イドリブ県のジスル・アッ・シュグール出身のイブラヒム・マジブール(Ibrahim Majbour)大尉は、故郷の町が破壊され、自分の家族が難民となるのを見て、軍を去り、反乱を決意した。
故郷の町が破壊されたというが、ジスル・アッ・シュグールは最初に武装反乱が起きた町であり、シリア軍がこれを鎮圧するする過程で町を破壊したものである。
シリアのデモはチュニジア、エジプト、リビアより少し遅れ、2011年3月半ばに始まった。それから3か月後の6月4日、イドリブ県の小都市で最初の武装反乱が起きた。しかしこれは単発的な事件であり、連鎖反応を起こすことなく終わった。これ以後2011年の末まで8カ所で武力反乱が起きるが、どれも鎮圧されて終わる。シリアの武装反乱は、線香花火で終わり、なかなか燃え上がらなかった。8か所のうち大都市はホムスだけであり、中規模都市のイドリブを除けば、すべて町程度の小都市だった。2011年に武装反乱が起きた唯一の大都市ホムスは、革命の聖地と呼ばれるようになった。
2011年6月4日、武装集団がジスル・アッ・シュグールの治安部隊の基地を襲撃し、町を占領した。軍と治安部隊の兵士120人が死亡した。治安部隊というのは警察と政治警察に付属する軍隊の総称である。市民の多くが北西に向かい、トルコとの国境に避難した。ISW(戦争研究所)がこの事件について書いている。
=====《最初の武装反乱》==========
Syria's Armed Oposition
http://www.understandingwar.org/sites/default/files/Syrias_Armed_Opposition.pdf
2011年6月 ジスル・アッ・シュグール、イドリブ
シリアで最初となる武装反乱が起きた。地元の武装グループが、おそらく離脱兵とともに、多数の治安部隊員を殺害した。2011年6月4日ジスル・アッ・シュグールでデモがあり、一部の参加者が暴徒化し、治安部隊が彼らに発砲した。死者が出たことに怒った市民が警察所を襲撃した。警察所の武器を手に入れた暴徒は治安部隊に発砲し、治安部隊から多くの死者が出た。
翌日政治警察と情報将校が軍隊と共に到着した。兵士の一部は町を攻撃すること拒否し、脱走した。暴徒が支配する市内で孤立している治安部隊を救援すため、軍隊は市内に入っていったが、待ち伏せされ、兵士20人が死亡した。救援は間に合わず、治安本部は暴徒によって占領された。正確な死者数は分かっていない。しかし最初の武装反乱が起きたことは明らかである。
政権はジスル・アッ・シュグールの反乱に断固とした対応をした。数百台の装甲車が3方向から町に迫った。暴徒たちは恐れをなして町から逃亡した。彼らはトルコとの国境の山地に向かった。約1万人の住民も同じ方向に避難した。治安部隊は彼らを逮捕するため山地をくまなく捜索した。反乱グループと町民は国境を越え、トルコに避難した。トルコ政府は難民のための施設をつくった。
======================(ISW終了)
暴徒は警察署を武器を持たずに襲ったのだろうか。またその後、警察署で手に入れた武器だけで治安本部を占領できたのだろうか。治安本部には政治警察付属の兵士がいたはずである。警察署で手に入れた武器だけで、兵士たちに勝利したのだろうか。さらには暴徒を制圧に来た軍隊を追い払ってしまった。ISWは警察署を襲った暴徒が武器を所有していたか、について書いていない。しかしこの事件が起きる数週間前から反対派に武器が渡っており、警察署を襲った連中は機関銃やRPG(ロケット推進手りゅう弾)を所有していた、と政府は発表している。常識的にはこちらのほうが理解しやすい。
もう一点付け加えると、ジスル・アッ・シュグールはイドリブ県の中でも、最もトルコ国境に近い。この事件は自然発生的に起きたのではなく、武器を持った連中がトルコから侵入したのであり、計画された反乱だった可能性が高い。
ISWはジスル・アッ・シュグールの反乱について基本的な事実を書いているが、反対派の話に基づいているようだ。次に紹介するクリスチャン・サイエンス・モニターというサイトは政府側の説明を引用している。違う角度から事件を見ることができる。また同サイトは31年前のジスル・アッ・シュグールの反乱について書いており、シリアは反乱の火種を持った国であると改めて認識させられる。
========《武装反乱の開始?》=======
Has Syria's peaceful uprising turned into an insurrection?
By Nicholas Blanford, Correspondent
Christian Science Monitor 2011年6月9日
イドリブ県の町で、兵士と治安部隊120名が殺害されたと政府が発表した。暴力事件が徐々に過激になり、背後に誰がいるのかという議論がますます活発になるだろう。
6月8日大統領の弟マヘル・アサドが率いる数千人のエリ-ト部隊がジスル・アッ・シュグールに集結した。近隣の村々が戦車の長い列が近づいていることを、ジスル・アッ・シュグールにつたえた。街から人の姿が消えた。
政権は市民の抗議デモの弾圧を強化し、実弾、戦車さらには戦闘ヘリを用いるようになった。こうなると市民の側が武力で反撃するようになるのは、避けられない。シリア軍に対する武装抵抗が増えている。ジスル・アッ・シュグールでのシリア軍の損失はこれまでで最大となった。
この事件により、シリア軍に銃を向けているのは誰か、という疑問が生まれる。市民が武器を持って抵抗を始めたのか、それとも軍隊の一部が反乱し始めたのか。いずれにしろ、1982年に起きたハマの反乱が再現しつつあるようだ。しかも今回は全国的な規模であり、40年続いたアサド政権最大の危機となっている。
政権によれば、シリアに混乱を起こしているのは犯罪集団とイスラム過激派である。この見解は部分的に正しく、ムスリム同胞団がシリアの他宗派・多民族社会の対立をあおっている点は見逃せない。30年前もムスリム同胞団は同じことをしている。最近数週間シリアへの武器の流入が増えている、という事実もムスリム同胞団の暗躍を思わせる。
一方、反対派は次のように主張している。「抗議運動は現在も平和的だ。現在起きている武力衝突は、政権に忠実な部隊と召集兵の間で起きている。召集兵は抗議する市民に同情して反乱している」。
地方連絡委員会( Local Coordination Committees)に所属する女性活動家は次のように言う。
「市民に発砲することを拒否した兵士たちは住民にかくまわれており、住民の家に住んでいる」。
女性活動家はベイルートを拠点としており、彼が所属する連絡委員会はシリア各地で起きていることの情報センターとなっている。彼女は匿名を条件に付け加えた。
「市民に対する発砲を拒否した兵士が治安部隊によって射殺されたという、多くの目撃証言がある。7日にも、カブル(Kabir)川を超えて逃げようとした兵士3人が撃たれ、負傷した。カブル(Kabir)川はレバノン北部の国境を流れている川です。これはレバノンの住民が話したことです。この時撃たれた4人目はレバノン人のディーゼル油密輸人で、彼は死亡しました。彼の死体は川底で発見されました」。
〈政権による報復〉
外国のメディアはシリアに入国できないため、非難合戦を繰り返すどちらが正しいのかを見極めるのは不可能に近い。しかしジスル・アッ・シュグールの事件はデモ開始以来の2カ月半で最大の出来事であること認めている点で、両者は一致している。
この事件についてシリア政府は次のように発表した。
「機関銃(複数)とロケット推進手りゅう弾(複数)を持った数百人のゲリラが治安部隊を待ち伏せし、政府の建物を攻撃した。ガスボンベ爆弾で警察署を爆破し、死体を町を流れるオロンテス川に投げ捨てた」。
モハンマド・シャー内務大臣は次のように述べた。
「政府は毅然とした対応をする。武装反乱に対しては、武器の使用を躊躇(ちゅうちょ)しない」。
装甲車の長い列がジスル・アッ・シュグールに向かっているといるということを知り、数千人の市民が一斉に町から逃げ出した。彼らは19km西方のトルコとの国境に向かった。
ワシントン・インスティチュートのアンドリュー・タブラーは言う。「シリアの状況がますます悪くなっている。政権が抗議運動の弾圧を強化しているので、反対派の暴力的な反撃が増えるのは避けられない」。
反対派は言う。「自分たちの抗議運動は現在も平和的だ。武力闘争は政権に忠実な部隊と離反兵士の間で起きている」。
〈31年前の反乱〉
ジスル・アッ・シュグールはスンニ派の牙城ともいえる町で、シーアは政権に対する反乱の歴史を持っている。1980年3月の抗議運動際には、民衆の一部がバース党の建物と軍の兵舎を焼き討ちし、武器と弾薬を奪った。武装反乱を鎮圧すため、特殊部隊がジスル・アッ・シュグールに送られた。彼らはロケットや迫撃砲で暴徒たちの占領地区を攻撃した。反乱は鎮圧されたが、民家や商店が破壊され、数十人が死傷した。
翌日軍事裁判により反乱容疑者が裁かれ、100人以上が処刑された。鎮圧の過程で150-200人の住民が死亡した。
以上は政府発表による、31年前の反乱の経過であるが、今回の事件とよく似たことが過去にあったことがわかる。
離反兵士や怒れる民衆のほかにも、現在の状況は良い機会だと考えて武器を取る人々がいる。2003年のイラク戦争の際、シリアのイスラム主義者が米軍とのゲリラ闘争に参加している。米軍に憎まれたヨルダン人のザルカウィは有名であるが、シリア人ゲリラも米軍を攻撃している。シリアは自国民をイラクに送るだけでなく、外国のゲリラ兵が自国を通過することを許可した。対米ゲリラがシリア経由でイラクに流入していることについて、ブッシュ大統領は繰り返しシリアを批判した。
イラクでのゲリラ闘争は終了しており、イラクから帰ったシリア人ゲリラは新しいターゲットを探している。彼らはアサド政権に矛先を向けるのは間違いない。
イラクで米軍と戦ったシリア人ゲリラはスンニ派の熱心なイスラム教信者であり、世俗的なアラウィ派政権を倒すチャンスをうかかがっている。戦闘経験のある彼らは現在の混乱を利用して武装反乱を企てるだろう。イスラム主義者全員がイラクに行ったわけではない。シリアには多数のイスラム主義者がいる。彼らも武器を取るだろう。
シリアでは最近の数年間、イスラム過激派が犯人と思われるテロ事件がおきている。2008年には情報機関が入っているビルのそばで車に仕掛けれた爆弾が破裂し、17人が死亡した。
〈闇市場での武器の取引が増加〉
シリアで武装反乱が始まりつつあるのは、隣国レバノンの闇市場で武器の売買が増えていることと関係があるようだ。内戦終了後もレバノンニシンを経験の平和は戻っておらず、内戦の構造は残っている。闇市場で武器の売買は日常化しているが、現在のような取引の多さは前例がない。南ベイルートで自宅のガレージを見せにしている武器商人アブ・リダが言う。
「武器の需要が急増していて、市場にはほとんど出回らない。私は武器を仕入れることができず商売にならない。特に良質なロシア製のカラシニコフは手に入らない」。
最上の品質のカラシニコフのAK-47は金属部分に円の中に11という数字が掘られているため、武器市場では「ーサークル11と呼ばれている。
「シリアでデモが始まる前、サークル11は1200ドルで売られていたが、現在は2000ドルに値上がりしている。中東の反乱兵の間で人気があるRPG(ロケット推進手りゅう弾)は900ドルから1000ドルに値上がりした。弾頭一発の値段は50%値上がりし、150ドルになった。
レバノン人の仲買人はアブ・リダのような武器商人から武器を買い、国境を越えてシリアに入り、シリア人に売る。
「武器はほとんどレバノン北部の国境を越えてシリアに行き、レバノンで売られるのはわずかである」。
レバノン北部の国境とは、アッカ(Akkar)地方である。この辺の国境は昔から武器に限らず様々な物資の密輸ルートになっている。最近3か月のシリアの反乱の中で、レバノンの北部国境に近いスンニ派の町や都市が多いのは偶然ではない。また北部レバノンに限らず、レバノンの他の国境そしてトルコやヨルダンとの国境に近い地域でも、同じ理由で反乱が起きている。
===========================(クリスチャン・サイエンス・モニター終了)
政権はデモの中には最初から武装した者が紛れ込んだと主張し、デモが始まる前に国境で大量の武器を押収したことを根拠として挙げていた。これはあくまで政権の言い分なので、客観的な裏付けが必要であるが、レバノンの闇市場で急に武器の取引量増えたという事実は、シリアに武器が流入したことを物語っている。平和なデモだった最初の3か月に多くの兵士・警官が死亡している原因は命令拒否兵士が射殺された場合が多いかもしれないが、武器を持たない民衆の中に、武器を持った暴徒が紛れ込んでいた場合もあったようである。
ジスル・アッ・シュグールの反乱についての政府の説明は反徒たちの武器を明らかにしており、反対派のストーリーにかけていたことを補っている。しかし2日目に反乱の鎮圧に派遣された軍隊が撃退された事実は消えている。同一事件についての記述は、どちらも不完全である。
ジスル・アッ・シュグールの反乱は全国的な武装反乱の起爆剤となることはなかった。鎮圧されて終わり、この後7カ月間平和な抗議運動が続く。外国からの本格的な武器援助は7カ月後に開始されるからである。ではこの7カ月間に単発的に7回起きた武装反乱の武器はどのようにして手に入れたか、私は気になっていた。この時期米政府はシリアに深くかかわるつもりはなく、大規模な軍事援助をするつもりがなかった。米国はイラクとアフガニスタンという未解決の問題を抱えており、米国の威信にダメージのない形で決着することに精力を奪われ、シリアに手を出す余裕がなかった。米国はリビア攻撃に参加したが、仏・英が主導であり、後始末は彼らが大部分するはずだった。
米政府はシリアへの軍事干渉に及び腰だったが、CIAは活発に動いており、本格的な武装反乱は無理なので、デモを拡大することに勤めていた。2011年に8回起きた武装反乱は失敗に終わったが、デモを拡大するのに役立った。武装反乱の鎮圧において、住民が巻き添えになり、犠牲者が出た。また多くの住民が難民となった。住民の怒りは地縁・血縁・反対派の情報ネットワークを通じて拡散した。一つの町をゴースト・タウンにすれば、政権に対する反感が他地域に生まれた。デモが下火にならず、徐々に広がっていたので、CIAにとって成功だった。
2011年の数少ない武装反乱にも武器は必要だったのであり、その入手方法についてクリスチャン・サイエンス・モニターは重要な指摘をしている。レバノンの闇市場で武器の取引量が増えたことである。わずかな資金援助があれば、2011年程度の反乱は可能だった。