goo blog サービス終了のお知らせ 

情報に無知な組織、国家、軍による悲劇

2022年01月09日 | 歴史を尋ねる

 歴史を訪ねるシリーズは終えたが、その間にいろいろ考えたことを拾い上げながら、小編を綴ってみたい。そんな過程で堀栄三著「情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記」に出会った。現代の日本人にとって当時を正確に理解するのが難しい時代は日米戦争の時代だろう。しかし日本人が遭遇した、あるいは作った時代でもある。この時代に正面から向き合うことが、日本人の責務である。多くの人達が戦禍に倒れたことを思うと、素直にそう思っている。そんな思いから、堀氏の情報戦記に耳を傾けたい。

 堀栄三(1913~1995)陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し1943(昭和18)年大本営陸軍部参謀となり、在フィリピン第十四方面軍(山下奉文司令官)の情報主任参謀も務める。敗戦後、54年に自衛隊に入隊、終始情報畑を歩き、67年に退官。昭和20年秋、悲劇の山下軍団と題して、某出版社に400枚ほどを書き綴った。傍で見ていた父が、負けた戦さを得意になって書いて銭を貰うなと叱責され、堀は貝になった。敗戦から41年目の夏、ある雑誌で、レイテ決戦失敗の原因は「台湾沖航空戦の過大戦果を戒めた堀の電報を、大本営作戦課が握りつぶしたからだ」とある人が発言、それがきっかけで堀の仕事に注目が集まった。戦争を体験しない人たちの世代となって、当時のことを知る術が次第になくなっている。そんなことから勧めに従って書いた著書が、上記の著書であった。堀は言う、「情報に無知な組織(国家、軍)が、人々にいかなる悲劇をもたらすかと情報的思考の大切さを、本書の中から汲み取ってくだされば幸い」と。

 昭和19年10月、堀は完成した『敵軍戦法早わかり』を第一線部隊に普及させるため、在比島第十四方面軍に出張を命じられた。何とか鹿屋飛行場についた午後一時過ぎ、飛行場脇の大型ピストの前は十数人の下士官や兵士が慌ただしく行き来し、黒板の前に座った司令官らしい将官を中心に、数人の幕僚たちに戦果を報告していた。「〇〇機、空母アリゾナ型撃沈!」「よーし、ご苦労だった!」戦果が直ちに黒板に書かれる。「〇〇機、エンタープライズ轟沈!」「やった!、よし、ご苦労!」また黒板に書きこまれる。「やった、やった、戦艦二撃沈、重巡一撃沈」黒板の戦果は次々と膨らんでいく。「わっ」という歓声が、その度毎にピストの内外に湧き上がる。堀の頭の中には、幾つかの疑問が残った。敵軍戦法研究中からの脳裡を離れなかった「航空戦が怪しい」と考えたあれであった。そのあれが今、堀の目の前にある。 一体、誰がどこで、どのようにして戦果を確認していたのだろうか? この姿こそあのギルバート、ブーゲンビル島沖航空戦の偽戦果と同じではないか? 今村大将のタロキナ上陸の米軍撃退作戦の失敗の原因となった、あれでは? 堀は、ピストでの報告を終えて出てきた海軍パイロットたちを、片っ端から呼び止めて聞いた。「どうして撃沈だとわかったか?」「どうしてアリゾナとわかったか?」「暗い夜の海の上だ、どうして自分の爆弾でやったと確信して言えるか?」「雲量は?」「友軍機や僚機はどうした?」矢継ぎ早やに出す堀の質問に、パイロットたちの答えはだんだん怪しくなってくる。「戦果確認機のパイロットは誰だ?」「・・・・・・」返事がなかった。そのとき、陸軍の飛行服を着た少佐が、「参謀!買い被ったらいけないぜ、俺の部下は誰も帰って来てないよ。あの凄い防空弾幕だ、帰ってこなけりゃ戦果の報告も出来ないんだぜ」心配げに部下を思う顔だった。「参謀! あの弾幕は見た者でないとわからんよ、あれを潜り抜けるのは十機に一機もない筈だ」  戦果はこんなに大きくない。場合によっては三分の一か、五分の一か、あるいはもっと少ないかもしれない。第一、誰がこの戦果を確認してきたのだ、誰がこれを審査しているのだ。やはり、これが今までの〇〇島沖海軍航空戦の幻の大戦果の実体だったのだ。
 堀が大本営第二部長宛てに緊急電報を打ったのは、その日の夕方七時頃であった。「この成果は信用できない。いかに多くても二、三隻、それも航空母艦かどうかも疑問」  これが打った電報の内容であった。堀の質問に、どうにか堀を納得させる答えをしたパイロットは、わずか一、二名に過ぎなかった。一年に亙って太平洋での航空戦の戦果を研究してきた情報参謀の持ち続けていた「?」に対する職人的勘にも等しい結論だったが、それには、米艦船の数や備砲や艦型や、機動部隊の構成などの詳しいデーターと、過去の航空戦の戦果発表とその誤差などが、堀の分厚いノートに記述してあった。なぜ戦果が過大なものに化けるのかのカラクリの真相を、目の当たりにした。反面、この重大な時に作戦参謀がどうして鹿屋に馳せ参じないのか、これが作戦課の情報不感症というものだ、堀は嘆いている。
 堀を中心とする米軍戦法研究グループが、各種統計を取っているうちに注目したのは、昭和18年11月5~17日にわたる六次に及ぶブーゲンビル島沖海軍航空作戦と11月21~29日の四次にわたるギルバート沖海軍航空戦の戦果であった。大本営海軍部の発表を総計すると、撃沈:戦艦3,航空母艦14,巡洋艦9,駆逐艦1,その他4。 撃破:戦艦2,航空母艦5,巡洋艦3,駆逐艦6,その他2。  さらに12月5にちのマーシャル沖海軍航空戦の戦果、撃沈:中型空母1,大破:大型空母1。この時点で計算上では、米海軍には航空母艦は一隻もなく、米艦隊の活動能力はゼロ。  日本海軍の戦果発表は外電となって世界中に飛んだ。大本営陸軍部内でも、第二部長(情報)が第一部長(作戦)に、「米国では南太平洋に行くことだけはご免だということであり、ブーゲンビル航空戦の影響で株は下がる、小麦の買留めが始まり、市況が混乱しかけている」と述べていたという。情報の総元締めである大本営第二部長がこの体たらくであったとは驚かざるを得ない、とは著者堀氏。前述した台湾沖航空戦の出鱈目な戦果発表を鵜吞みにした陸軍が、急遽作戦を変更して、レイテ決戦を行う破目に陥るのであるから、海軍航空戦の戦果発表は、地獄への引導のようなものであった とは、堀氏のコメント。堀は陸軍参謀だったので、海軍の本音が分からなかったとも言えるが、大本営海軍部もどこまで実態をつかんでいたのか。つかんでいたら、ここまでの出鱈目な発表は躊躇しただろう。海軍の出鱈目な発表は開戦初期のミッドウェー海戦の惨敗から始まっていた。ただこの時は実態は掴んでいたが、実態をゆがめて発表した。そして、誰も責任を取らない無責任体制が海軍内に蔓延し、早くから海軍上層部を蝕んでいたことになる。

 堀たちはこの原因を調査した。情報は収集するや直ちに審査しなければならない。情報処理の初歩である。航空戦の場合、いったい誰がどこで戦果を見ているのだろうか。真珠湾の攻撃の時は戦果の写真撮影があって、戦果の確認が一目瞭然だった。ギルバート沖、ブーゲンビル島沖航空戦は、昼間のものが少なく、薄暮とか黎明とか、中には夜間もあった。その後の航空戦では戦果の確認ができていない。帰還した飛行士の報告を司令官や参謀が、そうか、ご苦労と言って肯く以外に方法を持っていなかった。陸上の戦闘や海戦では指揮官が自ら戦闘に臨んで、自分の目で見ているが、航空戦では司令官も参謀も誰一人戦場に行っていない。何百キロも離れた司令部にいるから、自分の目の代わりに帰還飛行士の声を信用する以外に方法がない。戦闘参加機以外の誰かが冷静に写真その他で戦果を見届ける方法がない限り、誇大報告は避けられない。米軍はやっていたが、日本はやっていなかった。このくらいは司令官の発議で実行できたと思われるが、不思議な現象であった。いずれにしても、誇大報告はその後の戦闘に大変な影響を与えた。第八方面軍の今村大将は、「海空軍の数次にわたる大戦果に鑑み、当面の敵(ブーゲンビル島タロキナ岬へ上陸した米海兵師団)を撃砕するにはこの機を逃して期待し難き」と判断して、原四郎中佐作戦参謀を急遽ブーゲンビル島に派遣して、必至敢闘との今村大将よりの訓示を伝達させ、第十七軍司令官百武晴吉中将にタロキナに上陸した米軍を速やかに撃滅することを命令した。今村大将は百武中将麾下の将兵の尻を、とんでもない棒でひっぱたいた。ブーゲンビル島の第六師団の将兵には、増援隊はおろか、握り飯一個も遅れなかった。
 ブーゲンビル島の第六師団の守備地域は師団司令部のあるブインからタロキナまで140キロ、海岸線は240キロに及んでいた。ちょうど東京から豊橋付近の距離、地形はジャングルと氾濫するワニのいる川、命令を受けた連隊は一週間かけてタロキナに到着、大本営や第八方面軍司令部が机上で地図の上に書いた防禦線はジャングルという地形の障害と、制空と制海という障害によって陸続きとは言えず点化させられた孤島であった。制空権を持った米軍は、写真撮影で十分に研究して、日本軍の一番弱いところに上陸してきたから、守るということは実に難しかった。「戦史叢書」では、「敵の追撃砲は、集中射撃の連打で、日本軍の戦線を区分して、適当な幅と深さに地図上に番号を付け、その番号の地域に短時間に数百発の砲撃を打ち込んで、ネズミ一匹も生存しえない猛射を繰り返す。その勢いや壮烈、その規模や雄大で、進もうとしても力足らず、その場に居座ると損害は激増して、全滅に陥ることは必定、致し方なく一片の恥を忍んで敵追撃砲の有効射程の外に部隊を移動し、態勢を立て直す以外になかった」と。
 中支で勇名を馳せた部隊も、猛射の米軍の前に遂に撤退を決心した。満州事変以来、二流三流の軍隊と戦って、強引にやれば抜けた経験も、米軍追撃砲の集中射撃には、どうすることも出来なかった。その上、こちらの兵力は三個中隊(1200名)で、相手は海兵一個師団(約2万名)。師団長も連隊長も支那軍相手の手法であったが、米軍の鉄量戦法の前には目隠しの剣術。「鉄量を打ち破るものは鉄量のみ」(堀が陸大時代に戦史講義の所見提出で生み出した言葉) 昭和12年の上海戦、その翌々年のノモンハンの戦闘で経験済みであった。日本軍中央部の精神第一主義は、大陸での二流三流の軍隊には通用したものの、近代化された米軍には無残な姿をさらけ出した。それにも関わらず、当時ラバウルの作戦関係参謀や、大本営の作戦課では、連隊長を卑怯極まりない、命惜しみの部隊長だと罵った末、最後は連隊長を更迭してしまった。気の毒なのは第一線だった。上級司令部や大本営が、敵の戦法に関する情報も知らず、密林の孤島に点化された認識もなく、増援隊はもちろん、握り飯一個も送り届けないで、一歩たりとも後退させないという非情さはどこから来たのであろうか?と堀氏。大本営作戦課や上級司令部が、米軍の能力や戦法及び地形に対する情報がないまま、机上で二流三流軍に対すると同様の期待を込めた作戦を立てたからである、と堀は断言する。これが陸軍士官学校、大学校を優秀な成績で卒業してきたエリート達の立てた作戦でもあった。現代に置きなおすと、倒産企業の典型となるだろう。さらに、上官の命令は天皇の命令と勅諭に示されていたから、退却はこの場合大罪であった、と。

 話を最初に戻す。台湾沖航空戦が終わり、情報参謀・堀は新田原を出発、マニラに到着した。途中台北の上空から眺めた台北飛行場の光景は悲惨を極めた。大きな格納庫は骨組みがむき出しとなり、日本軍飛行機の残骸が至る所にあった。米軍の攻撃が生易しいものではなかったことが一目瞭然だった。米軍の制空権がここまで及んでいるのか、これこそ米軍の常套戦法だ、あの太平洋のいたるところで上陸に先立って上陸地点に増援可能な空域内の飛行場や港湾、艦船を徹底的に攻撃して、上陸地点の日本守備隊を点化、孤立化させてきた。これによって日本軍の一切の輸送補給も、飛行機や部隊の増援も完全に遮断されてしまう。近々、米軍は比島を狙ってくる! 案の定、マニラは艦載機での空襲中であった。そのため堀たちを乗せた輸送機は辛うじてクラーク飛行場に着陸したが、ここでも米軍の銃爆撃で焼かれた多数の日本軍飛行機が、無残な姿をさらしていた。堀に頭の中に、米軍の上陸近しという勘が去来した。それにしてもマニラは何と平穏な町であろうか、街を歩いて見る限り、戦争がもうそこまで来ているという影はほとんど見えない。戦時下という意識を忘れさせる光景だった。それでいてマニラ湾の上では、ときどき高射砲の激しい砲声が、上空の戦闘機を目がけて鳴り響いている、不思議な国であった。堀は到着すると、すぐに南方軍総司令部、第四航空軍司令部、南西艦隊司令部と回って現在の状況把握に努めた。そこで初めて大本営海軍部発表の台湾沖航空戦の戦果を知った。それぞれの司令部の情報課を駆け巡って入手した数字(14日17時発表:判明せる戦果、轟撃沈:航空母艦3,艦種不詳3,駆逐艦1。撃沈:航空母艦1,艦種不詳1。   15日10時発表:判明せる戦果(既発表を含む)轟撃沈:航空母艦7,駆逐艦1,既発表の艦種不詳3は航空母艦なること判明。撃破:航空母艦2,戦艦1,巡洋艦1,艦種不詳1。 16日15時発表、台湾沖航空戦の戦果累計:轟撃沈:空母10,戦艦2,巡洋艦3,駆逐艦1。撃破:空母3,戦艦1,巡洋艦4,艦種不詳11。)であった。そんな馬鹿な大戦果が、との堀の反駁は、マニラでは一顧だにされなかった。各司令部は大本営海軍部発表を全面的に肯定し、各幕僚室は軍艦マーチに酔っていた。新田原で閃いた憂慮は、今現実となって眼前に展開されている。堀が東京で貰った任務は、第十四方面軍に出頭して、その指示によって敵軍戦法を普及徹底させることに過ぎない、どうすべきか堀は焦った。折からの米軍艦載機の空襲の中を、第十四方面軍司令部(山下奉文司令官)に向かった。山下大将は武藤章参謀長が着任していないので西村敏雄少将参謀副長を同席させ、堀の説明が台湾沖航空戦の戦果の問題に及ぶと、さらに作戦関係の参謀も同席を求めた。
 堀は鹿屋で視察してきた実状を中心に、東京へ打電した電報の内容を交えて、米軍の海軍機動部隊はなお健在とみるのが至当であり、堀の計算では現在比島を空襲中の米機動部隊は、十二隻の航空母艦が基幹である旨を主張した。その上、ギルバート、ブーゲンビル島沖航空戦以来、航空戦の戦果ほど曲者はない、と説明し、今村大将が前年11月月第六師団にタロキナ大反撃を命令した時も、海軍のブーゲンビル島沖航空戦の戦果発表の過大な誤認識が原因だったことも付言した。それに昭和19年夏以降、米戦闘機P-38が急速に航空距離を増加して、現在は千キロに及んでいるから、南部比島までは米軍の制空権空域の中に入ってきており、従来から制空権の空域が米軍の作戦行動の一つの物差しになっていることも説明した。大将は驚いた様子もなく西村参謀副長に、「現にいま、この上を艦載機が飛んでいるではないか」 これに応えて参謀副長は「台湾沖の戦果は、これだな」と、人差指で眉の上を撫でた。大将は「よし分かった、今夜の祝賀会は取り止めにする。せっかく準備したのだから慰労会に変更だ。俺は出席しない」

 翌18日、方面軍司令部の作戦室に堀は呼び出され「レイテ湾に敵に軍艦が入ってきている。しかしどうも様子がおかしい。上陸か上陸でないか一緒に考えてくれ」と西村参謀副長。咄嗟に堀は提案した。米軍が上陸する可能性は少しも不思議ではないから、1,16師団に命じて、米軍艦船の状況を飛行機で見させること。2,第四航空軍と海軍に連絡して、レイテ湾の外海に輸送船団があるかどうか確かめさせる。3,16師団は敵の上陸を前提に緊急守備態勢に入ること。4,米軍機にパイロットの捕虜があれば、憲兵隊はあらゆる手段をもって、航空母艦の艦名を大至急調査すること。まずこれだけをやらせてください、と。
 翌19日、16師団から電報が届いた。「参謀の飛行機偵察によると、レイテ湾内には十数隻の米艦船があり、十数隻の駆逐艦を中心に、数隻の戦艦がその外周をぐるぐる回って警戒している」と。この電文は、見る間に楽観論を作ってしまった。駆逐艦が戦艦を護衛するなら話は分かる、それが反対ではないか。いまヤップ島方面は暴風だ、彼らはこの危険な気象状態を避けるため、一時レイテ湾に避難しているのだ、と。総軍、航空軍、海軍の意見に合わせて、山下方面軍の参謀の多数もこの意見の支持に回ってしまった。「堀君、君の台湾沖航空戦の戦果判断、あれは間違いだよ、見ろ、この状況を!」 堀は「でも、レイテ湾入口のスルアン島の海軍監視哨が、17日天皇陛下万歳を打電して消滅している。米軍が上陸前に付近の小さい島を占領するのが米軍の上陸戦法だ。いまレイテ湾にいる米艦隊が損傷艦だと断定するのはまだ早い。米軍は太平洋でいつも天候不良の時に上陸している。これも米軍の戦法だ」と反論したが、一同を納得させる迫力はなかった。堀が後で悔やんだのは、現地レイテ湾の雲量はどうだったか、誰がどんな飛行機で見に行った、彼に艦船を識別する能力があったか、という質問を咄嗟に出なかった。当時のレイテ湾の雲量は九、普通に状況では海上は見えない。16師団の参謀は、わずかの雲の切れ目から降下し艦影を見た途端、猛烈な空一面が真っ黒になる防空弾幕にびっくりして上昇して雲の上を帰還、その途中で一瞬垣間見た情景の記憶を頭の中で整理作文した。皮肉なことに彼は陸軍の参謀で、米海軍の艦船の知識がない、事実をありのままに伝えることは、情報業務の初歩的原則であったが、すでに主観や判断が入ってしまっていた。
 ところが間もなく憲兵隊から重要な情報がもたらされた。米軍パイロットの尋問の結果、現在ルソン島を空襲中の米航空母艦は正規空母十二隻で、その艦名も全部判明した。この情報に作戦室の参謀一同、粛として声がなくなってしまった。西村参謀副長は唸った。情報が堀の期待通り出てきた、もっと早く「レイテに米軍本格上陸」と何も疑いもなく衆心一致、山下大将はレイテ方面を担当する第35軍に対策指示が出せた。その頃すでに16師団は猛烈な艦砲射撃に見舞われ、夕刻から通信が途絶した。従って第35軍でさえ、レイテの状況は皆目不明となった。そして、捷一号作戦発令の天皇裁可の命令を、南方総軍の作戦参謀が司令部に届けに来た。捷一号作戦とは、米軍と国運を賭けても陸上決戦の名称で、元来は米軍がルソン島の侵攻したとき、山下方面軍が全力でルソン島を舞台に行うよう、山下大将は比島赴任に先だって大本営陸軍作戦課と十分な打ち合わせを終えていた。大将はこの計画に基づいて着任したのに、その10日後に台湾沖航空戦の大戦果に酔った作戦課は、今こそ海軍の消滅した米陸軍をレイテにおいて殲滅すべき好機であると、ルソン決戦からレイテ決戦へ急に戦略の大転換を行ってしまった。山下大将は不満この上ないものとなった。同時に、航空戦の誤報を信じて軽々に大戦略を転換して、敗戦へと急傾斜をたどらせた一握りの戦略策定者の歴史的な大過失であった、情報参謀・堀栄三が日本人のためにどうしても書き残しておきたかった、立ち会った戦場からのメッセージだった。

 堀栄三の情報戦記はまだまだ続くが、2,3興味深い点をピックアップする。終戦時、暗号解読の実施部隊は陸軍中央特殊情報部であった。特情部は8月11日、シドニー放送で日本がポツダム宣言の受諾を決したという情報を承知した。早速西村敏雄特情部長は終戦時の特情部の処理について構想を示し、その日の夕方から膨大な暗号関係の資料や暗号解読関係の機械の処分に移った。資料は紙一片と雖も残さず一切を焼却し、黒煙は三日間にわたって空を焦がし、機械類はその一片に至るまで破壊し、暗号書の一部は土中深く掘って埋め、占領軍が特情部の仕事と内容を追求しても、その解明は不可能とした。米軍は、日本の特情部がある程度、米国の暗号を解読したり、盗読したりしていたことを知ったが、肝心の証拠になる資料はすでに一枚もなく、判明した一部関係者にレポートを提出させた。実際には、日本陸軍は昭和11年頃から、まず国民政府外交部の暗号書を写真撮影したことを手始めに、日本内地でも外国公館などに専門家を忍び込ませ、暗号書の写真撮影を実施したことは確かだが、成功したかどうかは今日まで不明。結論的には日本陸軍は、昭和11年頃から昭和17年初頭まで、米国務省の外交暗号の一部を確実に解読または盗読し、国民政府の外交暗号、武官用暗号はほぼ完全に盗読していた。この事実の裏を返せば、日本が日米開戦に踏み切った原因の大きな一つに、米国暗号の解読、盗読という突っかい棒があったと判断される節があった。だが問屋はそう安く卸してくれなかった。開戦一か月後には米国の暗号は全面的に改変し、爾後昭和20年8月まで米国暗号は解読できなかった。これも裏を返せば、日本に米国の暗号をある程度取らせておいて、開戦に誘い込んでから計画的に料理をしようとした疑いもなくはない。暗号一つを通じてみた情報の世界でも、米国が日本を子ども扱いにしていた観がある。これを情報的に観察すれば、日本を開戦に追い込むための、米国の一大謀略があったとみるのもあながち間違っていない、と堀栄三。
 「日米戦争は米国人が仕掛人で、日本は受けて立たざるを得なかったのだ」と東京裁判で立証して、日本の戦犯を弁護しようとした一人に、清瀬一郎弁護士がいた。昭和21年4月、変名で潜伏生活を営んでいた、旧特情部の企画運用課長横山幸雄中佐に、終戦事務局から東京に出頭するよう電報が来た。終戦事務局には東條大将の旧秘書官井本熊男大佐らが待っていた。「いま東條大将たちの裁判が進行中だが、米国が先に開戦を計画していたという情報的証拠が欲しい。特情部が解読した資料の中にそれがないか。それはあったら東京裁判は根本から覆すことができる。欲しがっているのは清瀬一郎首席弁護人だ。私(横山)の記憶では、開戦の頃の国民政府の駐米武官が、本国宛に打った暗号電報の中で、確かに米国が対日戦争を決意して、あれこれと日本を誘いだそうとしていることを報告した解読電文があったと、頭の中に浮かんだが、開戦時私は北京にいたし、その解読電文は開戦後特情部で読んだもので、すべて焼却して灰燼に化している。記憶だけでは裁判の立証にはならず、清瀬弁護人を非常に落胆させた」とは、横山元中佐の手記だった。堀は言う。情報とは実に難しいものである。隠そうとしている情報を取ろうとする難しさだけではない。善悪を逆にするような謀略にも対処していかなければならない。特情部が全資料を焼却しないでいたら、あるいは東京裁判の計画的筋書をひっくり返して、全世界にワシントン会議以来の米国の野望を暴露させ得たかもしれなかった。特情部は、暗号解読関係者は処刑されるという風聞が伝わったので、ひたすら身内大切の一心から、軍という立場だけで、暗号作業の秘匿第一に全神経を費やし、国家国策的立場にまでは思いが及ばなかった、堀は残念がる。渦中にあっていかに対処し、何が一番大事であるかを見通せ、とは土肥原将軍の言葉だった、と。

 また堀は面白い見方を提示する。堀は当初ドイツ課、続いてソ連課、そこを落第となって米英課に回された。杉田課長は実践型というか、「堀君は米国班に所属して、米軍の戦法を専心研究してもらう。そのためにはまず戦場を見てきてもらいたい」と。ラバウルで寺本熊市中将と出会い、「必勝六法」の講義を受け、これで情報参謀への道が開け、米軍戦法研究に大きな示唆を得た。情報戦争は、当然戦争の起こる前から始まっている。米国が日本との戦争を準備したのは、寺本中将のいうごとく大正10年からであった。事前に収集する情報は軍事的なものだけではない。あらゆる分野の情報から、その国の戦争能力をはじき出していかなければならない。これらを調査するのは、新聞、雑誌、公刊文書の外に、諜者網をその国に余裕をもって作り上げておかなければ、いざという時の役に立たない。この諜者網を摘発して諜者の活動を防止するのが防諜である。防諜では日本民族ぐらいのんびりしている国はない。第二次世界大戦で日本が開戦するや否や、米国がいの一番にやったことは、日本人の強制収容だった。戦後40年経って米国は何百万ドルを支払って御免なさいと議会で決めているから、実に立派な人道的民主主義の国だと思っている人が多い。どうして日本人はこんなにまでおめでたいのか? むろん日本人をジャップと呼んだ当時の感情的反発の行動であったのは当然として、裏から見れば、あれで日本武官が営々として作り上げてきた米国内の諜者網を破壊するための防諜対策であったと、どうして考えないのか。米国人は国境を隔てて何百年の間、権謀術数に明け暮れた欧州人の子孫である。日本人のように鎖国三百年の夢を貪ってきた民族とは、情報の収集や防諜に関して全然血統が違う。40年後に何百万ドル払って不平を静めようが、戦争に負けるよりはぐっと安い、と。日本はハワイの真珠湾奇襲攻撃して、数隻の戦艦を撃沈する戦術的勝利を挙げて狂喜乱舞したが、それを口実に米国は日系人強制収容という真珠湾以上の大戦略的情報勝利を収めてしまった。これで日本武官が、米本土に築いた情報の砦は瓦解した。戦艦が大事だったか、情報が大事だったか、盲目の太平洋戦争は、ここから始まった。

 最後に、米軍が昭和21年4月、『日本陸海軍の情報部について』という調査書を米政府に提出している。その結言の中で次のように語っている。「結局、日本の陸海軍情報は不十分であったことが露呈したが、その理由の主なものは、(1)国力判断の誤り:軍部の指導者はドイツが勝つと断定し、連合国の生産力、士気、弱点に関する見積もりを不当に過小評価してしまった。 (2)制空権の喪失:不運な戦況、特に航空偵察の失敗は、最も確度の高い大量の情報を逃す結果となった。 (3)組織の不統一:陸海軍間の円滑な連絡が欠けて、せっかく情報を入手しても、それを役立てることができなかった。 (4)作戦第一、情報軽視:情報関係のポストに人材を得なかった。このことは、情報に含まれている重大な背後事情を見抜く力の不足となって現れ、情報任務が日本軍では第二次的任務に過ぎない結果となって現れた。 (5)精神主義の誇張:日本軍の精神主義が情報活動を阻害する作用をした。軍の立案者たちは、いずれも神がかり的な日本不滅論を繰り返し声明し、戦争を効果的に行うために最も必要な諸準備をないがしろにして、ただ攻撃あるのみを過大に強調した。その結果彼らは敵に関する情報に盲目になってしまった。
 あまりにも的を射た指摘に、ただ脱帽あるのみだ、と堀を唸らせている。特に第四の指摘に、米軍は日本の急所を押えていると感服している。大本営作戦課に人材を集めたのは昔からのことであった。その中でも作戦班には、陸大軍刀組以外は入れなかった。作戦課長の経験なしで陸軍大将になった者は、よほどの例外と言って差し支えなかった。情報部は毎年一回、年度情勢判断というかなり分厚いものを作って、参謀総長や各部に配布していたが、堀の在任中、作戦課と作戦室で同席して、個々の作戦について敵情判断を述べ、作戦に関して所要の議論を戦わしたことはただの一回もなかった。毎朝情報部が行う戦況説明会は、第二部はこんなに仕事をしているという大本営部内の宣伝活動のようなもので、作戦課は情報部の判断を歯牙にもかけていなかった。堀が山下方面軍でルソン上陸の敵情判断をしていた頃、米軍のルソン進攻は三月以降であると打電してきたり、台湾沖航空戦の戦果に関する堀の電報が没になるという不思議な事があったのも、作戦と情報が隔離していた証拠であり、大本営の中にもう一つの大本営奥の院があって、そこでは有力参謀の専断でかなりのことが行われていたように感じられてならない、と堀。結論として、情報部を別格の軍刀参謀組で固めていたら、戦争も起こらなかった子も知れない、と。
 ウサギの戦力は、あの早い脚であるのか、あの大きな耳であるか?  答えは、いかにウサギが早い脚をもっていても、あの長い耳で素早く正確に敵を察知しなかったら、走る前にやられてしまう。なまじっかな軍事力より、情報力をこそ高めるべき。長くて大きなウサギの耳こそ、欠くべからざる最高の戦力である、堀栄三は結んでいる。


「歴史を訪ねる」最終章

2021年12月28日 | 歴史を尋ねる

 このシリーズは日本の歴史を詳しく知らない筆者が、近代日本の行方を必死に追いかけてきた。初回は2009年9月、「歴史を辿る」というタイトルでスタートした。文字数にして500字あまり。筆者の記憶を頼りに、次第に薄れていく記憶・感想を記録に留めておきたいとの思いが最初だった。名古屋に住んでいた時、古戦場巡りをしたこともきっかけになった。さらに水戸の弘道館を訪ねた時、徳川慶喜が蟄居した部屋を見せられ、元将軍慶喜がこんな小さい部屋で薩長軍に降ってうつうつと生き延びていたことに、大いに驚いた。そうか、歴史の現場とはこうまで苛烈なものか、あまりにも知らなすぎる、出来るだけ現場に立つ思いで歴史を辿ってみよう、と思い立ったのがこのシリーズのきっかけだった。だから本人(当事者)が語った言葉を出来るだけ拾い集めた。言葉とは不思議なもので、力があるというが、言葉を通して、当時のいろいろなものが見えてくる。それを大事にしながら、タイトルを重ねた。
 最初のテーマは尊王攘夷がどう生れ、時代の大義となったにもかかわらず、その大義を背負った薩長がその大義をフェイドアウトさせ、文明開化を呼び込んだ。その歴史の面白さ。そこのところをうまくキャッチ出来たかどうか、このシリーズの最初の見せどころだったが、どうだったか。筆者は第一次資料を読むことはできないので、誰かの著作で、当時を思い浮かべるしかない。そうした中で、野口武彦氏の著作に出会ったのはラッキーだった。週刊新潮に幕末物の出来事をちょっと違った角度から活写していた読み物が気になって、氏の著作「幕末バトル・ロワイアル」を読んでみたらこれが面白かった。氏の活写シーンを随分参考にさせてもらった。そこで行きついたのが、権力交代劇の実況中継「小御所会議の山内容堂と岩倉具視が激突する対決場」であった。そうか権力交代(政権交代)はここからスタートしたのか、と。
 次のテーマは貨幣経済。日本の貨幣経済の歴史は古い。お隣の韓国は李朝朝鮮時代も貨幣経済がまだ成立していなかった。平安時代に日本に来た朝鮮通信使は、乞食さえ銭を欲しがったとびっくりして報告書に記していた。この貨幣経済の仕組みが曲折を経ながら、明治維新以降の経済的発展の礎になった。日米修交通商条約の発効以降、金銀交換比率の違いにより金貨銀貨が大量に国外に流出した問題、薩英戦争、下関戦争の賠償金は幕府が負担、残りは明治新政府、幕府の財政を圧迫したのは開国と長州征伐、政権を返納された朝廷側も国を動かす資金は持ってなかった。国の根幹は財政にありとの考えのもとに、越前藩の由利公正が会計責任者に抜擢され戊辰戦争の戦費をねん出した。由利公正の起案により発行された太政官札は額面通り通用せず、新政府は新貨条例を布告、両に代わる通貨単位円を採用した。このように金銀貨幣がどのように円に切り替わり、現代の貨幣経済につながったのか、随分丁寧に資料を集めて、解析したつもりだったが、自分自身で納得いく理解ができていない。しかしその当時の貨幣にまつわる出来事はかき集めたつもりであった。
 続いて、明治新政府の国つくりと日本の財閥の成長。幕藩体制から中央集権的近代国家へと一新させた明治新政府の苦闘と財閥の興り・発展を追いかけた。廃藩置県断行と大名の債務の解消、岩倉遣欧米使節団の役割、大久保利通の政策と自由民権運動の興隆、西南戦争から大隈財政、松方財政と進み、国会開設・憲法制定へと歩を進める。一方で農業国家日本の近代化にスポットを当てた。併せて日本の最大の輸出製品・生糸と製糸工場の行方を追った。明治初期の海外貿易創出の生命線だった。

 明治新政府が国交を開いて最初につまずいたのは李朝朝鮮への新政府成立通知の書簡授受(書契)問題だった。この問題はインターネット上の情報しか手に入らないし、韓国の歴史では絶対扱われない。一見小さな問題ながら、日朝間のその後の紛争の根本に根差している、いやらしい問題で、結局その時の解決策は、日本の軍事的威嚇であった。国際情勢に後れを取った当時の李朝朝鮮のメンツ問題でもあり、今も変わらぬ面子問題の原初的な現れであった。日朝間の諸問題について随分細かくそれぞれの事件を追いかけた。結局、日韓併合問題は極東の安全保障体制と結びついて誕生したが、今となっては国際情勢上の理解の外ということだろう。そして形を変えて、朝鮮半島の南北分離統一問題として、解決の道筋は生まれていない。
 日本の国防問題が転換されたのは明治23年、山県有朋の国防論「外交政略論」からだという。ヨーロッパの憲法調査を行った伊藤博文を師事した人物で、ウィーン大学教授・国家学者ローレンツ・フォン・シュタインは山県の国防論「軍事意見書」を高く評価し、自国の主権の及ばぬ領域であっても、その領域の動向が自国の及ばぬ領域であっても、その領域の動向が自国の独立にとって脅威となる場合には、自らその領域を「利益疆域」として兵力を以て防衛しなければならないとの考えを披歴した。この考え方が、山県の「外交政略論」の主権線、利益線につながり、守勢国防戦略思想から、「帝国の国防は攻勢を以って本領とす」「我邦利益線の焦点は実に朝鮮に在り」へと、国防戦略思想の転換となった、という。この国防論がその後の日清戦争、日露戦争にどう影響を及ぼしたかまで掘り下げることはできなかったが、その後の日本の軍事行動はその考え方に沿って動いていった。
 日露戦争でロシアから引き継いだ満州の権益の取り扱いは実に難しい。その一つは、満州の地で実に多くの戦死者を出した。日本人にとっては、日本人の多くの血であがなった権益である。そうは言っても、「満州問題に関する協議会」の席上、伊藤博文は「児玉参謀総長は満州に於ける日本の地位を根本的に誤解している。満州に於ける日本の権利は講和条約に依って露国から譲り受けたもの以外に何もない。満州経営という言葉は戦時中から我が国の人が口にしていた所で、今日では官吏や商人もしきりに満州経営を説くが、満州は決して我が国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である。属地でもない場所に我が主権の行われる道理は無いし、従って拓務省のようなものを新設して事務を取扱う必要もない。満州行政の責任はこれを清国に負担させねばならない」 歴史を振り返ってみると、伊藤博文の考えは奥が深い。協議会の論争は形の上では伊藤の提案に沿った決着となったが、実際の行動は児玉参謀の考えに近い外交政策となった。当時の首相西園寺公望の決断がなかった所為だ。そして、伊藤が朝鮮人のテロに倒れたのも残念であった。このブログでも随分満州問題を取り上げたが、結局伊藤の考えに戻ってくる。そのうえで、日本の経済進出をどうするのか、清国との経済友好条約等を考えたほうが、よい方途があったのではないか。
 辛亥革命以降の中国と日本の接し方については、産経新聞に掲載された「蒋介石秘録」を中心に、事件を追いかけた。国際問題については、日本側の資料だけだと、バランスを欠く。両方の見解を併記することによって、日本側の足らざるところが見えてくる。蒋介石は「1906年4月に日本へ渡る。この渡日の目的は東京振武学校で学ぶことであったが、保定陸軍促成学堂の関係者しか振武学校の入学を許可されていなかったので、目的を果たすことはできなかった。しかし蔣介石はこの渡日で、孫文率いる中国同盟会の一員で、孫文が進める武力革命運動の実践活動の中心であった陳其美と出会い、交友を深めた。翌1907年7月、再び日本へ渡り、東京振武学校に第11期生62名の一人として留学した。彼らは2年間の教育課程を修めた後、日本の陸軍士官学校には入学せず日本陸軍に隊附士官候補生として勤務することとなり、1910年12月5日より新潟県高田市(現在の上越市)の第13師団の歩兵、騎兵、砲兵各連隊に配属され実習を受けた。このときに経験した日本軍の兵営生活について蔣介石は、中国にあっても軍事教育の根幹にならなければならない」(ウキペディア)と後に述懐した。蒋介石は日本の軍隊をリスペクトしていた。蒋介石は中国共産党との戦いに手こずっていた。ある意味では、日本を十分知り尽くしていたところもあり、対共産党対策のため、中国の主権が尊重されれば、日本と組むことも考えていたのではないか。それが田中義一内閣の時ではないか。まだ満州事変も起こっていなかった。田中義一と蒋介石の会談は、田中義一の蒋介石の本音を汲み取る感覚が鈍かったと筆者は感じた。逆に蒋介石は日本の対中国政策に失望した、と。その後も日本との提携を考えていた、しかしその都度日本の軍部に阻止され、最後は日本の軍部を徹底的に批判した、というのが筆者の見立てである。

 明治新政府による経済政策の展開で、日本経済がどのように発展していったか、この辺を具体的に叙述した著書はなかなか見つからなかったが、在野エコノミスト高橋亀吉の力を借りることとなった。高橋は具体的材料を揃えて分析に取り掛かる。イデオロギーに染まらない分析姿勢はわかりやすかった。高橋が活躍した時代は、労働運動、農民運動の勃興期で、社会主義運動、共産主義運動が盛んとなった。高橋は共産党と理論論争を闘わせながら、日本資本主義経済の研究、明治大正農村経済の変遷、金融の基礎知識などを出版し、各種の提言も実践していた。我が国初の経済評論のフリーランサーだった。また、新政府スタート時の金融関係については、日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵の「貨幣の散歩道」にもずいぶんお世話になった。
 明治・大正・昭和前半の政治情勢については、岡崎久彦著「百年の遺産――日本の近代外交史73話」を参考にさせて貰った。シンプルで簡潔、日本の政治の流れがわかりやすかった。新聞の連載になっていたが、単行本になったときすぐに手にした。キャッチコピーは「陸奥宗光、伊藤博文、小村寿太郎、幣原喜重郎、吉田茂・・・。激動の時代の中で、彼らはいかに日本の舵取りに苦心したか。ペリー来航(1853年)から占領の終了(1952年)までの100年間を曇りのない眼で描き上げた著者渾身の力作」
 開戦前夜は児島襄氏の戦史著作集を参考にした。著書のあとがきで言う。「太平洋戦争の起因は多様である。その時間的にも空間的にも複雑な軌跡を辿るとき、太平洋戦争の発生が日米交渉の有無だけに左右されるものではないことは、容易に理解できる。だが、公式の現象としては、日本にとって開戦のスプリング・ボードになったのは、日米交渉の行き詰まりである。しかも、日米交渉はその発端から終幕まで、終始して異常な雰囲気に包まれていた。交渉は二人のカトリック僧の来日で発起された」「その経過をたどると、真っ先に気付くのは、日米交渉は一般的な意味での交渉とは程遠い性格であった」と。そして、「世界は変わった」とは、戦後、元駐米大使野村吉三郎にハル元国務長官が語った言葉だ、という。
 日米戦争は海軍の戦いである、陸軍はそう考え、海軍もそれは承知だった、と思われる。それまで陸軍の仮想敵国はソ連で、海軍の仮想敵国は米国だった。日米戦争を海軍はどう戦うのか、当事者としての考えを見つけるため、吉田俊雄著の「四人の軍令部総長」を渉猟した。残念ながら、当事者としての責任ある発言は見つからなかった。終戦時の御前会議もまた、豊田副武総長は陸軍に配慮した、不測の事態が起こらないために、と。それでも米軍と矢面に立って戦ったのは連合艦隊であった。真珠湾攻撃から珊瑚礁海戦、ミッドウェー海戦をつぶさに見てきた。何が決定的に欠けていたのか、日米の戦略・戦術を比較すると、残念ながら、指揮官も含めて後れを取っていたと見えた。

 敗戦後の日本を見つめることは、今につながる問題を抱えているので、相当細かく事実関係を追い求めた。そうなると、やはり児島襄氏の著作に依るしかない。「講和条約 戦後日米関係の起点」は日本の戦後の混乱も含めて、細部まで記述されていた。キャッチコピーは「ミズリー艦上の降伏調印式、そして進駐・・・。マッカーサー元帥による占領政策との緊張関係の中、日本は痛みを伴う再生の作業を始めようとしていた。膨大な資料を辿り歴史の真相を冷徹に追い詰める現代史探求の金字塔」。それに吉田茂著「吉田茂 回想十年」 これは当事者が自らの考えを披歴するので、当時の出来事をリアルに甦らせてくれる。吉田首相のしたたかなマッカーサー元帥との接触、ジョン・ダレスとの駆け引きが、まさしく戦後の日米関係をつくり、戦後の経済成長の基礎を作った。


 以上でこのシリーズのブログは打ち止めにしたい。ただ、尻切れトンボの感を免れないので、以降の日本の歩みは「国立公文書館 高度成長に時代へ 1951-1972」http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/high-growth/sitemap.html
を参照願いたい。簡潔に、コンパクトにその後の日本の歩みが収められている。

サイトマップ

第一部 「独立」以後の日本 -国際社会への復帰-

1. サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約
1 第11回国会における吉田内閣総理大臣演説要旨
2 日本国との平和条約及び関係文書(条約第5号)
3 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約及び関係文書公布の件
2. 日本の自衛力強化
4 昭和25年7月8日付吉田内閣総理大臣宛連合国軍最高司令官書簡
5 保安庁法
6 自衛隊創設の日の長官訓示
3. IMF加盟と世界銀行借款
7 国際通貨基金協定
8 関西電力株式会社、九州電力株式会社及び中部電力株式会社の火力発電設備輸入のための国際復興開発銀行からの外資の受入に関する説明書
4. 国際社会への復帰
9 日本国とソヴイエト社会主義共和国連邦との共同宣言(条約第20号)
10 第25回国会における鳩山内閣総理大臣の所信演説案
11 国際連合憲章及び国際司法裁判所規程
5. 南極観測への参加
12 国際地球観測年における南極地域への参加について
6. 日米安全保障条約の改定
13 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約及び関係文書(条約第6号)
7. テレビ放送の開始と東京タワー
14 日本放送協会昭和27年度業務報告書及び同報告書に対する郵政大臣の意見書
15 叙位・叙勲について (内藤多仲)
8. 公団住宅の建設
16 日本住宅公団法
17 荻窪住宅計画図・設計図
9. 洞爺丸遭難事故
18 台風第15号による洞爺丸等遭難事件に関する件

第二部 高度成長政策の展開

10. 国民所得倍増計画
19 国民所得倍増計画について
20 経済自立五カ年計画 (附:各部門別計画資料)
新長期経済計画 (附:各部会報告)
国民所得倍増計画 (附:経済審議会答申)
中期経済計画 (附:経済審議会答申)
経済社会発展計画 40年代への挑戦 (附:経済審議会答申)
11. 農業基本法の制定
21 農業基本法
12. 重化学工業の躍進とエネルギー革命
22 全国総合開発計画について
23 石炭対策大綱について
13. 黒部川第四発電所建設への挑戦
24 黒部川第四発電所工事概要(昭和31年9月)
14. 鉄道網の整備と新幹線の建設
25 日本国有鉄道幹線調査会の答申について
26 東海道新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法
15. 高速道路の建設とモータリゼーション
27 名古屋・神戸高速自動車国道計画路線図
16. 日本経済の国際化
28 貿易、為替自由化促進計画について
29 IMF8条国移行に伴う政府声明案
17. 東京オリンピックの開催
30 オリンピック東京大会の準備等のために必要な特別措置に関する法律
31 オリンピック東京大会リーフレット
18. ニュータウン開発計画
32 千里丘陵開発事業計画図
19. 日本万国博覧会
33 国際博覧会に関する条約及び同条約の改定議定書の公布の件
34 日本万国博覧会記念協会法
20. 公害問題への対策
35 公害対策基本法
21. 交通戦争
36 道路交通法案
22. ニクソン・ショック
37 基準外国為替相場の改定について
38 国際経済調整措置法
23. 沖縄の返還
39 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(条約第2号)
40
 

 

 

 


 


日本はなぜ和解と信頼の平和条約をかち得たのか

2021年12月07日 | 歴史を尋ねる

 歴史的事実は時に有識者、歴史家などの手あかにまみれるので、近年の事象も、なかなかその事実関係を正確に知るのは難しい。前項の吉田首相の国会演説は、児島襄氏の著書「講和条約」にも掲載されていなかった。国立公文書館のアーカイブスから拾い出して引用させて貰った。この演説内容は、対日講和条約調印に至る経緯が簡潔に語られ、日本を代表して吉田総理がその感想を述べている。又とない歴史文書だと考え、アーカイブのほぼ全文を引用した。その中で、吉田総理の語る「旧敵国たる日本に苛酷なる講和条件を押し付けようとするならば格別、公正にして寛大、和解と信頼を基礎とする現平和条約案の如きに対し関係国間の議をまとめんとする容易ならざるは甚だ明らかである。この困難を敢て進んで引受け現条約案にまとめ上げ且つ日本側の意向、希望を寛容に取り入れようとするダレス特使の苦心、米国政府の堅意にわが国民の永く記憶すべきところである」に、なぜそこまでしてくれるのか、総理ならずとも持つ素直な疑問である。吉田総理は、その解答もつづいて語っている。「米国政府の斯くまでの厚意および連合国の同調を得るに至った理由は、畢竟わが日本国民が既往六カ年、耐乏、刻苦、敗戦日本再建に国民的誠意と営々努力の事績が米国はじめ諸外国政府の認めるところとなれる故である」と。確かに、当時の経過からすると、その通りだと思うが、本当にそれだけだろうか。日本が優等生だから過去は水に流して、自由主義陣営の一員として早く自立してほしい、ということか。トルーマン大統領の思いはそうかもしれない。しかし、ダレスはそこ迄純粋に行動してくれたのだろうか。今回はダレス特使がなぜここまで日本の立場に立って行動したのかその理由を掘り下げてみたい。

 1959年5月、国務長官を辞したばかりのジョン・フォスター・ダレスが死去した。その十四年前にフランクリン・ルーズベルト大統領がなくなっているが、アメリカの悲しみはそれを上回った。棺はワシントン大聖堂に安置され、弔問の長い列ができた。西ドイツのアデナウアー(首相)、台湾の蒋介石(総統)といった要人の顔も見えた。葬儀の模様はABCとCBSが中継した。アイゼンハワー大統領は「時代の偉人を失った」と弔辞を述べ、アメリカ国民もその言葉に頷いた。葬儀の二カ月後、アイゼンハワーは建設中の大型空港をダレス国際空港と命名する大統領令に署名した。評伝「ダレス兄弟」(訳者:渡辺惣樹)を書いたスティーブン・キンザーは、「アメリカ国民がダレスの名前を完全に忘れ去った訳ではない。しかし彼を文句なしに褒め称えるという雰囲気はもはやない」「ダレスは実に強面(こわもて)で情け容赦のない国務長官(アイゼンハワー大統領時代)だった。自由世界(西側)の指導者たちさえ、重要な外交政策については、ダレスの承認がなければ何一つできなかった」と記している。弟のアレンは「最も偉大な諜報の専門家(情報担当官僚:CIA長官)」と評されている。ジョンとアレンの二人の兄弟が、我々がいま生きている世界を作り上げた、そして、アジアもアフリカもラテンアメリカも、混乱を続けたままである、そうした世界の原型を作り上げたダレス兄弟は如何なる人物であったのか、この評伝は迫ろうとしている。しかし残念ながら、ここでテーマとする対日講和締結に至るジョン・ダレスの役割は一行も触れられていないし、アレン・ダレスが終戦間際、スイスで日本海軍将校と対日戦争終結工作をしたことについても触れていない。

 1944年、ジョンは友人トーマス・デューイ(ニューヨーク州知事)を支援して大統領選挙を戦った。ジョンは俄か外交顧問となり、スピーチ原稿も彼に代わって書いた。デューイは共和党候補になることは出来たが大統領選で敗れた。敗れはしたものの、ジョンは共和党の外交政策を語れるスポークマンの一人と見做されるまでになった。戦争はまだ終わっていなかったが、ルーズベルトは世界の指導者をサンフランシスコに集め、国際連合に発展する歴史的な会議となった。アメリカは超党派で代表を送ることになったが、共和党はジョン・ダレスを推した。ルーズベルトは気に入らなかったが、共和党は方針を変えなかったので、しぶしぶ認めた。サンフランシスコ会議はトルーマン副大統領に託され、世界50か国から代表が集まり、世界組織設計に参加。ジョンは九週間にわたり自らの構想を熱心に説明、現在の国際連合となる構想の輪郭が形作られた。こうしてジョン・フォスター・ダレスは共和党のスポークスマンとして外交を語る一方で、キリスト教組織の指導者にもなり、同時にカーネギー財団の国際平和委員会の議長も務めた。
 ではジョン・ダレスがなぜトルーマン大統領時代の国務長官顧問として対日講和の特使になったのか、児島氏の著書で確認したい。1950年3月30日、トルーマンは対日講和を超党派外交で実現させるべく、アチソン国務長官に共和党との交渉を指示、「対日講和には米国の威信と世界の平和がかかっている。最上の人物が必要だ」と。共和党の長老ヴァンデンバーグ上院議員は、日本問題だけでなくヨーロッパ問題にも関与すべきと応え、ヨーロッパ担当にJ・クーパー、対日講和には国連憲章の起草も手掛けた外交のベテラン、J・ダレスが適当だと回答、長官アチソンは承知し、二人に顧問就任を交渉した。長官アチソンが前議員ダレスの受諾を発表すると、ダレスはニューヨークの事務所で記者会見を行い、「私は、ソ連の脅威に直面してわれわれの団結がいかに必要であるかを痛感するあまりに、顧問就任を承諾した」と。顧問ダレスの分担は、第一義的分野:対日講和条約。第二義的分野:極東政策一般、国連対策ならびに国務省広報計画、国際機構問題の検討。
 4月7日、国務次官補パタワースと国務長官特別顧問ハワードはダレスの要請でニューヨークに出向き、対日講和問題に関する国務省の見解とこれまでの経緯を説明、顧問ダレスは説明する二人の言葉に注意深く耳を傾けていたが、一応の話が終わると、「対日講和の焦点は、安全保障にある。米国は日本を守る義務はない。しかし、日本の再度の攻撃から米国自身とアジアを守り、日本を共産主義勢力から防衛する義務は、米国が担わなければならぬ。日本の安全保障と講和は不可分のものであるが、順位がある。まず日本の安全保障体制を確立し、その上にたって講和条約を締結すべき」 顧問ダレスはこの自分の理解に間違いはないかと質問し、イエス、その通りだと二人は言う。ここの部分は以前既述した箇所である。ダレスは当時の国際情勢のキーを安全保障と見ている。朝鮮動乱はまだ始まっていないが冷戦の真っただ中での対日講和問題である。冷戦体制の中で日本をどう自由陣営体制の独立国として誕生させるか、それを安全保障の構築が何より優先順位が高い、ダレスは対日講和をこう位置づけたのだろう。そこまでは理解できるが、そこから和解と信頼の講和になぜ飛ぶのか、もう少し、ダレスの周辺を探りたい。

 ここにハミルトン・フィッシュ著、渡辺惣樹訳の「ルーズベルトの開戦責任」がある。原本の題名は「ルーズベルト:コインの裏側  第二次世界大戦にわれわれはどう引きずり込まれたのか(How We Were Tricked World War Ⅱ)」である。著者ハミルトン・フィッシュ(1888-1991)はオランダ系WASPの名門に生まれた。祖父はグラント大統領政権で国務長官をつとめ、父は下院議員に選出された政治家一家。ハーバード大学卒業後、1914年ニューヨーク州議会議員、第一次大戦では黒人部隊を指揮して戦う。帰還後の20年、下院議員に選出(~45年)。共和党の重鎮として、また伝統的な非干渉主義の立場から第二次大戦への参戦に反対するが、1941年、「真珠湾」直後のルーズベルトの日本への宣戦布告演説に同調するも、後に大統領が対日最後通牒の存在を隠していたことを知り、日本との戦争は対ドイツ参戦の前段にすぎず、チャーチルとルーズベルトこそがアメリカをこの戦争に巻き込んだ張本人であると確信するに至った。著者は戦後22年を経て、真実を書き残すべき本書を執筆した。大戦前夜の米政権の内幕を知悉する政治家による歴史的証言が本書である、とブックカバー見開きの解説にある。

 「私は25年間、共和党の下院議員であった。1937年から1945年の間、ワシントン議会における外交問題の議論に深く関わった。1941年12月8日に対日宣戦布告容認スピーチをした最初の議会メンバーである。議会のスピーチをラジオで国民が聞いたのはこの時がはじめて、私のスピーチを、二千万人を超える国民が聞いた。スピーチは、あの有名なフランクリン・ルーズベルト大統領の「恥辱の日」演説(大統領が議会に対日宣戦布告を求めた)を容認し、支持するものだった。(歴史文書として貴重なのでこの演説内容は後記する) 
 私は今では、あのルーズベルトの演説は間違いだったとハッキリ言える。あの演説のあとに起きた歴史を見ればそれは自明である。アメリカ国民だけだなく本当のことを知りたいと願う全ての人々に、隠し事のない真実が語られなければならない時が来ていると思う。あの戦いの始まりの真実は、ルーズベルトが日本を挑発したことにあったのである。彼は、日本に、最後通牒を突きつけていた。それは秘密裡に行われたものであった。真珠湾攻撃の十日前には、議会もアメリカ国民をも欺き、合衆国憲法にも違反する最後通牒が発せられていた。
 今現在においても、12月7日になると、新聞メディアは必ず日本を非難する。和平交渉が継続している最中に、日本はアメリカを攻撃し、戦争を引き起こした。そういう論説が新聞紙面に躍る。しかしこの主張は史実と全く異なる。クラレ・ブース・ルース女史(下院議員 コネチカット州)も主張しているように、ルーズベルト大統領はわれわれを欺いて、日本を利用して裏口から対ドイツ戦争をはじめたのである。
 英国チャーチル政権の戦時生産大臣であったオリバー・リトルトンはロンドンを訪れた(1944年)米国商工会議所のメンバーに、日本は挑発されて真珠湾攻撃に追い込まれた。アメリカが戦争に追い込まれたなどという主張は歴史の茶番(a travesty on history)である」 

 これはハミルトンの著書の「はしがき」の一節である。更に彼はこうも書いている。「私はこの書の発表を、ルーズベルト大統領、チャーチル首相、モーゲンソー財務長官、マッカーサー将軍の死後にすることに決めていた。彼らを個人的にも知っているし、この書の発表は政治的な影響も少なくないからである。彼らは先の大戦の重要人物であり、かつ賛否両論のある人々だからである。私はこのような人物の評判を貶めようとする意図はもっていない。私は、歴史は真実に立脚すべきとの信条に立っているだけである。それは、表面だけしか見せていないコインの裏側もしっかり見なければならない、と主張することなのである。コインの裏側を見ることは、先の大戦中あるいは戦後すぐの時点では不可能であった。その頃はまだ戦争プロパガンダの余韻が充満していた。そうした時代には真実を知ることは心地よいものではない。しかし今は違う。長きにわたって隠されていた事実が政府資料の中からしみ出してきている。これまで国民の目に触れることのなかった資料が発表され始めた。実は当時の民主党員でさえ、ルーズベルト大統領は参戦のために出来ることはほとんど全て議会に同意させていたと認めている。大統領ができなかったことは、対ドイツ、対日宣戦布告だけであった。1940年9月の時点で、民主党のウォルター・ジョージ上院議員は、『議員諸君。自己欺瞞はもうやめようではないか。国民を欺くことももう止めよう。国民は、政府が平和ではなく戦争に向かう政策をとっていることを知っている。戦争の準備をしているいことを知っている』 ルーズベルト大統領がジョージ議員を排斥しようとしたのはこの発言が理由だろう」と。

 ここでハミルトンの著書を詳細に語ることが本旨でないので、その要点だけを以下に掻い摘んで記しておきたい。
 彼(ハミルトン)は当時のアメリカの政治家の典型で、(ヨーロッパ問題に対する)非干渉主義者だった。非干渉主義者に立つものには、1937年10月5日のルーズベルトによる「隔離演説」で、参戦を目論んでいることに気づいた。ルーズベルトがスチムソン(陸軍大臣)とノックスを閣僚に起用したことで、その懸念は確信に変わった。この二人は共和党員であったが、いけいけの干渉主義者であった。スチムソンは、対独戦参戦は宣戦布告なしでもできると受け取れるメッセージを、ラジオを通じて訴えた。しかしルーズベルトは国民には同政権が和平を希求していて参戦は考えていないと言い続けた。1940年の三選をかけた大統領選挙では、投票日が一週間後に迫った演説で、「(わが子を戦場に送ることを心配している)お父さんやお母さん、全く心配することはありません。前にも何度か約束したことをもう一度はっきりとさせておきます。あなた方のお子さんが、外国での戦争で、戦うことは決してありません。何度でも何度でも繰り返して約束いたします」 現職大統領が非参戦をはっきり約束した。アメリカ国民がそれを信じない筈はなかった。ルーズベルトの三選のためについた意図的な嘘。ルーズベルトは国民に知らせることなく日本に対して最後通牒を送り付けた。その結果およそ30万人に若者が命を失い、70万人が負傷したり行方不明になった。国民への約束を反故にした。ルーズベルトはなぜ嘘をついたか。彼は国民を騙してでも三選を実現し、ヨーロッパの戦争にどうしても参戦したかったからである。非介入を約束した演説のわずか二カ月後、自らの分身とも言えるホプキンスをロンドンに派遣、チャーチルに伝えた言葉は、「大統領は貴国と共に戦う決心を致しました。両国間に誤解のなきようにするために、私をロンドンに送り大統領の考えを直接伝えに参りました。わが国はどのような方法を使ってでも、またどれほどのコストがかかろうとも、この約束を実現させます。大統領に出来ないことは何ひとつありません」
 ヒトラーがポーランドに侵攻した時、あるいはフランスが征服されたときには、少なからざる人々が、アメリカの参戦が正しいことだと考えた。しかしその答えは難しくない。アメリカ国民には戦いの原因が皆目理解できなかった。アメリカ国民はドイツとポーランドの係争地であるダンツィヒがいったいどこにあるのか知りはしなかった。ポーランド侵攻のあった1939年9月頃の世論は、96%がヨーロッパの戦いに再び巻き込まれるのは嫌だと思っていた。ポーランド侵攻のあった時点でも、ノルウェーやフランスへの侵攻があった時も、アメリカの世論は変わらなかった。その後時間の経過とともに参戦派は数を増やしたが、それでも国民のおよそ85%は参戦に反対していた。この数字は真珠湾攻撃の直前まで変わっていない。
 当時ハミルトンに課せられた最も重要な使命は、ルーズベルトを参戦させないことであった。当時彼は下院外交問題委員会と議事運営委員会の幹事の一人だった。非干渉主義に立つ議員の中心にいた。当時議会での民主党議員の数は共和党議員を百人も上回っていた。ルーズベルトは戦争はしないと国民に説明していたが、現実は参戦への道をまっしぐらに進んでいた。ルーズベルトはイギリスに50隻の駆逐艦を供与、アイスランドに兵を駐屯、更にドイツ潜水艦は発見し次第攻撃せよと命令した。一連の大統領命令は議会の同意を得ていない。
 ルーズベルト大統領が日本に最後通牒を発したのは1941年11月26日だった。この通牒は日本に対して、インドシナから、そして満州を含む中国からの徹底を要求していた。これによって日本を戦争せざるを得ない状況に追い込んだ。この事実をルーズベルト政権は隠していた。最後通牒であるハル・ノートは真珠湾攻撃以降も意図的に隠された。最後通牒を発した責任者は勿論ルーズベルトである。日本の対米戦争開始で喜んだのはスチムソンでありノックスであった。ルーズベルトもスチムソンもハル・ノートを最後通牒だと考えていたことは明らかである。スチムソン自身の日記にそう書き留めてある。関係者の誰もが日本に残された道は対米戦争しかないと理解していた。アメリカはこうして憲法に違反する、議会の承認のない戦争をはじめたのである。アメリカは戦う必要もなかったし、その戦いをアメリカ国民も日本も欲していなかった。最後通牒を発する前日の11月25日の閣議に参加していたのはハル、スチムソン、ノックス、マーシャル、スタークである。ルーズベルトが指名し登用した者ばかりである。「どうやったら議会の承認なく、また国民に知られることなく戦争をはじめられるか」 彼らの頭の中にはそれだけしかなかった。私(ハミルトン)はルーズベルトと同政権幹部の行った隠蔽工作を白日の下にさらさなければ気がすまない。アメリカ国民は真実を知らなければならない。
 ハル・ノート手交の際に野村大使は来栖三郎(特派)大使を同伴していた。来栖はニューヨーク総領事や駐ベルリン大使を歴任していた。野村大使はかって海軍提督であり、アメリカの女性と結婚していた。それだけに、彼がアメリカとの友好の維持を望むことひとしおであった。ハル・ノートに目を通した来栖大使は「本当にこれがわが国との暫定協定締結の望みに対する回答なのか」と念を押している。ハルはそれに対して、口を濁したような言い方であったが否定はしなかった。来栖は、これは交渉終了を意味するものにほかならないと返している。来栖にとっても野村にとってもハル・ノートは最後通牒であった。ハル国務長官は野村大使との交渉を八カ月にわたって続けていた。陸海軍がフィリピンなどの極東地域で軍備増強するための時間稼ぎであった。ハルはメモワールの中で、この時間稼ぎは陸海軍からの要請に基づいたものであると記している。この戦術に気づいた日本側は交渉期限を11月29日と決めざるを得なかった。ハルは、日本が戦争か平和かの決断を迫られる土壇場に追い詰められていたことを、解読した外交暗号文書を通じて知っていた。ハルは日本との暫定協定締結交渉に関り続けた。しかし日本との協定締結にチャーチルも蒋介石も反対した。その意志はルーズベルトにも伝えられた。この頃、共産主義に理解を示すラクリン・カリー補佐官は、蒋介石の顧問で共産主義が大好きなオーウェン・ラチモアから至急電を受け取っている。どのような条件であっても日本との和平協定には反対であり、米日戦争を願っているという内容だった。チャーチルも、もし日本とアメリカが戦争になれば、アメリカは自動的に対独戦争に参入すると考えていた。二人の思惑は、アメリカに日本とはどのような暫定協定をも結ばせない方向に作用した。
 対日最後通牒の存在は議会に知らされていなかった。ルーズベルト政権の高官の中でもそれを知らされていた者は少数だった。ところがチャーチルや英軍高官は何もかも知らされていた。ルーズベルトはわが国を戦争に追いやった。真珠湾の三千人にのぼる海軍の犠牲者、アメリカ海軍史上稀に見る惨事。それは日本を挑発した最後通牒をわが国民の目から隠した、それはルーズベルトである。ルーズベルトが巧妙に隠してきた秘密はまだある。ルーズベルトが1939年から続けてきたチャーチルとの1700回にも及ぶ交信記録はまだ公開されていない。また日本の暗号をすでに解読していた事実も隠し通した。ルーズベルトがは最後通牒による挑発で日本が軍事行動に出ることを知っていた。ハル、スチムソン、ノックス、マーシャル、スターク。この誰もが日本が警告なしに軍事行動を始めることを知っていた。彼らこそが米日戦争を仕掛けた張本人で、この策謀の首謀者はルーズベルトがだった。
 ルーズベルトが大統領が米国議会と国民に対日宣戦布告を求めた恥辱に日演説は、日本の真珠湾攻撃を糾弾するものだった。それを受けて、私を含むすべての国民がルーズベルトがを支持した。アメリカ国民は、何の挑発もされていないにもかかわらず日本が卑劣な攻撃を仕掛けてきたことに驚いたのであった。宣戦布告のない、こずるい攻撃が真珠湾攻撃であった。それに対する苦々しい思い。それが怒りとなり狂信的とも思えるほどの敵愾心へと変貌した。だからこそ全国民が政治信条,党派を超えて大統領を支持したのである。ハミルトンもその一人だった。大統領の対日宣戦布告を容認するスピーチのために演台に立った。演説は明確なもので、言葉を濁す表現は使っていない。「私はこの三年間に亘って、わが国の参戦にはつねに反対の立場をとってきた。戦場がヨーロッパであろうが、アジアであろうが、参戦には反対であった。しかし、日本海軍と航空部隊は、不当で、悪辣で、恥知らずで、卑劣な攻撃を仕掛けてきた。日本との外交交渉は継続中であった。大統領は日本の天皇に対してメッセージを発し、ぎりぎりの交渉が続いていた。日本の攻撃はその最中に行われたのである。このことによって対日宣戦布告は不可避になった、いや必要になったのである」「国民に、そしてとくにわが共和党員や非干渉主義を信条とする者たちに訴える。今は信条や党派を超えて大統領を支える時である。最高指揮官の大統領を支え、わが軍の勝利に向けて団結する時である」
 ハミルトンは今では、ルーズベルトの演説は間違いだったと言っているが、いつの時点で騙されたことを確信したのか分からない、と訳者の渡辺惣樹氏も記している。それがいつであったとしても、その怒りをすぐには公には出来なかったのではないか、と渡辺氏は推測している。ただ、真珠湾攻撃の悲劇についてその後キンメル提督とショート将軍が責任を取らされたが、ハミルトンは軍法会議で弁明の機会を与えられなかった二人について1944年議会で取り上げている。しかしこの時点でもまだ日本に最後通牒が突きつけられた事実は明かされていなかった。

 以上がハミルトン・フィッシュの出版本の一部の内容である。原題は FDR:THE OTHER SIDE OF THE COIN(フランクリン・ルーズベルト そのコインの裏側)。歴史は表側の出来事だけでは語りつくせない、ということか。
 ところでジョン・ダレスに戻ると、1948年の共和党大統領補選は、デューイ対タフトではなく、国際主義者対孤立(非干渉)主義者の戦いであった。ジョンはデューイの戦況参謀として国際主義を主張した。アメリカはいま共産主義の危機にさらされている。積極的に世界の紛争の場に出ていかなくてはならないと主張、「人類の自由の敵(共産主義)は今や世界中に存在し、最も脆弱なところはどこかと虎視眈々と探している」。大統領選挙が近づくと、ジョンは勝利を見込んだ外交方針を立てた。デューイは選挙に勝利したらすぐにヨーロッパを訪問し、西欧諸国との同盟強化を図るようすべきと建言した。しかしトルーマンが再選され、アメリカの歴史に残る番狂わせだった。その後の四年間のアメリカ外交も、ジョンが無能だと罵ったトルーマンが担うことになった。そのトルーマンは、ジョンはウォールストリートの番人と罵り軽蔑していた。共和党の敗戦後ジョンは共和党の外交代表として、ワシントンの公聴会ではヨーロッパ諸国との安全保障体制を構築すべきだと訴えた(これが後の北大西洋条約機構となる)。1949年7月、ニューヨーク州選出の上院議員が健康問題を理由に辞任、次期選挙までにジョンをデューイ知事が推した。ジョンは38年間勤めた国際法務の仕事から身を引き、正式に上院議員となった。ジョンが上院議員となった三カ月後、毛沢東の率いる中国共産党が勝利した。そしてジョンは、1949年11月補選でリーマンに敗れた。
 1950年5月、ジョン嫌いの大統領に彼を外交に関与させるよう説得したのはヴァンデンバーグ上院議員だった。ヴァンデンバーグは国務省顧問就任をトルーマンに認めさせた。ジョンの専門はヨーロッパであったが、最初の仕事は日本との講和条約の調印だった。周囲は驚いたが、ジョンは対日交渉をまとめ上げ、上院共和党への根回しもこなして条約批准も成功させた。トルーマンはジョンに対する評価を変えた。彼の仕事ぶりを認め、駐日大使のポストを提示したが、ジョンはこれを断った。ワシントンの中枢が機能していないのに、その指令を受ける側にいても意味がない、と。この頃、冷戦の恐怖は一層強まった。ソ連は原爆実験を成功させ、中国への支配も強めていた。さらに朝鮮戦争もあった。こうした環境の中で、共産主義を徹底的に拒否する外交官としてジョンは評価を高めていた。
 1952年は大統領選挙の年であった。共和党の候補はアイゼンハワー将軍が有力だったが、彼は根っこからの軍人でニューヨークのパワーエリートとの付き合いはなかった。ジョンはパリでの講演旅行を企画した。パリにはアイゼンハワーがNATO軍司令官として赴任していた。ジョンはアイゼンハワーと長時間話すことができ、『ライフ』誌に寄稿したばかりの論文『大胆な外交方針(への転換)』の写しを手交した。内容は、「民主党の方針は共産主義を封じ込めればよしとするだけの臆病な政策である。共和党はその方針を変え、より積極的な外交攻勢をかけなければならない。そうすることで共産主義者の手に落ちた諸国家を解放し、世界中の共産主義者の傀儡を叩き潰すことができる。ソビエトに屈した者たちはその罪を贖わなくてはならない」と主張した。
 アイゼンハワーの選挙演説にはジョンの考えがそこかしこに使われたが、ジョンと違って必ず「平和的に実現することを望む」との言葉を加えた。選挙結果はアイゼンハワー大統領の圧勝だった。アイゼンハワーは数週間検討した末、ジョンダレスを国務長官に任命した。聴聞会が上院外交委員会で開催され、そこでダレスは所信を述べ、上院での信頼は絶大で、採決も取らず、発声投票で国務長官に指名された。以上はキンザーの著書による。

 キンザーにとってジョン・ダレスの対日講和問題は通りがかりの小さな問題にしか見えなかったようだが、その後のダレスが冷戦下の課題はソ連・共産主義への対応に絞り込んでいたことが分かる。そしてキンザーが言うのでは、ジョンは1945年末から46年半ば頃にはソビエト(共産主義)に対する考えを切り替えていた、という。穏健的な態度をやめ、ソビエトは悪魔だとする主張に変えた。その意見を『ライフ』誌上(1946年6月)にはっきりと述べた。「ソビエトの指導者はプロパガンダを始めた。西側諸国を彼らに従属させるためである。我々の自由社会を破壊し、人間性やフェアな精神を重視した社会システムとは調和しない、征服者に都合の良い社会システムを押し付けようとしている。世界中の自由諸国に諜報組織を巡らし、愛国者の顔をしながら、現実にはモスクワからの指令で活動している工作員が潜入している。アジア、アフリカあるいはラテンアメリカでソビエト共産主義の見えない力が民族主義運動を隠れ蓑にして活動している。ソビエトにいる小数の人間が世界中に悪影響をもたらしている。こんなことは歴史上未曾有油である」と。1947年になると、ソビエトはギリシャとトルコに対して圧力を強めた。トルーマンはアドバイスに従って議会で演説(1947年3月)、それが後日「トルーマン・ドクトリン」と呼ばれる外交方針であった。ルーズベルトの呪縛が解けた瞬間かもしれない。そしてその淵源は戦時中のルーズベルト大統領の対ソ政策であり、ヤルタ会談にあることに自然と行きつく。ハミルトン・フィッシュが著書で提起した問題、ハル・ノートが最後通牒だったまでは知らなかったかもしれないが、ルーズベルトの謀略が浮かび上がらなかったか。日本との戦争は日本にも同情すべき点がある、と。

また、ダレスが対日講和の構想を練るにあたって、当初の対日講和の立案担当は国務省政策企画部の照会するすると、前部長のケナンから覚書を受け取り、ダレスの意に叶った内容だったことは記述済みである。ケナンは以前マッカーサー元帥とのヒアリングで次の言葉を発している。対日講和は「短く、一般的で、非攻撃的で、新時代に向かう日本人の背をたたいて信頼のゼェスチュァを示す、そうゆう条約にした方が良い」とケナン。「ファイン、何もかも同感だ」と元帥。ケナンは『信頼のゼスチュア』という言葉を発しているが、ダレスの対日講和案はケナンが作成したものと似ている。ケナンは1946年2月、アメリカ国務省随一のソ連専門家として長文の電報を国務省に発信、その時の電文からアメリカの対ソ戦略『封じ込め』の構想が生まれた。対ソ強硬派のダレスもケナンの対日講和の原案を喜ばずにはいられなかった。当初のケナンの対日講和のひな型は『対日講和に関する米国に基本方針につき、「日本を太平洋経済圏の中で安定した親米国、必要があれば頼り甲斐のある同盟国にすること、それを中心目的にすべきである」』と。1947年9月の段階である。この時すでに共産主義に対する防衛国としてケナンの頭の中にあったのだろう。ダレスの考えにも符合する。しかもダレスの構想時は時代はもう少し進展している。太平洋戦争の位置づけが、戦後の極東アジアの共産主義の拡大で、日米戦争の意義について見直しが迫られただろう。ケナンの考えを一歩進めて、必要があれば頼りがいの同盟国から、信頼関係で結ばれた日米関係を構築する、ダレスの日本での関係者への言葉からは感じられる。ケナンの信頼のゼスチャーから、本物の信頼関係に、と。

 


サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約

2021年11月22日 | 歴史を尋ねる

 「吉田茂内閣総理大臣を首席とする全権団は、昭和26年(1951)9月4日からサンフランシスコのオペラハウスで開かれた講和会議に出席しました。9月8日、日本は、講和会議において、参加した52ヶ国のうち48ヶ国と平和条約を締結しました。条約は、翌27年4月28日に発効しました。これによりGHQによる占領が終了することとなり、日本は主権を回復しました。条約調印と同日(昭和26年(1951)9月4日)、日米安全保障条約がむすばれました。これにより、日本国内およびその周辺に、引き続きアメリカ軍が駐留し、極東の平和維持に必要な場合などには出動できることとなりました」 以上が、『サンフランシスコ平和条約ならびに日米安全保障』の国立公文書館に記された標準的な歴史の記述だ。しかし、これだけでは敗戦から占領軍の指示を仰ぎながら主権国家として独立した戦後日本のこの歴史的苦難の道のりが少しも見えてこない。また日本はソ連・中国等を除く48か国にも上る多くの国と平和条約を結んだことは、それだけ多くにと国と戦っていたことになる。そしてこの講和は全面講和ではなく単独講和とも言われている。戦前・戦後の歴史的事実が複雑の絡み合って、積みあがったのが対日講和条約だったことを、本ブログでは、児島襄氏の著書『講和条約 戦後日米関係に起点』を参考に見て来た。そして、時代の経過で、当時の日本で論争の中心となった全面講和論もすっかり影を潜めた。今や全面講和の論旨がどこにあったかウキペディアで探してもなかなか見つからないほど廃れた。ただ姿を変えて、昭和30年代の安保闘争に引き継がれた。現代では安保法制反対運動に連綿と引き継がれた。そんな意味では、原点となる対日講和の成立したいきさつを細かく見て来たことは、今後のあり様の指針にもなる。この項では、平和条約調印式の経緯と第11回国会における(講和会議直前の)吉田内閣総理大臣演説要旨を掲載して、長いテーマの幕としたい。

 1951年9月2日、吉田首相ら日本全権団を乗せた飛行機がサンフランシスコ空港に到着した。午後6時、吉田首相はパレスホテルに国務長官アチソンを訪ねた。表敬のつもりが次の出席者による日米会談となった。米国側:アチソン国務長官、ダレス講和特使、ラスク国務次官補、シーボルト総司令部外交局長。日本側:吉田首相、西村熊雄外務省条約局長、竹内龍次ワシントン在外事務所長、松井明首相秘書。まず吉田首相が対日講和会議開催について米国の努力に謝意を表明すると、アチソン国務長官はこの企画に参加できたことは嬉しいと応えたあと、今回の会議は調印のための会議であって、条約内容を再審議することは許されない、会議の議事規則にこの趣旨を明記し、各国の発言は一時間に制限する。会議参加国とくに東南アジア諸国に条約調印の態度未定の国が多い。たとえばフィリピン、仏印三国は不満でも調印するだろうが、パキスタン、セイロン、インドネシアは不明であり、インドネシアは不調印に傾いている。これら諸国を調印させるよう日本が外交力を発揮してほしいが、消極的な態度をとるのは賠償条項が不満であるからである。そこで日本は誠意をもって同条の義務を実行するための交渉をすることを明らかにして貰いたい。ただし支払額の明示を求める国があっても言質を与える必要はない、と。吉田は二国間講和条約に関連して、今直ちに国民政府と中共政府のいずれかを選択することを日本に要求するものでないと考えてよいか、と質問した。アチソンはイエスと応え、会議ではどちらを選ぶか絶対にいわないで欲しい、と付言。以上で日米会談は終了した。吉田はさっそくインドネシア、フィリピン、セイロン、パキスタン代表と会談、吉田首相の訪問は成功し、各国は好反応を示し、現実にも講和条約に調印した。

 9月5日、サンフランシスコ、オペラハウスで対日講和会議が開幕した。仮議長アチソン国務長官は開会を宣言すると最初の議題は議事規則と議長・副議長の選出である旨を告げ、この会議は十一カ月にわたる外交交渉によって作成された条約文に調印するための会議であると述べた。ソ連、ポーランド、チェコの共産三国は議事規則に対する修正動議を提出したが、評決で否決され、議事規則は48対3で可決された。ソ連は中共招請の可否について採決を要求したが、ソ連提案は議事規則に違反するものだと裁定され、評決によって裁定が支持された。議長、副議長選任の後、各国代表の信任状に不備がないことを報告後、各国代表の意見陳述がつづいた。ソ連代表グロムイコは、中共、インド、ビルマが参加しない対日講和はアジアの平和の保障の欠陥になる、と指摘、条約案に規定すべきとして十三条項を提案した。南樺太、千島のソ連主権の承認、琉球、小笠原諸島に対する日本主権の承認、占領軍の撤退ならびに日本駐留の禁止、室谷・根室・津軽・対馬海峡の非武装化ならびに商船への開放および日本海沿岸国の軍艦のみの通過の承認、日本軍備の制限など。副議長がグロムイコの発言に割り込んで、それは条約案に対する修正提案か、そうだとすれば議事規則違反になる、と。この日の米国のマスコミは、この日をソ連敗北の日と判定した。
 9月7日、吉田首相の講和受諾演説。
 9月8日、対日講和条約調印日。事務総長の呼声に応じて、アルファベット順に各国代表が登壇し調印した。記者席に座っていた朝日新聞記者は、「日本はこんな国とも戦争していたのか」と首を傾げた。48か国の調印が終わった後、ジャパンの名が呼ばれ、吉田茂、池田勇人、苫米地義三、星野二郎、徳川宗敬、一万田尚登が登壇し、署名を行った。
 午後5時、米陸軍第六軍司令部将校集会所で「日米安全保障条約」の調印式が行われた。米国側は長官アチソン、特使ダレス、上院議員2名が署名、日本側は吉田首相一人が署名し、5時15分調印式を終えた。

 日本の降伏後、日本に進駐してきた米軍将兵は、あまりの日本国民の従順さに驚いた。あれほど太平洋各地で憎悪をむき出しにして戦った日本兵の本国であれば、日本人は老若男女を問わず復讐してくると思ったのに、一様に敵意より好意に似た感情で敵・米兵を迎えたからであった。やがて米軍将兵は、この日本国民の態度がその伝統的従属志向のあらわれであることを理解し、安堵した。日本国民も安堵した。敗北して占領されるのは、日本の文化、慣習も否定され、日本人は奴隷化されるものと恐れていたのに、米軍が要求するのは日本が個人尊重の米国型民主主義国家に改造することであり、国民が国体とする天皇制の存続も認め、日本を天皇制民主国家にするだけだと分かったからであった。日本国民は占領軍を新しい権威と認め、日本占領はスムーズに進行した。ソ連に占領された場合を想定してか、戦争に負けてよかった、米国に負けてよかったという声さえ聞こえ、米国側はその素早い変心と変身に驚いた、と児島襄氏は言う。しかし、そう単純に見ていいのか、われわれは無条件降伏の敗戦国から名誉ある独立を勝ち取らなければならなかった。吉田は出発前、全権団に心得を説いた。「私たちは敗戦国の全権である。かっての講和会議のときとは違う。だが、屈辱感をもっていく必要はない。大きな顔が出来ないのは勿論だが、といって小さくなっている必要もない。世界の注視の中にいるのだから、言動にはよくよく気を付けよう」「われわれは、サイレント・デレゲーション(沈黙の代表団)だよ」と。これこそ強か(したたか)な外交というのではないか。朝鮮動乱の嵐はまだ止むことを知らず、吹き荒れていた最中の対日講和条約調印式であった。

 話は前後するが、昭和26年8月16日、講和会議出席直前の第11回臨時国会における吉田首相の演説要旨を以下に掲載する。吉田は、講和会議に至るこれまでの経緯や条約の内容及び講和後国際社会へ復帰する際の抱負を述べたが、当時の講和に対する思いや日本のあり様について率直に語っている。


 「本日ここに講和問題につき報告することを欣快とする。
 一、昨秋9月14日アメリカ合衆国政府が対日講和推進を公式に声明して以来約一年、米国政府の好意とダレス特使努力の結果、ついに9月4日サンフランシスコで対日平和会議の平和条約の署名調印式が執り行われることになった。 
 二、対日講和につき終始指導的な地位に立ったアメリカ合衆国政府は昨秋の声明後対日平和の基礎原稿を関係諸政府に通達して、意見を求めた。それは11月下旬に公表されて、「対日平和七原則」として世に知られている。これは膺懲的な、監視的なものや、敗者に対する平和条約の観念に基づかない、将来に対する制限などをふくまぬもので、戦争の善後処理に必要な最小限度の規定に留めると共に、全体として平等友好の協力関係を確立する性格の平和条約を作ろうとする思想をもって一貫するものである。 
 三、合衆国政府は七原則に対する関係諸政府の意見を斟酌して、これを条約案の形に作り上げるよう外交交渉を続けた。その間、ダレス特使は二回日本に来訪し、日本政府および関係各界代表に対し意見を開陳する機会を与えられた。正確に申せば平和問題について日本は交渉の相手ではない。交渉は連合国の間に行われるもの、日本はこの交渉の主人公ともいうべき合衆国政府の好意によって、意見を開陳する機会を与えられた。この立場の許す限り、自由にわれわれに意見ないし要請を開陳する機会を与え、また、虚心坦懐にこれを聴取して、努めてわが希望を取り入れようとする態度を示された。その結果、合衆国政府と日本政府の間に平和条約の構想および平和条約成立後びおける日本の安全保障の構想について、相互の理解と意見の一致が広範囲に渡って出来た次第は、当時特使および政府の声明または私の国会報告で明らかにした通りである。
 四、ダレス使節団の帰米後においても、合衆国政府の条約案作成が進行するにつれ発生する諸問題についても、随時彼我の間に意見の交換が行われ、こうして作成された条約案は、三月下旬に関係諸政府に通達され、二十七日政府も交付を受けた。ここに至って、対日講和問題が、平和条約草案の形を成すに至った。この条約案は、ダレス特使より直接聴取した構想に近いものであった。政府は直ちに草案の研究に着手し、わが所見を遅滞なく開陳するの自由を与えられた。
 五、四月連合国最高司令官の更迭に関連して同月16日ダレス特使は更に日本を訪問せられ、対日平和推進の根本方針に少しも変化がないことを明らかにすると共に、平和条約に関し日本政府として回答すべき諸問題の研究を促された。当時ダレス特使は、先に英国政府からも条約案が提示されたこと、場合によっては渡英して協議する意思があることを漏らされた。
 六、米英会談は、6月4日ないし14日、ロンドンで行われた。会談に参加したアリソン公使は、パキスタン、インド、フィリピンを経由して、6月24日来着、同公使はロンドンで出来上がった米英合同案の大綱を説明し、合同案は米国案に英国案を加味したものだった。少し長くなったが、技術的には正確になったと述べ、また、英国政府が全体として経済問題に深い関心をもっている趣きを告げ、中国代表問題に関し米英両国案を調整するために多大の苦心が払われたことを言われた。よって、対日条約案成立に至る米英両政府の首脳者の払われた労力と苦心とをよく理解し得た次第だ。
 七、なお、英国政府が、漁業問題について深い関心の有することが明らかになったため、本年2月のダレス特使への書簡と同様な声明を日本政府より改めて出すことにして平和条約には特別の制限を設けないことに話合いがまとまり、日本政府は7月13日の閣議に諮ったうえ、政府声明を出すに至った次第である。
 八、7月13日、米英合同案は公表された。その前、政府は条約案を受領し、これに対する政府の見解を先方に提示ていた。
 九、サンフランシスコ会議の正式招請状は、7月20日到着した。招請状には条約草案が添付されていた。同案は7月13日発表の草案に18ヶ所ばかり形式的な修正を加えたものであった。招請状によると、この条約案に対する各国政府の意見を斟酌して8月13日頃最終案を送付することになった。しかし関係諸政府から提出された意見の調整に時日を要したため、2日遅れて昨夕政府は最終案を受領しました。同案は今朝7時公表された。
 十、この最終案は、7月20日の草案に対して約80ヶ所に及び修正または追加を加えている。しかしこれらの修正または追加の大部分は、形式的なもので条約の本質に触れるものではない。
 十一、この条約草案は、和解の精神を基調とし、非常に簡単である。ダレス長官のいう通り、将来の日本を他の独立国と違った地位に置いたり、日本の主権を拘束したりする永続的制限を加えていない本当の意味の和解の条約である。戦争の勝者がこのような原則を適用した如きは、史上ないことである。日本の戦争責任や無条件降伏の事実に触れることもなく、監視的な規定も設けない。日本の批准は、条約の効力発生の条件とされる。日本は平等の地位において取り扱われる。日本の将来の行動を束縛しない。日本に信頼をおいているのである。 もちろん『和解と信頼』が条約全般の根底をなすとはいえ、日本が敗戦国である事実を解消する訳にはいかない。領土条項や経済条項など、ある場合に重荷であり苦痛であると感じるものがあるのを免れない。しかし、草案に盛られた内容は、一般的に過去の平和条約に比べて比類なく公正で、且つ、寛大であると断言してもはばからないものである。条約案は極めて簡潔である。関係諸国との交渉の結果が盛り込まれたので、最初の米国案に比べると多少長くなっているが、前文と二十七か条本文からなり、外に議定書が一つ、覚書が二つ。日本と戦争関係にある連合国が全て署名する建て前をとり、署名しない連合国があれば、これとは将来同様の内容の二国間平和条約を結ぶ考え方である。議定書は、戦争のある種の私法関係に及ぼす影響を調整する基準を定めたもので、これを希望する連合国と日本との間で署名することになっている。宣言の一つは戦前日本が参加していた諸般の国際条約の効力を承認し、平和条約の実施後日本がある種の国際条約に加入し又は国際機関に加盟する意思を明らかにするものである。他の一つは、日本にある連合国戦死者の墳墓に関するものである。ふたつとも日本政府の自発的宣言である。条約の規定として解決することを避け、日本政府の自発的措置という方式で解決しようとしたものである。
 第六条に、日本の軍隊の帰還に関するポツダム宣言の第九項の規定は、まだ完全に実行されていない場合は、これを実行しなければならないという趣旨の一項が挿入された。
 賠償に関する第十四条に若干の修正が行われた。これは実質的な変更を意味するものではない。次に十五条の修正である。7月20日の条約草案第十五条では日本が制定した法律を引用することになっている。元来補償法案は、条約の付属として規定することになっているが、中途から条約案を出来るだけ簡潔にするために、条約からはずし日本で法律を定める便法をとることにした。しかし条約案が確定しない、十五条も確定しない前に、日本で法律を制定してしまう訳にもゆかないので法案の内容を協議して7月13日閣議で決定した。こうした次第で条約最終案には7月13日の閣議決定を引用することになった。
 十二、この際、従来国民的な関心の的というべき南方諸島の帰属の問題について一言する。条約草案の第二章は領土の処分に関する規定である。ここにまずわれわれは、日本の主権が四つの主要な島および連合国が決定する諸小島に限定するとした降伏条件をわが国が無条件に受諾したことを銘記しなければならない。従ってわが国にとって、これらの条件の変更を求める余地はないが、日本は第二条に掲げられた樺太、千島、台湾等の領域に対しては、すべての権利、権限および請求権を放棄することになっているに反し、南西諸島その他の南方諸島の処理を規定する第三条はとくにこのように規定していない。この第三条は信託統治制度の下におくための国際連合に対する合衆国の如何なる提案にも同意する云々とあるだけである。融通性のある第三条の規定は、国際の平和と安全上の利益のために合衆国が行う戦略的管理を条件として、本土との交通、住民の国籍上の地位その他の事項について、これら諸島の住民の希望に添うために実際的な措置が案出されることを希望する余地を残すものである。
 十三、平和条約調印直後、日米間に締結される安全保障条約については、本年2月のダレス特使との会談で、双方の間に、その構想に関して意志の合致ができた次第は、累次説明したとおりである。くり返すと『日本は、軍備がないから、自衛権はあっても自衛権を行使する有効な手段がない、世界には、今日なお、無責任な軍国主義が跡を絶たない、こういう情勢の下で平和条約が成立して、占領軍が撤退した後、日本に真空状態ができると危険である。この危険に備えるため、日本は外部からの攻撃に対する防衛手段として日本に合衆国軍隊の駐屯することを希望する。この日本の希望に応じて合衆国は平和と安全のために日本と日本の近辺に軍隊を置く」という構想である。この構想は最近ようやく条約案としてまとまったけれどまだ完成には至っていない。この条約には批准条項がはいる筈である。安全保障条約の実施については、いろいろ技術的な細目について了解を遂げる必要があるが、この春一応の意見交換して以来平和条約草案作成の方が繁忙を極めたため、この方はそのままで、未だまとまるに至らぬ現況である。
 十四、終戦後六カ年の歳月は短くはないが、世界大戦の記憶、戦争による憎悪、仇讐不信等の悪感情は容易に滅却するものではない。この悪感情は現に深刻複雑なる国際関係となって世界平和の確立を妨げている。米国政府および国民の対日好感情は格別とし多くの諸国分けて戦時我より侵撃又は脅威を受けた諸国の対日感情の今なお釈然たらざるものあるは自然である。かかる国際情況の下に対日講和を進めることは容易ならざること明らかだ。これは独墺その他東欧の講和条約しばしば成らんとして未だ成らざるを見ても明らかである。旧敵国たる日本に苛酷なる講和条件を押し付けようとするならば格別、公正にして寛大、和解と信頼を基礎とする現平和条約案の如きに対し関係国間の議をまとめんとする容易ならざるは甚だ明らかである。この困難を敢て進んで引受け現条約案にまとめ上げ且つ日本側の意向、希望を寛容に取り入れようとするダレス特使の苦心、米国政府の堅意にわが国民の永く記憶すべきところである。また米国政府の同調せる英仏その他連合諸国の多年の国交友情の致すところとし、わが国民の記憶に留めるべきものと考える。
 翻って、米国政府の斯くまでの厚意および連合国の同調を得るに至った理由は、畢竟わが日本国民が既往六カ年、耐乏、刻苦、敗戦日本再建に国民的誠意と営々努力の事績が米国はじめ諸外国政府の認めるところとなれる故である。嘗てわが国を敗亡に導いた軍国主義、超国家主義を払拭して、自由民主主義の確立に邁進し更に財政経済の自立調整に来った国民的努力が確実に着々顕われ来れる成果が認められた結果である。而して事ここに至れる国民の誠意努力の容易ならざりしは言うまでもなきことであるが、わが国民を失望の闇から蘇生せしめ前途の希望を抱かせつつ国家再建に営々努力せしめる勇気を鼓吹指導せられたのはマッカーサー元帥であった。またわが国再建復興の事実をもって国際団体復帰を促し、講和会議の結実促進に切実に努力されたのはマッカーサー元帥ならびにリッジウェイ大将、前後総司令官であった。私は国民諸君を代表してここに両総司令官に対し深厚の敬意を表したい。
 私は平和条約によって国際団体復帰の日の近きを喜ぶにあたってさらに覚悟を新たにして平和、民主日本の再建と共に世界の平和繁栄に一段と貢献するの国民の誠意をますます固むべきであると考えている。

 我が国の政治的独立は一応達成されようとしているが、今後の経済的独立については尚一層の考慮と努力が必要である。私は先ず日米経済協力を更に具体的に推進すると共に世界各国と友好的関係を樹立し有無相通ずるの方法により我が国の経済を維持し併せて世界の繁栄に寄与せんと考える。政府はこれらの問題につき今後随時具体的方針を明らかにする。
 しかし国際間には今なおわが国既往の事跡を辿って平和に対する日本の再脅威を云々し又は将来の経済競争の懸念の去らざるものあるを認めざるを得ない。しかしながら既に海外領土およびその資源を失い明治維新以来の蓄積した国富を戦争により蕩尽した状況であって近時の軍備状勢に照らしても世界平和の再脅威たる条件を全く喪失した現在に留意し、また国民が深く自由、平和、繁栄を希求する現状を理解すれば、政治的にも軍事的にも経済的にも我に対し疑倶の念の抱くのは全く無用なることを知る日の来るのを信じている。
 サンフランシスコ会議において調印される条約は今後批准につき国会の承認を求めることとなるのは承知の通りだが、その際私は国会の圧倒的支持あることを期待して疑わない。
 公正且つ寛大なる平和条約を得て日本を国際団体に復帰せしめんとする諸連合国の好意に応じるため、またこの平和条約が日本国民の最大多数により受諾され尊奉されることを内外に宣明するため強力なる全権団を国会より派遣されたく、議員諸君のご同意を希望して已みません」

 


冷戦下の日米関係の模索・構築  「マッカーサーの退任演説と議会証言」

2021年11月09日 | 歴史を尋ねる

 1951年4月19日。米上下院合同委員会で、連合国軍最高司令官として日本を統治占領した陸軍元帥ダグラス・マッカーサーは半時間の退任演説をこう締めくくった。「私が常に努力したのは、なるべく人命を損なわずにこの野蛮な戦いを名誉ある終結に導くことであった。私はいま52年間にわたる軍人生活を閉じようとしている。私は若いころ兵営で友達たちと歌った『兵隊の歌』の一節を覚えている。それは、老兵は静かに消えていく、しかし彼は永久に死ぬことはない、という意味の歌詞である。この歌の老兵のように、私はいま軍人生活を閉じ、静かに消えていくのである。諸君よ、さらば。さようなら、さようなら、・・・」  議場に拍手がとどろき、元帥が姿を消してもしばらくは鳴りやまなかった。後に第37代大統領となる共和党上院議員のリチャード・ニクソンは演説を聴き、その感激は自著「指導者とは」に、「マッカーサーは古代神話の英雄のようだった。彼の言葉は力強く議場全体が魔術にしびれ、演説は何度も拍手で中断された。ある上院議員は共和党員は感激でまぶたを濡らし、民主党員は恐怖でパンツを濡らしたと語った」と。8日前の11日、マッカーサーは第33代大統領、ハリー・トルーマンにすべての役職を解任され、帰国した。人生の黄昏を感じさせる演説だったが、心中は闘争心でみなぎっていた、と。
 しかしニューヨークタイムズ紙は、マッカーサー元帥の演説から政府との見解の相違点、言い換えれば元帥の政府攻撃点を指摘したのち、ワシントンの最高当局の談話を伝えた。「演説は政府の外交政策の基礎に挑戦し、政府の外交政策に反対する人々に論点を提供し、朝鮮における停戦交渉をより困難にならしめた。これらの問題は1952年の大統領選挙まで解決されないだろう」と。そしてタイムズ紙はこう結論付けた。「元帥の演説は一般に消えゆくだけと決心した人にふさわしいものとは受け取られず、今後の政争に常に多くの発言をするとの元帥の決意の表明だと理解される」  対日講和特使ダレスも元帥演説を不快に想った。演説は明らかに解任に対する未練がましい抗弁である。男らしくないし、自分の知る元帥らしくもない。ことは重大だ、元帥の軍人たちに対する影響力は甚大で、元帥がいう勝利第一主義は軍人一般に共有される概念でもある。米国の外交政策は対日講和の早期成立にあり、われわれ使節団の使命もそこにある。元帥演説によって、米国は講和よりも戦争に方針を転換するのではないかとの懸念を抱かないよう、日本側に説明する必要がある。最高司令官リッジウェイ中将にもその信念を不動のものにさせる必要がある、と。

 ではマッカーサーの本会議場での演説と議会証言についてどんなものだったのか、日本に関連した事項を中心に跡付けておきたい。まずは、上下両院合同本会議場の演壇に立った元帥は、「私はいずれかの党派の主張を唱えようとしてここに立ったものではない。老い先短い私の心中には一点の恨みも悲しみもない。私がこうして諸君に語るのは、ただ一つ国家のために奉仕したいという至情に燃えているからであり、他意はない」と語りだした。そして、よくアジアは欧州への門口だといわれるが、欧州がアジアへの門口であることも真理であり、いずれか一方の影響力は必ず他方に強く波及するものである。われわれの力はアジアと欧州の二正面作戦には不十分だと主張するものがあるが、これは敗北主義の最たるものだ。敵が二正面に攻撃してくるなら、われわれはそれに対抗せべきだ。太平洋の戦略的価値は太平洋戦争によって変化した。一連の島々から海空軍力によって北はウラジオストックから南はシンガポールに至るアジア要港を支配し、太平洋へのいかなる敵対行動をも阻止することができる。米国と太平洋地域の同盟国に対する大陸からのいかなる大規模な攻撃も結局は失敗に終わるほかはない。この理由から、私は台湾をいかなる事情があっても共産主義の支配下に入れてはならぬと、強く主張してきた。台湾が奪われれば、たちまちフィリピンの自由は脅威にされされ、日本も失うことになり、米国の西側防衛線はカルフォルニア、オレゴン、ワシントン州の海岸まで押し返されるかもしれない。 政治的にも経済的にも社会的にも日本は今や全世界の自由諸国と肩を並べ、二度と再び世界の信用を裏切ることはないであろう。それは戦後において日本が国内の共産主義を阻止してきた素晴らしい態度によって証明された。ゆえに、私は日本に真空地帯を生じしめる不安をいささかも持つことなく、朝鮮戦線に占領任務にあたる全米軍四個師団を送った。その結果は私の日本に対する信頼が間違っていなかったことを証明した。私は日本国民ほど、清らかで穏やかで秩序正しくかつ勤勉な国民を、ほかに知らない。また、人類進歩のための建設的任務において、日本国民以上に高度の希望を寄せられる国民をほかに知らない。
 朝鮮戦乱の問題に移ろう。トルーマン大統領が韓国を支援する決定は軍事的観点から健全なものであることが証明された。私は戦争を遂行するために次の点が必要だと考えた。①中共に対する経済封鎖の強化。②中国沿岸の海上封鎖。③中国沿岸及び満州に対する空中査察禁止の撤廃。④台湾の国府軍に対する制限の撤廃と同軍の有効な作戦に対する補助援助。この判断はこれまで統合参謀本部を含めて朝鮮作戦に関係したほとんどすべての軍事指導者の見解と全面的に一致したものであった、と理解している。にもかかわらず、私の見解は主として外国の、しかも軍事知識のない方面から手厳しい非難を受けた。私にとって戦争ほど嫌なものはない。1945年の日本の降伏調印式で「人類はその生成の時より平和をもとめてきた」と。しかしひとたび戦争を押し付けられた場合には、それを速やかに終結させるあらゆる手段を尽くす以外に途はない。戦争の目的は勝つことだけであり、いつまでも煮え切らない状態を続けることはできない。一部には中共に対して融和の態度を以て臨もうとする者がいる。それらは明白な歴史の教訓に目をふさぐ者である。歴史は融和政策が結局は新たな、より血なまぐさい戦争を引き起こすに過ぎないことを教えている。中共は現在すでに投入できる最大限の力で戦っており、またソ連もわれわれの行動によってその行動を容易に変える国ではない。むしろ敵は軍事的あるいはその他の見地から、有利と見さえすれば毒蛇のようにどこにでも噛みつく方針をとっているとしか思えない。   そして演説は冒頭の締めくくりの言葉につながった。

 1951年5月3日、上院軍事外交合同委員会でマッカーサー元帥が証言した。マッカーサー元帥4月19日の議会演説で、自分の朝鮮戦乱に対する戦略構想には統合参謀本部も同意していた旨を述べた。それが事実なら大統領の元帥の戦略には軍も反対していたとする解任理由の根拠が失われ、大統領が嘘を言ったのか、との疑惑が生まれる。共和党からその間の事情と真相を明らかにすべきとの声が高まり、民主党側は反対したが結局折れて元帥の証人喚問となった。委員会は非公開とされ、特別に認められた上院議員71人の外は傍聴できず、報道陣も完全にシャットアウトされた。それでも政治家がマスコミを重視するお国柄だけに、節目ごとに中座してマスコミサービスする委員、傍聴議員が少なくなく、委員会の模様はほぼ不足なく報道された。
 委員長:ソ連の極東での戦争能力はどのようなものか。元帥:シベリアのソ連軍は防衛的存在だと考える。シベリア鉄道の輸送力は限界に達している。もし兵力が東送されれば、国連軍にとっては新たな脅威となるであろう。 委員長:貴下は朝鮮戦乱が勃発したとき在日米軍のほとんどを朝鮮に派出した。その際決意すれば、ソ連は日本を占領できたか。元帥:そうは思わない。日本を占領するには地上攻撃が不可欠である。われわれが制海、制空権を保有している限りソ連軍地上軍の侵攻は不可能で、日本内部のクーデター以外にソ連が日本を征服することはできない。過去百年間において米国が犯した最大の政治的あやまちは、中国で共産主義者を強大にさせたことだ。朝鮮戦乱解決のための構想は、まず国連が中共政府に対して、朝鮮における停戦実現のための交渉に応じるよう勧告する最後通告を行う、中共が拒否すれば、中共の国連に対する宣戦とみなす。米海空軍の総力を挙げて中共に対する封鎖、爆撃を実施し、中共がソ連その他ぼ地域から戦争資材の補給を受けられないようにする。私の構想が受け入れられずにこのままに事態が続けば、朝鮮のホコリが鎮まるまでにはなお多くの米国人の血が流されざるを得ない。 民主党委員:ソ連が第三次世界大戦に訴えた場合の米国の防衛についてどう考えていたか。元帥:私の責任の範囲外である。等々でこの日の証言を終わった。

 5月4日、元帥証言第二日目を迎えた。民主党委員:貴下は極東戦略についての上司との意見の対立を世間に公表したが、上司とだけ意見をたたかわすべきだとは思わなかったのか。元帥:その義務を満足すべき方法で遂行しなかった軍人は、上司が解任できる。政府がその義務を遂行しない場合、四年ごとに全国的国民投票(大統領選挙)が行われる。 民主党委員:貴下は共和党下院院内総務に対して書簡を送ったが、第一線司令官が政治家を通して上司との意見対立を明るみに出すのは不適切な行為としか考えられない。元帥:対立する問題について反対意見を十分に述べることは、公共の関心に応えることだ。一部の者に沈黙を強制する全体主義あるいはソ連のやり方は米国的でない。 その後委員たちのの質問に応えて見解を明らかにした。 朝鮮戦乱の局地的解決:朝鮮における米国の目的は、中共の北朝鮮侵略を撃退すること、中共軍に朝鮮で多数の米軍将兵を殺すのをやめさせるために十分な圧力を加えることを意味する。 台湾:日本の旧領土の多くの部分はその法的帰属が未定であり、台湾の場合もヤルタ協定その他の取り決めはあるものの対日講和が成立しない以上、法的にはなお日本の一部である。ヤルタ協定によってソ連軍に大連、旅順などに進駐することを許したのは、最大の失策である。 対中共戦:私が主張する以外の政策では、朝鮮の全人民が犠牲になり、その間に米国民にも多数の犠牲者を出すことになる。 戦乱解決策:米国は本日、国連に対して、対中共戦略物資の禁輸を提案した。これは正当な措置であるが、余りに手遅れである。中共に対する私の提案が実行されていたら、中共はすでに米国に和平を求めていたかもしれない。私の計画は戦乱を拡大する危険があるといわれる。もちろん、朝鮮の停戦が名誉あるものであるなら、私もそれを歓迎する。私は対ソ戦争が不可避だとは考えない。近代戦では勝者も敗者もあり得ない。ゆえに戦争は意味がないと信じている。 解任:私の解任は一人の人によって行われたものと信じている。

 5月5日、マッカーサー元帥は三度証言席に着いた。 米国の軍備強化:世界が無法者が横行している状態では、全体の情勢が根本的に解決する方策が発見されない限り、軍備強化の必要はますます強まってくる。現在の米国は明らかに軍備不十分である。朝鮮に十分な資材が送られなかった。共産勢力の自由世界に対する攻撃は始まっている。もし朝鮮でこれを阻止できなければ、米国は破滅の道を辿る。ソ連がもし自由世界に攻撃を仕掛けてくるとすれば、その攻撃は極めて有力な力を以て行われるものと予想する。このような攻撃を防ぐ途は一つ、今の朝鮮の戦いに勝つことでしかない。
 その日の午後、共和党委員が質問に立った。共和党委員:われわれが対日戦に勝つために原爆以外にソ連の参戦も必要だったと思うか。 元帥:その必要はなかった。現実問題として、ソ連の参戦は対日戦終結になんの役割も果たさなかった。(元帥は言外に対日参戦要請も失策の一つだと指摘した)  中ソ同盟条約:中共は旅順、大連からソ連を追い出したがっているので、自発的に領土内にソ連軍を呼び込むとは考えられない。この条約は本来日本軍国主義の再起に備えたものである。  ソ連の軍事能力:ソ連が日本を攻撃することは可能である。北海道を占領できるかもしれないが、本州まで占領できるとは思えない。ソ連は米軍の補給線を脅かすことはできるかもしれないが、全面的攻撃を行うのに十分な海軍力を持っていない。ソ連には日本の真珠湾攻撃並みの奇襲攻撃によって米海空軍を行動不能にする能力はないと確信している。  マッカーサー戦略:朝鮮で攻勢に出なければわれわれは東南アジアを失い、米国の安全は今後長く脅かされる。朝鮮の失陥はソ連の欧州征服を可能にする。朝鮮で敗北すれば、欧州でも敗北することになる。  日本再軍備:日本の国内治安の維持のために補助的な警察力が不可欠、これが警察予備隊であり、単なる警察力より警備隊に近いものである。われわれは警察予備隊を米軍の師団並みに組織し、七万五千人を四個師団相当に編成した。この予備隊は同種の部隊にも劣らないものである。軍事兵器と呼ばれる武器では装備されておらず、その計画もない。  日本の経済機構:日本には戦前多くの巨大な独占形態が存在した。これを米国の型に倣ってこの独占を修正し、米国風の資本主義的概念に沿う公正な自由競争制度を導入した。  新憲法の戦争放棄条項:新憲法の草案が作成されている時期に、私は幣原首相から戦争放棄の規定について意見を求められた。私は、これは極めて建設的な規定であるが、世界の人々はこれを嘲笑するかもしれない。この嘲笑を切り抜けていくためには格別の精神的強さが必要である。その規定は守り切れないかもしれないが、敢然と進むべきである。(戦争放棄条項は元帥側の命令にひとしい強要で条文化された)  日本人の米国観:日本人は米国式生活様式のみならず米国の個性そのものを賛美し尊敬している。日本人は個人の自由と尊厳こそ米国人が自分の生活を規定するものであることを認識した。日本人はこれを驚くほど吸収し、歴史上の大革命に匹敵する社会改革を実行した。それは進歩が遅れた国民が自由を初めて味わう機会を得たということである。   日本と自由陣営:日本はわれわれの陣営に属すると確信する。外国の軍旗の下に自由を禁圧された国は沢山あるが、自由を経験した国が自らこれを放棄した例は、歴史に発見することはできないからである。  以上でマッカーサー元帥は日本占領の見解を述べて三日間の証言を終えた。上院軍事外交合同委員会はこれで元帥の登場を打ち切り、政府側の反論証言を聴くこととなった。

 5月6日、ニューヨークタイムズ紙は三日間にわたるマッカーサー元帥の証言を総括して論評した。証言は一口に言って矛盾に満ちた独善的長広舌と性格づけられる、と。元帥は朝鮮戦乱解決のための四戦略(満州爆撃、中国本土封鎖、米海空軍の総動員、台湾の蒋介石軍の朝鮮投入)が実施されれば、軍事的解決は可能であるというが、民主党委員は、中ソ同盟条約の発動をうながし、少なくとも中国との全面戦争をもたらして、かっての日本の失敗を繰り返すと指摘、しかし元帥はある程度の全面戦争への危険はおかさねばならない、北朝鮮軍の侵略に対して武力で排除することを決定した時点で、すでに考慮されたはず。四戦略は極東での全面戦争の可能性より朝鮮戦乱の解決をもたらす可能性を持っていると確信する、と。さらに元帥は三点を強調した、①中国を中共の手に渡したのは米国の失敗である。②私は対日講和の成立と朝鮮戦乱を解決してから日本を去りたかった。③私は常に上級者に服従してきた。そして元帥は証言を通じて、自身の個人的な心情と感情を吐露するのに躊躇せず、政府と大統領に対する不満も隠さなかった、と。トルーマン政府にも弱点がある。①政府は依然として朝鮮戦乱の解決のメドをつける政策を持っていない。②朝鮮では、元帥が云う様に、依然として米兵の血が流されており、政府にはそれをとめることができない。政府はマッカーサー戦略が危険だというなら、それに代わる明確な政策を示すべき、と論評した。
 国防長官マーシャル元帥は同委員会に出席に証言を行った。前線司令官は全世界にわたる戦略を唱道すべきでない、マッカーサー元帥は米政府の外交軍事政策について大幅に意見を異にしており、このため前線司令官としての任務の継続、米政策の遂行能力について重大な疑義が生じた、と。  一方、トルーマン大統領は同日、民間防衛組織大会で演説、私がこれまでに得た最上の軍事的勧告は、朝鮮戦乱を拡大しても、戦乱は早急かつ容易に解決することはない。米国が対中共戦に深入りすれば、欧州で危険な軍事的結果が招来されるのは必至であり、米国の資源がアジアの全面戦争に投入されて欧州ががら空きになるほど、クレムリンを満足させるものはない筈である、と。

 これまで見て来た上院の軍事外交共同委員会の主な議題は「マッカーサーの解任に是非」と「極東の軍事情勢」についてであったが、日本についても質疑が行われていた。現在でも取り上げられるのが、「日本が戦争に突入した目的は主として安全保障(Security)によるもの」と「日本人は12歳」という証言である。児島襄氏は前者は取り上げてないが、後者は記者報道による誤理解を記述しているので、ウキペディアによる「マッカーサーのアメリカ議会証言録」から詳細の事実関係を見ておきたい。
 共和党上院議員バーク・ヒッケンルーパー「赤化中国を海と空から封鎖するという元帥の提案は米国が太平洋で日本を相手に勝利を収めた際の戦略と同じでないか」 質問の主旨は、マッカーサーの戦略の正当性を補強するためだったが、マッカーサーの回答は予想外であった。 マッカーサー元帥「イエス、サー。われわれはバイパスして日本に接近した。(中略)・・・日本は4つの小さい島々に八千万人近い人口を抱えていたことを理解しなければならない。日本の労働力は潜在的に量と質の両面で最良だ。彼らは工場を建設し、労働力を得たが、原材料を持っていなかった。日本にはカイコ以外にこれといった産品がない。綿もない、羊毛もない、石油製品もない、錫がない、ゴムがない、その他多くのものがない、しかしその全てがアジア地域にあった。それらの供給が途絶えたら一千万~一千二百万の人々に仕事がなくなることを恐れ、それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(security)の必要に迫られてのことであった。日本の製造業に必要な原材料、これらを供給する国々である、マレー、インドネシア、フィリピンなどは、事前の準備と奇襲により、日本が占領してしまった。日本の戦略方針は、太平洋上の島々を離島陣地として確保し、われわれがその全てを奪い返すには多大の損失が生じると思わせることによって、日本が占領地から原材料を確保することを黙認させようというものだった。これに対して、われわれは新規の戦略を編み出した。日本軍が陣地を保持していても、これを飛び越えて、日本軍の背後に忍び寄り、日本と占領地を結ぶ補給線に接近した。」
 この発言(主として安全保障の必要に迫られた)は共和党の期待を裏切り、激しい怒りをかった。マッカーサー人気はこの後急速にしぼみ、大統領の夢は潰えた、と産経新聞「戦後70年~東京裁判とGHQ」に載るコメントである。これが事実とすると、マッカーサーは正直な人で、政治家ではなかった、と言える。マッカーサーは日本と戦った張本人、当然日本の占領時代になぜ日本がアメリカに戦いを挑んだのか、心の中で幾度も反芻したことだろう、そして辿り着いたこたえが上記のセリフににじみ出たのではないか。そういう意味では日本(過去から現在、現在から行く末)のことを日本人の立場に立って真剣に考えた結果である。
 産経新聞のこの記事では、日本が自衛戦争と認めた理由についてマッカーサーは回顧録にも触れていない。だがマッカーサーが朝鮮戦争でどのような戦略を描いたかを紐解くと答えが見えてくる、マッカーサーは、朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中国という共産主義国の脅威を痛感した。朝鮮と台湾が共産主義国の手に落ちれば、日本も危うく、極東での米国の陣地は失われ、防衛戦は米西海岸まで後退しかねない。それを防ぐには朝鮮半島を死守するしかない。この見解は国務省や国防総省にも根強くあった、と。この主張は、その後の歴史を辿っても説得力がある。ただ、朝鮮半島を死守しつつ、大陸の中ソと対峙するという戦略は、日本政府が独立を守るために日清戦争以来とってきた戦略と変わらない、とも言う。「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」マッカーサーの言葉である。マッカーサーは日本の占領統治と朝鮮戦争を通じて日本の地政学的な重要性に気づいた。自衛戦争発言は、自らの戦略の優位性を雄弁に語るうちにポロリと本音が出たと見るべきだろう、と指摘する。

 共和党上院議員R.ロング 日本とドイツとの占領の違いに関する質問で、「ドイツは一度、第一次世界大戦の後の民主主義の政府を有したのに、その後熱狂的にヒトラーの後を追ったという事実を考慮したか」 マッカーサー「まぁ、ドイツの問題は日本の問題と全然異なるものだ。ドイツ人は成熟した人種、アングロサクソンが科学、芸術、神学、文化において45歳の年齢に達しているとすれば、ドイツ人も同様に成熟していた。一方、日本人は歴史は古いが、教えを受けるべき状況にあった。現代文明を基準とするなら、我らは45歳の年齢に達しているとして、日本人は12歳の少年のようだ。日本人は新しいモデル、新しい考えに影響を受けやすく、また、新しい概念を受け入れることができるほど白紙に近く、柔軟性があった。ドイツ人はわれわれ同様成熟しているが、故意に現代のモラルや基準を放棄した。ドイツ人は日本人と違って国際的な知識が不足したわけでもなく、つい誤ってやったわけでもない。軍事力を用いることが、彼らが望んだ権力と経済支配への近道であり、熟考した上で軍事力を行使した。今、あなた方はドイツ人の気質を変えようとはしない筈だ。ドイツ人は哲学や世論の圧力と彼ら自身の利益等々で、彼らが正しいと思っている道に戻っていく。そして、われわれとは多くは変わらない路線に沿って、ゲルマン民族を作り上げるだろう。しかし、日本人は違う。全く類似性がない。大きな間違いの一つは、日本で成功した同じ方針をドイツに適用しようとしたことだ。ドイツでは同じ政策でも成功しなかった。ドイツ人は異なるレベルで活動していたからだ」
 日本人は12歳との発言は、多くの日本人には否定的に受け取られ、日本におけるマッカーサー人気冷却化の要因になった。ことの起こりは、5月16日の朝日新聞の記事だった。ニューヨーク特派員中村正吾の電報で、マッカーサー元帥の証言の中から、とくに日本に関する部分を取り出して伝えたものだった。中村特派員が伝える元帥の日本人観に日本国民のほとんどが失望した。日本側としては、元帥の指示に従って自己の改造と民主化に励んで成果をあげてきたつもりなのに、日本と日本人は依然として未発達で、せいぜい12歳の少年程度にすぎないと判定している、けしからん、と。
 元帥の解任が報じられた4月12日、朝日新聞は社説でこう述べた。「われわれは終戦以来今日までマッカーサー元帥と共に生きてきた。日本国民が敗戦という未だかってない事態に直面し虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義の良さを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励し続けてくれたのも元帥だった。」
 吉田首相は書簡を元帥に届けた。「閣下が突然わが国を去られることに私は言いようのない衝撃と悲しみを感ずる。・・・天皇陛下から一市民に至るまで、すべての日本人が閣下との別れを惜しんでいる」
 毎日新聞は離日当日、書いている。「白い雲に朝日を浴びて真っ赤なパターン号の機種が美しく映えていた。ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から救い上げてくれた元帥。元帥! その窓から青い麦が風にそよいでいるのをご覧になりましたか。今年のみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の5年8カ月にわたる努力の賜物であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです」
 これほどの謝辞と賛辞と敬愛の念を被占領国民から捧げられた占領軍司令官は、歴史上に類例がない。日本側としてはこれほどの思い入れがあっただけに、日本人12歳説はあまりに意外だった、と。しかし、上記のマッカーサー元帥の証言を読んで、この解釈方法は納得できない。当時の朝日新聞の記事を読んでないので早計には言えないが、報道の仕方に問題はなかったのか。吉田首相によると「元帥の演説の詳細を読んでみると、自由主義や民主主義政治というような点では、日本人はまだ若い」という意味であって、「古い独自の文化と優秀な素質とを持っているから、西洋風の文物制度の上でも、日本人の将来の発展は頗る有望である」といことを強調しており、依然として日本人に対する高い評価と期待を変えていないのがその真意である」という解釈になる。朝日新聞の社説を読むと、朝日新聞の心情からは、日本人12歳説もまんざら的を外していないようにも思える。

 


冷戦下の日米関係の模索・構築  「復讐や懲罰よりは、和解と信頼の講和」

2021年10月26日 | 歴史を尋ねる

・昭和26年2月27日、特使ダレスは対日講和交渉のための各国訪問について、国務長官アチソンに報告書を提出した。①米国は講和成立後日本およびその周辺に米陸海軍を駐留させる広範な権限を保持することを示唆し、日本政府は完全に同意した。 ②この同意はまったく日本政府の任意的意思によるもので、ダレスは2点を強調した。 イ、米国は日本に対して何も要求しない。 ロ、現時点において米国は、日本の経済的かつ政治的独立および領土保全についての義務を負わない。 ③日本政府は、日本が経済的かつ政治的に自衛と相互援助の軍事政策を実行できることを証明し得るようになるまでは、日本に対する特別の安全保障問題は起こらないことを認めた。日本が返還を希望している琉球の帰属については将来討議することになった。 ④ダレスはマッカーサー元帥と意見が一致した。 ⑤対日講和条約では、日本の経済的自由に不可欠な造船業、繊維業を制限しない。 ⑥日本にとっての貿易対象である南方地域を防衛する。 ⑦日本の再侵略を懸念する諸国に対しては、効果的な対策を講ずるべきである。 そのあと、ダレスは大統領トルーマンを訪ね、経緯を口頭で説明した。大統領は「今後も貴職に与えられた使命を遂行し、速やかに対日講和を成立させてほしい」と。
・2月28日、特使ダレスは記者会見を行った。対日講和に関する関係諸国の首脳との会談は、日本との戦争状態を解消させるだけでなく、太平洋における新たな戦争と侵略に対する防壁を建設する対日講和について、相互のより良き理解とより緊密な意見の一致をもたらすために非常に役立った。そして特使は日本側文書二通を朗読した。①朝鮮戦乱発生後の情勢に鑑み、日本の安全保障のため講和成立後も米軍の日本駐兵を望む。 ②漁業問題については講和後各国と交渉の用意があるが、日本は現在の漁業に関する国際協定の主旨を遵守する。 ダレスが講和後の一定期間米軍を駐留させる方針だと述べると、すかさず記者団から、その駐兵措置の対象はソ連か、歯舞諸島に軍隊を駐屯させているが、米政府はどう対処するのか、と質問。 ダレス:ソ連が同島に進駐したのはヤルタ協定に基礎をおいたものとは言えない、米政府としてはソ連の同島進駐は違法と見做さざるを得ない。 ①米国の対日講和条約草案は、ソ連をはじめいかなる国も反対しないものだと確信する。 ②ソ連が対日講和に参加するならば、米国は南樺太、千島に関するヤルタ協定を尊重する。ただし歯舞諸島については北海道につづくものであり、千島には属さないものとみなす。 ③米政府は、ソ連および中共が参加しなくとも対日講和条約を締結する。 ④米政府は、講和条約とは別個に、米軍の日本駐留について日米間で双務協定を結ぶ。 ⑤米政府は豪・ニュージーランドが希望する太平洋共同防衛協定について考慮している。 
・歯舞諸島についてのダレスの言明は歓迎すべきものであるが、官房長官岡崎勝男は、「領土問題は連合国の決定に従うのみである」と慎重な姿勢を示した。

・3月27日、出来上がった対日講和条約草案「前文・八章二十条」が総司令部外交局長シーボルトを通じて吉田首相に伝達された。「連合国に対するのと同様に敗戦国にも講和条約案を事前に提示するのは、外交上例のないことであり、米国の日本に対する好意のあらわれである」と述べ、絶対極秘にしてほしいと要望した。だが、米国側の動きはマスコミに探知された。
・3月29日、AP通信は報道した。①国務省は最近起草を完了した対日講和条約草案を関係十五か国に手交し、意見を述べるよう要請した。②国務省は三か月以内に関係諸国の一致した合意による対日講和条約案が出来ることを希望する。③草案はソ連にも交付されたが、国務省はソ連がこれを対日講和条約の基礎案として受諾するとは考えていない。
・ダレスは交付した以上何処からか洩れるのは必定、そこで草案そのものはあくまで秘匿するが、その内容は明らかにして、各国の世論の理解を得るのが各国政府の支持をうながすのに役立つと判断した。
・特使はロスアンゼルス郊外のホイッティア大学創立五十周年記念夕食会に出席して演説し、対日講和条約草案のほぼ全容を明らかにした。 〈対日講和の好機〉戦後日本とドイツは共産勢力が狙う二大目標となった。もしソ連の支配者が日本、ドイツのいずれかの工業および人的資源を手に入れ、これを悪用するようなことになれば、世界平和にとって一大悲劇となる。幸いに日本国民は、新たな侵略の最前線に立つことにソ連との結合を望んでいない。日本国民は軍国主義を憎む気持ちになっており、国連の原則に即した集団安全保障を通じて平和を求める諸国との友好関係を心から希望している。  〈対日講和条約の作成〉対日講和に関しては大統領、国務長官、国防長官が非常な関心と努力をそそぎ、上下両院の外交委員会も最大の協力を惜しまず、よってわれわれは講和条件を具体化する可能性を見出した。講和条件は次の要件を不可欠とする。①米国内の全面的支持、②連合国間の意見の一致、③日本側の受諾。  〈条約本文〉  領土:日本の領土は本州、北海道、四国、九州およびこれに付随する小島に限定される。日本は朝鮮、台湾、澎湖島および南樺太に対する権利・権原・請求権を放棄する。琉球、小笠原諸島は米国を為政権者とする信託統治下に置かれる。南樺太、千島はヤルタ協定によりソ連が領有するが、その権原が講和条約で確認されるためにはソ連の講和参加が必要である。  通商:恒久的な通商関係を講和条約で規定すべきでない。講和締結後の独立国としての日本と友好国との間の交渉にゆだねる。  〈賠償〉 日本は侵略によって他の国に与えた損害をつぐなうべきだととの主張は正しく、米国も同感である。しかし賠償は経済的に実行できるかどうかぼ問題である。米国は戦後日本に20億ドルの援助を与えてきたが、いつまでも援助する用意はない。戦火をうけ、領土を失い、資源に乏しい日本に工場施設の撤去を含む過大な賠償を要求するのは、日本に非人道的な負担を課すことであり、連合国の全般的、長期的目的の達成を困難にする。しかし、米国はこの問題について最終的決定を下していない。被害を受けた諸国と意見を交換中である。  〈漁業〉 太平洋岸諸国からは、講和条約で日本の遠洋漁業参加を制限すべきとの提案がなされた。この提案が実行されれば、講和の成立は不可能になる。漁業問題について各国はそれぞれ独自の課題を抱えているので、その解決方法は色々考えられる。  〈安全保障〉 この問題は国連憲章が定める個別的ならびに集団的自衛措置という考え方にそって全構想を求めるべき。独立後の日本は国連憲章が云う独立国の固有の自衛権を保有する旨を想定する。  〈日本の安全保障〉 日本は完全に非武装化され、法的にも物理的にも軍隊を持つことが出来ないため、暫定的な安全保障措置が必要となる。日本が欲するならば、米国は日本本土およびその周辺に駐留させることを同情的に考慮する。これは日本が講和後に力の真空状態に放置され、隣国韓国のように侵略の好餌になることを防ぐためである。暫定的な安全保障措置は日本政府および国民から歓迎された。  〈太平洋の安全保障〉 日本の安全保障は太平洋の安全保障の一部である。日本は太平洋の安全保障に関して相応の貢献をすべき。集団安全保障は自衛と相互援助を基礎にすべきというヴァンデンバーグ決議、国連が平和のために軍隊、援助を提供することを加盟要件にしている事実に基づく。以上により、二つの原則が強制される。 イ、安全保障について貢献する能力を持つ国の無賃乗車は許されない。 ロ、国連憲章の目的と原則を無視する軍備拡張は認められない。 われわれが求める平和は、日本の隣接諸国および日本国民を軍国主義の悪夢から永久に解放する平和である。いずれ対日講和条約の範囲外の太平洋安全保障に関する取決めが生まれるだろうが、この協定は一方で日本が大陸からの新帝国主義の支配下に追い込まれるのを防ぐためであり、他方で攻撃的脅威になりうる日本の無拘束の再軍備を阻止するものとなろう。  〈和解の講和〉 われわれがめざす対日講和は、日本を独立の主権国にすると共に自由世界の不可欠の一員とする目的のものであることが理解できる。日本は一方で世界の集団安全保障に寄与し、経済的に自立することができ、他方で、国際的に平等の地位を回復して差別的な条件から解放される。われわれが求めるのは和解の講和であり、戦勝国が通常戦敗国に課すようなものではない。  〈信頼の講和〉 対日講和の主目的は、将来日本国民を他の諸国の良き隣人として共存させることである。これは日本に国際的に威厳ある平等の地位を回復させるべきであり、その意味では、対日講和は信頼に講和である。
・3月31日、戦時中から消えていた東京・銀座の街灯が復活した。そこに米国の対日講和案の発表だった。その内容は復讐や懲罰よりは和解と信頼を旨としたものである。社会党委員長鈴木茂三郎はダレス講和に不満を表明した。単独講和になれば、日本の将来は一つの世界とだけの関係になり経済の自主・独立は不安定になる。新憲法の非武装中立の精神は考慮されず、領土についても歯舞、色丹も除外されている。
・社会党委員長鈴木茂三郎の論評は例外であり、日本の各界からは歓迎の合唱が沸き起こった、と児島襄氏はコメントする。目の前の朝鮮動乱を一番身近に見ている日本で、全面講和を主張する考え方は、ダレスの説明を聞くと、素直に不思議な感覚に襲われる。国際情勢を冷静に見ることができないか、あるいは自らの主義主張のための言説なのかもしれない。当時有識者といわれる人々や朝日新聞などメディアには、社会党委員長の考え方が有力だったが、歴史のふるいにかけられると、すっかり忘れられる。
・自由党幹事長佐藤栄作はいう。ダレス特使が日本に対する深い理解と同情をもって講和条約締結の態度なり心構えなどについて明確にされたことは喜ばしい。期限付きにせよ貿易の最恵国待遇、漁業の平等などを認めるということは、明るい希望を持たせる。ダレス特使は、ソ連の態度が明白なのでその参加は講和に不可欠ではないと明言した。日本の安全保障についてダレス特使が国連憲章に基づく個別的、集団的安全保障の方式を重ねて強調したのは、日本の今後の道をはっきり示したものと言えよう。
・財界筋の見解:賠償については、ニワトリを殺して玉子をとるようなやり方を日本に取らないことが必要。フィリピンに対しては、日本が今後通商や開発などの経済的協力を進めて、実質的賠償の形をとることも考えられる。在日外国資産、権利などの返還、承認などはやむを得ないと考えられるが、少なくとも日本の民間人の在外資産については何らかの形で返還されるべき。関係国の中には、日本の造船その他の工業生産の制限を考えているもののあるようだが、われわれはむしろ自由な工業力をもって民主国家群に寄与するのが日本の役割だと考え、ダレス氏がまったく同様な見解を表明されたことに感謝している。

・4月7日、総司令部外交局長シーボルトは熟睡中ダレスの電話に起こされた。「講和草案がすっかり漏れた。日本の新聞に載っているか」 早速西村局長に質問したが、新聞社はワシントンの米国通信社の報道であり電報を受信中との回答。日本側の日守秘義務は守られた。朝になると日本の新聞各紙に記者ヘンスレー著名入りの記事が報道された。
・第一章平和、第二章主権、第三章領土、第四章安全保障、第五条政治的経済的条項、第六章請求権および資産、第七章紛争の解決、第八章最終条項。  日本人の意思が表示される前文には次のようなものだった。
・連合国と日本は、今後平等な主権国として共通の福祉を促進し、国際的な平和と安全保障を維持するため、友好的結びつきの下に協力する関係に入るべきことを決意する、と。日本は以下を宣言する。①国連加盟の意向。 ②あらゆる状況下において国連憲章の原則に従う意思。 ③国連の人権宣言の目的実現のために努力する決意。 ④国際的な福祉と安定のために努力する意向。 ⑤公的および私的な貿易、商業活動における国際的な公正な慣行を遵守する意思。 連合国と日本の将来の関係を安定かつ平和的な基礎の上に置くために、連合国はここに日本と本条約を締結する。
・朝日新聞は外務省有力筋の反応を伝えた。米国案には、敗戦国に対する戦争責任追及の条項はなく、対イタリア講和条約のように無条件降伏という言葉もないし、対日監視機関設置の規定もない。本案は寛大な条約案であり、勝者と敗者の関係を越えた友好条約の締結を目指す米国の意向が明示されている、と。
・シーボルトは安堵した。局長は条約案の暴露は日本内外の反発を招くのではないかと危惧していた。米国構想の焦点は、日本に完全な主権と独立を回復させて平等な一員として国際社会に迎え入れると同時に、日本を世界の安全保障体制の中に組入れることである。
・各国は、この構想は両刃の剣の効果を生む恐れがあると批判した。技術と能力にすぐれた日本に自由な行動を認めるのは日本はアジアの経済的支配者にする道を開くものであり、安全保障の面でコントロールするといってもその国際的貢献の義務を果たせるためには再軍備を認めねばならず、これまた日本を軍事大国として再生させる道を開くものではないか。
・日本側の一部からも不満が表明された。米国構想は日本の将来を米国と国連の管理下に置くものである。とくに軍事権を実質的に取り上げられるのは、日本を属領または信託領にするものではないか。日本はアメリカの日本になるのではないか。
・局長シーボルトは本物の米国案が明らかになった以上は噂段階の不満、反発以上のより強い形で噴出するのではないかと予想したは、事態は局長の予想に反した。局長が接触した高官および政治家たちは口を揃えて、前述の外務省有力筋の見解と同様に米国案歓迎の意向を表明、その一人は「空は晴れ上がった。残る一点の雲は、いつ講和会議が開かれるかの問題だけだ」と。局長は、米国内でかまびすしいマッカーサー元帥問題は気にならぬか、元帥も対日講和の立役者の一人だ、というと、相手は肩をすくめて、「はるかな遠雷を聞く感じだ。われわれの関心は米国の内政問題ではなく、その政策にある」と。ふーむ、この政府高官はなかなか覚めた感覚の持ち主だ。
・4月16日、マッカーサー元帥一家は早朝羽田を離陸したその日の夕方、特使ダレスが来日した。数日前ダレスはホワイトハウスで大統領トルーマンと対坐し、国務長官アチソンが同席した。大統領は「すぐに東京に行って、日本の指導者たちにわれわれの対日講和に関する意図を説明し、本件について新連合国最高司令官リッジウェイ中将ととくと協議して貰いたい。これは自分と政府全体の要望だ。是非頼む」 ダレス「マッカーサー元帥の解任は、民主党政府の政策に一貫性を欠く象徴とも見做される。そこで、自分に与えられる使命が不変であることの保障を得ようとしたのである」 大統領は即座に「私は対日講和に関する政策をいささかも変更するつもりは全くない。私は貴下を百パーセント支持する用意がある」 アチソンも「本職も大統領と同じ決意を持っている」と。
・以降は次回に繋げるとして、ダレスはどんな思いで対日講和を進めているのか、考えてみたい。無条件降伏をした日本に、なぜここまでの心配りをするのか、一つには朝鮮動乱下の自由主義陣営と共産主義陣営が鋭く戦っている最中で、東アジアの橋頭堡として日本を位置付けたいという軍事戦略上の要請があるということは理解できるが、それだけでダレスの行動・考え方を理解することは難しい。復讐や懲罰より和解の講和もどうやら理解可能である。しかし、ダレスは「日本国民を他の諸国の良き隣人として共存させること、日本に国際的に威厳ある平等の地位を回復させるべき」であり、信頼の講和と語っている。佐藤栄作は「日本に対する深い理解と同情をもって講和条約締結の態度なり心構えなどについて明確にされた」とコメントを発している。日米戦争が始まる前のルーズベルト大統領の偏見に満ちた人種差別的な日本人観と比較すると、そこは雲泥の差だ。戦後5年も経過して、日本の実情を客観的に見えるようになって、ダレスには謀略に満ちたあの戦争の本質が見えてきたのではないか。終戦末期1945年4月、スイスで海軍武官の藤村義朗とアメリカOSS欧州本部長アレン・ダレスは極秘の終戦工作を行ったが、戦後もだいぶ経ってから藤村はアレン・ダレスと再会、日本が決めれば大東亜戦争は2,3カ月は早く集結していたとの米側の内情をきかされたという。特使ジョン・ダレスも知らないわけもないだろう。日本を知れば知るほど信頼に足るとダレスは感得したのだろう。その本質をつかんだからこそ、その講和の精神が今以て日米関係を維持発展出来ている所以だと思う。


冷戦下の日米関係の模索・構築  「朝鮮戦争の攻防と停戦のマリク提案」

2021年10月15日 | 歴史を尋ねる

・昭和26年2月12日、ダレス声明と吉田声明に対する各方面の反応を朝日新聞は報道した。 自由党幹事長佐藤栄作:ダレス特使の声明に心から感謝する。わが党は、他党が現実に遊離した考え方を持っているのに対して、ダレス声明をいかに形づけるかということの全力をあげたい。  民主党政調会長千葉三郎:簡単な条件で戦争状態を終結させるダレス提案に、ソ連もそれを阻止する口実は見出せまい。この際暫定的措置として日米間の安全保障協定が必要だということである。  社会党委員長鈴木茂三郎:集団保障とか自衛とかいう美しい名称で事実を曲げるようなことがあってはならない。諸外国ではしきりに地域的な集団保障を言っているが、紛争状態にある大国と関連を持つ諸国との軍事同盟も論議されている。国民は真剣、慎重に考えねばならない。首相声明によれば、吉田首相が仮面を脱ぎ捨てて講和後の再軍備を約束したことが明白となった。外交が秘密裡に行われる戦前と同じ、許せない。  総評議長武藤武雄:駐兵歓迎の首相声明は自由党政府の一見解である。これを国民の世論と捉えるのは心外である。総選挙の結果を国民の世論だと見てほしい。  財界日清紡社長桜田武、経団連専務理事堀越貞三:駐兵、集団安全保障、経済的制限の撤廃などの重要問題について具体的に明示したのは米国の強い決意の表れだ。民主的諸法規は講和後も持続し、逆戻りしないことを国際的に明らかにする必要がある。もし現金賠償などが課せられれば、わが国の経済力では負担に耐えられない。
・児島襄氏は社会党委員長、総評議長の発言について、とくにコメントしていないが、日本の与野党の考え方のすれ違いはこの当時から延々とつながっている。ダレス特使は吉田首相と会談した時、「問題は野党だが、貴職は野党指導者の意見を確かめるために会談する用意があるか」との問いに「自分としてはとくに野党指導者との話合いが必要だとは思えないが、反対するつもりはない。日本にはいろいろと無責任な発言をする政治家がいる。この点は注意願いたい」と。それは米国も同様だとダレスは応え、「自分は首相の背後で画策する気は毛頭ない。自分が野党指導者と会談する時は首相も同席していただきたいものだ」と述べると、「その必要はありますまい」と吉田首相。結局今回の来日では、特使ダレスは民主党指導者たちとの会談だけだった。前回のダレス来日の時は、労組代表4人と会談した後、社会党書記長浅沼稲次郎と会談している。繰り返しになるが浅沼書記長は社会党大会の決定事項(全面講和、非武装中立、新政治体制の確立)を説明、ダレスは「自分は理想主義的な立場をとっているが、理想と現実をどう調整するかが大きな問題だ。米国の野党の一員である自分も政府の要請で外交の重要問題を扱うために来日している。これは米国の超党派努力の真面目な表れであり、日本にも同様なことを希望したい」と述べると、浅沼書記長は首を左右に振って、「自由党は超党派外交を呼びかけている。しかし、単独講和をいう自由党側が突然全面講和を求めるわれわれに超党派外交を言ってくるのは、了解に苦しむところである」と。 素直に解釈すると、日本国民の立場に立った考え方ではなく、自らの主義主張に立った考え方というしかない。総評議長が総選挙の結果が世論だと言っているが、総選挙の結果を受け入れたということは聞いたことがない。その場限りの言葉を弄している、といえる。こうした事実が歴史の審判を受けるということだろう。
・対日講和の推進と朝鮮戦争の経過は密接に関わりながら進行しているのはこれまでの経緯で理解できた。両者を並行して追いかけるとさすがに煩雑となるので、今回は朝鮮戦争に絞ってその後の経過を概観しておきたい。


・1951年(昭和26)1月13日、西欧諸国は国連で即時停戦を提議(朝鮮から外国軍隊を撤退し、台湾問題と中国の国連代表権問題の討議機関を設置)、米国にとって屈辱的な敗北を意味したが、米国は賛成票を投じた。ところが軍事的優勢を確信した中共は、休戦は同意するものの、中共の国連加盟を即時認めるという回答を寄こし、米国は到底認められるものではなかった。ところが戦線では、偵察の結果、中共軍の戦力は著しく低下して防戦に移っていることが明らかになった。この軍事情勢の変化は国連にも敏感に反映し、総会は中共を侵略者と規定、国連軍の作戦目的も、侵略者を韓国から撃退するという当初目的に戻った。
・リッジウェイ中将は、西部戦線の敵情捜索で中朝軍の大部隊は見えず、漢江以南の地域の威力偵察(敵情捜索のため戦闘行動も辞せず)を目的とするサンダーボルト作戦を命じた。
・1月27日、戦況の好転を予感したリッジウェイ中将は漢江南岸の中共軍を一掃するため五個師団を並進させ、防御態勢をとっていた中共軍を激戦の末撃退し、2月10日漢江の線をほぼ回復した。
・2月11日夜、中朝軍は中部戦線の中共軍三個軍を集中して攻勢に転じ、正面押しではなく、横城に徹底的に集中し、国連軍の陣地を突破して深く進出しようとしたものであり、総力を挙げたものであった。積雪寒冷の中東部戦線で両軍の激突は続けられた。中朝軍の人海戦術に国連軍は航空戦力と火力で応じ、反撃によって撃退した。中朝軍は国連軍の火力に叩かれ、寒冷下の補給・医療品などの不足から莫大な死傷者を生じていた。攻勢が始まってから一週間ぐらいすると、中朝軍の勢いはにわかに衰え始め、2月18日になると後退の徴候がみられた。国連軍は中朝軍の立直りの余裕を与えず圧迫を続け、キラー作戦(全戦線にわたって北進開始)を発動、しかし天候の激変で豪雨が40時間も降り続いたため戦場は一変し、中朝軍を撃滅する目的は達せられなかった。
・3月7日、先ず中・東部戦線で攻勢を取って中朝軍の主力を撃破し、ソウルを包囲する態勢を作り上げた後、奪還を図るリッパー作戦が開始された。3月11日、軍団の左翼にいた韓国第一師団は斥候を派遣すると、ソウルには中朝軍はほとんどおらず、捕虜の言から8日には撤退を始めたことが分かった。3月15日、渡河を開始してソウルを収復、国連軍は3月末にはアイダホ・ラインを確保した。
・国連軍の創設以来、マッカーサーと米政府との間に考えの相違があった。国連軍の任務はKoreaに侵入した敵をが期待し、平和と安全を回復することにあったが、このコリアをマッカーサーは朝鮮半島全域、米政府は当初は38度線以南、北進の時は全域、この頃は以前のように38度線以南と考えた。戦争を半島地域に限定してその中で政治的解決を図ろうとする米国政府は、軍事的勝利こそが政治的目的を達成し得ると考えるマッカーサーを危険視し、マッカーサーは様々な制限を加え軍事行動を制約していることに根深い不満があった。トルーマンは38度線を回復した以上、国連軍はその使命を果たした、これ以上の北進は泥沼に陥る危険性が大きく得策でない、目下の政策は中共に軍事的冒険を断念させ、交渉のテーブルに着かせることであると考えた。こうして国務省は、休戦を呼びかける大統領声明を起案した。ところがマッカーサーは3月24日、ワシントンとの事前協議もなしに、国連が国連軍に課している制限事項を撤廃すれば、中共を軍事的に崩壊させ得るという声明を発表した。これは大統領が用意した声明とは全く逆の威嚇的なもので、ここに至ってトルーマンはマッカーサーはを解任する決意を固めた。
・マッカーサーは彼の北進計画に基づき、38度線も北側20キロを連ねるカンサス・ラインへの進出を命じるラギッド作戦を発令した。4月9日、各軍団は北上を開始、その直後の11日、マッカーサー元帥は解任された。後任には第八軍司令官のリッジウェイ中将が任命され、第八軍司令官にはバンフリート中将が任じられた。
・ラギッド作戦はそのまま続けられ、第八軍は北進を続け、カンザス・ラインを越え、4月20日にはユ・ラインを占領、次なるワイオミング・ラインをめざした。ところが、22日夜、中朝軍は四時間に亙る攻撃準備射撃を行った後、全戦線にわたって攻勢を開始した。開戦時に北朝鮮軍が企図したソウル攻略戦の大規模な再現で、得意の山地戦に持ち込み、一気に決着をつけようとした。だが企図と決意に反して、攻撃要領は旧態依然としたもので、戦車も少なく、砲兵火力もほとんどなく、空軍も参加しなかった。夜になると歩兵の突撃をくり返し、夜が明けると後方に後退して国連軍の砲撃を回避する。その繰り返しであった。国連軍は1000機の航空機で地上戦に協力し、砲兵は一門あたり250発の砲弾を浴びせ、中朝軍に莫大な損害を与えつつ、後退を繰り返した。新第八軍司令官バンフリート中将は断固ソウルの死守を命じた。バンフリート中将は400門の砲をソウルに集め、海軍、陸軍にも協力を求め、28日から総攻撃してきた中共軍を火力の壁によって撃滅した。これが中朝軍の4月攻勢の最後となり、ソウルは守られた。
・5月15日、中朝軍の五月攻勢が始まった。中朝軍は30個師団の総力を挙げて太白山脈沿いに攻撃を仕掛けたが、バンフリート中将も最前線に進出して指揮を振るい、逐次部隊を投入して中朝軍の進出を阻止し、やがて反撃に転じた。この頃になると中朝軍の攻勢は目に見えて衰えはじめ、5月末には第八軍はカンサス・ラインを回復した。八軍は更に北進に、6月中旬にはワイオミング・ラインをほぼ占領した。
・中朝軍は五月攻勢の参加総兵力30万人のうち、三分の一近くの死傷者・捕虜が発生した。突撃兵力はほぼ全滅したという計算になる。中朝軍の人的損失は莫大なものであり、中共に衝撃を与えたようであった。もはや軍事的勝利によって戦争目的を達成するのは不可能であり、頼みのソ連は米国との全面対決を恐れて交渉のテーブルにつくよう勧めてきた。
・6月23日、ソ連代表マリクが安全保障理事会で停戦提案を行い、中共も人民日報を通じてこれに同意した。ワシントンはマリク提案がソ連の公式見解であることを確認した後、リッジウェイに「ワイオミング・ラインを越えて行う作戦は、統合参謀本部の承認を必要とする」という訓令を発した。リッジウェイは訓令にもとづき、6月30日、金日成と彭徳懐宛に休戦交渉を提案し、中朝側はこれに同意した。

・1951年7月1日、マリク提案を契機に、国連軍は現地点停止命令を受け、10日から開城で休戦会議が開かれた。交渉は一カ月もあれば妥協すると予想したが、予想に反して、会談は難航に難航を重ねてその後二年間も続き、その交渉の行方に応じて作戦も展開された。双方にとって損害も少なくなかった陣地戦と、いつ果てるとも知れない交渉が延々と続くことになる。それは形を変えた戦争だった。
・国連側はこの会談で現在の軍事情勢を基礎として、具体的な休戦交渉の場と考えていたのに対して、中朝側は軍事行動で取れなかったものは、交渉を通じて獲得すると考えていた。このため議題から難航し、26日ようやく①議題の採択、②非武装地帯の設定と軍事境界線の確定、③停戦と休戦の実現のための具体的取決め、④捕虜に関する取決め、⑤関係各国政府に対する勧告、が合意した。
・議題の採択につづいて、軍事境界線に関する討議に入ったが、たちまち暗礁に乗り上げた。国連側は現在の接触線を基にその北側にすべきと主張したのに対して、中朝側は38度線にすべきと主張、双方一歩も譲らなかった。8月22日、中朝側は国連空軍が開城上空を侵犯したとして交渉の中断を声明し、無期休会となった。
・国連軍による夏季、秋季の攻勢に耐えかねたのか、あるいは戦線整理の時間を稼ぐためか、中朝軍は交渉の再開に同意した。10月25日、会談は板門店に移して再開された。そして紆余曲折の末、11月27日、軍事境界線問題が妥結した。
・51年冬から52年春の間、両軍は対陣したまま越冬したが、その間も、偵察や警戒行動は昼夜の別なく行われ、死傷者が出ない日はなかった。
・朝鮮戦争は前線での正規軍同士の戦いの外に、国連軍の後方地域ではゲリラ部隊との戦いも行われた。これには白少将野戦戦闘部隊を編制し、一万九千人以上のゲリラを捕殺、根絶し、後方の安定化をはかった。
・地上での戦線が手詰まりになると、国連軍は航空阻止作戦を展開、鉄道や操作場、橋梁、道路、車両、補給所、部隊の集結地に対して攻撃が行われた。また、戦略爆撃は港湾、軍事工場、軍事施設などの限定して行われた。しかしこれも交渉の行き詰まりを打開する力とはならなかった。
・51年11月、第二議題が妥結した後も、第三議題と第四議題を巡って紛糾が続いた。やがて交渉は捕虜の送還問題に絞られた。つまり中共や北朝鮮に帰りたくないという捕虜五万人の扱いについて、強制送還を主張する中朝側と任意送還を主張する国連側の主張の違いだった。この捕虜の扱いを巡って、その後一年間も戦いが続き、国連軍側だけでも10万人以上の死傷者が発生した。
・53年1月、米国にアイゼンハワー新大統領が就任し交渉打開を図ったが、中朝軍の強制送還の原則は変わらなかった。ところが3月ソ連のスターリン首相の急死で、共産側の軟化に兆しが現れた。朝鮮戦争の休戦の動きは、国連、米、ソ、中の間で高まっていたが、当事者である金日成と李承晩は休戦に反対であった。金日成と彭徳懐、ラズバエフソ連大使の間で会談が行われ、休戦を主張する彭徳懐にしたがうようラズバエフがたしなめケリがついた。李承晩大統領は休戦になると安全保障を如何にするか悩んでおり、捕虜収容所から2万5千人の反共捕虜を釈放、協議の末、米韓安全保障条約の締結、韓国軍20個師団の増設、戦後復興の援助等を約束して、休戦に反対しないことにした。
・1953年7月27日、板門店で休戦協定が締結された。しかし本会議場で国連軍首席代表と北朝鮮人民軍代表は協定にそれぞれ調印したが、お互いに顔も見ず、握手もせずに退席した。尚韓国代表は署名しなかった。李承晩大統領が、休戦には反対しないが、サインはするな、と。この日夜10時、休戦協定が効力を発生し、全戦線で銃砲声が止んだ。こうして戦闘行動は停止したものの、その後の政治会談は決裂し、休戦は南北の分断・対立を固定化し、継続するという異常な事態の始まりでもあった。
・この項、朝鮮戦争の概観は、田中恒夫著「図説 朝鮮戦争」に依った。お礼を申し上げる。


冷戦下の日米関係の模索・構築  「講和条約案と日本の安全保障計画」

2021年10月07日 | 歴史を尋ねる

 昭和26年2月11日、ダレス特使は使節団と共に羽田を出発したが、飛行機に乗り込む直前に記者団に上機嫌で語った。「私はクエスチョンを携えて日本に来た。いまそのアンサーを持って帰る。この答えは大多数の日本人によって与えられたものであり、われわれは心底から満足している」
 外交交渉でその結論を導き出す、その経緯を児島襄氏は丁寧に跡づけているが、日本側からの問題提起に対して、ダレスが晴れやかに帰国するさまは、直ちには納得し難いところだ。ただ、大局的にはダレスのストーリー通りではあった、ということだろう。結論を先にみて、日本側の要望事項はどう織り込まれたのは、退かれたのか見ておきたい。

・特使ダレスは羽田を飛び立つ前に声明を発表した。われわれが今まで連合国各国と協議してきた対日講和条約の諸原則について、日本政府首脳ならびに各界指導者と討議してきた。諸原則とは①簡単な条件で戦争を正式に終了させる。②日本に完全な主権を回復させる。③日本の主権下に置かれる地理的領域を決定する。④日本の国連加盟を予想する。⑤日本固有の単独ならびに集団的自衛権を承認する。⑥恒久的な通商協定の協議が行われるまで日本と各連合国との間に一時的通商関係を樹立する。⑦各国の要求に対する解決の途を講ずるための講和条約をつくる。⑧日本は条約前文に置いて、日本の戦後の立法および発展を活気づけてきた国内的ならびに国際的行為の立派な原則を守る決意を明らかにする。さらに、講和条約が発効した場合に、日本が非武装で自己防衛も不可能な状態のまま軍事的真空の中に放置されることにならないよう、日本の国内および周辺に米軍を維持する提案を受諾しようというのが、圧倒的な日本国民の希望である。この確信にもとづき、われわれは日米両国間の暫定的安全保障協定について討議した。それはヴァンデンバーグ上院決議に基本政策に従って参加国全員が持続的かつ効果的な自衛および相互援助を行うものであり、日本にも適用されることになる。
 日本の前途に横たわる経済問題を討議した。結論は、日本は講和条約で過酷な経済的または財政的負担を強制されたり主要な商取引を無力化されなければ、自らの努力と才知と勤勉によって、その生活水準を満足かつ向上するものに発展させることが出来る。われわれは日本経済がその健康と活力を回復する道を発見するために引続き日本と協力していくことを約束する。さらに日米間の文化的提携の発展について検討し、日米両国民が互いの知識、文学、芸術の結晶を吸収し合い、両国民を精神的に富ます共同体を求めていく。

・続いて吉田首相の声明も発表された。ただしダレス使節団が作成したもので、米国製であった。①米国が日本と公正な平和条約を結んで国連加盟を支持する考えであることを知り、来るべき平和条約に関する諸問題について意見を交換できたことを喜ぶ。②ダレス特使がわが国の国民感情と国民性について特別の配慮されたことに感謝する。③特使はまた、政党幹部、国会議員、言論界、実業界及び労働関係の代表その他多数の人々に努めて面会し、意見を聴取された。かかる態度は昔日の日米親善関係の再建に資するところ少なからざるものありと信ずる。④ダレス特使は講演で、集団安全保障の諸原則と自由諸国の自衛および相互援助の必要について詳細に論じ、国内に多大の好反響を呼んだ。⑤特使は、朝鮮で共産勢力が公然と仮借ない侵略に出ている現実に直面して、日本本土及びその周辺に米軍を駐屯させ、軍備のない日本を護るため、米国との間に安全保障に関する取決めを締結するよう要請された。政府および国民大多数は、これを心から喜んで迎えるものである。⑥われわれは自らを護り自らの国土防衛のためにできる限りにことをする責務があることを、十分認識している。日本の果たすべき役割の内容と範囲は、日本が独立を回復し自由諸国の社会に対等の一員として仲間入りした暁に、わが経済および産業の回復に応じて決定されるであろう。
・これは使節団が吉田首相に成り代わって、語っている。確かに吉田の主張も織り込まれている。しかし利害が錯綜する冷戦下の国際社会、しかも戦後処理について米国の意向も織り込みながら作成する条約とは、このぐらいの準備建てをしないと成就しないという事例なんだろう。ダレスの構想・推進力にさすがの吉田首相も舌を巻いているだろう。

・では日本側の要望はどう扱われたのか、見てみたい。1月31日、ダレス使節団スタッフ会議が開かれ吉田覚書「わが方の見解」が討議された。 領土問題:特使ダレス 日本は領土の範囲を定めた降伏条件を受諾している。琉球および小笠原諸島の領有に関して、日本側から要求する立場にない。 陸軍長官補佐官マグルーダー少将 琉球を強力な要塞にしなければならない。このためには同島住民を管理しなければならず、住民の生活にも配慮が必要、住民の生活は日本との貿易に依存している、講和後は関税障壁を除去すべき。 特使ダレス これら諸島の帰属は米国だけでなく連合国の問題、本問題の討議に終止符を打つ声明を発表し、吉田首相との会談でも、これら諸島の問題は公式の議題にはならぬ旨を通告する。 安全保障問題:特使ダレス 吉田覚書が平等のパートナーという表現を使っているのは、講和後の米軍の駐留費について割り勘方式への道を開くか。 外交局長シーボルト 日米双方がそれぞれ軍隊の費用を負担すると解釈する。吉田書簡が旧軍国主義者の復活を懸念しているのは、警察予備隊の指揮官の人選に困難がある、従って警察予備隊を軍隊に拡大させた場合、旧軍国主義者の活用が必要だという意味だ。 特使ダレス 反動的軍隊の養成の危険があるなら、われわれが全額負担すべき。

・民主党指導者たちとの会談 苫米地最高委員長 わが党は日本が自由陣営の一員になることを切望している事実を、国民に代わって明言しておきたい。わが党の外交政策の基本だ。日本国民は対等講和を約束したダレス声明を信じているし、対日講和七原則を歓迎している。 三木幹事長 ポツダム宣言を受諾した日本にとって、宣言枠内の講和について発言権がないことは承知している。しかし日本にソ連に対する弱点が残されない講和を希望する。沖縄問題だが、日本は米国が必要とする軍事的権利を提供する用意があるのだから、同島の将来の日本への帰属を約束する協定が結ばれれば極めて有効だろう。日本は米国の安全保障計画にも参加するが、日本が米国に便益を提供するその中身が明らかになっていない。 特使ダレス 世界が危機に直面していること、その危機は集団安全保障体制がなければ克服できないことを認識している。平和維持の責任が米国に課せられているのは事実だが、米国の力は自由世界の国々がそれぞれの責任とリスクを負担することの集約として成り立っている。日本国民はいずれ集団安全保障体制に参加するかどうかの決断を迫られる。ただしその決断は、一時的多数勢力による決断ではなく、全日本国民の意思と判断を反映するものでなければならない。ここに、超党派的支持を期待するし、野党勢力が党利党略本位の行動に出ないことを願う。以上の日本国民の理解が得られて、はじめて日米両国は共同して集団安全保障体制の形成が推進できる。国連憲章第五十一条は個別的および集団的自衛権を認めている。この条項を基礎に北大西洋条約その他の集団安全保障条約が締結されている。日本の場合、国連憲章第四十三条の下で一国または数国との取決めによって確保できる。ここでは便益供与の規定があり、米軍主力の駐留と共に便益の提供を受けることになる。 三木幹事長 その便益には日本が武力の一部を負担することが含まれるのか。 特使ダレス 日米間に日本の安全保障の取決めで成立する場合、日本側からも兵力を提供されるのが望ましい。米国が主要兵力を日本に派出する理由の一つは、日本がまだ適切な陸上兵力を持たないからである。日本は八千万人の人口を持つのだから自衛力を保有する能力がある筈で、その責任を負担すべきである。日本側は琉球の復帰に関心を示すが、米国側の見解も考慮して貰いたい。米国民は日本の降伏の時点から琉球に米軍が駐留するのは米国の安全保障にとって不可欠だと判断している。従って自分としては琉球問題は終わった問題とみなすのが、日米双方の利益になると思う。

・2月2日、特使ダレスは丸の内の工業倶楽部で開かれた日米協会主催の昼食会で演説した。ダレスはこれまでになく明確な形で対日講和の性格を決定する諸原則を宣明すると伝えられ、会場には吉田首相、衆議院議長幣原喜重郎はじめ各界有力者約五百名が参集した。 ①戦後の国際的盗賊行為の大部分は、被害国がその国内の用心を怠ったために発生した。その結果として、一発の弾丸も打たれることなく、多くの国家が、その全域または大部分の地域で自由を奪われ、帝国主義的共産主義に隷属された。 ②国家の主権を回復しようとしている日本は、国家安全の原則、この原則の無視が生む結果を注視することによって、有益な教訓を得ることが出来ると確信する。たとえば、武力行使がなくても間接的侵略といわれる危険に用心する責任を持つ、その国土を犯罪者から合理的に予防する義務がある。 ③日本政府および国民は防御手段をとる責任がある。 ④今日最も有力は防御力は米国の掌中にある。わが国は国連憲章に則り、わが国の力と他国の力を併せ、それにより我が国の防衛力で他国も防衛しようとするものである。日本が間接的侵略に対して自衛の意思を持ち、さらに希望するならば、直接的侵略に対する集団的防衛に参加できる。 ⑤米国は日本にいかなる選択も強制するつもりはない。集団防衛への参加も、強制ではなく招待である。米国は日本が安全保障計画の下での日米両国の団結を示すものとして、米軍を日本とその周辺に保持させるつもりならば、それを好意的に考慮するだろう。 ⑥われわれが立案している安全保障計画は、日本を再び軍国主義国家にするためではなく、また日本を破滅させた日本陸海空軍を再建するものでないことは、いずれ諸君も分かるだろう。日本安全保障計画は国連の理想を体現しようとするものであり、それによってはじめて日本の安全と平和が可能になる。 ⑦現在に日本において、物質的生活のレベルを如何にして向上させるかが関心事であることは当然である。日本人の勤勉、才能、器用さが、世界の他の国々との通商を通じて経済レベルを向上させる可能性を保証している。 ⑧日本国民は特色ある資質を持っている。西欧のわれわれはその成果を分かち合いたいと願っている。 ⑨鉄のカーテンといえども、必然的発展を遅延させることは出来ても停止させることは出来ない。自由国民が自由を尊重し、その意味を行動で示す限り、共産主義的専制主義の没落は必至であり、確実である。 ⑩いかなる条約も約束の文言であったり抑圧の文言であっても、自動的に効力を生じるものではない。 ⑪われわれが関係諸国との会談につづいて、現在日本で行っている下交渉の目的は、単なる条約以上に日米両国と世界の平和を恒久化するための条件を見出すことにある。 ⑫日本に関してわれわれは次の四つの機会を許容する講和を探求している。 ァ、講和によって回復される完全な主権を自らの努力で守る機会、 イ、侵略に対する集団安全保障機構に参加する機会、 ウ、国民生活のレベルを向上する機会、 エ、国際社会の指導的地位に達する機会。 われわれは日本が信頼すべき国家であるという気持ちを反映する講和を成立させたいと考えている。四つの機会を許容する講和条約を目指して努力しているのはそのためである。降伏条件の履行によって、日本に対する国際的信用は高まっている。われわれもまた、信頼と機会の講和を成就させようと決意している。

・AP通信は、「ダレス演説は、米国が日本との間に米軍の日本駐留を規定する防衛協定を結ぶ意向であることを、はじめて公式に表明したものである。ダレス特使は米政府を代表する公式の立場で慎重に熟慮を重ねたうえでこの演説を行った」と東京支局長が打電した。さらに支局長は論評を加え、日本が現下の緊迫した世界情勢の中でとりうる道は、米国と行動を共にするか、武力侵略をまねく危険を侵すか、どちらかの一つしかない、というのであった。「ダレス演説は、日本人にとって重大な意味を持つものであり、米国の外交政策にとっても一つの道標となるものである」と。
・ではどのような安全保障協定を結ぼうとしているのか、日本に再軍備させるのか、軍備放棄を定めた憲法を強制した米国に立場は、懸念するアジア諸国にどう説明するのか。記者たちはいっせいにダレスに取材を申し込んだ。
・ダレスは旧知のNANA通信東京支局長フォークの単独インタビューに応じた。  対日講和条約最終草案が完成された場合、ソ連を除く極東委員会構成諸国が調印に参加すると期待している。日ソ関係は技術的には戦争状態がつづくが、大きな問題は何も発生すまい。ソ連が日本に入ってくるとすれば、薄弱な法理論にもとづかず、大規模な世界戦争計画による筈であり、日本に米軍が駐留する事実が、ソ連の公然行動を抑止する。今日の日本は朝鮮動乱の影響もあると思うが、大多数の日本人は米国人の考え方に近づいてきたようにみえる。日本の完全再武装は考えられない。日本は自国の安全については米国の陸海空軍に依存せざるを得ないであろう。もっとも、共産主義分子の侵入を防止するために日本の沿岸警備隊は少数の航空機と若干の軽軍艦で強化される必要がある。ワシントンでは、日本の安全保障のためには日本が再軍備の決意を持つことが最重要事だと判断している。日本は自らすすんで自国を防衛しなければならず、その自衛精神が肝要である。米国民は、自ら救う気がないものの上に防衛の笠を拡げることには絶対に賛成しない。ワシントンは日本の経済状態を十分認識しており、防衛費が負担になり過ぎて国内不安を起させるのは賢明でない。米国は費用の一部を負担するだろう。日本には、琉球その他の島の領土権を要求する権利はない。降伏条件によって日本はこれらの島を喪失したのであり、自ら著名した誓約を守らねばならない。しかし、これらの島々の返還について強く示された日本人の感情に鑑み、米政府としては、ある場合には再考慮してある程度の譲歩をすることがあるかもしれない。講和条約締結後の日本は完全な主権を回復する。「そして日本に米軍が駐留するだろう。なぜなら日本が米軍の駐留を望むからである」  さらにフォークは憲法との関係について意見を求めた。 「憲法問題はかつては外交問題であったかもしれないが、いまでは日本の国内問題である。日本の将来との関連で憲法をどうするかは、完全に日本側の問題だ」

・2月7日、スタッフ会議を終えた特使ダレスは吉田首相を迎え、第三次吉田・ダレス会談が行われた。開口一番吉田は「日本に参謀本部が組織されねばならないとすれば、旧組織とは完全に相違する性格のものでなければならない」 ダレスは目をむき、書記役の北東アジア課長フィーリーは聞き間違いでないかと思い、外交局長シーボルトは身を乗り出した。吉田は委細構わず、日本は旧参謀本部によって損害を受けた。旧参謀本部はドイツ人将校によってドイツ型に組織された。われわれは米国の制度の沿った民主的な新参謀本部を望んでいる。ゆえに貴国の陸海軍の忠言によって組織す津ことを願っている。 陸軍次官補ジョンソンが述べた。ドイツと米国の統制機構の根本的本質的相違は、われわれは文民である大統領に従属している。大統領が国防長官、陸海空軍の長官ならびに次官、次官補を任命する。従って三軍は文民指導者の直接管轄下に置かれる。 吉田首相は再軍備反対論者であり、マッカーサー元帥にも日本に強制しないよう直訴している。その首相が新参謀本部を言い出す意図がつかめなかった
・特使ダレスは吉田首相に告げた。①前日、使節団が提示した安全保障関係案文に対する日本側の修正要求をすべて応諾する。②戦犯問題は講和条約締結前に完全に解決すると理解している。 日本では開戦責任を問われる指導者を裁く該当者をA級、戦時国際法違反者である該当者をB級、一般市民に対する残虐行為戦犯者をC級と呼ばれた。ただし東京・市ヶ谷の法廷で裁かれたA級被告は戦争犯罪、人道犯罪も問われ、七人が死刑判決を受け昭和23年12月23日執行された。A級裁判はこれで実質的に閉幕し、巣鴨拘置所に収容されていた未起訴被告は釈放され、総司令部国際検察局も昭和24年2月15日閉鎖された。BC級戦犯は連合各国の軍法会議で裁判されたが、米軍は昭和24年10月19日その裁判の終了を宣言した。しかし他の連合国ではまだBC級裁判の終結が公告されていない国もあった。特使ダレスの発言は、講和前にこれら戦犯裁判未終結国に対してその終結をうながす意向の表明だった。 吉田はダレスに質問した。もしソ連の戦犯裁判が講和まで継続されるようならば、ソ連の日本人捕虜並びに戦犯者に関する何らかの条項を設けるべきでないか。 特使ダレスは首をふった、この問題はソ連が対日講和に参加しなければ取り上げられない。ソ連は講和参加の意向を表明していない。従って主権を回復した日本が直接または国際機関を通じて交渉する以外にない、と。
・特使ダレスは会談を締めくくる形で述べた。 米国は日本側に提示した講和条約に基礎構想、集団的自衛協定、行政協定の三つを柱に他の連合国との交渉を進める。ただし、この方針どうり貫徹できるか疑問がある。関係国の中には日本に過度の船舶と造船力を持たすことを危惧する国があり、賠償打切りの同意を得るのに困難な国もある。しかし、対日講和は決して日本経済と日本国民の生活を脅かすものにはならない。今後も総司令部シーボルトはを通じて、首相と連絡を密にして、満足すべき講和の成立に万全を期す、と。
・シーボルトの日誌には、「この会談でダレス使節団の仕事は実質的に終了した。われわれは満足したが、日本側のヨシダ、イグチ(外務次官井口貞夫)、ニシムラ(条約局長西村熊雄)の三人も心から満足しているようにみうけられた」
・2月9日、使節団スタッフ会議で、特使ダレスおよび吉田首相の声明文案が討議された。特使ダレスはマッカーサー元帥を往訪し、夕方吉田首相主催の夕食会に出席した。吉田は天皇陛下が離日前に拝謁するのをお喜び似るご意向と伝えた。ダレスは国務省に連絡して回答を得た。「望ましい」
・2月10日、ダレス夫妻、シーボルト夫妻が天皇に拝謁した。天皇は日本再訪の印象、季節のことなど、非政治的な下問を試みた。頃合いを見計らって局長シーボルトが訪日の成果を申上げたいといって、特使ダレスはこれまでの日米交渉の大筋を説明し、米国が締結しようとしている条約の構想と形式、日本が希望する各種協定の内容、とくに日本の安全保障のための日本は自衛力を保有するまで一時的に米軍が日本およびその周辺に駐留する協定案について天皇に報告した。天皇は繰り返しうなづいて、「衷心より同意する。使節団が日本政府との交渉で示した友好的態度に感謝する」
さらに天皇は付け加えた。私は日本軍が他国で誤った行動をしたことを知っており、そのためアジア諸国民が日本人に対する非友好的な感情を抱いていることも知っている。私は日本がこの体験を生かして、このような悪評を克服して、アジアと日本の国民が手をたずさえて平和な生活を送ることを心から念願している。私は、私に日米戦争を防止する力がなかったことを遺憾に思っている。だが、当時の環境では私に出来ることはほとんど何もなかった。 天皇の率直な言葉を特使ダレスは感動し、帰国したら天皇の親米心を大統領トルーマンに伝えてよいかとたずね、天皇は、そう願う、と述べた。


冷戦下の日米関係の模索・構築 「ダレス・吉田会談 再軍備問題」

2021年09月30日 | 歴史を尋ねる

・12月16日、トルーマン大統領の国家非常事態宣言に恐れをなすことなく、中共はさっそく反発した。国連に出席中の中共代表伍修権は緊急記者会見を行い、声明文を読み上げた。①朝鮮問題の唯一の平和的解決手段は、朝鮮から外国軍隊を撤退させること、②中共政府は中共義勇軍が朝鮮人民軍の味方をして侵略軍に抵抗することを終結させる用意がある、③当面の諸問題を平和的に解決するためには、中共の国際社会参加を承認する以外に道はない、④朝鮮における停戦案は単なる落とし穴にすぎない。⑤中共政府は、戦争の地域が局地化され平和的に解決されることを絶えず希望してきた。⑥国連安全保障理事会が米英の圧力によって、朝鮮および台湾からの米軍の撤退を要求した中共政府の提案を拒否したのは遺憾である。
・中共代表団は握手しに来たと思ったら、差し出した手を払いのけた。外交筋は対日講和の締結は望ましいが。目下のところはソ連および中共の軍、政両面の出方に対処するのが先決だ。しかしダレス顧問は任務を放棄しておらず、マッカーサー元帥と本問題を協議するために近く訪日する予定であった。
・総司令部情報部長ウィロビー少将は朝鮮の現状について統合参謀本部に報告した。 中共軍は撤退する第八軍の追尾に失敗した。これは敵の機動力の不足と作戦のバランスの欠如をしめす。中共軍主力の位置は謎だが、北朝鮮軍の背後で再編中だと思われる。
・ウィロビー少将の推測は当たらなかった。中共・北朝鮮軍は北緯38度線を突破して新たな攻勢を開始した。戦法は北朝鮮軍第十師団で、厳重な隠密行動を指示された。行動は雪山の夜行に限られ、敵側に通報されるのを防ぐため村落での物資調達は禁止され、食糧は各自が背負った分だけに頼り、足跡を残さぬために一般道路の通行は避け、敵機に発見されぬよう一切の火気は厳禁された。寒さ、飢え、病気に対する救護手段もなく、生き残れるものだけが進む環境を強制された。こうして米軍の偵察の眼をかわした。第八軍情報部の戦況報告は、戦線に異状がないと繰り返していた。
・12月23日、第八軍司令官ウォーカー中将が自動車事故で急死した。折から敵の新攻勢がようやく探知された。それだけに最高司令官の死は米韓軍将校にショックを与えた。後任には陸軍参謀次長リッジウェイ中将。
・12月24日、マッカーサー元帥は国連軍将兵に対するクリスマス・メッセージを発表した。この日駐日韓国公使金龍周が官房長官岡崎勝男を往訪し、米軍が日本に引き揚げて反撃を準備する可能性がある、その際韓国人を最低百万人日本に移動させたい、北九州に収容する用地を貸与していただきたい、と。朝鮮戦争は在日朝鮮人社会にも深刻な影響を及ぼしていた。南北二派に分裂して紛争と抗争を繰り返していた。先に肥柄杓を振りかざしたり棍棒を握りしめるのは北朝鮮系だが、韓国側から百万人が移住してくると、事態は逆の展開になるかもしれない。日本の警察力では国内の治安も維持できない。長官が首を横に振ると、ことは首相レベルの問題だ、日本が韓国に贖罪する好機だ、と。結局は幻に終わった。
・芦田元総理は総司令部民政局から時局に対する意見を求められた。その意見書が12月28日朝日新聞一面に発表された。その内容は、朝鮮事件を通じて共産主義国の侵略的意図は明瞭で、日本もその脅威にさらされている。政府は日本が危機に立つこと、自らの手で国を守る心構えが必要、自民党も社会党も国連への協力を標榜しているが、積極的な努力は何一つしていない。はたして米英の信頼を繋ぎ得るだろうか。日本の世論は眠っている。日本は防衛を国連に依存するというが、かつて自衛せぬ民族を他民族が血の犠牲で守り抜く例はなく、他民族に国防を依頼するのはその民族の屈辱である、と。自衛再軍備論であった。
・すかさず社会党が反発し、書記長浅沼稲次郎が声明した。芦田氏は憲法制定の際、この憲法こそ世界人類の在り方を示すものだと訴えた。その芦田氏が平和憲法に違反する意見書を発表するとは遺憾であり、国民に動揺を与える。
・吉田首相もこの日の記者会見で、国際情勢の見通しとして、戦争より神経戦になるということを考えねばならず、冷静に事態を判断しないと事を誤る。とくに新聞が冷静になることを希望する。芦田君がいろいろ言うのは自由である。しかし私の見方は違う。再軍備については、容易に口にすべからざるもの、憲法の規定に反する問題を取り上げるのはよくない。過去において日本は過大な軍備を持ったがため、その結果、大東亜戦争という無謀な戦争に入ったのであるから、国民も軽々しく再軍備をいうべきではない。もし軽々しく取り上げれば隣国に過去を思い出させることになり、結局、講和に影響する、と。
・12月28日、米政府はソ連国連代表マリクに米国の対日講和方針を伝えた。日本は戦後すでに五年以上にわたって忠実に降伏条件を履行しており、講和条件を結ぶ資格を持っている。対日戦に参加したすべての国が対日講和条約の締結に参加することを希望する。ある一国が命令する条件でなければ対日講和は成立しないというソ連の主張は承認できない。国連憲章による信託統治領を領土拡張とみなすことは不当であり、琉球、小笠原諸島は自動的に対日講和条約から除外すべきだというソ連の主張は了解できない。講和条約締結と同時に日本の軍事占領は終結するというのが米政府の見解である。しかし平和が世界に確立されず、軍国主義が世界から駆逐されていない事実は、日本が国連憲章に基づいて自衛のための個別的または集団的取り決めに参加することの根拠になる。

・昭和26年元旦、マッカーサー元帥の年頭の辞:日本は政治的、経済的、社会的に国家の安定という目標に向かってめざましい進歩を続けてきた。国際関係の緊張が高まっているにもかかわらず、日本は平穏と進歩のオアシスになっている。憲法の戦争放棄の理念は、最高の一つの理念であり、文明が維持される限りすべての人々がいずれは信奉しなければならないものである。しかし世界では国際的無法状態が引き続き平和を脅かし、人々の生活を支配しようとするならば、自己保存の法則に道を譲らねばならなくなることは当然である。国連の枠内でパワーを撃退するパワーを用いることが諸君の義務となるであろう。今年は二つが達成されることを信じている。一つは講和条約を通じて完全な政治的自由の恩恵を受けること、もう一つは政治的道義、経済的自由を兼備し、社会正義の理念に根を下ろした日本国民が、今後のアジアの運命に大きな影響をあたえること。  児島襄氏は元帥の言葉から、今年は講和の年、国連協力のための再軍備の年になることを覚悟せよ、と解釈する。戦争放棄の憲法を作ったマッカーサーが再軍備を言い出しているのだから、矛盾を抱えた憲法だということをマッカーサー自身も認めていることになる。「やむを得ざる自己保存の法則」と言っている。
・吉田首相の新年のことば:講和が近づいているとき、われわれは静かに再興日本の将来に想いを致すべきである。朝鮮動乱で日本は今にも戦禍に巻き込まれると周章するには軽率である。民主、共産の両主義は相いれることはできず、対立の結果は冷酷な神経戦が展開され、なお長期にわたる。世間に流布されている妄説は神経戦に毒されている証拠である。国民は動揺せず、愛国独立の精神をもって毅然として国際関係に対処すべきである、と。
・最高裁判所長官田中耕太郎の言葉:平和は真理と正義を内容とする場合にのみ真に望ましいものとなる。独裁的権力者の暴力で実現したものは死の平和である。われわれが対立する二つの世界のいづれに所属すべきかは明白である。懐疑主義、日和見主義、近視眼的打算は新憲法の精神を裏切るものであり、策としても愚の極みである。自由は力を意味しなければならぬ、去勢された自由主義こそ悪と不正の温床である、と。
・苫米地民主党委員長の言葉:できるだけ早く自主独立を回復し、これに自主的自衛権の裏打ちをすることが必要である。この考えに国民を結集したい。
・自由党幹事長佐藤栄作:日本の安全保障を確保するには自主、自立、自衛の確立が不可欠だが、直ちに再軍備を意味するものではない。国際的条約、国連軍による保護、民主主義国家との提携その他いろいろな方法がある。
・社会党書記長浅沼稲次郎:憲法で平和非武装を宣言し、戦争放棄を規定した。マッカーサー元帥はこの理念を守り切れぬ万一の場合もあるというが、われわれはその万一に事態が到来しないことを念願するのみである。  ふーむ、祈る思いか?
・同じ元旦の朝日新聞に、ダレスのインタビュー記事が掲載された。対日講和問題はゆっくり進めようと思う。朝鮮の戦況が中共軍の介入によって事態が一転し、極東が変化した。日本と講和条約を結ぶには、日本の政府、政財界、国民の考えと希望、率直な意見を知らねばならない。訪日して確かめたい。日本では米国の対日講和七原則に対するソ連の反対意見のほうが歓迎されているとのことだが、それは発表文の字面だけを見て背後に潜む本質を見落としているからだろう。例えば、ソ連が言うように日本が無防備のままにこの極東情勢の中に放り出されたら、どうなると思うか。他国の侵略に任せたいというなら、日本はそうすればよい。日本ではスイスのように中立国になりたいという意見もあると聞くが、スイスが軍備を持ち侵略に対して全国民が戦う態勢にあることが、その議論には織り込まれているのだろうか。ここが見落とされているのであれば、不適切かつゴマカシの議論と言わざるを得ない。米国は西ドイツと日本を再軍備させて自分のために使おうとしているという見方があるようだが、米国にはそんな考えは絶対にない。
・フーム、当時の日本の文化人あるいは有識者の中で、ソ連の言う全面講和論が幅を利かせていたという。朝日新聞の主張もそうだった。しかしこのインタビュー記事を載せたということは、当時はまだ朝日の度量があったのだろう。ダレスの当時の日本情報は主に新聞情報だろう、当時から偏っていた(背後に潜む本質を見落としていた)、だから自ら訪日して確かめたいと言っているのだろう。講和は朝鮮の戦況の行方と日本の自衛の決意と態勢を見極めてからのことになる、と。

・昭和26年1月2日、朝鮮の戦況は悪化した。第八軍司令官リッジウェイ中将は各師団を歴訪し意見を求めたが、抵抗力は失われたが、一致した回答だった。退却の時である、もう一度ソウルを敵に渡す決心をした。中将はソウル撤退作戦を発令した。最重要事は漢江にかかる日本の橋の確保であった。橋の確保と通行の整理のために必要な命令を発出した。李承晩大統領も今回は素直に従った。
・米統合参謀本部はダレスの訪日に関心を寄せ、ダレス使節団の訪日はソ連の無防備の北海道に対する反動的行動を誘発する恐れがあるとして、マッカーサー元帥に意見を求めた。マッカーサーは北海道がソ連からの作戦に極めて脆弱な状態にあることは言うまでもない、しかしソ連の北海道に対する意図は、日本より世界的情報の検討が可能なワシントンのほうが、判断は容易である。われわれが入手した限りでは、ソ連が北海道攻撃のための特別の準備をしているという現地情報はない。北海道攻撃は世界戦争を必至にする。日本におけるダレス使節団の存在が、ソ連のそのような重大決意を誘発するほどの影響力を持つとは考えられない。朝鮮の現状は重大である。兵力の一部を引き抜いても国連軍の指揮系統を危険に陥れる。在朝鮮兵力の転用は論外である。
・戦況は依然国連軍にとって不利な状況が続き、リッジウェイ中将は不審と不安の想いにおそわれた。不信とは中共軍の動静であった。中将は1月4日ソウルを撤退していらい、中共軍の追尾を予想したが第一線からは異常なし、敵影みえずの報告だった。判断材料がなく、推理のどれも確定することができない。不安は韓国軍の士気であった。韓国軍が敗北主義にむしばまれているとすれば、どのような戦略、作戦を用意しても、われわれには中朝軍の攻勢を阻止することが不可能だ。マッカーサー元帥に電報して、韓国軍将兵の憂鬱を吹き飛ばす声明を発表していただきたい、と。
・マッカーサー元帥はリッジウェイ中将の電文を添えて、統合参謀本部に転送した。現在の国連軍の劣勢を優勢に変える政策に裏打ちされた声明でなければ、韓国軍将兵の萎えた士気を回生させられない。元帥は現在の持久戦略から自説の勝利戦略への転換、すなわち満州を含む中国領攻撃、国府軍投入、中国沿岸封鎖、国府軍の中国本土反抗の四戦略の採用を要求していた。
・1月9日、統合参謀本部はマッカーサー元帥に打電した。内容は、元帥の四戦策のうち国府軍使用を拒否し、沿岸封鎖は英国の反対を理由に拒否し、中国領攻撃も朝鮮半島以外で中共軍に攻撃されぬ限りは禁止し、日本防衛を第一義的に考慮して、敵に可能な限りの打撃を与えつつ、朝鮮防衛を継続すべき。持久せよとの指示であった。
・1月10日、マッカーサー元帥は統合参謀本部に返電した。現在のように指揮権に制限が加えられ、明確な政策が存在しない状態では、朝鮮におけるわれわれの地位はいずれ維持不能になる。明確な政策がないのであれば、戦術的に可能な時期に速やかに撤退すべきと進言する、と。
・同じ日、シカゴ・ディリー・ニュースがマッカーサー元帥の即時撤退論を進言したという東京電を報道した。国防総省は元帥の進言を否定し。米国は朝鮮を放棄しないと言明した。①国連軍は侵略者を撃退するために朝鮮に派遣された。②われわれがそうした気配を示したら、国連の決意の信頼感が失われる。③国連軍が朝鮮で戦闘を続けているために、中共軍がここに縛られている。④国連軍が朝鮮にとどまることは、日本のための前進防衛線を構成している。⑤中共軍が朝鮮で多大の損害を受ければ、中共軍もひきさがる可能性がある。以上は政府の確固たる政策であり、この方針は今後も揺るぎない、と。
・1月13日、トルーマン大統領はマッカーサー元帥に私信電報を発進した。朝鮮における侵略に対する抵抗継続の国家ならびに国際的目的について、私の考えを貴職に知らせたい。①朝鮮における抵抗が成功すれば、侵略を許さないことを実証できる、中共の政治的軍事的威信を低下させる、韓国民に対する約束が果たせる、講和後の日本の安全に貢献する、共産主義を恐れ屈伏しなくてもよい、ソ連または中共の攻撃をかわせる、国連の力を結集して自由世界連合の威力を発揮できるなどの重要目的が達成できる。②朝鮮で正当視され有効視される行動も、日本及び西欧を全面戦争に巻き込むものは望ましくない。③朝鮮の戦いについて、制限された兵力で中共の大軍に対する軍事的抵抗の継続が不可能かもしれないことは承知している。最悪の場合、もしわれわれが朝鮮から撤退するとすれば、その方針は純軍事的理由によるものであり、侵略が矯正されるまでは政治的にも軍事的にもその結果を是認しない旨、世界に宣明できる。④朝鮮に関する最後の決断を下すにあたって大統領が考慮せねばならないのは、ソ連の脅威とわが軍の増強である。⑤大統領は、自由諸国は団結しており、これからもわれわれと共に進むものと確信している。
・マッカーサー元帥は大統領電を読了すると、側近者を呼び、「諸君、これで問題は解決した。撤退はない。前進だ」

・1月17日、朝鮮大邱から羽田に帰着した陸軍参謀総長コリンズ大将は、統合参謀本部議長ブラドレー大将に電報した。①第八軍は良好な状態にあり、リッジウェイ中将の統率によって日毎に改善されつつある。士気は高い。②国連軍の脆弱部分は韓国軍である。同部隊は北朝鮮軍に対処する能力は持っているが、中国軍を本能的に恐れている。戦況が深刻化すれば急速に崩壊する可能性がある。③中共軍については、補給不足と士気低下が認められる。
・前年12月に設置された国連の三人委員会が休戦提案を委員会に提出、1月13日に議決されたが、中共首相兼外相周恩来が声明を発表、国連政治委員会提案を一蹴した。そして逆提案した。①いっさいの外国軍隊の撤退と朝鮮内政は朝鮮人民に委ねることを基礎にして協議を行い、戦争の終結をはかる。②右協議には、米軍の台湾および台湾海峡からの撤退その他極東に関係ある諸問題が討議の対象になる。③協議参加国はソ連、米、英、仏、インド、エジプト七か国とし、この会議で中共の国連における合法的地位が確立されるものとする。④会議は中共国内で開催する。
・米政府は中共の姿勢を尊大と見做して反発し、国務長官アチソンが声明した。①中共の回答は平和の要望を軽視している。②国連案を真っ向から拒否している。③北京政府は平和的解決に興味を持っていない。④中共が米国に挑戦する意図を放棄しない事実を認めねばならない。
・マッカーサー元帥は自身の出番の到来を感じた。それには中共に対する国際的恐怖心を打破し、朝鮮で戦果を挙げて中共の軍事力に対する信仰を捨てさせればよい、リッジウェイ中将に第八軍は敵の主抵抗線に接触するまで前進せよ、と北進作戦「サンダーボルト」を下命した。

・1月25日、ダレス使節団先発者の国務省北東アジア課長フィーリーは元終戦連絡中央事務局次長白州次郎の来訪を受けた。白州次長からは対日講和に関する日本側の意見をアチソン長官に伝達するよう要請があった。①吉田首相は日本再軍備について、連合国の占領政策に沿う政策以外日本の首相として不適当、豪、ニュージーランド、フィリピンの反対が顕著、日本政府はまだ米国の日本の将来の安全保障に関する計画と意向を直接知らされていないので、消極的立場を保持せざるを得ない。②再軍備によって、かっての軍の影響力が復活することを心配している。③再軍備のための憲法条項修正は困難である。④米国は自由世界の需要に応えるために日本の産業能力を活用することが出来る。⑤主要政党の支持を集める仕事は吉田首相に一任し、ダレス大使が野党指導者と直接交渉を行うべきでない。⑥日本政府の経済専門家は一般に無能である。大使は民間財界人指導者から日本経済に関する正確な知識を入手すべきであり、白州が斡旋する。⑦琉球、小笠原を日本から切り離すのは重大な誤りであり、講和条約の効果を大幅に減少させる。日本は同地域について、必要な期間はいつまでも米国に軍事的権利を提供する用意がある。
・その日の午後八時、ダレス使節団が羽田空港に到着した。声明を発表し、①日本は相談すべき相手で、戦勝国に支配されるべき被征服国ではない。②目的は、日本に主権を回復させ、新しい時代を開かせる道を見出すこと。③そのためには、日本全国民が自己の運命のために責任をとることが必要。④険悪な情勢下で重大問題について決断が必要。⑤これらの問題すべてが、われわれと日本の指導者たちとの間の課題である。
・1月29日午後4時、吉田首相は総司令部を訪れ特使ダレスと第一回会談を行った。ダレス「三年前に講和が成立していたら、今日に比べ日本にとってよほど悪条件のものになっていただろう。われわれは勝者の敗者に対するものではなく、友邦としての講和条約を考えている」 吉田「われわれの念願は講和条約によって独立を回復し民主日本を確立し、自立できる国になることである。かような国になってはじめて日本は自由世界の強化に協力できるし、日本にとって最も肝要な日米友好関係の樹立も可能となる」「日本人の処遇についてその自尊心に配慮する必要がある。その点に関し、占領関係の指令のいくつかを講和条約締結前に変更または廃止しておくべきだ。たとえば日本人の家族制度のように日本人に重大な意義があるものについて無視されている。そのような指令が廃止ないし撤回されるならば、感謝するとともに国民の間に講和条約締結のための好ましい雰囲気が作り出せる。」 続いて経済問題に言及し、講和後の日本にとって漁業海域の拡大、造船業の拡大、米国の日本産業への投資の増大が必要であり、さらに日本国民の生存のためには中国との長期的貿易が不可欠、長期的には中共が戦争は戦争、商売は商売という考え方をとり、妥当な規模の日中交易が可能になると信じる。 ダレス:日本の将来の経済問題の解決は、連合諸国の中に日本の経済活動を制限する意見があるだけに解決は容易でない。首相は講和条約について米国が思いのままに処理でき、条約が比較的容易に締結できるものと考えているようにうかがえるが、対日講和は極めて困難な問題であり、日本人にそれを受け入れさせればよいというものではない。日本側の受諾についても、日本のいろいろな立場の人々の意見をまとめるという困難な問題を解決しなくてはならない。講和に関して野党はどのような立場をとっているのか、首相自身「七原則」に表示される米国の対日講和一般方針を受け入れるのか。 吉田:講和条約がどのようなものであっても国会の承認を得るための現実的困難はない。自由党と民主党との間には秘密の合意が出来ている。 ダレス:首相は国家の危機についてどう考えているか。現在、世界の自由諸国は国連を通じて集団安全保障体制を作ろうと努力しており、その組織から利益を得ることを望むすべての国は、それぞれの手段と能力に応じた貢献を要求される。現時点で日本に大規模は貢献を求めないが、少なくとも象徴的な貢献と集団安全保障の一般原則への参加くらいは日本にも求められる。 吉田「日本も応分の貢献をすることになるだろう」 ダレス「首相は日本の安全保障問題をどのように処理したいと考えているのか」 吉田:質問は再軍備問題のことと思う。日本の再軍備は二つの障害があるので、極めてゆっくり取り組むべきだ。第一の障害は、地下に潜伏している軍国主義者を復活させ、日本を再び軍部に支配させる恐れがある。第二の障害は、講和によって財政的自立を目指す段階で再軍備を行えば、深刻な経済的負担を余儀なくされ、国民の生活水準の低下さえ招来する。経済的基盤が確立されなければ不可能であり、そのために時間がかかる。
 首相は井口貞夫が外務次官に就任し、使節団との交渉にあたると告げ、会談を終了した。
・そのあと特使と首相は総司令部マッカーサー元帥を訪問し、首相は元帥に訴えた、特使は私を苦しめる、と。元帥は特使をなだめ、「日本は軍事力で貢献できない、しかし軍事生産力も労働力もあるから資材を提供して自由世界の力を増強させるべきだ」と。特使は失望して、会談は風に漂うタンポポの綿毛を追い回すように、掴まえ所のないものだった、と。
・1月30日、会談で約束した講和問題に対する日本側の立場を外務省の講和関係主務者たちが吉田首相の下に集まって英文の覚書を作成、特使ダレスと総司令部マッカーサーに届けられた。 領土問題:琉球、小笠原諸島が信託統治下におかれることになったが、信託の必要性がなくなった場合、速やかな日本への返還を。 安全保障問題:敗戦国日本には独力で国家を自衛することが出来ない、国連の協力ならびに米軍の駐留といった方法による米国の協力が望ましい。米国との協力について、講和条約とは別に、日米が平等なパートナーとして相互に安全保障の協力を目指す協定を結ぶことが適切であり、われわれはそれを希望する。 再軍備問題:現時点においては、日本にとって再軍備は不可能、再軍備支持者がいる、近代軍備に必要な基本的資源を欠いている、再軍備の負担はたちまち日本経済を破壊する、逆に日本の安全を内部から危機に陥らせる、今日日本の安全保障は軍備より国民生活の安定に依存している、隣接国家が日本の侵略の再発を恐れている、国際的平和は直接に各国の平和と秩序に結びついている、その意味でわれわれは国内の平和を保持せねばならず、われわれ自身でその全責任を負うことを決意している、そのために警察と海上保安隊の人員と装備の増強を必要とする。われわれは自由世界の共同防衛問題の討議に参加することを希望する、本件について積極的役割を果たしたいから。 人権問題:無条件に世界人権宣言を支持する。同宣言の原則は新憲法に取り入れられている。 文化交流問題:日米両国の友好の基本課題である両国の文化交流を積極的に推進、協力する。  国際的福祉問題:日本が戦前に参加した各種協定を誠実に尊重し、また戦時中あるいは戦後に成立した世界保健機構その他に参加する用意がある。
・外交局長シーボルトは言う。「吉田覚書は日本の最小限の希望を述べた妥当なものだ。しかし、それは日本側の正論にとどまる。われわれに対する完璧な説得力を持つとは感じられなかった」


冷戦下の日米関係の模索・構築 「講和条約案に対する各国の反応と朝鮮戦争での米国の苦悩」

2021年09月21日 | 歴史を尋ねる

・11月15日、対日講和問題主務者の国務長官顧問ダレスは、極東委員会諸国の反応を伝えて、マッカーサー元帥の意見を求めた。ダレスは国連総会を利用して各国と対日講和に関する非公式会談を行った。①豪、ニュージーランド、フィリピン、ビルマは、日本の軍備を制限する条項がないことに不満と反対を表明した。しかし豪、ニュージーランド両国は、米国の保証が得られれば満足する。 ②フィリピン、中華民国、ビルマ、豪は対日賠償を要求した。しかし、要求が現実的に不可能であることを理解している。 ③英国はとくに意見を述べなかった。しかし関心は講和後の日本の商業競争にあることは明らかである。 ④ソ連国連安保理代表マリクは、ソ連の南樺太および千島の領有権ならびに中国(中共)の台湾領有に疑いを持たせるような講和条約条項には断固反対する。また、米国の琉球列島に対する信託権設置に反対する。 ⑤ソ連が対日講和について米国と話合いを続けるかどうか不明だが、情報収集のため連絡を保ち、招待されれば対日講和会議にも参加するかもしれない。しかし、われわれが望む対日講和条約に同意することにはならないだろう。 ⑥講和の手続きに関するわれわれの構想はまだ決定されていない。全体会議は主要議題の分裂、中共と国府の参加問題の対立、ソ連の各国離間工作などが見込まれ不適当、関係国との二国間交渉の積み上げ方式が良い。 ⑦本職(ダレス)は至急東京でマッカーサー元帥と協議することが緊要だと考えている。新たな朝鮮と中共の情勢について、日本の政治指導者たちが超党派でこの講和条約案を受け入れ、日本の安全保障に関する日米協定を歓迎する意向が確認できれば、ソ連、中共を除く他の関係諸国を同調させることが出来る。 
・マッカーサー元帥が北朝鮮軍を一掃した後も朝鮮半島の平和確立のための重荷を負うことを理解している、本国政府の支援を期待してよい、と述べたあと、われわれは対日講和または他の問題について貴職が寄せられる如何なる意見も歓迎する、と。
 児島襄氏はダレスの電文を解説する、要は、米政府はソ連、中共抜きの早期対日講和を実現させる、元帥としては日本側の受入れ態勢の促進と第三次世界大戦をまねかない方法で朝鮮戦争の早期終結をはかって貰いたい、と。
・11月16日、記者団は大統領に記者会見を要求、朝鮮戦争の見通しと第三次世界大戦に発展する可能性について質問した。大統領は声明した。私は米国が国連の朝鮮政策を支持し、かつ国連の政策の範囲内で行動していること、そして戦闘行為を中国に押し進める意図など抱いたこともない。米国は世界平和に貢献しているからであり、中国国民と長い友好関係を保っている。米国は戦闘行為の拡大を阻止するためにあらゆる措置を取るであろう。さらに対日講和にも触れて、ダレス顧問は対日講和に関する関係諸国との会談を完了した、本問題についてここ二、三週間内にさらに交渉が行われると思う、と。

・朝鮮では11月24日、米韓軍の総攻撃が計画された。第十軍団長アーモンド少将は総攻撃前の威力偵察を命令し、微弱な北朝鮮軍の抵抗を排除しながら、先発隊は鴨緑江がみえるところまで進出した。総司令部の情報部長ウィロビー少将もこの日北朝鮮軍八万三千人、中共軍四万ないし7万人と見積もる報告をワシントンに報告した。アーモンド少将は東部戦線で捕らえた中共兵2人が自分たちは第七九師に属し10日前に鴨緑江を渡ったと告白した。第七九師は中共軍第三野戦軍で、これまでに判明している第四野戦軍の外に第三野戦軍も投入されたことになる。しかし少将は捕虜の供述を虚言と判定した。各部隊が派出した斥候の報告も、航空偵察も、いずれも前方に見えるのは敵ではなく氷雪だと報告しており、威力偵察隊も無抵抗のまま鴨緑江岸に到着していた。少将にとっても司令官ウォーカー中将にとっても、マッカーサー元帥、統合参謀本部にとっても、米韓軍の全面の雪山に約60万人の中共軍が潜伏して待ち受けているとは夢想外だった。
・11月24日、総攻撃が開始された。事前の砲爆撃もなく、各部隊は中隊または大隊単位で第一線からこぼれ出るように前進した。マッカーサー元帥は総攻撃に立ち会うため第八軍司令部に飛来していた。そして用意した声明を発表させた。元帥はそのあと第一線司令部を訪問した後、専用機で鴨緑江南岸沿いに飛行した。このような荒涼たる冷酷な雪原に中共軍といえども大部隊を活躍させ得るものか、40分間の偵察に満足して東京に帰還した。
・この時期、韓国軍参謀本部戦略情報部員金材英中尉は、前線から送られてきた中共軍捕虜を訊問、中共軍は三年以内の短期戦をもくろみ、そのための戦術も確立しているという。さらに訊問すると、孫子が越国の名将范蠡を撃破した携李大捷戦で採用した戦法だ。それなら知っている、陽動と迂回を活用して主力を正面に投入する、人海戦術だ。中共軍の戦術にこの呼称を与えたのはこの捕虜が最初だった。
・11月27日、第八軍司令官ウォーカー中将はマッカーサー元帥に電報した。中共軍の大兵力がわれわれを攻撃中である、と。第八軍は前夜のうちに右翼の韓国軍第二軍団が崩壊し、全線にわたって中共軍に浸食され総攻撃計画はズタズタに断切された。もはや総攻撃態勢にはなく、逆に中共軍の総攻撃をうけて足が止まっている。ただ、中共軍の補給路を最強の米軍部隊・第一海兵師団が進撃中、中将はこれに期待した。しかしこれも米軍側の情報が中共軍側に筒抜けになって、待ち伏せされた。
・11月28日、ウォーカー中将はマッカーサー元帥に打電した。敵の攻撃兵力は約二十万人、その全員が中国人である。中共軍が全面攻撃を開始したことは、もはや疑いがない、と。
・第十軍団長アーモンド少将は海兵師団長に前進中止と防御態勢への転移を下命、ウォーカー司令官も前進の中止と後退線までの後退を各軍団に命令、中将と少将は専用機で東京に向かった。元帥は特別声明を発表、国連軍総攻撃作戦に当たり敵が展開した反撃から見て、中国大陸の中共軍二十万人以上の兵力が北朝鮮地区の国連軍の正面に布陣していることが明白になった、全く新しい戦争に直面している、と。
・二人の指揮官(ウォーカーとアーモンド)は全軍を朝鮮半島の腰、平壌と元山を結ぶ線に後退することを献策した。元帥は黙思したが、極秘を条件に承認した。国連軍総退却の決定である。

・トルーマン大統領は怒った。その対象はマッカーサー元帥であり、その新戦争到来声明だった。「ウェーキ島会談で彼は私に真剣に中共軍の大量介入の危険はないと言った。実際に中共軍が侵入して来ても容易に撃破できるといった。もし中共軍が平壌奪回を試みるならば大量殺戮をまねくことになるだろうと言った」 元帥はその後中共軍の侵入を報告しているが、容易に撃破したとの報告はない、と。
・当ブログ筆者はここで1949年8月5日に発表した米国務省の「中国白書」を思い出した。白書では「米国の武器が不足して国民党軍が破れたことは一度もない。彼らが敗北したのは、大衆の支持と軍隊の熱意が失われたためである。中共軍は狂信的熱狂さで戦ったが、国民党軍が分裂しなければ対処できたはずだ。結果は蒋介石総統以下の首脳部の責任で、中華民国政府は敗けたのではなく自壊したのである」と判決していた。この段階で中共軍の戦い方について、米国はほとんど情報を持ち合わせていなかった、それが朝鮮戦争の退却につながったとしか思えない。中国白書はそういう意味ではトルーマン政権の弁明の書だったのかもしれない。
・戦場で何が起こるか分からない、判断ミス、敵の奇襲によって損害を受けることは珍しくない。アイゼンハワーも予期せぬドイツ側の反撃を受けて大損害を記録している。問題は作戦の失敗に対する指揮官の態度である。マッカーサー元帥は自分のミスとその立場を粉食し責任を回避しようとする。大統領は後の回顧録で、直ちにマッカーサーを解任すべきであった、と述べている。
・大統領はホワイトハウスに国家安全保障会議を招集した。出席者は二十人、会議は統合参謀本部議長ブラドレー大将の報告から始まった。陸海空軍三長官の意見の後国防長官マーシャル大将は、今後二週間、われわれは国連に中共説得を働きかけ、朝鮮におけるわれわれの地位の確保に努めるべき、対中共戦回避がワシントンの方針であるが、現地でのマッカーサー元帥の作戦に干渉するのは好ましくない、と。大統領のマッカーサー元帥批判の後、ブラドレー大将は、マッカーサーは中共軍が右翼の山岳地帯に集結しているとは知らず、終結できるとも想像しなかった。マーシャル元帥もマッカーサー元帥の作戦を信じていた、しかし中共軍は姿をくらます技術に長けていた、と。本件の処理を副大統領バークレーに任せると、副大統領は朝鮮問題の政治的解決策を訪ねた。国務長官アチソンは、われわれはマッカーサーがどこに防御線を設定するかを確かめて速やかに国連に報告すべきであり、その防御線をそれ以北には推進せず、できるだけ早く韓国軍に移譲するのが良い、と。マーシャル長官は発言した。マッカーサー攻勢は失敗したが無意味ではない。中共の意図を探るためには必要であり、おかげでそれを知ることが出来た。副大統領が質問した、問題はその中共の意図だ。彼らが平和的解決を望んでいる兆候はあるのか、との問いに、アチソン国務長官は応えた。「その種の気配は全くない。ゆえに現段階でわれわれが一方的に朝鮮から引き揚げるのは危険である」と。

・朝鮮、平壌では、北朝鮮人市民の米韓軍に対する不満と反感が日増しに高まっていた。その主因の一つは、市の行政体制に由来した。平壌が解放されると、韓国政府は金聖柱を知事にして執務を開始した。だが国連朝鮮委員会は第八軍のモンキー大佐を平壌軍政部長に任命、副市長を兼務した。韓国陸軍は金宋元大佐を平壌憲兵隊長に起用した。おかげで、三頭政治で運営される形となり、市民は戸惑い、市政は混乱した。わけても市民の不満になったのは、南からやって来た「謀利輩」の存在だった。彼らは米韓軍に追尾して勝者の威を借り、階級章をつけぬ軍服を着て手あたり次第接収と書いた紙片を民家、倉庫に張り付けては米、衣服、家財を運び出した。中には日本の敗戦後、北朝鮮から韓国に移住した地主が平壌に戻ってきて、五年分の小作料を要求した例もあった。
・通貨事情も市民を苦しめた。平壌が陥落すると、韓国政府は一対一で北朝鮮紙幣と韓国紙幣を交換させた。しかし実勢は韓国ウォンは北朝鮮ウォンの十分の一でしかなかった。平壌はたちまちインフレに襲われ物資不足と併せて、市民は米韓軍の開放をのろう心境になった。さらに北朝鮮側が埋めて隠匿した金、白金などの貴金属を発掘し釜山に運ばせた。金の逃避は経済と生活の危機を意味する。真っ先に「謀利輩」が平壌を脱出し、市民たちも南をめざす者が現れた。
・12月3日マッカーサー元帥は統合参謀本部に電報した。ウォーカー司令官は平壌の確保は困難でありソウル地区に後退せざるを得ぬと言っている。本職も同意見である。中共軍は約26個師団を投入し、満州には二十万以上の予備兵力が控えている、と。つまり、38度線への総退却の承認の要請であった。そして元帥は退却命令を発した電報を付記した。
・12月4日、第一回米英首脳会談が始まった。ブラドレー大将とスリム元帥の問答の後、大統領はアトリー首相の見解を質した。中共は国連に加入していないから国連に拘束されない。中共は本土での政治的成功を背景に、朝鮮介入は自衛権の行使だと考えているかもしれない。従って交渉となれば、彼らは完全な立場を要求し、台湾については強硬な権利を主張し、香港についても同様だろう。しかし中共がソ連の手中に置くことを望んでいない。そこで中共との交渉を可能にする方策の一つは、朝鮮において交戦状態のままで停戦することだと判断する。中共が北朝鮮政府を通じての全朝鮮支配を望んでいるかどうかは不明であり、別の解決策を用意しているかも分からない。ともかく停戦すれば事態の進展が見込まれるだろう、と。まだ説明があったが、つまりは、米国が朝鮮の始末をしてほしい、英国は深入りするつもりはない、と英首相はいうのであった。アチソン国務長官は意見を表明した。米国は中共と交渉するか戦うかを選択する立場になく、現に中共と戦争をしている。どのような行動をとるにしても、それが生み出す成果を考えておかねばならない。たとえば停戦はわれわれに有利になると思うが、ということは中共には不利となるのだから、停戦を承知しないのではないか。ソ連がわれわれが中共との全面戦争に巻き込まれることを望んでいるのは明白、中共との交渉については、全極東を考察の対象にしなければならない。われわれが譲歩すれば中共が平和的になる保証はない。台湾を手渡せば、中共はわれわれが日本とフィリピンも守り切れぬと判断し、ますます侵略的になるに違いない。その影響は日本に及び、日本人はわれわれの譲歩を見て自分たちの運命も終わりだと考え、その結果はわれわれは軍事的に深刻な打撃を受けることになりかけない。アチソンは朝鮮での軍事的敗北の回避が先決だと主張した。
・大統領は戦争はしたくないが状況は暗いと見解を述べると、英首相が「日本人はどのような反応を示すと思うか」と質問した。アチソンはわれわれが諦めれば、ソ連と中共が極東になだれ込む、アジア諸国は日本も含めて両国と出来るだけ有利な取引に心がけるだろう、と。続いてマーシャルは、日本人は恐るべき挫折の教訓を学んでいる、脅威が迫れば強者の側につく、と。
・大統領は停戦問題を取り上げた。「この時点でも、朝鮮では米国人と英国人の血が流れている。そして、中共も中国人の流血事情を知っている筈だ。早い停戦は双方の利益になる」 英首相も同意して「時間をかけてはならない。遅れれば停戦のアイデアそのものが吹き飛びかねない」 トルーマン大統領は停戦に関する米政府の考えを朗読した。停戦は朝鮮情勢の安定をもたらすものでなければならない。国連軍撤退の事態が発生した場合、国連は中共を侵略者と規定するとともに、政治的、経済的手段で侵略を容認しない決意を行動で明らかにする。ほかに米英両国は反共アジア強化のため、日本に対して次の措置を取る。①大幅な自治の回復、②対日講和の促進、③自衛力の強化、④産業の拡大、⑤国際機関への加入。これらの措置に関する英国側の躊躇は、新たな緊急事態が発生した事情に鑑み、放棄されるべきである、と。ふーむ、朝鮮戦争の英米の苦悩は、日本に国際社会への船出を積極的に後押ししてくれている。対日講和に対する英国の躊躇もここで帳消しされた。当時から、地政学上の位置づけ以上に、日本は重要な位置づけをされていたのだ、両首脳の言葉から。
・12月5日、第二回米英首脳会談が開催された。冒頭、アチソン国務長官は、今日の会談で、国連総会に対する六か国決議案ならびに停戦決議案を提出することに合意を成立させたい、と。決議案の表題は「中華人民共和国中央政府の朝鮮介入にたいする非難決議」に改める。停戦決議案はインドから提出してもらう。停戦決議案が可決された後われわれは何をするか、とアトリー首相。大統領は、われわれは可能な限り朝鮮の戦線を保持しなければならない。軍事助言者たちは現有兵力では確保しきれないというが、だが、われわれは後退することはともかく、自ら朝鮮から引き揚げるつもりは毛頭ない、停戦が実現すれば前線維持も可能となる。もしわれわれが南朝鮮を放棄すれば、全南朝鮮人は虐殺されるだろう。このような事態は到底容認できない。われわれは最後まで戦う。これは当初からの不動の決意である。米国は困難な時に友人を見捨てることは決してしない。英国も同様であることを確信する、と。
・英首相は中共を次のように観察している。彼らはマルクス主義者であるが、まだスターリンに平伏していない、共産主義者だがソ連の衛星国にならないユーゴのチトーを見習う可能性が大きい、中国人は強い愛国心の持ち主で、旧体制が腐敗によって崩壊したことを確認している、要するに、中国人は共産主義を旧腐敗体制の代案だと信じた。中国人の愛国心を刺激し支援すれば中国帝国主義をソ連帝国主義に対抗させることが出来る。英国は中ソ間にクサビを打ち込む努力をして来たが、それが出来れば中国は独立した大国になれる。英国はかって、中国人は未発達な群衆だと見做した、だが今や彼らは全極東の支配的民族である。しかも、リーダーシップを延伸するための武力を保有している、中ソの合体はそれだけで世界の脅威であり、英国が両国の分断を図る所以である、と。ふーむ、さすがに先を見る力は確かだ。現在でも通用する政治力学だ。ということは歴史的変遷があって、表面的には違う形に見えるが、底流には冷戦構造が残されている、と見るべきだろう。アトリー首相は「中国帝国主義とソ連帝国主義」という言葉を使用している。日本での使い方と逆なところが面白い。政治は観念論ではなくリアリステックなものだという証だろう。筆者の疑問は、共産主義国はなぜ膨張主義国で軍国主義国となるのか、ということである。アトリー首相は当然のこととして、さらりと言ってのけている。或いは、中華思想の中国は、歴史に復讐をしようとしているのか、最近の習近平の言動は。
・会談はなおもつづいた。会議に、国連安全保障理事会米国代表ロスの覚書がアチソン国務長官に届けられた。アジア諸国は中共及び北朝鮮にたいして北緯三十八度線を越えないよう要求する決議案の提出を考えている、インド国連代表がこの提案に対する米英の賛否を知りたがっている、と。大統領の首相も賛成した。アチソンが遮った。どんな決議でも、それだけで行動が伴わなければ何の成果も生まれない、停戦が実現されなければ戦い続けなければならない。
・12月7日、米英実務者会議が開かれた。朝鮮に於いてとるべき二つのコース、①早期かつ無条件停戦、②敵対行動の継続、アチソンの結論はどんなことがあっても侵略者・中共に屈服してはならない、その覚悟で英国も米国に同調してほしい。意見の対立が際立った。米国側は中共は侵略者で世界の公敵である、台湾、国連加盟などの譲歩は中共に侵略の賞与を与えることで、中共の侵略政策を激励することだ、政治的軍事的経済的制裁を強化して国際社会から締め出すべきだと主張。英国側は中共を敵視して悪人扱いするのは却って中共を侵略者にするだけだ、国連に入れて行動を規制した方が有益だと強調。国務次官補ラスクはいう。意見の相違は中国人観の相違に由来する、英国人は中国人を恐れている、対中国関係で苦い体験を重ねている。米国人は中国人を恐れない、中国人を移民として受け入れてきた、中国を制圧した日本にも勝った。
・その日、ホワイトハウスで第五回米英首脳会談が行われた。アトリー首相は①中共との全面戦争を回避する、②撤退を余儀なくされるまで朝鮮で戦い続ける、以上2点が合意できた、その合意を政策にするには無意味である、その解決策は中共の国連加盟である、とその理由を述べた。結局この点は合意できなかった。
・この日、大統領に、陸軍参謀総長コリンズ大将の極東視察旅行の報告があった。大将は元帥の総合的情勢判断を求めた。元帥は次の2点を強調、①いまや国連軍の総力を動員してアジアの共産主義の脅威に対処すべき、②朝鮮での敗北は許されない、世界の未来の平和のために朝鮮半島の勝利が必要である、と。そして今後の朝鮮で三つの事態を想定し、北朝鮮軍が三十八度線を越えない条件が実現すれば停戦すべきだが、軍事作戦が継続されるならば、戦術上の制約を撤廃してほしい、原爆使用も含めて自由な作戦権を与えて貰いたい、と。トルーマン大統領は元帥の意見にショックを受けた。大統領はこれまでその浅慮を指摘して訂正を指示してきた。然しなおも持説をくり返し、大統領に対する反攻姿勢をあらわにする。
・ギャラップ社の世論調査は次の通り。①米国は実際に第三次世界大戦に入っているか:第三次世界大戦に入っている59%、大戦にならないで済むと思う31%。 ②朝鮮の戦乱はあとどのくらい続くと思うか:一カ月ないし六か月28%、六か月18%、六か月以上一年19%、一年以上14%。 ③中共と戦争になった場合、原爆を使用すべきか:使用すべき45%、使用すべきでない38%、最後の手段として使用すべし7%。  1962年ケネディ大統領時代、キューバ危機での世界戦争勃発の脅威にさらされたが、さらに12年前、それに匹敵する戦争の不安に襲われていたことを告げていた。
・12月8日、第六回米英首脳会談が開かれ、米英首脳の共同声明が発表された。両国の意見の一致、国連の使命の遂行、平和解決の努力、意見の対立点、軍事力の強化、原爆の使用であった。 米英首脳会談の評価は分かれた。英紙ザ・タイムスは共同声明の満足していると論評した。米紙ニューヨーク・タイムスも成功だと見做した。しかし両紙の論調は少数派で、首脳会談を失敗とする見方が一般的だった。世界が期待したのは西側を優位に導く妙手を打ち出してくれることだった。しかし内容は抽象的原則論で明確な方向を示す具体的政策は見当たらない。

・12月9日、「朝鮮半島を北から南に吹きまくっている嵐は、日本を目指して進んでいるようだ」ニューヨークタイムズしの社説は先ずこう述べた。10月末ダレス顧問はソ連国連次席代表で外務次官マリクに米国の対日講和条約の腹案の概要を提示した。日本の軍事占領が五年間に及び、対日講和が遅れ過ぎているので促進するためのものであり、内容は琉球及び小笠原諸島の米国信託、日本の旧海外領土の処理のための西太平洋諸国会議開催の提案が含まれていた。これに対しソ連は米国の事前の了解なしに一方的に公表、カイロ宣言により台湾、澎湖島は中共に帰属すべき、ヤルタ協定により樺太、千島はソ連領になる、ポツダム宣言によって琉球、小笠原諸島は日本に返還すべき。周恩来外相は、中共は対日講和の起草と調印に参加する用意がある、米軍は日本から撤退すべきだ、と声明している。ソ連と中共は、米国が日本を再武装させ、朝鮮で日本人部隊を使用している、と非難している。このような断片を一つにまとめる時、不気味な像が浮かび上がる。日本はアジアで唯一の工業国であり高度に熟練した労働力を持つ唯一の国である。ソ連にとって日本は西のルール地方と同じく東における最大の目標である。赤い手が朝鮮半島を渡って日本に伸びようとしている。それを切り捨てなければ対日講和もあり得ない。さらに言えば対日講和のためにも朝鮮での軍事的勝利が必要である、と。
・この時期の国連軍のテーマは、中共軍に対する攻撃または反撃ではなく、その包囲からの脱出であり、とくに注目を集めたのは
・第一海兵師団の脱出だった。精強を誇る海兵が殲滅されれば、それは米軍そのものの壊滅を意味する。12月11日、第一海兵師団の最後尾が真興里に到着した。マッカーサー元帥は喜び、専用機で急行、第十軍団長アーモンド少将を抱擁し祝賀した。第一海兵師団は10月26日の元山上陸以来の地上戦闘において中共軍に与えた損害は死者一万五千人、負傷者七千五百人、空爆の戦果は死者一万人、負傷者五千人と発表、計三万七千五百人。一方師団の損害は戦死604人、戦傷死114人、行方不明192人、負傷3508人、ほかに凍傷など戦闘外傷病者7313人、計11,731人。しかし海兵側の損害は師団兵力の約40%にあたった。
・元帥は声明の末尾で、ワシントンの作戦権に対する制約と交渉による解決の動きが朝鮮での勝利を阻んだとの表明であったが、米政府も国連による事態解決に熱意を燃やし、インドを通じての働き掛けに期待した。アジア、中東13か国の共同決議案を作成した。決議案は国連総会政治委員会に提出されたが、ソ連代表マリクは開会前に記者会見し、すべての外国軍隊が朝鮮から引き揚げるならば、中共軍も朝鮮から立っていするであろう、と。ソ連が中共軍の動静について正式にふれたのは、この発言が初めてだった。
・政治委員会が開かれて13か国決議案が上程されると、マリクは真っ向から反対した。米英両国は新たな攻撃を準備するため停戦を利用しようとしているに過ぎない、全国連軍が朝鮮から撤退するまでは、朝鮮に平和は存在しない、と。
・12月13日、北京放送で中共側の回答がもたらされた。①中共政府はいかなる犠牲を払っても朝鮮で戦い続けることを決定した。②わが軍百万は、国連軍を海中に突き落とすまで朝鮮で戦闘を継続するであろう。③英国は米帝国主義に同調しており、朝鮮、台湾における米国の侵略に対して共同の責任を負わねばならない。
・12月14日、UP通信は対日講和について観測を伝えた。極東委員会12か国に対して条約案の反応を求めている、ダレス国務長官顧問は朝鮮動乱によって送らせてはならないと強調している、もし遅延するならば、米国は先ず対日戦争状態終結宣言を発し、他の連合国にも働きかける、と。だが、AP通信は①極東情勢の悪化は、日本国民の好意と支持をますます必要としている、②その支持を得るためには日本を被占領国ではなく主権国家にする方が有効である、③ただし日本を無防備にしてはならず、米国は個別協定によって米軍を日本防衛軍として残すとともに、究極的には日本の再軍備を考慮しなければならない、と。
・トルーマン大統領は15日午後十時「国家非常事態宣言」を公布する旨放送し、翌16日午前十時宣言署名した。
 「朝鮮その他における最近の事態は世界平和に重大な脅威を与え・・・世界に放たれた侵略軍の目標は、共産主義的帝国主義による世界支配である・・・ゆえに、私合衆国大統領トルーマンはここに国家非常事態を宣言する。この非常事態は、われわれがわが国に対するいかなる、またあらゆる脅威を撃退するために、この国の陸、海、空軍及び民間防衛組織を出来るだけ早く強化することを要求している」
 宣言の公布に伴って、178億ドルの追加軍事費の可決、陸軍兵力を300万人に増勢する計画、戦略物資貯蔵計画、核兵器生産工場の新設計画などが矢継ぎ早に発表された。さらにNATO軍の創設と総司令官アイゼンハワー元帥の指名も内定した。
 明らかに世界規模の戦争計画であり、第三次大戦準備陣形成のための措置であった。米国の力による平和の決意の表明であり、それは朝鮮の戦乱の拡大とヨーロッパび発生する恐れのある危機を抑止する政治的効果があるものと期待された。


冷戦下の日米関係の模索・構築 「日本人と朝鮮戦争」

2021年09月14日 | 歴史を尋ねる

 米軍は奇襲、不意打ちを受ける弱点がある、主因は味方の油断であるが、その油断は自軍の優越感に基づく希望的観測による誤判断に由来すると、児島襄氏はいう。過誤例として、日本軍による真珠湾攻撃とドイツ軍によるルントシュテット反撃で、いずれも敵側の信号が感知されたのに反応せず打撃を受けた結果だった。朝鮮戦争の中共軍介入についても類似の事情がみられた、と。中共政府は米軍が38度線以北に進撃すれば軍事介入する、という政治的信号を発していた。現実に中共軍の存在を告げる信号を感知したが、その意義と意味をそのまま容認せず過ごした。その情況は10月25日以降に目立った。
・10月25日、米韓軍は鴨緑江に向かう総追撃戦を開始した。米第八軍第一軍団が左翼、韓国軍第二軍団が中央、韓国軍第一軍団が右翼に位置して進撃。一方、中共軍第十三集団は、第38軍指揮下の三個師を韓国軍第一軍団第三師団を迎え待つ。第40軍三個師は韓国軍第二軍団の進撃を阻止すべく布陣。第39軍は40軍の右翼に位置し、米第一軍団韓国軍第一師団を待ち伏せた。この事情を知らず、総司令部情報部長ウィロビー少将はマッカーサー元帥に「本職は10月14日付判断を訂正する根拠は発見されない。中共軍の参戦の時期は過ぎ去った」と敵情判断を提出した。
・韓国軍第一師団第十五連隊は、一人の老人から前日までたくさんの中国兵がいたが夜明けにいなくなったと述べた。これは北朝鮮側が流した逆情報と見做して前進、十キロ進んだところで銃砲撃を受け、応戦して捕虜を得た。分厚い綿服を着て、朝鮮語も日本語も理解しない、中国語で中共軍一万人がいる、さらに別方面に一万人がいると答えた。報告を受けた連隊長は失笑した、見え透いたデマだ、と。米軍は連日、鴨緑江付近まで入念な航空偵察を行っている、諜者網もはりめぐされている、二万人もの大軍の移動が空陸の情報網にキャッチされぬはずがない、と。
・韓国軍第二軍団第六師団第二連隊は捕獲した北朝鮮軍無線機を操作して十七キロの北鎮に中共軍指揮本部があるらしいと判断し連隊長は連隊主力を北鎮に進んだ。隘路に差し掛かった時、前方と左右から銃砲弾が飛来した。遮蔽物のない狭い谷間で包囲された。呼笛が騒々しく鳴ると両側高地から手榴弾をぶら下げた突進兵が湧きだし一斉に殺到、射弾も絶え間なく、第二連隊長はジープで脱出、第三大隊750人は装備を捨てて四散、うち400人が逃げ戻った。異変を知って駆け付けた第二大隊指揮の大尉が左右の高地に双眼鏡を向けると稜線を移動する敵影が見え、派遣した斥候が敵兵を捕まえてきた。中国語で尋問すると、われわれは大軍だ、中国から来た、10月17日から北鎮一帯の山中で待っていた、と。大尉はホラを吹くなと一喝し前進を命じたが、同じ服装の負傷兵も発見し、八方に斥候を派出、斥候はたちまち絶叫を挙げて帰ってきた。前後左右にてきがいる、と。第二大隊も装備を放棄して退却、深夜になると闇の中から異様な笛の音(チャルメラ)が響き渡った。続いて第二連隊に手榴弾が雨注し、将兵はわれがちに山中に逃げた。
・25日から27日までに現出した中共軍介入の信号に真っ先に明確な反応を示したのは韓国軍第一師団長白善燁准将だった。准将は満州軍中尉として、日本軍の熱河作戦に参加し、中共軍の戦法を熟知していた。チャルメラ笛を合図にした攻撃方法、多数で少数を襲う人海戦術は、中共軍のお家芸であった。准将は米第一軍団長ミルバーン少将に自身の判断を告げたが、准将の判断は米国側に共有されなかった。少将は前線からの中共兵捕虜の陳述を検討しマッカーサー元帥にに報告した、「これら捕虜の供述は確認できない。ゆえに信頼できないものである」 だが、こういう後方での否定論とは裏腹に、第一線では中共軍の影が色濃くなるばかりだった。

・11月1日、米第十軍団長アーモンド少将は韓国軍第一軍司令部を訪問、中共兵6人の訊問と第一線の中共兵の戦死体を視察、襟や袖口に赤い縁取りがある上着着用者が中共軍将校だと説明されたが、階級章はない、しかし兵器は旧日本軍の小銃か、かって米国が中国軍に供与した自動小銃、機銃、追撃砲にとどまる。中共軍正規軍は出動していないのではないか、少将は告げた。しかし実際には、階級章がないのが当時の中共軍の特色であり、中共軍はあえて大型火砲を持参しなかった。搬送が容易で曲射出来る追撃砲の方が山岳戦には有利であったから。
・だがワシントンでは中共軍介入が認定された。この日、CIA長官スミスは中共の朝鮮介入と題する覚書をトルーマン大統領に提出した。第一線の見積もりでは、一万五千人ないし二万人の中共軍が北朝鮮で作戦中であり、中共軍主力はなお満州に所在する。ソ連ジェット機が確認されたが、ソ連が中共の満州国境の航空防衛を支援している。水豊発電所地域の防衛のため義勇軍が組織され、同発電所が満州の産業に重要であること、中共軍が同発電所の満州側に集結している。中共は世界戦争の危険をおかしても北朝鮮に対する指示と支援の強化を決意したことを示唆している。
・中共軍は総攻撃態勢の完成を急いでいた。米第八軍主力を包囲殲滅しようと、総攻撃は11月1日夜に予定され、日中は軽戦に留めていた。
・米第一軍団長ミルバーン少将は側背攻撃を受ける危険回避のため、快進撃を続ける第二十四師団に停止を命じ、第一騎兵師団長に防備強化を指示、正午過ぎ、偵察機が雲山の北東と南西に敵の大縦隊を発見、さらに馬を発見、山岳戦の場合、人員と兵器の輸送には馬の方が有効、馬と人海並みの大部隊が襲来するとなれば、山岳戦は有利で、予想外のスピードも見込まれる。韓国第一師団長白善燁准将も軍団の兵力を整頓して中共軍にそなえなばならぬと少将に献策、全山ことごとく中国人だと叫んだ。ミルバーン少将もその意味を理解し、准将にうなずくと、第八軍司令官ウォーカー中将に電話して、後退して防御態勢をとりたい、と。敵が来る前に退却したいとは、およそ軍人にあるまじき弱気の発言、米陸軍の常勝の歴史を汚す、しかし前線からの報告は、将兵が一様に中共軍に対して理由不明の不気味な恐怖感を抱き、その存在を知るとひたすら潰走する、少将も同じ恐怖感を共有しているらしい、指揮官が戦意を失っては軍隊は戦えない、オーケー、退却しよう、と。
・午後八時、ミルバーン少将は三人の師団長を呼集して退却命令を伝えた。この少将の指示は中共軍の動静に適合していた。
・この夜中共軍は雲山地区に進出した。雲山から安州に展開する米第一軍団を包囲せん滅するか、それが出来なくとも清川江の南に追放しようとする態勢だった。
・11月2日、午前零時過ぎ、後退実施する連隊に敵の縦隊と交差、激戦が続き、将兵も小グループごとに退散する状況、第八軍司令部は雲山の事情を知ってヒステリー状態となり軍団の清川江南岸への後退を催促する指示が飛び交った。
・11月3日、米第一軍団は戦線を整理した。中共軍によって清川江の南に追放された。
・ワシントンの統合参謀本部は眉をひそめた。いずれも東京の総司令部情報部長ウィロビー少将からの報告だった。①中共軍は満州に83万3千人の兵力を保有し、うち北朝鮮に進出しているのは3万4千人、そのうち交戦兵力は1万6千5百人である。②11月1日の北京放送は、朝鮮戦争は中国の安全に対する直接の脅威である、中国人民は抗美援朝に最大限の努力を傾注すると宣言した。
・統合参謀本部の疑惑は、中共が北朝鮮に最大限の軍事援助を行うというのに、なぜ北朝鮮に3万4千人の兵力しか派遣しないのか、マッカーサー元帥に見解を求めた。
・実は米軍側は中共軍側によって兵力の過小評価を強制されていた。中共軍は軍に連隊を指す呼称を与え、それに応じて師団、連隊なども大隊、中隊と二等級下げて呼んでいた。米軍側はこのトリックに引っかかり、その呼称の推算結果の進出兵力だった。

・米国務省は、朝鮮問題の解決のためには第三次世界戦争の危険をおかしても中ソ国境まで作戦を拡大する必要があるか、と国防総省に質問し、国防総省は見解を伝えた。鴨緑江まで進撃して北朝鮮軍の息の根をとめる、しかし中ソ領には進まない、第三次世界大戦の心配はない、と。
・だが実際には、軍は深刻な事態を招きかねない解決手段も考慮していた。陸軍は朝鮮における劣勢を挽回するために原爆の戦術的使用を計画している、しかし広島、長崎に対するような戦略的使用ではないので非戦闘員への被害はない、しかし同時に第三次世界大戦の覚悟も必要だ、と。
・11月4日、米韓軍はますます不利になった。中共軍は、米韓軍が防衛の焦点としている飛龍山と清川江北岸に風雪の中を殺到してきた。
・11月5日、日没を迎えると、清川江北岸はけたたましい呼笛とチャルメラ笛の音に蔽われ、中共軍が攻撃してきた。また、布靴の音を忍ばせて近寄り、スリーピング・バックにもぐって仮眠している米兵を音もなく殺傷するその夜襲ぶりは米兵をおののかせ、中隊は四散した。
・11月6日、もうダメだと思い夜が明けると、見渡す谷地を続々、延々と中共軍が遠ざかっていく。中共軍は再び後方に潜伏して好機を待つ。東京の総司令部はマッカーサー元帥の声明を発表した。国連軍部隊は現在中共軍と戦闘状態に入っている、と。第八軍司令官ウォーカー中将に電話して、新攻勢では必ず鴨緑江まで行って北朝鮮全域を管制せねばならぬ、そのためには朝満ルートを封鎖する必要がある、と告げた。
・米極東空軍司令官ストラトメイヤー中将は鴨緑江三橋爆破の意向を伝えられると、即座に不可能です、と答えた。一橋は米国、二橋は日本の企業が建設したもので、当時の最高水準の技術が投入され、抜群の強度を誇る設計であった。元帥は敵戦闘機が上昇できない高高度を飛ぶB29爆撃を下命した。中将はワシントンに連絡する承認を得た。
・爆撃隊発進一時間前のマッカーサー元帥の急電に、朝満国境5マイル以内の爆撃は別命あるまで延期し、貴職の状況判断の速やかな提出が要求されると統合参謀本部は指摘した。
・元帥から統合参謀本部あての至急電:満州から鴨緑江の橋を渡って大量に人と物が朝鮮に流れ込んでいる。この流れを阻止するには空襲による鴨緑江の橋とその付近の施設を破壊する以外に方法がない。空襲が遅れれば多くの米国民及び諸国民の血を流すことになる。本作戦は戦争の原則に即したもので、断じて中国に対して挑戦的な行動ではない。貴指令は必ずや本職が責任を負えぬ大災厄をもたらすからである、と。
・ブラドレー参謀本部議長はマーシャル国防長官と協議しトルーマン大統領に報告、大統領は渋々ゴーの許可を出した。統合参謀本部議長の返電は鴨緑江橋の朝鮮側部分を攻撃する許可だった。マッカーサーはB29爆撃機を90機発進させると、統合参謀本部に二通の電報を発進した。第一電は鴨緑江橋の爆撃が中共軍の北朝鮮への流入と全面戦争に対する抑止効果を持つ、第二電は、それだけでは不十分だから禍根を断つため満州攻撃が不可欠だ、と。軍事的観点からすれば元帥の要請は当然である、だが満州を攻撃された場合の中共の出方である。統合参謀本部は自分たちの権限外の事態だと判断し、トルーマン大統領に判断を求めた。大統領は、全力を挙げて中国に対抗する軍事行動を避けねばならない、ではどのような対策があるのか、大統領は統合参謀本部、国防総省、国務省、CIAに諮問した。 統合参謀本部:政治的解決が優先するが、その達成は軍事的解決を基礎にする。世界戦争の覚悟の下に満州攻撃を実施して勝利を確定しておくべきだ。 国防総省:現時点では満州に対する軍事行動はとるべきでない、しかし安全な聖域から国連軍を攻撃する軍隊にどのような大問題が起こっているか、全世界が理解してほしい。国連軍に甚大な損害を与えている。満州は攻撃しなければならない、国務省が外交手段で国際的支持を取り付けてほしい、と。  国務省:選択肢は四つ、①朝鮮からの米軍の撤退、②守勢への転移、③政治的解決のための交渉開始、④満州及び中国本土に対する進攻。ラスク次官補は対策を列挙しながらどれも有効でないと告白している、政策企画部の単なる作文だ、と。中国課の覚書は軍事独走を抑制して、朝鮮戦争を政治的に解決できる可能性を強調しているが、依然作文性の印象を受ける。
・11月8日、前日につづいて米極東空軍は鴨緑江の新義州橋の爆撃を実施した。前日の爆撃は無効果と判定された。司令官はB29、B29爆撃機、戦闘機等600機を投入した。だが爆撃はまたしても失敗だった。航空写真で比較すると新義州市街の60%を破壊したが、肝心の橋は無傷だった。鴨緑江橋の爆撃は米国が中国を攻撃しないという政策を維持する限り、一方的に不利で中途半端な攻撃を強制される、ストラトメイヤー中将が嘆く所以だった。

・11月8日、大統領トルーマンは国務省から原爆問題に関する極東局顧問エマーソンの判断を受理した後、CIA長官スミスから、翌日の国家安全保障会議に提出する情勢判断を受け取った。とくに中共の北朝鮮介入の意図と能力に焦点をおいて、①北朝鮮に進出している中共軍兵力は3万人から4万人とすいていされ、国連軍と交戦中である。②満州に70万人の中共軍がひかえ、うち20万人が正規軍部隊と見込まれる。その能力は国連軍をこれ以上の北進を阻止できる、総攻撃により国連軍を南方の防御地点に押し戻すことが出来る。③中共介入の目的が、北朝鮮における国連軍の進撃を阻止して朝鮮に共産政権を保持することにある。④中共はわれわれの報復と世界戦争の危険を受け入れている。ゆえに撤退要求の最後通告も拒否するであろうし、中国領を攻撃されれば全兵力を朝鮮に投入してくる。⑤中共と共にソ連も世界戦争の危険を受け入れている。情勢は世界戦争を強制する方向を示している。  トルーマンは沈思した。ここで朝鮮から徹底すれば、米国が世界平和維持機構として作った国連の存在意義が失われ、米国の立場も無くなる。翌日の国家安全保障会議はどのような結論を出すのか。
・11月9日、米国家安全保障会議:先ず統合参謀本部議長ブラドレー大将が口火を切った。中共の参戦意図について、①鴨緑江沿いの発電施設の確保、②ソ連が世界戦争を決意し、中国に米軍を消耗戦に引き込むことを狙っている、③中国は米軍を朝鮮半島から駆逐しようとしている。 すかさずスミスCIA長官は、ソ連は参戦せずに米軍を朝鮮半島に拘束するつもりだ、と。鴨緑江橋の爆破で中共軍の朝鮮流入を阻止できるのか、とスミス長官がが質問すると、ブラドレー大将はそれは楽観的過ぎる、長官はもうすぐ凍結する、橋がなくとも中国人は渡ってこれる、と。アチソン国務長官が鴨緑江の両側に非武装・無人地帯を設ける案を出すと、スミス長官は即座に反対、共産主義者に一歩を譲歩すると百歩の要求をさそうだけだ、われわれが鴨緑江の手前で止まれば、必ずや彼らは朝鮮からの全外国軍隊の撤退を要求し、その交渉の間にも共産勢力の拡大を図る、と。アチソン国務長官は提案を撤回するというと、ブラドレー大将はマッカーサー電を読み上げ、この際元帥の手足を縛るのは米国の敗北になる、世界戦争も戦えなくなる、と主張。アチソン国務長官は結論として、マッカーサー元帥のに対する指令を変更する必要はなく、元帥は満州攻撃を除くあらゆる軍事行動の自由を保有する。国務省は中共との交渉について可能な方法研究する、と。
・報告を聞いた大統領は結論を承認したが、次のように記述していた、「中共の侵略は朝鮮だけのものだと見るべきでない。それは西洋人の世界に対する挑戦とみなすべきである」

・この頃、日本国民の関心は、朝鮮戦争が日本に及ぼす影響、とくに生活、対日講和、朝鮮戦争そのものがどのようになるのか、に集中していた。朝日新聞は全国2641人に国際問題世論調査を試み、その結果を発表した。①暮らし向き:悪くなった52%、変わらない25%、良くなった19%。 ②日本の経済事情は一年後どうなるか:よくなる31%、悪くなる16%、変わらない14%。 回答者のうち若者に楽観的見通しを持つ者が多かった、楽観の基礎は特需景気にあり、デパートなどは前年より3~8割増をきたいしている、と。 ③国連とはどういうものか知っているか:知っている54%。 ④現在の国連を支持するか:強く支持する40%、ある程度支持する40%。 ⑤朝鮮戦争が起こってから国連に対する考え方が変わったか:変わらない69%、変わった26%。 ⑥朝鮮事変について国連に協力すべきか:協力すべき57%、協力すべきでない9%。 ⑦朝鮮事変は日本の講和条約の締結を早めると思うか:早める46%、遅くする15%。 ⑧日本の講和についてソ連を含む全面講和または米国側陣営との単独講和のどちらに賛成するか:単独講和46%、全面講和21%。 ⑧講和条約締結後に米国が日本に軍事基地を持つことに賛成か、反対か:反対38%、賛成30%。 反対理由の多くは戦争に巻き込まれる、日本が攻撃される。賛成理由は日本防衛に必要。 ⑨日本が軍隊をつくることに賛成か反対か、ただしこの軍隊は日本を外国の侵略から守るもの:賛成54%、反対28%。 ⑩この軍隊は国外にも派遣すべきか:専守防衛74%、国外にも派遣19%。 ⑪日本国民にとって一番重大な問題は何か:講和23%、国民生活15%、税金問題8%、経済問題7%、社会問題4%、朝鮮動乱3%、戦争回避と平和問題3%、思想問題2%。
・このアンケートから浮上する国民の関心事は、生活の向上と安定、一日も早い講和による独立、朝鮮戦争の戦火の波及の回避といった国民の願いだ、と児島襄氏はコメントする。 でも現在から見ると、朝鮮戦争より講和がはるかに関心事になっている。極東の冷戦真っただ中にあって、その動揺は窺われず、安定した国民の暮らしが垣間見える。その重要な要件として、政治経済情勢が安定していた、ということだろう。米国の占領下にあって、それ程の不平不満がこのアンケートからうかがえない。

 


今日9月8日は、サンフランシスコ講和条約調印から70年

2021年09月08日 | 歴史を尋ねる

 産経新聞によると、調印50周年の平成13年9月8日、当時の田中真紀子外相は講和会議の会場・オペラハウスを訪れて記念式典を開催した。60周年だった平成23年も在サンフランシスコの日本総領事館で日本政府主催の式典が開かれた。70周年の今年は新型コロナウイルス禍もあって、特に行事は予定されていない、という。日本が独立を回復した4月28日については、平成24年の衆院選で自民党が「主権回復の日」として式典を開催すると公約した。大勝した自民党は政権に復帰し、平成25年4月28日、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を開催したが、その後行われたことはない、独立の価値は忘れ去られようとしている、と佐々木美恵・酒井充記者は記事にしている。8月15日は各社競って歴史を振り返るが、そこに関連した9月8日、4月28日は新聞各社ほとんど記事にしていない。
 日本の戦後史を語る上で、不思議で、その分貴重な現象である。日本に主権がなかったことなどすっかり忘れたのか、あるいは振り返りたくないのか、或いはまだ歴史の審判が下されてない、ということか。70年経ても歴史の審判が下らないというのは、いかがなものか、少なくとも現段階でも、それなりの歴史的判断をしておく必要がある、そうでなければ前にも進めない。当時の大きな争点は、全面講和か単独講和か。当時の識者は、東大総長の南原繁、政治学者の丸山真男らいわゆる進歩的文化人による平和問題談話会も全面講和を主張する声明を発表した。単独講和を「日本及び世界の破壊に力を藉すもの」と論難し、「如何なる国に対しても軍事基地を与えることには、絶対に反対する」とも訴えた。これは当時のソ連に沿った内容だった、という。しかし、世論の多くは単独講和を進める吉田を支持した。朝日新聞が昭和25年9月に実施した世論調査で、全面講和支持が21%、単独講和支持が46%と圧倒したた。国民世論の方が、その後の歴史を照らして、はるかに賢明な判断をしていた。単独講和といっても米英など48か国、全面とはソ連や中国を加えるかどうかだった。それは真に当ブログが、児島襄著「講和条約」で事実関係を追いかけているところだ。

 当事者である外務省は現在どう扱っているのか、HPを開いてみると、茂木外務大臣の記者会見に、毎日新聞の記者が質問している。
【毎日新聞 宮島記者】サンフランシスコ講和条約についてお伺いします。明日、日本が国際社会への復帰を果たしたサンフランシスコ講和条約の署名から70年を迎えます。早期講和、軽武装、経済優先路線は、戦後日本の繁栄の土台になったかと思いますけれども、足元では、米中新冷戦と呼ばれる時代になってきました。迂遠な話で恐縮なんですけれども、講和条約締結の意義と、今後の日本のあるべき姿について、ご所見をお伺いできますでしょうか。

【茂木外務大臣】丁度明日で締結から70年ということになるわけですね。今日7日だよね? ということは、明日だね。明日9月8日で、丁度70周年を迎えるということで、やはり歴史的な決定だったと、こんなふうに思っているところであります。戦後復興を遂げ、また、国際社会の一員に復帰をすると、こういった意味で大きな条約の締結だったと、このように考えております。
 日本は、サンフランシスコ平和条約を受諾することによりまして、主権を回復して国際社会に復帰したわけであります。そして、この条約は今日に至るまで、戦後秩序の基本的な枠組を提供しているものと理解いたしておりまして、戦後の日本は、この枠組の中で平和と繁栄を実現してきたと、これは間違いない事実だと思います。
 ただ、当時と比較して、今日、国際情勢、これも大きく変わっていると、当時はちょうど、冷戦構造が始まると、こういう状況でありましたが、違った形で違う構造で、日本を取り巻きます安全保障環境、今、厳しさを増しているところであります。国際社会、予見をしていた以上のスピードで、歴史的変動期にまた入っておりまして、安全保障、先端技術、デジタル、様々な分野で、パワーバランスの流動化というのが見られるわけでありまして、一方で、新型コロナ対応とか気候変動、こういうことでは、国際社会が一致して、協力して対応しなくてはならない、こういう課題も大きく浮かび上がってきているのは事実だと思っております。
 日本として、こういった様々な動きと、これを先取りしながら、私(大臣)が申し上げている、「包容力と力強さを兼ね備えた外交」を、幅広く戦略的に展開をしていきたいと、そのように考えております。
 サンフランシスコ講和条約をはじめとします、国際的な法的な枠組みを遵守をすると、我々が確立してきた共通の価値観に基づきます様々なルール、こういったものを遵守すると同時に、新たな時代の流れ、これに対応した今後の世界的なルール作り、こういうものを日本として、更に主導していきたい、こんなふうに考えております。

 外務大臣はサンフランシスコ平和条約の受諾について、その歴史的意義について語っている。この大臣の発言について多くの人が納得するものである。茂木大臣の問題発言と記事にならないことで分かる。


冷戦下の日本の迷走 「復讐と代償を求めず自由を与える講和・鴨緑江に向けての突進」

2021年08月29日 | 歴史を尋ねる

 児島襄著「講和会議」を丁寧に読み込むと、日本が独立を果たした対日講和条約締結への流れは、朝鮮動乱をきっかけに米国側の構想が一気に加速されている。また、経済九原則指令の困難な経済改革による日本経済の自立化も、この動乱による需要の増大で、着実にいい方向に回り始めた。漁夫の利の観もあるが、当時の日本は主権のない連合国の占領下にあって、アメリカの極東政策の中に繰り込まれていた。アメリカが考える国際情勢のバランスの中で、主権はないが日本が国際的地位を獲得し始めた。また、当時の吉田政権も、アメリカの考える日本のあり方について、賛同していた。むしろ、冷戦下にあったとはいえ、敗戦国であり、憲法9条下の主権国家としての日本の自立を、わがことの如く、慎重に検討していた米国側の経緯が、児島氏の著書から浮かび上がる。そして重要政策の米国の意思決定システム、文民統制のあり様が垣間見えて、興味深い。後日、従来の日本の重要政策決定システムと米国とを比較したい。

・9月12日、トルーマン大統領はジョンソン国防長官を解任し、元国務長官マーシャル元帥をその後任に任命した。それは、国務省と国防総省が過去見解を異にし、その対立は深刻であったが、その問題を解決しようというものであったが、併せてマッカーサー元帥をコントロールする狙いもあったのではないか、これは私見である。
・9月13日、仁川港に通ずる飛魚水道に米駆逐艦6隻、米重巡2隻、英重巡2隻が侵入した。上陸作戦は月尾島を攻略し、次いで仁川に上陸する手順、仁川という瓶の口を閉ざすコルク栓が月尾島であり、このコルク栓を抜くのが必須。折から台風が近づいていたがその影響は対馬海峡にとどまり、朝鮮半島中部以北は晴れ渡った。米軍側は仁川作戦を秘匿するため、釜山で上陸作戦も訓練を来ない、住民避難のビラを散布するなど、入念な欺瞞作戦も実施した。その日の午後、艦隊は月尾島に艦砲射撃、島からの反撃で四隻が被爆したが軽微だった。
・9月14日、再び飛島水道を北上、機雷原と島砲台を撃砕するため空爆、砲爆撃を実施。
・9月15日、午前零時、仁川攻略部隊を乗せた艦隊(米軍艦船226隻、韓国軍15隻、英軍12隻、カナダ軍3隻、「オーストラリア軍2隻、ニュージーランド軍2隻、フランス軍1隻の計261隻)が仁川沖に到着、午前五時上陸部隊は月尾島の前面に到着、上陸掩護砲撃が開始され、艦砲射撃につづき、ロケット弾もたたき込んだ。守備の北朝鮮軍400人はほとんど新兵で、連日の砲爆撃で戦意を喪失していた。海兵は順調に前進、洞穴で立てこもった北朝鮮兵に対してブルドーザーで生き埋めにするか火炎放射で焼殺した。午後2時、マッカーサー元帥がランチに載って上陸、随従するホイットニー准将に、上陸を一カ月延ばしていたら、この島は難攻不落の要塞になっていたかもしれない、と。情報によれば、9月はじめに北朝鮮軍は第十八師団、第九師団などがいたが、これらの部隊は米軍側の欺瞞工作によって仁川を離れ、残ったのは約2千人に過ぎなかった。午後6時、釜山洛東江の北朝鮮軍陣地に米軍機が宣伝ビラを散布した。「国連軍仁川に上陸、北朝鮮軍将兵に告ぐ。強力な国連軍部隊が仁川に上陸、国連加盟国59か国のうち、53か国が諸君に敵対している。残された道は降伏か死のいずれかである」と。
・9月14日(ワシントン時間)トルーマン大統領は記者会見で声明した。「米政府はかねがね、日本人がすでに日本人を国際社会に復帰させる講和条約締結の資格を持っているとの見解をとってきた」 1947年に対日講和のための極東委員会諸国の会議の招集に努力した。米政府は今やふたたびこの方向に向かって努力すべきだと信じている。「私は国務長官に対して、まず対日講和に関する今後の手続きについて、太平洋戦争に積極的に参加した極東委員会と非公式討議を開始する権限を与えた」「対日講和条約に関する米政府の方針は、一切の戦争状態を終了させようとする米国の一般的な努力の線に沿ったものである」 記者団との問答、問、ソ連が含まれるか。答、もちろん。 問、ソ連が現在の態度をとり続ける場合、他の国と交渉を続けるか。答、そうなった場合でも交渉は続ける。
 国務省も声明を発表、2週間以内に極東委員会十二か国と個別に討議を開始したい、と。
・9月15日(ワシントン時間)、ダレスは対日講和問題で記者会見を行った、ダレスの名は伏せられ、責任ある官辺筋の談話として報道された。 基本方針は二点。①日本の再軍備に制限は設けず、経済と通商の自由を最大限に認め、国連加盟および反共同盟国家群への参加を促進する。②極東における侵略から日本を守るために、米軍が日本に駐在する許可を得る。ただし条約は基地獲得には触れず、その取り決めは英国に駐在するものと同じ方法にしたい。さらにダレスは、条約の締結を刻下の急務と考えており、ソ連の参加・不参加にかかわらず交渉を促進する、日本の現状は極東の力の真空を形成し、侵略を誘致するものであり、日本を適当な軍備を持つ自由な国家として再建する、ベルサイユ平和条約の誤りを繰り返さぬため、旧敵国に最大限の自由を与え、過去に見られる経済上・通商上の厳重な制限を盛り込まない。日本の再軍備について、日本の軍国主義復活の可能性は極めて小さい、しかし日本の再軍備能力に一方的な制限を加えるのは、日本の国家主義と権力意識を刺激して再び日本が世界の脅威になると見込まれる。米国としては、日本が仮に連合国が受入れられぬ再軍備に乗りだした場合、経済援助の中止、国連による制裁措置などでそれを阻止できる。ダレスは記者会見の終わりに付け加えた。「米政府は対日講和条約の条項を決めるにあたって、日本の発言権を与えることを希望している。極東委員会諸国との交渉が開始されるのと並行して、日本の指導者との意見交換が数週間内に東京で行われる予定である」と。ふーむ、ダレスがここまで発言するとは、復讐と代償を求めず自由を与える講和であり、敗者日本の発言権を認めるものであるとは。条約局長西村熊雄は、日本側の要求事項の整備を急ぐことにした。

・9月22日、ニューヨークで米国の極東委員会諸国との対日講和秘密会議予備交渉が開始された。米国側は国務長官顧問ダレスと国務省北東アジア課長アリソンの二人が、英、オーストラリア、フィリピン、インドとの交渉に当たり、課長アリソンがパキスタン、カナダと交渉した。交渉に際し米国の対日講和方針を7項目にまとめた覚書を提示、英外務次官補デニングは日本を野放しにして軍事大国化、経済大国化を許す可能性がある七原則講和には反対だ、と。オーストラリア外相スペンサーは、日本の一方的な自由講和構想を受け入れられない、と。前途多難が予想された。
・9月28日、ソウルは実質的に陥落、北朝鮮軍がソウルを放棄したのは明白だった。釜山も歓喜した。李承晩大統領は閣議を開き、われわれは明日全員ソウルに帰還する。マッカーサー元帥が飛行機を送ってくる、と。
・9月29日、マッカーサー元帥の乗機が金浦空港に到着、直後に李承晩とその閣僚も飛来し、元帥たちの車列に後続した。沿道には太極を旗ふる市民が群がり、泣き叫びながら大統領一行を歓迎した。外務部長官は、彼らを戦火から非難させられなかった私たちだ。その罪人ともいうべき私たちを歓迎してくれるとは、私たちは皆泣き続けた、と手記した。正午から還都式が始まった。マッカーサー元帥が大統領に政府の椅子をお返しできることを心から喜ぶと挨拶すると、大統領は、私とわが国民の感謝の気持ちをどう表してよいか分からないと答辞。元帥はその日東京に帰着した。
・ソウルは陥ちた。北朝鮮軍は北緯38度線の北に去った。第八軍司令官ウォーカー中将は、韓国軍に対して38度線以北の前進を禁止する命令を発出した。だが、国連決議と国連軍の使命は、北朝鮮軍を再起不能にすることと朝鮮の統一に定められていた。38度線突破問題は国連の判断と決定によると米政府は主張していた。しかし国連軍の主体は米軍であり、その行動は米極東軍司令官マッカーサー元帥の権限下にあり、極東軍作戦については統合参謀本部が統括する。その意味では、38度線突破の可否は統合参謀本部が決定されることになる。統合参謀本部は二日前にマッカーサー元帥に対して条件付き突破指令を与えていた。その背景にはブラドレー大将の苦慮があった。第二次大戦末期の米軍のベルリン進撃中止の思い出だった。政治的、軍事的理由により米軍はエルベ川まで進出したがそう以上は東進せず、ベルリンはソ連軍に渡した。当時チャーチルから批判された。ベルリンこそ軍事的最優先目標、米国はソ連という国の危険性を無視している、ソ連は臨時の戦友であっても本質的に敵である、ソ連はベルリンを奪って第二次大戦の勝利者の名を得て、西欧支配を目指している、ベルリンをソ連に渡すことは、ヨーロッパをナチス全体主義から共産主義に渡すだけだ、と。のちに米軍戦史も、アイゼンハワー将軍は進撃できる部下を停止させた、不必要に損害回避に熱中するあまり、より多くの正当性のすべても封止してしまった、という。
・統合参謀本部議長ブラドレー大将はトルーマン大統領はの承認のもとに9月27日、マッカーサー元帥にに指令した。貴職の軍事的目的は北朝鮮軍の撃滅にある、以下の条件の下に、38度線以北の朝鮮において、水陸両用、空挺、地上作戦を含む軍事行動を行う権限を与えられる。条件:ソ連軍または中共軍の主力が北朝鮮に進出しないこと、満州国境・ソ連国境を越えないこと、国境に接する地域には、韓国軍以外の外国部隊を使用しないこと。つまり、ソ連軍または中共軍とは勝手に戦うなとの注意がつけられた。
・米国では中共は朝鮮に介入することはあるまいという見方が有力だったが、英国側は、中共政府は国連軍の38度線突破とそれに伴う緩衝国の消滅は、自国の安全に対する脅威とみなす、中共軍が出てくる可能性がある、と。
・9月29日、国連総会第一委員会に八か国による決議案が提出された。国連は朝鮮に統一・独立・民主政府を樹立することを決議した。
・9月30日、国務省中国課長は東京の総司令部の報告書を受理した。北朝鮮捕虜の証言:前年の8,9月頃、中共軍第164、第166師は北朝鮮に移動し、それぞれ北朝鮮軍第五、第六師団となった。両師団は朝鮮人部隊であり、国共内戦時、独立第三、第四師を名乗っていた。両師団の移動は、中国の朝鮮人民が故国に帰って祖国防衛にあたっているとの中共側声明を裏付けるが、他の朝鮮人兵士も北朝鮮帰還も予想される。 周恩来首相の秘密談話:北朝鮮軍が満州国境に押し詰められたときは、中共軍は敵の越境を待つことなく、出境して戦う。 総司令部判断:米国が38度線を越えれば中共軍も鴨緑江を渡る。
・次官補ラスクはマッカーサー元帥に進撃停止線を支持した方が良い、中共軍の出撃の危険性が大きいというと、マーシャル長官は、「いかなる情勢にも対処するのが、貴官も含めてわれわれの任務の筈だ」と応えた。

・韓国では、ソウル還都式の後、李承晩大統領は韓国軍幹部を呼んで、今後の作戦の見通しを訪ね、丁少将がマッカーサー元帥から38度線突破禁止を厳命されていると述べると、「韓国の統治権者はマッカーサー元帥か、それともこの国の大統領か」「サンパルソン(38線)を越えて国土を統一するのはわれわれの権利である。国連にわれわれの権利を否定する権利はない。私はわが国軍を北進させるつもりだ」と。丁少将は大統領の命令に従う、と。
・10月1日、マッカーサー元帥はラジオ放送で北朝鮮軍に対する降伏勧告文を発表した。降伏勧告の一時間後、韓国軍は本日38度線を突破した、と第八軍司令部が発表した。
・10月2日、ニューヨークでは、ソ連国連代表・ソ連外務次官ヴィシンスキーが五か国決議案を国連総会第一委員会に提案した。即時停戦、外国軍隊の撤退、選挙の実施、単一政府の成立まで臨時全朝鮮委員会の選出、監視団として国境を接する国、朝鮮復興のための経済援助計画の作成、朝鮮の国連加盟の討議。
・10月3日、午前零時、異例の深夜に周恩来首相がインド大使を招き、①国連軍が38度線を越えたら、中国は軍隊を国境外に派遣して北朝鮮防衛に参加する。韓国軍だけであればこの限りでない。②中国政府は、9/30日のネール首相の声明を受け入れる。しかし中国が参加しない朝鮮問題解決策を受諾しない。 インド大使パニカーの報告は米国側に伝達され、国務省は色めきたった。
・周発言、中共の対米メッセージの意味は何か。これまでの警告を試みたのか、それとも、米中戦争を覚悟したとの決意の表明か、判断を迫られた。CIAは威嚇性のものだとしたが、統合参謀本部は中共軍の出撃を予期していた。統合参謀本部は朝鮮の情報から中共軍の介入を必至と見込み、それに対応するため以下の指令を与えるべきだとして、トルーマン大統領はに覚書を提出、大統領はマッカーサー元帥あての指令を承認した。「朝鮮のいかなる地域にせよ、中共軍主力が予告なしに公然または隠密に介入してきた場合は、貴職は判断に基づき、勝利の確算を得る限度まで貴指揮下の部隊の作戦を継続すべきである。ただし、中国領内の目標に関しては、いかなる軍事行動もとる場合でも、事前にワシントンの許可を求めねばならない」 大統領の承認を得た北進指令であった。
・中共政府は国連の八か国決議案可決に対抗して声明した。「韓国軍の北進は国内戦だからやむを得ない面がある、だが、われわれは朝鮮民主主義人民共和国が外国軍隊によって侵略されるのを看過することは出来ない」
・指令電を受けて、マッカーサーは再度の降伏勧告を試みた。ふーむ、再度の降伏勧告。日本が支那事変当時、上海事変が起こった時、一方で和平工作をしている最中、中支那方面軍(司令官松井石根大将)は上海を攻略後一気に首都南京を攻略した。上海戦で非常な苦戦をした後だったので、戦術的には一気に攻め込むのが良策かも知れぬが、戦略的にはどうだったか。マッカーサー元帥の手順は大事な手順だ。
・ワシントンでは指令電が発進された後、トルーマン大統領は元帥との会談を決心した。①元帥は14年間東洋で勤務しっぱなしで東洋に影響された考え方を維持している。会って話せば本国政府の考えに容易に順応できる筈。②中共軍の朝鮮介入という重大な危機が迫っている。元帥が本国の政策から逸脱した独走または暴走しないよう釘をさしておく必要がある、と判断。トルーマン・マッカーサー会談の発表に呼応するように、中共政府は声明を発表した。①米国の朝鮮侵略戦争は、中国の安全に深刻な脅威を与えてきた。②中国民は戦争拡大の情勢に対して、無為に手をこまねいているわけにはいかない。 国務次官補ラスクは不気味な感じを受けたと手記していた。
・10月11日、駐ソ大使カークがアチソン国務長官に電報。鴨緑江の水豊ダムは日本が朝鮮・満州の電力確保のため建設した、現在も旅順、大連その他南満州の電力は、この水豊発電所によって供給されている、この発電所は朝鮮、中共、ソ連の利益が絡む紛争の火種になる、国連による同発電所の管理は満州への供給が杜絶する恐れがある。中共は電力確保のために朝鮮に進撃する可能性が大だ、と。
・この日、金日成首相の声明を伝える平壌放送が傍受された。「全北朝鮮軍将兵および民衆に告ぐ」という声明は、米軍が38度線まで進入し、わが国は重大な危機に直面している。しかしわれわれはソ連が十月革命ののち勝利を得た実例に学ぶべきだ。全北朝鮮将兵およびパルチザン部隊は万難を排して最後の勝利まで奮闘せよ」 これはマッカーサー元帥の降伏勧告に対する拒否回答で、米国に対する宣戦を布告したにひとしい。

・外務省条約局長西村熊雄は、米国の対日講和推進の動きにあわせて日本側の対応策を策案し、首相吉田茂に提出した。A作業と呼ばれたその文書は、講和問題に関する情勢判断と米国の平和条約案の構想からなり、米政府からの直接の連絡がないため新聞報道の分析・整理によらざるを得なかったが、この日首相から帰ってきたA作業文書に直筆で容赦ない批判と論評が書きこまれていた。 情勢判断:外務省単に客観的情勢観察を主として、これに対処する考察甚だ乏し。経世家としての経綸に乏しきを遺憾とす。 領土条項:日本国籍を持つ者の利益保護につき、考える問題はないか。台湾との経済関係につき、考えるところなきや。 政治条項・軍事条項:我が国の利益上考える点、研究のこと。 総評:野党の口吻の如し。無用の議論一顧の価なし。経世家的研究につき、一段の工夫要す。 敗戦国とはいえ日本の国益と自主性を守って対処するよう考察せよ、と首相は叱咤する。 局長は手記した。「従前の全面講和を前提としての考察と結論からまだ完全に脱却しきれないでいた事務当局にとって、これは痛烈な批判でもあり、同時に、無言の激励でもあった」
・10月13日、駐オランダ大使チャピンが極秘最優先電で国務省に報告してきた。「北京駐在のオランダ代表は、中国側の信頼すべき筋から中共軍四個師団が満州国境を越えて北朝鮮に進出したとの情報を入手した」 後日判明したところによると、北朝鮮政府が前日平壌から北部国境に近い平安北道江界に疎開したのにあわせて、中共軍第四野戦司令官林彪は指揮下の四個軍に対して北朝鮮進出を下命し、四軍が鴨緑江を渡った。  だが、国務省はCIA判断にすがって、大使電を重視しなかった。  大使電の転送を受けた東京の総司令部でも、10月7日に元山を占領している米韓軍の順調な進撃ぶりで満州国境到達迄は時間の問題と予期する一方、中共軍は進出してこないものと確信していた。

・10月15日、ウェーキ島会談、大統領側、統合参謀本部議長ブラドレー大将、太平洋方面司令長官ラザフォード大将、陸軍長官ベイス、大統領特別顧問ハリマン、無任所大使ジェサップ、国務次官補ラスク、陸軍次官補補佐官ハンブレン大佐。 元帥側、民政局長ホイットニー准将、駐韓大使ムチオ、副官バンカー大佐。会議の記録はそれぞれのメモを集めて作成された、という。大統領は討議事項十二項目をタイプした紙を取り出し、第一問を発した。 朝鮮の戦後復興について:敵の組織的抵抗は感謝祭(11月23日)までに終わるものと期待している。第一騎兵師団を平壌に突進させる。クリスマスまでに第八軍を日本に帰還させたい。来年1月1日までに全朝鮮選挙を実施すべき。選挙後全兵力を撤収すべき。砲声が止んだ瞬間、軍事は民事と交代しなければならない。詳細省略。  第二問、ソ連または中共軍の朝鮮介入如何:朝鮮戦争の最初の一、二カ月間に中共が介入すれば決定的な成果を上げた、だが彼らはそのチャンスを捨てた。中共軍は空軍を持たぬが、われわれは強力な空軍を持つ。中共軍が平壌をめざせば大殺戮を受けねばならずそれを中共は知っている。 ソ連の場合は中共と事情が異なる、熟練した空軍を持ち、ソ連海軍もある、それでもわが空軍には太刀打ちできない、ソ連は北朝鮮に派出する陸軍兵力を持たず、輸送能力で時間がかかる。  第三問、日本問題、ソ連・中共抜きの対日講和はどうか:直ちに対日講和会議を招集しソ連、中国にも招待状を出し、出席しなくとも会議を進める。両国がサインしなくとも講和条約を締結する。日本には講和の資格要件が整っている。   在日米軍が撤退した場合の日本の安全保障は:すでに警察予備隊という名の日本国防軍四個師団を編成中である。国務省案は国連が担当するまで米国が代理として行動すると定めている、これで必要かつ十分だ。    日本が自衛出来るまで米軍三ないし四個師団を日本に駐留させるべきか:同意。講和後数年間に亘って日本に駐留すべき。  第四問、アジアに太平洋同盟の機構を設けるべきか:構想は素晴らしいが、現実性は乏しく、効果も期待できない、アジア諸国は政治的均質性を欠いている、各国は十分な軍事力を持たず、結局は米国が各国の安全保障を引受けることになる。
・10月17日、元山上陸作戦にそなえて永興湾の掃海(機雷除去)作業が開始された。この作業には日本掃海隊が参加した。日本では6月に海上保安庁に旧海軍軍人を集めた掃海隊が組織され、日本近海に残る米軍が投下した機雷の処理に当たっていた。米軍は日本掃海隊の出勤を要請した。占領軍米軍の指令であれば拒否できない。13隻のうち仁川沖の機雷処理は5隻が当たり残り8隻は元山であった。
・10月19日、韓国軍第一師団はありったけの火砲を動員して徹夜の砲撃が終了した夜明け、平壌に向かって攻撃前進を開始した。北朝鮮軍の抵抗は微弱で、どうやらすでに平壌を放棄している気配、「平壌は陥落した、韓国人が奪還した」 米軍側にとって思いがけぬ副産物をもたらした。戦死と認定されたディーン少将の生存が判明した。
・10月20日、平壌北方に実施される空挺作戦で、北朝鮮政府首脳と北朝鮮軍主力の退路を遮断するとともに、平壌付近に拘置されている多数の国連軍捕虜を救出する目的だった。しかし北朝鮮政府要人たちは更に北方に去り、捕虜列車もとっくに北方に退避済みであった。
・トルーマン大統領は平壌が陥落した日、記者会見をした。①ウェーキ島でマッカーサー元帥と会談した理由の一つは、対日講和問題について元帥の意見を聞くことであった。②米国は対日講和条約について正式の交渉を開始する用意がある。③米国は対日講和条約案の起草を終わっており、関係諸国に送ってその承認を求めている。
・10月20日、ニューヨークタイムズ紙は報道した。①国務長官顧問ダレスの声明によると、ソ連国連次席代表マリクは対日講和の可能性を米国と非公式に討議する用意があることを明らかにした、と。②マリクソ連次席代表は語った。ダレスから米国の対日講和条約案をソ連に提示する機会を作ってもらいたいとの要請に応じたものである。ソ連側の案はまだ提出しないつもりだ。
・10月21日、英政府の外交権威すじの対日談話をAP通信が伝えた。問題はソ連、中共が不参加でも非共産主義国だけで開くかどうかだが、大多数はあくまでやるべきだとの意向、ソ連・中共抜きの対日講和の疑問点は、日本の最大の隣国を除外した条約がどれほど意味を持つか、日本に再武装を許す米国の考えには反対、英連邦の条約案は、日本の軍隊、秘密警察、秘密結社の復活の禁止を明記している、同時に賠償要求は放棄し、日本に対する政治的管理は最小限に留めている、米国が日本に軍事基地を持つことに賛成している。
・10月22日、第八軍司令官ウォーカー中将は一般方向を新義州ー水豊ダムの線に定め、米第一軍団を左翼、韓国軍第二軍団を右翼として、北進命令を下達した。いま、金首相は抗日ゲリラ戦の根拠地に立てこもると見られるので、その入り口の清川江の到着するのが、朝鮮戦争最終戦の前提となる、両軍団は清川江南岸に到着した。韓国軍は鴨緑江一番乗りをめざし、北朝鮮軍を蹴散らし、ソ連製戦車28両と弾薬列車を捕獲、報告を受けた東京総司令部は、北朝鮮軍の組織的な軍事力の崩壊の徴候とみなし、マッカーサー元帥は全軍鴨緑江に突進せよと下命した。
・統合参謀本部は訓令で、中ソ国境には韓国軍以外の部隊は進出させてはならぬ旨を指示した。元帥命令はこの訓令に違反する。元帥は返電した。「韓国軍だけでは現在の戦況は処理できない。今回の命令は、国連軍司令官に与えられた北朝鮮軍撃滅の使命達成のための必要な措置である。これは統合参謀本部の訓令にかなったものであり、問題はすでにウェーキ島会談で討議済みである」と。
・しかし大事は発生していた。中共軍はすでに四軍が鴨緑江を越えて北朝鮮に進出している。次いで後続兵力の集中を待って攻勢に出る戦略方針をとっていた。米韓軍が清川江にせまったころ、中共軍は山岳地帯に潜んでいた。装備は素朴で、旧日本軍の三八式、九九式小銃、あるいは国府軍から奪った米国製MI、カービン小銃を主兵器にし、米袋とフトン包を背負い、耐寒用の大豆油一瓶をポケットに入れていた。中共軍は当時無階級制なので、将校も兵士も同じ制服を着用していた。戦術は奇襲・待ち伏せ戦法。総司令林彪も対日戦、対国府戦を通じてこの孫氏型戦術を遵守し、北朝鮮でもその採用を決めていた。そこで山岳地帯に展開した各部隊の行動を厳重に統制して潜伏を続けさせ、10月25日を攻撃人定めてそれ以前の国連軍との接触を禁止した。


冷戦下の日本の迷走 「対日講和の促進と朝鮮戦争特需の効果」

2021年08月23日 | 歴史を尋ねる

・昭和25年7月、顧問ダレスは失望した。強力な「ケナン覚書」を引用しながら、国務長官アチソンと会談し、長官がオーケーすれば国務省内の意見調整は完了する、と説明した。アチソンは対日講和の促進に同意し、大統領トルーマンに進言するとも応えた。だが同時に、統合参謀本部議長ブラドレーと対談した時、議長は、日本に独立を回復させればその自衛のための再軍備を拒否しきれない。だから米国のためには占領を継続した方が良い、という従来の対日講和尚早論を繰り返した。従って、朝鮮戦争が有利に片づく目途がついてから持ち出す方が良い、そのとき軍の変心も期待できる、とアチソン。
・7月22日、米軍の撤退の際、第二十四師団長ディーン少将が行方不明となり、救出作戦も失敗、この日付けで戦死と認定され、チャーチ准将が召喚され少将に昇進、師団長に就任した。北朝鮮軍は第二、第三、第四師団を戦線に投入し、主力を北西から南東方面に進ませて米韓軍を釜山に圧迫させようとしていた。さらに第六師団を投入し、西海岸を進み、韓国西南部から釜山に向かって米軍の退路を切断する任務を与えられていた。それとは知らぬ第八軍司令官ウォーカー中将は第二十四軍チャーチ少将をこれに当てた。米韓軍内部にはチャーチの開戦時の作戦指導の失態に対する批判が消えず、少将は汚名をそそぐ機会を与えられ、喜んだ。しかし、四日後に戦死した。
・7月24日、ワシントンで米国側は統合参謀本部議長ブラドレー大将、英国側は米英連合参謀本部英代表テッダー空軍元帥、駐米大使らが出席した米英情勢判断会議が開催され、意見調整が図られたが、対日講和問題は突っ込んだ議論となり、ブラドレー大将は軍の立場は国務省の政策に密着していると発言、変身した気配が感得された。無任所大使ジェサップはアチソンに報告、即座に反応して、トルーマン大統領と協議した。大統領は国務省主導の対日講和にゴーサインを出した。
・7月26日、ウォーカー中将は幕僚にも知らさず、東京の総司令部参謀長アーモンド少将に電話し、第八軍司令部を釜山に後退させたい、と。少将は仰天し元帥に報告、元帥は、中将は日本に引き揚げると入っていない、まかせて良いのではないか、と述べ、少将が懇請を重ねて翌日の大邱行きを承知した。翌日大邱に到着した元帥は中将と会談、元帥はアーモンド少将の要望した説得は試みず、中将の詳細な説明を聞くと、その決心と措置を承認、会談を終えると記者会見を行い、自分は生涯を通じて、終局の勝利についてこれほど自信を持ったことはない、朝鮮からの撤退はあり得ない、朝鮮のダンケルクはない、と。

・7月27日、ワシントンでは国務省政策企画部は、「日本の内外の安全保障に関する同国自身の責任の拡大について」という覚書を、長官アチソンに届けた。日本の自衛問題についての「ダレス覚書」「ケナン覚書」に対する政策企画部の所見である。覚書はいう。当部の日本再軍備に対する基本思考は、1948年3月25日の国連安全保障委員会の決定を基礎にしている。朝鮮の紛争と半島の将来の不確実性は、日本列島防衛のための日本軍創設の方向に向かうことを不可避にしている。将来日本にポツダム宣言または米国の対日占領政策に反する事態が発生しても、それは日本人をふくむすべての善意ある人々が招来したものではないことを、認識せねばならない。ゆえに、日本に自衛の為の特別な措置を取るのは、正当だと判断できる。ただしダレス覚書には批判的であった。要するによく判らない。一応はダレス覚書の趣旨に沿って日本の再武装に賛同しているようだが、実際には国内治安力といって警察だけを意味して、海軍は数隻の中古駆逐艦の貸与に留める、しかも米海軍の一部にすべきだ、おまけに立案の責任を北東アジア課にうつせ、と。顧問ダレスは手記している。「38度線覚書といい日本再軍備覚書といい、政策企画部は前部長ケナンが去って以来無責任部署に成り下り邪魔な存在となった」と。
・7月29日、韓国の戦況が悪化した。大田から大邱を目指す北朝鮮軍に対して、米軍は第一騎兵師団を金泉の西方、第二十五師団を金泉北方に配置していたが、いずれも後退し、二十五師団は退却命令を発出した。司令官ウォーカー中将は、憤然として前線にジープを走らせ、第一騎兵師団長ゲイ少将を叱咤し、これ以上の後退は許さぬと厳命した。二十五師団長キーン少将に退却命令を撤回させ、師団幕僚全員を集め、増援部隊が急派中であり、時間を得るため現戦線を維持せねばならない。われわれは戦う。チームとして戦う。一人が死ぬなら全員が死ぬまで戦おう。最後まで戦わねばならない。捕虜になるのは、死よりも悪いことである。生きて虜囚の辱めをうくる勿れ、という旧日本軍の先陣訓そのままの訓示であった。スタンド・オア・ダイを命令したものとして報道され、非民主的で狂信的であると批判された。それを知ったマッカーサー元帥は、軍隊に民主主義はないと論評し、ウォーカー中将を支持した。
・同じ日、吉田首相は参議院外務委員会で、義勇兵・基地問題について答弁した。義勇兵問題については、日本は太平洋戦争で戦った国々から、いつやって来るかもしれないという疑いの目で眺められる。従って政府としては取り上げたくないというのが私の考え。基地貸与問題については、私は貸したくないと考えている。戦争放棄の憲法をこしらえることを希望した連合国も日本が戦争に巻き込まれる恐れがある軍事基地問題は提起しないのが常識だろう。(うーむ、この辺の言いまわしは上手だ) 新聞が云う横須賀などについての基地要求に関する交渉は、一度も受けていない、と。米国のマスコミは首相の親ソ寄り変心と見做した。しかし総司令部外交局長シーボルトは首相の親米心に揺るぎがないと観察した。朝鮮戦争は在日米軍基地の必要を改めて明らかにした。極東全域の安全保障にとって、決定的要素であることを立証した。首相の答弁は個人的見解にとどめ、交渉に応じないとは言っていない。一方で野党の攻撃をかわし、他方で将来の取引の基礎作りを試みた、と判断した。(戦後のしたたかな外交は吉田に発するのか)
・7月31日、韓国の西南部戦線の要地・晋州が陥落した。中将は敵が新兵力の第六師団であることが分かると、抵抗は血の浪費になる、基本戦略を洛東江防御線での抵抗に変更し、あっさりと「スタンド・オア・ダイ」の決心を変更し、指揮下の全部隊に急速後退するよう下命、この措置についてマッカーサー元帥に報告した。
・だが、元帥は東京にはいなかった。元帥は第七艦隊司令官ストルーブル中将と台湾に飛んだ。目的は、中共の台湾進攻の脅威にかんがみ、蒋介石総統と会談して台湾の内外自衛能力を確かめ、併せて米国の援助の規模を検討するためであった。ところが、翌日マッカーサー元帥の声明をAP電は報道した。蒋介石総統も声明を発表した。米台共同防衛が協定されたにひとしかった。
・国務長官アチソンを驚かせ、憤慨させた。米国の台湾政策は、第七艦隊に台湾海峡を管制させて中共と台湾とを共に「侵さず侵させず」の関係に置き、中共を刺激しないよう、米国は台湾援助も控えるというものだった。この方針は国防総省も諒解し、マッカーサー元帥の訪台希望も抑えられてきた。それなのに、元帥は無断で台湾を訪れ、しかも台湾中立化という国策に反する軍事援助を蒋介石総統に約束するとは。
・実は、台湾防衛に関して統合参謀本部は覚書を国防長官宛てに提出、国防長官は意見を添えて国務長官アチソンに送付した、貴職が同意するなら、本職は大統領の承認を求めたい、と。元帥は勧告が承認されることを予期していたものと推察できる。だが、アチソンは統合参謀本部の勧告に同意しなかった。アチソンは回答した、第七艦隊に台湾中立化の能力があると判断したから、6月27日の大統領声明発表に至った。しかし第七艦隊にその能力がないとなれば、三案があるが、外交的見地からは第七艦隊の増強が適当である。問題の緊急性は理解するが、大統領に会う前に本職と協議する機会を得ることが有益だ、と。
・結局、トルーマン大統領、アチソン国務長官、ジョンソン国防長官が協議し、元帥の軍事的行動の範囲を明確にする注意指令を発すること、元帥の真意を確かめるため大統領特使ハリマンを急派することが決まった。
・8月6日、ハリマンが来日した。元帥はハリマンに述べた。日本人の資質はすぐれ、勤労を尊ぶ精神が強い。日本に対する共産主義の浸透は心配する必要はない。日本人は米軍の苦戦に動揺していない、奇襲を受けたためだと知っているから、と。ハリマンは、大統領の朝鮮問題の決断の英知に疑問をもっているか、と。元帥はいささかの疑いもない、大統領の6月27日の声明は素晴らしかった、世界を共産主義支配から救う決断として歴史に記録されるあろう、自分としては最大限三万ないし四万人の国連軍が欲しい、重装備でなく、小火器だけの一個大隊単位でよい、李承晩大統領がソウルに帰還すれば、二カ月以内に総選挙が実施され、北朝鮮を含む統一韓国が実現するだろう、と。
・マッカーサー・ハリマン第二次会談が始まった。(ハ)大統領は世界戦争に引きずり込む中共との戦争を蒋介石に起こさせる訳にはいかないと考えているとの言葉に、元帥は即座に自分は大統領のいかなる命令にも従う、自分は蒋介石と軍事問題だけを話し合った。(ハ)米国はどこまで蒋介石を助けるべきかとの質問に、われわれは共産主義と戦う者は誰でも援助すべき。(ハ)米国は台湾を中共に奪われないために国連を媒体とする独立国にするのが最善策、蒋介石は台湾を大陸帰還の踏む台にする野望に燃えているというと、その蒋介石の野望は実現すまいと元帥は即応。詳細省略
・8月8日、前日特使は韓国大邱に飛んで第八軍司令官・韓国要人と会談、今日特使はマッカーサー元帥と第三次会談を終え、羽田から帰国した。
・8月9日、ハリマンはとるマン大統領に訪日報告を行った。「マッカーサーは、われわれの中国本土に対する行動が世界全体および極東にどのような困難をもたらすかを、認識していないようだ。彼は大統領の立場に沿って行動するというが、完全に本気ではないように思われた。だが、大統領は、自分は軍人として大統領に服従するという元帥の言明に満足し、朝鮮での攻撃作戦案も承認した。

・この頃、日本経済は好況を迎えていた。国務省北東アジア課は日本の自活という報告書をまとめた。朝鮮戦争と西側諸国の軍備増強は日本経済に好影響を与え、今後数年間の繁栄を予想させる。その原因として、①アジアの原料生産国の外貨の増大(マレー、インドネシアだけで年間2~3億ドルの外貨を獲得)、②日本はこれらの地域に対する輸出によってドルを入手できる(ふーむ、先の為替レートの統一が効果的であったか)、欧米の輸出力の減少(軍備拡張によって輸出と国内消費が減るので、日本の輸出が拡大できる)、朝鮮戦争による利益(在韓米軍から日本の各種業者との買入契約は会計年度(~1951,7)内に2~3億ドルに達する)
・8月13日、朝日新聞は報道した。①国際情勢の緊迫による各国の軍需品買付、生活品買い溜めから世界的に輸入が盛んになってきている。②日本の輸出は上半期で年間目標の半分を超え、輸入も大幅に上回っている。世界の貿易情勢は、買手市場から売手市場に変わった。日本も、まず買ってそれから売る輸入第一主義をとらねばならぬ、と。日本は経済的にはもう国際舞台に登場している、政治的にも日本の評価は向上した、と。
・8月14日、ニューヨークタイムズ紙は社説「太平洋戦争記念日」で論述。五年前の今日、太平洋に真の平和が到来したと心から信じた。だが、その後の五年間は戦いの五年間であり、いまや米国だけでなく国連53か国を引きずり込んだ戦いがクライマックスに達している。民主統一国家が実現するはずだった中国が奴隷化され、朝鮮も統一が阻まれ、われわれはその自由のために戦っている。日本だけがちがう。野蛮で執念深い敵と知られていた日本について、占領の成功に危惧を抱いたが、予想以上の成功をおさめた。新生日本はなお課題が多いが、極めて重要な基礎工事は完了し、民主国家の骨組みは出来上がった、と。対日講和の早期成立をうながす主張でもあった、と児島襄氏。
・8月16日、突然のように、UP通信が対日講和促進のニュースが流れた。実際は未熟のニュースにとどまった。じつは、国務長官顧問ダレスがこれまでの対日講和条約草案を簡略化した新草案を作成した。前文と①平和、②主権、③国連、④領土、⑤安全保障、⑥政治、⑦補償、⑧紛争処理、⑨効力の九章にわかれ、全21カ条であった。

・38度線を境界にする二つの朝鮮状態を確立するのは、まず北朝鮮軍に将来の侵略再興を防止できる程度の痛打を与えて韓国から追放するのが先決である。だが、韓国東南隅に押し付けられた米韓軍はこのままでは来援部隊が到着する前に追い落とされかねない。時間と戦勢の挽回が必要だが、それを実現させる方策はあるのか。ある、というのがマッカーサー元帥の確信であった。仁川上陸作戦であった。元帥のよれば、ソウル陥落直後に水原を訪れた時、天啓のようにその着想を得た、と。統合参謀本部に作戦案を提出したのは7月23日であった。
・仁川を占領すれば、北朝鮮軍の補給路を切断し、南から北上する第八軍主力と呼応して北朝鮮軍を38度線以南で包囲できる。情報によれば北朝鮮軍の仁川配備は手薄であり、奇襲成功の可能性は大きい。韓国の首都ソウルが奪回されれば、勝利への決定的補償になる。しかし、統合参謀本部はこの案に反対だった。
・8月23日、東京総司令部会議室で三軍(陸海空)首脳とマッカーサー元帥との会議が開かれた。総司令部作戦部長の基本説明の後、海軍はどんな作戦でも出来ないとは言えないが、しかし仁川上陸作戦はやめてほしい、と。元帥は、仁川に上陸してソウルを奪回するのが急務、仁川は上陸が困難だから作戦は成功する。海軍は第二次大戦でもっと困難な上陸作戦を成功させた。仁川に上陸すれば、敵の後方を遮断し、洛東江から反撃する第八軍のハンマーを受ける鉄床を形成できる。「諸君、私は仁川に上陸する。そして、敵を撃破する」 これに対して三軍首脳は誰も発言しなかった。
・8月25日、統合参謀本部議長ブラドレー大将は三人の使者の訪日の報告を聞いて考え込んだ。三人とも仁川上陸作戦に積極的に賛意を示さず、かつマッカーサー元帥の説得にも失敗した旨を告げた。作戦は構想として大胆かつ卓抜であり、成功すれば大戦果を挙げ、朝鮮戦争の局面を一変させる期待が持てる。ただしリスクも大きく、それは避けたい。その夜元帥がまたしても台湾問題に関する舌禍事件を起こした。
・詳細は省略するが、最終的にトルーマン大統領がマッカーサー元帥の対外戦争従軍在郷軍人全国大会へ声明撤回を命令し、声明撤回通知した旨のマッカーサー元帥の返電が届き、問題は解決された。(ここでは国務長官アチソンが、なにかと外交政策に口出しする元帥の態度は文民統制の秩序を乱すもの、ここで軍側に譲歩するのは米国民主主義の崩壊につながるとして、不退転の決意で大統領に具申、声明撤回につながった事件)
・8月28日、マッカーサー元帥は声明撤回電を発進して間もなく、統合参謀本部電を受理した。歯切れが悪いが、仁川上陸作戦の認可であった。元帥は極東海軍司令官ジョイ中将に「私も仁川上陸が五千対一の賭けであることは承知している。しかし私はやるよ。これまでもこの種の賭けはやってきたからね」

・8月30日、仁川上陸作戦と並行する形で、対日講和問題も進展していた。外務省条約局長西村熊雄は、国連協会全国大会で、①朝鮮事変で講和条約締結の時期が早まり、年内にできるのではないか。②朝鮮事変でソ連を加えることは出来ないことがはっきりしたので、英米と講和を結ぶほかない。③米国は日本の安全保障のためには周囲の島に基地をおく方針であったが、最近の世界情勢から本土に基地をおくべきだと考え出した。
・この西村局長の発言は、直接に米政府の意向を承知したものではない。主に新聞報道の分析のもとづく推理であったが、米国側が対日講和促進に動き出しているとの状況判断は的確であった。
・顧問ダレスは8月17日、トルーマン大統領に会って対日講和促進の必要を説き、大統領も賛同した。だが、軍の早期講和反対論が容易に解決しないと踏んでいたが、ダレスの予想は外れ、軍はダレス草案に好意的反応を示した。統合参謀本部は、従来のソ連、中共抜きの対日講和条約締結に対する反対を撤回する、と。要するに、これまでの全面講和が出来なければ占領継続の考え方を捨て、国務省側の単独講和方針に同調する、と。
・国務省北東アジア課長アリソンはブラドレー覚書の完全受け入れをアチソン長官に具申するとともに、国防長官宛て書簡案を提出、アチソンは直ちに著名して、国防長官に届けた。国防長官はアチソンに電話し、緊急性に鑑み、最至急に両者の完全な合意を成就すべく直ちに双方の主務者の協議を開始すべき、と。以上が8月末までの対日講和に関するワシントンの動きであった。
・朝鮮戦争特需が日本経済を潤し始めたことは既述したが、この時期にその傾向は一層顕著になった。米軍側による物資の買付は、物によって滞貨が一掃された上に増産される好況が現出する半面、品不足を見込んでの業者の思惑買いも誘って物価を押し上げることにもなった。日銀の発表によれば、8月の消費者物価指数の上昇ぶりはとくに激しく、絹糸25%、メイセン55%、キャラコ47%と繊維品が大幅に値上がりし、米も6、7%上がり、昭和21年3月以来の最高謄貴率を記録した。輸出も拡大したが、特に注目されるのが輸出品に対する海外のクレームであった。通産省の調べでは、戦後の貿易再開からこの8月までに、クレームは829件。うち414件が米国向け輸出品であった。その他英国、カナダ、さらにはアジア諸国からのクレームを含め、その原因のトップは品質不良、つづいて内容相違、積荷不足、納期の遅れ、価格相違などであった。安かろう悪かろうの戦前の日本品の評価が持続されて、通産省通商通知課は警告を発した。「クレームの大部分は生産者の不注意や不正によるものと見られるが、結局は日本商品の信用を落とし、今後の輸出契約に大きな不利を招く」と。日本産業界に衝撃を与えた。特需は、海外輸出の経験がなかった業者にもその門戸を開放することになったが、いざ参入してみると、国際的に通用する技術水準、規格、品質、商慣行などあらゆる面で日本の遅れを痛感させられた。これまで日本では、精密機械も含めて、多くの製品については規格も納期も多少の相違は大目に見られがちであったが、契約社会である先進国では、一センチと決めたら一ミリの誤差も許さず、定めた納期は一日の遅延も認めない。日本側としてはカルチュアショックに見舞われた感じであるが、日本の復興と自立は貿易に懸かっている。産業界は品質と商業道徳の向上を目指して努力することになり、やがて日本製品の国際社会への進出と日本の繁栄をもたらすことになった、と児島襄氏。その意味で朝鮮戦争特需は日本にとっては量だけでなく質の特需でもあり、むしろそれが最大の恩恵であったとも見做せる、と。

・8月下旬、地図上では、米軍は朝鮮半島南東隅の釜山橋頭堡に押し込められている。だが米韓軍総兵力は25万人に達し、補給物資も日本から無限に釜山に流れ込み、制空、制海権も確保していた。これに対して、釜山橋頭堡を包囲した北朝鮮軍の兵力は9万8千人。この兵力を二分して北側と西側に配置し、補給難に苦しんだ。
・仁川上陸作戦の準備も急ピッチ、作戦の主役を務める第一海兵師団長スミス少将の頭を悩ましたのはハシゴであった。岸壁の高さをハシゴで越えなければならない。その調達、軽くて頑丈なものが要求され、適切なのはアルミ製のハシゴであった。大阪の日本アルミ株式会社が唯一のアルミ製ハシゴ業者。5,2メートルのハシゴ60台を納期10日間と指定された。
・9月3日、台風ジェーンが日本を襲った。神戸港に停泊していた輸送船三隻と上陸用舟艇一隻が中小破し、ハシゴ潜像中の工場の屋根が吹っ飛んだ。
・9月4日、国務省北東アジア課長はアチソンに対日講和に関する覚書を提出した。陸軍長官特別補佐官マグルーダー少将との作業の成果だった。6項目の対日講和の基本内容;①国連:日本の国連加盟を支持する。 ②領土:朝鮮の独立、マリアナ・カロリン・マーシャル群島を米国の戦略的信託統治、琉球列島・小笠原諸島・南鳥島を米国の戦略的管理、台湾・澎湖島・南樺太・千島列島に関する請求権の放棄、中国に関するすべての権利と権益の放棄。 ③安全保障:日本の安全に関して国連の責任またはほかの手立てが確立するまで、以下の措置。日本の要請により、在日米軍の駐留およびその施設の使用の協定を結ぶ。 ④政治条項:国際条約への再加入が認められ、商業条約の締結も最恵国待遇が期待できる。 ⑤戦後補償:締結国は戦時補償要求を放棄する。 ⑥異議の処理:安全保障以外の講和条約についての異議は国際司法裁判所の処理に委ねられる。
・ほかの手立てが確立までとは、日本に適切な自衛軍が存在するようになった場合は米軍が撤退すると意味で挿入させた、と。この点が陸軍との争点となった。統合参謀本部は米国の攻防のために日本の再軍備の容認を対日講和の焦点に置き、その旨を講和条約の明記するよう主張、国務省側は諸国の反発を招く、日本の憲法改正が必須で日本国内の反対が予期される。出来るだけ多数国が参加する対日講和の成立が最優先事項である、日本再軍備が不可欠だとしてもそれは講和後に日本の発議による日米協定で処理できる、とアリソン課長は説き、少将も同意した。夏季休暇から帰ったダレスもアリソン覚書に賛同し、9月6日、長官アチソンも同意を表明した。
・9月7日、アチソンは国防長官に対日講和スケジュールを提案した。①外交ルートを通じて極東委員会諸国と秘密予備交渉を開始する。 ②友好国との会談終了後、政府代表を日本に派遣し、マッカーサー元帥の協力を得て、日本政府と条約草案を討議し、かつ日本のすべての非共産主義勢力も同意できる講和条約締結の手続き方法を探求する。 また、その他手続き面を定めた。
・9月8日、国防長官ジョンソンは共同勧告書に署名し、大統領トルーマンに届けた。大統領は直ちに承認と書き込み署名した。対日講和のゴー・サインだった。

 


冷戦下の日本の迷走 「朝鮮動乱と対日講和構想の推進とケナン覚書」

2021年08月15日 | 歴史を尋ねる

・昭和25年6月25日(日本時間26日)午後2時、米国の緊急要請にもとづく国連安全保障理事会が開かれた。決議は、①北朝鮮の韓国に対する武力攻撃は平和に対する侵害である。②当理事会は、敵対行為の即時停止ならびに北朝鮮当局が韓国内の武装兵力を38度線以北に徹底させることを要求する。安保理事国は、米、英、仏、ソ連、中華民国、キューバ、エクアドル、エジプト、ノルウェー、インド、ユーゴの11か国。ソ連、ユーゴを除く九か国が決議に賛成。ソ連は6カ月前から中共承認に伴って中華民国が出席する国連組織への不参加を表明し、この日も欠席した。
・国務長官特別補佐官・調査情報局長アームストロングは緊急呼集されて登庁したら、机上にはすでに情勢判断作成指示のメモがあり、紛争の主役も行方がどうなるかも情報が皆無の中、過去の情報に頼って「情勢判断」を作成。、午後四時国務次官補ラスクに提出。 戦局の判断:北朝鮮の韓国侵略の目的は、朝鮮半島の完全支配である、韓国軍は装備も弾薬も不足しているので、ソウルは陥落、韓国民の士気も崩壊する、米国が航空機、火砲その他の緊急に必要な軍事援助を与えれば韓国軍民の抵抗意志は強化される。 ソ連の意図:北朝鮮政府はソ連政府の統制下にある、北朝鮮人がモスクワの事前の指示なしに共同する可能性は絶無。北朝鮮の行動はソ連の行動と見做すべき。ソ連は北朝鮮の成功により、アジア諸国の反米親ソ感を強化する、韓国・米国のアジア突出部の消滅によりソ連極東地域・中共の安全を確保する。 他地域への影響:米国が韓国で速やかな行動をとらなければ、日本人の中立志向が強化され、米国の対韓援助の失敗は日本人の危機感と米国の対日安全保障に対する不信感を増大させる。北朝鮮の韓国侵略が日本の将来の運命を示唆し、ソ連のアジア侵略政策のあらわれであることを承知している。ゆえに米国の素早い積極的な行動は、日本人に米国の保護を求める気持ちを強めさせる。 中華民国:台湾の国民政府にとって、第三次大戦の勃発こそ生き残りの願望である。北朝鮮軍の撃破に成功すれば、中華民国の反共抵抗意欲は強化される。 中共:①米国が韓国を放棄する場合、台湾進攻作戦を実施するだろう。②米国が朝鮮に介入した場合、極東における中共のリーダーシップが失われるとの危惧を持つ。 東南アジア:米国が韓国を見捨てれば米国に対する信頼が失われ、国際機関としての国連にも希望を失う。アームストロングは後に記す、「朝鮮半島の事態がどう進展するか分からない。だが、北朝鮮側が勝てばソ連は同様の衛星国戦争を世界中で行い、わずか五年前に終わった大戦争以上の戦災が地球を襲うことは確実だ。われわれの情勢判断は、とにかく北朝鮮をストップさせなければならない、それを結論としたもので、当時それ以外のことは考えられなかった、と。ふーむ、ちょっと長い引用であるが、当時の国務省に視野は360度に開かれている。そして当事者でない日本に相当の配慮をしている。
・大統領トルーマンは考えた、北朝鮮の韓国進攻はかってのヒトラーのオーストリア併合、日本の満州進出、イタリアのエチオピア占領にひとしく、侵略行為である。この侵略を許せば、共産主義の手はアジア全土におよび第三次世界大戦を誘発する。国連の基礎と原則の崩壊にほかならず、世界のために何としても韓国を支援し守らねばならぬ、と。
(朝鮮半島の発火が北朝鮮の独自の冒険か、それともソ連の世界戦略の一部なのかの問題がアメリカにとってまた重要であったが、のちにフルシチョフ回想録で、金日成はスターリンを訪ずね、北朝鮮の銃剣の最初の一突きで南朝鮮の内部に爆発が起こり、人民の力が勝利を得ると説明、スターリンの許可を取ったことは既述した。また、日本にとってこの戦争は南北どちらが仕掛けた戦争か、当時の教科書まで不明で、不問に付してきた。日本の識者・野党がプロパガンダに弱い人たちだった)
・午後8時大統領宿舎の首脳が集まり会議、一同の発言が終わると命令を発した。 ①マッカーサー元帥は軍事援助を韓国に送る、②元帥は軍事視察団を韓国に派出する、③艦隊兵力を日本海域に派遣する、④空軍は極東の全ソ連空軍基地を一掃する計画を用意する、⑤ソ連の次の目標地に関する予測を行う。さらに、われわれはすべて国連のために行動すべき、国務省は議会に報告する声明を用意してほしい、まだマッカーサー元帥を朝鮮司令官に任命するつもりはない、行動範囲は韓国に限定し同胞の引揚げに万全を尽くせ。
・6月26日、韓国海上保安隊が国外への密航者は発見次第射殺する命令を発した。
・吉田首相宛てのマッカーサー元帥書簡、「アカハタ」の30日間発行停止の指令。
・6月27日、午後10時、李大統領はマッカーサー元帥に電話連絡、ホイットニー准将は元帥は就寝ずみだと応えると、大統領は「オーケー、元帥が起床したら伝言して貰いたい、諸君が早くわれわれを援けないなら、韓国にいる米国人全員を殺すことになる、と」
・韓国軍首脳会議が開かれた。 判断:米軍の直接援助がない限り事態は絶望的。 判決:韓国軍は実質的に崩壊した。政府および軍司令部は至急ソウル離脱が必要。そのあと、李大統領は駐米大使に電話、韓国が完全な破滅が近づいている、トルーマン大統領に緊急に支持を要請せよ。
・顧問ダレス一行は離日した。離日声明は、ダレスは連日マッカーサー元帥にと連日会談出来て、十分満足いく意見の交換ができた。また多くの日本人からも意見を聞いた。これらはすべて今後の米国の政策を立案するうえで考慮される。朝鮮で起こった悲劇的事件はわれわれの念頭の第一次的位置を占める。共産主義指導者がその暴力を実行し、軍事的侵略を行い、公然と国連を無視している。この事実も、政策に反映させねばならない、と。
・総司令部外交局長は国務長官アチソンに急電した。日本に広まっている講和待望の雰囲気に格別の理解を示し、一刻も浪費せずに日本の将来に関する米国の確固かつダイナミックな立場をとることが最緊要事だ、と。朝鮮動乱を対日講和の促進剤にせよ、との意味も込められた。だが、朝鮮の事態は悪化するばかりだった。

・6月28日午前1時、ドシャ降りの雨の中を、戦車10両を含む北朝鮮軍がソウルに進入してきた。敵戦車出現の報告を受けた陸軍参謀総長は工兵大佐に下命、「漢江に向かい、漢江橋を爆破せよ」 漢江橋の爆破は北朝鮮軍のソウル以南への進撃を阻止することになるが、同時にソウルの孤立化、ソウルの放棄になる。橋は次々と爆破されたが、五十両の車が落ちると避難民も爆風ではね飛ばされた。爆破で死亡、行方不明者は五百人とも千人とも云われた。
・午前11時30分ソウル陥落。この間、韓国軍の損害は、約4万4千人(うち戦列離脱者2万3千人)、北朝鮮側は数字を明らかにした、損害1500人、戦車4~8両。北朝鮮側の大勝利で、首都が陥落した以上は対韓国戦のめどはついたとの楽観ムードが北朝鮮軍の間にみなぎった。
・大統領トルーマンは首脳会議の決定に沿って命令を発出。①海空軍の出勤、②台湾防衛のための第七艦隊の派出、③フィリピン米軍の増強、④インドシナに対する軍事援助の促進と軍事顧問団の派遣。
・6月29日、マッカーサー元帥は随行者と共に韓国水原に向かった。李承晩大統領らが出迎え、韓国軍陸軍本部で戦況説明を受けた。元帥は席を立ち、前線視察に向かった。途中で韓国軍将兵たちとすれ違ったが、戦闘の象徴である負傷者は見当たらず、兵たちの様子は投げやりな不規律を漂わせた。一行はその日の夜、羽田に帰着した。
・訪日旅行から帰着した顧問ダレスは長官アチソンに朝鮮事情を提出、北朝鮮軍の奇襲の成功をさそった主因は、北朝鮮軍は十分な軍用機、戦車、重火器を準備したが、韓国軍は米国の決定により、これらの装備を欠いていた。北緯38度線沿いに数週間前から北朝鮮軍の大部隊と戦車軍の集結が探知されたが、米国および韓国軍は威力偵察以上の行動をとるまいという固定観念にとらわれていた。北朝鮮軍の攻撃は米国側の油断によって招来された。断固たる措置で素早く消化して対日講和を含む極東政策を推進すべきである、今ならそれが出来る、と。
・午後6時統合参謀本部はマッカーサー元帥宛ての指令を送ったが、午後11時、マッカーサー元帥の緊急電が統合参謀本部および国務省に届いた。①韓国前線を視察した、②韓国軍は混乱し、真剣に戦わず、リーダーシップが欠如している、③このまま北朝鮮軍の進撃がつづけば、韓国が崩壊の脅威にみまわれる、現戦線の維持ならびに失地回復の唯一の保障手段は、米軍地上戦闘部隊の投入以外にはない。地上兵力抜きの海空軍の活用からは、決定的効果は生れない。もし許可されれば直ちに日本から一個戦闘連隊を最緊要地点に派出し、二個師団による早期反攻のための橋頭堡を確立する、と。
・これまでの韓国動乱の制圧方針は、マッカーサー元帥の韓国軍の防衛力の保証と海上封鎖および空襲で北朝鮮を押し返せるとの自信とソ連は出てこないという情勢判断に立脚している。従って統合参謀本部は陸上部隊の使用を制限した。ところが参謀本部指令を受け取った数時間後に、一転して第三次世界大戦の引き金になりかねない陸上戦闘部隊の投入を強行に主張してきた。
・午前9時30分、トルーマン大統領は緊急会議を開き、マッカーサー元帥の勧告を受け入れ、決定した。①一個戦闘連隊ならびに必要な陸上兵力を韓国戦線に投入する。②北朝鮮に対する海上封鎖を実施する。
・7月3日、議会の一部では、大統領の朝鮮戦線に対する海空軍ならびに限定された陸軍兵力の投入決定は、議会の事前了解なしの越権行為だとの声が上がった。この日、大統領は緊急首脳会議(14名の参席者)を開き、議会に詳細な説明と支持を求める教書を発表する草案を用意して一同の意見を聞いた。
・7月4日、ソ連外務次官グロムイコは声明を発表、①今回の朝鮮動乱は、米国に使嗾(しそう)された韓国軍の挑戦によるものである。②米国は6月27日の国連安保理の決議の前に武力行動を行って朝鮮人民に戦争を仕掛け、朝鮮と中共・中国に直接的侵略を行っている。③国連は、米軍の軍事的干渉の無条件停止と即時撤兵を要求し、平和維持の責務を果たすべきである。
・7月5日、国務長官アチソンはグロムイコ声明に反発し、安保理は韓国が一方的に侵略されたというはっきりした証拠に基づいて、韓国援助を決定した、と。記者たちの関心の焦点は、ソ連の朝鮮への介入の意思表示かどうか、第三次世界大戦を決意したかどうかだった。アチソンは何ともいえないと答弁した。
・7月7日、安保理は韓国援助のために米軍を主体とする国連軍を編成し、その指揮官に米国人将官をあてる旨を決議した。それを知った顧問ダレスは、国連軍司令官の任務は軍事面の外に政治面にも重点が置かれる、ゆえに軍政両面の経験を積んでいるマッカーサー元帥が最適任者であると、勧告した。アチソンはトルーマンに相談し、大統領はマッカーサー元帥の国連軍司令官任命を承認し、あわせて米軍総兵力を137万人から246万人に増強する徴兵法の発動を決定した。国連事務総長リーは速やかな決断に感謝するとともに、国連旗をマッカーサー元帥の指令部に翻していただきたいと米国代表に手渡した。
・マッカーサー元帥のは吉田首相に書簡を送り、75千人の警察予備隊の創設と海上保安庁の8千人の増員を指令した。官房長官岡崎勝男は、警察予備隊が国家警察、自治体警察の枠外と説明、朝鮮動乱に刺激されて発生しかねない内乱にそなえる措置だいうのであった。
・7月9日、統合参謀本部にマッカーサー元帥の作戦緊急電が到着した。①戦況は危機的である、②現在のところ、北朝鮮軍の戦車・機械化部隊に対して無力である。敵戦車の能力は一流で、歩兵も第一級である、③ソ連軍の指導と技術的指導を受け、中共軍部隊の援助下にあることは明らか、④敵は10対1の優勢である。このままでは韓国南端の保持も難しい、⑤ゆえに、新たに各種付属部隊を伴う四個師団からなる一軍とあらゆる輸送手段を派出したい。 情勢は全面的作戦の段階に発展した、と。
・統合参謀本部首脳たちは眉をひそめたが、一同は協議を重ねた。参謀本部議長ブラドレー大将は、対ソ戦を考えれば朝鮮は捨てるべきだ、その危険をさそうマッカーサー元帥の増兵要求には歯止めをかけるべきだと覚書を提出した。しかし、上院外交委員会のジョージ議員は「遅かれ早かれ朝鮮には、結局十万の兵力を投入しなければならない。そして勝利は、冬の末か来春の初めになるだろう」との発言をUP通信は伝えた。元帥がいう四個師団は十万人に相当する。軍部筋および上院議員の発言には揺るぎない自信が感じ取れた。

・国務省では、総司令部シーボルト外交局長の献言に応じて、北東アジア課長アリソンと極東委員会代表ハミルトンを主務者にして、対日講和推進の立案がすすめられた。二人は「対日講和条約の手続きの概要」をダレス顧問に提出した。内容は対日講和スケジュール表であった。 〈第一段階〉(7月20日までに達成) 安全保障条項ならびに中共参加問題を含む手続き問題(講和の基本原則、台湾の処理、在日外国資産の損害補償等)に関して国務省内の合意を成立させる。 〈第二段階〉(8月10日までに達成) 国防総省との間に、安全保障条項、国連事項、台湾および千島列島などを協議し出来れば同意を取り付ける。 〈第三段階〉(8月15日までに達成) 対日講和条約草案ならびに講和条約締結スケジュールを確定し、国防総省と協議の上、国家安全保障委員会に提出する。 〈第四段階〉(8月20日までに達成) 草案を英政府に通報する。 〈第五段階〉(9月1日までに達成) 極東委員会の非共産諸国に草案の主要部分を通知、直後に米政府声明を発表する。米国は来年一月に対日講和予備会議の開催を提唱する。 〈第六段階〉(1951年1月までに達成)対日講和予備会議を招集する。 〈第七段階〉(未定)対日講和会議を東京で開催する。 米国の対日講和政策の焦点は安全保障問題。この問題は①日本を米国の脅威にさせない米国のための安全保障、②日本を共産陣営のから守る日本のための安全保障、という二つの側面がある。①についての米国の施策は、国家権力の制限と軍備放棄を規定した日本国憲法に現れているが、②について軍と国務省との論争になっている。米国のための安全保障と日本のための安全保障を合一させる策案が発見できないために草案作成が出来ないで来た。北東課長アリソンは私案をダレスに提示した。詳細は省略するが、米国のための安全保障としては、米国は独占的に日本に基地を保持して実質的に保障占領を続け、併せて日本の防衛を担当する。一方、日本は日本のための安全保障を米国に委ねる代わりに、米軍基地の施設費をまかなう、というものであった。このアイデアはこれまでも国務省が主張した構想に近く、日米間に双務的、合理的なものと考えられた。だが、国際関係においては、米国が日本は米国のものにするためのものだとみなされかねない。アリソンはダレスに慎重な検討と修正を願う、と覚書に付記した。
・7月11日、吉田首相は内閣記者団と会見した。朝鮮事件で国内の人心に動揺があると見られるがどう思うかとの最初の質問に、吉田は日本国民が動揺する理由がない。日本の態度は決まっていると思う。平和国家であり、平和のために努力する日本である。しかし貧乏である。このような国にドロボウが入れば逮捕されるだけだ、と。朝鮮動乱に対する政府の態度はどうか、国連に対する協力の内容は何か、との質問に、協力したいといっても、占領下では積極的には何もできない。しかし軍事輸送に協力するとか、米軍の通過を妨害する者があれば取締るとか、消極的な協力は出来る。国民の気持ちとしてはあくまで平和推進、平和運動協力を考えてほしい、と。朝鮮問題が日本経済に及ぼす影響はどうかとの質問に、吉田首相は笑顔を見せ、良い影響を及ぼすのではないかとおもっている、と。

・7月19日、韓国大田では北朝鮮軍の本格的攻撃が開始された。北朝鮮軍の戦術は定型的であった。「どのような場合でも、各種の手段を尽くして迂回して敵の背後に進出し、必ず敵を包囲せん滅し、夜間行動を強化して攻撃速度をいっそう早めよ」とは金日成首相の指示した戦術方針、これは大田作戦だけでなく、あらゆる戦闘に共通する北朝鮮軍の基本戦術だった。夜間と包囲であった。具体的には、斥候やゲリラ要員によって敵陣の弱点を探って包囲態勢をとると共に、夜暗にまぎれて浸透し、内部の分断と外部の圧力によって敵を殲滅する。
・ワシントンではトルーマン大統領がテレビ・ラジオを通じて朝鮮問題について演説した。北朝鮮の韓国に対する攻撃は、国際共産勢力が独立国を征服するためにいつでも武力侵略手段を行使する用意があることを暴露した。今や朝鮮以外でも武力侵略が起る可能性を認識せねばならぬ。そして朝鮮の事態の見透しについて、マッカーサー元帥の報告を朗読することによって米国の決意を力説した。
・だが、ニューヨーク・タイムス紙によれば、大統領演説の背後に軍首脳部の判断が横たわっている、と。演説は、共産主義陣営の攻撃にそなえて世界全体に防衛網を張るという新戦略方針を示唆したものだ。米国は朝鮮動乱を紛争多発時代幕開けと見做し、これまでのソ連に対する政治的封じ込め政策を軍事的封止政策に変え、今後三年間は武装平和路線を辿ることになる、と。
・まずい、とくに非武装日本に対しては悪影響を及ぼすだけだ、とダレスは考え、早速アチソン国務長官に覚書を提出した。①北朝鮮の韓国攻撃は、日本人を戦後の自失状態から覚醒させつつある。(ふむ、ダレスが当時の日本人の心理状態をなぜここまで正確に理解できるのか不思議だ) ②この時、彼らに自由世界に参加してその一員としての責任を果たせるという希望を与えるかどうかで、長期にわたる日本人の気持ちが固まるだろう。 ③朝鮮戦争にとらわれて事態が浮遊状態を続けるのであれば、われわれは朝鮮で得るよりも多くのものを日本で失うことになる。(日本人の迷走を心配しているのだろう) ④これまでの米国の政策の弱点は、戦争が起こると常に政治的目的を捨てて軍事的目的に集中することである。(ダレスがジュネーブで日米終戦工作をしていたのはこんな考えだったのか、そうだ、日本の支那事変も政治的目的が見失われていた、だから和平工作も不首尾に終わった) ⑤しかし、ソ連は戦争中でも着実に政治的成果を探求しつづける。現に、彼らは北朝鮮政権の拡大のために、朝鮮戦乱の結果を待たずに一時的占領地域での選挙を実施させようとしている、と。
・7月20日、対日講和は講和後の日本防衛問題で行き詰まっているが、結局は日本を再軍備させるかどうかの問題であり、立案担当は国務省内の政策企画部であった。ダレスは先ず日本の軍事力強化の必要とその問題点を指摘し、さらに日本政府が再軍備にふみきるのは至難であることを踏まえて、ジレンマ型議論から脱出策を考えた。ダレスは第一策:強力な全国的警察ならびに沿岸警備隊を再編成する。  第二策:国際軍に対する日本人の個人的参加を認める。 この二策を組み合わせれば、日本の武装問題は解決する、と。 第一策:日本は現在、拳銃を持たぬ警察官二十万人と非武装の沿岸警備艇隊を保有するが、この警察隊を準軍隊にし、沿岸警備艇を武装することは、極東委員会の決定によって禁止されている。しかし、対日講和条約の締結によって日本が独立を回復すれば、極東委員会の決定は効力を失い、日本は警察、沿岸警備隊を望ましい姿に改造できる。 第二策:ソ連が安保理を欠席し拒否権を行使しない立場をとっているので、国連はいつでも国連軍を組織できる。そこに日本人が参加する場合、日本政府の政治的命令対象にならない。 ダレスの構想を要約すると、日本に空軍は与えないが準陸海軍は認める、併せて日本人の個人的義勇兵として国連軍に参加させ、応分の国際貢献を行わせる、と。この構想には、近代戦の主要攻撃兵力である空軍を除いて日本に専守防衛型の陸海軍だけを持たせ、軍国日本復活の不安を抑えるとともに、米国の出費を抑える。さらに日本に国家としては軍備・戦争の放棄を維持させるが、日本人個人には世界平和のために血と汗を流す機会を与え、西側諸国に安心感を持たえるとともに米国民も満足し日本側も不満はない筈だ、と児島襄氏は分析する。
・ダレスが政策企画部長に覚書を送ると、前政策企画部長の国務省顧問ケナンから覚書が届いた。ケナン覚書は言う。 スケジュールの短縮:情勢は予想以上に進展している。計画予定を繰り上げるべきだ。全体交渉に入る前に極東委員会諸国と長期間の交渉をする必要がない。英仏以外の各国には、通知と意見聴取だけで十分である。 条約文の簡略化:添付された対日講和条約案は、主要でない法律的条項が多すぎる。条約は政治戦の道具とみなすべきであり、法律文書ではない。ゆえに、条約文は次の二項を明確にすれば必要かつ十分である。 1,簡明な戦争状態の集結の宣言。 2,日本の独立主権国家としての責任遂行に対する信頼の表明。 ケナン覚書はこう結論する。①われわれの対日講和問題に関する考え方には混乱がみられる。 ②講和条約は本来的に勝者対敗者の契約であり、戦争状態を終結させるための条件を定めるものである。 ③米国はすでに五年間にわたって日本を実質的に統治している。これは主な講和条件の全てが統治命令によって確立されたことを意味する。 以上から、対日講和は米国主導で成就できる。主要な講和条件は占領行政によって現実化ずみであり、日本の自主独立の準備は整っている。さっさと形式的な講和条約締結を済ませて、日米間の安全保障協定を結んで、日本は日本にまかせればよい、と。ふーむ、大人の回答だ。
・顧問ダレスは喜んだ。ケナン覚書の主張は、これまでもたつきすぎた対日講和の遅れを取り戻せ、という点でダレスの意にかなった。