<内戦を契機にクルドは自治を実現>
2011年、チュニジアで始まったアラブの春がシリアに波及した。
2011年に始まった反政府デモは2012年には内乱となった。スンニ派の鎮圧に精いっぱいで、シリア政府はクルド民族主義を抑圧する力を失った。2013年11月、シリアのクルド(西クルド)は暫定統治を開始し、事実上の自治政府が誕生した。こうして「ロジャバ革命」が実現した。
クルド3州
自治政府樹立へと至るまでのクルド地域の状況と、PYDの周到な戦略について、wikipedia「Rojava Revolution」が書いている。この文の内容を、一部補足しながら、まとめた。
<2011年、ハサカ県のクルド>
2011年1月26日、ハサカ市で、市民の一人が焼身自殺した。
政治活動家はこの日を「怒りの日」と呼んで集会を開いたが、政府の弾圧を恐れて人は集まらなかった。
しかし数日後、警察官が小売店主をなぐったことが原因で、抗議行動が起きた。
以後小さな抗議行動が続いた。
2011年3月7日、獄内の政治犯13人がハンガーストを行った。3日後、これに連帯する抗議行動として、数十人の市民がハンガーストを開始した。これ以後アサド政権に対する反対運動が大きな広がりを持った。
「クルドの殉教者の日」を記念し、アサド政権に抗議するため、3月12日、カミシュリ市とハサカ市で多くの住民が集まった。3月と4月、抗議行動は拡大した。
アサド政権がクルドをなだめるため、数千人のクルド人に市民権を与えると約束したのは、この時である。
夏になると、抗議行動はますます激化し、政権による弾圧は過酷になった。
<シリア全土で反政府運動>
2011年の夏、ハサカに限らず、シリア全土でアサド政権に対する抗議が先鋭化した。政府に批判的な人々は、アサド政権の打倒と、新政府の樹立を求めるようになった。
8月、反政府勢力が結束し、「シリア国民評議会」が成立した。民主的で、国内の多様な要素を代表する新政府の樹立を目標とした。
しかし「シリア国民評議会」は当初から、内部での対立と分裂に悩まされた。
< 反政府勢力から距離を置くクルド>
後に、ボイス・オブ・アメリカは、西クルドは最初から他の反政府組織と距離を置いていた、と報告した。西クルドとはシリアのクルドである。(2013年の記事)
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2011年5月31日、「シリア国民評議会」の結成の準備として、トルコのアンタリアでシリア反対派サミットが開かれた。クルドはこのサミットをボイコットした。西クルドの12の政党が結成した「クルド政党国民運動」は、ボイコットの理由を次のように述べた。
「トルコで開かれるこの種の会議は西クルドにとって有害である。トルコはクルドの願望を危険なものと考えている。トルコはトルコ内のクルド人も、シリアのクルド人も、全てのクルド人を敵であると考えている」。
また西クルドの左翼政党の代表は次のように述べた。
「我々シリアのクルド人はトルコを信用していない。トルコの政策を警戒している。だから我々はシリア反対派サミットをボイコットした」。
8月、シリア反対派はイスタンブールで二度目のサミットを開き、「シリア国民評議会」が結成された。この会議には、西クルドの2政党が参加した。クルド統一党とクルド自由党である。他の10政党は再びボイコットした。
ボイコットの理由について、ある指導者は、「トルコは全世界のクルド人を敵視している」と語った。
「自国内の2千5百万人のクルド人の基本的な権利を認めないトルコが、シリア国民とシリアのクルド人の権利を認めるだろうか?」
一方、サミットに参加したクルド自由党の代表は「クルドの立場を主張するために、反政府サミットに参加した」と語った。「会議の期間、トルコからいかななる圧力もなかった」。
(「Rojava Revolution」はVOAの本文へのリンクを示していない)
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2011年の秋、市民の抗議行動は、武装蜂起へとエスカレートした。「自由シリア軍」が各地で結成され、シリアの中央部と南部で武装闘争が開始された。
9月20日、ハサカ県のラアス・アルアイン(セレカニエ)でクルド人政治家マフムード・ワリが暗殺された。
ラアス・アルアイン(セレカニエ)
10月7日、著名なクルド民族主義者のマシャール・タンモが、暗殺された。覆面をした男たちがタンモの自宅に押し入り、銃撃した。シリア政府の指図によるものと考えられている。
同時期、シリア政府はシリア各地でデモを弾圧し、市民20名が死亡した。
<PYD、アサド政府と平和を保つ>
シリア全土の反政府運動に呼応し、クルド地域でも政府を批判する声が高まっていたにもかかわらず、クルド民主統一党は独自な政治的判断をした。過激な反政府運動を中止し、他地域の反政府闘争から距離を置くことを主張した。
民主統一党《PYD》は西クルドの12の政党のうち最も有力な政党であり、2003年、トルコの非合法クルド政党《PKK》の支部として設立された。
方針転換について、民主統一党(PYD)のサレフ・ムスリム議長は説明した。
「反政府闘争に参加しないのは、実際問題として、政府とは平和が実現しているからだ。政府軍は兵力が足りず、不穏なアラブ諸県全てに展開することはできない。ましてクルド地域に軍を送る余裕はない。政府軍としては、アラブを相手にするだけでも手に余り、ロジャバで第二戦線を開くなど、論外である」。
PYDの指導者サレフ・ムスリム
政府軍将兵の逃亡はまだ少なかった2011年秋の段階で、政府軍の兵数はすでに不足していた。
政府軍からの離脱者が増えた2012年の冬、政府軍の下級将校が「同時に数か所で問題が起きると、対応できない」と困難さを語っていた。
PYDのサレフ・ムスリム議長は続けた。
「我々は、バース党アサド政権が崩壊する場合に備え、現在の行政にとって代わる、クルドの行政機構を構築することに専念したい。行政機関としての委員会とその中の各部門を準備しなければならない。その間、我々の軍隊は、戦闘に巻き込まれてはならない」。
YPG(人民防衛隊)は、2004年、PYDの軍事部門として結成された。イラクのクルド地域で組織されたが、政治部門のPYDと同様、トルコのPKKの影響下にある。
2014年末、イスラエルのジャーナリストがハサカ県に入り、YPGを取材した。YPGのキャンプにPKKの女性将校の姿があり、インタビューに答えている。
<PKK、トルコ政府にくぎを刺す>
2011年11月、トルコの非合法政党PKKの幹部が言明した。「トルコがロジャバ(西クルド)に干渉するなら、PKKはロジャバを守るために戦うだろう。PKKの軍司令官もトルコに警告した。「トルコ軍がロジャバに侵入するなら、トルコに住む全てのクルド人が蜂起するだろう」。
PYDがアサドと平和を保ち、行政機構の構築に専念している間、他の地域では、反政府運動が本格的な内戦へと転化した。アサド政府は平穏なクルド地域の部隊を戦闘地域に回す必要に迫られた。
<YPGが出動>
2012年6月、アサドの部隊が去った後の空白を埋めるため、PYDはクルド地域にYPGを配置することを決定した。クルド各地からアサド軍が去った後、クルド軍が平穏に進出した。アサドとPYDの間に了解があったのかもしれない。
軍隊を有する唯一の政党PYDがクルド地域を統治することが自然な流れとなった。しかし政治的な観点から、PYDはクルドの政党「国民評議会」に、共同統治を働きかけた。
2012年6月11日、イラクのクルド自治政府のマスード・バルザーニ大統領の仲介により、PYDと 「クルド国民評議会」との間に、7項目の合意が成立した。しかし、これは実行されず、空約束に終わった。
7月12日、2つの政党は再び合意に達し、クルド最高委員会が成立した。最高委員会は西クルド3州の統治機関となった。PYDの一党独裁ではなく、クルド国民評議会との連立政権になった。
7月19日、YPGはコバニに入った。
コバニに続き7月20日、YPGはハサカ県のアムーダに入った。wikipediaの「Amuda」がこれについて書いている。
<YPG、アムーダを制圧>
アムーダでは、YPGに先んじて、自由シリア軍が町に入った。
アムーダはロジャバ(西クルド)の首都カミシュリの隣町である。
2012年7月、アサド政府はクルド地域の統治を放棄した。アムーダから政府軍が撤退すると、自由シリア軍が町に入ってきた。しかし7月21日、YPGが町の支配を確立した。
YPGのアムーダ支配は平穏ではなかった。自由シリア軍を追い払ったものの、町には、自由シリア軍の支持者がいた。
2013年6月、YPGと自由シリア軍の支持者が衝突した。PYDに敵対的な住民が、YPGが抗議集会に発砲した、と訴えた。町には自由シリア軍系の青年委員会が組織されており、クルド住民と対立していた。
批判されたPYDの党員は「、自分たちはならず者傭兵に襲撃された」と主張した。
こうした不安定要素はあったが、多数派のクルド住民の支持があり、PYDとYPGはアムーダの支配を維持した。
その後、ハサカ県南部へISISが進出し、難民となった人々が、アムーダに流れ込んだ。アムーダは安全な場所だった。
自由な女性の広場 アムーダ
<クルド自治政府樹立>
2013年年11月、PYDは「暫定統治計画」を宣言した。「臨時政府には、クルド国民評議会をはじめとする諸政党が参加する」。
「クルド自治政府の樹立は、シリアの一体性を破壊するのだ」という批判に対し、PYDは「暫定統治は自衛のためであり,独立に向けた動きではない」と弁明した。
2014年の1月初め、ジャジーラ州で選挙が行われ、ジャジーラ州の第一回会議がアムーダで開かれた。会議は憲法を承認し、ジャジーラ州の首都をカミシュリと定めた。アムーダが暫定的に首都の役割を代行することになった。2004年の統計では、アムーダはハカ県で4番目に人口が多い町である。
ジャジーラ州会議の議長にはクルド人のエクレム・ヒソがなり、アラブ人とアッシリア人が副議長になった。
2014年1月21日、ロジャバ3州の自治政府樹立が宣言された。 「3州はそれぞれの政府を持つ」とした。しかし実際に誕生したのはジャジーラ州政府のみである。他の2州の政府は形式的なものにすぎない。
コバニとアフリンは周囲が敵で、孤立しており、戦時状態に近い。コバニの西に位置するジェラブルスには、ISISの基地があり、アフリンは激戦地アレッポから至近距離にある。現在、両州は統治機構を立ち上げる段階になく、YPGの武力によって3地区を結合することが先決である。PYDは3州の一体化を最終目的としているようである。現在の段階では、とにかくジャジーラ州で国家機構を現実化させることが大きな前進である。
現在切り離された3つの部分となっている3州を一体化するには、中間地帯を征服しなければならない。YPGにとっては大仕事となる。それでYPGは、2013年11月1日、アラブ人部隊を編制した。
征服予定の地域には、クルド以外の住民も住んでいる。クルド以外の住民の中で最多数であるアラブ人の反発を少なくするため、アラブ人の地区はアラブの部隊に任せる。征服をできるだけ平和的なもにするためである。アラブ人部隊の名は、「アフラール・アルワタン旅団」である。
クルドは、コバニの隣のジェラブルスを占拠しているISISを攻撃するつもりであった。機が熟すのを待ちながら、一歩一歩準備を進めていた。しかし2014年9月16日、ISISの方が先にコバニに襲いかかった。
2014年7月、アラブ人とクルド人の2人が、ジャジーラ州の新長官に選ばれた。アラブ人長官は地元の部族長であり、女性のクルド人長官は元YPG女性部隊の隊長ハディヤ・ユースフである。
2014年11月、元フランス外相ベルナール・クシュネと、「国境なき医師団」の創設者がアムーダを訪れ、長官たちと会った。
<アムーダの歴史>
19世紀、英国の旅行者が、アムーダ村の住民はクルド人だとしている。20世紀には、アッシリア人が多数移住し、アムーダはキリスト教徒の町と言われるまでになった。アッシリア人はキリスト教徒であり、クルド人はイスラム教徒である。
1937年、ダマスカスのアラブ民族主義がアラブ人とクルド人をそそのかし、アッシリア人を虐殺した。アッシリア人はカミシュリ市とハサカ市に逃れた。宗主国のフランスは非アラブの権利を尊重する政策を進めた。独立を熱望するアラブ民族主義に対抗する勢力を育てる意味もあった。
これに反し、ダマスカスのアラブ民族主義者は非アラブの分離傾向を恐れ、危険な民族を弾圧した。
こうしたことがあったが、現在もアムーダにはアッシリア人が住んでいる。トルコからクルド人の移住があり、アムーダはクルド人が多数の町となっている。