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  たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

スクール・シャム旅団(イドリブ、アレッポ)

2018-01-18 03:11:44 | シリア内戦

 

ヌスラ戦線を除くイスラム諸派が大同団結しようという試みは2012年秋に始まった。しかしスクール・シャム旅団を中心とするグループとアフラール・シャムを中心とする2つの集団に分裂した。20131122 2つの大集団が合流し、イスラム諸派の統一戦線=イスラム戦線が成立した。これにより、反対派には3つの極が生まれた。ヌスラ戦線・ISIS・イスラム戦線である。自由シリア軍は戦闘部隊としては意味を失った。彼らは政治活動家・社会活動家としては一定の役割をになうだろう。

最初にイスラム諸派の統一を試みたのはスクール・シャムであり、2012年年9月、シリア・イスラム解放戦線が成立した。スクール・シャムはアフラール・シャムとリワ・イスラムと共に、多数のイスラム主義グループの中の3強である。

またスクール・シャムの指導者アブ・イッサもシリアではよく知られている。ウイキペディア(日本版)の「サイドナヤ刑務所」という項目に次のように書かれている。

 

「2011年の反政府デモの数カ月後(英語版)、様々な恩赦で多くのイスラム主義収容者が釈放されたが、ザーラン・アルーシュ、アブ・シャーディ・アブード(ハッサン・アブードの兄弟)やアームド・アブ・イッサといった著名な受刑者も釈放されていて、釈放後シリア内戦においてジャイシュ・アル=イスラム、アハラール・アル=シャーム・イスラム運動、スクール・アル=シャム・ブリゲードといったイスラム主義反政府グループを率いている。

また、当刑務所を含むシリアの刑務所では拷問や栄養失調、公平な裁判無しの独断的な死刑といった勾留者への非人道的な扱いが繰り返し報告されている。

『サイドナヤ刑務所に送られた勾留者の70%が生きて帰れておらず、軍法会議による裁判のほとんどは秘密警察によって決められてしまう』」。

ジャイシュ・イスラムとスクール・シャムの指導者が釈放されたことは物議を呼んでいる。反アサド国民運動をイスラム過激派によるテロと見せかけるため、アサド政権はわざと彼らを釈放した、というのである。

 

ウイキペディア(英語版)に「スクール・シャム」の項目があるので抜粋する。

======《As Suquor al-Sham 》==========

スクール・シャム旅団はアレッポ県とイドリブ県で活動し、20136月には17の下位グループを率いていた。彼らは道路の脇に爆弾を仕掛け、シリア軍に損害を与えることで有名になった。彼らは狡猾であり、釈放したシリア軍捕虜の車に爆弾を仕掛け、自由になった捕虜の車がシリア軍の検問所に帰りついた時、遠隔操作で爆破した。2012年の半ばまで、彼らは自爆攻撃をしなかった。

スクール・シャム旅団は20119月、アフマド・アブ・イッサによってイドリブ県のザウィーヤ地方のSarjehという町で結成された。

 

 

 

彼は4か月前サイドナヤ刑務所から釈放されたばかりだった。彼の旅団はシリア軍からの離脱者と一般市民の混成部隊だった。グループのウエッブ・サイトによれば、旅団は離脱兵の部隊と市民部隊とに分かれていた。市民部隊の指導部は顧問(シューラ)会議と呼ばれ、アブ・イッサが議長だった。市民部隊は軍事物資・食料の調達とプロパガンダを担当した。戦闘部隊は独立しているが、市民部隊のアドバイスに基づいて行動した。

スクール・シャムは「自分たちは自由シリア軍の一部である」としており、「シリア国民会議は国際社会においてシリア革命を代表する組織である」と認めている。しかしながら「シリア国民会議は自分たちに命令する権限はない」と考えている。

 

20139月、スクール・シャムと多数のグループが自由シリア軍との決別を表明した。

「シリア国民会議は我々の代表ではない。我々はシリア国民会議をゴミ箱に捨てる」。

続いて12月、スクール・シャムの指導者が自由シリア軍と決別を表明した。

「我々は、もはや自由シリア軍とは無関係である」。

スクール・シャムとシリア国民会議・自由シリア軍との関係を説明するため、2013年にまで話が及んだが、2012年について、もう一つ書かねばならない。

20128月スクール・シャムやファルーク旅団をはじめとして、多数のイスラム主義旅団が合同し、シリア・イスラム解放戦線が成立した。アブ・イッサが指導者になった。アブ・イッサアブ・イッサによれば、戦闘員の総数は4万を超えるという。また彼は「イスラムの教えに沿った国家の建設を目標としている」と述べた。「イスラムの教えに沿った」というあいまいな表現により、イスラム法をそのまま実定法にするつもりはない、と彼は暗に示している。

2014年の1月、多数の反対派グループとISILとの間であからさまな戦争が起きた。最初ISILが完敗し、支配地から逃走したが、半月もたたないうちにISILは反撃に出た。その後徐々に支配地を奪回した。ISILとの戦いの過程で、スクール・シャムは目に見えて弱体化した。

20141月スクール・シャムの宗教指導者アブ・アブデル・ラフマンは血なまぐさい殺し合いに抗議し、グループを去った。

20142月スクール・シャムの軍事部門の最高指揮官アブ・フセイン[本名Mohammed al-Dik)がISILに襲われ、死亡した。

同じく2月スクール・シャムの参謀長と最初からの構成グループであるSuyouf al-Haq旅団が無断でISILと停戦した。その後参謀長とSuyouf al-Haq旅団はスクール・シャムから離脱した。

(スクール・シャム旅団はいくつかの旅団によって結成された。旅団は複数形である)

Suyouf al-Haqは先に離脱していた Liwa Dawoodに合流した。

リワ・ダウード(Liwa Dawood)はスクール・シャムの強力なメンバーだったが、2013年に離脱し、新しいグループ(ジャイシュ・シャム)をたちあげた。

こうして勢力を失ったスクール・シャムは2015年夏、アフラール・シャムに合流した。

2015年3月イドリブ県を中心にシリア北西部の制圧をめざし、ジャイシュ・ファタハ(征服軍)が結成された。これはロシア軍の空爆下で反対派が戦線を維持する努力であり、ヌスラ戦線とアフラーラール・シャムがまず同盟した。この同盟を軸に各派が集合した。サウジアラビアはジャイシュ・ファタハ(征服軍)を積極的に支援した。

20169月スクール・シャムはアフラール・シャムから去り、ジャイシュ・ファタハに参加した。

2017125 日アフラール・シャムがヌスラ戦線と戦闘になった時、スクール・シャムはアフラール・シャムの側で戦った。

====================(wikipedia終了)

 

 

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スクール・シャムとイスラム解放戦線

2018-01-14 01:27:56 | シリア内戦

自由シリア軍は一つにまとまることに失敗したが、イスラム主義グループは2012年秋以後かなりのまとまりを見せた。ここではイスラム主義グループから、ヌスラ戦線を除く。ヌスラ戦線の活躍は目覚ましく、最強のイスラム主義グループであるが、これについては機会があったら書きたい。ヌスラ戦線に続くイスラム主義グループがいくつかあり、それらを中心に多数のグループがまとまれば、人数の点ではヌスラを超える大勢力となり、戦闘力の点でもヌスラに匹敵するものとなる。

2012年9月シリア・イスラム解放戦線が結成された。これはスクール・シャムを中心に、主要なイスラム主義グループを統一する試みだったが、アフラール・シャムの取り込みに失敗し、統一は実現しなかった。それでもイスラム解放戦線は数万の戦闘員をかかえる大きな軍団だった。イスラム解放戦線の中心的なグループであるスクール・シャムはアフラール・シャムやリワ・イスラムに匹敵するグループであるが、あまり知られていない。リワ・イスラムについては「ダマスカスのサリン事件」で書いたので、これからスクール・シャムとアフラール・シャムについて書く。イスラム解放戦線にリワ・イスラムは参加したが、アフラール・シャムは参加しなかった。

イスラム解放戦線の結成から3か月後、2012年12月21日、アフラール・シャムを中心とするシリア・イスラム戦線が成立した。

イスラム主義者たちは一つにまとまることができず、2大グループに分裂した。

この分裂は状態は約一年続き、2013年11月22 日両者は合流した。新しい統一戦線の名は「イスラム戦線」となった。統一前の両者の名は、既に述べたが、紛らわしいので再び書く。

 ①シリア・イスラム解放戦線(中心;スクール・シャム)

 ②シリア・イスラム戦線(中心;アフラール・シャム)

先ず、①のシリア・イスラム解放戦線について書くことにしたい。ういきう

ウイキペディア英語版にイスラム解放戦線の項目がある。

===== 《Syrian Islamic Liberation Front》======

2012年末シリア・イスラム解放戦線は反対派の中で最も戦闘力のあるグループのひとつだった。反政府武装勢力の半数を占め、数の上では最大だった。

20のイスラム主義グループの指導者たちが秘密の協議を重ねた末、2012年9月イスラム解放戦線が結成された。スクール・シャム旅団の指導者がイスラム戦線の指導者となった。彼の正式な名前はアフマド・イッサ・シェイクであるが、通常アブ・イッサと呼ばれている。シリア各地の20のグループがまとまとまり、数万の戦闘員からなる大部隊が成立した。

イスラム解放戦線の指導者アブ・イッサは次のように述べた。

「我々は自由シリア軍と良好な関係にあるが、彼らに全面的に支援ことはない。自由シリア軍の指導者はトルコに住んでおり、戦いを直接指導していないのは問題だ」。

イスラム解放戦線には、スクール・シャムに劣らず活発に活動しているグループが参加している。

①ファルーク旅団(ホムス)

②リワ・イスラム(ダマスカス)

③タウヒド旅団(アレッポ)

④デリゾール革命会議

⑤タジャモ・アンサール・イスラム(ダマスカス)

⑥ Ibn al-Aas Brigade( (アレッポ)

⑦ al-Naser Salaheddin Brigade (ラタキア)

これらのグループは地理的に互いに離れており、規模の点でも影響力の大きさでもまちまちである。また彼らの支援者もそれぞれ異なっている。

イスラム解放戦線の指導者アブ・イッサは武器の出所について次のように述べている。

「我々は政府軍から武器を手に入れている。または国内と外国の武器商人から武器を買っている」。

しかし彼らはトルコとカタールによって支援されているようだ。

「イスラム解放戦線がトルコ経由の武器を独占し、解放戦線に属さないグループを無力化しようとしている」と、自由シリア軍は非難している。

 

イスラム解放戦線はイスラム教スンニ派を信奉しており、ムスリム同胞団系やイスラム原理主義系のグループを含んでいる。しかし真に過激なグループはシリア・イスラム戦線に参加している。

イスラム戦線の中心的なグループであるアフラール・シャムは最初解放戦線に参加したが、リーダーの一人が解放戦線に殺害され、すぐに離脱した。比較的穏健な解放戦線が過激なグループのリーダーの一人を殺害したのである。解放戦線はアフラール・シャムを引き留めようと試みたが、無駄だった。

 

イスラム解放戦線はイスラム主義の国家の樹立を目標として入るが、かなり現実的であり、シリアが多民族国家であるという事実を受け入れており、「少数民族を排斥しない」と約束している。

また「宗教的なイスラム法は理念として尊重されるが、現実的な法律とはしない」としている。

「これは2段階戦術に過ぎず、イスラム解放戦線の最終目的はイスラム国家の樹立であり、彼らの本質はアルカイダと同一である」と、自由シリア軍は批判している。

==================(ウイキペディア終了)

イスラム解放戦線の中でナンバー2のファルーク旅団に以前所属していた人物が変なことで有名になった。殺害した政府軍兵士の心臓を切りとったのである。この蛮行をおこなったのは自由シリア軍ということになっているが、実はファルーク旅団の元戦闘員であるようだ。この事件が起きたのは2013年5月12日である。ファルーク旅団はホムスを拠点としており、当然クサイル戦に参加している。心臓切り取り事件の一週間後(5月19日)、反対派はクサイルから一掃された。

心臓切り取り事件について、 AFP(日本版)は次のように書いている。

==《 シリア軍兵士の「心臓を食べる」反体制派、動画がネットに》===

                  <http://www.afpbb.com/articles/-/2943857>

                     【2013年5月14日 AFP】

シリア反体制派の戦闘員が、政府軍兵士の遺体から心臓を切り出して食べる様子を写したとみられる映像が、インターネットに投稿された。

YouTube)に投稿された映像では、戦闘員の1人がぼかし処理された遺体にかがみ込み、心臓を切り取りながら、バッシャール・アサド政権の兵士たちに向け「おまえたちの心臓と肝臓を食べることを、われわれは神に誓う」と述べている。

映像の中で自由シリア軍に所属するとされているこの戦闘員は、片方の手に短刀、もう片方の手に心臓を持ち立ち上がる。そして心臓を口に運ぶところで、映像は唐突に終わっている。

 

映像は「SyrianGirl War」という名のユーザーによって12日に投稿されたが、信ぴょう性は定かではない。

=======================( AFP終了)

若い日本人ジャーナリストによれば、蛮行をおこなった兵士はファルーク旅団に所属していたが、2012年10月分派を立ち上げたという。この時期ファルーク旅団は自由シリア軍と良好な関係にあった。ただし形式的に自由シリア軍に所属するが距離を置くという、微妙な関係だった。蛮行兵士がたちあげた分派と自由シリア軍との関係も同じだろう。

さくらぎ・たけしブログがこの事件について興味深い話を書いている

=======《バニアスでの虐殺-追加-》======

            http://t-sakuragi.com/?p=650#more-650       

      TAKESHI SAKURAGI

               投稿日時: 2013/05/16        

 先日、バニアスでの虐殺を取り上げました。宗派間の争いが激化している中で、ある映像が数日前に動画サイトに投稿されました。カニバリズム。そう呼んでいいのか分かりませんが、ホムス県のレバノンとの国境の町、クサイルでFSAの指揮官が政府軍の遺体から心臓と肝臓をほじくり出して、口にしました。実際に食したのかは定かではありませんが、単なるパフォーマンスにしては常軌を逸している行為であると、反体制派側からも批判の声が上がっています。

指揮官の名前はアブ・サッカル(ハリード・アル=ハマド)。彼が所属していた部隊がシリアの反体制派の主力であるファルーク旅団。しかし、去年の10月に除隊し、別の組織を彼自身が立ち上げた。オマル・アル=ファルーク旅団。彼の部隊は宗派間抗争が入り乱れるクサイルを拠点に戦果を上げた。レバノンとの国境沿いの町クサイルは武器の中継地としても反体制派として手放せない地域。政府側にとっても地中海に繋がるこのルートはアラウィ派の支持基盤を固める重要な砦になる。

ここはシーア派の村々が点在し、レバノンのヒズボラにとっても重要な地域であり、反体制派の進撃を食い止める必要がある。アブ・サッカルは宗派間抗争に積極的に関与しているとされる。映像からも彼のアラウィ派への憎悪が読み取れ、彼自身、レバノンのシーア派の村に迫撃砲を撃ち込んでいる。今回の映像に対し、反体制派側である自由シリア軍、反体制派国民連合はすぐさま非難声明を出した。しかし、人肉を食らうほどの憎悪とはどのようなものなのだろうか。

ただ、実際に映像を見ると、反吐(へど)が出ます。僕はアサド政権側には批判的です。だからといって、反体制派側に肩入れしているわけでもありません。両者共々、人権を無視した行動をしているのは事実ですし、その責任を擦り付け合うのもどうかと思っています。それで、バニアスの虐殺についての記事がNYTimesに出たので、少し補足します。

証言者が語ることで、バニアスの虐殺の様子も見えてきた。生後数ヶ月の赤ん坊に火を放つ。妊婦の腹から胎児を抉り出す。数人の子供と大人が血の海の中を折り重なるように倒れている。政府軍や民兵は民家を次から次へと捜索し、殺戮を繰り返した。ある男性はコンクリートブロックで死ぬまで頭部を殴られた。政府軍が引き上げた後、村人が外の様子をうかがうと、無数の遺体が路上に散乱していた。遺体はブルドーザーで集められ、身元確認もされることなく埋葬された。虐殺が起きた村の一つ、バイダでは決して大きな衝突はなかった。革命当初は平和的デモを繰り広げていたが、何度か政府軍に痛めつけられるうちに沈黙を守るようになった。この周辺はアラウィ派、スンニ派、キリスト教徒と宗教、宗派が入り乱れている。彼らは互いに「宗派間の火種を起こさないよう」気を使っていたのだろう。しかし、(2013年)5月2日に起きた政府軍と自由シリア軍の衝突が虐殺を引き起こした。

虐殺が起きた村の住人は「もうアラウィ派の人間は歓迎しない。彼らがシリアに住むことは許されない」と怒りを滲ませた。今回の虐殺の主導者が政府軍、シャッビーハ、一部武装したアラウィ派の一般市民であり、決して全てのアラウィ派の人間がこれほど残虐な行為を許容しているわけではない。しかし、宗派間の亀裂は修復不可能なレベルに達している。その亀裂は残虐性を帯びて、シリア全域に拡大している。

NYTimesの記事は異常です。

参考サイト

http://www.foreignpolicy.com/articles/2013/05/13/most_disgusting_atrocity_syrian_civil_war_rebel_eat_heart?page=0,1

http://www.thenational.ae/news/world/middle-east/syria-rebels-vow-to-punish-atrocities-after-video-outrage#ixzz2TOCNFYWH

http://www.nytimes.com/2013/05/15/world/middleeast/grisly-killings-in-syrian-towns-dim-hopes-for-peace-talks.html?pagewanted=1&_r=0&ref=world

            《クサイル攻防戦》                              

           http://t-sakuragi.com/?p=675#more-675

    TAKESHI SAKURAGI    投稿日時: 2013/05/22        

先日、アブ・サッカルの話をしました。彼の蛮行は多くの非難を浴びました。彼自身はその後のインタビューで、「法の裁きを受ける覚悟はある。ただし、アサドと彼に従うシャッビーハも同じような裁きを受けなければならない」、「このままシリアで流血が続ければ、私のような人間はいくらでも現れるだろう」と述べています。その彼の部隊が展開している場所がホムス県のクサイルという町です。3日ほど前からクサイルでは双方による陣地の奪い合いが続いています。

双方とは体制派と反体制派です。体制派は政府軍とシャッビーハ、反体制派は自由シリア軍。それとクサイルでは体制派を後押しする強力な部隊も加わっています。ヒズボラです。ヒズボラがシリアの内戦に関与していることは以前から報道されてきましたが、小規模なものでした。しかし、クサイルが自由シリア軍の手に落ちて以降、シリア、レバノン領内のシーア派の村に迫撃砲が着弾するようになりました。死傷者も出る事態に危機感を募らせたヒズボラは(イスラエルの空爆にも神経を尖らせていたこともあり)盟友であるアサド政権を徹底的に支持することを誓います。

それが先月のヒズボラ指導者のナスラッラーの演説になります。そして彼の演説は今回のクサイル攻防戦へと繋がります。クサイルを自由シリア軍から奪還すれば、少なくとも国境沿いのシーア派の村が攻撃にさらされる心配はなくなります。同時にクサイルは首都ダマスカスとアラウィ派が拠点とする地中海沿いの地域一帯を結ぶ重要な町です。ここを潰せば、反体制派への物資の補給や人員の補充を厳しくなり、政府側にとっても今後の戦況を有利に運べるようになるのは確実です。両者の思惑が合致し、クサイルは火の海に包まれました。

==================(さくらぎブログ終了)

 

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ダマスカスのイスラム主義グループ 2013年11月

2018-01-13 13:47:53 | シリア内戦

2012年5月19日サハバ大隊と名のるグループが「高官6名を殺害した」と発表した。

「私アフマド・タクタク中尉は、サハバ大隊の野戦指揮官の一人でである。私はサハバ大隊を代表し、我々の特殊作戦中隊が決行した成果を報告する」。

この秘密作戦は失敗に終わり、高官6名の生存が確認された。犯行声明を出したサハバ大隊はダマスカス南部を拠点とする有力なイスラム主義グループである。

2か月後の7月18日再び高官暗殺が企てられ、今度は成功し、高官4人が死亡した。これについて犯行声明を出したのはサハバ大隊ではなく、イスラム大隊である。イスラム大隊は小さなグループであり、このように大きな戦果を挙げることができたのは不思議である。

大きな戦火というのは、この事件は大統領暗殺に等しいからだ。アサド大統領個人に絶対的な権力はなく、死亡した4人こそが権力の中心だった。2000年ハフェズ・アサド大統領

が死亡したが、独裁者の死後にありがちな混乱はなかった。この微妙な時期、政権を支えたのは今回殺害された4人を頂点とする軍・情報機関・バース党の幹部だった。国家統治に未経験なバシャール・アサドが実権を持つことは不可能だった。バシャールは象徴としての役割を引き受け、粛清も行わず、予想外の行動もしなかった。バシャールの時代になっても、ハフェズ・アサドの体制が継続していた。

 

            〈イスラム大隊〉

大戦果を挙げたイスラム大隊については、ほとんど知られていない。2014年7月10月19日ダラア県で戦闘に参加したこと、2015 年12月25日ハマ県でヌスラと共に戦ったことが知られているだけである。

             〈サハバ大隊〉

高官6人の暗殺に失敗したサハバ大隊はダマスカスのイスララム諸派の中でも有力なグループである。

ダマスカスのイスララム諸派の内情について述べた述べた記事があり、サハバ大隊も取り上げられている。

自由シリア軍の活躍は2013年春に終了した。それ以前から戦いの主役であったイスラム諸派は反乱を継続した。

2012年夏反対派の軍事攻勢は頂点に達し、アサド政権の崩壊は時間の問題と考えられた。この状況は翌年春まで続いたが、5月19日反対派はクサイルで完敗し、続いて7月12日反対派はホムスから一掃された。ホムスでは早い時期に大規模な抗議運動が始まり、シリア革命の聖地と呼ばれていた。しかしクサイル以外に補給経路がなく、クサイルを失ったことで、ホムスの反対派は形勢が不利になった。

クサイルとホムスにおいてアサド政権は巻き返しの能力があることを示した。もっとも航空攻撃と砲撃はシリア軍が行ったが、歩兵の主力はレバノンのヒズボラだった。

反対派が負けたことに変わりはなく、彼らの勝利は無期限に遠のいた。

この状況に最も激しく反応したのはサウジアラビアだった。ヒズボラはイランから資金援助されており、クサイルとホムスでの勝利はイランの勝利とも言えた。サウジアラビアはこのことに恐怖を感じた。2013年夏以後、サウジアラビアは反対派の再建に乗り出した。

自由シリア軍は戦闘力がなく、メディアがとりあげただけで、最初から戦闘集団としての存在感はなかった。サウジアラビアがイスラム諸派の支援に力を入れた結果、名実ともにイスラム諸派が反対派の主要勢力となった。

2013年11月、ダマスカスのイスラム主義グループが一つにまとまり、統一戦線を形成した。

 

======(ダマスカス大攻勢作戦室)=======

          The Greater Damascus Operations Room

                             http://carnegie-mec.org/diwan/53566?lang=en

                                      Carnegie Middle East Center

 

 2013年11月6日反対派は「ダマスカス大攻勢作戦室」の成立を発表した。統一ある作戦を実行するため、各グループの意見を調整する場が「作戦室」だった。 一定地域の支配を実現するため、また大がかりな作戦を実行するために各派が緊密な協力を約束したのである。シリアの主要地域でイスラム諸派が「作戦室」を立ち上げているが、穏健自由シリア軍各派も同様である。「作戦室」という言葉が表すように、軍事的必要に迫られ、諸派はまとまって行動するようになった。各グループへの資金と武器の配布を容易にし、諸派が協力して共通の軍事目的を達成するため、「作戦室」は協議の場を提供する。 

2012年湾岸と欧米の諸国が自由シリア軍を統一指揮下に置くため、軍事会議を設立した。自由シリア軍の軍事会議とイスラム諸派の「作戦室」は同様な目的で設立されているが、「作戦室」は自由シリア軍と無関係であることに特徴がある。また「作戦室」は完全に外国によって支援されており、作戦に必要な経費をすべて支給されている。支援者は湾岸の個人であるが、彼らはしばしば国家から暗黙の承認を得ている。

                〈「作戦室」に所属する各派〉 

ダマスカスには以前からいくつかの作戦室が存在しており、11月6日の発表は9個の作戦室が統合したものである。「ダマスカス大攻勢作戦室」はダマスカス全域のイスラム諸派を統合することになった。。参加グループは次の12派である。

1. Islamic Ahrar al-Sham Movement(アフラール・シャム)

2. Shabab el-Hoda Battalions(シャバブ・ホダ大隊)

3. al-Habib al-Mustafa Brigades(ハビブ・ムスタファ旅団)

4. Sahaba Battalions and Brigades(サハバ大隊・旅団)

5. Amjad al-Islam Gathering

6. Der’ al-Asima Brigade

7. Eissa bin Maryam Battalion

8. Aknaf Beit al-Maqdes Brigade

9. Single Umma Brigade

10. Sham al-Rasoul Brigade

11. Tawhid al-Asima Brigade

12. Fursan al-Sunna Battalion

 これらのグループの中には他の複数の作戦室に関係しているものもあり、12のグーループの結束の緊密さについては確定的ではない。 

最初の4つのグループはダマスカス市内と郊外で有力な戦闘集団である。残りのグループのいくつかも、彼らの支配地では強力な存在である。12のグーループは程度の佐差はあるが、イスラム主義を信条としている。アフラール・シャムといくつかのグループはイスラム原理主義の熱心な信奉者である。

8番目のアクナフ・バイト旅団(Aknaf Beit al-Maqdes Brigade)はパレスチナ人のグループであり、ハマスの支援を受けているようだ。ハマスはムスリム同胞団に属している。

3番目のハビブ・ムスタファ旅団は以前自由シリア軍の一員であると表明しており、現在もサリム・イドリス将軍の最高軍事司令部と関係を維持している。

1番目のアフラール・シャムはイスラム戦線の一員である。イスラム戦線はシリア全土のイスラム主義者が結集した統一戦線である。

ダマスカスのイスラム主義グループが統一戦線を形成するのは今回が初めてではない。「アンサール・イスラム集合」という名の合同組織が存在したが、消滅した。ハビブ・ムスタファ旅団など今回「作戦室」に参加したグループのいくつかはかつて「アンサール・イスラム」の一員だった。

6日に成立した「ダマスカス大攻勢作戦室」はこれまでにない規模の統一戦線であるが、成功するか消滅するか予測できない。

はっきりしていることは、ダマスカスのイスラム主義グループが自由シリア軍とサリム・イドリスの軍事司令部と縁を切ったことである。反対派を代表するシリア国民連合に対するイスラム主義者の反乱であり、ジュネーブ会議を拒否し政権と戦い続ける決意の表明である。「作戦室」の一員がこう言った。「イスラム主義者の結集は、自由シリア軍の無能な軍事会議にとって必殺パンチとなるだろう」。  

「作戦室」から除外されたのはサリム・イドリス元将軍の軍事会議だけではない。反対派の有力なグループの多くはダマスカスに影響力があるが、彼らは全部排除されている。例をあげるなら、クネイトラを拠点とする フルカン旅団(Furqan Brigades)である。さらに重要な3グループも除外されている。

        

「ダマスカス大攻勢作戦室」に参加しているグループについて知ることは重要だが、これに参加していないグループを確認することも重要だ。
誰もが気づくことは、ザフラン・アルーシュのジャイシュ・イスラム(イスラム軍)が参加していないことだ。ダマスカス最強のこのグループは少し前までリワ・イスラム(イスラム旅団)と名乗っており、東部郊外のドゥーマを拠点としている。ジャイシュ・イスラムはダマスカスだけでなくシリア全体で最も戦闘力があり、有名なグループの一つである。彼らが湾岸の個人とサウジアラビアに支援されていることが、最近話題になった。リーダーのアルーシュは有名であるが、同時に彼に対する批判も多く、ジャイシュ・イスラムを中心とするイスラム主義グループの統一に反感を持つ者が多かった。9月リワ・イスラムがジャイシュ・イスラムを立ち上げると、ダマスカスのイスラム派の間に反対の声があがった。資金と武器をいっかつして受け取る必要からダマスカスのイスラム系グループが一つにまとまることにした時、彼らはジャイシュ・イスラムを除外した。なぜか。
「ダマスカス大攻勢作戦室」のメンバーのいくつかはジャイシュ・イスラムの支配拡大に反発していた。しかしジャイシュ・イスラムとライバル関係にありながら、「作戦室」に参加していないグループもある。アルーシュの地元ドゥーマで互いに争っている旅団や会議は参加していない。例えばジャイシュ・イスラムの最大のライバル、ドゥーマ殉教旅団は参加していない。「ダマスカス大攻勢作戦室」はドゥーマの内部抗争に巻き込まれるのを避けるため、ジャイシュ・イスラム以下ドゥーマのすべてのグループの参加を拒否した可能性がある。

ただし、11月6日の「ダマスカス大攻勢作戦室」の成立宣言には裏があり、公表された12の参加グループ以外にも参加しているグループがあるようなのだ。したがってジャイシュ・イスラムの不参加についても疑う余地がある。

               〈秘かに参加しているグループ〉
「作戦室」から除外されている重要なグループはジャイシュ・イスラムだけではない。ジャイシュ・イスラムに劣らず重要なグループが参加リストから消えている。それはアルカイダ系のヌスラ戦線とISISである。ヌスラ戦線はダマスカス県で活発に活動している。現時点ではISISの影響は首都では限定的なものにすぎない。「作戦室」の地域分室の参加グループを一つ一つ調べると矛盾にきづく。地域分室にはアルカイダ系が参加している。例えばヌスラはジュンド・マラヘム(Jund al-Malahem)同盟の創立メンバーである。またヌスラは「一つの旗同盟」と「イスラム連盟」の一員である。「イスラム連盟」にはISISも参加している。
つまりヌスラ戦線とISISは地域分室には参加していながら、「ダマスカス大攻勢作戦室」のメンバーではないことになっている。理由は簡単で、ヌスラとISISの参加を公表したくないのだ。「ダマスカス大攻勢作戦室」はアルカイダと無関係であるという体裁を取りたかったのだ。

これは首都大攻勢のための資金の性格を反映している。資金は湾岸の個人に由来するが、これは国家が支持する計画である。サウジはシリアの反乱を再建することを計画しており、「ダマスカス作戦」の根底にはサウジの意図があるようだ。イスラム主義グループの支援者たちは米国やメディアによってテロの支援者とみなされることを恐れた。
11月6日の「ダマスカス大攻勢作戦室」の成立宣言では、参加グループのリストにアルカイダ系の名はなかったが、実際にはヌスラは指導的なメンバーだった。ISISもその一員だった。

ジャイシュ・イスラムが「作戦室」に秘かに参加しているか、あるいは実際に排除されているかについては、わからない。
 

「ダマスカス大攻勢作戦室」に所属する12派についてはすでに紹介したが、彼らは以前からそれぞれの地域で作戦室を形成していた。11月6日発表に発表された「大攻勢作戦室」はこれらの作戦室が合同したものである。
ダマスカス市内と郊外の各地域に成立している作戦室とその構成グループは以下のとおりである。

主要4グループが複数の作戦室を掛け持ちしている。

1. The Jund al-Malahem Operations Room in East Ghouta:

        (Eastern/South-Eastern suburbs)

①アフラール・シャム

②シャバブ・ホダ大隊

③ハビブ・ムスタファ旅団

④Eissa bin Maryam Battalion.

2. The Jobar Operations Room:

             (East Damascus)

①シャバブ・ホダ大隊

② ハビブ・ムスタファ旅団     

3. The Mleha Operations Room:

              (Mleha, South-East suburbs)

①シャバブ・ホダ大隊

②ハビブ・ムスタファ旅団

4. The Amjad al-Islam Operations Room in Erbin:

              (East Damascus)

  The Amjad al-Islam Gathering.

5. The Harasta Operations Room:

             (North-East suburbs)

 ①Der’ al-Asima Brigade,

②シャバブ・ホダ大隊

③ ハビブ・ムスタファ旅団

④ Amjad al-Islam Gathering.

6. The Islamic League Operations Room in South Damascus:

    (Yarmouk Camp/al-Hajar al-Aswad, south Damascus)

① サハバ大隊・旅団

②Aknaf Beit al-Maqdes Brigade,

③アフラール・シャム

④シャバブ・ホダ大隊

⑤Single Umma Brigade,

⑥ Sham al-Rasoul Brigade.

 7. The Daraya and Moadamiya Operations Room:

         (Daraya/Moadamiya, west of Damascus)

 サハバ大隊・旅団

8. The One Flag Alliance Operations Room in Western Ghouta:

           (Western countryside)

① サハバ大隊・旅団

②Tawhid al-Asima Brigade,

③アフラール・シャム

④ Aknaf Beit al-Maqdes Brigade, Fursan al-Sunna Battalion.

 

9. The Zabadani Operations Room:.

      (North-West of Damascus, Lebanon border)

 アフラール・シャム

================(カーネギー終了)

 

 

 

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ダマスカスの保安本部を爆破④  2012年7月18日

2017-12-23 06:32:30 | シリア内戦

 

2012年7月18日ダマスカスの保安本部で爆発が起き、シリア軍最高幹部4人が死亡した。国防大臣、副国防大臣、国家安全保障局長、元国防大臣の4人である。

シリアの反政府デモは2011年3月に始まったが、5月になると、反対派のリーダーたちは無力感にとらわれた。チュニジア、エジプト、リビアの政権はデモ発生後短期間で倒れたが、シリアの政権は倒れそうもなかった。反対派の中でも政府軍から離脱した将校たちは、武装反乱を考えるようになった。デモをやっても犠牲者が出るだけで、政権は揺るがないと考えたからである。しかし武装反乱をするにしても、彼らには武器がなかった。連隊ごと脱走する場合は連隊の武器すべてを持ち去ることができただろうが、連隊は言うに及ばず中隊全部が脱走した例さえなかった。離反将校は部隊の宿舎からこっそり抜け出したのである。

2011年末反対派を支援する国々が本格的な武器援助を開始した。これにより反対派は念願の武装反乱を開始することができた。その後7日か月間反対派は着実に支配地を広げ、7月半ば首都でも武装反乱が始まった。反対派は首都の攻防を反乱の最終段階と見ていた。英国はシリアに臨時政府を樹立するため、国連の行動を求めた。保安本部爆破事件はシリアの反乱が頂点に達した時期に起きた。

バシャール・アサドは2000年に大統領に就任したが、その時まで彼は政治と軍事について未経験だった。彼は歯科医師になるための研修をしていたからである。大統領就任後の数年間彼には実権がなく、軍と情報機関の幹部が政権を支えた。ハフェズ・アサド前大統領の死後10年間シリアを指導してきたのは彼らだった。今回殺害された4人はその代表的な人物である。特に副国防大臣アセフ・シャウカトは影の大統領であるとみなされていた。実質的な大統領はシャウカトであり、バシャールは名目的な大統領に過ぎないという見方が一般的だった。2005年レバノンのハリリ前首相が暗殺された時アサド大統領の責任が追及されたが、実際に作戦を命令・指揮したのはシャウカトとイクティヤル安全保障局長だった。この2人は7月18日の爆破事件で死亡した。

大統領と共に政権を運営する4人が殺害されたのであり、アル・アラビヤは「アサド政権の終末が近い」と書いた。

 

===《シリアの国防相、大統領の義兄らが爆死》=====

Bomb kills Syria defense minister, Assad’s brother-in-law and key aides

                  Al Arabiya 2012年7月18日

反対派は政権の中枢を攻撃することに成功した。ダマスカスの保安本部を爆破し、政権の最高幹部たちを殺害した。ダマスカスの北西の地区ムハジリーンでも5発の爆破があった。そこは大統領の弟マヘルが指揮する第四機甲師団の基地に近い。

シリア国民会議は述べた。

「この事件はアサド政権の終末を早めるであろう」。

アブドル・セイダ(Abdul Basset Seyda )はカタールの首都ドーハで述べた。

反乱は最終段階にある。政権の終末は近い。今日はシリアの歴史の転換点だ。反対派はさらに攻勢を強めるだろう。政権は倒れる日は近い。数週間、遅くとも数か月以内だ」。

英国のヘイグ外相は次のように述べた。

「シリアは崩壊と混乱に向かっている。臨時政府を樹立するため、国連の安全保障理事会は確固とした立場をとらなければならない。シリアの状況は急速に悪化している。シリア全土で戦闘が激化しており、首都ダマスカスでも日々戦闘が報告されている。これを反映し、避難民の数が増えている」。

==================(アル・アラビア終了)

 

保安本部の爆破は反対派にとって大戦果だった。自由シリア軍とイスラム大隊が犯行声明を出したが、真相は謎のままである。イスラム大隊は小さな集団であり、これ以後の5年間成長することもなく、小集団にとどまった。保安本部は大統領官邸と並ぶが政権の本拠である。厳重に警備された保安本部に、無名の集団がどのように忍び込んだのだろうか。

高官暗殺の計画は今回が初めてではなく、一度失敗している。2か月前にシリア政府高官6人を殺害する試みがあったが、これは失敗した。今回死亡した4人はこの時もターゲットとなっている。シリアの政権は2か月前の未遂事件を教訓にしなかったのであるか。再発にいかに備えても、警備体制の欠陥を修復できなかったのだろうか。考えられるのは、大統領に近い位置にいる人間の裏切りである。ロイターによれば、犯人は高官のボディガードということだが、詳しくはわからない。今回の事件についてはこれ以上の手がかりはない。

2か月前の高官暗殺未遂事件は少しだけヒントになる。

同年5月19日サハバ大隊と名のるグループが「高官6名を殺害した」と発表した。チームのリーダーらしき人物の声明がネットに投稿された。もちろんアラビア語で話しているが、英訳がある。以下の通り(全文)である。

 

===《FSA Claims Assassination of Assef Shawket 》===

     <https://www.youtube.com/watch?v=xCMEJijY-JE&feature=youtu.be>

                      syrian scenes   2012年5月19日

 

憐みと慈悲深き神の名において!

国民の敵と戦え! 神に代わって彼らに罰を与えよ! 力の限り戦い、勝利せよ! 神を信ずる人たちをなぐさめよ! 私アフマド・タクタク中尉は、サハバ大隊(Sahabah Battalions)の野戦指揮官の一人でである。我々はダマスカスとその周辺で活動している。私はサハバ大隊を代表し、我々の特殊作戦中隊が決行した成果を報告する。この中隊は秘密作戦を実行した。中隊は政権の危機管理チームのメンバーを2か月間監視した。そして中隊のひとりが秘密作戦を実行した。彼は危機管理チームのメンバーを殺害した。殺害方法は秘密である。作戦の細部について明らかにすることは控えたい。神の助けにより、次の者たちを殺害した。

①アサド一族のひとりであり、情報総局長官アセフ・シャウカト

②内務大臣ムハンマド・シャー

③国防大臣ダウド・ラジハ

④副大統領代理ハッサン・トルクマニ

⑤バース党保安局長ヒシャム・ビクティヤル大将   

⑥バース党副書記長ムハンマド・ビクティヤル

我々は明確に宣言する。「政権が倒れるまで戦い続ける」。

================(youtube終了)

サハバ大隊が6人の高官の死を発表したにもかかわらず、全員生きていた。

 

=====《ダマスカスの戦闘に伴い、高官暗殺か》=======

Syria: Damascus clashes prompt claims of high-level assassinations

                       Guardian 2012年5月20日

5月19日夜自由シリア軍が発表した。「アサド政権の高官6名を殺害した」。大統領の義理の兄アセフ・シャウカトも死亡者の一人であるという。その他の犠牲者は内務大臣ムハンマド・シャー、国防大臣ダウド・ラジハ、大統領代理ハッサン・トルクマニなどである。

シリア国営メディアは自由シリア軍の発表を全面的に否定した。死んだとされるシャー内務大臣八記者会見に姿を現し、生きていることを証明した。トルクマニ大統領代理は執務室で国営テレビのインタビューに答え、「自由シリア軍の発表はとんでもない嘘だ」と語った。

しかしシャウカトの生死に関する報道はなく、また彼がメディアに姿を現すこともなかった。

「ダマスカス革命議会」の女性報道官が次のように語った。

「殺害の方法は毒殺である。死者の人数については、確定できていないが、すでに発表されているリストの中の1ー2名が死んでいる。テレビに出演した者以外は死亡しているか、重傷者である。政権は死者が出た事実を隠し、重傷者については回復を待っている。

======================(ガーディアン終了)

 

反抗声明を出したサハバ大隊はダマスカス南部を拠点とする有力なイスラム主義グループである。

2か月後の7月18日ダマスカスの保安本部の爆破後、犯行声明を出したのは別のグループであり、こちらはイスラム大隊である。イスラム大隊もダマスカスを拠点としているが、かなり小さなグループである。

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ダマスカスの保安本部の爆破③ 2012年7月18日

2017-12-07 06:47:18 | シリア内戦

2012年7月18日ダマスカスの保安本部で爆発が起き、シリア軍の最高幹部が殺害された。死亡したのは、国防大臣、国防副大臣、国家安全保障局長、元国防大臣の4人である。

 

        〈ラジハ国防相〉

       

ダウド・ラジハはキリスト教徒でありながら、シリア軍の中心的な存在であり、2009年以来参謀長に就任した。

2011年3月半ば反対派による抗議運動が始まり、徐々に拡大していった。抗議運動開始の4か月後(8月8日)アリ・ハビブ国防相が辞任し、ダウド・ラジハ参謀長が国防相に就任した。

ハーレッツ(Haaretz)紙が2011年8月8日の国防相交代について書いている。

=========《参謀長が国防相に就任》=======

Syria's Assad Replaces Defense Minister With Army Chief of Staff

              Haaretz 2011年8月8日

シリア政府による血の弾圧に対し、国際的な批判が高まっている。こうした中、8月8日シリア政府は国防相を変えた。アリ・ハビブに代わり、ダウド・ラジハ参謀長が国防相に就任した

シリアの政府と軍はアラウィ派が支配的である。シリア軍が弾圧を強める中、市民7名が死亡した。国防相の交代はこれが契機となった。

7名の死者はダラア県の3名とデリゾール市の4名である。

ダラア県で葬儀の行進をする人びとに、治安部隊が実弾を発射し3名死亡した。

デリゾール市内で2人の女性と2人の子供が撃たれて死んだ。

====================(ハーレッツ終了)

反対派は国防相の交代によって弾圧が緩和されることを期待したが、期待は裏切られた。新国防相のもとでも残酷な弾圧に変化はなく、ラジハ国防相は血の弾圧の張本人とみなされるようになった。反対派は彼を悪魔の化身であるかのように嫌った。

 

         〈イクティヤル安全保障局長〉

前2回国家安全保障局長について紹介しなかったが、他の3人に劣らず重要な人物である。ソ連のKGB局長に相当する。ソ連崩壊後共産党の幹部が民主化を受け入れた結果、国家が崩壊した。KGBだけはソ連国家の継続を貫こうとした。KGBは自己の利益を追求する集団に成り下がった側面もあるが、国家の本質を最もよく理解し、ロシア帝国以来続く国家の維持を追求した集団である。ソ連軍人の中にも困難な時期に国家に忠誠をつくした人物がいる。悪の権化とされるKGBであるが、国家崩壊の時期に一貫性を示した点は評価すべきかもしれない。

       

=======《ヒシャム・イクティヤル》=========

     Hisham Ikhtiyar                wikipedia

ヒシャム・イクティヤルは有能な情報将校であり、2001 年ー2005年情報総局の局長だった。情報総局は3つの部門からなるスパイ総局である。

①国内治安部:国内の反政府分子を逮捕

②国外保安部:国外でのスパイ・破壊工作

③パレスチナ問題部:パレスチナ支援

彼が局長だった時、重要な課題はムスリム同胞団を監視し、抑圧することだった。

2005年イクティヤルはバース党国家安全保障局(NSB)の長官に就任した。彼は情報総局の長官を兼務し、大統領の補佐官でもあった。2006年テロリスト支援の理由で、彼は米国への入国を禁止された。シリアは米国のイラク侵攻に反対し、イスラム過激派をイラクに送っていた。またイスラエルを敵とするヒズボラを支援していた。シリアがレバノンへの影響力を高める過程で、彼は作戦を指導し成功に導いた。

2011年ダラアで反政府デモが起きた時、イクティヤルはデモの鎮圧を指導したと言われる。ダラアのデモはシリア内戦の発端となった。ダラアのデモに対する弾圧が残酷だったため、反政府運動が拡大した。2011年5月EUと米国がシリアの国家安全保障局に経済制裁を課した。抗議する市民に極端な暴力を行使したという理由である。

2012月7月18日、ダマスカスの保安本部が爆破された時、イクティヤルは重傷を負った。2日後シリア国営放送は彼の死を告げた。

 

        〈シャウカト副国防相〉

     

アサド政権内においてアセフ・シャウカトが特別な地位にいることはすでに述べた。副国防相という地位に加え、彼は大統領の親族でもある。シャウカトは大統領の姉ブシュラの夫である。ブシュラには4人の弟がいる。

長男バースィル :1994年交通事故で死亡

次男バシャール :2000年大統領に就任

三男マジド   :政治に関わらず2009年に病死

四男マヘル   :現役の陸軍少将

四男マヘルは陸軍少将に過ぎないが、軍隊内で参謀長や国防大臣と並ぶ権威を持っている。大統領の義理の兄であるシャウカトも

同様であり、副国防大臣という地位以上の権威を持っている。

政権の内幕について、ロイターが興味深い話を書いている。

 

========《影の権力者》============ 

   Assef Shawkat, Syria's shadowy enforcer

                     by Erica Solomon

                      Reuters  2012年7月18日

シャウカトの写真は少ない。彼が何をやり、どのように権力を行使しているのか、ほとんど知られていない。しかし彼は政権の柱である、とほとんどのシリア人が言う。

アセフ・シャウカトは軍情報部副部長を経て部長になり、その後副国防相に就任した。副国防相という地位は闇の権力者に適していた。ウイキ・リークスが暴露した米国の外交電報によれば、「彼は頭がよく、読書家である。暗殺事件の責任者のひとりである」。

2006年レバノンの元首相ラフィク・ハリリが暗殺された事件に責任があるとして、米国はシリア軍高官を経済制裁した。シャウカトはその一人である。レバノノンに対するシリアの影響力が強まることを、米国は恐れた。

米財務省は当時次のように述べた。

「シャウカトはシリアによるレバノン支配を計画している。また彼はイスラエルに対するテロを支援している」。

反対派にとってシャウカトは体制の鉄拳であり、反乱に対する容赦しない弾圧の推進者である。

アサド政権に近いレバノンの治安関係者は次のように言う。

「シャウカトは緊密にまとまった政権中枢の一員として行動しているにすぎない。シャウカトシャウカトは力の行使を好むが、政策を決定するグループの一員にすぎない。政権は主にアラウィ派のネットワークによって維持されており、このネットワークはシリアの上流階級に張り巡らされている。しかし現在多数派でありながら負け犬であるスンニ派の反抗に直面している。  

          〈政権の中枢〉

前大統領ハフェズ・アサドは30年間シリアを統治したが、2000年に世を去った。息子のバシャールが大統領に就任するまで、ハフェズの側近数人が政権を支えた。シャウカトはその一人だった。新大統領の選挙期間、政権に批判的な連中がバシャール・マヘル兄弟とシャウカトの3人を茶化すポスターを掲示した。

「シリアで最初の選挙! バシャールが当選すると、おまけにマヘルとシャウカトがついてくる!」

この冗談はハフェズ・アサドの死後の変化を物語っていた。ハフェズ・アサドの時代は、大統領が注意深く神格化され、個人支配が貫徹していた。新政権は複数のリーダーによるチーム支配に移行した。

反対派は次のように語る。

「政府は透明性を欠き、政権上層部の人たちは秘密に包まれている。そのため政権と交渉することができない。抗議運動が武装抵抗に代わってから、シャウカトが公衆の前に姿を見せたのは、2度だけである。最初彼はザバダニに行った。ザバダニはレバノン国境に近く、夏涼しい。ダマスカスから近く、市民のリゾート地になっている。反対派が短期間ザバダニを支配した。

その後シャウカトは反乱の中心地であるホムスにいった。シリア軍がホムスの反対派を攻撃している時だった。ザバダニとホムスで、それぞれ数百人死亡した。彼は反対派と会い、言った。「ここを去れ。そうすれば電気と水を供給する。我々は攻撃をやめる」。ザバダニとホムスの反対派は撤退した。電気と水は回復した。反対派が去ったにもかかわらず、翌日攻撃が再開した。シャウカトは約束の一つを守り、もう一つの約束を破った。

これについて活動家が言う。

「我々は理解できない。シャウカトは反対派をだましたのだろうか。それとも彼は軍隊に命令することができないのだろうか。

        〈シャウカトの出世〉

アサド家との縁組はシャウカトに幸運と不運の両方をもたらした。彼は趣味で小説を書くが、彼の人生はメロドララマのようだ。アラウィ派であるという共通点以外、シャウカトとハフェズ・アサドの子供たちの間に共通点はない。

シャウカトは地中海岸部のタルトゥスに生まれた。両親は平均的な市民だった。陸軍に入隊後、彼は努力により昇進していった。彼は最初の妻と離婚し、ハフェズ・アサドの娘と結婚した。

ブシュラとの結婚はシャウカトの人生を大きく変えた。しかしこの結婚は簡単ではなく、決断を要した。外交官と情報部門の人たちの話によれば、両親と長男はシャウカトを評価していなかった。シャウカトは下層階級の出身なのでアサドけにふさわしくない、と長男バシルは考えた。シャウカトをブシュラから遠ざけるため、バシルは1993年シャウカトを投獄した。このことは情報関係者が話しており、ウィキ・リークスが暴露した米国の外交電報に書かれている。翌年(1994年)長男バシルが交通事故で死亡し、シャウカトはブシュラと結婚した。ハフェズ・アサドはシャウカトを軍情報部の副部長に任命した。

2005年バシャールはシャウカトを軍情報部長に任命した。この地位を得たことにより、シャウカトは問題を抱えているイラクとレバノンで陰謀に従事することになった。

米国の外交電報は彼を「復帰した実力者」と呼んでいる。

しかしシャウカトとハフェズ・アサドの子供たちとの関係は順調ではなかった。

外交官たちの話によれば、大統領の弟マヘルがシャウカトを銃で撃った。に発砲した。マヘルは共和国防衛隊の司令官である。大統領もシャウカトと姉ブシュラを嫌っていたという説もある。ブシュラは父ハフェズ・アサドの最愛の娘だった。

ハフェズ・アサドの伝記を書いたパトリック・シールが次のように述べた。

「大統領と姉不夫婦はライバル関係にある。ブシュラ・シャウカト夫妻は自分たちのほうが、バシャール・アズマ夫妻よりも大統領夫妻として適している、と長い間考えていた」。

しかしシャウカトはアサド家とアラウィ派の政権を守ることを最優先しているようである。

アサド政権を熟知するレバノン人は次のように述べた。

「彼らは共通の運命にあることを自覚している。内部分裂が破局につながることを知っている」。

===================《ロイター終了)

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ダマスカスの保安本部を爆破② 2012年7月18日

2017-11-23 20:21:34 | シリア内戦

2012年7月18日ダマスカスの保安本部で爆発が起き、シリア軍最高幹部4人が死亡した。国防大臣、副国防大臣、国家安全保障局長、元国防大臣の4人である。

アル・アクバル紙がこれらの人物の経歴を書いている。国家安全保障局長については書かれていない。国家安全保障局長の死の確認が遅れたためだろう。残り3人の経歴により、アサド政権の中心人物について知ることができる。

 

 ======《死亡した将軍たち》==========

   Damascus Bombing: The Assassinated Generals

               Al-Akhbar  2012年7月19日

  

             〈ハッサン・トルクマニ〉

トルクマニは2009年国防大臣を辞職し、大統領の補佐官に転じた。また彼は抗議運動に対処する危機管理室の責任者となった。

2005年レバノンのラフィク・ハリリ首相が暗殺された時、国防大臣トルクマニと大統領の弟マヘル・アサドの関与が疑われた。国連の独立国際調査団は、2人を告発した。ベイルートで爆破事件があり、ハリリ首相を含め23人が死亡した。

ハッサン・トルクマニ将軍は軍の要職を歴任した。2004年から2009年6月まで、彼は軍の副総司令官であり、同時に国防大臣だった。

ハッサン・トルクマニは1032年アレッポで生まれた。彼の両親はトルコ系である。アレッポで修学後、彼は軍事大学に入り、野戦砲の専門家になった。軍隊で彼の昇進は順調であり、野戦砲師団長、野戦砲司令官を歴任した。1973年の中東戦争では、機械化部隊を指揮した。

彼のもっとも重要な功績は1977 年ー1978年のレバノン内戦の時のものである。彼はアラブ抑止軍の司令部の一員となり、1982年までその地位にとどまった。

1978年少将になり、将校の人事部長となった。続いて1980年管理・政治指導部長になった。

1988年彼は大将になった。2002年に陸軍参謀長、2004年には陸軍副総司令官になった。

2009年の退任後も大統領の補佐官にとどまったのは、大統領の信頼が厚かったからである。昨年(2011年)彼は大統領の特使としてトルコへ出向き、トルコへ避難しているシリア人の帰還をエルドアン首相に要求した。しかし彼の訪問は両国の友好的な関係を復活させることはなかった。

先月彼を暗殺する試みがあったが、失敗した。反対派が犯行声明を出したが、彼はテレビに登場し、暗殺の噂を否定した。

 

           〈ダウド・ラジハ〉

ダウド・ラジハは軍歴を重ねた後、2011年8月アデル・サハル内閣の国防大臣に就任した。2012年6月23日に発足したリアド・ヒジャブ内閣でも、彼は国防大臣にとどまった。バース党が権力を掌握して以来、キリスト教徒が国防大臣になったのはラジハが最初だった。

ラジハ国防大臣は武装反乱を支援する西側とアラブの国々を批判した。

「これらの国は反対派に武器を提供し、シリアの生活と生産の基盤を破壊し、無秩序を生み出している」。

ダウド・ラジハは1947年ダマスカスに近いエルビーン(Erbeen)で生まれた。1968年軍事大学に入学し野戦砲を専攻した。司令部と参謀に関する教育も受けた。ラジハは大隊長や旅団長を務めた後、軍の管理部長や委員会の議長を歴任し、2004年参謀次長に就任した。

シリアで反乱が始まった時、ラジハはたびたび声明を出した。

「シリアは前例のない外国の陰謀に直面している。この陰謀は社会基盤を破壊し、国家の存続を脅かしている。彼らの目的はアラブ内におけるシリアの役割を否定し、パレスチナ支援を妨害することである」。

ラジハ国防相は欧米とアラブ諸国から経済制裁を課されている12人の一人である。彼はデモを鎮圧し、市民を殺害した犯罪者のひとりである、と反対派の多くが考えている。

爆死する以前、ラジハは数回ロシアに行き武器購入の契約をし、ロシアとの協定を更新した。

 

           〈アセフ・シャウカト〉

国防副大臣アセフ・シャウカトはアサド政権の核を形成する少人数のメンバーのひとりであり、政権を支える柱の一本である。1950年彼はタルトゥス県のマドハラ村に生まれた。ダマスカス大学で歴史を学び、1925年の革命について論文を書いた。その後陸軍の志願兵となり、軍事大学に入学し、卒業後歩兵将校になった。1973年10月イスラエルとの戦争に従軍した。

2000年のハフェズ・アサド前大統領の死後、彼はマヘル・アサドと共に新大統領バシャール・アサドに最も近い人物になった。若い後継者バシャールが葬儀に訪れる外国の使節を迎えていた時、シャウカトはバシャールのそばに立っていた。シャウカトはシリアの全治安部門の最強の人物であるという理由で、政権の中枢に迎え入れられた。

2005年アセフ・シャウカトは軍の情報機関の長官になった。彼は婚姻によって大統領の近親者になったため、反対派からは軽蔑されている。シャウカトは大統領の姉ブシュラの夫である。

2か月前今回と同様な、軍幹部を標的とした暗殺計画があったが失敗した。その時シャウカトが死んだという情報が流れた。反対派は政権の実力者をまとめて殺すための綿密な計画を立て、成功を信じていたが、この時は失敗した。サハバ旅団と名乗るグループが特殊任務チームを組織し、念入りに準備をした。これはサハバ旅団の広報官が語っていることである。そして同広報官は「アセフ・シャウカトを含め、少なくとも3人の毒殺に成功した」と述べた。この時は笑い話に終わったが、2か月後の計画は成功した。

1年半市民を虐殺し続けたという理由で、シャウカトは欧米とアラブ諸国によって経済制裁を課されている。

================(アル・アクバル終了)

シリア国営放送は国防大臣ダウド・ラジハ将軍をはじめとする犠牲者の死を追悼した。ラジハ将軍は正教徒であり、政権内でキリスト教徒を代表していた。政権が少数民族に配慮し、複数民族主義を取り入れたことの一例だった。に現在の政権が行き詰まり改革派政権に移行する場合、ラジハ将軍が新しい指導者になると考られていた。

反対派は国防副大臣アッシフ・シャウカト将軍を殺害したことを最大の勝利と考えた。シャウカト将軍はアサド大統領の姉の夫であり、反対派を残酷に弾圧する責任者とみなされていた。シリアにはいくつもの情報機関があり、中でも軍の情報機関は政権の支柱だった。シャウカト将軍はその長官であり、彼を殺害したことはアサド大統領の次に重要な人物を倒したことを意味する。

保安本部は厳重に警備されており、その防衛線を突破したしたことは、堅固な要塞を崩したに等しい。アサド大統領始め、政権の重要人物に安全な場所はない、と宣告されたことになる。シリア全土の反対派は勝利を喜んだ。

フォーリン・ポリシーは「今回の攻撃の最大の成功は、シャウカト国防副大臣を殺害したことだ」と書いている。

=========《敵の本拠を爆破》=========          

       Blowing up the Death Star

            Syria's rebels score a direct hit.

                    Foreign Policy   2012年7月18日

満足な武器もない反対派は、十分に装備された軍と戦ってきた。しかし18日少人数の反対派が保安本部を爆破した。これは最も堅固な要塞を爆破したことに匹敵する。このような戦果を予想した者はなく、中東では驚嘆の声が上がっている。アサド政権は終わったという声が聞かれる。少なくとも政権の力が弱まっていることは確かである。大統領本人を除く政権のトップ4人が一瞬で消えてしまった。4人は軍と情報部門の最高位にあった。

今回の攻撃の最大の成功は、シャウカト国防副大臣を殺害したことだ。彼は高位にありながら直接反対派の鎮圧を指導しており、反対派は彼を敵軍の最高司令官と考えている。

レバノン在住の自由シリア軍関係者が述べた。

「シャウカトとマヘルが中心になて革命を弾圧している。数千人の将兵が離反したので、彼らはスンニ派軍人を信頼できなくなった。政権は危機にあり、親族に頼るようになった」。

 

シャウカト将軍の妻はアサド大統領の姉でり、親類という点でも彼は大統領と親密な関係にある。彼が大統領の姉と結婚することに、アサド家の何人かが反対したが、彼は結婚にこぎつけた。結婚後も彼とアサド家の関係は微妙だった。かつて食事の席で、大統領の実弟マヘル・アサドが彼を銃で撃ったことがある。これはほんの一例で、独裁政権の周囲では絶えず権力闘争が繰り広げられており、陰謀や暗殺が行われている。彼は見事に生き残ってきた。

最近の国内混乱で政権内からも離脱者が出ているなかで、シャウカト将軍の大統領への忠誠は揺るがず、彼は政権にとって欠かせない人間になっている。

シリアがレバノンを占領した際、困難な最期の時期、彼が軍を指揮した。現在は反乱が起きた場所にパラシュート降下し、反乱を鎮圧している。

以前反対派は武器が不足していたが、現在資金と武器が充実している。

レバノンに近い村の反政府軍の指導者が述べた。

「政権は腐敗している。政権の支持者でさえ武器を我々に売る。我々は米国やサウジアラビアから武器をもらう必要がない。必要なのは資金だ。国内に豊富に武器がある。連中は腐敗しているので、お金欲しさに武器を売る。我々はその武器で連中を殺す。現在我々には資金がある」。

誰がその資金を提供したのか、質問しようとしたが彼は去ってしまった。

これまでダマスカスは反対派のデモが少なく、武力衝突も少なかったが、最近4日間連続で戦闘が続いた。

=============(フォーリン・ポリシー終了)

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ダマスカスの保安本部を爆破 2012年7月18日

2017-11-13 23:45:56 | シリア内戦

7月18日ダマスカスの保安本部で爆発が起き、国防大臣、国防副大臣、国家安全保障局長、元国防大臣など、シリア軍の最高幹部が殺害された。大統領の弟マヘル・アサドは死を免れたが、負傷して片足を失った。彼は精鋭師団を率いており、軍の実力者である。マヘル・アサド以外の負傷者は内務大臣、バース党幹部、大統領のいとこである。爆発が起きた時、これらの犠牲者は会議中だった。犯人は軍または情報部門の高官のボディガードである、とロイターが伝えている。しかし事件の真相は闇の中にある。

シリア軍の中枢が攻撃されたのであり、米国のペンタゴンが攻撃されたようなものである。シリアは、国家の規模も軍隊の規模も米国より小さいが、比喩は正しい。2001年9月11日、ハイジャックされた航空機がペンタゴンに突入した時、米軍の高官は全員無事だった。それに比較すると、今回の爆破事件の成功は際立っている。

シリア政府は自殺爆弾による攻撃だと発表したが、自由シリア軍は遠隔操作で爆破したと述べている。

ニューヨークタイムズは次のように書いている。 

=======《アサド政権に大打撃》==========

   Syrian Rebels Land Deadly Blow to Assad’s Inner Circle

       New York Times    2012年7月19日

 

7月18日爆破事件により、アサド政権の側近の中の治安部門のメンバー4人が死亡した。

爆発があった保安本部は大統領の住居に近く、反対派の大胆さを示すとともに、警備体制に欠陥があることを明らかにした。固く結束した政権の中心メンバーに危害を加えることは不可能と考えられてきたが、彼らに従う人々の忠誠心が揺らいでいるようである。

これまで不可侵と考えられてきた場所が攻撃されただけでなく、反乱に対する冷酷な弾圧を指導してきた閣僚と情報機関の長官が殺害されたことは衝撃だった。

戦火は首都に迫っており、ダマスカスの一画で戦闘が4日間続いている。首都を巡る攻防が開始され、シリアの内乱は決定的瞬間を迎えた。

米国のレオン・パネタ国防長官が述べた。

「シリアの政権は急速に統治能力を失いつつある。戦闘がエスカレートしており、シリアは大量の化学兵器の安全に責任を持たなければならない」。

保安本部の爆破事件の影響は大きかった。アサドの軍隊は反対派に優越しており、このことが兵士の忠誠心をつなぎとめ、一般の市民は恐怖からおとなしくしていた。反対派が自信を持ち、政府軍の士気が崩れるなら、さらに多くの兵士と将校が離反するだろう。そして政権の狂暴さが増すだろう。

アサド一族は数十年間、軍隊と秘密警察に頼り政権を維持してきた。しかし貧弱な武器しか持たない少人数のグループが政権の本拠地に入り込み、大胆な攻撃を成功させた。これまで挑戦しようとする者がいなかった警察国家は、もはや機能不全である。

警備体制に不備があっただけなら、まだよい。裏切り者が、保安本部の攻撃を手伝ったなら、アサド政権にとって深刻である。

国防軍トップの死について、レバノンの退役将校エリアス・ハナが語った。彼は軍事評論家であり、シリアの事情に詳しい。

「誰が彼らの代わりをするだろう?現時点で彼らに代わる人材はいない。政権に忠実な人間は少ない。政権にとって、今では多くの人間が疑わしい。シャウカト副参謀長を殺すことができるなら、アサド大統領を殺すことも可能だ。今後政権の中枢に最も近い人たちたちでさえ、疑われるだろう」。

シリア国営テレビが伝えた。「内務大臣マハメド・シャー将軍が重傷を負ったが、意識ははっきりしている」。

シリアの活動グループ(複数)によれば、ヒシャム・イクタル警察庁長官がひん死の状態にある人々の一人であるという。この報告は正しく、彼は後に死亡した。爆発が起きたのは、国家保安庁の研究センターの建物である。

この建物は国家のエリートが住む地区にあるが、建物自体はこれといった特徴がなく、目立たない。

たびたびダマスカスを訪れている評論家は匿名で次のように語った。名前を明かせば今後シリアに入国を禁止されるからである。

「この地区には政府機関が集まっており、支配機構の結節点となっている。ここはまさに国家の心臓である」。

死亡したラジハ国防相は著名なキリスト教徒である。政権はアラウィ派を中心とした軍隊によって支えられているが、国民全体の軍隊であるという体裁を保つため、アラウィ派以外の宗派の軍人にも出世の機会をを与えてきた。ラジハ国防相はその典型的な例である。

 

もう一人の犠牲者シャウカト副国防相は大統領の姉の夫であり、政権の中心メンバーの一人だった。

シリア政府は動揺を隠し、すぐにフレジ参謀長を国防相に任命し、平静を装った。フレジ参謀長は以前イドリブの蜂起を鎮圧した人物である。

新国防相となった彼はテレビに登場し、つよ気な発言をした。

「シリア軍は祖国と市民の安全を害する者の手を切断するだろう」

シリア軍は声明を出した。

「事件は我々の決意を強めただけだ。我々は犯罪的なテロリスト集団を一掃し、シリアの尊厳と主権を守るだろう」。

 ダマスカスで起きていることは外部からは分からない。保安本部爆破事件について、4人の死者が出たこと以外わからない。

重傷者の数は分からない。犯人について、また爆破の方法について、意見が分かれている。トルコに住む自由シリア軍指導部は爆破を手伝ったと述べている。イスラム主義グループ「イスラム大隊」は自分たちがやったと主張している。

トルコ在住の自由シリア軍司令部のナンバー2であるマリク・クルディ(Malik al-Kurdi)は爆破方法について述べた。

「自爆攻撃ではない。建物の周囲に爆弾を仕掛け、遠隔操作で爆破した」。

シリア人活動家は述べた。「政権は崩壊し始めた」。この活動家はシリア人権監視団のラミ・アブドル・ラフマンである。この名前は偽名であり、安全のため本名を隠している。

これまで単発的だった武力反乱が、治安本部爆破事件を境に本格的な内戦に突入するだろう。

=============(ニューヨーク・タイムズ終了)

記事に登場した、自由シリア軍司令部のナンバー2、マリク・クルディ大佐について調べてみた。ウィキペディアをはじめ、英文ネット上に彼を紹介するサイトはない。自由シリア軍がシリアを訪問中のイラン人を逮捕した事件が起き、その記事に彼が登場する。彼は自由シリア軍を代表し、「イラン人は元革命防衛隊の人間であり、軍事的な目的でシリアに来ていた」と述べた。イラン人がシリアに来ていたのは単なる情勢視察か、イラン派民兵グーループを立ち上げる準備か、わからない。イランは「モスクへの巡礼者が逮捕された」ことに抗議した。

 

======《ダマスカス訪問中のイラン人48名が誘拐される》=== ===     

      Syrian Rebels State Terms for Freeing Iranians

                Voice of America   2012年8月16日

8月4日ダマスカスでバスに乗っていたイラン人48人が誘拐された。数キロ離れた所では戦闘が起きていた。

誘拐犯は自由シリア軍だった。自由シリア軍は逮捕されたイラン人釈放の条件を提示した。

自由シリア軍の副司令官マリク・クルディがボイス・オブ・アメリカのペルシャ語放送のインタビューに答えた。

「イラン政府がシリアの流血を終わらせる努力をするなら、イラン人捕虜は釈放されるだろう。シリア国民は抑圧され、毎週殉死している。これは単純な要求だ。

イラン政府は巡礼者が誘拐されたと語った。誘拐後間もなく、イランのサレヒ外相が語った。

「誘拐された人々の中の数人は、革命防衛隊または軍を退役した人間である。彼らは巡礼のためにシリアに行った」。

近年数十万人のイラン人が、ダマスカスにあるザイナブ・モスクをほうもんしている。

しかし自由シリア軍のクルディ元大佐はイランの外相に反論した。

「シリアは戦争中であり、外国の巡礼者は来なくなっている。逮捕された者たちは現役の革命防衛隊であり、確かな証拠がある」。

クルディ元大佐はシリア国境に近いトルコの安全な場所にすんでいる。

シリアの周辺国はシリアの反対派を支持しているが、イランはアサド大統領を支持している。8月7日イランの国家安全保障会議のジャリリ事務局長がダマスカスを訪れ、アサド大統領を称賛する発言をした。

「シリアは国外の敵に抵抗する同盟の一員である」。

ダマスカスでイラン人が誘拐された直後、イランはトルコとカタールに彼らの救出を頼んだ。

 

=============(ボイス・オブ・アメリカ終了)

 

この記事はイランの軍事支援が始まろうとしていたことを示唆している。

自由シリア軍のナンバー2であるクルディ元大佐が再び登場するのは、1年後の2013年6月の記事である。彼は反対派の分裂を嘆いている。この時期はイスラム主義グループが勢力を伸ばし、自由シリア軍が弱体化し始めた時期である。半年後(2013年末)には自由シリア軍の凋落が明白になり、米国は自由シリア軍への支援をいったん打ち切った。

         〈クリントン国務長官の嘘〉

米国はは最初から自由シリア軍は頼りにならないと考えてていた。オバマとクリントンが主張し続けた「自由シリア軍支援」は建前に過ぎなかった。アサド打倒の陰謀に正当性の見せかけを与えるためだった。

米軍情報部は2012年春の段階で、アサドの軍隊と戦えるのはイスラム主義グループ、特にヌスラ戦線だと考え、彼らを支援すべきことを大統領に進言していた。米軍情報部は自由シリア軍を支援しても無駄だと考えていた。にもかかわらず、クリントントン国務長官は「自由シリア軍への支援」を繰り返し強調していた。私は2012年夏からシリア情勢に興味を持ち始めた。2012年秋頃クリントントン国務長官は「シリアのアルカイダを支援している国」を非難した。カタールがヌスラを支援を支援していることを非難したのである。しかしこの時米国は国防省の情勢分析に従い、アルカイダを支援していたのである。国防省の情報部はアルカイダ支援の危険を知っており、「シリアにイスラム主義の小国家が誕生するかもしれない」と大統領に報告した。オバマ政権は将来の危険より、アサド政権の打倒を優先した。

========《反政府軍の分裂》==========

  Syria forces infiltrate rebel groups: FSA commander

           Alalam   2013年10月6日

 

10月5日、自由シリア軍の副司令官マリク・クルディ元大佐が告白した。

「アサドは反政府軍にスパイをもぐりこませ、内部闘争を引き起こした。反政府軍の分裂は、数人の指揮官がアサド政府のために働いていることが原因だ。それと、イスラム主義グループが彼らのイデオロギーを他の者に強制したため、非宗教的なグループと対立が起きたのだ。

過激なイスラム主義たちは、非宗教的なグループの支配地に影響を及ぼそうとしている。これは国境地帯で起きている。

とりわけ、外国に支援されるグループの間での対立が激しくなっている」。

10月4日政治評論家ローレンス・フリーマンがプレスTVに次のように語った。

「内部分裂が悪化し、自由シリア軍は消滅寸前だ。シリアの情勢はアサド政権に有利になっている。

10月4日トルコとの国境に近い、いくつかの町で反政府軍の内部闘争があり、約20名が死亡した。

また、トルコからアレッポに向かう時最初に通過する町アザズで、ISIL(イラク・レバント・イスラム国)と自由シリア軍の間で激しい戦闘があった。

最近数か月、政府軍は各地の反政府軍に勝利した。 

====================(Alalam 終了)   

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シリアの化学兵器とイスラエル

2017-10-30 20:15:57 | シリア内戦

2012年7月23日シリア外務省報道官が「シリアの化学兵器は外国の軍事干渉に対する対抗手段である」と発言した。国内の武装反乱について、シリア政府は常々武器を持つ者は外国のテロリストだと言っており、反政府軍は自分たちに化学兵器が向けられるのではないか、と恐れた。反政府軍を支援している隣国も警戒感を強めた。これが最初の化学兵器危機となった。

1週刊後、ドイツの英字紙シュピーゲルが、シリアの化学兵器について書いている。 

=====《シリアの化学兵器は戦争の引き金に》=====

     Fate of Syrian Chemical Weapons May Trigger War

                  Spiegel  2012年7月31日

      〈シリアの巨大な化学兵器施設〉

米国とその同盟国はアサド政権崩壊後の混乱に備えており、ミサイル、毒ガス、近代兵器を確保する準備をしている。

今年(2012年)5月、米国の指導のもとに19の国から12000人の兵士がヨルダンに集結し、共同作戦のための訓練をした。政権崩壊後の無政府状態を考えると、この人数は明らかに足りない。ペンタゴン(米統合参謀本部)の内部研究によると、化学兵器貯蔵設の確保には7万5千人の兵士が必要である。

シリアの化学兵器貯蔵施設は最も厳重に守られた場所にある。施設の門に至る道路の数キロメートル手前に、シリア軍の検問所がある。貯蔵施設には二重の鉄柵が張り巡らされ、守備兵が立っている。

これらの貯蔵施設を守備する部隊はアサド大統領に最も忠実な将兵で構成されている。貯蔵施設はダマスカスの北東、ホムス付近、ハマ付近にある。ハマ付近の貯蔵施設では、VXガス、タブン、サリンが製造されていると言われる。

これらの貯蔵施設以外にも、化学弾頭用のスカッドミサイルとその発射台を備えた施設がある。その最大の施設はマシャフ(ハマの南西)とサフィラ(アレッポの南東)にある。

===============(シューピーゲル中断)  

       

          〈マシャフ〉

マシャフはハマの西方にあり、オロンテス川の谷間にある。ここには古い城塞がある。この城塞はかつてハマと海岸部との通商路を守る役目を果たした。

 

城塞の土台と下部はビザンチン時代に造られ、その後ニザール派(イスラム教)、マムルーク、オスマン・トルコが増築した。マムルークはエジプトの王朝で、コーカサス人やトルコ人傭兵がエジプトの支配者となったものである。サラディンが創始したアイユーブ朝は80年で終わった。(1171年-1250年)。これに代わったマムルーク朝は260年続いた。(1250年 - 1517年)

イスラム時代マシャフを支配していたのはスンニ派アラブ人だったが、1141年ニザール派がこれに取って代った。

ニザール派は暗殺教団として知られ、恐れられた。彼らの別名アサッシンは西洋語で暗殺者を意味するようになった。

1176年サラディンが城を包囲したが長く続かなかった。13世紀末までマシャフはニザール派の首都だった。

 1260年モンゴルが城を包囲した時、ニザール派はマムルークと同盟し、モンゴルをシリアから追い払った。しかし10年後(1270年)、マムルークがマシャフ城塞を占領し、マシャフのニザール派は消滅に向かった。ニザール派の滅亡後、アラウィ派がマシャフに勢力を伸ばした。

マムルークはモンゴルをシリアから追い払っただけでなく、十字軍の難攻不落の要塞(クラック・デ・シュヴァリエ)を陥落させた。(1271年)

クラック・デ・シュヴァリエはホムス県の北西にある。

       

            〈サフィラ〉

サフィラは2013年2月ヌスラによって占領され、住民の多くが町を去った。ヌスラの支配は化学兵器施設には及ばなかった。2か月後シリア軍は町の支配を回復した。2013年以後、アレッポは反政府軍に包囲され孤立したが、サフィラは健在だったため、アレッポ市西半分への輸送が可能だった。政権がアレッポを完全に失うことなく、アレッポ市西半分を維持する上で、サフィラは重要な役割を果たした。

 

シューピーゲルの記事に戻る。シリアはソ連・ロシアの技術によって化学兵器の製造が可能になったこと、イスラエルにとってシリアの化学兵器が脅威であることなどが書かれている。

=======================

     Fate of Syrian Chemical Weapons May Trigger War

軍事情報誌ジェーンによると、シリアの化学兵器貯蔵施設のほとんどがイランの技術者の指導を受けた。これらの施設を運営しているのはシリアの科学研究所であり、一万人が働いている。シリアが保有する化学兵器の量については様々な報告があるが、ドイツ政府は約千トンとしている。

アレッポの南東20kmの谷間にあるサフィラの複合施設は最大であり、最重要である。5000平方kmの敷地に3つの製造プラントがある。スプリンクラー、冷却システム、地下に2つの巨大なタンクがあり、サフィラの複合施設は他の軍施設と異なっている。敷地の北東と北西の隅にはロシア製の対空ミサイルが据え付けられており、外国の空爆に備えている。2008年の衛星写真には、レーダーと発射台が映っている。

         〈シリアとロシアの結びつき〉

シリアは1980年代に化学兵器を造り始めたようだ。動機はイスラエルとの戦争に備えるためだった。シリアはイスラエルによって占領されたゴラン高原の奪回を望んでいたが、イスラエルと戦争をする考えはなく、化学兵器は抑止のためだった。

初期の化学兵器は航空機から投下するサリン爆弾だった。その後スカッド・ミサイルの弾頭に毒ガスを入れる方法を開発した。現在シリアは700発の化学弾を所有すると考えられている。イスラエルの情報機関によれば、シリアの化学兵器に関する技術はソ連とチェコスロバキアからもたらされた。しかし日本とヨーロパの私企業もシリアを助けた。

1990年代シリアは化学兵器最も毒性の強いVXガスを造るのに成功したと言われる。ロシアの将軍アナトリー・クンツェビッチがこれに関わった。彼はエリツィン大統領の補佐官で、化学兵器の処分を担当していた。1960年代以来シリアはロシアの親密な同盟国だった。ソ連は中東の衛星国に260億ドル相当の武器援助をした。戦闘機、戦車、スカッド・ミサイルなどだった。ロシアはシリアに化学兵器を与えたことをかたくなに否定している。

ロシア国防相諮問会議の議長であり、「国防」という雑誌の編集長イゴール・コロチェンコが述べた。

「ソ連は外国に大量破壊を渡したことはない。化学兵器も同様だ」。

しかしこれは事実に反する。シリア でバース党政権が誕生して間もない1963年、ソ連はシリアのバース党に本格的な教育を開始した。5万人の生徒がソ連の様々な大学で学んだ。その中の9500人は軍事大学で学んだ。1990年代になってもロシアは情報将校をゴラン高原とシリア北部に配置していた。エリツィンの特使アナトリー・クンツェビッチは何度もシリアに入った。化学兵器の専門家である彼は、ハフェズ・アサド政権の主要なメンバーと信頼関係を築き、巨額の資金を受け取ったと言われている。その代償に、クンツェビッチはVXガスの製造方法を詳細に教えた。

シリアは化学兵器の製造を望んでおり、クンツェビッチは800リットルの化学物質をシリアに送った。

       〈クンツェビッチの不審な死〉

シリアが化学兵器を手に入れると、イスラエルは怒り狂った。2002年4月3日クンツェビッチはダマスカスからモスクワへ向かう飛行機の中で死んだ。彼はレーニン賞を受賞した人間であり、エリツィンの補佐官を務め、この時はゼリンスキー有機化学研究所の職員であった。彼が死んだ時の状況は謎めいている。モスクワ西部にあるトロイエクロフスコエ墓地の墓石には、彼が3月29日に死んだと書かれている。報道では4月3日飛行機の中で死んだことになっている。

もう一人、ロシアの海外軍事情報部(GRU)の副部長ユーリー・イワノフも2010年の夏の終わり、謎の死を遂げた。

彼は溺死した。イスラエルの情報機関モサドが2人の死に関わっていると言われている。 

クンツェビッチの最後の数年に関するCIAの極秘資料には、シリアが大量の化学兵器を製造したと書かれている。

2007年7月、サフィラの化学兵器施設で起きたことも謎めいている。サフィラの複合施設は、シリア人と北朝鮮人が共同で建設した。7月25日毒ガスの成分の生産ラインで爆発が起きた。生産ラインのパイプが爆発し、工場全体が炎に包まれた。爆発の威力が大きく、ドアが吹き飛んだ。その結果工場のガスが外にもれ、施設全体に広がった。シリア人15人とイラン人技術者10人が死亡した。

アサド大統領が任命した調査チームは、サフィラの化学兵器工場の事故は破壊活動によるものだと結論した。

後にイスラエルの首相は皮肉を言った。「サフィラの事故は喜ばしい出来事だ」。イスラエルはシリアの化学兵器製造の実態を把握しているようだった。2010年サフィラを出た輸送トラックの車列が国境を超えレバノンに入るのを、イスラエルのスパイが発見した。この時イスラエルは我慢の限界を超えた。トラックの積み荷はスカッド・ミサイルの部品であり、レバノンのヒズボラが受取人だと、イスラエルは考えた。この車列を空爆すべきだ、ネタニヤフ首相は進言された。首相はこの進言に従わず、この情報を米国に伝えた。2010年3月1日米国駐在のシリア大使が米国務省から呼び出され、はっきりと言われた。

「戦争を避けたいのなら、ヒズボラに武器を送らないほうがよい」。

現在(2012年7月末)、ヒズボラが既に非通常兵器を持っているなら、絶対にそれを手放さないだろう。アサド政権が揺らげば、ヒズボラはシリアから補給線が切断されるかもしれない。これは彼らにとって死活問題である。そうなった場合、非通常兵器は最後の拠り所となる。もしヒズボラが現在非通常兵器を所有していないなら、アサド政権が倒れる時、彼らはイランの革命防衛隊と協力し、シリアの化学兵器をレバノンに運ぶだろう。その結果イスラエルとの戦争になるだろう。

====================(シュピーゲル終了)

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シリア 化学兵器問題の発端 2012年7月③

2017-10-25 07:04:49 | シリア内戦

シリアの最初の化学兵器危機について3回書いた。今回は時間軸に沿って要点をまとめ、前3回触れなかった点を補いたい。

 

7月21日ロイター通信がシリア軍から離反した将軍の言葉を報道した。

「シリア軍が化学兵器を移動させている。4人の軍最高幹部が殺されたことの報復として、政権は化学兵器を使用するつもりであり、保管場所から別の場所へ移動させている」。

シリア軍が化学兵器を移動させていることについて、米国も知っていた。米国はシリアの生物・化学兵器について以前から把握しており、マスタード・ガスなどの化学兵器が大量に存在することを確認していた。ロイター報道の数日前、米政府関係者がった。米国の情報部によれば、シリア政府は戦闘の激しい地域から化学兵器を移動させている。これは良くもあり、悪くもある。化学兵器を安全な場所へ移すことは、シリア政府が化学兵器の保全に責任を持っているということだ。同時にこれは彼らが支配力を失っていることを示している」。

米国の軍事・情報関係者はシリアの大量の生物・化学兵器について昨年から心配している。彼らが特に恐れているのは、長期間の内戦の果てに、シリアが生物・化学兵器の管理能力を失い、アルカイダ系のテロリストがそれを手に入れることだ。しかしアサド政権の中枢が爆弾テロで死亡すると、米国は別のことを心配するようになった。政権はかなり弱体化しており、生き残るための最後の手段として化学兵器を使うかもしれない。

シリア軍が化学兵器を移動させていることについて批判が集まり、シリアはこれに答える形で、7月23日外務省報道官が自国の立場を説明した。これが更なる反響を呼び起こし、シリア最初の化学兵器問題となった。

===《シリアの化学兵器は外国の侵略に向けられる》======

 Syria holds out threat of chemical weapons against 'exterior aggression'

      By Howard LaFranchi, Staff writer

           Christian Science Monitor 2012年7月23日

 シリアの化学兵器について国際社会の不安が高まっている。国内の反乱で追いつめられているシリアの政権は3月23日、国際社会の不安に答えた。外務省報道官が次のように述べた。

「心配するに及ばない。我が国は現在進行中の紛争において、自国民に対し化学兵器を使用することはない。しかしシリアに敵対する国外の勢力に対し警告する。国内問題に干渉しようとする外国の軍隊に対しては、化学兵器を使用するだろう」。

外国の軍事干渉に対して化学兵器を用いるという発言は悩ましい。どのような形での、またどの程度の規模の外国の干渉があれば化学兵器が行われるのか、わからない。例えば、先週末アラブ連盟が反政府軍に臨時政府の樹立を呼び掛けた。マクディシ報道官はこれを「あからさまな介入である」と非難した。シリア周辺のアラブ諸国は反政府軍と一体である。シリア政府は常々反政府軍を外国の手先と呼んでいる。反政府軍とこれを支援するアラブ諸国はシリアに軍事干渉していることにならないだろうか。

 

トルコとの緊張が高まっている時に、シリアは敵国に対し化学兵器を使用すると宣言した。先月(6月22日)シリアはトルコの戦闘機を撃ち落とした。最初シリアはその戦闘機が領空侵犯をしたと主張したが、後に誤射だったと謝罪した。このような事件の一か月後に、シリアは化学兵器で仮想敵国を脅した。単なる脅しと軽く受け止めることはできない。世界の主要国はシリア外務省報道官の発言を真剣に議論するだろう。特に米国とイスラエルはシリアの化学兵器問題にいかに対処すべきか考えるだろう。

23日の外務省の発表により、シリアは初めて化学兵器の保有を認めた。マクディシ報道官はシリアの化学兵器に関心が集まっていることに触れた。

「シリアの化学兵器が話題になるのは、2003年のイラクの場合と似ている。サダム・フセインが大量破壊兵器を保有しているという理由で、米国と追随する国はイラクに侵攻し、フセイン政権を打倒した。現在シリアの化学兵器が世界の関心を集めているのは、多量破壊兵器を口実にシリアに軍事介入するための準備であり、侵略を正当化するためである」。

マクディシ報道官は化学兵器問題がイスラム過激派に渡るのではないか、という不安に答えた。

「シリアの生物・化学兵器はシリア軍によって安全に保管されている」。

============(クリスチャン・サイエンス・モニター終了)

 

シリアの化学兵器を統括していた元将軍の貴重な証言がある。

 

=====《アサドは自国民に化学兵器を使うだろう》====

  Rebels forming unit to secure chemical weapons site

          Dayli Mail online  2012年7月20日

 

アドナン・シロ元将軍が「我々には化学兵器を扱う部隊がいる」と述べた。元将軍はシリア軍の高官だったが、離脱し自由シリア軍に参加した。シリアが保持する恐ろしい量の化学兵器の管理が危うくなった場合に備え、シロ元将軍は緊急手段を作成していた。彼は2008年までこの任務にあった。

彼の任地はダマスカスとラタキアであり、化学兵器の扱いについて、数千人の兵士を訓練していた。シリアの化学兵器は世界でも有数であり、主にサリン、マスタード、シアンである。

シロ元将軍は語った。

「兵士たちの訓練内容は化学兵器の保管方法、保管所を狙う者への見張り、廃棄の仕方である。また敵から生物・化学兵器攻撃された場合の治療についても訓練した。

シリアの化学兵器の保管所は主に2か所であり、ダマスカス東部の第417集積所とホムス周辺の第419集積所である。それぞれの基地に1500人の兵士と23人の将軍が配備されている」。

アサド政権の支配力が揺らぎ始め、化学兵器の安全について心配されるようようになった。この心配はシリア政府・国民および外国の政府に共通していた。

英国の情報部門の高官たちがデイリー・テレグラフに語った。

「アサド政権は現在の状態から立ち直るために、化学兵器の一部を使用するかもしれない」。

シロ元将軍はこの考えに同意した。数十年シリア軍に勤務した経験から、彼は次に様に考えている。

「私はアサド大統領と政権の中心的なメンバーにいつも接していたので、バシャール・アサドの性格をよく知っている。彼は自国民に化学兵器を使用するのをためらわないだろう。戦車から化学弾を発射し、ロケットやヘリコプターで化学攻撃をするだろう」。

シロ元将軍は引退していたが、今年(2012年)2月政府軍がホムスを攻撃した際に、自由シリア軍に参加した。自由シリア軍の指導部はトルコにあり、彼はその一員である。アサドの部隊が自国民に戦車砲を撃ちまくるのを見て、彼は「将来政府軍は化学兵器を使用するかもしれない」という不安が高まった。

ホムスの近くのラスタンで、政府軍のヘリコプターが殺虫剤をまいた、とシロ元将軍は確信している。ラスタンはハマとホムスの中間に位置し、自由シリア軍の重要な拠点がある。

将軍が言うように、今年(2,012年)の2月ー3月、ラスタンとホムスからレバノンに避難した人々は、脱毛、皮膚のかぶれ、筋の痛み、体調不良の症状を示した。彼らを治療したレバノンの医師は異常な症状を確認した。

 

 

シリアの治安維持能力が崩壊しており、化学兵器が武装グループの手に渡る危険が高まっている。特に過激イスラム主義グループがこれを手にするなら、脅威である。

反対派活動家ルアイ・マクダドが次のように述べた。

「我々はシリア軍からの離脱者の中から、化学兵器を取り扱うことのできる人間を選別し、化学部隊を創設した。この部隊が化学兵器施設を確保するだろう」。

 

シロ元将軍が言った。「化学兵器はシリアを守るためのものだったが、現在バシャール・アサドを守る役目をはたしている。

================(デイリー・メイル終了)

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シリア 化学兵器問題の発端 2012年7月 ②

2017-10-17 04:57:03 | シリア内戦

 

2012年7月23日、シリア外務省のマクディシ報道官は国営テレビの記者会見で次のように述べた。

「現在の国内危機において、生物・化学兵器が使用されることはない。繰り返して言うが、いかなる事態になっても、これらの兵器が反対派テロリストや市民に向けて使用されることはない。これらの兵器はすべてシリア軍が直接管理し、安全に保管している。シリアが外国の侵略される脅威に直面しない限り、これらの兵器が使用されることはない」。

報道官が「反対派テロリストや市民に向けて使用されることはない」述べたにもかかわらず、国際社会はシリア内戦で化学兵器が使用されるのではないか、と恐れた。シリアの政権は武装した反対派すべてを外国のテロリストと呼んでおり、彼らとの戦いを外国との戦争と考えているからである。

マクディシ報道官の発言に対し、米国は即座に反応した。報道官の発言があったその日、オバマ大統領はシリアに警告した。

「反政府軍に対し、化学兵器を使用してはならない。シリアが化学兵器を保有していることを考えると、アサドとその取り巻きに対し、はっきり言わなければならない。世界はシリアを監視しており、政権が悲劇的な過ちを犯すなら、国際社会と米国はその責任を追及するだろう」。

これがオバマの最初のレッドライン発言である。

シリアは国際的な反響が大きいことに驚き、また米国の厳しい姿勢に動揺し、すぐさま外務省報道官の発言を撤回した。

=======《シリア、化学兵器発言を撤回》========

Chemical weapons? Syria 'backpedaling furiously' over weapons threats   

    Christian Science Monitor     2012年7月24日

昨日(7月23日)、シリア政府は「外国の侵略に対しては、化学兵器を使う」述べた。しかしたった1日で前言をひるがえし、「シリアは非通常兵器を持っていない」と述べた。そして非難の矛先を米国へ向けた。

「西側の国は2003年のイラクの場合と同じようなやり方で、シリアへの侵攻を準備している」。

シリアの化学兵器使用宣言に対し、国際的な批判が巻き起こると、アサド政権は懸命に事態を鎮静化しようとして、昨日の話の内容を否定している。

外務省と情報省が「昨日のマクディシ(外務省)報道官の発言は不適切だった」と述べた。

オムラン・ズービ情報大臣は次のように述べた。

「外務省報道官が自国民に対しては化学兵器を使用しないと述べたが、シリアはそもそも化学兵器を持っていない」。

シリア国営放送は次のように語った。

「マクディシ報道官の言葉は文脈を無視して取り上げられた。報道官は非通常兵器の保有を認めたわけではない。報道官の目的は非通常兵器の保有を宣言することではなく、シリアを標的とした組織的な報道キャンペーンに対抗するためである。シリアの敵国は軍事介入のための国際世論を準備している。シリアが量破壊兵器を保有していることを口実に、またそれをテロリストや市民に対し使用としている、または他国(レバノンのヒズボラ)に運ぼうとしているなどの理由で、彼らはシリアを攻撃しようとしている。2003年のイラクの場合と同じであり、嘘の口実でシリアを攻撃するつもりである」。

シリア国営放送の内容から推測すると、化学兵器による威嚇は欧米諸国の軍事干渉を抑止する効果はなく、かえって軍事干渉を招く結果になると考え、シリア政府は恐しくなったのである。

欧米諸国はシリア政府の化学兵器発言を声高く批判した。オバマ大統領は警告した。「化学兵器を使用するなら、アサド大統領は責任を負わなければならない」。

============(Christian Science Monitor終了)

翌日発言を撤回しても、シリアの敵国を化学兵器で威嚇した事実は消えず、シリアが化学兵器の保有を認めたことも、取り返しがつかない。

ただし「マクディシ報道官の発言は、シリアを標的とした組織的な報道キャンペーンに対抗するためだった」という説明は真実である。

「シリア軍が化学兵器を移動させている。彼らは化学兵器を使おうとしている」という情報があり、ロイターが報道した。

ロイターの記事が発表されたのは7月21日であり、マクディシ報道官の発言の3日前である。ロイターの報道を受けて、シリア外務省のマクディシ報道官が7月21日、政府の見解を発表した。そしてその発表が大問題を引き起こした。

騒ぎの発端はシリア軍が化学兵器を移動させていたことである。嘘の情報だったかもしれないが、たぶん事実だろう。

====《シリア軍、戦闘拡大に備え、化学兵器を移動》=======

Syria moves chemical weapons before wider offensive: defector

           by Suleiman Al-Khalidi /   Reuters  7月21日

シリア軍から離反した将軍ムスタファ・シェイク(Mustafa Sheikh)が、最近数日のシリア軍の動きについて語った。元将軍はシリア国境に近いトルコで、ロイター通信のインタビューに応じた。彼はシリア国内の反政府軍から得た情報を語った。

「シリア軍が化学兵器を移動させている。4人の軍最高幹部が殺されたことの報復として、政権は化学兵器を使用するつもりであり、保管場所から別の場所へ移動させている。彼らはシリアを焦土にするつもりだ。シリアが血の海となった後でなければ、政権は倒れない」。

シリアの内乱が始まってから1年4か月になるが、3日前(7月18日)、内乱の流れを変えるような事件が起きた。アサド政権の中枢メンバー4人が爆弾により死亡した。4人は大統領の親族や側近であり、有能な義弟や国防大臣、情報機関の長官などであった。

化学兵器の移動についての離反将軍の話は確かめる必要があり、シリア政府は化学兵器の移動を否定している。

欧米とイスラエル政府は化学兵器が過激な武装集団の手に渡ることを恐れている。これらの政府は一週間前、次のように述べた。

「シリアは化学兵器を保管場所から移動させているようだ。反対派に奪われないための措置なのか、または化学攻撃の準備なのか、わからない」。

昨日(7月20日)イスラエルはシリアへの軍事行動について示唆した。

「レバノンのヒズボラがシリアのミサイルと化学兵器を手に入れる場合、我が国はこれを阻止するため、軍事行動を取らざるを得ない」。

ムスタファ・シェイクはシリア軍の将軍だったが、今年(2012年)1月北部司令官の地位を捨てた。彼はインタビューで語った。

「ダマスカスとアレッポのスンニ派の拠点への爆撃と砲撃はこれまで以上に激しくなるだろう。外国との戦争であるかのような容赦ない攻撃により多くの死者が出れば、スンニ派を中心とした反乱軍のさらなる反撃を呼び起こすだろう。内戦の次の段階はシリアが経験したことがない殺戮と悲劇になるだろう。その過程でシリア軍は非通常兵器を使用するだろう。攻撃と反撃はエスカレートを繰りかすからだ。アサドは国土を破壊しつくすつもりだ。独裁的で宗派的な現在の政権は、大量の死者が出た後でなければ倒れない」。

ムスタファ・シェイクの軍事会議は武装抵抗の政治的上部組織である。

シリア軍高官4人を殺害した爆弾テロの日(18日)、反乱軍はダマスカス市内に侵入している。また首都周辺の町のいくつかを新たに占領した。続いて19日彼らはトルコとの国境とイラクとの国境の検問所3か所を奪取した。彼らが国境検問所を支配したのは初めてである。

離反将軍ムスタファ・シェイクは語った。

「18日の爆弾攻撃の成功は、彼らが新しく武器を手に入れたからではなく、これまでの戦闘経験によるものである。外国が供給する武器は海の水一滴にすぎず、彼らの戦闘力はほとんど変化しない。18日の攻撃に私は驚いた。政権の中枢メンバーを襲撃する極秘計画について、私は一か月以上前に知らされていたが、実際に実現するとは思っていなかった。攻撃が起きた時、国内で戦っているいる仲間の戦闘力の高さに敬服した」。

======================( Reuters終了)

2011年の夏以後、シリア軍から離脱した将校たちは武装蜂起を決意していたが、武器がないためどうにもならない、と嘆いていた。2012年になり、彼らは小銃を手に入れたが、シリア軍の戦車、重砲を相手にして戦っても無力だった。小銃も不足し、全員に行き渡らなかった。加えてシリア軍は戦闘ヘリにより、空から攻撃することができた。2012年7月半ばまで戦闘機による爆撃はほとんどなかった。戦闘機は初人数のゲリラ部隊に治して効果的ではなく、住民に対する懲罰の意味のほうが大きかった。7月半ばまでシリア軍はそのような戦い方を控えていた。反乱側に転じた将軍ムスタファ・シェイクが予言したように、7月18日の首都爆弾事件以後、内戦はエスカレートし、戦闘機による空爆も始まる。

戦争の専門家である元将軍の目で見ると、2012年の夏になっても、反乱軍の武器不足は改善されていなかった。

 

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