歴史を訪ねるシリーズは終えたが、その間にいろいろ考えたことを拾い上げながら、小編を綴ってみたい。そんな過程で堀栄三著「情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記」に出会った。現代の日本人にとって当時を正確に理解するのが難しい時代は日米戦争の時代だろう。しかし日本人が遭遇した、あるいは作った時代でもある。この時代に正面から向き合うことが、日本人の責務である。多くの人達が戦禍に倒れたことを思うと、素直にそう思っている。そんな思いから、堀氏の情報戦記に耳を傾けたい。
堀栄三(1913~1995)陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し1943(昭和18)年大本営陸軍部参謀となり、在フィリピン第十四方面軍(山下奉文司令官)の情報主任参謀も務める。敗戦後、54年に自衛隊に入隊、終始情報畑を歩き、67年に退官。昭和20年秋、悲劇の山下軍団と題して、某出版社に400枚ほどを書き綴った。傍で見ていた父が、負けた戦さを得意になって書いて銭を貰うなと叱責され、堀は貝になった。敗戦から41年目の夏、ある雑誌で、レイテ決戦失敗の原因は「台湾沖航空戦の過大戦果を戒めた堀の電報を、大本営作戦課が握りつぶしたからだ」とある人が発言、それがきっかけで堀の仕事に注目が集まった。戦争を体験しない人たちの世代となって、当時のことを知る術が次第になくなっている。そんなことから勧めに従って書いた著書が、上記の著書であった。堀は言う、「情報に無知な組織(国家、軍)が、人々にいかなる悲劇をもたらすかと情報的思考の大切さを、本書の中から汲み取ってくだされば幸い」と。
昭和19年10月、堀は完成した『敵軍戦法早わかり』を第一線部隊に普及させるため、在比島第十四方面軍に出張を命じられた。何とか鹿屋飛行場についた午後一時過ぎ、飛行場脇の大型ピストの前は十数人の下士官や兵士が慌ただしく行き来し、黒板の前に座った司令官らしい将官を中心に、数人の幕僚たちに戦果を報告していた。「〇〇機、空母アリゾナ型撃沈!」「よーし、ご苦労だった!」戦果が直ちに黒板に書かれる。「〇〇機、エンタープライズ轟沈!」「やった!、よし、ご苦労!」また黒板に書きこまれる。「やった、やった、戦艦二撃沈、重巡一撃沈」黒板の戦果は次々と膨らんでいく。「わっ」という歓声が、その度毎にピストの内外に湧き上がる。堀の頭の中には、幾つかの疑問が残った。敵軍戦法研究中からの脳裡を離れなかった「航空戦が怪しい」と考えたあれであった。そのあれが今、堀の目の前にある。 一体、誰がどこで、どのようにして戦果を確認していたのだろうか? この姿こそあのギルバート、ブーゲンビル島沖航空戦の偽戦果と同じではないか? 今村大将のタロキナ上陸の米軍撃退作戦の失敗の原因となった、あれでは? 堀は、ピストでの報告を終えて出てきた海軍パイロットたちを、片っ端から呼び止めて聞いた。「どうして撃沈だとわかったか?」「どうしてアリゾナとわかったか?」「暗い夜の海の上だ、どうして自分の爆弾でやったと確信して言えるか?」「雲量は?」「友軍機や僚機はどうした?」矢継ぎ早やに出す堀の質問に、パイロットたちの答えはだんだん怪しくなってくる。「戦果確認機のパイロットは誰だ?」「・・・・・・」返事がなかった。そのとき、陸軍の飛行服を着た少佐が、「参謀!買い被ったらいけないぜ、俺の部下は誰も帰って来てないよ。あの凄い防空弾幕だ、帰ってこなけりゃ戦果の報告も出来ないんだぜ」心配げに部下を思う顔だった。「参謀! あの弾幕は見た者でないとわからんよ、あれを潜り抜けるのは十機に一機もない筈だ」 戦果はこんなに大きくない。場合によっては三分の一か、五分の一か、あるいはもっと少ないかもしれない。第一、誰がこの戦果を確認してきたのだ、誰がこれを審査しているのだ。やはり、これが今までの〇〇島沖海軍航空戦の幻の大戦果の実体だったのだ。
堀が大本営第二部長宛てに緊急電報を打ったのは、その日の夕方七時頃であった。「この成果は信用できない。いかに多くても二、三隻、それも航空母艦かどうかも疑問」 これが打った電報の内容であった。堀の質問に、どうにか堀を納得させる答えをしたパイロットは、わずか一、二名に過ぎなかった。一年に亙って太平洋での航空戦の戦果を研究してきた情報参謀の持ち続けていた「?」に対する職人的勘にも等しい結論だったが、それには、米艦船の数や備砲や艦型や、機動部隊の構成などの詳しいデーターと、過去の航空戦の戦果発表とその誤差などが、堀の分厚いノートに記述してあった。なぜ戦果が過大なものに化けるのかのカラクリの真相を、目の当たりにした。反面、この重大な時に作戦参謀がどうして鹿屋に馳せ参じないのか、これが作戦課の情報不感症というものだ、堀は嘆いている。
堀を中心とする米軍戦法研究グループが、各種統計を取っているうちに注目したのは、昭和18年11月5~17日にわたる六次に及ぶブーゲンビル島沖海軍航空作戦と11月21~29日の四次にわたるギルバート沖海軍航空戦の戦果であった。大本営海軍部の発表を総計すると、撃沈:戦艦3,航空母艦14,巡洋艦9,駆逐艦1,その他4。 撃破:戦艦2,航空母艦5,巡洋艦3,駆逐艦6,その他2。 さらに12月5にちのマーシャル沖海軍航空戦の戦果、撃沈:中型空母1,大破:大型空母1。この時点で計算上では、米海軍には航空母艦は一隻もなく、米艦隊の活動能力はゼロ。 日本海軍の戦果発表は外電となって世界中に飛んだ。大本営陸軍部内でも、第二部長(情報)が第一部長(作戦)に、「米国では南太平洋に行くことだけはご免だということであり、ブーゲンビル航空戦の影響で株は下がる、小麦の買留めが始まり、市況が混乱しかけている」と述べていたという。情報の総元締めである大本営第二部長がこの体たらくであったとは驚かざるを得ない、とは著者堀氏。前述した台湾沖航空戦の出鱈目な戦果発表を鵜吞みにした陸軍が、急遽作戦を変更して、レイテ決戦を行う破目に陥るのであるから、海軍航空戦の戦果発表は、地獄への引導のようなものであった とは、堀氏のコメント。堀は陸軍参謀だったので、海軍の本音が分からなかったとも言えるが、大本営海軍部もどこまで実態をつかんでいたのか。つかんでいたら、ここまでの出鱈目な発表は躊躇しただろう。海軍の出鱈目な発表は開戦初期のミッドウェー海戦の惨敗から始まっていた。ただこの時は実態は掴んでいたが、実態をゆがめて発表した。そして、誰も責任を取らない無責任体制が海軍内に蔓延し、早くから海軍上層部を蝕んでいたことになる。
堀たちはこの原因を調査した。情報は収集するや直ちに審査しなければならない。情報処理の初歩である。航空戦の場合、いったい誰がどこで戦果を見ているのだろうか。真珠湾の攻撃の時は戦果の写真撮影があって、戦果の確認が一目瞭然だった。ギルバート沖、ブーゲンビル島沖航空戦は、昼間のものが少なく、薄暮とか黎明とか、中には夜間もあった。その後の航空戦では戦果の確認ができていない。帰還した飛行士の報告を司令官や参謀が、そうか、ご苦労と言って肯く以外に方法を持っていなかった。陸上の戦闘や海戦では指揮官が自ら戦闘に臨んで、自分の目で見ているが、航空戦では司令官も参謀も誰一人戦場に行っていない。何百キロも離れた司令部にいるから、自分の目の代わりに帰還飛行士の声を信用する以外に方法がない。戦闘参加機以外の誰かが冷静に写真その他で戦果を見届ける方法がない限り、誇大報告は避けられない。米軍はやっていたが、日本はやっていなかった。このくらいは司令官の発議で実行できたと思われるが、不思議な現象であった。いずれにしても、誇大報告はその後の戦闘に大変な影響を与えた。第八方面軍の今村大将は、「海空軍の数次にわたる大戦果に鑑み、当面の敵(ブーゲンビル島タロキナ岬へ上陸した米海兵師団)を撃砕するにはこの機を逃して期待し難き」と判断して、原四郎中佐作戦参謀を急遽ブーゲンビル島に派遣して、必至敢闘との今村大将よりの訓示を伝達させ、第十七軍司令官百武晴吉中将にタロキナに上陸した米軍を速やかに撃滅することを命令した。今村大将は百武中将麾下の将兵の尻を、とんでもない棒でひっぱたいた。ブーゲンビル島の第六師団の将兵には、増援隊はおろか、握り飯一個も遅れなかった。
ブーゲンビル島の第六師団の守備地域は師団司令部のあるブインからタロキナまで140キロ、海岸線は240キロに及んでいた。ちょうど東京から豊橋付近の距離、地形はジャングルと氾濫するワニのいる川、命令を受けた連隊は一週間かけてタロキナに到着、大本営や第八方面軍司令部が机上で地図の上に書いた防禦線はジャングルという地形の障害と、制空と制海という障害によって陸続きとは言えず点化させられた孤島であった。制空権を持った米軍は、写真撮影で十分に研究して、日本軍の一番弱いところに上陸してきたから、守るということは実に難しかった。「戦史叢書」では、「敵の追撃砲は、集中射撃の連打で、日本軍の戦線を区分して、適当な幅と深さに地図上に番号を付け、その番号の地域に短時間に数百発の砲撃を打ち込んで、ネズミ一匹も生存しえない猛射を繰り返す。その勢いや壮烈、その規模や雄大で、進もうとしても力足らず、その場に居座ると損害は激増して、全滅に陥ることは必定、致し方なく一片の恥を忍んで敵追撃砲の有効射程の外に部隊を移動し、態勢を立て直す以外になかった」と。
中支で勇名を馳せた部隊も、猛射の米軍の前に遂に撤退を決心した。満州事変以来、二流三流の軍隊と戦って、強引にやれば抜けた経験も、米軍追撃砲の集中射撃には、どうすることも出来なかった。その上、こちらの兵力は三個中隊(1200名)で、相手は海兵一個師団(約2万名)。師団長も連隊長も支那軍相手の手法であったが、米軍の鉄量戦法の前には目隠しの剣術。「鉄量を打ち破るものは鉄量のみ」(堀が陸大時代に戦史講義の所見提出で生み出した言葉) 昭和12年の上海戦、その翌々年のノモンハンの戦闘で経験済みであった。日本軍中央部の精神第一主義は、大陸での二流三流の軍隊には通用したものの、近代化された米軍には無残な姿をさらけ出した。それにも関わらず、当時ラバウルの作戦関係参謀や、大本営の作戦課では、連隊長を卑怯極まりない、命惜しみの部隊長だと罵った末、最後は連隊長を更迭してしまった。気の毒なのは第一線だった。上級司令部や大本営が、敵の戦法に関する情報も知らず、密林の孤島に点化された認識もなく、増援隊はもちろん、握り飯一個も送り届けないで、一歩たりとも後退させないという非情さはどこから来たのであろうか?と堀氏。大本営作戦課や上級司令部が、米軍の能力や戦法及び地形に対する情報がないまま、机上で二流三流軍に対すると同様の期待を込めた作戦を立てたからである、と堀は断言する。これが陸軍士官学校、大学校を優秀な成績で卒業してきたエリート達の立てた作戦でもあった。現代に置きなおすと、倒産企業の典型となるだろう。さらに、上官の命令は天皇の命令と勅諭に示されていたから、退却はこの場合大罪であった、と。
話を最初に戻す。台湾沖航空戦が終わり、情報参謀・堀は新田原を出発、マニラに到着した。途中台北の上空から眺めた台北飛行場の光景は悲惨を極めた。大きな格納庫は骨組みがむき出しとなり、日本軍飛行機の残骸が至る所にあった。米軍の攻撃が生易しいものではなかったことが一目瞭然だった。米軍の制空権がここまで及んでいるのか、これこそ米軍の常套戦法だ、あの太平洋のいたるところで上陸に先立って上陸地点に増援可能な空域内の飛行場や港湾、艦船を徹底的に攻撃して、上陸地点の日本守備隊を点化、孤立化させてきた。これによって日本軍の一切の輸送補給も、飛行機や部隊の増援も完全に遮断されてしまう。近々、米軍は比島を狙ってくる! 案の定、マニラは艦載機での空襲中であった。そのため堀たちを乗せた輸送機は辛うじてクラーク飛行場に着陸したが、ここでも米軍の銃爆撃で焼かれた多数の日本軍飛行機が、無残な姿をさらしていた。堀に頭の中に、米軍の上陸近しという勘が去来した。それにしてもマニラは何と平穏な町であろうか、街を歩いて見る限り、戦争がもうそこまで来ているという影はほとんど見えない。戦時下という意識を忘れさせる光景だった。それでいてマニラ湾の上では、ときどき高射砲の激しい砲声が、上空の戦闘機を目がけて鳴り響いている、不思議な国であった。堀は到着すると、すぐに南方軍総司令部、第四航空軍司令部、南西艦隊司令部と回って現在の状況把握に努めた。そこで初めて大本営海軍部発表の台湾沖航空戦の戦果を知った。それぞれの司令部の情報課を駆け巡って入手した数字(14日17時発表:判明せる戦果、轟撃沈:航空母艦3,艦種不詳3,駆逐艦1。撃沈:航空母艦1,艦種不詳1。 15日10時発表:判明せる戦果(既発表を含む)轟撃沈:航空母艦7,駆逐艦1,既発表の艦種不詳3は航空母艦なること判明。撃破:航空母艦2,戦艦1,巡洋艦1,艦種不詳1。 16日15時発表、台湾沖航空戦の戦果累計:轟撃沈:空母10,戦艦2,巡洋艦3,駆逐艦1。撃破:空母3,戦艦1,巡洋艦4,艦種不詳11。)であった。そんな馬鹿な大戦果が、との堀の反駁は、マニラでは一顧だにされなかった。各司令部は大本営海軍部発表を全面的に肯定し、各幕僚室は軍艦マーチに酔っていた。新田原で閃いた憂慮は、今現実となって眼前に展開されている。堀が東京で貰った任務は、第十四方面軍に出頭して、その指示によって敵軍戦法を普及徹底させることに過ぎない、どうすべきか堀は焦った。折からの米軍艦載機の空襲の中を、第十四方面軍司令部(山下奉文司令官)に向かった。山下大将は武藤章参謀長が着任していないので西村敏雄少将参謀副長を同席させ、堀の説明が台湾沖航空戦の戦果の問題に及ぶと、さらに作戦関係の参謀も同席を求めた。
堀は鹿屋で視察してきた実状を中心に、東京へ打電した電報の内容を交えて、米軍の海軍機動部隊はなお健在とみるのが至当であり、堀の計算では現在比島を空襲中の米機動部隊は、十二隻の航空母艦が基幹である旨を主張した。その上、ギルバート、ブーゲンビル島沖航空戦以来、航空戦の戦果ほど曲者はない、と説明し、今村大将が前年11月月第六師団にタロキナ大反撃を命令した時も、海軍のブーゲンビル島沖航空戦の戦果発表の過大な誤認識が原因だったことも付言した。それに昭和19年夏以降、米戦闘機P-38が急速に航空距離を増加して、現在は千キロに及んでいるから、南部比島までは米軍の制空権空域の中に入ってきており、従来から制空権の空域が米軍の作戦行動の一つの物差しになっていることも説明した。大将は驚いた様子もなく西村参謀副長に、「現にいま、この上を艦載機が飛んでいるではないか」 これに応えて参謀副長は「台湾沖の戦果は、これだな」と、人差指で眉の上を撫でた。大将は「よし分かった、今夜の祝賀会は取り止めにする。せっかく準備したのだから慰労会に変更だ。俺は出席しない」
翌18日、方面軍司令部の作戦室に堀は呼び出され「レイテ湾に敵に軍艦が入ってきている。しかしどうも様子がおかしい。上陸か上陸でないか一緒に考えてくれ」と西村参謀副長。咄嗟に堀は提案した。米軍が上陸する可能性は少しも不思議ではないから、1,16師団に命じて、米軍艦船の状況を飛行機で見させること。2,第四航空軍と海軍に連絡して、レイテ湾の外海に輸送船団があるかどうか確かめさせる。3,16師団は敵の上陸を前提に緊急守備態勢に入ること。4,米軍機にパイロットの捕虜があれば、憲兵隊はあらゆる手段をもって、航空母艦の艦名を大至急調査すること。まずこれだけをやらせてください、と。
翌19日、16師団から電報が届いた。「参謀の飛行機偵察によると、レイテ湾内には十数隻の米艦船があり、十数隻の駆逐艦を中心に、数隻の戦艦がその外周をぐるぐる回って警戒している」と。この電文は、見る間に楽観論を作ってしまった。駆逐艦が戦艦を護衛するなら話は分かる、それが反対ではないか。いまヤップ島方面は暴風だ、彼らはこの危険な気象状態を避けるため、一時レイテ湾に避難しているのだ、と。総軍、航空軍、海軍の意見に合わせて、山下方面軍の参謀の多数もこの意見の支持に回ってしまった。「堀君、君の台湾沖航空戦の戦果判断、あれは間違いだよ、見ろ、この状況を!」 堀は「でも、レイテ湾入口のスルアン島の海軍監視哨が、17日天皇陛下万歳を打電して消滅している。米軍が上陸前に付近の小さい島を占領するのが米軍の上陸戦法だ。いまレイテ湾にいる米艦隊が損傷艦だと断定するのはまだ早い。米軍は太平洋でいつも天候不良の時に上陸している。これも米軍の戦法だ」と反論したが、一同を納得させる迫力はなかった。堀が後で悔やんだのは、現地レイテ湾の雲量はどうだったか、誰がどんな飛行機で見に行った、彼に艦船を識別する能力があったか、という質問を咄嗟に出なかった。当時のレイテ湾の雲量は九、普通に状況では海上は見えない。16師団の参謀は、わずかの雲の切れ目から降下し艦影を見た途端、猛烈な空一面が真っ黒になる防空弾幕にびっくりして上昇して雲の上を帰還、その途中で一瞬垣間見た情景の記憶を頭の中で整理作文した。皮肉なことに彼は陸軍の参謀で、米海軍の艦船の知識がない、事実をありのままに伝えることは、情報業務の初歩的原則であったが、すでに主観や判断が入ってしまっていた。
ところが間もなく憲兵隊から重要な情報がもたらされた。米軍パイロットの尋問の結果、現在ルソン島を空襲中の米航空母艦は正規空母十二隻で、その艦名も全部判明した。この情報に作戦室の参謀一同、粛として声がなくなってしまった。西村参謀副長は唸った。情報が堀の期待通り出てきた、もっと早く「レイテに米軍本格上陸」と何も疑いもなく衆心一致、山下大将はレイテ方面を担当する第35軍に対策指示が出せた。その頃すでに16師団は猛烈な艦砲射撃に見舞われ、夕刻から通信が途絶した。従って第35軍でさえ、レイテの状況は皆目不明となった。そして、捷一号作戦発令の天皇裁可の命令を、南方総軍の作戦参謀が司令部に届けに来た。捷一号作戦とは、米軍と国運を賭けても陸上決戦の名称で、元来は米軍がルソン島の侵攻したとき、山下方面軍が全力でルソン島を舞台に行うよう、山下大将は比島赴任に先だって大本営陸軍作戦課と十分な打ち合わせを終えていた。大将はこの計画に基づいて着任したのに、その10日後に台湾沖航空戦の大戦果に酔った作戦課は、今こそ海軍の消滅した米陸軍をレイテにおいて殲滅すべき好機であると、ルソン決戦からレイテ決戦へ急に戦略の大転換を行ってしまった。山下大将は不満この上ないものとなった。同時に、航空戦の誤報を信じて軽々に大戦略を転換して、敗戦へと急傾斜をたどらせた一握りの戦略策定者の歴史的な大過失であった、情報参謀・堀栄三が日本人のためにどうしても書き残しておきたかった、立ち会った戦場からのメッセージだった。
堀栄三の情報戦記はまだまだ続くが、2,3興味深い点をピックアップする。終戦時、暗号解読の実施部隊は陸軍中央特殊情報部であった。特情部は8月11日、シドニー放送で日本がポツダム宣言の受諾を決したという情報を承知した。早速西村敏雄特情部長は終戦時の特情部の処理について構想を示し、その日の夕方から膨大な暗号関係の資料や暗号解読関係の機械の処分に移った。資料は紙一片と雖も残さず一切を焼却し、黒煙は三日間にわたって空を焦がし、機械類はその一片に至るまで破壊し、暗号書の一部は土中深く掘って埋め、占領軍が特情部の仕事と内容を追求しても、その解明は不可能とした。米軍は、日本の特情部がある程度、米国の暗号を解読したり、盗読したりしていたことを知ったが、肝心の証拠になる資料はすでに一枚もなく、判明した一部関係者にレポートを提出させた。実際には、日本陸軍は昭和11年頃から、まず国民政府外交部の暗号書を写真撮影したことを手始めに、日本内地でも外国公館などに専門家を忍び込ませ、暗号書の写真撮影を実施したことは確かだが、成功したかどうかは今日まで不明。結論的には日本陸軍は、昭和11年頃から昭和17年初頭まで、米国務省の外交暗号の一部を確実に解読または盗読し、国民政府の外交暗号、武官用暗号はほぼ完全に盗読していた。この事実の裏を返せば、日本が日米開戦に踏み切った原因の大きな一つに、米国暗号の解読、盗読という突っかい棒があったと判断される節があった。だが問屋はそう安く卸してくれなかった。開戦一か月後には米国の暗号は全面的に改変し、爾後昭和20年8月まで米国暗号は解読できなかった。これも裏を返せば、日本に米国の暗号をある程度取らせておいて、開戦に誘い込んでから計画的に料理をしようとした疑いもなくはない。暗号一つを通じてみた情報の世界でも、米国が日本を子ども扱いにしていた観がある。これを情報的に観察すれば、日本を開戦に追い込むための、米国の一大謀略があったとみるのもあながち間違っていない、と堀栄三。
「日米戦争は米国人が仕掛人で、日本は受けて立たざるを得なかったのだ」と東京裁判で立証して、日本の戦犯を弁護しようとした一人に、清瀬一郎弁護士がいた。昭和21年4月、変名で潜伏生活を営んでいた、旧特情部の企画運用課長横山幸雄中佐に、終戦事務局から東京に出頭するよう電報が来た。終戦事務局には東條大将の旧秘書官井本熊男大佐らが待っていた。「いま東條大将たちの裁判が進行中だが、米国が先に開戦を計画していたという情報的証拠が欲しい。特情部が解読した資料の中にそれがないか。それはあったら東京裁判は根本から覆すことができる。欲しがっているのは清瀬一郎首席弁護人だ。私(横山)の記憶では、開戦の頃の国民政府の駐米武官が、本国宛に打った暗号電報の中で、確かに米国が対日戦争を決意して、あれこれと日本を誘いだそうとしていることを報告した解読電文があったと、頭の中に浮かんだが、開戦時私は北京にいたし、その解読電文は開戦後特情部で読んだもので、すべて焼却して灰燼に化している。記憶だけでは裁判の立証にはならず、清瀬弁護人を非常に落胆させた」とは、横山元中佐の手記だった。堀は言う。情報とは実に難しいものである。隠そうとしている情報を取ろうとする難しさだけではない。善悪を逆にするような謀略にも対処していかなければならない。特情部が全資料を焼却しないでいたら、あるいは東京裁判の計画的筋書をひっくり返して、全世界にワシントン会議以来の米国の野望を暴露させ得たかもしれなかった。特情部は、暗号解読関係者は処刑されるという風聞が伝わったので、ひたすら身内大切の一心から、軍という立場だけで、暗号作業の秘匿第一に全神経を費やし、国家国策的立場にまでは思いが及ばなかった、堀は残念がる。渦中にあっていかに対処し、何が一番大事であるかを見通せ、とは土肥原将軍の言葉だった、と。
また堀は面白い見方を提示する。堀は当初ドイツ課、続いてソ連課、そこを落第となって米英課に回された。杉田課長は実践型というか、「堀君は米国班に所属して、米軍の戦法を専心研究してもらう。そのためにはまず戦場を見てきてもらいたい」と。ラバウルで寺本熊市中将と出会い、「必勝六法」の講義を受け、これで情報参謀への道が開け、米軍戦法研究に大きな示唆を得た。情報戦争は、当然戦争の起こる前から始まっている。米国が日本との戦争を準備したのは、寺本中将のいうごとく大正10年からであった。事前に収集する情報は軍事的なものだけではない。あらゆる分野の情報から、その国の戦争能力をはじき出していかなければならない。これらを調査するのは、新聞、雑誌、公刊文書の外に、諜者網をその国に余裕をもって作り上げておかなければ、いざという時の役に立たない。この諜者網を摘発して諜者の活動を防止するのが防諜である。防諜では日本民族ぐらいのんびりしている国はない。第二次世界大戦で日本が開戦するや否や、米国がいの一番にやったことは、日本人の強制収容だった。戦後40年経って米国は何百万ドルを支払って御免なさいと議会で決めているから、実に立派な人道的民主主義の国だと思っている人が多い。どうして日本人はこんなにまでおめでたいのか? むろん日本人をジャップと呼んだ当時の感情的反発の行動であったのは当然として、裏から見れば、あれで日本武官が営々として作り上げてきた米国内の諜者網を破壊するための防諜対策であったと、どうして考えないのか。米国人は国境を隔てて何百年の間、権謀術数に明け暮れた欧州人の子孫である。日本人のように鎖国三百年の夢を貪ってきた民族とは、情報の収集や防諜に関して全然血統が違う。40年後に何百万ドル払って不平を静めようが、戦争に負けるよりはぐっと安い、と。日本はハワイの真珠湾奇襲攻撃して、数隻の戦艦を撃沈する戦術的勝利を挙げて狂喜乱舞したが、それを口実に米国は日系人強制収容という真珠湾以上の大戦略的情報勝利を収めてしまった。これで日本武官が、米本土に築いた情報の砦は瓦解した。戦艦が大事だったか、情報が大事だったか、盲目の太平洋戦争は、ここから始まった。
最後に、米軍が昭和21年4月、『日本陸海軍の情報部について』という調査書を米政府に提出している。その結言の中で次のように語っている。「結局、日本の陸海軍情報は不十分であったことが露呈したが、その理由の主なものは、(1)国力判断の誤り:軍部の指導者はドイツが勝つと断定し、連合国の生産力、士気、弱点に関する見積もりを不当に過小評価してしまった。 (2)制空権の喪失:不運な戦況、特に航空偵察の失敗は、最も確度の高い大量の情報を逃す結果となった。 (3)組織の不統一:陸海軍間の円滑な連絡が欠けて、せっかく情報を入手しても、それを役立てることができなかった。 (4)作戦第一、情報軽視:情報関係のポストに人材を得なかった。このことは、情報に含まれている重大な背後事情を見抜く力の不足となって現れ、情報任務が日本軍では第二次的任務に過ぎない結果となって現れた。 (5)精神主義の誇張:日本軍の精神主義が情報活動を阻害する作用をした。軍の立案者たちは、いずれも神がかり的な日本不滅論を繰り返し声明し、戦争を効果的に行うために最も必要な諸準備をないがしろにして、ただ攻撃あるのみを過大に強調した。その結果彼らは敵に関する情報に盲目になってしまった。
あまりにも的を射た指摘に、ただ脱帽あるのみだ、と堀を唸らせている。特に第四の指摘に、米軍は日本の急所を押えていると感服している。大本営作戦課に人材を集めたのは昔からのことであった。その中でも作戦班には、陸大軍刀組以外は入れなかった。作戦課長の経験なしで陸軍大将になった者は、よほどの例外と言って差し支えなかった。情報部は毎年一回、年度情勢判断というかなり分厚いものを作って、参謀総長や各部に配布していたが、堀の在任中、作戦課と作戦室で同席して、個々の作戦について敵情判断を述べ、作戦に関して所要の議論を戦わしたことはただの一回もなかった。毎朝情報部が行う戦況説明会は、第二部はこんなに仕事をしているという大本営部内の宣伝活動のようなもので、作戦課は情報部の判断を歯牙にもかけていなかった。堀が山下方面軍でルソン上陸の敵情判断をしていた頃、米軍のルソン進攻は三月以降であると打電してきたり、台湾沖航空戦の戦果に関する堀の電報が没になるという不思議な事があったのも、作戦と情報が隔離していた証拠であり、大本営の中にもう一つの大本営奥の院があって、そこでは有力参謀の専断でかなりのことが行われていたように感じられてならない、と堀。結論として、情報部を別格の軍刀参謀組で固めていたら、戦争も起こらなかった子も知れない、と。
ウサギの戦力は、あの早い脚であるのか、あの大きな耳であるか? 答えは、いかにウサギが早い脚をもっていても、あの長い耳で素早く正確に敵を察知しなかったら、走る前にやられてしまう。なまじっかな軍事力より、情報力をこそ高めるべき。長くて大きなウサギの耳こそ、欠くべからざる最高の戦力である、堀栄三は結んでいる。