【30章】
この頃ローマでは護民官が翌年の最高官を執政副司令官にしようと熱心に活動したが、失敗に終わた。L・パピリウス・クラッススと L・ユリウスが執政官になった。アエクイの使節が元老院に来て、独立国家としてローマと条約を結びたいと述べた。しかし元老院はローマの優位を認めるなら、条約を結んでもよいと答えた。使節はこの条件を受け入れ、8年間の停戦が約束された。アルギドゥス山で敗北してから、アエクイ内部で好戦派と和平派が対立し、長期間激しく争った。この時期ローマは平穏だった。護民官は罰金の 額を一定にする法案を準備していたが、護民官の一人が執政官にこの計画を密告した。その結果執政官が先にこの法案を提出した。
翌年の執政官に選ばれたのは、L・セルギウス・フィデナスとホスティウス・ルクレティウス・トゥリキピティヌスだった。セルギウス・フィデナスは二度目の執政官就任だった。二人の在任中、記録に値することは起きなかった。
翌年の執政官は A・コルネリウス・コッススと T・クインクティウス・ポエヌスだった。ヴェイイ兵がローマ領に侵入してきた。フィデナエ兵も参加していると噂された。これについて調査を任されたのは L・セルギウス、Q・セルヴィリウス、マメルクス・アメリウスだった。フィデナエから姿を消した人々がオスティア(テベレ川河口)に抑留されていることが分かった。植民地の人口が増え過ぎ、土地が不足していたので、戦死者の土地が分配された。
この年は雨が降らず、市民は苦しんだ。雨水がないだけでなく、土地が水分を失い、川の水も枯れそうになった。泉や小川のほとりに来た牛たちは水が飲めずに死んだ。疥癬(かいせん:皮膚に発症する疫病)にかかった牛たちは隔離された。これらの牛に接触した人間も感染した。最初に感染したのは奴隷と農民だったが、間もなく市内にも広まった。身体が疫病に侵されると、人々の心はあらゆる種類の迷信、特に外国の迷信を受け入れるようになった。占い師を自称する者たちが市内を歩き回り、生贄の捧げる新しい方法を紹介した。彼らは病気に苦しむ人々を相手に利益を得た。神々の怒りを鎮めるためと称して、ローマ的でない奇妙な儀式が通りや礼拝所でおこなわれるようになったが、やがてローマの指導的な人々の目に留まり、彼らは異様な光景にショックを受けた。市政官が派遣され、ローマの神々だけを信じ、定められた形式で儀式をするよう人々に注意した。
ヴェイイとの戦争は翌年に延期された。翌年の執政官に選ばれたのはカイウス・セルヴィリウス・アハラと L・パピリウス・ムギラヌスだった。新しい執政官が決まったが、宗教的な理由で戦争は布告されず、部隊の派遣も遅延期された。まず神官を派遣し、ローマの要望を伝える必要があると考えられた。ノーメントゥムとフィデナエでヴェイイと戦ってからあまり年月が経っていなかった。恒久的な平和条約ではないが停戦協定が結ばれたのに、停戦期間中にヴェイイは敵対行為を再開したのである。神官が派遣され、古代のしきたりに従ってローマの要求を述べようとすると、ヴェイイは会見を拒否した。
こうなれば戦争であったが、元老院の決定だけで宣戦布告しても大丈夫か、それとも人民の承認を得た方がよいか、考えなければななかった。護民官が徴兵を妨害すると脅したので、執政官クインクティウスは市民集会で徴兵を承認を得るしかなかった。百人隊は全会一致で戦争すべきだと答えた。平民は翌年の執政官の選挙を妨害した。
【31章】
翌年の最高官は執政副司令官となり、T・クインクティウス・ポエヌス、C・フリウス、M・ポストゥミウス、A・コルネリウス・コッススが選ばれた。クインクティウス・ポエヌスは前年の執政官だった。コルネリウス・コッススは市内の監視官を兼務し、コッススを除く三人の執政副司令官は徴兵を完了させ、ヴェイイに向かって進軍した。しかし司令官が三人もいてそれぞれの考え異なっていたので、ローマ軍は機能せず、敵が有利になった。司令官の一人が攻撃の合図を出し、残りの二人が退却を命令したので、ローマ兵は訳が分からなかった。ヴェイイ軍はこのチャンスを逃さず、一斉に攻撃を開始した。ローマ兵は混乱して敗走し、陣地に帰ろうとした。幸いローマ軍の陣地は近かった。ローマ軍の死者は限定的だったが、不名誉な負け方だった。ローマ市民は敗戦に慣れていなかったので、不安になった。彼らは執政副司令官を憎み、独裁官の任命を望んだ。今や市民は独裁官に希望を託した。しかしこれには宗教的な問題があった。独裁官を任命できるのは執政官だけだった。予言者に相談すると、執政官が不在なので、代行者でもよいという返事だった。執政副司令官 A・コルネリウスがマメルクス・アエミリウスを独裁官に任命した。独裁官は A・コルネリウスを騎兵長官に任命した。かつて査察官はアエミリウス家の人間に懲罰的な税を課したが、不当に誰かを貶めようとしても無駄である。国家が真に勇気と能力のある人物を必要とする時、貶められた家族の一人が選ばれるのである。
勝利に高揚したヴェイイはエトルリア各地に使者を送り、「我々は一回の戦闘でローマの三人の将軍を打ち破った」と自慢した。しかしヴェイイはエトルリア連盟の会議で援軍の派兵を決議させることができず、略奪目当ての義勇兵をあちこちからかき集めなければならなかった。フィデナエはヴェイイに協力して戦うことにした。フィデナエは戦争を始めるにあたって血なまぐさい行為をすると神々が喜ぶと考えているのか、ローマの大使を殺害してから、彼らの軍隊がヴェイイ軍に合流した。ヴェイイとフィデナエの指導者は司令部をヴェイイに置くか、フィデナエに置くかについて協議した。フィデナエに司令部を置いた方が都合がよいということになり、ヴェイイ軍はテベレ川を越えてフィデナエに移った。
【32章】
ローマ市内は緊迫した。司令官の不一致が原因で敗北したローマ軍は戦意を失っていた。ローマ軍ははヴェイイから呼び戻され、コリナの門(ローマの北端の門)の外に陣地を設営し、防備を施した。城壁に守備兵が配置され、店は営業を停止し、裁判所も休止した。中央広場での政治活動を停止せよと命令された。ローマ市内は軍事基地のようだった。独裁官は広報係に通りを走らせ、市民集会の開催を告げた。市民が集合すると、独裁官は戒めの言葉を述べた。
「些細な状況の変化に動揺し、騒いではならない。前回の敗北を気にする必要はない。敵が勇敢だったわけではなく、我々の兵士が臆病だったわけでもない。将軍たちの意見がばらばらだったからだ。ヴェイイの軍隊を恐れる必要はない。彼らはローマ軍に六回負けている。フィデナエなどは数えきれないほどローマに負けているし、我々はろくに戦闘もせずに彼らの町を占領したことも多かった。ローマ軍と隣国の軍隊の力関係はこの数百年変わっていない。ローマ軍の勇気、戦術、武器はこれまでと同じである。司令官だった私はノーメントゥムでヴェイイとフィデナエそしてファレリー(ファリスク人の都市 )の連合軍に勝利した。騎兵長官 A・コルネリウスは敵兵の目の前でヴェイイの王ラルス・トルムニウスを殺し、最高の戦利品を征服神ユピテルの神殿にささげた。ローマ軍を待っていいるのは勝利と戦利品であることを思い出し、武器を取れ。犯罪の常習犯の敵を待っているのは、天罰だ。彼らは国家間の取り決めに違反し、大使を殺害し、平時にローマの植民者を虐殺した。これは7回目の停戦違反であり、反乱である。こうしたことを頭に入れ、諸君は武器を取らねばならない。戦闘が始まれば、犯罪集団の敵はすぐに前回のローマ軍と違うことに気づくに違いない。そして私を三度目の独裁官に任命した人々が、いかに祖国のことを考えていたか、あなた方は理解するだろう。私は二度目目の独裁官だった時査察官の独裁的な権限を奪ったので、私を批判した人がいたが、彼らは国家のことを考えていなかった」。
言い終えると、独裁官は勝利を誓って、出陣した。ローマ軍はフィデナエの手前、2400メートルの場所に陣を敷いた。陣地の右側は丘になっており、左側はテベレ川だった。独裁官は T・クインクティウスに丘を確保するように命令した。そして敵に気づかれないよう、フィデナエの背後の尾根まで進み、尾根を占領せよと言った。一方ヴェイイ軍は先日の勝利に気をよくしてフィデナエを出た。幸運により勝利しただけで、実力で手に入れた勝利ではなかったが、彼らは強気だった。間もなく偵察兵が独裁官に報告した。「クインクティウスの歩兵部隊がフィデナエの砦の近くの尾根を占領しまし」。
独裁官は攻撃を命令し、ローマの歩兵部隊が全速力で敵に向かっていった。騎兵長官コルネリウスが率いる騎兵は命令があるまで動かなかった。騎兵の援護が必要になった時、独裁官が合図することになっていた。以前の戦いでヴェイイの王トルムニウスの首を取ったのは騎兵であり、騎兵の活躍が期待された。ローマの歩兵は猛烈に攻撃した。彼らはフィデナエとヴェイイを憎んでおり、「裏切者のフィデナエの奴らめ」とか「条約破りのヴェイイのごろつき野郎」と叫んだ。フィデナエはローマ人植民者を殺し、ローマの大使を殺したので、ローマ兵の怒りは頂点に達していた。フィデナエはローマの同盟国だったので、裏切られという感情が強く、フィデナエは弱兵なのに思い上がっていたので、ローマ兵は怒った。
【33章】
敵は最初の衝突で打ち砕かれた。その時、突然フィデナエの門が開かれ、見たことも、聞いたこともない、謎の部隊が出てきた。大勢の集団がたいまつを持ち、剣を振りかざし、狂ったようにローマ軍に向かってきた。異様な軍団を見て、ローマ兵は一瞬ひるんだ。独裁官は騎兵長官コルネリウスを呼び、 T・クインクティウスの歩兵部隊をすぐに呼び戻すよう命令してから、最も動揺している左翼に近づき、兵士を励ました。左翼は火災に襲われた集団のように、茫然としていた。独裁官は彼らに向かって叫んだ。
「蜂じゃあるまいし、煙を恐れてどうする。武器を持たない群衆に戦場を明け渡すつもりか。剣で松明(たいまつ)を薙ぎ払え。どんな方法でもよいから、松明を奪ってしまえ。そうすれば、相手は普通の敵だ。戦いを続けろ。ローマ人であることを忘れるな。勇気ある祖先を思い出せ。たいまつをフィデナエの市内に投げ入れろ。フィデナエの火で町を焼き払え。彼らはローマの親切な調停を受け入れなかった。ローマの大使とローマ人植民者が殺され、国境地帯が荒らされたのだ。許してはならない」。
独裁官の指揮のもと、全軍が前進した。敵が投げたたいまつをローマ兵が拾ったり、敵の手から奪ったりした。両軍がたいまつを武器とした。騎兵長官も新しい戦い方を発明した。彼は騎兵が馬の轡(はみ、又はくつわ:馬に金属の細い棒をくわえさせ、これに手綱をつける)をはずすように命令してから、自分の馬に拍車を当てて、火の中に突進した。これに続いて騎兵たちが乗った馬も全速力で駆けて行った。煙に加えて、多数の馬が埃(ほこり)を上げたので馬にとって視界が悪く、たいまつの火を恐れなかった。騎兵は手当たり次第に敵兵をなぎ倒していった。この時大きな叫び声がして、敵味方の双方が驚いた。これはクインクティウスの部隊が背後から敵を攻撃したのだった。独裁官は別動隊の攻撃を大声でローマ兵に知らせた。再び叫び声がすると、独裁官は攻撃の再開を命じた。ヴェイイ軍は前後から攻撃され、陣地に逃げ帰ることができなかった。彼らは丘に逃げようとしたが、たまたまローマの騎兵が集まっていた。手綱がないので、馬は自由に動き回っていた。ヴェイイ兵は最後の逃げ道であるテベレ川に向かって必死に逃げたが、多くの者が川の手前で殺され、残りの兵はテベレ川に入って流された。泳ぎが得意な兵も恐怖と疲労と負傷のため、流された。対岸に渡った者は少なかった。一部のヴェイイ兵はローマ兵に追われながらも陣地まで逃げ、それからヴェイイに向かった。彼らを追跡したのはクインクティウスの部隊だった。クインクティウスの部隊は最後の段階で戦闘に参加したので、疲れていなかった。
生き残りのフィデナエ兵はフィデナエに帰った。
【34章】
必死で逃げるヴェイイ兵とこれを追いかけるクインクティウスの部隊が入り乱れてヴェイイの門から市内に入った。ただちにクインクティウスの兵が城壁に上り、他の部隊にヴェイイを占領したと合図した。一方独裁官は誰もいない敵の陣地に到着した。兵士たちは戦利品を求めて、あちこち探しまわった。独裁官はヴェイイ占領の合図を見て、兵士たちに言った。「ヴェイイを占領したぞ。はるかに多い戦利品が手に入る」。
独裁官は兵士たちを連れてヴェイイに向かった。市内に入ると、独裁官は砦に向かった。多くの敗残兵が砦に向かっているのを、独裁官は見たのだった。市内で殺害したヴェイイ兵の数は戦場で殺害した数に匹敵した。ヴェイイ兵は砦での抵抗をあきらめ、独裁官に降伏し、命だけは奪わないでほしいと頼んだ。ローマ兵は市内を略奪した後、ヴェイイの陣地に戻って、再び略奪した。翌日騎兵と百人隊長は降伏兵を奴隷として与えられた。くじを引き、順番に降伏兵の中から気に入った兵を選んだ。特に勇敢に戦った者は2名の降伏兵を与えられた。残りの降伏兵は売却された。戦利品を獲得したローマ軍は独裁官を先頭に勝利の帰還をした。独裁官は騎兵長官を辞任させてから、自分も辞任した。独裁官の在任期間は16日だった。戦争を目前にして祖国が危険な状態にある時、彼は独裁官に就任し、平和な時に権限を返還した。数人の年代記作者がテベレ川での水上戦闘を伝えているが、信じ難い。今日でもテベレ川は川幅が狭く、水上戦に適していない。古代の書物の記述から、当時はもっと川幅が狭かったことが知られている。たぶんこれらの年代記作者は事実によらず戦勝に栄光を加えようとしたのだろう。こうした例は珍しくない。テベレ川を渡るのを阻止するために船が集まっていただけで、水上戦はなかっただろう。
【35章】
翌年の最高官は執政副司令官となり、選ばれたのは、A・センプロニウス・アトラティヌス、L・クインクティウス・キンキントゥス、L・フリウス・メドゥッリヌス、L・ホラティウス・バルバトゥスだった。ローマは18年間の停戦をヴェイイに認めた。アエクイ族も長期の停戦を求めてきたが、ローマは3年間の停戦しか認めなかった。ローマ市内の騒動もなく、平和だった。
翌年も戦争はなく、国内も平和だった。この年は記念すべき競技の祭典が開催された。これは7年前の戦勝を祝うもので、執政副司令官によって壮大な演出がなされた。周辺都市から大勢の人が集まった。この年の執政副司令官は Ap・クラウデイウス・クラッスス、スプリウス・ナウティウス・ルティルス、L・セルギウス・フィデナスだった。政府の決定により、外国から祭典を見に来た人々が丁重に迎えられたので、祭典の魅力が増した。祭典が終了すると、護民官が熱弁をふるい、民衆の愚かさを批判した。
「心の底では憎んでいる支配者を称賛するのは間違っている。彼らが支配者であり続けるのを、諸君は望んでいるのか。平民でも執政官になれる制度を要求する勇気がない。それだけではない。平民でも執政副司令官になれるのに、平民を執政副司令官に選ぼうとさえしない。諸君は自分たちの身分を守ろうとしない。平民の幸福について考える者が一人もいなくても、もはや驚くことではない。苦労と危険を引き受ければ、名誉と利益が期待できるのが普通だ。努力の程度に応じて報酬が得られるなら、人はどんなことにも挑戦するものだ。しかし何の報酬も期待できず、危険だけが大きい任務に、護民官は盲目的に飛び込まなければならない。その結果彼は貴族を敵に回すことになり、貴族は狂ったように彼を迫害するようになる。護民官がこのような危険を冒すのは平民の利益のためなのに、平民は少しも彼に感謝しない。平民はそんなことをを期待していないし、望んでもいないというわけだ。誇りを持つ人間が偉大な行為をする。平民が尊敬されるようになれば、自分に誇りを持つようになる。現在は一人か二人の平民が実験している段階で、高官として充分能力があるかどうか試している。平民が強さと積極性を獲得するのは奇跡に等しいという結果になるかもしれない」。
相当な努力の末、護民官たちは翌年以後の最高官を執政副司令官とすることに成功した。平民でも執政副司令官に選ばれる資格がある。だからこれまで、戦場においても、平時においても実績のある平民が執政副司令官に立候補した。しかし最初の数年間平民の候補者は実験的段階で、落選した。貴族は彼らをあざ笑った。数年後平民の候補者は貴族の嘲笑に耐えられなくなり、立候補を辞退するようになった。平民が執政副司令官になれるという法律があっても、実際には平民の候補者は落選するので、こんな法律は無意味だ、と平民は思った。立候補しても、最高官になる能力がないと判定される屈辱を味わうだけなら、平民を差別する法律に我慢していた方がましだ、と彼らは思った。