのが重要だ。

 この問題では当時の日本軍関係者の証言を収集しておきたい。まず、当ブログで既述したが、東京裁判での日本側関係者が出廷、以下のように証言したのでもう一度取り上げる。 『南京虐殺事件 当時松井軍司令官の下での中支那方面軍参謀・中山寧人陸軍少将、南京大使館参事官・日高信六郎、中支那方面軍法務部長・塚本浩治の三人が出廷、南京占領当時松井軍司令官のが執った慎重な行動、松井軍司令官の対中国人観、南京攻撃前中国側に降伏を勧告した事実、南京陥落後市内が無秩序になったのは中国側は外交官も官憲もことごとく市内から立ち去った事も大きな原因であった事、当時南京に設けられていた安全地帯には多くの中国正規軍が混入していた為、同所を正当は安全地帯として認める訳にはいかなかった事等、占領直後の南京市内の混乱状態を述べると共に、検察側立証のいわゆる南京大虐殺事件については、真っ向からこれを否定した。このうち、中山証人は検察側の反対尋問に答えて 、一般市民の虐殺事件 これは絶対にない。 俘虜の虐殺事件 これは安全地帯に武器を携行して侵入した中国兵を捜査し、逮捕し、軍法会議にかけて処罰したのが、誇大に報道されたものである。 外国権益に対する侵害 これは一部あった事は事実であるが、日支いずれの兵隊が行ったのかは、現在でも不明である。 婦女子に対する暴行 これは小規模な範囲で行われたのは事実であり遺憾であるが、世に喧伝されたような大事件は絶対にない、と。
 検察側は証人には反対尋問は行わず、検察側提出証拠に依拠するとして、提出証拠の幾つかに裁判所の注意を喚起した。』
 ここで検察側は証人には反対尋問を行わなかったということは、反論できる十分な証拠がなかった、ということだろう。検察側の提出証拠のみを強要する法廷戦略だった。結果は前述したように『南京大虐殺二十万以上という判決』だった。歴史的検証が行われての判決ではなかった、と言える。もう一つ重要な文書は、鈴木明氏がその著書で取り上げている、南京事件の首謀者として処刑された谷寿夫中将の申弁書(答弁書)を見ておきたい。南京戦犯拘置所にいた谷寿夫が国防部軍事法廷、廷長に提出した申弁書(昭和22年1月15日)である。
『被告は民国26年(昭和12年)8月中旬以降約5カ月間、第六師団長として北支及中支の広大長延なる地区に行動したるも、その期間専ら作戦に従事し、起訴状に提示された南京駐留一週間内における多数の殺人強姦財産破壊事項を、被告の部下の行為なりとなす論告は、本申弁書に以下陳述する各種の理由により、被告の絶対に認むる能わざる所なり。
 被告はこれ等の暴行ありしを、見たことも聴きたることもなく、また目認目許せしこともなく、況や命令を下せしことも、報告を受けたることもなし。又住民よりの訴えも、陳情を受けたることもなし。此の事実は被告の率いる部隊が、専ら迅速なる作戦行動に忙しく、暴行等を為すの余裕なかりしに依る外、被告の部下指導の方針に依るものなり。即ち元来被告は中日親善の信念に基づき、内地出発当時の部下に与えたる訓示にも「兄弟国たる中国住民には骨肉の愛情を以てし、戦闘の必要以外、極力之を愛撫し俘虜には親切を旨とし、掠奪、暴行等の過誤を厳に戒めたる」に依る外、各戦闘の前後には機会を求めて隷下部隊に厳重に非違行為を戒め、常に軍紀風紀の厳正を要求し、犯すものには厳罰を加えたるに原因す。故に被告は被告の部隊に関する限りこれ等提示された戦犯行為なきを確信す。
 尚、起訴状には被告を日本侵略運動中の一急進軍人なりと記述してあるも、被告の経歴その他に依り該当せざること明瞭なり。また南京に於いて中島部隊と共に南京大屠殺を発動せりと論ぜられあるも、被告の聞知する所にては南京大屠殺は、中島部隊の属せる南京攻略軍の主力方面の出来事にして、その被害者に対しては真に気の毒の至りなるも、柳川軍方面の関係なき事項にして、即ち被告の部隊に関係なき事項なり。また従って中島部隊と共同して、暴行するが如きは有り得ざる事なり。被告に対する審判に於いては、何卒先ず右根本的事項を確認せられ度、尚詳細は以下申弁する所により判定煩わしたし』 以下の詳細は省略する。この申弁書に対する国民政府軍事法廷での判決文は 『国防部審判戦犯軍事法廷ーー南京大虐殺日本人首謀戦争犯罪者谷寿夫死刑判決書ーー民国36年3月10日   主文 谷寿夫は作戦期間中、共同して兵士をほしいままの行為を許し、捕虜と非戦闘員を虐殺させ、強姦、掠奪、財産毀損をなさしめた。死刑に処する。  事実 (前略)日本軍閥は我が首都を抗戦の中心と見做し、精鋭で凶暴かつ残忍な第六師団谷寿夫部隊、第十六師団中島部隊、第十八師団牛島部隊、第一一四師団末松部隊等を集結させ、松井石根大将の指揮下に共同して攻撃を加えた。そしてわが軍の頑強な抵抗に遭遇してこれに怒りを覚え、陥落後に計画的に虐殺を行い報復した。(中略)被害者の総数は三十万以上に達した。死体は地を覆い、悲惨はその極みに達し、状況は筆舌に尽くし難い』 南京では戦後間もない1945年11月に南京地方法院検察処により「大虐殺」を調査するための委員会が設置され、国民党機関、警察、医師会、弁護士会、慈善団体の紅卍会など、十四の機関の代表が参加した。聞き取り調査や資料収集が行われ、翌年2月、調査報告書が作成された。このあと47年2月から裁判が始まり3月には判決が出た。以上の経緯から、判決は最初から決まっていたと推定される。谷寿夫の申弁は検討すら行われなかった、との印象である。
 もう一つ、極東国際軍事裁判法廷判決文を見ておきたい。起訴事実は省略するが、判決文は次の通り。『判定(昭和23年11月12日朗読)「南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。(中略)日本軍人によって、大量の虐殺・個人に対する殺害・強姦・掠奪及び放火が行われた。残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によって否定されたが、色々な国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対証言は、圧倒的に有力である。この犯罪の修羅の騒ぎは1937年12月13日に、この都市が占領されたときに始まり、1938年2月の初めまでやまなかった。この六、七週間の機関において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあった時に、12月17日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日間滞在した。(中略)かれは自分の軍隊を統率し、南京の不幸な市民を保護する義務を持っていたと共に、その権限を持っていた。その義務の履行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任があると認めなければならない」』 ふーん、「中国人は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市」というのは史実に反しているし、世界の人は分からないから、と巧みに前提をつくっている。さらに、「中立的証人の反対証言は、圧倒的に有力」と裁判所側が価値判断を押し付けている。それでも、国際軍事裁判では通用した。清瀬一郎氏がぼやくのもうなずける。

 裁判の実態はそうであったが、史実を追いかけていきたい。まずは南京攻略戦の道程を整理して置きたい。当時、中国には在留邦人が九万人いた。そのうち三万人が上海に、上海から重慶に至る揚子江沿いの各都市(重慶、宜昌、沙市、漢口など)に三万人、そして青島に二万人いた。盧溝橋事件の後情勢が緊迫するにつれて、在外邦人の安全が問題となった。出された結論は、揚子江沿岸の邦人は日本に引き揚げさせる、青島と上海の邦人は現地保護という方針であった。しかし現地の空気が険悪化したので青島邦人も帰還となる。漢口からも最後に残った1600人が8月7日に引き揚げた。すでに漢口の日本租界周辺には約二万の中国軍が集中して、危険な状況だった。その前日、上海の日本人も租界への退避命令だ出された。上海と揚子江沿岸の共同租界の防衛には、各国が数千人単位の軍隊を駐屯させて防衛に当たったが、日本は海軍が担当した。揚子江は上海から重慶までかなり大型の軍艦が往来できる。揚子江に軍艦を航行させる権利を、英、米、仏などが先鞭をつけ、日本は日清講和条約以後であった。
 8月7日 軍幹部を集めた会議で蒋介石は開戦を決意(米イリノイ大、イーストマン教授、米中華民国近代史研究の第一人者)
 8月9日夕:大山中尉虐殺事件発生、この事件が伝わると、海軍は陸戦隊の増派を決定
 8月10日海軍の要請もあり、居留民保護のため二個師団の派遣(派遣軍の上陸は八月末予定)
 8月11日大本営を設け、作戦・指揮の最高責任者は蒋介石
 8月12日中国軍二個師団が共同租界の外にあった日本海軍陸戦隊本部を取り囲むように布陣
 8月13日中国軍は陸戦隊本部北側付近で攻撃を開始、陸戦隊も応戦
 8月14日中国空軍は旗艦出雲を始め付近の日本海軍艦船を爆撃、逸れた爆弾がフランス租界に落下爆発
 8月15日日本海軍航空隊が南京上空に現れ空港を爆撃した、同日南昌の飛行場も爆撃した。爆撃目標が飛行場や軍事施設に限られていたが、理論上戦略爆撃を行ったのは日本が最初だった。南京だけは火薬工場、兵器工場、軍官学校、参謀本部、警備司令部などをくり返し爆撃、南京の外交団は南京市内に非爆撃地域の設定  を申入れ、日本は受け入れた。
    蒋介石を陸海空軍の総司令官として、大本営が設置され、全国に総動員令が下された
 8月21日中ソ不可侵条約並びに秘密協定締結(軍事物資の提供、技術者の派遣等)
 8月23日松井大将を総司令官として、第三師団、第十一師団が上海に到着
 9月10日新たに第九、第十三、第一〇一の各師団が参加決定(当ブログでは「これは日独戦争だ」参照)
    中国の提訴を受けた国際連盟は理事会を招集、顧維鈞は連盟が必要な行動をとるよう求めた訴状を総長に提出、理事会は諮問委員会に付託。
 9月23日大場鎮を総攻撃、第九師団正面の敵がようやく退却を始めた。
 9月27日委員会で顧維鈞は日本の行動を侵略的であると認定するよう再三に渡って主張、英国など慎重派は、これに賛成しなかった。
 10月1日日本は日中間の紛争を国際的に処理することを拒否
 10月6日国際連盟総会決議で、日本を条約違反と断定したが制裁措置には触れなかった、米国が強硬態度に転じたのはこの時期だった。
    米大統領ルーズベルトはシカゴで演説、侵略国を伝染病に例え、隔離すべきだと訴えた。また国務長官ハルは声明を発表、「日本の行動は国際関係を規律する原則に違反し、九カ国条約と不戦条約に抵触する」と決めつけた。
 10月26日要衝大場鎮を攻略して、上海はほぼ日本軍の制圧下となる
     しかし大損害を被っての戦闘で、最終的には死傷者四万一千余(戦死10,076、戦傷31,866)と日露戦争に於ける旅順戦以来の大損害となった。中国軍の死傷者は約40万とみられている。11月5日、三個師団からなる第十軍が上海南方60キロの杭州湾に奇襲上陸して、中国軍の背後を断つ作戦に出た。これで中国軍は一気に崩壊し、南京方面に向けて潰走した。結局日本軍は合計25万人を投じて、60万の中国軍を潰走させた。
    松井司令官は疲労した将兵を条件に南京攻略は無理という考えだったが、総崩れとなった中国軍を見て、この調子で一気に南京を落とせば、より有利な講和が結べると、攻略論賛成に廻った。
    当時密かに駐中ドイツ大使トラウトマンによって和平交渉がもたれていた。11月2日、七つの条件で停戦を申し入れた。蒋介石はトラウトマンの仲介による和平提案を受け入れず、抗戦を続けているので、戦争終結のためには策源地の南京占領が必要であるとの意見が強まった。11月28日、参謀本部は南京攻略の決定を下した。12月2日、蒋介石・トラウトマン会談、ブラッセルでの九か国会議も頼りにならないと、蒋介石は停戦の労をとるようトラウトマンに依頼した。しかし日本軍司令部が南京攻撃命令を出したのは12月1日であった。
 11月3日九カ国条約国会議が開幕、参加したのは日本を除く調印国と非調印国ソ連の十九カ国。15日対日宣言を採択『日中間の現在の敵対行為は、すべての国の権利と物質的利益に強い影響を及ぼし、全世界に不安をもたらした。各国代表は双方が停戦に同意し、解決をはかる見込みがあると信じており、中国代表もまたその用意があると言っている。それにもかからわず、絶対に討論に応じないという日本の態度は了解できない。日本があくまで、他の条約調印国と相反する見解を持するならば、各国は日本に対して、共同して対応することも考慮せざるを得ない』 この宣言は中国を満足させるものでなかった。24日の最後の会議で、顧維鈞は会議が不満足に終わったことの抗議した。この記事は蒋介石秘録からの引用であるが、蒋介石は上海での劣勢を国際会議各国の援助を求めていたが、果たせず南京からの撤退を決めたのだろう。日程的に符合する。それでも揺れ動いて、トラウトマンとの会議で停戦の労を申し出たのだろう。
 11月12日蒋介石は南京死守を決定
南京へ、南京へと日本軍が急進撃していた頃、南京では蒋介石をはじめ何応欽参謀総長、徐永昌軍令部長、李宗仁第五戦区司令官のほかドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンなどが集まって、南京防衛をどうするかについて協議、包囲されると長くは守れない、南京を放棄して無用な犠牲を作らないようにというのが、大方の意見だった。一人唐生智将軍が、敵とトコトン戦い、南京を死守すべきだと主張、それを受けて蒋介石は唐将軍を南京防衛軍司令官に任命、南京死守が決定された。中国の戦法は「堅壁清野」であった。城壁の周囲を焼き払って清めてさえおけば、敵は飢え果てて降参するから、戦わずして勝利が転がり込んでくる、という戦法だった。中国では赤眉の乱の記録を初出とする堅壁清野が二十世紀の半ばまで続いた。日本軍が句容を占領したのが合図となって、中国軍部隊による南京郊外の「焼き払いの乱行」がはじまった。「湯山から南京に至るあらゆる建物に火が放たれ、村落はすべて焼かれた。次いで南門周辺や下関の諸設備にも火が放たれた。中国軍指導部は、軍事上の要請と説明した。日本軍に利用されそうなものは、樹木・竹やぶに至るまで一掃された」と。
 11月16日蒋介石は南京放棄をひそかに決定し全官庁の撤退を命じた。
 11月17日非戦闘員の為の安全地帯を作る目的で、南京にいる欧米人が国際委員会を結成した。上海での安全地帯設営の成功に刺激され、南京安全地帯構想が進行
 11月19日国民政府国防最高会議で、首都を南京から重慶に移すことを正式に決定した。
 12月7日蒋介石が宋美齢と共に南京から飛行機で脱出、他の高級官僚もそれに従い脱出、挹江門を除いて全城門が閉じられた。中国兵が挹江門から逃げようとすれば、中国軍の督戦隊が射殺した。人的移動は不可能になり、唐生智司令官はすべての非戦闘員は安全地帯に避難せよと命令する。
 12月8日日本軍は「南京全体が要塞 中立地帯不可能」と発表、安全地帯は承認しないが尊重すると付言。
 12月8日日本軍は南京郊外に到着
 12月9日飛行機から中国軍に対する降伏勧告文を投下『江寧の地は中国の旧都にして民国の首府なり、明の孝陵、中山陵等古跡名所蝟集し、さながら東亜文化の精髄の感あり、日軍は抵抗者に対しては峻烈にして寛恕せざるも無辜の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大を以てしこれを冒さず、東亜文化に至りてはこれを保護保存するの熱意あり、しかして貴軍にして交戦せんとするならば南京は勢い必ずや戦果を免れ難し、しかして千載の文化を灰燼に帰し十年の経営は全く泡沫とならん』と。
   同日、蒋介石に対して休戦協定案が南京安全地帯国際委員会から持ち掛けられたが、蒋介石に拒否された。   
 12月10日中国軍の軍使は現れなかった。13時頃より総攻撃が開始された。
 12月12日形勢絶望とみて唐生智司令官は部下を見捨てて逃亡
 12月13日南京は陥落した。中国軍は混乱の中を城外に敗走する結果となったが、中国軍督戦隊による中国兵の殺害も多発、逃げ切れない兵士が軍服を脱いで安全地帯に隠れる、後に摘発され処刑されるケースがかなり生じた。しかし、南京城内での戦闘そのものは殆ど起こらず、安全地帯以外には人を見ずというのが日本軍入場時の実情だった。城外では脱出した部隊と日本軍の間で激しい戦闘がいくつも起こったが、城内はほぼ平穏となった。

 陥落後も南京に数日間残っていた新聞記者やカメラマンは五人であった。シカゴ・デイリー・ニュースのアーチボールド・スティール、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン、パラマウント・ニュース映画のアーサー・メンケン、英国のロイター通信のL・C・スミス、アメリカのAP通信のイェイツ・マクダニエル。また、董顕光副部長は命を受け上海から南京に赴き、対外文書宣伝の重要性を察し、国際宣伝処を設置、中央宣伝部の直属部署として、工作活動を開始した。党副部長は彼らと会い、個別に朝食取ったと言っている。そのダーディン特派員が12月22日のニューヨーク・タイムズで次のように記している。『中国軍司令部は、たとえ数千人といえども、南京防衛軍が渡河して撤退できるとは考えていなかった。南京攻略戦の期間を通じ、河にはわずかなジャンク船とランチのほかは、輸送手段がなかったことからも、それは明らかである。事実、当然の帰結ではあるが唐生智司令官と配下の師団司令官が攻撃前に語っていた、中国軍は撤退を一切考慮していないという言葉は、中国軍司令部の偽りない真意を述べたものであった。防衛軍司令官部は彼らが城壁で囲われた南京に包囲されることを十分承知していた。ねずみ捕りの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らを捕えて木っ端微塵にするような状況を進んで置かれることを選んだわけは、中国人を感動させるように英雄的に振る舞いながら、日本軍の南京占領を出来るだけ高価なものにしようと意図していたことであることは疑いない』 しかし『この事柄の不名誉な部分はと言えば、防衛軍司令官部が、先に披露した意図を遂行する勇気に欠けていたことである。日本の部隊が南西の城壁の破壊に成功した時、下関の出口はまだ閉門されておらず、日本軍の快進撃と日本軍艦の接近に怖じ気づいた唐将軍とごく少数の側近は、配下の指揮官と指揮官のいない部隊を絶望的な状態のまま残して、逃走した。この逃走について、部下たちに何の説明もなかったことだろう』
 12月27日の東京朝日新聞は「唐生智司令官銃殺さる 首都南京放棄の責任糾弾」と題して南京特電26日発と報じた。中央宣伝部の作成した宣伝本『戦争とは何か』にも、フィッチ師が「唐将軍は最近処刑された時来ました」と記している。ところが、唐将軍は処刑されていなかった。1966年の香港で出版された書物によれば、唐将軍は1949年に国民党を捨てて共産党に走り、戦後も共産党政権下で湖南省副省長などを歴任している。なぜ、虚報が流されたのか、なぜ蒋介石は背信行為を犯した唐生智将軍を処刑しなかったのか、何故将軍は敵前逃亡しながら不問に付されたのか。その答えは東中野修道教授が追いかけている。紙面の都合で次回に報告したい。

 


戦争はどこで起こったか、誰が主導したのか 2

2023年01月15日 | 歴史を尋ねる

『一般的には盧溝橋事件が日中戦争の始まりとされている。しかし事件そのものは小さな紛争であり、本格的な戦争の始まりといえないものだった。従って、盧溝橋事件が上海に飛び火した、という表現は不正確だ』と、茂木弘道氏は言う。『日本軍は、事件のあと停戦協定を結んだが、停戦協定を破り続ける中国軍の不法行為を抑えるために内地三個師団、関東軍の一部を北支に派遣し、平津地区(北平、天津など)を制圧したが、進出の限界を保定に置いていた。しかも8月5日に中国側に画期的とも言える内容の和平提案をすることにし、9日には最初の日支の会談が行われることになっていた。だから8月13日に起こった上海の中国軍の攻撃は、盧溝橋事件の延長のような形で飛び火したという性格のものではない。これは蒋介石が日本との本格戦争を決断したことによる攻撃で、新たな大事件というべきものであった』と茂木氏は主張する。出先の部隊による武力行使でなく、国家の方針に基づき全面的な武力攻撃を行うのが国際法上戦争と見なされる、と。宣戦布告があったかどうかは決定的な要因ではない。1937年8月13日、上海において蒋介石政権の正規軍三万が総動員体制の方針の下、居留民保護のために駐屯していた日本海軍陸戦隊に対して本格的な一斉攻撃を開始した。これが日中戦争の始まりと正式には考えるべきだ、ライシャワーもそう言っていると茂木氏は言う。
 国家の方針に基づき全面的な武力攻撃を行うのが国際法上戦争と見なされる、確かに当時日本では日中戦争と言ってなかった。事変と言っていた。しかし、東京裁判の冒頭陳述で清瀬一郎は『日本はやはり不拡大方針を取ったが、蒋介石氏は逐次に戦備を具えて、8月13日には全国的の総動員を下命し、同時に大本営を設定、自ら陸、海、空軍総司令という職に就いた。全国を第一戦区(冀察方面)、第二戦区(察晋方面)、第三戦区(上海方面)、第四方面(南方方面)に分けてこれに各集団軍を配置して対日本全面戦争の態勢を完備した』と述べている。清瀬は暗に戦争を開始したのは蒋介石政権、中国側だよと指摘していたのだ。この清瀬の深い指摘に、日本の史家も気づいていなかったのではないか。

 ここのところを、蒋介石秘録はどう伝えているのか。「戦火はさらに上海に飛び火した。主役を演じたのは日本海軍である。海軍は、まず盧溝橋と「同じ手口で、開戦の口実を作ろうとした。7月24日、上海駐屯の日本海軍陸戦隊は突然、隊員の宮崎貞夫が中国人に連れ去られたと称し、上海市政府や共同租界工部局に調査を求め、閘北一帯で厳戒態勢に入った。中国の保安隊も警備を強化し、双方のにらみ合いは三日に及んだ。一触即発の緊張の中で、27日長江で溺れかかった日本人を中国船が助け上げた。この男が連れ去られたと言われた兵であった。宮崎はこう供述した。「軍規に違反して遊びに出たが、後で処罰が怖くなり、密かに長江を遡り投身自殺を図ったが死にきれなかった」と。日本はみずからの軍の恥をさらす事件でさえ、開戦に結び付けようとした。北平方面で、日本軍が一斉攻撃にはいった翌日の7月28日、日本政府は漢口から上流の日本人居留民に対し、引き揚げ命令を出した。あきらかに全面戦争を予期しての措置であった。日本の艦艇に警護された最後の引き揚げ船が上海に到着したのは8月9日であったが、この日、いわゆる大山中尉事件が発生した。午後五時、大山中尉は斉藤一等水兵に運転させ、警戒線を強行突破して飛行場に向かった。軍事施設をスパイしようとしたのである。保安隊が停車を命じたが、彼らは命令を無視して発砲、保安隊一人を射殺、このため保安隊は反撃し、二人を射殺した。事件は上海市長を通じて上海総領事に通告され、外交交渉によって処理するという約束の下、日中の話し合いが始まった。だが第三艦隊司令官は事態の悪化を理由に臨戦態勢を敷いた。長江から黄浦江にかけて三十隻を超える艦艇が展開し、陸戦隊三千人を上陸させた。すでに日本軍は陸戦隊本部を中心に約八十か所に陣地を構築中であった。兵員は在来の陸戦隊三千二百人、新たに上陸した陸戦隊三千人に加えて在郷軍人三千六百人、その他艦上の動員可能なものを含め約一万二千人と推定された。一方、中国軍は1932年第一次上海事変の停戦協定によって、市内には保安隊・警察隊などが治安維持に当り、正規の戦闘部隊は駐留していなかった。時々刻々と増強される日本軍に対抗するため、8月11日、中国軍は京滬警備総司令・張治中指揮下の第八十七師、第八十八師の両師を上海郊外に配置した。この二個師はいずれも第一次上海事変で日本軍と激戦をかわした筋金入りの部隊である。すでに上海周辺では、日本の再侵略に備えた防禦工事が1935年から始まっていた。一帯を縦横に走る無数のクリークを利用して、上海市を遠巻きにするような形で、陣地が構築されていた。13日、ついに日中両軍は衝突した。午前9時15分、陸戦隊の一小隊が中国軍に向けて発砲した。この時は二十分で収まったが、午後四時ごろ、ついに全面的な戦闘に入った。黄浦江上に待機していた日本の軍艦も一斉に砲火をひらき、上海市街を艦砲射撃した。ここに約百日に及ぶ上海防衛戦が始まった」と。ふーむ、蒋介石に当時上がってきた情報はこうだったのか、蒋介石が今のこの段階で正当性を敢えて主張するのか、行間から読み取ることは出来ないが、重要なことを語っていない。

 1937年8月31日付けのニューヨークタイムズは次のように報じている、と。上海における軍事衝突を回避する試みによりここで開催された様々な会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは皆、以下の点に同意するだろう。日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後の数日間、兵営の中から一歩も外に出さなかった。8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節はこう見ている。「七月初めに北京近郊で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては、意見が分かれるかもしれない。しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれた。中国軍は外国人の居住地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図があるように思えた」(ハレット・アベンド上海特派員)
 茂木弘道氏は言う。ニューヨーク・タイムスの記事の通り、戦争を仕掛けたのは明らかに中国側だった。上海の共同租界には日本人が三万人余り居住し、製造業、商業などに携わっていた。海軍陸戦隊二千二百が租界の居住民保護に当っていた。中国軍が停戦協定を破って、租界の外側の非武装地帯に大量に潜入してきたことが察知されたので、急遽約二千の増援部隊を集めた。上記記事の増援部隊はこの二千の陸戦部隊を指している。8月9日、中国軍は自動車で巡察中の日本海軍陸戦隊、大山中尉と斉藤一等水兵を惨殺した。攻撃されたので反撃したと自軍の保安隊員の死体を持ち出したが、弾痕から、中国側のものであることが明らかになった。上海にいた記者も確認している。租界を包囲する中国正規軍はドイツ軍事顧問団の訓練を受けた精鋭部隊八八師を主体に三万を超えていたが、13日から攻撃を始め、14日には航空機を含む一斉攻撃をかけてきた。この攻撃が本格戦争に展開していった。いずれにしても、戦争を仕掛けてきたのは、明らかに中国側であり、日本は望まない戦争に引きずり込まれたというのが歴然たる史実だ、と。   

 東アジア史を語るうえで、ユン・チアンの書いた『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を外すことは出来ないだろう。石平著『浸透工作こそ中国共産党のすべて』でユンについてちょっと触れたが、『マオ』は十余年にわたる調査と数百人に及ぶ関係者へのインタビューに基づいて書かれたもので、日本も含む世界各国に及んでいる。日本に触れる部分はかなり正確なので、上海における日中の確執について、マオの調査結果に耳を傾けよう。
 「1937年7月7日、北京近郊の盧溝橋で中国軍と日本軍が衝突した。日本軍は7月末には華北の二大都市、北京と天津を占領した。蒋介石は宣戦布告しなかった。少なくとも当面は、全面戦争を望まなかったからだ。日本側も全面戦争を望んでいなかった。この時点で、日本には華北以遠に戦場を広げる考えはなかった。にもかかわらず、それから数週間のうちに、1000キロ南方の上海で全面戦争が勃発した。蒋介石も日本も上海での戦争は望んでいなかったし、計画もしていなかった。日本は1932年の休戦合意に従って、上海周辺には海軍陸戦隊をわずか3000人配置していただけだった。八月中旬までの日本の方針は、進駐は華北のみとするというものであり、上海出兵には及ばないと明確に付け足すことまでしていた。ニューヨークタイムズの特派員で消息通のH・アーベンドはのちに回想する。『一般には日本が上海を攻撃したとされている。が、これは日本の意図からも真実からも完全に外れている。日本は長江流域における交戦を望まなかったし、予期もしていなかった。8月13日の時点でさえ、日本は非常に少ない兵力しか配置しておらず、18日、19日には長江のほとりまで追い詰められて河に転落しかねない状況だった』 アーベンドは、交戦地域を華北に限定しようという日本の計画を転覆させる巧妙な計画の存在に気づいた。アーベンドの読みは当っていたが、読み切れなかったのは、計画の首謀者が蒋介石ではなく、ほぼ間違いなくスターリンだった、という点である。7月、日本が瞬く間に華北を占領したのを見て、スターリンははっきりと脅威を感じた。強大な日本軍は、いまや、いつでも北に転じて何千キロにも及ぶ国境のどこからでもソ連を攻撃できる状況にあった。すでに前年から、スターリンは公式に日本を主要敵国とみなしていた。事態の急迫を受けて、スターリンは国民党軍の中枢で長期に渡って冬眠させておいた共産党スパイを目覚めさせ、上海で全面戦争を起して日本を広大な中国の中心部に引きずり込む、ソ連から遠ざける、手を打ったものと思われる。
 冬眠から目覚めたスパイは張治中という名の将軍で、京滬警備(南京上海防衛隊)司令官だった。張治中は1925年当時、黄浦軍官学校で教官をしていた。学校はソ連が資金と人材を提供して設立した士官学校で、モスクワは国民党軍の高い地位にスパイを送り込もうという意図を持っていた。張治中は回顧録の中で、中国共産党に入党したいと周恩来に申し出たが、国民党の中にとどまって密かに中国共産党と合作してほしいと要請された。盧溝橋事件の発生当時、京滬警備司令官という要職にあった張治中は、日本に対する先制攻撃に踏み切るよう蒋介石に進言した、それも上海における先制攻撃だった。上海には日本の海軍陸戦隊が少数駐屯しているだけだった。蒋介石は耳を貸さなかった。上海は中国にとって産業と金融の中心で、ここを戦場にしたくなかった。しかも上海は蒋介石政権の首都南京に近く、日本に攻撃の口実を与えないために、上海から部隊や大砲を遠ざけたほどだった。
 七月末、日本軍が北京と天津を占領した直後、張治中は蒋介石に重ねて電報を打ち、開戦に先手を取るよう強く主張した。張治中が執拗に主張を繰り返し、日本軍が上海攻撃の明白な動きを見せた場合にしか攻撃しないと言うので、蒋介石はその条件付きで承諾を与え、攻撃開始については命令を待つように釘を刺した。しかし、8月9日、上海飛行場で張治中は精選した部隊によって日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵が射殺された。さらに、一人の中国人死刑囚が中国人の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。攻撃許可を求める張治中に対し蒋介石はこれを却下し、13日朝、張治中に対して一時の衝動に駆られて戦争の口火を切ってはならない、今一度検討したうえで計画を提出するように命じた。翌日、張治中は「本軍は本日午後5時をもって敵に対する攻撃を開始する決意なり。計画は次の通り」と蒋介石に迫った。14日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」を爆撃し、さらに日本海軍陸戦隊および地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃を行った。張治中は総攻撃を命じた。しかし蒋介石は今夜は攻撃を行ってはならない、命令を待てと張を制した。持てども命令が来ないのを見た張治中は、翌日、蒋介石を出し抜いて、日本艦船が上海を砲撃し日本軍が中国人に攻撃を始めた、と虚偽の記者発表を行った。反日感情が高まり、蒋介石は追い詰められた。翌8月16日、蒋介石はようやく翌朝払暁を期して総攻撃を行うと命令を出した」「蒋介石が全面戦争に追い込まれたのを見て、スターリンは積極的に蒋介石の戦争遂行を支援する動きに出た。8月21日、スターリンは南京政府と不可侵条約を結び、蒋介石に武器の提供を始めた。中国はライフル以外の武器を自国で製造することが出来なかった。スターリンはソ連からの武器購入代金として蒋介石に2億5千万ドルを融通し、航空機1000機、戦車、大砲を売却し、加えて相当規模のソ連空軍を派遣した。さらに数百人の軍事顧問団を中国に派遣した。この後4年に亙って、ソ連は中国にとって最大の武器供給国であったのみならず、事実上唯一の重火器、大砲、航空機の供給国であった」「モスクワは戦局の展開に喜んだ、とソ連外相はフランス副首相に認めている。また、張治中と接触したソ連大使館付き武官とソ連大使は直後に本国に召還され処刑された。蒋介石は上海事変の勃発に怒り、落胆し、張治中の正体に疑いを持ち、9月に司令官の職を解いた。しかしその後も蒋介石は張治中を使い続け、1949年に国民党政府が台湾に逃れたあと、張治中はもう一人の大物スパイと同じく、共産党政権下にとどまった」  マオの記述は詳細に亙るが、いくら取材でもそこまで分からないだろうと云う部分もあり、全面的にその通りという事も出来ないし、南京虐殺にしても巷で言われる内容をそのまま書き込んでいるので、その信憑性を慎重に判断する必要があるが、大局的な見方は取材に基づいた記述だろう。ただ、『スターリンは国民党軍の中枢で長期に渡って冬眠させておいた共産党スパイを目覚めさせ』という文言はやはり書き過ぎだろう。スターリンはさすがにそこまで目が届かない。むしろ考えられるのは、周恩来だろう。毛沢東の伝記であるので、周恩来の実像はあまり出てこない。そして蒋介石の役割も史実を振り返ると、過小評価しているので、蒋介石の実像が出ていない。むしろ、清瀬一郎や茂木弘道氏の見方が実像に近いと思われる。そうは言っても、日中戦争にソ連が演じた役割は、過小評価すべきでない。むしろこの視点はもう少し掘り下げられるべきだろう。ユン・チアンはもう一つ貴重なコメントを残している。『張作霖爆殺は一般的に日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令に基づいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという』  

 


戦争はどこで起こったか、誰が主導したのか 1

2023年01月08日 | 歴史を尋ねる

 中華人民共和国は事ある毎に日本との抗争を侵略戦争と非難し、台湾領有を植民地支配として論難する。しかし、中華人民共和国は1949年に誕生したのであり、支那事変当時の抗争相手国名は中華民国であり、実質的な統治政権は蒋介石政権であった。中華ソビエト共和国は1932年4月26日、中央政府の名により日本に宣戦布告し、1935年8月コミンテルンの「反ファッショ人民統一戦線」の指令に従い抗日救国宣言を発しているから、日本軍の行為は戦闘行為であり侵略とは言えない。日本を占領した米軍を侵略とは言わない所以と同じである。ただ蒋介石政権は終始日本軍の行為を侵略行為として、国際連盟や米国などにその非をアピールしていた。それは蒋介石政権の周到な戦略だったが、その主張はどこまで正当性があるのか。まずは蒋介石秘録から、蒋介石の主張に耳を傾けたい。

「盧溝橋事件の発生・経過は、7月8日、廬山で秦徳純らから報告を受けた。『日本軍は盧溝橋で挑発に出た。準備が未完成の時に乗じて屈服させようというのか。それとも宋哲元に難題を吹っ掛けて、華北を独立させようというのか。日本が挑戦してきた以上、いまや応戦を決意すべき時だろう』 9日、現地で協定が結ばれたが、国民政府は南京の日本大使館に覚書を送り、『如何なる協定であろうとも、中央の同意がない限り無効である』と通告。さらに14日、協定細目が調印された。 18日蒋介石は『最後の関頭演説』を行い、中国の抗戦の覚悟を公式に明らかにした。日本軍の作戦遂行は極度の秘密が保たれていたが、中国側が得た情報によれば、すでに八個師団、約十六万人が北平、天津に向けて集結ないし輸送中であった。譲歩に譲歩を重ねた中国軍現地軍も、それまでの現地交渉がまったく無益であったことを思い知らされた。宋哲元も、日本軍の言う地方的解決のむさしさを悟らざるを得なかった」と。
 蒋介石はここで盧溝橋事件を日本の挑発と決めつけている。さらに現地解決協定を無視している。さらに十六万人の集結も誤認識であった。前回も触れたが、蒋介石のところに上がってくる情報はどこまで正確だったのか。清瀬一郎は東京裁判冒頭陳述で「1937年7月7日の盧溝橋における事件発生の責任はわが方にはない。日本は他の列強と1901年の団匪議定書(義和団事件の北京議定書)によって兵を駐屯せしめ、また演習を実行する権利を持っていた。またこの地方には日本の重要なる正常権益を有し、相当多数の在留者(1901年当時日本人の北京周辺の居留民は3万3千人)を持っていた。もしこの事件が当時日本側で希望したように局地的に解決されていれば、事態はかくも拡大せず、したがって侵略戦争ありや否やの問題には進まなかった。それゆえに本件においては中国はこの突発事件拡大について責任を有すること、また日本は終始不拡大方針を守持し、問題を局地的に解決することに努力したことを証明する。近衛内閣は同年7月13日『陸軍は今後とも局面不拡大現地解決の方針を堅持し、全面的戦争に陥る如き行動は極力これを回避する。これがため第二十九軍代表の提出せし11日午後八時調印の解決条件を是認してこれが実行を監視する』と発表している。しかるにその後中国軍の挑戦は止みません。郎防における襲撃、広安門事件の発生、通州の惨劇等が引き続き発生した。中国側は組織的な戦争態勢を具えて、7月12日には蒋介石氏は広範なる動員を下令したことが分かった。一方中国軍の北支集中はいよいよ強化された。豊台にあるわが軍は中国軍の重囲に陥り、非常なる攻撃を受けた。そこで支那駐屯軍は7月27日、やむを得ず自衛上武力を行使することに決した。書証及び人証によってこの間の消息を証明する。
 それでも日本はやはり不拡大方針を取ったが、蒋介石氏は逐次に戦備を具えて、8月13日には全国的の総動員を下命し、同時に大本営を設定、自ら陸、海、空軍総司令という職に就いた。全国を第一戦区(冀察方面)、第二戦区(察晋方面)、第三戦区(上海方面)、第四方面(南方方面)に分けてこれに各集団軍を配置して対日本全面戦争の態勢を完備した」
 清瀬一郎は公式の場でここまで言及しているが、日本史の専門家で清瀬氏の主張を取り上げた事例にお目にかかれない。不思議な事だ。

 「史実を世界に発信する会」主宰の茂木弘道氏はそのブックレット「戦争を仕掛けた中国になぜ謝らなければならないのだ!」で次のように解説する。盧溝橋発砲事件の四日後の7月11日に中国第二十九軍副軍長秦徳純と日本軍北京特務機関長松井久太郎との間で締結された現地停戦協定に明確に書かれている。『一、第二十九軍代表は日本に遺憾の意を表し、かつ責任者を処分し、将来責任をもってかくの如き事件の惹起を防止することを声明す。二、中国軍は豊台駐屯日本軍と接近し過ぎ、事件を惹起し易きをもって、盧溝橋付近永定河東岸には軍を駐屯せしめず、保安隊をもってその治安を維持す。三、本事件は、いわゆる藍衣社(蒋介石直属の情報工作、テロ組織)、共産党その他抗日各種団体の指導に胚胎すること多きに鑑み、将来これが対策をなし、かつ取り締まりを徹底す。』  協定だから、一方だけの言い分ではない。この協定を日本の圧力で結ばせた、などという論は現実を無視した暴論だ。二十九軍は宋哲元率いる北支を支配する十五万の軍で、対する日本の支那駐屯軍は5600人と極少数。圧倒的な力にものを言わせる理不尽な停戦協定などと押し付けることなどできない。しかし、その後中国側はこれは無かったと強弁しているが、秘録から押すと、蒋介石の指示によると言える。協定文書が厳然と存在している。さらに細目協定作りの作業も行われた。19日成立している。
 茂木氏はさらに続ける。そもそも日本が攻撃を行う理由がない。たった5600の駐屯軍が十五万の二十九軍に攻撃をかけるなどあり得ない。(さらに事件当時、支那駐屯軍司令官田代皖一郎は病床にあり、7月12日新たに香月清司中将が司令官に任命された事実もある。司令官の不在状況で意図した戦闘などするわけもない) 日本軍の国内、満州、朝鮮、中国に駐屯する全勢力はおよそ二十五万。これに対し中国軍は二百十万。内50万はドイツ軍事顧問団の指導で装備・訓練とも近代化を進めていた。さらに日本の最大の仮想敵国は当時のソ連で160万の大戦力を有し、内およそ40万が極東に配備されていた。このような状況で、日本が北支で戦端を開くなどという愚かなことを行う筈もないし、そのような理由も計画も皆無だった。しかし、当時の中国では日本に対する主戦論が圧倒的に優勢で、都市の住民は日本との戦争を熱望し、勝利を確信していた。当時の中国で発行されていた新聞各紙を見ればその様子は一目瞭然だという。そして茂木氏は北村稔・林思雲著『日中戦争:戦争を望んだ中国、望まなかった日本』を紹介している。当時の主戦派には、一つは過激な知識人・学生・都市市民。二つ目は中国共産党。三つ目は地方軍閥。共産党と軍閥は過激な世論を味方として、蒋介石政権に対する立場を有利にしようという狙いもあり、主戦論を唱えていた。特に共産党は抗日を最大の政治的武器として使っていた。
 停戦協定第三項には二十九軍も誰が発砲したか具体的につかんでいなかったが共産党が怪しいと云う事を察知した文章になっている。徹底抗戦を叫び続けた共産党が衝突事件を起こそうとするのは当然だが、その他に深刻な事情があった。実は共産党は当時窮地に追い込まれていた。たしかに、西安事件により蒋介石は共産党攻撃を中止し、共産党との協力関係を作ることを約束した。しかしその後、蒋介石は次々に厳しい条件を共産党に突き付け、半年後の37年6月頃には国共決裂寸前となっていた。エドガー・スノーは「1937年6月には蒋介石は、再度紅軍の行く手を塞ごうとしていた。共産党は今一度完全降伏に出るか、包囲殲滅を蒙るか、又は北方の砂漠に退却するかを選ぶ事態になったかに見えた」と。この窮地打開のために共産党は謀略大作戦を決行した、と茂木氏。共産党は、第二十九軍の中に副参謀長の張克俠を筆頭に参謀に四人、宣伝副処長、情報処長、大隊長他大量に党員を潜り込ませていたことは、今では中国で出版されている書籍によって明らかになっている、と。『浸透工作こそ中国共産党の全て』という石平氏の著作を紹介した。これは表に出ている共産党の謀略の数々を具体的に挙げているが、これらの事例から、同様な事件が盧溝橋に起こってもおかしくない、といえる。
 さらにこれを起こしたのは100%明らかな証拠があると、茂木氏。「発砲事件の翌日八日に、共産党は延安から中央委員会の名で長文の電報を蒋介石をはじめとする全国の有力者、新聞社、国民政府関係、軍隊、団体などに発信した。共産党の公式史で「七八通電」として特筆されている。さらに同日に同種の電報を毛沢東ら軍事指導者七名の名前で蒋介石、宋哲元等に送っている。日本軍は、八日午前五時三十分に初めて反撃を開始した。それまでは盧溝橋域などで交渉していたのであり、相次ぐ発砲に対して、対抗する体制を整えつつあったが、この時までは全く反撃の発砲をしていない。当時の通信事情から八日に初めて発砲による反撃があったのに、八日にこの情報を手に入れて、経過を含む長文の呼び掛け文を公式電報として作成し、中央委員会の承認を得て、全国に発信するなどという作業は絶対不可能。唯一可能なのは、事前に準備していて、筋書きを作り、その通りにことが運んだことを確認して、正式文に仕上げた場合だ。実は、実際に準備していた、その証拠がある。支那派遣軍情報部北平支部長、 秋富重次郎大佐は『事件直後の深夜、天津の特殊情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中共軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。「成功了」(成功した)と3回連続反復送信していた」(産経新聞平成6年9月8日夕刊)で述べている。その時は分からなかったが、その後盧溝橋での謀略成功を延安に報告する電報だった。早速延安では電文つくりが行われ、八日の朝、日本軍が反撃を開始したのを確認してこの長文の電報を各地に大量に発信した。盧溝橋の銃撃事件を引き起こした犯人は中国共産党に他ならない」と。11日に結ばれた停戦協定は中国側、中国軍自体、あるいは不明者により再三にわたり協定破りを行った。郎防事件、広安門事件といった大規模な中国軍による停戦違反攻撃が起きるに至って、一貫して不拡大方針を取ってきた日本政府は、7月27日内地三個師団派遣を決定し、28日、二十九軍に開戦通告を発した。エドガー・スノーは6月の共産党の大苦境は、日本軍が引き起こした盧溝橋事件によって救われたと述べている。日本軍が一斉侵攻を行った事実はないが、共産党はそれを望んでいたと云う事をスノーの文章は図らずも暴露している、と茂木氏。蒋介石が剿滅作戦を放棄せざるを得なくなったことを喜んでいるが、さらに進んで日本軍を戦わせることが彼らの本当の狙いだった。 
  盧溝橋事件後に出されたコミンテルン指令は、1,あくまでも局地解決を避け、日中全面衝突に導かなければならない。2,右目的貫徹の為あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって中国の開放を裏切る要人は抹殺してもよい。3,下層民衆階級に工作し、彼らに行動を起こさせ、国民政府をして戦争開始の已む無きに立ち至らせねばならない。4,党は対日ボイコットを全中国に拡大し、日本を援助する第三国に対してはボイコットをもって威嚇せよ。5,党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならない。この指令は1937年7月に出されたもので、後に興亜院政務部「コミンテルンに関する基本資料」から茂木氏が引用している。ここから読み取れることは、共産党の苦境打開という直接的な狙いのほかに、日本軍と蒋介石軍との間の本格的戦争を引き起こすことが真の狙いだった。これにより日本軍の力が削がれ、ソ連の安全確保という目的が達成できると同時に、日中両国の疲弊・共倒れをもたらすことによって、共産党の勝利を実現しようという長期的な戦略だった。コミンテルンの世界戦略とそれを推進した中国共産党のこの最終目標は、その後1949年に実現した。

 世界を、歴史を、巨視的に見ていくと、意外な筋書きが見えてくる。日本軍も蒋介石軍も手玉に取られていたと見るのは情けないが、「成功了」の電文を見ると、両軍が筋書き通り行動したことになる。日本の真珠湾攻撃も筋書き通りとすると、二度にわたって、日本は操られたことになる。日本国内でのゾルゲ事件もこうした筋書きに比べると、かわいいものである。日本では謀略をあまり大きく取り上げないが、その怖さは石平氏の著書で十分読み取れる。

 


満州国とリットン報告書 渡部昇一の解説

2022年12月17日 | 歴史を尋ねる

 呉善花氏が黄文雄氏と石平氏とが鼎談した冊子が発行されている。『日本人の恩を忘れた中国人・韓国人の「心の闇」』 「日本は隣国の韓国と中国を格別に重視して、惜しみない援助を続けてきたが、1993年、韓国に金泳三政権が、中国に江沢民政権が成立すると、両国は手のひらを返したように強硬な反日政策を取るようになった。今年は両国が提携して日本との対立を深めて行くまでに至り、日中韓関係は歴史的に最悪といえるまでの状態に陥っている」韓国・朴槿恵政権時代、中国・習近平である10年前の時代背景を受けて、三人が話し合った冊子である。その中で韓国の反日について、呉善花氏は、表立った主張は日本帝国主義の侵略、韓国の植民地統治を容認する日本人とその政府が悪いというものだが、本当に言いたいことは、戦前に日本があれほど悪いことをしたのは、「歴史的に野蛮で侵略的な日本人の民族的資質」があるからだ、ということだ 、と。だから韓国の反日民族主義は、正確に言えば「反日本民族の民族主義」で、この「日本民族の野蛮な侵略的な資質」は、古代から現代まで一貫して変わることなく続いている、というのが反日民族主義の基本的な考え方だという。そして、三つの要素で形成されている。一つは中華主義の核をなす華夷秩序の基づく世界観、二つは、祖先が受けた被害について、子孫はどこまでも恨み続け、罪を問い続けていくことが祖先への高校だという儒教的道徳観、三つめは古代に神功皇后の朝鮮征伐、中世の豊臣秀吉の朝鮮征伐、近世の征韓論を以て朝鮮侵略を企図し、ついに朝鮮を植民地化した。そこには一連の日本民族特有の朝鮮侵略史観があり、今なお変わることがないとする韓国人の歴史認識がある、と。呉善花氏は更に言う。こうした世界観、道徳観、歴史観は李朝朝鮮500年の歴史によって、骨の髄まで染み込んでいる。専制主義国家は一元的中央集権統治を万全にするため、徹底的に一元的価値を持って人々を洗脳する、情報をコントロールする、そうした体制下では、上から洗脳していくことはごく普通のことで、人々はそれを偉い人からの教えとして受け入れることを習いとしている、と。

 石氏は中国の反日政策を説明する。天安門事件が反日政策への転換点、親日的で民主改革に積極的であった党主席・総書記の胡耀邦が87年に失脚させられ、89年失意のうちに亡くなった。胡耀邦の死をきっかけにその年の6月4日、民主化を求める多数の学生・一般市民が天安門広場に集結した。このデモ隊を鎮圧するため、中国人民解放軍は装甲車を出勤させ、無差別発砲を展開するなどして多数の死傷者を出した。天安門事件。国家の威信は地に堕ちたが、政府は民主改革派の政治家たちを次々に権力の座から追放し、93年に江沢民が国家主席に就任した。江沢民は、党総書記・国家主席・党中央軍事委員会主席を兼任する初めての中国最高指導者となった。これほどの権力一元化が行われたのは、天安門事件で失墜した国家の威信を取り戻すため、国民的な求心力を取り戻すためであり、江沢民政権が愛国心を旗印に掲げ、愛国主義の教育を盛り立てていったのはそのためだった。愛国教育の重要な柱は、90年代から反日教育を行い、今では愛国教育は共産党を存続させるためのイデオロギーの基盤であり、反日政策は政権存立には欠かせない中心的な位置を占めるようになった。愛国主義は、国民の感情を煽り立て、国民の視線を外敵に向けさせるための、最重要の装置になっているので、中国共産党政権は反日を止める意思はない。反日を止めない理由の一つは日本にもある。石氏の高校時代の教科書には、南京大虐殺など全く書いていなかった。朝日新聞社にいた本多勝一は、中国に行って南京大虐殺があったと盛んに焚きつけた。彼のように、反日を増長させる日本人がいつでも絶えない。これが反日に大きな力を与えている。もし戦後の日本人が一致団結して、中国・韓国の反日攻撃にノーといい続けたら、いっさい受け付けないという態度を数十年も取り続けたら、今日のような反日の盛り上がりは中国にはなかった、と。石氏は重要なことを語っている。問題は、日本人自身の歴史観がうろうろしている、という事だ。NHKを始め日本のマスコミは、政治家が靖国に参拝したことを、その都度事細かく報道している。誰に向けて報道しているのだろう。日本人がその事実をこと細かく知りたいと思っている人はごく一部の人たちではないか、大きくは中国・韓国・北朝鮮向けとなってる。その自覚はマスコミ人にはないだろう。そして本来内政の問題であった靖国問題を世界に周知させたのも、朝日新聞だったか。石氏の指摘どうりである。

 前置きが長くなったが、満州事変についても、リットン報告書を通じて、歴史の位置づけをハッキリさせたい。「リットン報告書」は、1931年に勃発した満州事変についての国際連盟から派遣された調査団による調査報告書、ところがこの報告書の邦訳は当時数種類が刊行されただけで、専門家を除けば、全文を読んだことのある人が限られるという。日本の満州侵略を国際社会がこぞって非難したレポートだという印象を持っている人が極めて多いが、本文を通読すれば、報告書は相当程度日本の立場を認めている、と渡部氏はいう。満州事変と聞けば直ちに日本の大陸侵略と決めつけ、満州国と耳にすれば即座に傀儡国家と反応する、朝日新聞その他の左翼マスコミよりずっと正しい歴史認識を示している。満州を巡る問題は極度に複雑だから、満州事変も単に日本軍が侵略したというような簡単な事件ではないと、ハッキリ断言している。その歴史的背景について十分な知識のないものは口を出す資格がない、と。従って、事変が起きてしまった今、満州の状態を事変以前にもどすことは現実的でないというくだりもある、という。それもそうだろう、報告書が提出された日時は1932年9月、すでに満州国は成立して、その満州国の仕組みも報告書に記載されているから。満州国成立のプロセスは報告書で見ていきたい。
 「1931年9月18日の事件の結果、奉天市と奉天省の行政は完全に破壊され、その他の二省の行政に至るまで影響をこうむった。奉天に対する攻撃があまりに急速だったため、同市はシナ人民の間に恐慌を引き起こすに至った。著名な官公吏、教育界や商業界の主要人物の大多数はただちに家族とともに逃亡した。警官や監獄看守に至るまで失踪した。行政は崩壊し、公共事業会社、乗合自動車、市外電車並びに電話・電信業務は一切停止した。至急を要するのは行政の復活だが、これは日本人によって着手され、土肥原大佐が奉天市長に就任し、三日以内に正常な市政が復活した。数百人の警官や監獄看守の大部分は省長の援助によって復帰し、公共事業も回復した。大部分は日本人からなる非常時委員会が土肥原大佐を援助した。大佐は一カ月間その職にとどまり、10月20日、市の行政は趙欣伯を市長とする一定の資格を持ったシナ人たちの手に戻された。
 次の問題は三省の各省政を再建することであった。奉天の省行政は有力者の多くが逃亡し、シナ人による省行政は錦州において継続された。従って遼寧省の省政組織が出来上がったのは三カ月後のことであった。省長だった臧式毅将軍は独立政府樹立の援助を拒絶、日本の軍事当局は元省長である袁金凱とシナ人住民8人に治安維持委員会を組織することを進め、9月24日組織された。袁金凱はその後独立宣言をする意思はない事を表明。治安維持委員会は遼寧自治委員会に改名され、11月7日、遼寧省自治委員会は臨時遼寧省政府となり、旧東北政府及び南京中央政府から分離・独立を声明した。臨時遼寧省政府は同省内の各地方政府に対して、発布した命令を守ることを要求し、今後省政府としての権限を行使すると発表した。
 自治委員会が臨時遼寧省政府に改造されると同時に、最高諮議委員会が于沖漢委員長の下に創設された。于沖漢は最高諮議委員会の目的を、秩序の維持、悪税の廃止による施設改善、租税軽減並びに生産・販売組合の改善、と。委員会はさらに臨時省政府を指揮監督して、伝統的かつ近代的要求に準拠して省自治政府の発展を助成する。11月20日、省名は奉天省と改正され、12月15日、袁金凱は臧式毅将軍と交代した。臧式毅将軍は監禁から釈放され、奉天省長に就任した。
 吉林省を樹立する事業は容易だった。9月23日、多門中将は張作霖将軍の不在中、省長代理である熙洽中将と会い、省長就任を勧めた。将軍は会見後、多くの政府当局者や公共団体を集め、新省政府樹立に対して反対表明がなく、9月30日布告書が発表された。
 東清鉄道の特別区行政官・張景恵将軍は9月27日、ハルビンの事務所で会合を催し、特別区の非常時委員会の組織について議論、同委員会は張将軍を委員長とし、その他8人の委員から構成された。1931年1月、張景恵将軍が黒龍江省長に任命されると、相長の資格で同省の独立を宣言した。
 黒龍江省に於いて張海鵬と馬占山の抗争で形勢は複雑化していたが、2月日本軍と和睦し、張将軍から黒龍江省の職を受け継ぎ、他の省長とともに新国家の建設に協力した。
 熱河省は満州における政治的変動に対して中立を維持してきた。熱河省は内モンゴルの一部分である。300万人以上のシナ人が省内に住み、遊牧モンゴル人を北方に追いやりつつあったが、100万を超えるモンゴル人は旗人組織の下で生活していた。モンゴル人はシナ人と同化しなかった。ジンギス汗の偉業やモンゴル武人の元朝を記憶していたから。3月1日の満州国建国に当たり、熱河省は新国家に組入れられたが、同省政府は何ら決定的措置をとることはなかった。

 独立を達成する組織は奉天に出来た自治指導部であった。首長はシナ人だが大部分の職員は日本人だったという。主な目的は独立運動を進めることであった。自治指導部から発せられた布告は、東北部はいまや満州とモンゴルに於いて新独立国家の建設のため一大民衆運動を起す必要がある、と告げた。張学良を打倒し、自治協会に加入し、清廉な政府を設立し、人民の生活状態を改善するため協力すべき、と訴え、「北部及び東部の組織よ。新国家へ。独立へ」という言葉で結んでいた。自治指導部長・于沖漢は省長・臧式毅とともに新国家の計画案をつくりつつあった。馬将軍が黒龍江省省長に就任すると、新国家の基礎を協定する会議は、2月奉天で開かれ、5人(東3省の省長、特別区長官、趙欣伯博士)の会合で、①新国家を建設すること、②東北行政委員会を組織すること、③委員会は遅滞なく新国家建設のため必要な準備をすることが決議された。会議の二日目にはモンゴル王族も出席した。2月17日、最高行政委員会が組織され、委員長・張景恵中将、奉天、吉林、黒竜江および熱河の省長並びにモンゴル地方代表が委員となり、新国家は共和制を採用する、構成各省の自治を尊重すること、執政に摂政の称号を与えること、四省及び特別区長官、全旗代表・チワン親王及び黒竜江省ホロンバイン代表・クイエフが、署名した独立宣言を発すること、決めた。関東軍司令官は同夜、新国家の幹部のため公式の晩餐会を催し、成功を祝すると共に必要の際には援助を与えると確言した。
 独立宣言は2月18日、発布された。宣言は永遠の平和を享受しようとする人民の熱烈な願望と人民によって選ばれた各施政官が人民の願望を満たすべき義務がある。新国家樹立の必要に言及し、そのため東北行政委員会が設置された。国民党および南京政府との関係は破棄され、人民は善政を享受できると約束した。続いての会合で、共和国を建立すること、憲法の中に権力分立主義を規定すること、前・宣統帝に執政就任を請うことを決議した。つづいて、首都は長春(新京)、年号は大同、国旗の図案も決定された。
 独立宣言と新国家建設計画が発表されたのち、自治指導部は民衆を組織して支持を表明させるについて指導的役割を演じた。そして促進協会が設立され、宣伝に努め、各団体の会長や著名会員等を集めて人民代表の会議を開き、決議を表明させた。また会合は宣言書を発して、旧圧政軍閥の没落と新時代の黎明に対する奉天省住民の喜びを表明した。吉林省、黒竜江省もそれぞれ独立宣言をした。各省が新国家建設計画に賛同すると、奉天で全満大会を招集した。この大会には各省やモンゴル地方の代表が集まり、また朝鮮人や満州及びモンゴルの青年同盟支部など、種々の団体の代表者も集まり、満場一致で宣言および決議が可決された。また新国家の臨時元首として前宣統帝を推挙する決議も採択された。溥儀氏は最初これを拒否したが、29名の代表者たちが一年を期限として承諾を取り付けた。3月9日、新都・長春で就任式が行われ、溥儀氏は執政として、新国家の政策は「道義、仁慈、愛撫」を基礎とすることを約束すると宣言した。」

調査団は「新国家建設の段階」という項で、以下の結論を導いている。東三省の軍事占拠は、シナ官憲の手から順次、チチハル、錦州、ハルビンを奪い、ついには満州のすべての重要都市に及んだ。軍事占領ののちに民政が回復された。1931年9月以前に於いてほとんど聞かれなかった独立運動が、日本軍の入満によって活発化した。日本の文官・将校の一団は、9月18日の事件後、満州の事態解決策として独立運動を計画し、組織し、遂行した。日本の参謀本部は当初から、あるいはしばらくしてから、自治運動を利用することを思いついた。その結果、運動の組織者に援助と指導を与えた。満州国の創設に寄与した最も有効だったのは、日本軍の存在と日本の文武官憲の活動である。従って現在の政権を純粋且つ自発的な独立運動によって出現したものと考える訳にはいかない、と。しかし、この調査団のロジックは、純粋という言葉を使って、事態を見る目を歪めていないか。ここでいう純粋とは、何を言わんとしているのか。外国勢力によって影響された独立運動だから純粋でないという事か、あるいはシナ人の手によって起こされた独立運動でないという事か。確かに、日本軍の手によって起こされたクーデターではあった。しかし満州国の国造りは、日本人のサポートがあったにしろ、曲がりなりにも自発的な国造りであった。しかも共和国は五族協和である。
 満州国の第二代総理張景恵は1943年11月5日、東京で開かれた大東亜会議で満州国を代表して演説を行った。「私は十年前に我が満州国が最初の真の東亜的なる自覚を有する新興国家として建国されたことを回顧し、深き感慨なきを得ないものである。私も抑え難き熱情を以て建国に参画したが、当時満州において最も欠けていたものは道義に基づく政治だった。民衆は何ら理想ある目標に指導され組織されることもなく、国土は荒廃し、軍閥の封建政治による無秩序な苛斂誅求が行われ、何らの自由性創造性も無き典型的な虐げられた東亜の様相を呈していた。
 当時の支配者として人民にあくなき搾取を加えつつあった張学良軍閥が、米英の東亜攪乱政策に乗ぜられて露骨なる反日態度に出たのに対し、日本が敢然起って張軍閥を打倒した結果、ここに真に国民を向上し、国土を発展せしむ自主的な道義国家の樹立に、三千万民衆の総意が翕然として集まったのは当然のことだった。
 斯くの如く建国された満州国がこの十年間、如何なる政策の下に、如何なる成果を上げたか、説明したい。第一に民族の協和である。我が満州国は、日満蒙その他多数の民族が共存しているが、従来異民族間に見られた支配、被支配、搾取、非搾取の関係ではない、相互にその特徴を発揮しつつ国家目標の達成に協力していっている。・・・第三に国民生活の安定と強く正しい国民の練成である。政府は建国後直ちに、従来紛糾を極め最も収拾困難とされた貨幣制度を、極めて急速に統一した結果、物価は安定し、今日の如き国民生活の安定を確保した。並行して行われた治安の確立であり、建国当時三十万の匪賊が国内に横行したのに比べ、現在は全く影を潜むるに至った。
 最後に重要なものは、産業の開発である。・・・以上の如き建設の成果について二、三の数字を拾うならば、国家財政は建国当初歳入歳出合計二億七千余万円であったが、十年後の今日、実にその十六倍の四十四億円に膨張し、鉄道の延長は六千キロが一万二千キロ、初等学校児童数五十万は二百五十万人になった。また石炭は四倍、銑鉄五倍に飛躍発展を遂げている」と。この演説は『大東亜会議演説集』から茂木弘道氏の著書に掲載されている。さらに張景恵首相は「この国運の隆昌を目の当たりにして痛感することは、大日本帝国の終始変わらざる杖義であります」と述べている。この十年は世界大恐慌の真っ最中であった。今の中国も海外企業の進出で世界の工場といわれた。何ら変わるところがない。これを傀儡国家というべきか、リットン調査団の時点はまだ満州国が誕生したばかりであったから、多少その点を考慮すべきとは思われるが。

 日本が満州を侵略した、という主張はどこから始まったのか。それは蒋介石政権が国際連盟に提訴したその時が出発点であり、共産党政権に引き継がれている。蒋介石秘録によると、九・一八事変(満州事変)の拡大に対し、9月21日、前線から帰った蒋介石は党、政府、軍幹部を招集、「日本の東北侵略の事実を、国際連盟および不戦条約締結国に先ず提示し、どちらに公理があるかを訴える」と指示、当時、ジュネーブでは国際連盟の定例理事会が開催中で、中華民国の施肇基は事変の翌日、外交部からの訓令に基づいて、国際連盟事務局に対し、日本軍が突如、奉天を攻撃、占領したことを通告、日本軍の退去を求めるために、連盟が適切な措置をとることを要請した。21日、施肇基は連盟に正式に提訴、事務総長に対し、連盟規約第十一条(平和擁護義務)によって理事会を開催することを文書で要求した。理事会は翌22日午後から開催、日本代表の芳沢謙吉はこの事変を「中国軍の挑発による偶発的事件である」と主張し、国際連盟の干渉に反対した。この日の理事会は「現状が悪化し、または平和的解決を害する恐れのある一切の行為をしないよう、中国および日本政府に緊急通告を送ること」を全会一致で決議、同日、理事会議長はその旨日中両国に伝えた。日本政府は24日、政府声明を発表、「事変発生当初より、日本の軍隊の行動は、居留民の安全、鉄道の保護、軍隊自体の安全確保のためと、限定されている。日本政府はあくまで事態拡大を防ぐ方針であり、日中両国間の交渉で一日も早く平和的に解決することを願っている。日本軍は現在、ほとんど南満州鉄道付属地内に復帰した。吉林、奉天など付属地外に残る若干の軍隊は、在留邦人の安全と鉄道保護のためであって、今後、事態が改善されれば撤兵する。日本政府の誠意ある態度を信頼してほしい」と。翌25日の理事会で施肇基は、日中両国の交渉は日本軍の撤兵が第一条件である、理事会から完全撤兵の勧告を出し、日本が実行しなければ、連盟は即時、現地に調査員を派遣、調査に当たらせてほしい、と。当時世界は世界恐慌の最中で、各国の関心は自国に直接影響のある欧米の経済問題に向けられていたことを蒋介石は嘆いている。30日、理事会は次を決議して散会した。①議長は両国の回答、その措置を了承する、②満州に於いて、領土的目的を有しない日本政府の声明の重要なことを認める、②国民の生命財産の保護が確保され次第、日本軍隊の撤退を実施するという日本代表の声明を了承する、④中国の地方官憲が旧に復した後、日本国民の安全と財産の保護に責任を負うという中国代表の声明を了承する、と。日本が侵略したとの考えは表明されていない。

 一方中国での抗日世論は燃え上がった。先頭に立ったのは、学生や知識人、言論界であった。9月20日、全国の主要三十大学に抗日救国会が結成され、五十人の代表が南京へ請願に赴いた。救国会は、対日宣戦と軍事訓練の実施を要求、自ら義勇軍編成要領を定めた。しかしこの運動には、共産党の手先となった一部の学生や青年が運動に紛れ込み、外交問題にかこつけて内政攻撃を目標にした。28日、南京の中央大学の学生ら四千人が授業放棄し、対日宣戦を要求して中央党部と外交部にデモを掛けた。彼らは外交部長・王正廷に面会を強要、外交部の建物になだれ込み、王正廷にけがをさせた。この事件がもとで、王正廷は外交部長の辞任に追い込まれた。
 9・18事変当時、汪兆銘は一方的に広州に国民政府を名乗り、統一の条件として蒋介石の下野を要求した。11月7日妥協案がまとまった。南京と広東はそれぞれ別個に国民党の四全大会を開く。双方中央執行委員を選び、それぞれ承認し合う。選出された中央委員は南京に集まり、全体会議を開いて政治組織の改革を決する。南京の四全大会は、蒋介石に対し日本に抵抗する責任を与えると決議したが、広東側は同意せず、主席の下野がないと、南京に行かないと応じなかった。南京では総数7万人の学生が集まり国民党中央党部と外交部を取り囲んだ、このような無秩序状態に拘わらず、広東側は尚も下野を迫り、12月15日、蒋介石は国民党のあらゆる官職を退いた。22日、国民党の新執行部は林森を国民政府主席、孫科を行政院長に選んだ。翌年1932年1月1日から新政府がスタートした。しかし学生の騒ぎは収まらなかった。学生の一部は赤い腕章をまき、赤旗を持ち、共産党万歳の宣伝ビラをまいた。背後で操っていたのは、中国共産党であった。彼らは9・18事変という国難をきっかけに、国内に混乱を持ち込み、その機に乗じて勢力の拡大を図ろうとしていた。そして共産党は9・18事変を祖国に対する侵略とみず、ソ連への攻撃、共産党への脅威と見ていた。以上、蒋介石秘録の記述であるが、国際連盟による日本制裁を申入れた中国内政の状況は混沌としていた。
 一方12月10日、国際連盟理事会は全会一致で次の決議案を採択した。「理事会は日中両当事国が、事態の悪化を避けるために必要な措置を取り、戦闘や生命の喪失を引き起こす一切の主導的行為を差し控えることを約することを了承する。国際関係に影響を及ぼし、日中両国の平和をかく乱する一切の事情について、実地に調査をし、理事会に報告するため、五人で構成する委員会を任命する。両国は委員会が必要とする一切の情報入手に便宜を与える。両当事国の交渉や軍事行動については、委員会は権限を持たない」と。この決議に基づき、翌1932年リットン卿を委員長とする、調査団を派遣することとなった。この決議案が連盟で通過した翌日、日本では若槻内閣が閣内意思不統一で総辞職した。このあと引き継いだ犬養内閣も、わずか五カ月後に五・一五事件によって倒れた。日中とも政治情勢が大荒れとなっていった。

 満州事変が起こった時の当時の情勢は以上であったが、蒋介石秘録には日本の侵略意図を日本の極秘文書から解説する。紙面の都合で詳細は省略するが、「事変の半年前、陸軍参謀本部は『満蒙問題解決方策』を決定、第一段階は、中国人をそそのかし、東北に親日政権をつくる、第二段階では、満州国として独立させる、第三段階では日本が領有するという筋書きをつくった」と。具体案を決める最初の謀議は、「事変発生後五日目、瀋陽の旅館で開かれた。出席者は関東軍参謀長三宅光治、土肥原賢二、板垣征四郎、石原莞爾、片倉衷の五人、この席で土肥原は日本を盟主とする満蒙五族共和国を策立することを提案し、これを基に議論が交わされた。この結果、実現可能なプランとして清廷最後の皇帝である宣統帝溥儀をかつぎ出し、傀儡政権を樹立させる案がまとまった」と記述する。「日本の軍部は、政府の対し、満州新政権樹立の方針を正式に決定するよう性急に迫ったが、外相・幣原喜重郎の反対で結論が出ないままに終わった」と。ウキペディアで満蒙問題解決方策を調べても、蒋介石の云うような記述は見つからない。蒋介石並みに深読みするとそう解釈できないこともない、という事か。五族共和国を話し合うのは、これが侵略とは言えない。

 渡部昇一氏の「全文 リットン報告書」の戻ろう。渡部氏はいう。リットン報告書はかなりの程度まで日本の立場を理解したレポートになっている。しかし決定的な誤りは、満州はシナの一部であるとする結論だ。満州は溥儀を最後の皇帝とする満州族が支配していた土地であり、万里の長城の外に在って、元来は漢人の立ち入りは禁じられていた封禁の地であった。レジナンド・ジョンストンの名著「紫禁城の黄昏」(出版年1934年)には満州及び溥儀について正確な記述がなされ、満州がシナの一部などではなかったことが明確に記述されている、と。「日本には一つの王朝しかない。従って、その国名はヨーロッパの国々と同じ様に用いるが、シナの用いる用語は王朝名であり、中国ではなく大清国である」 ヨーロッパでは領土の王という言い方、King of England、King of France、日本はEnperor 0f Japanとなる。ところがシナの場合、漢民族が支配したり、モンゴル民族が支配したり、あるいは満州族が支配したり、次々に支配民族が替わり、その度に領土も変化してきた。従ってKing of Chinaというものはいない。換言すればシナには近代的な意味での国家が存在したことがなく、あったのはシナ本部を支配した鮮卑族(隋、唐)や漢民族(宋、明)やモンゴル族(元)、満州民族(清)の王朝だけだった。だからシナの場合はすべて王朝で見なければいけない。従って満州という土地は清朝を興した満州民族の故郷であって、シナの一部ではない。しかも秦の始皇帝以前も以後も、シナの王朝が満州を実効支配した事実はない。満州民族は全部で百万人内外だったから、その数百倍の漢民族を支配するためには満州民族もシナ本部に移住しなければならなかった。その代わり満州は人口の過疎地になってしまったが、清朝は満州の地の純粋性を守るため、統治に失敗した場合にはそこに逃げ戻るため、シナ人が満州に入ることを禁ずる封禁政策をとった。
 もう一つ重要なことは、満州を指す東三省という呼称はいつできたのか。清朝にとって満州は普通の土地ではなかったから、省をつくらずに、チチハル、吉林、奉天に満州族の旗人である三人の将軍を配していた。ところが日露戦争のあと、軍政区を普通の政体に変え、シナ内地と同様な省にした。この東三省が出来たのは1907年で辛亥革命の四年前だった。従ってリットン報告書が「シナにおいてはつねに東三省と称していた」という記述は誤りだ、と渡部氏は解説する。

 リットン報告書がこうした肝心なポイントを理解していなかったことは、そこに溥儀がほとんど登場していないことからもわかる、と渡部氏。戦後、東京裁判の法廷に証人として姿を現した溥儀は、「満州国皇帝への就任は関東軍の圧迫によったものであり、在位期間中もつねに関東軍の監視下にあり、自由意志はまったくなかった」と証言しているが、それは当時彼が拘留されていたソ連の脅しによる偽証であった、と。1924年、共産系の将軍のクーデタで自分の命が危うくなると、日本の公使館に逃げ込んでいるし、その後天津の日本租界に身を寄せた。1931年天津事件が起こって危機が迫ると、今度は奉天特務機関長・土肥原大佐などに守られて旅順から奉天に向かった。溥儀の家庭教師で、紫禁城の黄昏の著者、レジナルド・ジョンストンは次のように記述する。「11月13日、上海に戻ってみると、私的な電報で皇帝が天津を去り、満州に向かったことを知った。シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意志に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じている者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。皇帝が満州に連れ去られる危険から逃れたいなら、英国汽船に乗り込めばよいだけである。皇帝は本人の自由意思で天津を去り、満州に向かった。その旅の道づれは忠実で献身的な臣下の鄭孝胥と息子の鄭垂だけであった」 東京裁判に証拠文書として提出されたこのジョンストンの本が却下されることのなく採用されていれば、東京裁判は成り立たなかった、と渡部氏は残念がる。また、清朝が倒された時、溥儀が即座に自分は故郷に帰ると言って満州に帰ったら、シナと完全に別個の満州国が出来ていただろうとジョンストンは言う。満州国にはそれだけの正統性があった。従って日本の当時の連盟脱退もまずかった。満州が満州民族の正統の皇帝を首長に戴く独立国になっていた。従って報告自体も無用になった事を主張し、独立という既成事実を積み重ねればよかった、報告書などより千倍も万倍も重い。報告書が採択されても、連盟に留まるべきだった。拙劣な対応が、日本の悲劇に連なった、と。

 

 


浸透工作こそ中国共産党のすべて

2022年11月06日 | 歴史を尋ねる

 当ブログは現在、東京裁判を追いかけていた。中華民国に関する弁護側立証には、盧溝橋事件に関連する弁護側の書証提出のうち37通の文書提出も、検察側の異議申し立てで受理されたのはわずか10通、中国共産党の活動と排日運動に関する弁護側立証は、次々と検察側の異議が認められ、ことごとく却下された。法廷は「中国共産党の日本人および日本権益に対する直接侵害の証拠のほかに、攻撃の脅威を感じたことを示すものも証拠として受理することに決定した。ただしその脅威は、重大かつ差し迫っており、攻撃をする能力のある者により為された脅威に限る」と。結局受理された証拠は電報1通にとどまった。こうしたこともあり、これまで裁判を離れ日中の当時の事実関係について、もう少し掘り下げていた。中華民国の当時の様子は、蒋介石秘録で大分読み解くことが出来るが、中国共産党の動きはこれまでブラックボックスの中であったが、近年相当事実関係が浮かび上がってきた。『マオ 誰も知らなかった毛沢東』は、ユン・テアン、ジョン・ハリデイ夫妻が2005-2006年に、世界各国でほぼ同時に刊行した毛沢東の伝記、遠藤誉著2015年『毛沢東 日本軍と共謀した男』・2021年『裏切りと陰謀の中国共産党100年秘史 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、石平著2021年『中国共産党 暗黒の百年史』など。石平氏は言う。「中国近代史について、日本の権威ある大手出版社から刊行された書籍を読んで唖然とした。日本の一流知識人が書いた中国近代史のほとんどは、中国共産党の革命史観に沿って書かれた、中国共産党を賛美する歴史書となっている」と。たしかにこの分野の第一人者である加藤洋子東大教授の著書を見ると、当時の日本の為政者の考えを極め細かく分析しているが、ブラックボックスになっている中国共産党の当時の動向についてほとんど触れられていない。また近代戦は陰謀渦巻く戦いである。表(おもて)の文書関係だけでは、本当の歴史的事実を紐解くことは出来ないことをもの語っている。その実例を、遠藤誉氏と石平氏の著書から見てみたい。
 
 1905年東京赤坂で孫文が中心となって中国革命同盟会という、清王朝を倒すための政治結社が結成された。1912年1月1日に建国された中華民国は、国民党(1919年に、孫文が創設した中華革命党から改称)によって統治された。
 1917年に誕生したソ連は新しい国家としての承認を求めようとしたが、なかなか承認してもらえず、いっそのこと世界各国を共産主義の国家にしてしまえ(赤化してしまえ)ということから創った組織がコミンテルン(共産主義インターナショナル)で、1919年のことだった。アメリカや日本の政界にも潜り込んでいた(日本では元朝日新聞記者・尾崎秀美を介して近衛内閣に潜り込んだリヒヤルト・ゾルゲ)が、何と言っても集中的に対象としたのは中国だった。
 1920年、コミンテルンの極東書記局が設立され、中国を含む極東地域で共産党組織を作り、暴力革命を起こさせるのが任務だった。1921年、コミンテルン極東書記局の主導により、100%の資金援助で、陳独秀という共産主義に傾倒した知識人を中心に、上海に集まった13人のメンバーが、中国共産党を結党した。結党を指導・監督したのは二人のロシア人だった。中共は創設直後から、コミンテルンの方針に従い、扇動とテロによる暴力革命の実現を中国各地で試みたが、失敗の連続で、勢力も拡大しなかった。当時の中国では、1911年の辛亥革命で樹立された中華民国が軍閥たちに乗っ取られたため、近代革命の父である孫文は第二の革命を起こし、軍閥勢力を打倒すべく奔走していた。従って中国国内の革命勢力は、孫文と彼の作った国民党を中心に結集していた為、暴力集団の中国共産党は、本物の革命派から見向きもされなかった。中国共産党の不人気と無能に痺れを切らしたコミンテルンは方針を転換し、孫文率いる国民党勢力を取り込むため、支援することにした。その目的は、民主主義共和国の建設を目指す孫文の革命を、ソ連流の共産主義革命に変質させ、中国革命そのものを乗っ取ることである。その乗っ取り工作の先兵となるのが中国共産党だった。コミンテルンは国民党への財政支援や武器提供の見返りとして、中国共産党の幹部たちが共産党員のまま国民党に入り、国民党幹部として革命に参画することを受け入れる要求であった。近代的な政党政治の原則からすれば、そんな要求は全くナンセンスで、あり得ない話が、孫文はコミンテルンの支援をどうしても欲しかったため、このとんでもない条件を飲んでしまった。今から見れば、孫文が下したこの姑息な決断が、中国と世界にとっての大きな災いの始まりであり、国民党にとって破滅の序曲となった、と石平氏は慨嘆する。
 乗っ取りの先兵とされた中国共産党は、コミンテルンの指示と斡旋によって、多くの共産党幹部は国民党に入党し、国民党中枢で重要ポストを責めることとなった。例えば譚平山という共産党員は国民党中央組織部長になり、国民党の幹部人事を牛耳った。林伯渠という結党直後に入党した共産党幹部は、国民党農民部部長となり、革命運動の重要な一環である農民運動の指導に当たった。そして国民党中央宣伝部長代行、後に部長になったのは毛沢東(13名の中共結党メンバーの一人)だった。

 共産党による国民党乗っ取り工作の最たるものは、新しく創設された国民革命軍への浸透である。1924年5月、国民党は自前の国民革命軍を一から作ろうと、コミンテルンの全面的支援を受けて、革命本拠地の広州で黄埔軍官学校を創設した。孫文によって軍官学校校長に任命されたのは、後に国民党の領袖となる蒋介石だった。そしてコミンテルンの指名で軍官学校の重要ポスト、政治部主任になったのは、周恩来だった。彼は当時、ソ連でスパイとテロ活動の訓練を受けて、帰国したばかりだった。以来、周恩来は軍官学校の中で、政治部主任の肩書と権限を利用して、教官と生徒の間に共産党員を増やし、勢力拡大に励んだ。もう一人、ソ連赤軍で軍事訓練を受けた聶栄臻という共産党員も1925年に帰国すると軍官学校の政治教官となり、周恩来の乗っ取り工作を補佐した。この人はのちに中国共産党軍の元帥となり、軍最高幹部の一人となった。周恩来の工作によって共産党員となった葉剣英は、周恩来と共に中国共産党軍の創設に参加し、中共政権成立後は元帥となって、国家指導者の地位にまで上り詰めた。軍官学校の第一期生には、周恩来の指導で共産党に入党した卒業生が多数おり、中でも徐向前と陳賡の2名は、のちに中国共産党軍の有力軍人となり、のちに元帥と大将になった。第四期生には、周恩来によって育てられた林彪という若き共産党軍人がいた。林彪はのちに、中国共産党軍が起こした天下取りの内戦で凄まじい戦功を立て、元帥に昇進し、1960年代の文化大革命時には共産党政権のナンバー2になった大物である。黄埔軍官学校からは第五期生以降も、陶鋳、楊志成、宋時輪、羅瑞卿などの共産党軍人が輩出し、この4名はのちに共産党軍の大将の階級に昇進した。周恩来による軍官学校乗っ取り工作は実に凄まじかった。この軍官学校で育った共産党員の軍人たちは、共産党軍の主要な戦将となって、同じ黄埔軍官学校出身者が指揮する国民党軍と戦ってこれを打ち破り、国民党軍と国民党政権を中国大陸から一掃した。
 中国共産党は、国民党の軍官学校を乗っ取ることで自前の軍隊を作り出し、さらにこの軍隊で国民党軍と国民党政権を倒す戦略を立てて、実際に大成功を収めた。このやり方は、がん細胞とよく似ていると、石平氏。人の身体の中で健康な細胞を呑み込み、それを栄養にがん細胞はどこまでも繁殖して行く。いずれ寄生する母体を食いつぶす、このが、中国共産党のお家芸の浸透・乗っ取り工作の極意であり、最も恐ろしい側面である、と。

 1926年、黄埔軍官学校の校長・蒋介石は亡き孫文の意志を受け継ぎ、国民革命軍を率いて軍閥打倒の北伐を始めた。その終盤の1927年4月、北伐の成果を横取りして革命を完全に乗っ取ろうとする、共産党の不穏な動きを察知した蒋介石は断固とした措置を取り、共産党勢力を国民党と国民革命軍から一掃することにした。追い詰められた中国共産党は、自前の軍隊を創建して蜂起する決意をした。1927年8月1日、黄埔軍官学校政治部主任だった周恩来と国民党中央組織部長を務めた譚平山を指導者に、国民革命軍第11軍の副師団長・葉挺が率いる部隊を主力として、共産党は江西省南昌で蜂起した。この葉挺もモスクワ留学帰りのバリバリの共産党員で、党の浸透任務を託されて国民革命軍の重要将校として潜入、一軍を率いる立場となったが、いざという時、葉挺率いる国民党軍は一夜にして共産党軍に寝返った。後に南昌蜂起と呼ばれるこの事件こそ、中国共産党軍の誕生の瞬間だった。蜂起の8月1日は今でも、中国人民解放軍の建国記念日とされている。
 南昌蜂起の部隊は、国民党軍の討伐で崩壊してしまい、その後の共産党勢力は二つに分かれて生き延びた。蜂起指導部は周恩来を中心に上海租界(外国人居留地)に潜伏し、地下活動を行うことになったが、南昌蜂起の残党の一部は朱徳という共産党軍人に率いられて江西省と湖南省の省境に位置する井崗山に行き、そこで拠点を構えていた毛沢東の山賊部隊(石平氏は言う)と合流して武装革命を続けた。その後、上海の周恩来の地下組織は、コミンテルンによる中国共産党最高指導部に認定され、井崗山にある毛沢東勢力を指導する立場になった。毛沢東たちはやがて山から降り、周辺の農村地帯で勢力拡大を図り、広域の革命根拠地をつくることになった。一方上海の周恩来の地下組織は、国民党政権に対する新たな浸透工作を始めた。この時点で第一次国共合作は既に終焉し、国民党と共産党は不倶戴天の敵同士となっているから、周恩来たちの新たな浸透工作は秘密裏に行うしかない。具体的なやり方は、党組織から絶対的に信頼を受ける優秀な共産党員が身分を隠した上で、国民党支持者に成りすまして国民党組織の中に入り込み、出世を計っていくことである。工作員がやがて組織の上官の信頼を勝ち取り、重要ポストに就いた後、共産党のために大いに役立ってもらう。この時の国民党潜入組には、後に周恩来から三傑と呼ばれる優れた工作員三人がいた。
 その筆頭は、銭壮飛という1925年に共産党に入党した医学部出身の青年である。1928年、国民党特務機関傘下の上海無線通信管理局が無線通信訓練班を開設して生徒を募集すると、銭壮飛は共産党員の身分を隠して応募し、成績一位で合格した。訓練班の中で銭壮飛は飛び切りの優秀さで頭角を現し、特務機関のボスである徐恩曽のメガネにかなった。訓練が終わると、銭壮飛はそのまま国民党の特務機関に入った。しばらくすると彼は徐恩曽の機要秘書に抜擢され、特務機関の最重要機密を知りうる立場になった。その後、銭壮飛は周恩来の指示に従って、二人の共産党員を徐恩曽に紹介し、特務機関に入れた。これで徐恩曽をボスとする国民党中央組織部調査課という特務機関の中枢には、隠れ共産党員が三人入って、がっちりチームを組み、国民党の対共産党諜報を内側から破壊する役割を果たしていく。徐恩曽が指導する特務機関の多くの計画よ行動は事前に共産党に漏れてしまい、ことごとく無力化されていった。

 銭壮飛たちはさらに、共産党のためにもう一つ大きな手柄を立てた。毛沢東・朱徳たちが江西省の井崗山周辺で革命本拠地をつくって勢力拡大を図っていたが、国民党政府はそれに対して、正規軍を派遣し殲滅作戦を展開していた。銭壮飛は通信暗号を上海の党中央を通して革命根拠地の毛沢東たちに渡した。共産党軍(紅軍)はこれで、国民党軍のあらゆる軍事展開を事前に察知できた。共産党軍はいつも、進攻してくる国民党軍の矛先を上手に避けながら、逆に国民党軍の通信内容からその軍事配置の弱点を探し出して猛攻撃を加え、国民党軍を簡単に撃破できた。1929年からの数年間、革命根拠地の紅軍が数回にわたって強大な国民党軍の殲滅作戦を粉砕することが出来たのは、ひとえに銭壮飛チームの手柄が大きい。だから周恩来は、彼らを三傑と呼び、重宝していた。そして周恩来が上海の外国人居住地にいながら、遠く離れた江西省の毛沢東勢力を指導する立場を確保できたのも、周恩来自身がこの銭壮飛チームを含む共産党のスパイ組織を掌中に収めていたからだと、石平氏。いつの時代も、情報を制する者はやはり強い。周恩来が権力闘争を無傷のまま乗り越え最後まで生き延びたのは、スパイ組織の創建者であり、多くの政敵を葬り去った毛沢東さえ、周恩来には簡単に手を出せなかった、と推測する。
 1931年4月、周恩来の直轄の部下で共産党特務機関の最高幹部の一人である顧順章という人物が、国民党に逮捕されるとすぐに寝返った。彼は共産党指導部の機密拠点の住所や周恩来など最高幹部の隠れ場所などの機密情報を、ひとつ残らず国民党特務機関に自白した。そこで徐恩曽の国民党特務機関は直ちに総動員をかけ、共産党指導部と要員たちを一網打尽にする大逮捕作戦に打って出た。しかし銭壮飛たちの行動の方が一足早かった。彼らは迅速に逮捕開始の情報を周恩来たちに届けた。共産党指導部はこれで間一発、緊急逃亡を図り、難を逃れることが出来た。逮捕部隊到着の5分前に隠れ場所から逃げ出した。この決定的な働きの後、不審に思われる立場になった銭壮飛ら三人は、一斉に国民党の特務機関から姿を消して逃亡した。また、周恩来を中心とする共産党指導部も上海から江西省の革命根拠地に逃げ込んで毛沢東部隊と合流した。
 銭壮飛らはその後も、周恩来の部下として共産党の特務機関に務めたが、銭壮飛と胡底の二人は革命戦争で命を落とし、三傑の一人である李克農だけは生き延びて、周恩来の下で共産党の諜報活動に携わった。そして中国共産党が内戦に勝利して中華人民共和国を建国すると、彼は共産党中央調査部部長、中央軍事委員会総情報部部長を歴任して共産党政権と軍の情報機関の責任者を長年務めた。

 逮捕から逃れた周恩来ら共産党指導部は、江西省の革命根拠地に逃げ込んだ後の数年間、周恩来は党のトップとして根拠地に君臨し、紅軍の指揮を執った。しかしスパイ網が壊滅してしまった以上、国民党軍の情報は入ってこない。やがて周恩来率いる紅軍は国民党軍の軍事作戦に打ち破られて根拠地を放棄せざるを得なかった。1934年秋、共産党指導部は紅軍の残党部隊を率いて、中国北部を目指して大移動を始めた。史上有名な万里の長征である。逃亡の末、最後にたどり着いたのは黄土高原にある陝西省の延安地区。そこでは劉志丹という共産党員が徒党を組み、自前の根拠地を作っていた。周恩来・毛沢東たちは、共産党同志である劉志丹の根拠地を丸ごと接収することで、生き延びる地盤を確保した。この劉志丹はしばらくしてから、対国民党軍事作戦の最前線で後ろから撃たれて戦死した。ちなみに、劉志丹の部下の一人だった習仲勲という人は、生き残って後に共産党政権の高官となったが、この習仲勲の次男である習近平は、今第三期目の中国トップに君臨している。
 1936年12月、毛沢東は周恩来が管轄する中共中央情報部特務科傘下にいる藩漢年らに、蒋介石の腹心であった張学良と接触するよう指示した。潘漢年らの巧みな説得により張学良は共産党側の要求に沿って西安に蒋介石を呼び出して監禁し、西安事件を起こした。表面的には国民党と共産党が協力して、共に日本軍と戦おうという国共合作を呼び掛けるものだが、実際は国民党軍にこれ以上共産党軍を攻撃しないようにさせ、蒋介石率いる国民政府に共産党軍兵士を養ってもらうことが目的だった。毛沢東にはさらに大きな目的があった。軍事的に国共合作をするのだから国民党側の軍事情報を共産党側が手に入れることが出来る。周恩来を通して入手した国民党軍の軍事情報を、毛沢東は潘漢年に持たせて日本外務省の出先機関である岩井公館の岩井英一に高値で売り付けさせた。毛沢東が倒したいのは蒋介石であって、その蒋介石は日本と戦っている。日本と共産党軍が提携して国民党軍を倒そうという作戦で動いていた。この時の毛沢東の作戦を「七二一作戦」と称するが、これは蒋介石には国民党軍と共に日本軍と戦うと約束したが、実際には10%だけ日本軍と戦い、20%は国民党軍との妥協に費やし、残りの70%は共産党軍の発展にために注ぐという作戦だった。毛沢東は潘漢年を通じて日本軍との停戦さえ申し出ている。新中国が誕生した時、潘漢年は逮捕され、獄死したが、毛沢東は「皇軍に感謝する」とさえ言っている。事実、毛沢東は抗日戦争勝利記念日を祝賀したことはなく、南京大虐殺などにも触れたことはない、と以前書いた。この項は遠藤誉氏の記述である。
 1937年7月当時、共産党と共産党軍の主導権は既に周恩来から毛沢東に移っていたが、周恩来は依然として党内きっての実力者であり、スパイ活動・浸透工作の総責任者でもあった。国共合作は、再びスパイ組織が浸透する対象となった。その時、共産主義を信奉する優秀な青年を選んで入党させ、身分を隠して国民党の組織に送り込むという、前回と同じ手口だった。中国共産党の諜報史上、三傑と肩を並べる大物工作員、熊向暉であった。周恩来が潜入先として選んだのは、国民党軍の屈指の精鋭部隊として知られる胡宗南の部隊だった。胡宗南は黄埔軍官学校の一期生で、校長だった蒋介石にもっとも寵愛された門下生の一人であった。卒業後は蒋介石直系の軍人として頭角を現し、36年には師団長、37年には軍団の指揮官となった。これだけでも重要な浸透対象となったが、胡宗南の身辺にスパイを送り込まねばならない理由があった。陝西省に駐屯する胡宗南部隊の最大の任務は、共産勢力の殲滅作戦だったから。周恩来たちが必死になっているとき、大学生たちの間で従軍奉仕団のような組織を作り、国民党軍への奉仕活動を行う動きが広がっていた。潜入命令を受けた熊向暉は早速奉仕団に応募、面接も高評価、胡宗南は将来有望な人材だと認定し、自分の側近として育てると決めた。国民党の中央陸軍軍官学校で勉強させ、39年3月、軍官学校から戻ってくると早速、胡宗南は彼を身辺の侍従副官・機要秘書に任命した。わずか一年余りで、中国共産党は国民党軍の重鎮の身辺にスパイとして潜り込ませることに成功した。潜入してから5年後の1943年に共産党のために一世一代の手柄を立てた。すでに述べたように、中国共産党は1937年に抗日統一戦線と称して国民党政府と連携したが、以後の6年間、共産党軍は抗日にほとんど興味がなく、自らの勢力拡大に励んだ。国民党政府の支配する地域への侵食を継続的に行い、国民党軍が展開する対日戦争を邪魔することも度々あった。こうした共産党の裏切り行為に業を煮やした蒋介石は、延安を中心とする共産党本拠地に対する殲滅作戦の再開を決意、作戦実行を胡宗南に命じた。この奇襲作戦については別の項でも扱ったが、作戦実行の開始時期は7月9日と決められた。すると、潜伏5年目の熊向暉が迅速に動き出した。彼は電撃作戦の全計画と開始時期などの機密情報を、秘密ルートを通じて延安の共産党指導部に届けた。蒋介石が胡宗南に殲滅作戦を命じた時の電報の写しも一緒に送った。

 熊向暉の情報が毛沢東の机の上に届いたのは、電撃作戦開始の一週間まえの7月3日だった。仰天した共産党指導部は、必死の緊急対策を講じた。全軍を集結させて迎撃態勢を整えたのと同時に、蒋介石が共産党軍の殲滅作戦を命じた事実を世の中に公表し、抗日統一戦線への破壊行為として糾弾した。さらにアメリカ大使館に対しても、蒋介石の殲滅作戦をやめさせるため圧力をかけるよう呼びかけた。中共のとった一連の行動は蒋介石と胡宗南にとって、青天の霹靂だった。奇襲作戦が事前にばれた以上、実行しても意味がない。国内世論アメリカなどからの圧力もあって、蒋介石は結局、この殲滅作戦を放棄し、共産党勢力を一挙に片づける千載一遇のチャンスを逃した。そして、周恩来たちが仕込んだ胡宗南への浸透工作は、肝心な時に威力を発揮し、共産党を壊滅の危機から救った。ちなみに、当の熊向暉は大役を果たした後、米国留学を口実に胡宗南から逃げ出した。中華人民共和国成立直前に帰国すると、長きにわたり周恩来の右腕として外交部門で働き、共産党の対外浸透工作を担当した。
 1983年、鄧小平が改革開放路線をスタートさせて外国資本を中国に誘い入れようとした時、熊向暉は新設された国策会社「中国国際信託投資公司」副董事長兼党書記に任命された。中国共産党からすれば、国民党の内部に潜り込むのも外国の資本を中国国内に誘い込むのも、全く同じ性格の浸透工作でしかない。だから熊向暉をその責任者にしたわけだった。
 石平氏は、興味深いエピソードも収録している。中国共産党が政権を樹立した1949年11月、首相となった周恩来は、内戦末期に共産党軍に寝返った張治中など数名の元国民党軍高級将校を宴会に招いた。宴席の途中、周恩来はアメリカから帰国したばかりの熊向暉を呼んだ。彼は国民党軍重鎮の胡宗南の側近であっただけに、張治中などは彼をよく知っていた。張治中たちは熊向暉の顔を見てびっくりし、君も共産党に寝返ったのかと聞いた。周恩来は笑いながら、彼は最初から我ら共産党側なのだと。しばらく静まり返っていたが、国民党軍の元古参幹部である張治中の口から、「そうだったのか、われわれ国民党は一体どうして共産党に負けたのか、その理由が良くわかった!」と。張治中の驚きは真実を反映したもの、中国共産党は、主としてスパイ活動や浸透工作の成功によって国民党軍を打ち破り、天下を取ったからだと、石平氏はいう。

 「内戦末期に共産党軍に寝返った張治中」と石平氏は記述するが、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』の著者ユン・チアンはこう記述する。『張治中(黄埔軍官学校で教官をしていた)は回想録の中で周恩来に中国共産党への入党を申請したが周恩来からは国民党にとどまり「ひそかに」中国共産党と合作することを求められたと書き残している。1937年7月7日の盧溝橋事件の際には張治中は南京上海防衛隊司令官の任にあり、事件の起きた華北から1000キロも南に位置する上海を場所と選んでの日本に対する「先制攻撃」を蒋介石に求めた。』『1937年(民国26年)8月9日、蒋介石の承認を得ないまま張治中は上海の飛行場の外で事件を起した。彼の指示で中国軍部隊が動き、日本軍海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺している。この際には中国軍の軍服を着せられた一人の中国人死刑囚も飛行場の門外で射殺されている。これは日本側が先に発砲したように見せるための工作であった。この事件は大山事件として知られている。』『14日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」を爆撃し、さらに日本海軍陸戦隊および地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃を行った。しかし、蒋介石は今夜は攻撃を行ってはならない。命令を待て」と張を制した。しかし命令が来ないのを見た張治中は、翌日、蒋介石を出し抜いて、日本の戦艦が上海を砲撃し日本軍が中国人に対する攻撃を始めたと、虚偽の記者発表を行った。反日感情が高まり、蒋介石は追い詰められた。翌8月16日、蒋介石はようやく翌朝払暁を期して総攻撃をおこなうと命令を出した。一日戦闘を行ったところで、蒋介石は18日の攻撃中止を命じた。しかし、張治中は命令を無視して攻撃を拡大した。8月22日に日本側が大規模な増援部隊を投入するに至って、全面戦争は避けがたいものとなった』 21世紀中国総研 矢吹晋氏はこの書を俗悪の部類だと酷評しているが、記述内容に幾つか符合する事実もある。蒋介石秘録で、蒋介石はこう記述する。「時々刻々と上海市内に向けて増強される日本軍に対抗するため、8月11日、中国軍は京滬(けいこ)警備総司令・張治中指揮下の第87師・88師を上海郊外に配置した。この二個師はいずれも5年半前の第一次上海事件で日本軍と激戦をかわした筋金入りの部隊である。すでに上海周辺では、日本の再侵略に備えた防禦工事が1935年冬から始まっていた。一帯を縦横に走る無数のクリークを利用して、上海を遠巻きするような形で、陣地が構築されていた。13日、ついに日中両軍は衝突した」と。この辺の詳細な経緯は、2018年7月の記事「これは日独戦争だ その一」で記述済みである。蒋介石にしろ、張治中にしろ、ドイツ軍事顧問団の力を借りて、日本に一泡吹かせてみたいという、下心がなかったか。いずれにしろ、張治中の回顧録があったかどうか、不明だが、石平氏の記述と照らし合わせると、ユン・チアン氏の記述も簡単に否定することが出来ないし、中華人民共和国のその後の彼の処遇を考えれば、首肯できる点も出てくる。

 石平氏の著書に戻ると、共産党が国民党軍と国民党政府を相手に天下盗りの内戦を発動したのは1946年6月のことだが、それからわずか3年余りで、圧倒的な兵力を持ち、最新鋭の米国製武器を装備した国民政府軍を完全に打つ破り、中国大陸から一掃した。この3年余りの内戦の中で、国民党軍と共産党軍の間で展開されたもっとも大きい規模の戦いは「遼瀋戦役」・「平津戦役」・「淮海戦役」の会戦である。このうち「平津戦役」と「淮海戦役」の両方で、国民党軍の中枢に入り込んだ共産党スパイの暗躍があり、そのおかげで共産党軍が勝利できた大きな要因となった。例えば平津戦役は、北平市に籠城した国民党軍司令官傅作義の寝返りで簡単に終わり、共産党軍は大砲の一発も撃たずに北京入城を果たした。その功労者は傅作義の秘書だった共産党工作員の閻又文であり、もう一人は傅作義の長女の傅冬だった。彼らは利害関係を説いたり情に訴えたりして、傅作義を寝返る方向へと導いた。平津戦役より少し前に始まった淮海戦役こそ、中共工作員が総力をあげて諜報戦を展開したものであった。国民党軍側は80万人、共産党軍側は66万人の兵力を投入した最大の開戦であった。国民党政府の国防省作戦庁の庁長を務める郭汝瑰という人物は、1928年に共産党に入党した古参の秘密党員で、国民党軍に潜伏して軍の中枢部で要職を得た。郭汝瑰は淮海戦役開始前の早い段階から国民党軍の作戦計画を共産軍側に知らせていた。会戦が始まるや否や、何基澧と張克俠の二人は長期潜伏して高級幹部となったが、国民党軍第59軍全体と第77軍の大半の兵力を率いて共産党軍に寝返り、国民党軍を攻撃する側に回った。肝心なタイミングでの寝返りは大きいな痛手となって、開戦早々から態勢の一角が崩れた。本格的な会戦が始まると、国民党軍の総指揮部の中に、1937年に共産党に秘密入党した呉仲禧という高級将校がおり、軍事機密を随時共産党側に流した。約2か月間に亙る会戦の結果、国民党軍は完膚なきまでに打ち破られ、主力部隊のほとんどを失った。この結果、国民党政権崩壊が必至となり、内戦での中国共産党の全面勝利が揺るぎない現実となった。第一次国共合作の時に国民党への浸透工作をから勢力拡大を始めた中国共産党は、内戦の最後でも、国民党への浸透工作でこれを倒し、中国大陸を手に入れた。浸透工作こそ中国共産党の全てであった、と石平氏。


蒋介石の判断・決断

2022年10月24日 | 歴史を尋ねる

 最後の関頭演説は蒋介石の決意を示すものだ。この演説は事変解決のための日本に対する最後の忠告であった、と。『盧溝橋事変が中日戦争に拡大するか否かは、ひとえに日本政府の態度にかかっている、日本軍隊の行動にかかっている。われわれは和平を希望し、平和的な外交方法によって盧溝橋事変を解決するよう努力する。だが、われわれの立場には、きわめてはっきりした四点がある。一、いかなる解決も、中国の主権と領土を侵害することは許さない。二、冀察政務委員会の行政組織は、いかなる不合法な改変も受け入れない。三、中央政府が派遣した地方官吏、例えば冀察政務委員会委員長・宋哲元らの更迭を、何人も要求することは出来ない。四、第二十九軍の現在の駐屯地区は、いかなる拘束も受けてはならない。 以上の四点は、弱国の外交の最低限度である。日本が東方民族の将来を思い、両国関係が最後の関頭に達することを願わず、中日両国間に永遠の仇恨の造成を願わないならば、われわれのこの最低限度の立場を軽視すべきでない。和平を希望するが、一時の安逸を求めるものではない』 日本は、中国政府の態度を挑戦的であると非難し、「華北の地方当局が解決条件を実行することを、中央が妨害しないよう要求する」と言ってきた。中国外交部は、「地方的な性質の問題で現地で解決できるものについても、必ずわが中央政府の許可を必要とする」と反論を加えた。 だが一方で、中央の承認なしとはいえ、現地の第二十九軍(軍長・宋哲元)と日本軍との間に協定と協定細目が存在することの事実だった。その協定細目によれば、現地軍が戦わずして北平、天津を明け渡すという最悪の事態も起こりかねない情勢だった、蒋介石はこう危機感を募らせた。現地解決に引きずられる宋哲元に対し、蒋介石は参謀次長・熊斌を北平に派遣し、主権と領土を守るために、日本軍の甘言にまどわされず、抗戦を促し、この説得によって、宋哲元も抗戦の決意を固めた。
 日本軍の作戦遂行を中国側が得た情報によれば、すでに八個師団、約16万人が北平、天津に向けて集結ないし輸送中であると蒋介石は判断した。(日本側の記録では、第一次動員《7月11日決定》は関東軍の一個旅団と在朝鮮の一個師団と航空隊で中国側の推定する八個師団をはるかに下回る) 7月25日午後4時、約百人の日本兵が装甲列車で天津ー北平間の廊防の到着、電話修理と称して、同駅を占拠した。廊防を守る中国軍が撤退を求めたが応ぜず、にらみ合いが続き、夜半日本軍は突然発砲を開始、戦闘状態に入った。(廊防は天津ー北平間の鉄道沿線にあり、このあたりの中国軍守備区域内の軍用電線が切れたので、修理部隊は中国軍の了解を取って修理にかかったが、修理中に攻撃を受けた。機関銃、迫撃砲も交えた本格的な攻撃であった。修理班についてきた部隊が応戦し、翌日飛行隊が援護し、増援部隊も駆け付け、中国軍は潰走ことが史実であった) 7月26日、廊防を奪った日本軍は、他の駅も次々占領、輸送手段である鉄道を遮断した。この日また新しい衝突事件が北平で起きた。数十台の軍用車に分乗した日本軍が、北平城広安門に乗り付け、「野外演習から戻った日本総領事館の衛兵である」と偽って、北平城内に入ろうとした。彼らは、本当は豊台に駐留する実戦部隊であった。団長はこれを見破り、門を開いて、日本軍を誘い込んだあと、一斉に銃火を浴びせた。この突然の事態に日本軍は大混乱におちいり、十数人の死傷者を出した。いわゆる広安門事件である。翌27日、日本は一斉に攻撃に出て、北平東方の通州の中国軍に襲い掛かった。午後各地も相次いで攻撃にさらされ、盧溝橋に燃え上がった戦火は、ついに北平周辺一帯に、一斉に燃え広がった。28日午後、宋哲元は北平市長・秦徳純、師長・張自忠らと緊急会議を開き、北平を死守するか、放棄するか、選択を迫られ、文化の古城を戦火で灰にするのは忍びないとする声が圧倒的で、ついに北平放棄が決まった。天津の中国軍は最後の抵抗を試みるが、日本軍の爆撃と砲撃にさらされ、30日天津を放棄した。北平、天津の戦いによる第二十九軍の死傷者は五千人を超えた。(広安門事件の日本側の記録はこうだ。廊防事件を受けて、香月軍司令官は事件を東京の参謀総長に報告し、自由に兵力を使用させてほしいと要望し、参謀総長は許可した。石原作戦部長は「徹底的に膺懲せられたし。上奏等一切の責任は、参謀本部にて負う」と通告した。不拡大派・石原の最初の譲歩だった。香月軍司令官は宋哲元に対し、北京付近からの撤退を28日正午という期限付きで通告し、出来なければ武力で訴えると警告した。そうした中、北平居留民保護の為に日本軍広部大隊は26台のトラックで北平城内の日本兵営に向かった。事前に松井特務機関長が部隊の北平外城広安門通過について、冀察政務委員会当局と交渉して秦徳純市長の承諾を得た上で、連絡の為に冀察政府軍事顧問桜井少佐が午後6時頃広安門に赴くと、門を警備していた中国軍が城門を閉鎖していたため、開門について交渉した結果午後7時半頃開門され部隊が門の通過を始めたが 、部隊の3分の2が通過した時に突如門が閉ざされ、広部部隊を城門の内と外に分断した状態で不意に手榴弾と機関銃の猛射による攻撃を加えてきたため、広部部隊も門の内外から応戦した。中国側は兵力を増強して大隊を包囲し、一方豊台の河辺旅団長により午後9時半救援隊が派遣されたところで折衝により中国軍は離れた場所に集結し、広部部隊の内、城内に入ったものは城内公使館区域に向かい、城外に残されたものは豊台に向かうという案がまとめられ午後10時過ぎに停戦し、広部部隊は27日午前2時頃公使館区域の兵営に入った。この戦闘における日本軍の死傷者の合計は19名で、その内訳は戦死が上等兵2、負傷が少佐1、大尉1、軍曹1、上等兵2、一等兵1、二等兵7、軍属2、新聞記者1であり、桜井顧問に同行した通訳1名も戦死している。当時、既に中国軍は河北省南部の石家荘・保定や山西省の大同に多数集結し、また豊台においては完全に日本軍を包囲しており、その一方で日本軍も新たに動員された関東軍・朝鮮軍の部隊が北平・天津地区に到着しつつあり、両軍の間で緊迫の度が高まる中で起きた事件であった。

 この事件は、直前に起きた廊防事件とともに中国側の規範意識の欠如と残酷な面を見せつけ、中国側に対して全く反省を期待できない不誠意の表れであり和平解決の望みが絶たれたと判断した日本軍支那駐屯軍は7月27日夜半になって前日の通告を取消し、改めて冀察政務委員会委員長であり、二十九軍軍長でもあった宋哲元に対し「協定履行の不誠意と屡次(るじ)の挑戦的行為とは、最早我軍の隠忍し能(あた)はざる所であり、就中(なかんずく)広安門に於ける欺瞞(ぎまん)行為は我軍を侮辱する甚(はなは)だしきものにして、断じて赦すべからざるものであるから、軍は茲(ここ)に独自の行動を執(と)る」ことを通告し、さらに北平城内の戦禍を避けるために中国側が全ての軍隊を城内から撤退させることを勧告した。日本軍支那駐屯軍は28日早朝から北平・天津地方の中国軍に攻撃を加える為、必要な部署を用意し、河北の民衆を敵視するものではなく、列国の権益とその居留民の生命財産と安全を図り、中国北部の獲得の意図がないことを布告し、これと同じ内容が内閣書記官長談として発表された。駐屯軍は28日から北平周辺の中国軍に対し攻撃を開始し、天津方面では28日夜半から中国軍の攻撃が開始され、各方面で日本軍が勝利し2日間で中国軍の掃蕩が完了した。7月29日には、在留日本人数百人が「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)に虐殺される通州事件が起き、日本世論は激昂することとなった。)

 以上詳細な経緯を見てきた。盧溝橋事件後の蒋介石の判断は、当然中国軍側からの報告による事件の真相によって、日本に対する戦意を高めている。しかし日本側の記録によると、全く逆さまな事実関係が浮かび上がる。尚且つ、蒋介石は現地解決を否定している。真相が正しく伝えられず、現地解決を否定する事は、由々しいことである。そして、日中戦争を解説する日本の出版本にはほとんど触れられていないが、『日本軍支那駐屯軍は28日早朝から北平・天津地方の中国軍に攻撃を加える為、必要な部署を用意し、河北の民衆を敵視するものではなく、列国の権益とその居留民の生命財産と安全を図り、中国北部の獲得の意図がないことを布告し、これと同じ内容が内閣書記官長談として発表された』という記載がウキペディアにある。引用先は「戦史叢書」である。蒋介石が一番気にかけていた、河北省の領土と主権の侵害について、その意図がないことを、布告し、内閣書記官長談として発表している。蒋介石の耳には達していないだろう、秘録にその記述はない。こうした事実をおもてに曝してみると、蒋介石政権下の各勢力(特に中国共産党)の駆け引き、陰謀が渦巻いているように見える。蒋介石の叱声を恐れる幹部の報告も、結果的に日中戦争に追いやる結果に働いているようだ。

 もう一つ見ておきたいのが、塘沽協定である。1933年(昭和8年)5月31日に、河北省塘沽において日本軍と中国軍との間に締結された停戦協定である。これにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。この時の戦闘経緯が、蒋介石にとって、日本が満州はおろか、華北地区にも侵略し、ついには中国全土の侵略を目論んでいると、判断するに至ったと筆者には推測されるからである。詳細に亙るが、ウキペディアによる情報をベースに考えてみたい。
 熱河は清朝の夏の別邸地域として歴史上有名であるとともに満州と中国本土の間にくさびのように存在し、その狭い終端は山海関で海に向かっていた。この地は満州国の建国宣言では満州国の一部とされ、塘沽協定が締結された当時、その山間地は北京(北平)を含む中国北部を威圧する場所としても、あるいは満州へ軍隊、扇動家、プロパガンダ工作員を送り込む場所としても重要であり、またアヘン栽培による収益が当地の価値を高め、その地理上の位置が戦略的・政治的に重要なものとなっていた。この地を支配していた湯玉麟は、かつては張学良の部下だったが、満州国の建国宣言に署名し、熱河省長に就任していた。湯は正規・不正規軍の両方を併せて2万を越える軍を率いていたが、南と西からは張学良の軍事力、さらに万里の長城に迫りつつあった日本軍の軍事力の脅威の狭間にあった。蒋介石は湯玉麟の関心は地盤としての熱河省とアヘンの販路としての東北地域の確保と見ていた。 張学良はこの地から産出され、天津と北京に流れるアヘンをさばくためにアヘン販売局を設けて莫大な利益を上げ、自身の満州国における工作活動資金としていた
 1932年7月17日、関東軍嘱託の石本権四郎が熱河省内朝陽寺で拉致される事件が発生したため(朝陽寺事件)、第8師団は石本を奪還するため翌日同地に赴いた。関東軍では同事件をきっかけに、内地からの増援を受け、熱河省の軍事制圧を検討していたが、眞崎甚三郎参謀次長からは「性急な行動は慎むよう」指示された。事件に対し、中華民国外交部は矢野真臨時代理公使に対して「匪賊による列車強盗に対しわが軍が治安出動していたところ、日本軍より攻撃を受けた」として抗議を行ったが、日本側は「治安維持のための出動であり、日本軍に威嚇射撃などを行った中国側に非がある」と反論した。日本側の報道によると石本は張瑞光に率いられた約300名の匪賊に襲撃され、不思議なことにその場からただ一人拉致されていた。拉致実行者たちが遺棄した書類から彼等が7月16日に張学良からの「石本等が熱河省内朝陽において活動しつつあるから彼を捕縛せよ」との命令を受けて行動したことが判明した。7月19日には熱河政府代表が日本の要求を受け入れ、石本の救出に努力する事と今後は問題を起こさない事を約束したが、8月23日南京政府軍事委員会は北平分会に「日本軍よりの石本引渡し要求を拒絶すべし」と電命した。 石本は熱河省におけるアヘン問題について熱河当局と交渉を行っており、日本側は「アヘンからの収入を失うことを恐れた張学良が朝陽寺事件を起こした」と判断した。石本は翌1933年3月18日に朝陽東方4kmの地点で遺体となって発見され、検死の結果1932年12月20日頃匪賊によって殺害されたことが判明した。遺体発見1週間後の3月25日には石本の陸軍葬が行われた。朝陽寺事件が長期化する一方で、蒋介石は張学良に対し熱河に進軍し、湯玉麟を中国側に引き戻すよう圧力をかけることを要請していた。張学良と中央政府との対立を発生させながら、10月に入ると、中国軍が熱河へ集結を開始した。さらに日本側も12月に第6師団の増派を得て、熱河作戦の実施が迫りつつあった。蔣介石は12月25日、さらに中央軍6個師団の増派を進めていることを張学良に知らせている。

 日本は義和団の乱の際に結ばれた北京議定書においてロシアを意識した要求を行い、万里の長城の東端に位置する山海関とその西南15kmにあり不凍港として重要視される秦皇島などに駐兵する権利を得ていたため、この時期の山海関には北寧鉄路南側の兵営に歩兵100人と工兵の小部隊を駐留させ砲台を4基設けるとともに秦皇島には守備隊約50人を駐屯させていた。1933年1月1日午後9時20分頃、山海関南門外日本憲兵分遣所構内、同憲兵分遣所長宿舎、奉山線山海関駅日本軍鉄道看視哨所及び満州国国境警察隊付近に手榴弾を投じ、小銃射撃を加えた者があり、日本軍守備隊は直ちに警戒配置につき、中国側とは協定を結び小康状態を保っていた。1月2日午前11時頃日本軍守備隊は協定に基き南門の処理に向かおうとしたが、中国軍が依然南門付近にあって不法に突如射撃を加えてきたため兒玉利男中尉が戦死し、他に数名の負傷者を出した。日本側の報道によると日本軍守備隊は自衛上やむなく応戦し、午後3時30分以後山海関付近の中国軍と戦闘を開始して奉山沿線にあった関東軍の一部を増援として得た。陸軍省は、これは当時、張学良が盛んに熱河省並びに山海関付近において反満抗日の行動に出つつある情況から、中国側官憲が日本の国際的地位を不利にするため行った計画的挑戦であることが明らかであると発表した。支那駐屯軍司令官中村孝太郎中将は1月2日午後11時30分北平歩兵隊長粟飯原中佐を通して張学良に対する軍司令官の警告を手交し、日本人居留民は山海関及び秦皇島とも守備隊兵営に収容し保護された。1月3日、日本軍爆破隊は山海関沖にある駆逐艦からの艦砲射撃、緩中から飛来した航空機の爆撃の援護を得て山海関南門を爆破すると、戦車隊と守備隊の一部が突撃して中国軍を撃退し、11時55分日章旗を揚げた。両軍の歩兵は同等だったが日本軍は駆逐艦「芙蓉」と「刈萱」からの艦砲射撃に加え、19門の野砲、7機の航空機で中国軍の軽・小火器と対峙したため、圧倒するに至った。日本軍はこの戦闘後も中国側内部に侵攻する動きを見せず、日本軍司令官からは停戦の申し入れがなされた。一方、日本側の報道によると近くの秦皇島にいた中国軍は山海関陥落の報に逃げ腰となり中国人街一帯にわたって恣意的な徴発(略奪)を行ったため中国住民は恐慌をきたし、さらに避難した日本人居留民の家屋からも一物も残さず略奪していた

日本軍の山海関南門攻略に関する報道は日本側と中国側で異なっていたが、外国の信頼できる情報源の多くは日本側の報道を支持した。 山海関事件について当時のロンドン・タイムスは、日本は最終的に熱河省から無法者を追い払う意図を決して隠したことはないが、この事件を中国側の挑戦によるものとする日本側の主張は現場近くに日本の軍隊がいなかったという事実と戦闘が始まった時には第二師団が釜山から日本に向けて出航していた事実によって裏付けられるとし、「中国側が西欧列強の支援を得るためのものではないか」と論じた。同じく英国のデイリー・メール紙は事件は主に張学良によるもので彼は国際連盟が日本に対して実力を行使することを期待したのではないかと論じた。 中国側は日本軍による山海関占拠の合法性を認めなかったが、ロンドン・タイムズは「1901年に調印された北京議定書に基いて占拠している日本軍に対して中国軍が攻撃的態度を取ったことは中国軍の責任であり、日本側が侵略されたとして防御するのは当然の権利」と説明している。

 1933年2月9日、張学良は熱河攻略を決意し、南京政府も加わった多数の正規軍を熱河に侵入させたため、満州国は2月18日に熱河討伐を決定し、張景恵を総司令に任命。同日関東軍も日満共同防衛の立場から熱河征討の声明を発表した。2月21日、満州国政府は「張学良正規軍、義勇軍が満州国内の熱河省に侵入して要地の占拠、住民からの略奪、婦女子への暴行という不法行為を繰り返して満州国の治安を混乱させ、国の独立性を危うくしている」としてその不法行為を詰問した。同時に「不逞分子」の24時間以内の国外退去を要求し、これに応じない場合には断固実力をもって掃蕩を行うとの最後通牒を翌日発することも決定した。翌22日には日本政府も南京政府に対して熱河省における反満抗日行為の中止と中国軍の即時撤退を要求し、応じない場合には「自由行動」を取ることを宣言した。日満連合軍は協力して熱河省に進攻し、2月24日には熱河省の北の都である開魯を占拠、3月4日には熱河の省都承徳に入城した。同日関東軍司令官武藤信義は「長城ノ重要関門ヲ確保シテ北支方面ニ対シ戦備ヲ整ヘ」るよう指令した。張学良は蔣介石との会談の上、3月12日に敗北の責任を取って軍事委員会北平分会代理委員長を辞任し、同時に蔣介石の念願通り、張学良指揮下にあった東北軍は解体され、4人の軍長とする四個軍に改編され、中国北部に対する中央の支配力確立の端緒となった。一方、満州国軍総司令張景恵は3月13日新京に凱旋した。 
 5月25日何応欽はその代理徐燕謀を通して関東軍司令官に正式停戦提議を渡した。5月31日午前11時11分、塘沽において日本側代表、陸軍少将岡村寧次関東軍参謀副長は中国側代表、陸軍中将熊斌と以下の内容の停戦協定を調印した

  1. 中国軍は速かに延慶昌平高麗営順義通州香河宝坻林亭口寧河蘆台を通する線以西及以南の地区に一律に撤退し爾後同線を越えて前進せず
    又一切の挑戦攪乱行為を行うことなし
  2. 日本軍は第一項の実行を確認する為随時飛行機及其他の方法に依り之を視察す
    中国側はこれに対し保護及び諸般の便宜を与うるものとす
  3. 日本軍は第一項に示す規定を中国軍が遵守せる事を確認するに於ては前記中国軍の撤退線を越えて進撃を続行する事なく自主的に概ね長城の線に帰還す
  4. 長城線以南にして第一項に示す線以北及以東の地区内に於ける治安維持は中国側警察機関之に任ず
    右警察機関の為には日本軍の感情を刺戟するが如き武力団体を用ふる事なし
  5. 本協定は調印とともに効力を発生するものとする

南京政府は同日午後3時より緊急会議を開き、停戦協定成立が報告されると満場一致で承認した

 以上が塘沽協定に関わるウキペディアの解説である。当時の東京朝日新聞や戦史叢書より作成されている。蒋介石は秘録でこの事件をこう切り出している。
 国際連盟はクリスマス休暇に入った1933年1月1日、日本軍はついにことを構えて山海関を攻撃、3日には山海関を奪取した。九・一八事変(満州事変)と同じように、日本軍は密かに鉄道爆破事件を起こし、それを口実に山海関を占拠したのである。このニュースが伝えられて、国際連盟(リットン調査書の審議中)の空気は一変、大勢は日本不利に傾いた。英国の対日態度も変わり、ルーズベルトの方針を支持した。国際連盟特別十九人委員会は、ついに日本との調停を打ち切り、2月14日、総会報告書案を審議可決、2月21日に臨時総会を開催するよう要請した。この十九人委員会の総会報告書の大略は次の通り。①東三省(満州)の主権は中国に属する。②日本が東三省で得た権利は、それぞれ中国の主権の行使を制限している。③日本は連盟規約第十条の規定に反して中国の領土を占拠し、更にこれを独立させた。④9・18当夜の日本軍の行動は自衛ではない。たとえ現地の軍官が自ら自衛と信じているとしても、あの瀋陽城内やその他の場所での行動は決して自衛ではない。⑤満州国の組織は日本の参謀本部の援助と指導を受けており、満州国が存在できるのは、日本軍がそこにいるからである。故に満州国は民族自決運動によって成立したものではない。⑥9・18以降の情勢の発展に対して、中国に責任はない。⑦中国は必ずしも排外的ではない。 総会報告書案の内容は、おおむね満州が中国の主権下にある事を認め、ニセ満州国の不承認を表明したものであった。蒋介石はこう日記で記載する。これによって、日本は態度を変えて熱河攻撃を手控えるだろうか、いまはその侵略政策の変更は望めないだろう。あとへ引けないところまで追い詰められた日本は、世界の良識に逆らって、あえて破滅の途を選んだのである、と。2月24日、問題は採決に持ち込まれた。採決の結果、賛成42,反対1(日本)、棄権1(タイ)の圧倒的多数で、総会報告書案の採決が決まった。
 二つの件をつなぎ合わせると、手榴弾を投げ込んだのは蒋介石軍側の謀略としか思えない。国際連盟の審議を有利に持ち込む策だったのか。日本軍が目先の事件に対して、すぐに反応してくることは、蒋介石の戦略の中には読み込まれていたから。しかし、この塘沽協定の経緯をつぶさに見てくると、蒋介石国民党軍は満州に一歩たりとも足を踏み入れたことはない。張学良軍は熱河で挑戦するが、満州軍に押し返された、当然日本軍のサポートがあった事は認めるが。蒋介石による日本の侵略政策反対は国際社会を味方に引き入れるスローガンのように聞こえる。


戦火絶えざる社会をつくった根本原因と反日悔日の挑発にはめられた日本

2022年09月26日 | 歴史を尋ねる

 

 日本人の知っている中国は、漢文の世界、論語の世界、そして中華人民共和国の世界ぐらいで、最近やっとユーチューブの世界で、中国の生情報に触れられるぐらいである。中国の歴史を学んだとしても、易姓革命の中国の歴代国家の変遷を知るぐらいで、後は遣隋使、遣唐使での文物の導入ぐらいか。生情報に触れる機会は本当に少ない。さらに戦争中から以降はプロパガンダ情報が飛び交い、実状を知る機会が意外と少ない。そこは黄文雄氏、率直に中国の歴史を紐解いてくれるので、「日中戦争は侵略戦争でなかった」「近代中国は日本が作った」という著書を手掛かりに、もう少し中国を掘り下げていきたい。

 220~316年◆三国時代から五胡十六国時代へ 「悲惨な時代だった三国時代」という章立てで、後漢末の2世紀中ごろ約5000万人を数えた人口が三国時代の初期には3国合わせて約500万人に激減している、とある。これは『時代の流れが図解で分かる! 早わかり世界史』宮崎正勝著にある。飢饉に喘いだ時期で、184年に大農民反乱・黄巾の乱がおこり、後漢が衰退して、群雄割拠の時代に入っていった。洛陽の近辺でも「人あい食み」「老弱は道路に棄てられる」という悲惨な状態となった、と解説する。それにしても5000万人から500万人はいくら何でもないだろうとウキペディアに当った。「当時の記録を見る限りでは、黄巾の乱から続く一連の戦乱、虐殺、農民の離農、悪天候や疫病などにより、中国大陸の人口は大きくその数を減らしている。例えば、後漢末の恒帝の永寿3年(157年)に5648万を数えた人口が、三国時代には818万人の半ばになっており、およそ7分の1になるまでの減少である。数値が減った理由として、上述の要因の他に、屯田民は地方官ではなく典農官の管轄であったため郡県の人口統計に上がらなかった、流民が戦乱を避けて流浪中に豪族の私民になり戸籍を外れた、など統計漏れが増えた可能性も指摘されている。しかしそれでも、大陸の統一が崩れてから再統一がなるまでに、それ以前の中国史上の前例である秦末(楚漢の攻防)や前漢末(赤眉・緑林の乱)とは比較できないほど時間を要していることや、この時代の少し後に大陸周辺異民族の大規模な集団移住(五胡十六国)が起きていることから、やはり、数値は額面どおりではないにしても、相当程度の人口減少と人口希薄地帯の登場が起こった、とする見方もある、と解説する。当時中国では戸籍制度が出来上がっていた。その戸籍からの推計である。この辺の解説を、黄文雄氏は次のように言う。
 中国の内戦・内訌の根源的な原因は、有限資源の争奪である。これについて早くも二千年以上も前の『韓非子』が、「昔は人口が少なく資源が豊富だったが、現代は人口が増え物不足になっている」と指摘している。中国社会では、戦国時代にすでに人口過多(推定人口約三千万)で過当競争が起きていた。それだけ紛争が絶えなかった。三国時代、魏から西晋を建国、呉を破って統一を実現したが、辺境の遊牧騎馬民が自立し、五胡と呼ばれるモンゴル系、ツングース系、チベット系の遊牧民が黄河流域を占領して次々に国を建て、五胡十六国時代に突入した。近現代においても18世紀末の白蓮教徒の乱以来、争乱が一世紀半以上も続いた。なぜそうなったか、内戦一つ一つの発端を探るよりも、当時の社会的な背景を見なければ分からない。日本列島は水と緑に恵まれ、人と自然の共生関係がうまく機能している。反対に中国では、古代から人間と自然、人間と社会との関係は均衡を失っていた。このため早くも紀元前から自然崩壊の現象が記録されている。中国の歴代王朝末期、天下大乱が起き、巨視的に見れば国家の興亡という歴史の一コマだが、この大乱の特徴は戦乱だけではなく、飢饉であった、と。ほとんどの戦乱の背後には水源、耕地、森林といった有限資源の争奪があったが、その争奪の最大の原因は山河の崩壊による資源枯渇である。とめどない森林伐採の所為で保水力を失った大地が水害を引き起こす。水害のあとは旱魃の多発、こうして大地が砂漠化してゆき、生態系が崩壊することによって人間社会、経済も崩壊に向かう。王朝の交代期には必ず飢饉があるのは、自然環境的な要因がある。中国史は、国土の生態系という角度からも見なければ分からない、と黄文雄は言う。
 もう一つ自然現象の面から中国史を見ると、戦乱の多発だけではなく、頻発する天災の数においても人類史上例を見ない国であることがわかる、と。歴史家の鄧雲特は『支那救荒史』で統計を示している。商の湯汪18年(紀元前1766年)から1937年の3703年間、記録された水害、旱魃、蝗害、雹、台風、地震、大雪などの天災だけで5258回もあった。これを平均すると約八か月に一回の割合だ。そのうち旱魃は平均して三年四ヵ月に一回、水害は三年五か月に一回という高頻度だった。この記録のうち、比較的信憑性の高い漢帝国の成立(紀元前202年)から1936年での2142年間を見ても、災害総数は5150回に達している。水害は1037回、旱魃は1035回で、それぞれ2年に一回の頻度だ。しかも時代と共に改善されるどころか、かえって悪化している。天災の回数は紀元一世紀が69回、二世紀が171回、11世紀が263回、14世紀は391回、17世紀が507回・・・と、エスカレートの一途である。中国史をグローバルに見る場合、弧のような自然現象とそれにリンクする社会・経済の歴史的側面を見るのが非常に重要である、と。繰り返し取り沙汰される「日本軍の侵略と略奪」であるが、天災と飢餓が繰り返される中国で何を略奪したというのだろう。毛沢東自身も「一窮二白」(貧しくて文化も遅れている)と形容した極貧社会だったというのに。むしろ日本軍は占領地で住民社会の安定を図った”神”や”解放軍”として歓迎された例が少なくなかった。現に蝗害を撲滅したある部隊長が神と崇められ、軍服・眼鏡姿の神像で、守護神として祀られた例すらあった、と。

 中国の農民は戦乱のたびに難民となって流浪、逃亡し、天災、飢餓のたびに流民として噴出し、四散してきた。歴代王朝の末期には、つねにこの流民パワーが合流して巨大潮流となり、流賊・流寇の勢力となって横溢した。彼らの中から天下を睥睨する者が現れ、王朝交代、易姓革命の原動力とさえなった。しかし流民が、すべてが巨流に発展するとは限らない。ある者は中国から脱出し、周辺の化外の地に流れて化外の民となり、棄民となる。こうした棄民たちが定住した地を今度は中華帝国が狙い、「天下、王土に非ざるものなし」として呑み込む。このようにして中国の版図は拡大していった。そもそも中華の民とは、黄河の中流域の「中原」と呼ばれる地域に居住し、黄河文明と共に発展・拡大した漢民族を指す。秦・漢帝国の時代には、揚子江以南は未開の地で、「越蛮」「楚蛮」などと呼ばれた。人口の九割は黄河流域に集中していた。下って六朝・魏晋南北朝の時代になると、中原の民は北方の騎馬民族(匈奴・鮮卑・羌・羯・氐のいわゆる五胡)に追われ、江南などの拡散した。隋・唐の再統一時代には江南も帝国の版図に組み込まれ、中国化した。その後、戦乱と飢餓のたびに帝国内から流民が周辺に流れ込み、明末から清初にかけて西南の雲貴高原へ、清中期から末期にかけては東南アジアへ、清末からは満州・内蒙古へ、そして中華人民共和国の成立後は新疆へ、文革以降はチベット高原へと、弧を描いて噴出し続けた。これをA・トインビーは「平和的浸透力」と称しているが、どこが平和的なのかと、黄文雄氏は疑問を挟む。中国人流民は海を越えて西部開拓時代のアメリカにも流入、現代の改革開放後は人民公社が解体され、内陸の貧民農民が流民化し、「盲流」(のちの民工)となり、裕福な沿海都市部になだれ込んだ。
 満州事変の直前にあたる1928~30年の西北大飢饉については、当時の日本政府も重大視し、二つの調査団を派遣している。陝西省救済委員会の調査報告では、この間、37県の婦女のうち土地を離れた者が百余万人、売られた者が七十余万人、陝西省だけでも人口の六分の一にあたる約二百万人が流民となって省外へ流出している。なお、中華民国政府の公報によれば、この大飢饉による餓死者は一千万人だったという。陳振鷺の被災民調査統計によれば、1927年の華中水害で九百万人、28年の西北大旱魃で三千四百万人、29年の華中水害で五千四百万人、30年の風害・蝗害で三千万人、31年の水害で八千万人、32年の冷害・旱魃で六千万人の被災民が出ている。これらの被災民は流民として四散するか、売られて奴隷労働をさせられるか、もしくは兵士か匪賊となった。このように満州事変から盧溝橋事件前夜にかけての時期、華北と華中は文字どうり絶え間ない天災と飢餓に晒され、これに実質上の無政府状態と相俟って社会は崩壊していた。日本軍はこうした状況の下で中国側の罠にはまり、内戦に引き込まれていく、と黄文雄氏。
 伝統的に中国には三つの社会があった、と。一つは国家権力が支配する都市、もう一つは地主が支配する農村、そしてもう一つが水滸伝に描かれる江湖の社会という義侠・盗賊が跋扈する世界だった。現代中国で農民革命の英雄になっている唐末の黄巣、明末の李自成も有名な流賊、清政府は太平天国軍を「粤匪」、孫文ら革命党の中心人物を「四大寇」と呼んだ。国民政府も共産党を「共匪」「毛匪」あるいは「朱毛匪幇」と呼んでいた。
 十九世紀に入ると、中国の戦乱と飢餓は加速的に拡大した。1810年の山東大旱魃、河北大洪水、浙江大地震、湖北雹害で死者九百万、翌年甘粛大疫病、四川大地震により死者二千万人。1849年の全国的な大飢饉が千三百七十五万にたっし、1876年から78年の大飢餓では九百五十万から千三百万が餓死したと記録されている。二十世紀に入ってからも大飢饉は年々全国各地を襲い、1930年~32年の西北大飢饉では死者が一千万人を超えた。1960年前後の大躍進政策の失敗から文化大革命発動までの時期にも、一千万から二千五百万の餓死者が出たと推定されている。こうした大飢饉で見られるのが食人現象だった。1930年の陝西、甘粛での大飢饉当時の中華民国政府公報によると、「住民ははじめ樹皮を食らい、続いて子女を売り、ついに道端の屍肉を切り取って食べた。最後は生きている人間までも食べた」という。日中戦争中、米国人記者の著書にも書かれているし、パールバックの小説「大地」にも書かれている。魯迅の小説「薬」は血饅頭をテーマにしたもので、「狂人日記」のテーマも食人であった。

 日中戦争の原因について中国人が関心を持つのが日本の陰謀論である。たしかに日本の情報機関は様々な画策をしていたが、国としては対中戦争の計画も準備も皆無だった。日露戦争以降、中国の政治・軍事指導者はみな、中国は日本軍の一撃に耐えられないと観念していた。それは国力の問題であり、内戦を抱えているという事情もあった。だから蒋介石の「先安内、後攘外」は現状分析にもとづいたものだった。日本にとっての最大の仮想敵国は、中国の北方で虎視眈々と構えているソ連だった。日露戦争後、日本の国家戦略は、対英米でもなく対中でもなく、ひたすらソ連に向けて構築されていた。それは当時、世界中で猛威を振るっていた共産主義への防衛を最優先していたからだともいえる、と黄文雄氏。しかし日本側の事情はどうであれ、中国では日本が保持する山東半島の権益に対する返還要求が、学生を中心に北京や上海などの大都市で排日・悔日運動が慢性的に継続され、広がっていった。キッカケは第一次世界大戦後の講和会議で返還要求が否認され1919年の五・四運動だった。各地の集会では「対日宣戦、永久反日」の標語が登場、国民党中央常務委員会では「少年義勇軍」、「青年義勇軍」が組織された。学生たちは蒋介石の対日姿勢を弱腰として批判し、宣戦布告を要求した。もちろんその背後には中国共産党の扇動もあり、あるいは反蒋各派の実力者の影もちらついた。蒋介石による1926年の第三次共産党包囲討伐作戦のさなか、棍棒を持った学生デモ隊が「打倒日本、打倒国民党」を叫びながら国民党中央本部に押し入り、軍が出動する騒動もあった。その後、五・四運動以来の反日学生運動は国民党によって撲滅されたが、1935年の北支自治運動を受けて復活する。スローガンや手口は共産党のそれと符合しており、同党の使嗾(しそう:そそのかし)があった事は疑いない、と黄氏。この年12月9日、北平(北京)で行われた学生デモは警察と大衝突し、これをきっかけに全国に抗日運動が盛り上がった。
 中国の排日運動を象徴するものとして、湖北救国界の「排日十大方針」が挙げられる。①日貨を買わず・用いる、②日貨を積まず、③日本船に乗らず、④日本人と往来せず、⑤日本人に雇われず、⑥日本人を雇わず、⑦日本系銀行に預金せず、⑧日本人に食料を提供せず、⑨日本に留学せず、⑩日本で商売せず、などだった。一見して、一方的・差別的な日本人排斥運動だった。こうした反日機運が高まるにつれて、ラジオは朝から晩まで抗日一色、国民運動のほか、講演、映画、学校教育、唱歌を通じてマインドコントロールが行われた。全国規模の大飢饉が発生し、四川省などで餓死者が出て、各地で土匪が蜂起した時も、「日本軍国主義の仕業」との噂が流され、民衆の戦意はますます高揚、激発する有様だった。
 満州事変(1931年)は反日感情に新たな火を点けた。それから盧溝橋事件(1937年)までの六年間は、中国にとって抗日戦争の準備期間、反日運動はエスカレートし、日本製品の不買だけではなく、「日本人を見つけしだい殺せ」と書かれたビラなどが撒かれ、実際日本人へのテロ事件が発生するようになった。1936年8月4日、四川省成都を訪れた大阪毎日新聞特派員と上海毎日新聞記者が大群衆に襲撃され、殴り殺された。二人は身ぐるみ剥がされ、顔面はつぶされた(成都事件)。続いて9月3日、広東省北海市で進駐してきたばかりの第十九路軍所属の「抗日救国軍第一師」が市内で「打倒日本賊」「打倒蒋介石漢奸」と書かれたビラを撒き、その一部が丸一洋行を襲撃し、日本人店主を殺害した(北海事件)。翌4日には漢口で日本領事館勤務の巡査が白昼狙撃され、死亡した。中国政府がこうした動きを取り締まれず、日本人居留民を保護できない以上、日本軍みずから出動する以外に方法はない。このようにして日本はまんまと中国の挑発に嵌められた。
 当時の日本政府は、これら一連の事件にも拘らず両国関係を改善すべく、直ちに中国側と国交調整交渉に乗り出した。交渉は駐支大使・川越茂と外交部長(外相)・張群によって行われ、諸事件の前後処理のほか、日支防共協定の締結や中国側の反日運動の取り締まりなどについて話し合われた。しかし同じ36年11月の「綏遠事件」の発生で、両国政府の努力は挫折した。綏遠事件とは、反漢主義から蒙古自治を目指して関東軍に接近した徳王(モンゴル族の王公の一人)の内蒙独立軍と反蒋派軍閥・王英の軍で編成された蒙古軍が、南下して綏遠の軍閥軍を攻撃したものの、惨敗を喫した戦いを指す。この蒙古軍に関東軍の田中隆吉参謀が個人的に関与していたことから、「関東軍撃滅」と宣伝され、中国国内を狂喜させた。反日世論は頂点に達し、国民党が対日攻撃を宣言する事態にすら発展した。こうして中国政府内では張・川越会談の中止を求める声が圧倒的になった。また、「反日」「抗日」は、反蒋介石勢力にとって格好の大義名分になった。とりわけ敗色濃厚だった共産党にとって、「抗日」を全国に呼び掛け、民衆に反日行動を扇動するのはサバイバルの絶対必要条件、窮余の一策だった。1933年、蒋介石軍による五回目の包囲討伐を受けた彼らは、瑞金中央ソヴィエトから脱出し、翌年6月中旬「北上抗日」を宣言したが、蔣介石軍の追撃や爆撃を受け、進路を西南に変え、大迂回して四川、陝西へと敗退した。この逃避行を共産党は「長征」との美名で呼ぶが、実際には国民党の言うごとく、「大流鼠」に他ならなかった。崩壊寸前の共産党は、何としてでも蒋介石と「先安内、後攘外」の方針を改めさせ、「共同抗日」によってこの内戦を停止させたかった。同時に蒋介石に抵抗する二大勢力、西北軍の慿玉と山西軍の閻錫山も「反蔣抗日」を全国に打電して呼び掛け、中華安国軍を組織して独立を宣言した。そして綏遠事件発生後のひと月後、1936年12月12日、「西安事件」がおこった。

 共産党軍の討伐に当っていた張学良を督戦するため陝西省西安を訪れた蒋介石は、張学良と西北軍の楊虎城の造反にあって逮捕監禁され、共産党との「一致抗日」を迫られた。西安には共産党の周恩来や葉剣英らも乗り込んできた。この時共産党が蒋を殺さなかったのは、天下に号令できる実力者は彼を措いて他にいなかった、と黄文雄氏は推察。中国の赤化を望むソ連にしても同じ考え方だった。ここで蒋に死なれては、抗日戦はおぼつかない。まずは戦わせ、そのあとで共産党に天下を取らせたかった。だからスターリンも「蒋を殺すな」と共産党に打電している。結果、蒋介石は生き延びて、周恩来らと「共産党討伐の中止」と「一致抗日」を約束させられた、と。実際、この事件によって蒋介石は共産党への攻撃をやめ、第二次国共合作が成立した。国民党内では親日派が後退し、張群外交部長も罷免され、代わって親ソ派が台頭した。それまで国民党内では「中国の敵はソ連か日本か」との議論が続いていたが、ここに至って蒋介石ははっきりと日本を敵と定めたのだった、と黄文雄氏。ここで、黄文雄氏は「中国の敵はソ連か日本か」との議論が続いていたと記述している。この記述は、日本の史家では、いないのではないか。蒋介石の「先安内、後攘外」という方針は、蒋介石の本当の思いは、「中国の当面の敵はソ連が先で、日本が後」という意味だったと解釈できる。そう解釈すると、蒋介石の軍事行動は理解し易い。日中戦争勃発当時の米国駐支大使N・ジョンソンは、後年、「西安事件が日中戦争の引き金だった」と指摘している、という。
 黄文雄氏は、もうひとつ、興味深い見方を紹介する。これまで見てきた排日悔日運動は、中国国内の複雑奇怪な事情が絡み、日中戦争(支那事変)の最も大きな原因の一つだと黄文雄氏はみるが、排日悔日に狂奔する中国人を押しとどめるには、何がもっとも効果的な手段だったろうか、それは徹底的に無慈悲な弾圧を、一度でも行うことだ、という。中国史を眺めると、中国人は外国からの強力な一撃ですぐに屈服し、その統治に甘んじてきた。モンゴル人も満州人も、一度徹底的な弾圧を加えて見せ、数百年間彼らを上手に統治している。しかし日本人はそれが出来なかった、あるいは中途半端だった、と。これこそ日本の中国進出における失敗の一大原因だという。イギリスはこの点を日本より良く理解していた。1926年に発生した万県事件、イギリスの商船が揚子江を遡り、中国側とトラブルの末、拿捕された。イギリス側は商船奪回のため砲艦二隻を派遣して砲撃を加え、万県の町を徹底破壊した。これによって中国人は縮み上がり、長江一帯の反英運動は終息した。そして民衆の排外のエネルギーははけ口を求めて、反日運動へと向かっていった。
 1927年の「南京事件」は、幣原「軟弱外交」(国際協調主義)の最盛期に起きた。これは蒋介石の国民革命軍(北伐軍)が南京を占領した時、日・米・英の領事館などを襲撃し、略奪・殺人を行った事件だ。この狼藉に対し米英は艦砲射撃で応じたが、日本はそれに加わらなかった。しかも幣原喜重郎首相は対中国不干渉主義に徹し、蒋介石の統一運動を応援するとして事件の責任追及をほとんどしなかった。しかし国民党の南京新政府は、日本の寛大な態度を見るや、反英から反日へとガラリと政策を変え、ナショナリズムの高揚を図った。中国人に対するには、徹底的に圧力をかけ、恐怖心を与えなければ、かえってバカにされる。協調姿勢をとれば付け込まれ、弱みなどを見せれば増長するだけである。これは過去だけでなく、今日に日中関係においても全く同じ、と黄文雄氏。台湾の李登輝元総裁は、この民族性を「軟土深堀」(簡単なところから始めろ; 相手の弱いこところを攻めろ)と表現し、しばしば国内の対中宥和派を批判している。日本などは中国からすれば、まさしく軟土だ、と。日中対立の歴史を俯瞰すると、日本の政策の稚拙さが目立つ、これは日本人の性善説、平和志向、優しさ、甘さ、気兼ね、正直、優柔不断という民族性が随所随所に現れているからだ、それが中国人には「与(くみ)し易(やす)さ」と映り、却って彼らに自信を与え、外交交渉に長けた列強の乗ずるところとなっていった、と分析する。
 1928年4月、一度下野した蒋介石は、訪日後再び国民革命軍総司令となり、北伐を再開した。総勢力は百万、これに対する張作霖の北軍も百万。日本居留民が虐殺された済南事件は、北上途中の国民革命軍により引き起こされた。当時交通の要衝だった済南は人口38万人の商業都市、ここに1810人の日本人居留民がおり、南軍に包囲攻撃を受けた彼らは、前年の南京事件の再現を恐れ、本国の田中義一首相に保護出兵を求めた。済南を支配していた北軍側軍閥が撤兵して、南軍が入城してきた。すでに出兵していた日本の派遣軍が蒋介石から治安確保の保証を取り付け、警備体制を解除した。しかし南軍兵士らが日本人の商店を襲撃し、約百人の日本人が虐殺、暴行、凌辱、略奪といった被害を受けた。虐殺の仕方は中国式で、酸鼻を極めた。殺害された日本人は手足を縛られ、斧のようなもので頭部や顔面を割られたり、婦女の陰部に棒が差し込まれたり、男性の陰茎が切り落とされたり、小腸・内臓を露出させられたり、皮膚が剥がされていたという。日本国民に大衝撃を与えた。「暴支膺懲」で世論は沸騰した。日本軍は関与した高級武官の処刑を含め、善処を求めたが、南軍はこれを拒否したため、砲撃により南軍を遁走させた。日本軍が蒋介石の言を信用したことも、その後の砲撃目標を限定したことも、当時の日本のスタンス(対中不干渉)を如実に伝える事実だ。しかしこの事件について中国の歴史学者は逆に、北伐を妨害するための日本軍の計画的挑発だと史実を歪曲して伝えている。さらにこの5月3日を「国辱記念日」に制定するなど、当時から日本を一方的に断罪していた、と黄文雄氏。

 1932年3月、満州国が成立し、盧溝橋事件に至る五年間は、熱河事件、綏遠事件、西安事件と、日・満や中国の国益を巡るトラブルが発生した。日中十五年戦争史観から言えば、このあたりが前半戦、前哨戦となる。満州国の南に位置し、もともと満州人の版図である熱河省を巡り、日中の緊張関係が武力行使に発展した。これが1933年の熱河事件だ。満州事変で満州から追われた張学良は、四万の部隊を熱河省に送り込み、反満抗日の拠点を構築し始めた。そこで満州駐屯の関東軍はこれを一掃することにした。第十六旅団長・川原侃少将率いる1234名の機動部隊は、三万の中国軍を追撃し、わずか四日間で四百キロを走破した。その間の損害は戦死者2名、戦傷者5名。快進撃というより機動部隊を初めて見た中国兵が、その轟音だけで戦意を失い、一目散に逃げだした。こうして、最後の満州軍閥・満福麟をも万里の長城の南、中国本部に駆逐した関東軍は、満州国の熱河省回収に成功した。日本軍が熱河の省都・承徳に入城した際、「承徳市民は日本軍を歓迎し、日満両国旗市内に充満」したという。
 関東軍司令官・武藤信義大将は、「長城を隔てる河北省は中華民国の領土である」として、関東軍の長城越えを厳禁した。逆に言えば「熱河の問題は満州の国内問題だ」という認識があり、国際法を遵守し、日中戦争を回避すべく、必死に努力していた。しかし中国側は何応欽が軍事委員会北平(北京)分会長に任命され、張学良に代わって五万の中央軍を北平・天津地区に集結させ、七千の兵力で熱河を侵すという事態が生じた。関東軍が長城線を越えられないことに乗じて事を起こした。たまらず関東軍は長城を突破し、天津と北平をも攻略する勢いを見せた。このことから、両軍の衝突再発を防止するため、5月末に関東軍参謀副長・岡村寧次少将と中国軍軍事委員会総参謀・熊斌中将との間に塘沽停戦協定(1933年5月)が結ばれた。この協定で河北省北東部の日本側占領地は非武装地帯と規定された。後にここに樹立されたのが「冀東防共自治政府」だった。この停戦協定で、日中関係は好転の兆しを見せた。しかしなお国民党の特務機関などによる反日活動が目立ったため、1935年7月、支那駐屯軍司令官・梅津美治郎中将と軍事委員会北平分会長・何応欽が梅津・何応欽協定を締結し、中国中央軍の河北撤退などが決まった。またチャハル省(現在は内モンゴル自治区の一部)を拠点とする第二十九軍軍長・宋哲元の軍が日本軍将校らを不当に拘束した張北事件や、同軍が熱河省に侵入した熱西事件など抗日謀略工作を繰り返し起こしたため、35年6月、関東軍の特務機関長・土肥原賢二少将とチャハル省主席代理・秦徳順との間で、土肥原・秦徳順協定が結ばれ、宋軍は同省を撤退、北京へ移動した。
 1936年12月の西安事件後、華北では宋哲元の第二十九軍や東北軍など41万の兵力で五千の日本軍を包囲する形となり、さらに徐州方面でも中央政府軍三十五万が北上の機会をうかがうなど、日中両軍の緊張が高まった。そのような中、日本側はあくまで、事態の不拡大方針を堅持していた。
 1933年7月7日夜、北平郊外の盧溝橋で、演習を終えた支那駐屯軍第一連隊の一木大隊に、突如、中国側からと思われる数発の銃弾が打ち込まれた。しかし不拡大方針に基づき、応戦命令は下りなかった。翌8日払暁以降、再三に亙って不審な発砲を受ける。ついに日本側は中国軍に攻撃を開始し、これを撃滅した。これが支那事変の発端、盧溝橋事件だった。この事件の処理を巡り、外務省と陸軍中央は直ちに事態の不拡大・現地解決の方針を固めた。と同時に、日本陸軍内部では、拡大派と不拡大派が対立し始めた。拡大派の主張は、中国で反日悔日の機運が高まる中、ここで逆襲しなければ彼らをますます増長させ、日中関係をこじらせるばかりか、暴支膺懲を求める国内世論も黙っていない、また来る日ソ戦では中国がソ連に加担する可能性が高く、ここで中国に一撃を加えて反省させ、反日政策を改めさせようとの「対支一撃」論だった。懸案を一気に解決しようというもので、全面戦争を求めるものでなかった。これに対し正面から不拡大を唱える不拡大派の主張は、日本が出兵したら泥沼にはまり、長期戦に陥る可能性があり、その間列強に漁夫の利を与えかねない、それより満州経営に専念し、対ソ戦に備えるべきだというものだった。石原莞爾らがその中心人物であった。7月9日、現地では両軍の停戦協議が行われた。しかし中国側は撤退するどころか攻撃を続け、その中央軍も北上も伝えられたため、日本政府は内地三個師団の派遣を閣議決定した。しかし11日、現地で停戦協定が成立したため師団派遣は見合わされた。だがこの協定も13日に中国軍に破られた。細目協定が協議される中、中国軍からの攻撃は続き、23日、日本軍が反撃を開始した。日本政府も再度師団派遣を決定したが、中国軍が撤兵を始めたため、これも見合わせとなった。しかし中国軍からの攻撃は止むことがなく、27日、内地師団に三度目の動員命令が下った。28日、日本の天津軍が中国側に開戦を通告し、北平と天津を掃討した。事件は「北支事変」と命名された。

 ここまでは黄文雄氏の日本側からの見立てであるが、従来から参照している「蒋介石秘録」では、中国側からの考えが読み取れる。「北平市長・秦徳純は折から北平を離れていた華北の責任者・宋哲元(冀察政務委員会委員長・第二十九軍軍長)に代わって、軍政を任されていた。盧溝橋の一報を聞いてから、8日午前3時半、宛平県城にいた第219団団長・吉星文からの報告ですでに容易ならざる事態に突入しつつあると判断、『盧溝橋および宛平県城を固守せよ、国土の防衛は軍人の天職である。宛平県城と盧溝橋を「わが軍の最も光栄ある墳墓とせよ。しかし日本軍が発砲するまでは絶対に撃つな。日本がもし発砲すればこれを迎え撃って痛撃せよ』と指示した」と。これは後から記述した秘録であるから、出来すぎな指示であるが、考えはそうだったのだろう。
 蒋介石は秦徳純らから報告を受け、『倭寇(日本軍)は盧溝橋で挑発に出た。日本はわれわれの準備が未完成の時に乗じて、われわれを屈服させようというのだろうか? それとも宋哲元に難題を吹っ掛けて、華北を独立させようというのだろうか? 日本が挑戦してきた以上、いまや応戦を決意すべき時であろう』(7月8日の蒋介石の日記)  9日、何応欽に対して全面戦争にそなえて、軍の再編に着手するよう命令、第二十六路軍総指揮・孫連仲に対して、中央軍二個師を率い、保定あるいは石家荘まで北上するよう指示、また山西省の軍を石家荘に集結するよう指示している。同時に、軍事関係の各機関には、総動員の準備、各地の警戒体制の強化を命じ、河北の治安を与る宋哲元には、『国土防衛には、死をかけた決戦の決意と、積極的に準備する精神を以て臨むべきである。談判については、日本がしばしば用いる奸計を防ぎ、わずかでも主権を喪失することのないのを原則とされたい』と、決意と警戒を促した。 10日、日本大使館に抗議文を出すと共に、同時に全軍備機関の活動を「戦時体制」に切り替えるため、緊急措置が取られた。軍隊を第一線百個師、予備軍八十個師を編成し、7月末までに大本営、各級司令部を秘密裏に組織する。現有の六か月分の弾薬は長江以北に三分の二、以南に三分の一を配置する。フランス、ベルギーから購入することを交渉し、香港、ベトナム経由の輸送ルートを確保する。兵員百万人、軍馬十万頭の六か月分の食料を準備する、以上が緊急措置であった。11日午後8時、第38師師長・張自忠は松井太久郎との間で協定を調印した。これを宋哲元も同意を与えたが、国民政府は南京の日本大使館に覚書を送り、「如何なる協定であろうとも、中央の同意がない限り無効である」と通告した。
 12日、病床の田代皖一郎にかわり、新たに香月清司中将が支那駐屯軍司令官に任命され、14日事件解決のための七項目の協定細目を、冀察政務委員会に突き付けた。現地で交渉にあたる宋哲元に単独交渉に応じてはならないと指示し、日本軍の攻撃に対し徹底的抵抗を命じてあった。しかし宋哲元は現地解決の望みに固執し、張自忠らに交渉させ、日本軍要求通りの協定細目に調印した。18日、再度宋哲元と秦徳純に電報で警告した。いわゆる”最後の関頭演説”すなわち「盧溝橋事変にたいする厳正表示」を公表し、中国の抗戦の覚悟を公式に明らかにした。その中で蒋介石は『われわれの東四省が失陥してすでに六年になる。いまや衝突地点は北平の玄関である盧溝橋にまで達した。もし盧溝橋が日本の圧迫を受け、武力で占領されるならば、わが百年の故都であり、北方の政治・文化の中心、軍事の要衝である北平は、第二の瀋陽(奉天)となろう。今日の北平が、もし昔日の瀋陽になれば、今日の冀察(河北・チャハル)もまた昔日の東四省となろう。北平がもし瀋陽となれば、南京もまた北平にならずにいられるだろうか』と。日本は少しもそこまで考えていなかったが、蒋介石はそこまで考えていた。これは蒋介石をそう思わせた日本の問題だったのか、蒋介石自身の問題だったのか。これが日中戦争(支那事変)の核心である。


蒋介石対汪兆銘という国民党内戦の顛末

2022年08月31日 | 歴史を尋ねる

 中国を考えるにあたって、最近こそインターネット情報で各種の情報が手に入るようになったが、その前、われわれが得られる情報は主にマスメディアであった。報道の公平を謳って、相手国の報道をそのまま伝えるのが良しとしてきた。当然、プロパガンダ情報もあるが、報道の自由を名目に当然のように流し続ける、自国政権のチェック機能果たすとのお題目も掲げて。限られたマスメディア情報から国民が真実の情報にたどり着くのは容易でない。現在の生きている情報でもそんな具合だから、歴史情報は歴史専門家の裁量にゆだねられ、選別された情報でしか知る方法がない。そんな中国の状況を、日本の歴史専門家が扱わない分野を黄文雄氏は細かく追っているので、黄文雄著「日中戦争は侵略ではなかった」を参考に、見ておきたい。

 抗争と分裂を繰り返す国民党は、党内の派閥抗争にとどまらず、内戦そして政府の乱立にまで発展した。その最後に残ったのが、重慶政府と南京政府だった。それは蒋介石派の「徹底抗日」路線と汪兆銘・陳公博・周仏海らの「和平救国」路線の対立であった。いまや国民党=蒋介石というイメージが定着しているが、孫文以後の国民党史は、蒋介石と汪兆銘の離合集散の歴史だった。党内では汪の方が蒋よりはるかに人望が高かった。汪は法政大学で学び、中国革命同盟会きってのイデオローグだった。 青年時代には清の摂政王・載澧の暗殺未遂で捕らえられるなど、強烈な革命主義者、民族主義者だった。1925年の孫文死後、汪は広東政府(国民党)の主席となった。党内は左派(汪)、中間派(蔣)、右派に分かれ、左派は共産党と密接な関係を保った。汪は元来反共で合作にも反対だったが、党内抗争を勝ち抜くため、容共の立場に立った。1926年の中山艦事件で、蒋介石は共産党を弾圧した。いたたまれなくなった汪兆銘は出国し、国民党は蔣の一人舞台となった。同年、蒋介石は国民革命軍総司令に就任し、7月に中国統一に向け北伐を開始した。それに伴い11月、広東政府は武昌に移転して武漢政府と称されることになったが、蔣は共産党と対立して27年4月、上海で反共クーデターを起こし、南京政府を樹立する。しかし蔣は失脚し、武漢でも共産党が追放されたため、9月に両者は南京で合流し、各派の合同がなった。その後、蔣が復帰し、1928年、北京を占領して遂に北伐が完成した。在野的存在だった左派は汪の帰国を促して結束を固め、二大軍閥の閻錫山、馮玉祥らと連合し、1930年、華北で蔣軍と決戦を行った(中原大戦)。9月、反蔣同盟は北京で政府を作り、汪の要請で閻錫山が主席に就任した。しかし静観していた奉天の張学良が蔣側について出兵したため、閻・憑軍は撤退し、天下は蔣介石の掌中に帰した。
 1931年、汪は広東政府を建て、長年の内戦の責任を追及して蔣の下野を要求した。しかし間もなく第一次上海事変という国難に直面し、両者は和解して南京で合作した。汪はそもそも対日主戦派で、行政院長当時の1932年、日本軍の熱河作戦で全く抵抗するそぶりも見せなかった張学良に激怒し、下野を勧告したほど苛烈な性格の持ち主だった。しかし戦いが進むにつれ、中国軍には対日戦争を遂行する力がないという事を思い知らされた。それに加え、経済は疲弊し、共産党(共匪)の跋扈もやまない。だから日本とは和平を結ぶしかない、という考えに至った。汪は1940年の南京政府樹立後、次のように語っている。

 「抑も中国抗戦の目的は、国家の生存独立を求めるにあるが、抗戦年余、創は大きく、痛みは深い。もしよく正義に合するの和平を以て戦事を終息することが出来れば、国家の生存独立は保たれるべく、抗戦の目的は達せられたことになる」 「近衛声明は結局侵略主義を放棄したのだという事が出来る。日本が侵略主義を放棄したのであるから、我らはここに和平運動を開始した」 「私は中国国内には共産党およびその走狗を除いた他には和平を待望しない者はいないことを深く深く知っている。しかもそれらの人々が和平に反対するのは、日支両国は共存することは出来ないと考えているからだ」 「和平運動の最大意義は、日支協力して共に東亜を保つこと。善隣友好とは、共に東亜を保つ軸心を成立させること。共同防共とは、共産主義が東亜を荼毒(とどく)するのを防止することである。経済連携とは、経済帝国主義が東亜を侵食するのを防止することである。在る人はこれは日本が中国を侵略するための表向きの言葉に過ぎないという者がいるが、その実は日本の維新以来の国策と世論を見れば判る」と。汪はさらに日中戦争での中国側の責任も語っている。責任とは、日本の侵略を招いた中国の弱さ、弱さの原因は「中国の政治が確立されず経済が発達しなかったため、軍閥が跋扈し、共匪が猖獗した」ことであり、日本を侵略者として責めるだけでは傲慢だ、と。汪は、日中提携によるアジア民族の解放と復興を主張した。孫文の大アジア主義を継承していた。1938年12月の近衛首相による東亜新秩序声明を、孫文の理念に符合するものと見た。だから汪の南京政府はそれに呼応し、東亜永遠の平和および新秩序建設の責任を分担すること、を十大政綱の第一に掲げた。同年の日華条約と日満支共同宣言についても、汪は「近衛声明と同一の精神に基づいている」と述べている。
 当初、南京政府の支配地域のうち、点と線の日本軍駐屯地域以外では、依然として重慶政府の忠義救国軍や共産党の新四軍の勢力がはびこり、治安の攪乱、経済の破壊などに従事していた。忠救軍はもともと青幇・紅幇といった幇会(マフィア)で組織されたもので、要人暗殺、復興妨害、スパイ、流言流布、特殊工作などに従事した。いわゆる特務である。新四軍は江南の共産党の残党で組織されたもので、常熟県、江陰県に根拠地を持ち、農民の抗日組織化を進めた。その他、重慶側は経済ゲリラを組織し、「被占領地の都市を死市とする」とのスローガンの下、南京政府発行の紙幣流通の妨害や資源封鎖、貿易および国内貿易の妨害、経済機構(工場、鉄道、鉱山、金融機関等)の破壊などを行った。このような敵の動きに対し、南京政府が取った措置が「清郷工作」だった。これは日本軍の指導で治安作戦を展開し、それと同時に中国側が主体となり、政治・行政・経済・文化工作を通じ、敵に感化された民衆を慰撫するというもの、日本軍は段階的に撤退し、最終的には一切干与しないとの方式を取った。この工作の成否は政権死活に関わるとの認識から、清郷委員会には汪兆銘主席が委員長に、陳公博上海市長と周仏海が副委員長に十八名の政府要人がそれぞれ就任した(1941年5月)。支那派遣軍司令官・畑俊六大将も、これに全面的支持を約束した。行政工作としては強固な自治制(住民の自衛組織・保甲制度など)を基礎に、国民党組織を構築して行政機構を確立し、着実に政治力を浸透させていった。経済工作としては財政改革が著しく成果を上げ、「清郷是れ清心」を合言葉に、封建的悪弊を払拭し、土地台帳を設けて徴税制度を近代化した。これにより徴税額は1942年上半期の九百万元から、同年下半期の四千五百万元(そのうち田賦三千三百万元)にまで急増した。第一期の清郷実施地区では治安が回復が著しく、二か月ほどで日本人の一人歩きも可能となり、地区内に戻った住民は十三万人に達した。忠救軍が拠点としていた地区でも工作は順調に進み、汪主席は「日華合作の誠心の表われ」と称賛した。和平地区はこのように順調に拡大していった。これは戦乱当時の中国としては極めて画期的なことだった。しかし清郷工作は、その後、南京政府内の実権争いや新四軍による民衆扇動(反清郷闘争9の影響などで下火になり、1943年秋には実質的に停止されてしまった。

 汪兆銘政権の政治綱領が謳った「和平・反共・建国」は汪軍の理念でもあった。しかし毛沢東に言わせると、汪の軍隊はしょせん封建的ファシズム軍隊で、日本侵略軍の附傭(付属)部隊に過ぎない、となる。もともと汪軍には日独伊各国から軍事顧問を招く予定だった。だが、結局日本軍人のみにとどまり、影佐禎昭(陸軍少将)、松井太久郎(同中将)、柴山兼四郎(同中将)、矢崎勘十(同中将)などが最高軍事顧問を務めた。
 南京政府樹立当時、汪兆銘の手元には一兵の兵力もなく、あるのは旧維新政府麾下の弱小部隊だけだった。そこで士官を集めて民族思想教育を行い、精鋭軍の育成に努めることになった。1942年から43年にかけて汪軍は急速に発展した。ことに日本軍が大東亜戦争の開戦以降、疾風怒涛の勢いで東南アジア各地を占領すると、河南、河北、山東、江蘇、安徽各省の蒋介石軍の兵士が競って汪軍に投降・帰順した。42年春には山東省主席で国民党軍第三十九集団軍副指令だった孫良誠が帰順した。この孫をはじめ汪の南京政府についた蒋介石軍将領は67人にも達し、帰順将兵の総数は80万人にも上った(1944年葉剣英共産党調べ)。南京政府の公布によれば、1943年段階の兵力は42個師団、5独立旅団および12独立団。華北方面は12の集団軍および8独立旅団。
 延安の共産党政府による1943年3月の公布を参照すると、汪軍62万余の大部分は蒋介石軍から寝返った者で、その90%は共産軍と対決し、10%が蒋介石軍を牽制していた。蒋介石は「曲線救国」のスローガンを唱えて、配下の一部部隊を汪軍に投降させ、共産党討伐に当らせていた、という。日中戦争当時における蒋介石の最大の敵は、日本軍や汪軍ではなく、共産党軍だった、と黄文雄氏は言う。1943年日本の戦況が悪化するとともに、大陸の精鋭部隊は逐次南方戦線に差し向けられた。東条政権末期の1944年春、日本側が共産党と妥協する動きを見せ始め、戦地でも両軍の歩み寄りが伝えられた。これは南京政府に大きな衝撃を与えた。軍事の責任者だった陳公博は日本との確執も辞さずと声明し、共産党軍の揚子江南岸進出を阻止する配置を軍に命じた。陳は密かに重慶軍から弾薬の補給を受けることまで考えていたという。しかし中国では、日本軍は現地の政治に関与できない方針に変わったため、治安戦における力が急速に弱まった。これに乗じて共産党軍はゲリラ戦と地下工作を駆使し、着実に勢力を南京政府地区に浸透させていった。終戦前後の1945年8月から9月の二か月だけで、共産党軍(八路軍、新四軍、華南抗日縦隊)によって壊滅させられた南京政府軍は二十万人以上に上った。共産党軍によって崩壊した南京軍の大部分は蒋介石軍に投降した。そのうち正規軍に編入された者は22万8千人。その他79万9千人は地方の保安隊に改編された。

 1943年11月22日、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相および中華民国国民政府の蒋介石主席がエジプトのカイロに集まった。すでに趨勢が見えてきた第二次世界大戦の戦後処理を話し合うためである。その戦後処理は主として連合国側の対日基本方針に絞られている。なぜか、と遠藤誉氏は疑問を発する。うっかり通り過ぎるこの疑問は重要であるが、遠藤氏ならではの分析が続く。それは当時の中国である「中華民国」の蒋介石が、日本と中華民国の間で戦われた日中戦争に抗して戦う「抗日戦争」を断念して、対日単独講和を結ぶ可能性があったから。「中華民国」は「連合国側」としての恩恵に与ることが出来ず、英米からの支援が少ないことに不満を持っていた、と。蒋介石夫人の宋美齢は国民党航空委員会秘書長として活躍し、1940年、アメリカのフライング・タイガースの志願軍的協力を得ることに成功していた。しかしそれも、日本軍の空軍力に押されて42年には解散した。蒋介石は劣勢に立たされていた。特に当時の国民政府は親日派の南京政府と親米英派の重慶政府に分かれており、汪兆銘、蒋介石がそれぞれ君臨していた。米英よりの蒋介石自身も、1910年に日本の振武学校を卒業したあと日本陸軍第十三師団第十九連隊に士官候補生として入隊した経験を持つ。本来が日本びいきだ、と遠藤氏。抗日戦争を継続すべきか停戦して講和条約を結ぶべきか、連れ動いたところがある、と。特に中国共産党軍を敗退に追いやって「中華民国」を堅持し、汪兆銘に勝つことの方を優先しているという噂が囁かれ、連合国側に伝わっていた、と遠藤氏。
 そこでアメリカのルーズベルト大統領はわざわざ蒋介石をカイロに呼んで、米英中三か国巨頭として蒋介石を位置付けた。ルーズベルトはチャーチルの反対を押し切って蒋介石を祭り上げ、対中支援をすることも約束、だから日本が無条件降伏をするまで戦おうと呼び掛け、蒋介石が日本との単独講和条約を結んで停戦してしまうことを禁じたのである、と遠藤氏の分析。有頂天になったのは蒋介石、中華民国を連合国側の最大巨頭として扱ってくれた、しかも米英が認めたのは南京政府の汪兆銘ではなく、蒋介石だ。どんな約束でもしよう。43年12月1日、カイロ宣言がメディア公開された。宣言には署名がなく、その有効性にのちにチャーチルは否定しているが、蒋介石にとってこの上なく重要なものだった。『三大同盟国の目的は、1914年の第一次世界大戦の開始以降において日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島嶼を日本側から剥奪すること、並びに満州、台湾および澎湖島の如き、日本が中国人から盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある』 この一文のために、蒋介石は「中華民国の領土主権は誰の手の中にあるのかを国際社会に対して明示したいという強烈な欲求に駆られたと思う、と分析する。

 ふーむ、遠藤氏の説明はロジカルで筋が通っているように思うが、しかし、蒋介石秘録にはこのようなことは一切記録されていない。1943年の共産党本拠地殲滅作戦も秘録に触れられていないので、蒋介石としては不都合な事項は記載されていない可能性がある。ただ、以下の記録が秘録に記載されている。米国務省の後の調査によると、デービスらのグループが1942年6月から3年間に本国へ送った情報は主なものだけで106件に達した。その内容は、すべて共産党を褒め称え、国民政府を中傷するものだった、と秘録は伝える。「周恩来の話によると、蒋介石は日本と講和する」(1942・6 デービス) 「国民政府は貸与物資をため込んで内戦に備えている」(1942・7 デービス) 「ソ連が対日戦に参加した時には、共産軍に戦略価値が生まれる。米国は国民政府に共産軍封鎖を解除するよう要求すべきだ」(1943・1 サービス) 「中国共産党は本当は共産主義者ではなく、むしろ農業民主党(土地解放者9である。国民政府が共産党を討てば、共産党はソ連に援助を求め、その結果、中国は赤化するだろう」(1943・デービス) 「毛沢東は共産主義国、社会主義国をつくろうと考えていないし、国民政府を転覆させようとも思っていない。また、ソ連やコミンテルンとも関係ないといっている」(1944・サービス) 「共産党は資本主義によってその経済水準を高めたいと希望し、ソ連より米国の方が頼りになると見ている。彼らは米国の支持を基礎に、中国を統一しようとしている」(1944・9 サービス) 「米国が蒋介石を援助すれば必ず内戦になる。共産党を援助すれば内戦はない。米国の援助政策は共産党の恨みを買うだろう」(1944・11 デービス) これらの情報を次から次へと読まされた米国の国務省、陸軍省、財務省を始め、各関係部門のスタッフの中にはそれに幻惑された者も少なくなかった、と秘録は語る。蒋介石は講和するという周恩来からの情報は陰謀なのか、彼のスパイ機関からの入手情報か、ここでは不明だが、反応する米国のスタッフはいたかもしれない。いずれにしろ「このような共産主義者たちの情報戦略は、戦争後も執拗に繰り返され、米国の中国政策を誤らせ、ついには大陸失陥という悲劇を生むのである」と蒋介石は分析し、同時に米大使館スタッフとの確執で大使館が反蒋の巣になったことも嘆いた。

 


中国との歴史に向き合うために

2022年08月25日 | 歴史を尋ねる

 東京裁判の「中華民国に関する立証」を追いかける時、どうしてもその後の経緯を知っているので、解せないことがいくつも出てくる。歴史的事実はその後の経緯と関りがある。その後の経緯を見ながら歴史的事実を見直すことは、複雑に絡んだ近現代の歴史解釈には必須だと考えている。今回は東京裁判を離れて、中国とはどんな国だったのか、最近の事象を勘案しながら、支那事変を考えてみたい。
 まずは遠藤誉著「毛沢東 日本軍と共謀した男」を参考にしたい(2016年の当ブログで扱っている、一部重複する)。
 中国において王明(1904~1974)は教条主義者とか左翼冒険主義者などとして酷評されてきたが、要は「毛沢東がもっとも嫌った人物」だった。王明はモスクワの中山大学で学んだエリートで、ロシア語がペラペラなだけでなく、コミンテルンの言うままに動いた。毛沢東より5年もあとに入党して、先に中共総書記になった。そして「八一宣言」を起草し、中共を「「反蒋抗日」から「連蒋抗日」へと方針転換させたのは王明で、その結果西安事件を起こさせたのは、毛沢東にとってありがたかったはずだ。それでもなお、毛沢東と王明の対立は激しかった。このままでは殺されると思い、1956年に病気治療を口実にモスクワに行き、二度と中国に戻らなかった。生前、毛沢東との口論を含めて手記を残した。人生最後の力を振り絞り、最後には妻に筆記させ、1974年に息を引き取ったが、手記は翌年出版された。タイトルは「中国共産党五十年と毛沢東の裏切り行為」。中国では「中共50年」と変えて2004年に中国語に翻訳されて北京で出版された。この本の第三篇「文化大革命と、毛沢東の帝国主義との協力方針」の第二章に「毛が帝国主義と協力する現行方針の根源」が書いてある。この場合に帝国主義は日本帝国主義のことを指している。
 1940年10月2日、中共中央機関紙「新中華報」に毛沢東が「独伊日ソの連盟を論ずる」という大見出し記事を王明は見て、編集委員に誰が書いたか尋ねた。「毛沢東同士です。今日、新聞社と中央宣伝部との会議があった。会議で毛沢東は『国際舞台においては必ず独伊日ソ連盟路線を貫かねばならない。国内においては日本と汪精衛(汪兆銘)との統一戦線こそ建てなければならない』と宣言した。会議では、毛沢東は『独伊日ソ連盟を論ず』という社説を書いて終わったと言い、明日の新中華報に載せるといった」と。王明はその足で毛沢東に会いに行き、毛沢東との口論が始まる実録がその著書に掲載されている。
 毛沢東:スターリンとデミトロフは、英米仏ソが独伊日に対する反ファシスト統一戦線を組みべきだと建議している。しかし事態の推移は、この建議が間違っていることを証明している。やるべきことは英米仏ソ連盟ではなく、独伊日そ連盟だ。
 王明 :なぜ?
 毛沢東:独伊日はみんな貧農だ。彼らと戦って、なんの得があるのか? われわれが勝利しても大して利益は得られない。英米仏は、富豪だ。特に英国は巨大な植民地を持っている。もし英国を打ち破ることが出来たら、その植民地の中から莫大な収穫を得ることが出来る。少なくとも中国は、日本人や汪精衛と統一戦線を組んで蒋介石に反対しなければならない。君が建議する抗日民族統一戦線なんて、やるべきではない。だから君は間違っている。
 王明 :私のどこが間違っているのか。
 毛沢東:どっちみち、われわれは日本人に勝てやしない。なんで日本人と戦ったりするのか。一番いいのは日本及び王政権と組んで蒋介石を打倒することだ。もし蒋介石を打倒することが出来たら、われわれは西北の広大な勢力範囲をわがものとすることが出来る。君は私が民族を売り渡す親日路線を執行すると言いたいのだろう。私は民族の裏切り者となる事など、少しも怖くもない。
 王明 :こんな重要な問題を、あなた一人で決定を出す如何なる権利もないし、私とあなたの議論も、何かを決議することは出来ない。党の正常な方法で、この問題を解決すべきだ。今すぐあなたの意見をスターリン及びデミトロフに打電して報告し、中央政治局会議で討議してから決めるべきだ。
 毛沢東:そんな電報を出したら、尊敬を受けているあの二人のご老人たちを怒らしてしまう。この問題を政治局会議にかけることにも、私は同意できない。
 王明 :なぜだ?
 毛沢東:まだ機が熟してないからだ。
この会話に対する王明の解説と分析も載っている。毛沢東は独伊日ソ連盟を主張することによって、毛沢東は民族を売り渡す親日路線を歩んでいるという事実を隠蔽しようとしている。日本とソ連が連携するという事は毛沢東が親日路線を歩んでも、共産党を裏切ったことにならない。すべての部隊に抗日戦争を停止せよという命令が正当化される。こうすれば、国内で国民党軍を攻撃する正当性も出てくる。日本はその中国と戦っているので、日本がソ連と共謀しているのであれば、中共は日本と共謀して良いことになる、と。さらに毛沢東は個人的に中共中央軍事委員会の無線通信を通じて、新四軍の政治委員・饒漱石に指令を出し、饒漱石の名義において代表を派遣し、日本軍の代表とか汪精衛らと共謀して蒋介石を倒す交渉をしていた。同時に日本軍や汪精衛の軍隊を攻撃する軍事行動も停止するよう命令していた。蒋介石はそのことを知っていたので、毛沢東と日本軍・汪精衛軍との共謀を報道し反共宣伝をしていたが、人民は中国共産党の宣伝を信じて、効果がなかった。また日本軍も汪精衛も、まさか毛沢東が第二の汪精衛になり、中共中央指導者から裏切り者が生まれるとは思っていなかった。1955年、高崗や饒漱石らが逮捕されただけでなく、潘漢年や胡鈞鶴など饒漱石から指示を受けて日本軍や汪精衛政権と接触した全ての者が逮捕投獄されたが、毛沢東は民族を売り渡す行為の証言者をこの世からすべて消し去る事であった、と。
 岩井栄一も潘漢年の「日本軍と中共軍との間の停戦要求」を回想録に明記している。そして毛沢東の独伊日ソ連盟に関しては、当時松岡洋右外相がソ連を枢軸国側に引き入れる四国同盟を模索していた。結果、1941年4月、日ソ不可侵条約を結んだが、日ソの部分に関して、毛沢東は正しかった。日ソ不可侵条約は国共合作により日中戦争を戦っているはずの蒋介石にとって、裏切り行為につながる。ここで、遠藤誉氏は言う。「岩井栄一の回顧録と王明の手記、蒋介石の回顧録、この三つが毛沢東が日本軍と共謀し、中華民族を売っていたかを証言している。中国人民も歴史を直視する勇気を持たなければならないし、日本も真実を直視する勇気を持たなければならないと、主張している。ふーむ、日本の中国史を専門にしている人々に特に強調したいところだ。

日本敗戦時はどうであったか。日本軍に停戦密約を要求しながら交換条件として日本が戦っている中国、重慶政府の国民党軍の軍事情報を日本に売り、日本の占領地区の面で民衆動員に力を入れていた中共軍は、日本敗戦と同時に日本軍に武装解除を求めた。日本軍が持っている武器を奪取するために、日本敗戦の色が濃くなるにつれ、すでに中共軍はじわじわと日本軍占領地区に潜り込み、ほぼ同居していた形になる。これは中共軍と日本軍の間に不可侵の和議がなかったら、あり得ないことだ、と遠藤誉氏。毛沢東は大きな戦いをすることを中共軍に許さなかったが、小さい戦いをしては、それを大きな成果として宣伝し、民心をつかむことに成功していた。そして日本敗戦の瞬間に日本軍から武器を奪う戦略を着々と進めていた。「岡村寧次大将資料 戦場回想編」で終戦直後の様子を伝えている、と。「中支と南支では終戦後ほとんど一発の銃声も聞かなかったのに、北支方面、江蘇省北部にあったわが軍は共産党軍の攻撃に対する自衛戦闘のために、合計七千人の死傷者が生じた。中共軍の無法の要求、無法の砲撃の如何に多くあったかが推知できる」と。ポツダム宣言では、日本が降伏する相手は中華民国となっている。武器は重慶の国民政府軍に渡さなければならない。8月15日天皇陛下の玉音放送があった一時間前に蒋介石は、「抗戦勝利に当り全国軍民および全世界の人々に告げる書」という勝利宣言を、重慶の中央放送局から放送した。いわゆる「怨みに報いるに、徳をもってせよ」といわれる演説である。また蒋介石は日本軍に対して、武装解除はわが軍が行うので、それまで待機してほしいと指示を出し、中共軍に武器を渡すことを禁じた。岡村寧次は蒋介石の演説に深く胸を打たれ、トルーマンやスターリンと違って東洋的道徳の高さを評価し、尊敬した。そのため、潔く蒋介石の命令に従うべく、全日本軍にこれ以上は絶対に戦ってはならない、すべての武器は重慶国民政府軍に渡すことを厳重に命令した。蒋介石は岡村らへの配慮から捕虜と呼ばず「徒手官兵(武装していない将兵)」と呼び、岡村を「日本官兵善後総連絡部長」任命、元日本軍100万人強と中国居留日本人130万人強の日本引き揚げに当らせた。その後約一年間に亙る元日本軍の復員と日本居留民の引き揚げ作業が優先的に行われ、必要な列車や船を総動員したため、終戦後に始まる国共内戦に対し、スタート時点で国民党軍は中共軍に後れを取った。蒋介石が元日本軍の復員と日本人居留民の日本帰国を優先したことが、隣に中国共産党が統治する国が生まれてしまった原因の一つであることを、日本人は絶対に忘れてはならないと、遠藤誉氏は言う。さらに、このことが、毛沢東は元日本軍人を歓迎したわけにもつながるとも言う。

 1949年10月1日、中華人民共和国が誕生し、首都をどこにするかという議論があったとき、南京という声もあったが、毛沢東は絶対に北京と主張して譲らなかった。それは歴代の皇帝が使ってきた中南海に帝王として鎮座するのを夢みてのことだろうと、遠藤氏。1956年8月、その中南海に日本の遠藤三郎(元陸軍中将) ら元軍人訪中団一行が訪ねてくると、毛沢東は待ち構えており一人一人と握手した。毛沢東は開口一番語った。「日本の軍閥が中国に進攻してきたことに感謝する。さもなかったらわれわれは今まだ、北京に到達していない。過去にあなたたちと私たちは戦ったが、ふたたび中国に来て中国を見てみようという、すべての旧軍人をわれわれは歓迎する」(遠藤氏注:毛沢東は侵略はおろか、侵攻という言葉さえ使わず、進攻という文字を選んだ)「あなたたちはわれわれの先生です。われわれはあなたたちに感謝しなければならない。まさにあなたたちがこの戦争を起こしたからこそ、中国人民を教育することが出来、まるで砂のように散らばっていた中国人民を団結させることだできた」 『廖承志と日本』のなかで廖承志はこう記述している、と。さらに同行した元陸軍中将の堀毛一磨は、毛沢東及び政府要人たちが、ともかく過去を忘れ、将来について語ろうではないかという事ばかり強調していたのが印象深かったと手記で述べている。当時口封じのために投獄逮捕された潘漢年はまだ牢獄にいた。これは毛沢東が他界するまで「南京大虐殺」に関して触れなかったのと同じ心理が働いていると考えるべきと、遠藤氏。蒋介石が率いる国民党軍が第一線で戦ったような過去の話に触れてほしくないし、訪中するものが次々と過去を謝罪することにうんざりしていた、と。1964年7月、日本社会党の佐々木更三や黒田寿男ら社会党系の訪中代表団と会った時の会話が『毛沢東思想万歳(下)』(東京大学近代中国史研究会訳、三一書房、1975年)に載っているのを遠藤氏は読んで、毛沢東自身は主として進攻あるいは占領という言葉を使っているのに対して、日本語翻訳では、それらを侵略で統一していることを見つけている。つまり日本側の方が侵略という概念の贖罪意識があり、毛沢東は侵という文字を一貫して避けている、と。しかし、佐々木らも謝罪し続けるので、毛沢東はついに中華ソヴィエト区から延安まで逃げる長征の時に触れ、「残った軍隊はどれだけだったでしょうか。30万から2万5千人に減ってしまいました。われわれはなぜ、日本の皇軍に感謝しなければならないのか。それは日本の皇軍がやってきて、われわれが日本の皇軍と戦ったので、やっとまた蒋介石と合作するようになったからです。2万5千人の軍隊は、8年戦って、120万の軍隊となり、人口1億の根拠地を持つようになった。感謝しなくてよいと思いますか」とまで吐露した。これ以上言ってくれるな、言わせるなという毛沢東の心情が目に浮かぶ、と遠藤氏。

 毛沢東が何としても来てほしかったのは岡村寧次だった。しかし岡村は訪中を拒んだ。毛沢東が岡村の訪中を望んだのは、岡村寧次が蒋介石と組んで大陸奪還を企んでいることを知っていたから。蒋介石と何応欽の厚情に感動した岡村寧次は、日本帰国後、蒋介石のために白団という軍事顧問団を結成した。岡村寧次が帰国したのは1949年2月、敗戦側の総司令官が無罪となって帰国するまでには、蒋介石の工夫と経緯があった。1948年、日本では東京裁判を終わらず、中国の軍事法廷では多くの元日本軍戦犯が死刑に処せられ、終末に近づきつつあった。これ以上、岡村の裁判を延ばすわけにもいかず、戦犯としての裁判を始める所、持病の心臓発作が起こり、仮釈放となって緊急治療。そうこうしている内に東京裁判が終わった。そこで蒋介石は軍事裁判で岡村を無罪に言い渡させる。岡村は1944年11月総司令官着任で、南京大虐殺に関わっておらず、責任者は死刑にしている。岡村は敗戦後は蒋介石の命令に従い、元日本軍に即時停戦を命じ、すべての武器や生産施設を国民党軍側に渡すべく懸命に努力したという理由だった。毛沢東は戦犯第一号として岡村を指名していた。この時国民党の李宗仁・代理総統は蒋介石と国民党を裏切り、岡村の身柄引き渡しを条件に中共との和議を進め、岡村の再逮捕を命じていた。しかし岡村は公判が終結すると、裏口から脱出、すぐさま米国船で日本に向かっていた。なぜここまで蒋介石は岡村を守ったのか。蒋介石は日中戦争中、ソ連やアメリカが派遣してくる軍事顧問団に苦しめられた。どの国の軍事顧問も自国の利益ばかりを考え、少しも中華民国の利益などを考えていない。蒋介石が望んだのはどの国からも支配されない独立国家、中国だった。その点、岡村は違う。彼は本気で蒋介石を尊敬し感謝している。彼の作戦能力の高さは、戦争最終段階における戦い方で分かっている。さらに彼は敗軍の将だ。中国支配を考える筈もない。
 一方、毛沢東は戦争中に蓄えてきた戦力を一気に発揮して、ソ連が押さえている満州国へ向けて突進し、蒋介石の命令に従わず北東へ向かって進軍して日本軍の武装解除を各地で行い、武器弾薬だけでなく航空機の製造工場までも接収し、日本の元軍人と技術者を中共側のものにしてしまった。45年10月、元日本軍第二航空軍団第四錬成大隊を包囲、武装解除し、中共軍には空軍がない、航空学校建立の協力を申し出て、大隊長の承諾を得た。こうして元日本軍のパイロット20人、機械技術士24人、製造技術員72人など200人が中心となって、1946年3月、東北民主連軍航空学校が誕生した。ソ連と中華民国の間には、1945年8月14日、中ソ友好同盟条約が締結され、軍需品その他の物資援助は国民政府に提供される、東三省の主権は中国にある、対日参戦に伴う進駐ソ連軍は日本降伏後三週間以内に撤退をはじめ、遅くとも三か月で撤退を完了する、とソ連政府は約束している。蒋介石はハーレー駐華米国大使に頼んで毛沢東を無理やり延安から連れ出し、1945年10月10日、辛亥革命を記念する日に双十協定を結び、内戦を行わないと発表した。その一方で毛沢東は内戦の緊急指示を出していた。蒋介石はその著書でその当時を記述している。「9月11日から10月11日までに、各地の中共軍は延べ二百の都市を占領し、華北、華中間の交通幹線を制圧し、北は山海関から南は浙江省杭州に至る海岸線、黄河並びに揚子江と大運河一帯の水上交通にも脅威を与えた。9月11日以後の一か月間といえば、国軍が各地で日本軍の降伏を受理していた時期である。全国を十一地区に分けて日本軍125万5千人の降伏を受理し、連合国軍総司令部の規定に従い日本に送還した。しかし共産軍はチャハル、河北、山西、山東、江蘇省北部で3万に近い日本軍を包囲して武装解除を行い、しかもこれを日本へ送還しなかった」と。
 毛沢東は日本軍がもっとも強いと認識していた。朝鮮戦争で中国人民志願軍総司令として米英軍とも戦ったことがある彭徳懐が「世界で一番強い軍隊は日本軍で、英米軍は二番手だ」といっていたから。彭徳懐はまた日本軍の総司令官だった岡村を、敵ながら強い将軍として評価していた。一方岡村も百団大戦を戦った彭徳懐を尊敬し、中共にはすごい将軍がいると評価していた。1950年代、中国大陸と台湾との関係はまだ不安定な状況にあり、そのため毛沢東は元日本軍を熱烈歓迎した。左に傾いている日本からの訪問者の謝罪など聞きたくなかった。遠藤三郎のルートで岡村寧次を招聘でいないとわかると、日本の歴史評論家から昭和の愚将とまで酷評された辻正信(元陸軍大佐)にまで当たっていた、という。元日本軍人が如何に評価されていたかが分かる。
 尚、遠藤誉氏は面白いエピソードを書いている。朝鮮戦争が休戦した1953年、毛沢東は中国にまだ残っている留用技術者などの日本人及びその家族を一刻も早く帰国させようとした。遠藤一家も1953年9月、かなり強制的に日本に帰国させられた。その理由を1990年代に再会した天津の小学校の教員は、「あの時日本人を帰国させたのは、このまま中国にいると日本人が中国を嫌いになってしまうからという事を心配した毛沢東の命令があったからだ」と。教科書には書かなくとも、日中戦争時代の中共の宣伝が行き過ぎて、中国人民があまりに日本軍の残虐行為を憎みすぎていたからだと、そっと教えてくれた、と。ふーむ、毛沢東は人民を手に取るようにコントロールできると、信じていたんだ。

 遠藤誉氏の著書から大分長い引用になった。これらの歴史的証言を繋いでいくと、支那事変とはいったい何だったのか、その後につづく太平洋戦争とは何だったのか、東京裁判では日本の侵略性が問われているが、日本はなぜここまでの戦争をしなければならなかったのか、不思議な感覚に陥る。侵略、侵略といわれながら、戦後の蒋介石、毛沢東の発言は何なのか。両者とも、日本に対して深い被害者意識はない。これはどうしてか。ここに一つのヒントがある。日本では正式に歴史家と承認を得ていない、黄文雄氏の著書「日中戦争は侵略ではなかった」がある。黄文雄氏はいう、「日中八年戦争」「十五年戦争」という呼称が云われる日中間で、日中双方の本格的な戦争は、盧溝橋事件から武漢陥落までの一年余りで大勢が定まり、その後は実質的には日中戦争というより汪兆銘の南京政府、蒋介石の重慶政府、毛沢東の延安政府による三つ巴の戦いとなった。日中戦争は、列強をも引き込んだ中国の内戦であり、あるいは列強の代理戦争という側面があった。この戦争は、基本的には内戦の一環であり、またはその延長であった、と。中国の内戦は、すでにアヘン戦争より以前の十八世紀末の白蓮教徒の乱から太平天国の乱、回教徒などの宗教的・民族的な反乱など、間断なく発生していた。ことに辛亥革命による清帝国の崩壊と中華民国の成立で、中国は本格的な多政府戦乱国家の時代に入った。そして軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦、さらには中華人民共和国成立後の文化大革命とその収拾に至るまで、戦乱は続いていた。これら内戦、内乱、内訌の背景には、自然環境がもたらした天災や飢饉、匪乱の連鎖的な繰り返し、大量の餓死、殺戮の拡大再生産という悪循環の社会環境があった。日本は中国の反日侮日の陰謀と挑発にまんまと乗せられた。好戦的にして無責任な中国各勢力の罠にはまり、いくら和平工作を試みても、中国内戦のブラックホールに吸い込まれ、抜け出すことはついにできなかった、と。ここの事件に拘るとここまで言いにくいが、大局的に歴史的事実を俯瞰すると、黄文雄氏の見方もうなづけるところがある。
 黄文雄氏の解説を裏付ける事実が石平著「中国共産党暗黒の百年史」に載っている。中共裏工作の事例と蒋介石の行動である。1943年5月、この頃は、2月スターリングラード攻防戦でドイツ・イタリア軍が降伏する、2月ガダルカナル島から日本軍撤退、同じ2月汪精衛政権が日本と租界還付などの日華協定を締結、5月アッツ島に米軍上陸、5月北アフリカ戦線でドイツ・イタリア軍降伏する。その5月、共産党の裏切り行為に業を煮やした蒋介石は、延安を中心とする共産党本拠地に対する殲滅作戦の再開を決意し、作戦実行を胡宗南に命じた。命令を受けた胡宗南部隊は延安への奇襲攻撃作戦を計画し、秘密裏に準備を進めた。奇襲作戦の開始時期は7月9日と決められた。すると潜伏5年目の熊向暉が迅速に動き出した。彼は電撃作戦の全計画と開始時期などの機密情報を、秘密ルートを通じて延安の共産党指導部に届けた。蒋介石が胡宗南に殲滅作戦を命じた時に電報の写しも一緒に送った。毛沢東の机の上に届いたのは一週間前の7月3日だった。共産党指導部は全軍を終結させて迎撃態勢を整え、同時に、蒋介石の殲滅作戦を世の中に公表、「抗日統一戦線への破壊行為」として糾弾した。さらにアメリカ大使館に対しても、作戦を止めさせるよう呼びかけた。蒋介石と胡宗南にとって、青天の霹靂だった。国内世論とアメリカなどの圧力もあって、蒋介石はこの作戦を放棄した。(毛沢東は熊向暉を評してその威力は3個師団に匹敵すると絶賛、彼はその後周恩来の右腕として外交部門で働き、共産党の対外浸透工作を担当した。鄧小平の時代、外国資本を中国に誘い入れる国策会社の副董事長兼党書記に任命された) ふーむ、確かに日本と戦っていない。
 もう一つ、ルーズベルト大統領、チャーチル首相、蒋介石国民政府主席による1943年11月のカイロ会談は、もともと米英二国の首脳会談になる予定だった。しかしこの国際的な晴れ舞台に、蒋介石が招かれることになった。なぜならアメリカには「蒋介石が日本と何らか和解をし、あるいは中立を宣言したら、米国の対日海上作戦は停止することになる」(米海軍司令官ウィルアム・レイシー)という切実な危機意識があった。つまり蒋介石が日本と講和してその傀儡政権になるのか、または対日休戦を宣言して貯蔵してきた武器を内戦で用いるといった危険性を指摘していた。そこで蒋介石を連合軍側に引き留める会談に参加させ、満州や台湾という戦利品を中国に引渡す問題まで話し合われた。

戦後の日中関係は奇怪千万だ、と黄文雄氏は訴える。ともに子々孫々の友好を合唱しながら、中国は一方的に「正しい歴史認識」を日本に突きつけている。過去について正しい認識を持たない限り、将来を語ることは出来ない、と。現在の中国人、特に青少年の日本に対するイメージは極端に歪められている。それは日本軍が南京大虐殺、三光作戦、従軍慰安婦に象徴される侵略、虐殺、放火、暴行、略奪の軍隊だったとするいわゆる「正しい歴史認識」から来るものだろう。では誰がこのようなイメージを作り上げたかといえば、主に戦後中国の教育とメディアである。そしてそれ以上にこの歴史認識を広めたのが、「反日日本人」と呼ばれる日本の進歩的学者なかんずく中国専門家だ、と文雄氏は激しい。台湾の知識人の間では、日本の多くの中国専門家は軽蔑されるどころか、敵視されている。戦前の内藤湖南や白鳥庫吉などのような支那学者や東洋学者が尊敬されているのに比べ、戦後の中国専門家が軽蔑されるのは宿命的と言える、と。中国の反日プロパガンダを、そのまま日本に広めてきた、彼らの道義的責任は大きいが、それに対して非を唱えられない勇気なき多くの日本人も同罪だ、と。ふーむ、手厳しい。でも独立をいつ奪われるか分からない国民からすれば、通常の考えかもしれない。この歴史問題を論ずるに、鋭い指摘をする方は、やはり遠藤誉氏である。再度「毛沢東 日本軍と共謀した男」の戻ろう。

 毛沢東は一度も日本に歴史問題を突きつけたことはないし、また生きている間、ただの一度も抗日戦争勝利記念日を祝ったことがない。中国が歴史問題を論じ始めたのは、毛沢東が逝去してから数年経ったあとのことだ。それまでは中国人民は「南京大虐殺」に関してさえ、広くは知られていなかった。日本の「歴史教科書改竄」などがあって、初めて「南京大虐殺」が中国国内で広く知られるようになったと、人民日報は書いているが、それ以外にも日本の元軍人や日本の左翼系ジャーナリストなどにより知ったという情報も中国大陸のネットにはある。いずれにしても、日本側がその場を提供してあげたようなものだ。
 日中戦争の間は、父親が汪兆銘政権の宣伝部副部長として活躍していた江沢民は、毛沢東の老獪な戦略など知る筈もない。江沢民は、日中戦争時代は日本軍閥側の官吏の息子として贅沢な暮らしをしていた。だから当時の中国人には珍しく、ダンスも出来ればピアノも弾ける。日本が敗戦すると、あわてて中国共産党に近づくが、自分の出自が中国人民に知られたら国家主席どころか共産党員としての資格も剥奪されると、江沢民は恐れたに違いない。自分がどれだけ反日的であるかを示すために、江沢民は1994年から始めた「愛国主義教育」の中で必死になって反日扇動を行い、出自を隠そうとした。
 抗日戦争勝利記念日を全国レベルで祝い始めたのは1995年からだ。その年の5月にモスクワで開催された「世界反ファシズム戦争勝利50周年記念祝典」に招待された江沢民は衝撃を受けた。中華民国が戦った反ファシズム連合国側の一員に、この中国が位置づけられているではないか。それまでは中ソ対立があったが、1991年12月にソ連が崩壊し、ロシアのエリツィン大統領が中国を招待してくれたことにより、江沢民の自尊心が刺激された。1995年9月3日、中国では初めて全国レベルの「抗日戦争勝利記念日」と「反ファシズム戦争勝利記念日」の祝典が合わせて行われ、江沢民は「抗日戦争」を「反ファシズム戦争の重要な一部分」と位置付けた。そしてその戦争において「中国共産党がいかに貢献したか」を強調し始めた、と。ふーむ、遠藤氏の調査力、分析力には脱帽だ。

 さらに遠藤氏は提言する。中国は共産党政権を正当化して求心力を高めるためにも、日中戦争における中共の歴史を歪曲し、自らを讃えて日本を非難し続ける手法をとるだろう。これは互いの悪感情を増幅させるだけで、日中双方にとって良いことではない。客観的事実の検証と、ふたたび戦争への道を歩まない決意を再確認することは不可欠だが、現状を放置すれば、日中関係は険悪なスパイラルから抜け出せなくなっている。それにブレーキを掛けるには毛沢東の事実を広める以外にない、と。そのためには日本は理論武装に力を注がなければならないとも言っている。フム、それと日本の中国専門家といわれる人の言説からも脱却しなければならない。