3月19日、前日の5人の死者の中でリーダー格だった2人の葬儀に数千人が集まり、革命を要求した。
デモ行進する人々は自分たちの権利を要求し、「もっと自由を」・「戒厳令の廃止」と声を合わせて叫んだ。また「腐敗を終わらせろ」・「我々の仲間の4人の殉教者の死を、決して忘れない」と声をあげた。
彼らは前日(18日)の要求を繰り返した。
市長とダラア政治警察長官の解雇すること。市長は市民に嫌われ、察長官は、落書きをした少年たちを逮捕した責任者であるからだ。
警察はダラア市を包囲し、ウイッサム・アイヤシュとマフムード・ジャワブラの葬儀に集まった人々に催涙弾を投げ、解散させようとした。催涙弾は普通のものより毒性が強く、人々は呼吸困難になったり、神体がまひしたりした。
シリアの人権擁護活動家(Mazen Darwish)の話によると、警察がダラア市を封鎖したので、人々は市から出ることはできるが、入ることができなくなった。また他の活動たちは「数十人が逮捕された」と話している。これは昨日(18日)のデモに讃歌した者に対する弾圧である。
一方で政府はこの日、大幅な譲歩をし、事態収拾を試みた。政府はダラアの宗教指導者と長老たちを送り、市民たちと交渉させた。
この日について、イスラエル・ナショナル・ニュースが次のように書いている。
「葬儀の後、反対派のリーダーたちは、いくつかの要求を文書にして、当局に提出した。要求の第一は政治犯の釈放であった。異例なことに、政府は落書き少年たちを釈放すると申し出た。ダラアの緊張を緩和させようというねらいからである」。
<3月20日>
前日シリア政府が異例の譲歩をしたにもかかわらず、20日大きなデモ再発する。一部の過激分子が再び暴れる。イスラエル・ナショナル・ニュースの続きの部分を引用する。
「20日再び暴動が起こり、警察官7名が死亡し、バース党本部と裁判所が放火された。暴動のきっかけは抗議者2人が殺されたという不確かな噂が広まったことである。
目撃者の話によると、さらに多くの抗議者がダラア市内に流入するのを防ぐため、治安部隊は市を包囲した。
反政府デモはシリアでは珍しく、デモが起きた場合残酷に鎮圧されるのが常である」。
同じく20日について、アルジャジーラがやや詳しく書いている。
=======<群衆が建物に火をつける>=======
ダラアでは、連続デモの3日目となる20日、群衆が裁判所とその他の建物に放火した。
住民の話によると、治安部隊が実弾を発射し、一人が死亡し、数十人が負傷した。また数十人が催涙ガスを吸い込んだため、オマリ・モスクで治療を受けた。
この日(20日)数千人が道路に集まり、腐敗の防止と48年間続いている戒厳令の廃止を要求した。また2日前のデモで5人が死亡したことに抗議した。
バース党本部と2つの電話会社のダラア支社が放火された。一つはアサド大統領のいとこのラミ・マクルーフが経営するシリア・テレである。マクルーフは汚職を理由に、米国から経済制裁を受けている。マクルーフはシリアで最も裕福なビジネスうマンであり、ダラアの住民にとって彼は汚職の象徴である。
活動家のひとりが言った。「人々は抑圧と腐敗の象徴に火をつけた。近くにある銀行には火をつけなかった」。
AFPの特派員によれば、デモの民衆は知事の家に向って後進しようとしたが、治安部隊が警告の射撃をし、催涙弾を発射して禁止した。
政府の特使がダラアに到着し、18日の死者に哀悼の念を表明した。人々は使節団に向かって叫んだ。「反対!戒厳令に反対!我々に最も必要なのは自由だ」。
シリア政府は死者が出た原因を調査する委員会を組織する、と発表した。
アルジャジーラの特派員ルラ・アミンがダマスカスから伝えた。「シリア政府はダラアの騒乱が他地域へ波及するのを防ぎたいと考えており、何とかダラアを鎮静化させようようとしている。政府は、市民殺害に責任があるダラアの治安関係者を解任すると明言している。加えて市長の更迭も明言している。
政府はこの日(20日)、2週間前から拘束している子供たちを即刻釈放すると発表した。
落書き少年たちを逮捕したことが、ダラアの混乱の、そもそもの原因であった。
ダラアの産業は農業である。近年水の量が減り、大きな打撃を受けている。シリア東部でも水不足による経済危機が進行しており、土地を捨てた住民数千人がダラアに流れ込んでいる。
ダマスカスでは、今週政治犯の釈放を求め、150人が静かなデモをした。少なくとも1名のダラア出身者がその中にいた。それはダイアナ・ジャワブラであり、彼女は愛国心に悪影響を与えたという理由で逮捕された。彼女のほかに、32人が逮捕された。
ジャワブラはダラアの15人の子供を釈放する運動をしていた。
インターネット上で政治的意見を発信した罪で、ダラア出身有名な外科医のアイシャ・アバ・ザイドが3週間前逮捕されている。
ダラアの住民が言う。「ダラア出身者2人の逮捕は政権が抑圧的であることを感じさせ、ダラアでの抗議に火に油を注いだ。
ホムスと地中海岸のバニアスでも小さなデモがあった。
シリアでは3月15日非暴力なデモとして始まった。フェイス・ブックを通じて、自由の拡大を求めて、この日に集まろうと呼びかけられていた。
シリアは1963年以来、戒厳令下にある。
=================(アルジャジーラ終了)
20日シリア政府は譲歩し、抗議する人々の怒りを鎮めようとした。そして約束通り、落書き少年たちは釈放された。この時が内戦にならずに済んだかもしれない分岐点だった。
しかし釈放されて家に帰った少年たちは、噂されていたように、大人の政治犯と同等の拷問を受けたことが一目瞭然だった。両親たちは怒り、これをきっかけに、23日再び数千人のデモとなり、翌24日には数万人のデモとなった。